寺島町
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(寺島村から転送)
てらじままち/てらじまちょう 寺島町 | |
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廃止日 | 1932年10月1日 |
廃止理由 |
町名変更 寺島町 、隅田町、吾嬬町 → 東京市向島区 |
現在の自治体 | 墨田区 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 関東地方 |
都道府県 | 東京府 |
郡 | 南葛飾郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 2.08 km2 |
総人口 |
48,978人 (国勢調査、1930年) |
隣接自治体 | 東京市本所区、南葛飾郡隅田町、吾嬬町 |
寺島町役場 | |
所在地 | 東京府南葛飾郡寺島町大字寺島字中堰1664-1667番地 |
座標 | 北緯35度43分16秒 東経139度49分06秒 / 北緯35.72106度 東経139.81831度座標: 北緯35度43分16秒 東経139度49分06秒 / 北緯35.72106度 東経139.81831度 |
ウィキプロジェクト |
寺島村(てらじまむら)、寺島町(てらじままち/てらじまちょう)は、現在の墨田区北部に存在した町村である。明治22年(1889)から昭和7年(1932)までは町村制に基づいた一個の独立した町村として存在し、昭和7年(1932)から昭和40年(1965)までは向島区・墨田区の町名として寺島町の名が用いられた。
沿革
[編集]寺島村の起源
[編集]- 鎌倉時代、当地に法泉寺、蓮華寺の2寺が開基され、これが機縁となり、寺島/寺嶋と呼称されるに至った。
- 室町時代、応永5年(1398)の葛西御厨(伊勢神宮に寄進された荘園)の郷名の一つとして、寺嶋の名が記録されている。
- 江戸時代、寺島村は、将軍家の鷹場(御拳場/おこぶしば)の一つである「葛西筋」45箇村の内に含まれ、鷹狩の場としても活用された。
- 明治11年(1878)郡区町村編制法が東京府で施行され、寺島村は、東京府南葛飾郡の一部となった。
町村制に基づく寺島村時代 1889-1923
[編集]寺島町時代 1923-1932
[編集]- 1923年(大正12年)4月1日 - 寺島村が町制施行して寺島町となった。
- 1929年(昭和4年)5月15日 - 吾嬬町と一部領域を交換して、寺島町と吾嬬町の町界を変更した。
- 1930年(昭和5年)4月1日 - 従来の大字名・字名を全廃して、新たに大字一丁目〜八丁目を設置した。
向島区時代 1932-1947
[編集]- 1932年(昭和7年)10月1日 - 寺島町を含む南葛飾郡の全域が東京市に編入された。寺島町は、隅田町、吾嬬町と共に向島区となった。向島区となってからも、引き続き、従来の大字名「一丁目」〜「八丁目」に「寺島町」を冠して、寺島町一丁目~寺島町八丁目の町名が用いられた。
墨田区時代 1947-1965
[編集]- 1947年(昭和22年)3月15日 - 向島区が本所区と合併して墨田区が新設された。合併後も、寺島町一丁目~寺島町八丁目の町名はそのまま引き継がれた。
- 1964年(昭和39年)7月1日 墨田区で住居表示の施行が開始された[1]。寺島町三丁目の全域が堤通一丁目・二丁目、寺島町一丁目の一部が向島五丁目、寺島町二丁目の一部が向島四丁目、寺島町四丁目の一部が押上二丁目となった。
- 1965年 (昭和40年)3月1日 寺島町一・二・六丁目の大部分、寺島町五・七丁目の全域で住居表示が施行された。
- 1965年 (昭和40年)7月1日 寺島町四丁目の大部分で住居表示が施行された。
- 1965年 (昭和40年)12月1日 寺島町八丁目が八広一・五丁目、寺島町六丁目の一部が八広六丁目となり、寺島町の名前が消滅した。
町村長
[編集]村長
[編集]町長
[編集]字名・現在の地名
[編集]明治44年時点での大字・字・番地
[編集]出典[2] 「馬場」等の名称は、明治8年(1875)、従来の小名や、耕地等に付けられた字名を整理して、新たに行政上の字の名称として定められたものである。
大字寺島
[編集]- 馬場(ばんば)1~286番地
- 北玉ノ井 287~530番地
- 本玉ノ井 531~827番地
- 長浦 828~981番地
- 北居村 982~1221番地
- 南居村 1222~1414番地
- 前沼 1415~1594番地
- 中堰 1595~1709番地
- 新田(しんでん)1710~2127番地
- 深瀬入 2128~2285番地
- 水道向 2286~2740番地
- 堤外 2741~2960番地
大字中ノ郷
[編集]- 殿田 204~211番地
大字隅田
[編集]- 寺島境 1254~1255番地
大字若宮
[編集]- 大道南 246~250番地
大字大畑
[編集]- 西 778~785番地
大字請地
[編集]- 葭沼 1035~1036、1051~1099番地
- 沼田 1100~1101、1213~1224番地
- 大畑前 1225~1268番地
大字須崎
[編集]- 殿田 252~317番地
昭和5年改正後の大字名
[編集]- 一丁目
- 二丁目
- 三丁目
- 四丁目
- 五丁目
- 六丁目
- 七丁目
- 八丁目
昭和39~40年住居表示施行後の地名
[編集]出典[1]
- 墨田一丁目(全域)、二丁目~四丁目(各一部)
- 東向島一丁目~六丁目(全域)
- 堤通一丁目(全域)、二丁目(一部)
- 向島四丁目・五丁目(各一部)
- 押上二丁目(一部)
- 京島一丁目~三丁目(各一部)
- 八広一丁目・五丁目・六丁目(各一部)
神社仏閣
[編集]神社
[編集]- 多賀神社(東向島3-18)向島百花園内。
寺院
[編集]- 晴河山法泉寺(東向島3-8)曹洞宗。鎌倉時代初期、葛西清重により開基された。
- 清瀧山蓮華寺(東向島3-23)真言宗智山派。寛元4年(1246年)北条時頼により鎌倉で開基されたと伝えられ、弘安3年(1280年)当地に移転した。
- 海福山正圓寺(押上2-37)天台宗。応仁2年(1468)開山。
- 子育地蔵堂(東向島3-2)
- 福禄寿尊堂(東向島3-18)向島百花園内。
教育
[編集]小学校
[編集]中学校
[編集]高等学校
[編集]- 東京都立墨田川高等学校 大正10年(1921)東京府立第七中学校として創立
図書館
[編集]関連人物/作品
[編集]人物
[編集]- 向島(墨田区)「関連人物」-「寺島」の項目を参照
評伝
[編集]- 『幸田露伴』塩谷賛
- 『小倉常吉伝』奥田英雄 昭和51年(1976)
- 『滝田ゆう奇譚』深谷考 平成18年(2006)
- 『ぬけられますか—私漫画家 滝田ゆう』校條剛 平成18年(2006)
小説
[編集]- 『春泥』久保田万太郎 昭和3年(1928)
- 『水族館』堀辰雄 昭和5年(1930)
- 『濹東綺譚』永井荷風 昭和12年(1937)
- 『みそつかす』幸田文 昭和26年(1951)
- 『おとうと』幸田文 昭和32年(1957)
詩歌
[編集]- 北原白秋「片恋」(詩集『東京景物詩乃其他』)
漫画
[編集]- 『寺島町奇譚』滝田ゆう
絵画
[編集]- 『雪に暮るる寺島村』川瀬巴水 大正9年(1920)(「東京十二題」の内)
- 『白ひげ橋』藤牧義夫 昭和8年(1933)
- 『隅田川両岸画巻』藤牧義夫 昭和9年(1934)
落語
[編集]- 白鬚橋
演劇
[編集]- 歌舞伎『青砥稿花紅彩画』(弁天小僧)
- 『濹東綺譚』
- 『おとうと』
映画
[編集]- 『おとうと』
- 『濹東綺譚』
- 『濹東綺譚』
ドラマ
[編集]- 『ドブネズミ色の街』昭和38年(1963)12月28日放送 NHK「テレビ指定席」
- 『寺島町奇譚』昭和51年(1976)NHK「土曜ドラマ」
- 『おとうと』平成2年(1990)TBS「月曜ドラマスペシャル」
交通
[編集]舟運
[編集]渡し
[編集]- 橋場の渡し(白鬚の渡し) ほぼ現在の白鬚橋の位置に当たる。対岸の橋場に渡していた。
- 寺島の渡し(中の渡し) 平作堀(現在の墨堤通りの墨田区立堤通公園、首都高速道路向島出口附近)から、対岸の橋場今戸の境界附近に渡していた。昭和9年(1934)頃まで存在した。
一銭蒸気
[編集]- 1区画の運賃が1銭であったことから「一銭蒸気」と称された蒸気船で、千住吾妻汽船会社(後に吾妻急行汽船)等の会社によって運行された。寺島村の区域内では、現在の白鬚橋の位置に「小松島」停留所があった。
鉄道
[編集]昭和3年(1928)~昭和11年(1936)
路面電車
[編集]東京都電車(都電)向島線 昭和6年(1931)に向島須崎町(本所区と寺島町の境界附近)まで開通し、昭和25年(1950)延伸して寺島町の域内に達した。昭和44年(1969)廃止。
- 寺島町一丁目電停 昭和25年(1950)開通。後に「東向島一丁目」と改称した。
- 寺島町二丁目電停 昭和25年(1950)開通。寺島広小路(水戸街道と明治通りの交差点附近)に位置した。後に「東向島三丁目」と改称した。
トロリーバス
[編集]- 隅田堤
- 百花園
- 寺島町二丁目
- 寺島町四丁目
バス
[編集]京成バス
[編集]都営バス
[編集]道路
[編集]- 墨堤通り
- 地蔵坂通り
- 薬師道
- 大師道
- 曳舟川通り
- 大正通り
- いろは通り
- 平和通り
- 鳩の街
- 水戸街道
- 明治通り
名所/名園
[編集]- 百花園(向島百花園)
- 岐雲園 岩瀬忠震(岩瀬鷗所。元外国奉行)が蟄居して住んで命名した庭園で、明治維新後には永井尚志、幸田露伴なども住んだ。大正時代には三共会社のベークライト工場の敷地となり、住友ベークライトの時代まで、長らく工場用地として活用された。平成12年(2000)以降は墨田区立白鬚公園の一画となっている。
- 八洲園/小松島遊園 小野義真(日本鉄道社長)の別邸で、隅田川のほとりに広大な池を有した。後に日本電気精器の敷地となった。平成6年(1994)大林組のリバーサイド隅田が竣工した。
- 大倉別邸 大倉喜八郎の別邸で、邸宅の一部は船橋ヘルスセンターに移築され、共栄倉庫の敷地となった。
- 小倉別邸 小倉常吉(小倉石油社長)の別邸で、鍋島家の別邸跡に池田家の屋敷を移築した広壮な邸宅であった。跡地は、向島労働基準監督署、墨田区立あおやぎ保育園、ライオンズマンション東向島ほか一般的な住宅地となっている。
産業
[編集]農業
[編集]寺島村であった当時は農業が盛んな地域であり、特にナスの生産で名高かった。蔓細千成種のナスが多く作られた。当地で作られたナスは復活され「寺島茄子」の名で呼ばれる。
『隅田の町々』(昭和55年墨田区発行)記載の農作物
[編集]- しそ(紫蘇)
- しょうが(生姜)
- はす(蓮)
- くわい(慈姑)
商業
[編集]料理屋
[編集]- 入金(入きん)(いりきん)
- 雲水(うんすい)
- ちとせ
- 改進亭
職人/製造業
[編集]- 植木屋
『隅田の町々』(昭和55年墨田区発行)記載の産業
[編集]- 玩具製造
- 植木鉢
- 紙加工(「ぶんこ屋」「ひょうし屋」と呼称された。)
- 紺屋・型付屋(染色)
会社/工場
[編集]明治44年(1911)「東京府南葛飾郡 隅田村・寺嶋村・吾嬬村」地図記載の会社・工場名
[編集]- 日本電線会社
- 久野鉄工場
- 日本ギプス工場
- 藤本煉化石工場
- 関東硫曹分工場
- 染絨会社
- 向島染工場、谷岡染工場、玉川染工場、重城染工場
- 高見沢メリヤス工場
大工場
[編集]- サトウライト(後に三共会社、日本ベークライト、住友ベークライト)向島工場 大正5年(1916)~昭和62年(1987)
- 久保田鉄工
- 日本電気精器
脚注
[編集]- ^ a b “町区域の新設等”. 2024年1月21日閲覧。
- ^ “東京府南葛飾郡 隅田村・寺嶋村・吾嬬村 公益財団法人特別区協議会”. 2024年1月21日閲覧。