小川清四郎 (外交官)
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小川 清四郎(おがわ せいしろう、1907年8月3日 - 1981年8月3日)は、日本の外交官。公正取引委員会事務局長、法務省入国管理局長、駐ビルマ特命全権大使などを歴任した。
人物・経歴
[編集]広島県尾道市出身[1]。第一高等学校文科丙類を経て[2]、1931年東京帝国大学法学部政治学科卒業[3]。1932年外務省入省[4]。外務省条約局事務官[5]、情報局総裁秘書官[6]、戦争調査会事務局事務官[7]、横須賀捕獲審検所評定官等を経て[8]、1952年調達庁総務部調停官[9]。1953年公正取引委員会事務局長[10]。 1957年在ヴィエトナム日本国大使館参事官[11]。
1959年外務大臣官房審議官[12]。1960年駐ハンガリー特命全権公使[13]。1962年法務省入国管理局長[14]。1964年駐ヴァチカン特命全権大使[15]。1968年駐ビルマ特命全権大使[16]。1969年日本輸出入銀行監事[17]。のち、海外建設協会顧問。1981年肺がんのため聖路加病院で死去[18]。叙従三位[19]。善心寺で告別式が行われた[20]。
同期
[編集]- 青木盛夫(駐ジュネーブ国際機関日本政府代表部大使・駐南ベトナム大使)
- 伊吹幸隆
- 糸賀篤 (中国・イタリア)
- 稲垣太郎
- 牛場信彦(対外経済担当大臣、70年駐米大使・67年外務事務次官・外務審議官・61年駐カナダ大使)
- 甲斐文比古(70年駐西独大使・67年駐オーストラリア大使・64年駐マレーシア大使)
- 勝野康助(66年駐ポルトガル大使・62年駐ノルウェー大使・60年駐セイロン大使・58年法務省入国管理局長)
- 黒田音四郎(63年駐レバノン大使兼ヨルダン大使・60年駐ギリシャ大使・57年駐パラグアイ全権公使)
- 田中三夫
- 千葉皓(67年駐ブラジル大使・65年駐オーストラリア大使・60年駐イラン大使・57年駐メキシコ大使)
- 寺岡洪平(58年駐イラン大使・57年駐ペルー大使)
- 中川融(70年国連大使・65年駐ソ連大使・64年駐イタリア大使・60年外務省条約局長・53年外務省アジア局長)
- 林馨(60年駐メキシコ大使・58年駐マレーシア大使)
- 箕輪三郎
- 湯川盛夫(68年駐英大使・63年駐ベルギー大使・61年外務省大臣官房長・57年駐フィリピン大使)
出典
[編集]- ^ 中国年鑑 昭和45年版 中国新聞社, 1969
- ^ 第一高等学校一覧 昭和2至3年
- ^ 東大人名録 官公庁編 昭和39年度増補改訂版 東大卒業生名簿編纂委員会 1964
- ^ 月刊官界 7(8) (行研, 1981-08)
- ^ 職員録 昭和15年8月15日現在内閣印刷局昭和15年
- ^ 情報局総裁秘書官小川清四郎外千四百十二名叙位の件/逓信院書記荘宏外五十八名、総領事加藤日吉外十六名、地方技師佐々木銑外五百六十四名、東京産業大学助教授古川栄一外四百六十七名、厚生技師山口正義外四十九名、農林技師真島毅夫外三名、運輸書記官吉行市太郎外二百三十七名、副検査官秋本尚道、貴族院事務官高橋知義
- ^ 職員録
- ^ 拿捕船エラト号及びバレンタイン号事件の再審査/分割1[要ページ番号]
- ^ 官報昭和27年本紙第7745号 629頁
- ^ 独占禁止政策二十年史 公正取引委員会, 1968序
- ^ 官報昭和32年本紙第9228号 489頁
- ^ 官報昭和34年本紙第9866号 191頁
- ^ 官報昭和35年本紙第9914号 127頁
- ^ 官報昭和37年本紙第10680号 550頁
- ^ 官報昭和39年本紙第11411号 19頁
- ^ 官報昭和43年本紙第12360号 15頁
- ^ 昭和44年本紙第12704号 13頁
- ^ OCAJI 5(8) (海外建設協会, 1981)
- ^ 官報昭和56年本紙第16378号 6頁
- ^ OCAJI 5(9) 雑誌 (海外建設協会, 1981)
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