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鍋島茂真

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
鍋島茂真
鍋島茂真像(鍋島報效会蔵)
時代 江戸時代後期
生誕 文化10年11月26日1813年12月18日
死没 慶応2年4月19日1866年6月2日
改名 長之進(幼名)、茂真
別名 中務、安昌、安房(通称
官位従四位
主君 鍋島斉直直正
肥前佐賀藩
氏族 鍋島氏須古鍋島家
父母 鍋島斉直
鍋島茂臣
兄弟 神代賢在、益子、直孝久世通熙室、
竈姫、直永茂真直正茂快、為、區、光、茂元、於民、直賢文武
茂朝
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鍋島 茂真(なべしま しげまさ)は、江戸時代後期の肥前国佐賀藩の執政。須古鍋島家13代当主。弟の10代藩主・鍋島直正を25年にわたり補佐した。

略歴

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文化10年(1813年)、佐賀藩9代藩主・鍋島斉直の十四男として誕生。幼名は長之進。長じて中務、安昌とも呼ばれた。

文政5年(1822年)、須古鍋島家12代当主・鍋島茂臣の養子に内定し、文政8年(1825年)に佐賀城東御門元鷹屋屋敷を拝領する。特に佐賀藩主の花杏葉紋使用を許可され、同年に家督を継ぐ。

天保元年(1830年)9月に請役差次に就任する。天保6年(1835年)5月の佐賀城二の丸焼失の後、請役所当役(執政)となる。また佐賀藩の藩校弘道館の学館頭人となり、藩校教育に力を入れた。長崎の台場を増築し、大砲の鋳造を行った。嘉永2年(1849年)9月に長年の請役としての功績に対して、代々花杏葉紋を拝領した。安政6年(1859年)、家臣の不祥事もあって執政の職から退いた。

慶応2年(1866年)、死去。享年54。家督は子・茂朝が継いだ。

明治44年(1911年)、従四位を追贈された[1]

脚注

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  1. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.29

出典

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  • 日本人物大辞典(講談社)

関連項目

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