多久茂澄
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多久茂澄 | |
時代 | 江戸時代後期 |
生誕 | 文化8年5月20日(1811年7月10日) |
死没 | 天保14年1月6日(1843年2月4日) |
墓所 | 佐賀県多久市円通寺 |
主君 | 鍋島斉直、斉正 |
藩 | 肥前佐賀藩 |
氏族 | 後多久氏(多久鍋島家) |
父母 | 多久茂鄰 |
兄弟 | 茂澄、お橘 |
妻 | 鍋島斉直娘・お為 |
子 | 茂族 |
多久 茂澄(たく しげすみ)は、江戸時代後期の武士。肥前国佐賀藩士。多久鍋島家(後多久氏)10代当主。
略歴
[編集]9代多久邑主・多久茂鄰の三男として誕生。文化11年(1814年)、請役家老だった父・茂鄰が、藩財政の悪化の責任を取らされ隠居を命じられたため、家督を相続した。
幼いころより聡明で才知に富み、文政9年(1826年)3月、藩主・鍋島斉直より参政を命じられ、11月には僅か16歳で当役(請役家老)となるが、天保元年(1830年)、斉直が隠居して斉正が藩主となると、しだいに藩政から遠ざけられる。
天保6年(1835年)5月10日、佐賀城二の丸で火災が起こり、役所が多久屋敷に移され往来が頻繁になったことで、天保7年(1836年)、屋敷が隣接する深堀領主鍋島茂長の嫡男茂勲の正室お區(まち)との不義密通が発覚した。お區は、茂澄の正室お為や藩主斉正(直正)の妹であった。10月に茂澄は職を解かれ、藩主斉正より謹慎を命じられた。本来死罪となるところ、斉正と先代藩主斉直が相談の上、12月20日に知行を召し上げ浪人を命じられる。翌日21日に、嫡子松千代(茂族)に改めて知行7000石が与えられた。これを「多久の一夜浪人」と呼ばれる。
天保8年(1837年)1月、一睡と改名し、天保14年(1843年)1月6日没した。享年32。菩提寺の円通寺に葬られた。没収された知行は、天保14年(1843年)3月、先祖の功績により元に戻されている。
参考文献
[編集]- 小城郡教育会編『小城郡誌』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 中野礼四郎編『鍋島直正公伝 第2編』 - 国立国会図書館デジタルコレクション