黒野村 (岐阜県稲葉郡)
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くろのむら 黒野村 | |
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廃止日 | 1950年8月20日 |
廃止理由 |
編入 黒野村・方県村・茜部村・鶉村・市橋村 → 岐阜市 |
現在の自治体 | 岐阜市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方、東海地方 |
都道府県 | 岐阜県 |
郡 | 稲葉郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 7.03 km2. |
総人口 |
4,592人 (1950年) |
隣接自治体 | 岐阜市、稲葉郡方県村、本巣郡西郷村、七郷村、網代村 |
黒野村役場 | |
所在地 | 岐阜県稲葉郡黒野村大字黒野 |
座標 | 北緯35度27分30秒 東経136度42分51秒 / 北緯35.45831度 東経136.71428度座標: 北緯35度27分30秒 東経136度42分51秒 / 北緯35.45831度 東経136.71428度 |
ウィキプロジェクト |
黒野村(くろのむら)はかつて岐阜県稲葉郡に存在した村である。
現在の岐阜市西北部に該当し、伊自良川と板屋川に挟まれた地域である。現在の地名は、黒野、黒野南、下鵜飼、折立、交人、洞、古市場、今川、御望、柳戸などである。岐阜市に編入後、岐阜大学がこの地に移転し、学生の街でもある。
歴史
[編集]- 平安時代、この地域で鵜飼いが行われていたという記録がある。室町時代にこの地の鵜飼漁を行なっていた者が方県郡長良(後の稲葉郡長良村、現・岐阜市)と各務郡岩田(後の稲葉郡岩村、現・岐阜市)に移住し、長良川鵜飼と小瀬鵜飼の元になったという。
- 1594年(文禄3年) - 加藤貞泰は父の遺領甲斐24万石をついだが、父が石田三成と不和だったため、若年を理由に美濃黒野4万石に転封となる[1]。
- 1597年(慶長2年) - 黒野城が築城される。関ヶ原の戦い後も加藤貞泰の所領は安堵され、黒野藩が成立する。
- 1610年(慶長15年) - 加藤貞泰は伯耆国米子藩へ加増移封され、黒野藩は廃藩となる。
- 江戸時代末期、この地域は美濃国方県郡に属し、天領(黒野村・下鵜飼村・交人村・古市場村)、尾張藩領(折立村)、高富藩領(今川村)、磐城平藩領(御望村)などであった。
- 1876年(明治9年)8月 - 黒野村と下鵜飼村が合併し、黒野村になる。
- 1880年(明治13年)4月 - 黒野村が分立し、黒野村と下鵜飼村となる。
- 1897年(明治30年)4月1日[2] - 厚見郡、各務郡、方県郡の一部が合併して稲葉郡となる。
- 1897年(明治30年)4月1日 - 黒野村、下鵜飼村、御望村、洞村、交人村、折立村、今川村、古市場村が合併して鵜飼村となる。
- 1898年(明治31年)9月 - 鵜飼村は黒野村に改称する。
- 1950年(昭和25年)8月20日 - 黒野村が岐阜市に編入され、黒野村は消滅する。
経済
[編集]産業
[編集]- 農業
『大日本篤農家名鑑』によれば、黒野村の篤農家は「國島文太郎、安田茂助、河合清平、松井太郎、白木捨治、脇田静三」などがいた[3]。
地域
[編集]学校
[編集]- 黒野村立黒野小学校 (現・岐阜市立黒野小学校)
- 岐阜県稲葉郡学校組合立稲北中学校 (現・岐阜市立岐北中学校)
- 岐阜県立北方高等学校黒野分校(1972年廃校)
旧跡・観光など
[編集]- 黒野城址
- 黒野別院 (現在は廃寺)
出身人物
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 大日本篤農家名鑑編纂所編『大日本篤農家名鑑』大日本篤農家名鑑編纂所、1910年。
- 岐阜県揖斐郡教育会編『揖斐郡志』揖斐郡教育会、1924年。
- 北原泰作『賎民の後裔 わが屈辱と抵抗の半生』筑摩書房、1974年。