岩利
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岩利 | |
---|---|
北緯35度30分19.3秒 東経136度44分10.6秒 / 北緯35.505361度 東経136.736278度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 岐阜県 |
市町村 | 岐阜市 |
地区 | 方県地区 |
人口 | |
• 合計 | 238人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
501-1102[2] |
市外局番 | 058 (岐阜MA)[3] |
ナンバープレート | 岐阜 |
※座標・標高は岩利公民館付近 |
岩利(いわり)は、岐阜県岐阜市の大字・町丁。町丁部の現行行政地名は岩利1丁目から岩利7丁目。郵便番号501-1102[2]。
地理
[編集]北は山県市梅原、東は彦坂、南は彦坂川北、南西は安食、西は佐野に隣接している。
小字
[編集]小字は以下の通り[4]。
- 山後(やまうしろ)
- 角田(すみだ)
- 洞前(ぼらまえ)
- 森東(もりひがし)
- 本郷前(ほんごうまえ)
- 市場下(いちばした)
- 仲之町(なかのちょう)
- 壱町田(いっちょうだ)
- 赤尾(あかお)
- 北洞前(きたぼらまえ)
- 清水ヶ平(しみずがひら)
- 高部(たかべ)
- 佐野口(さのぐち)
- 本郷(ほんごう)
- 用洞(ようぼら)
- 東山(ひがしやま)
- 北洞(きたぼら)
- 円山(まるやま)
- 西山(にしやま)
- 本郷山(ほんごうやま)
歴史
[編集]江戸期は岩利村であり、美濃国方県郡のうち。はじめ加納藩領、のち幕府領となり、宝永2年からは高富藩領となる。村高は「慶長郷牒」「元和領知改帳」「正保郷帳」ともに819石余、「天保郷帳」「旧高旧領」は837石余。明治4年の村明細帳の戸数77・人口369、馬10、神社は八幡宮・天神宮・稲荷宮・若宮八幡宮2社、寺院は禅宗の慈眼寺・長泉寺・安楽寺・成功院・仙桃院・薬師庵、浄土真宗正蓮寺がある。「町村略誌」の戸数83・人口416。天保9年高富藩江戸藩邸類焼の際、石谷・岩利村の地主が作徳米59石余を質物として、岐阜下竹屋町渡辺甚吉より金500両を借用して上納したという(県史)。当村は伊自良川最上流の船付場で、荷物問屋1軒・運船12~13艘・通運会社1があったが、明治29年の大洪水以降船運はさびれた。明治4年岐阜県に所属。同30年方県村の大字になる[5]。
年表
[編集]- 1871年(明治4年) - 岐阜県に所属。
- 1897年(明治30年)4月1日 - 町村制施行し、安食村、佐野村、岩利村、彦坂村、石谷村が合併し稲葉郡方県村が発足。方県村大字岩利となる。
- 1950年(昭和25年)8月20日 - 市橋村、茜部村、 鶉村、黒野村、方県村が岐阜市に編入。岐阜市岩利となる。
小・中学校の学区
[編集]市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。
地域 | 小学校 | 中学校 |
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岩利 | 岐阜市立方県小学校[6] | 岐阜市立岐北中学校[6] |
一丁目 | ||
二丁目 | ||
三丁目 | ||
四丁目 | ||
五丁目 | ||
六丁目 | ||
七丁目 |
世帯数と人口
[編集]2018年(平成30年)4月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
大字・丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
岩利 | 60世帯 | 167人 |
岩利2丁目 | - | 7人 |
岩利3丁目 | - | 31人 |
岩利6丁目 | 10世帯 | 26人 |
岩利7丁目 | - | 7人 |
計 | 83世帯 | 238人 |
施設
[編集]- 岩利公民館
- 岩利洞公民館
- 岩利公園
- 岐阜県方県農業センター
- 岩利リサイクルセンター
- 正蓮寺
- 成功院
- 慈眼寺
- 安楽寺
- 長泉寺
- 八幡神社
交通
[編集]道路
[編集]バス
[編集]脚注
[編集]- ^ a b “人口統計 - 地区別・町丁別世帯数及び人口”. 岐阜市 (2018年4月1日). 2018年12月2日閲覧。
- ^ a b “郵便番号”. 日本郵便. 2018年12月2日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2018年12月2日閲覧。
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』、角川書店、1980年 ISBN 4040012100 1285頁
- ^ 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』、角川書店、1980年 ISBN 4040012100 131頁
- ^ a b 岐阜市立小・中学校及び高等学校通学区域に関する規則、2013-11-13閲覧。
- ^ [1]、2022-04-23閲覧。
関連項目
[編集]山県市梅原 | ||||
佐野 | 彦坂 | |||
岩利 | ||||
安食 | 彦坂川北 |