小牧次生
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小牧 次生(こまき つぎお、1911年(明治44年)9月[1] - 没年不詳)は、昭和期の実業家、政治家。衆議院議員。
経歴
[編集]鹿児島県[1]薩摩郡、のちの川内市(現薩摩川内市)で生まれる[2]。1936年(昭和11年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した[1][2]。
三井鉱山(現日本コークス工業)に入社[2]。終戦直前に帰郷した[2]。その後、鹿児島造船役員、東亜重工業役員、西日本建設業保証 (株) 営業所長などを務めた[1]。
戦後、山中貞則らと青壮年同志会に加わり青年団運動に参画[2]。1947年(昭和22年)鹿児島県議会議員に当選し、山中らと清新クラブを結成して活動し、高校振興対策委員に在任し高校の整備統合に尽力した[2]。1952年(昭和27年)副議長に就任した[2]。故冨吉榮二の後継として1955年(昭和30年)2月の第27回衆議院議員総選挙で鹿児島県第2区から右派社会党公認で出馬して初当選[3]。1958年(昭和33年)5月の第28回総選挙で日本社会党公認で出馬して再選され[3]、衆議院議員に連続2期在任した[1]。1960年(昭和35年)民主社会党(民社党)の結成に参画[2]。社会党鹿児島県支部連合会副会長、同顧問、同党総務部副部長、同沖縄対策特別委員会事務局長、同組織委員会学生対策部長、同国土開発特別委員長、民主社会党中小企業対策副委員長などを務めた[1][2]。1960年11月の第29回総選挙では民主社会党公認で立候補したが落選し[3]、政界を引退した[2]。