演歌
演歌(艶歌、怨歌)
Enka | |
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様式的起源 | 演説歌、民謡、浪曲、歌謡浪曲、流行歌等 |
文化的起源 |
年代不明 日本 |
使用楽器 |
ボーカル ギター マンドリン ベース ドラムセット ヴァイオリン 三味線 尺八 和太鼓 拍子木 ヴィブラスラップ 等 |
融合ジャンル | |
演歌メタル、ニューアダルトミュージック | |
関連項目 | |
歌謡曲、J-POP、フォークソング、和風ロック |
演歌(えんか)は、
- 明治時代の自由民権運動において政府批判を歌に託した演説歌の略[1]。
- 1920年代に演歌師によって広められた流行歌[2]。
- 1960年代半ばに日本の歌謡曲から大衆芸能として人気となった、娯楽的な歌曲の分類の一つ。当初は同じ音韻である「艶歌」[注釈 1]や「怨歌」の字も当てられていたが、1970年代初頭のビクターによるプロモーションなどをきっかけに「演歌」が定着した[1]。
ここでは1.2.3含めて概説する。
特徴
[編集]音階法・歌唱法
[編集]日本古来の民謡等で歌われてきた音階を平均律に置き換えた五音音階(ペンタトニック・スケール)が用いられることが多い。西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外し、第5音と第6音をそれぞれ第4音と第5音にする五音音階を使用することから、4と7を抜くヨナ抜き音階と呼ばれる音階法をとる。
この音階法は、日本初のヨナ抜き短調曲である「美しき天然」の影響を受けた古賀政男によって古賀メロディーとして定着した。ただし、ヨナ抜き音階そのものは「船頭小唄」「籠の鳥」など演歌以外でも多く使用された[3]。古賀メロディーはクラシックの正統派・藤山一郎の声楽技術を解釈したクルーン唱法で一世を風靡したが、のちに演歌歌手が小節を利かせて崩しながら歌うようになった。楽器はクラシック・ギター・スティール弦アコースティックギターやヴァイオリンが多用される。
歌唱法は「小節(こぶし)」(メリスマとほぼ同義)を多用しビブラートを深く入れる。
歌詞・テーマ・曲想
[編集]歌詞の内容は“海・北国・酒・涙・女・雨・歓楽街・雪・別れ”がよく取り上げられ、これらのフレーズを中心に情愛や悲恋などを歌ったものが多い。切なさを表すため短調の曲が多いとされている。
男女間の情愛以外のテーマには以下のものがある。
- 幸せ夫婦物…村田英雄「夫婦春秋」・三笠優子「夫婦舟」・川中美幸「二輪草」など。
- 母物…菊池章子・二葉百合子「岸壁の母」・金田たつえ「花街の母」など。
- その他家族物…鳥羽一郎「兄弟船」・芦屋雁之助「娘よ」・大泉逸郎「孫」など。
- 人生物、心意気物…村田英雄「人生劇場」「花と竜」・北島三郎「山」「川」・中村美律子「河内おとこ節」など。
- 股旅物…ディック・ミネ「旅姿三人男」・橋幸夫「潮来笠」・氷川きよし「箱根八里の半次郎」など。
- 任侠物…北島三郎「兄弟仁義」・高倉健「唐獅子牡丹」など。
- 歌謡浪曲物…三波春夫「俵星玄蕃」「大利根無情」「紀伊国屋文左衛門」・村田英雄「王将」「無法松の一生」・真山一郎「刃傷松の廊下」など。
- 望郷物…春日八郎「別れの一本杉」・三橋美智也「リンゴ村から」・北島三郎「帰ろかな」・千昌夫「北国の春」「望郷酒場」など。
- 音頭
男女の情愛に特化され、演歌よりも都会的なムード歌謡もあり、演歌とそれ以外のジャンルを明確に分類することは難しい。演歌は「日本のソウルミュージック」とも呼ばれる[4]。
歴史
[編集]「演説歌」としての演歌
[編集]「演歌」の始まりは、19世紀末の自由民権運動である。藩閥政府に反発する公開演説会に対する当局の監視が強くなった時、圧力をかわすために政治を風刺する歌(プロテストソング)として「演説歌」が生まれた。その流行歌の始まりとなった「オッペケペー節」は、現代の保守的な演歌とは似ても似つかないものであった。リズミカルでメロディーを持たない、アナーキーな節は現代のラップに近かった[5]。ほかには加波山事件をもとにした「ダイナマイト節」[6]などが知られる。
20世紀に入るころには自由民権運動も一段落し、演説歌の内容にも変化が訪れる。題材が社会問題に関する風刺に代わってゆくとともに、ヴァイオリンでの伴奏が導入されるなど、芸の要素が強まった。担い手も政治運動を生業とする壮士から書生によるアルバイトに移行し、商業的な存在になった。この時期の作品にはしののめ節・ラッパ節・ハイカラ節などがある。昭和初期にレコード歌謡の市場が完備されると演歌師の活動も厳しくなり、盛り場で「流し」をして生計を立てるのが一般的になる[7]。
この時期の演歌について実証的な研究は少なく、同時代の演歌師であった添田唖蝉坊とその息子、添田知道の著作が主要な情報源として用いられる。一方でその証言に対しては、倉田喜弘や西沢爽が実証的な批判的研究を行っている[8]。
戦前における日本調の歌の変遷
[編集]1930年代には、鳥取春陽や古賀政男らによりジャズ・クラシックが大衆歌に導入され、歌詞も叙情詩的なものへと移り変わる。軍国化が進むなか、あきれたぼういずによる「四人の突撃兵」(1938年)は世相を皮肉る演説歌の要素を踏襲した[5]。
この時期のレコード歌謡において同時代的に「演歌」と呼ばれた作品・ジャンルはないが、それに類する曲調の楽曲がある。「船頭小唄」は関東大震災後の世相に合致し大流行した。同曲の厭世的な歌詞やヨナ抜き短音階などの特徴は、後の演歌の音楽的特徴を先取りしていた。同曲は楽譜として売り出されたのが演歌師によって歌い広められて話題を呼び映画化、無声映画であったため演歌師が実演するという、レコード界と演歌師のコラボレーションで知名度を上げた。その頃、演歌師の鳥取春陽が「船頭小唄」の作風を踏襲した「籠の鳥」をレコード発売してヒットする。鳥取春陽はその後、オリエントレコードの専属作曲家へと転身した[9]。
また、ヨナ抜き長音階としては「カチューシャの唄」(1914年)がある。同曲は伝統的な民謡音階と西洋の長音階の折衷によって生まれたもので、単純な「日本的な歌」ではなく「ヨナ抜き=日本調」という見方が同時代的には存在しなかったことがわかる。この曲の流行も演歌師の活躍が大きいとされており、この時期の演歌師は曲を流行させる媒介者としての要素が強かった[10]。
レコード歌謡の世界において、前近代の日本の風土に由来する「日本調」のものとしては、お座敷の要素を取り入れた芸者風の歌手が挙げられる[注釈 2]。曲調は享楽・官能的で、歌唱法に民謡や浪曲の特徴が一切ないなど、現在の演歌とはまったく異なる歌であった[11]。
また、題材に「日本調」を取り入れたものとしては股旅物が挙げられるが、あくまで題材が日本調であるにすぎない。東海林太郎やディック・ミネは股旅物において西洋音楽芸術の歌唱法を用いた。股旅物というジャンル自体が当時の大衆小説による流行であり、伝統的なものではない[12]。
戦後しばらくのレコード歌謡の主流の歌唱技術は西洋音楽技術に準ずるべきであると考えられており、藤山一郎・淡谷のり子・霧島昇らはいずれも音楽学校出身の歌手であった。彼らは流行する演歌の歌唱法に対して後に非難を繰り返すこととなる[13]。
戦後のレコード歌謡の西洋化と演歌の原型の誕生
[編集]1945年の敗戦を境に、戦前からの連続的な文化は封建的とみなされ[14]、米国から流れてきたジャズ調の楽曲がレコード歌謡の主流となる。吉田正がジャズ系の楽曲を生みだし、フランク永井・水原弘・石原裕次郎らが歌唱した。その他の作家としては古賀政男・服部良一・西條八十・藤浦洸らがいる。1960年頃には橋幸夫・吉永小百合らによる「青春歌謡」が生まれた。
一方で1955年頃からラジオが地方へ普及するにつれて、地方を舞台にした楽曲が生み出された(「田舎調」)。これらは股旅物や後の「ご当地ソング」のような様式化された地方ではなく、上京後の「望郷」がテーマになることが多かった(春日八郎「別れの一本杉・島倉千代子「逢いたいなァあの人に」・三橋美智也「リンゴ村から」など)。作曲家では船村徹が挙げられる。島倉は上述の芸者風の歌唱法を用い、三橋は初めて民謡調の発声をレコードに吹き込むなど、田舎調は論壇では劣勢な「日本調」的な特徴をもっていた。田舎調の楽曲は会話調の歌詞に起伏に富んだ旋律がつくもので、都会調で席捲されていたレコード歌謡に衝撃を与える。
その後、浪曲出身の村田英雄による「王将」(1961年)がヒット。1964年には都はるみがデビューし「アンコ椿は恋の花」がヒットする。筑波大学人文社会系教授の平山朝治は「演歌というジャンルの発祥は都はるみにある」と述べている[15]。さらに美空ひばりと古賀政男という都会調を代表するコンビも「柔」(1964年)や「悲しい酒」(1966年)など田舎調に近い楽曲を発表した。後年「演歌」に分類されるひばりの楽曲はこの頃から始まる[16]。
流しと「艶歌」
[編集]1960年前後、「艶歌」と称されるジャンルが生まれた。これは明治期の演説歌とも後世の演歌とも異なり、夜の街の「流し」の系統に限定されていた。コロムビアのディレクター・馬淵玄三のプロデュースによる[17]こまどり姉妹は流し出身で、艶歌の代表格である。当時の流しは任侠との親和性が高く、任侠映画と艶歌は同じ支持層をもっていた。北島三郎は「ギター仁義」「兄弟仁義」など任侠をテーマにした楽曲を発売した[18]。
流しの特徴は作者不詳と共作である。「北上夜曲」「北帰行」(ともに1961年)を端緒とし、1962年に田端義夫による奄美地方の新民謡「島育ち」が発売、あわせて奄美関係の曲が多くヒットする。1964年には「お座敷小唄」(松尾和子、和田弘とマヒナスターズ)が歌詞を変えて共作された。この時期はグループサウンズの誕生によるレコード会社の専属作家制度の解体期と重なっており、作者不詳の歌の流用はその時代の要請に応じた潮流であったと考えられる。また、流しは盛り場を活動の舞台としていたため、巷の詠み人知らずの楽曲が手に入りやすい環境であった[19]。
日本調への評価の変化
[編集]上述の通り、進歩的文化人の間で日本的な歌や艶歌は否定され続けていた。園部三郎は戦前の歌謡界の変化を例にとり「いわゆる日本的旋律による哀感は、社会の頽廃期には必ず出現するほどまでになる」と日本的な歌を批判した。一般メディアではその政治性が消されて「不況になれば艶歌がはやる」という図式が示されていた[20]。朝日新聞1964年12月13日付では「オリンピック不況の世相から、翌年は『演歌』ブームがやってくる」と予測されている。これが日本調の曲について「演歌」という表現が用いられた初例である。
一方で学生運動から生まれた新左翼は、従来の進歩的文化人の啓蒙思想や特権的態度への反発から、進歩派に「低俗」とされてきた民俗的・民衆的な文化を肯定的に読み解くようになる。新左翼的レコード歌謡論の始まりは『思想の科学』1963年10月号の座談会「流行歌にみる大衆思想―――アカシアの雨に打たれて」(多田道太郎・寺山修司・森秀人鼎談)である。このなかで寺山は「連帯」を価値とするうたごえ運動との対比で、歌謡曲を「孤絶したアウトローが一人で歌うもの」と規定した。そしてその要素として「さびしさ」「暗さ」を審美化したことで、後の「演歌」のフォーマットを提示した。一方森は、スターリニズムにかわる思想的潮流であった「疎外」や「性の解放」というテーマを絡めることによって、自身の思想的立場を固めた。森は安保闘争のあとに流行った「アカシアの雨がやむとき」を引き合いに出し、歌謡曲を「疎外された大衆の、女の魂をなまなましく歌いあげる」という側面を強調した[21]。
次いで1965年、竹中労「美空ひばり―――民衆の心をうたって二十年」が出版される。このなかで竹中は、エリート階級による伝統的・日本的な歌への攻撃を批判し、その攻撃に耐えてひばりを民族的・民衆的な音楽の伝統を守った存在として称えている。当時ひばりは新左翼論壇において評価が低く、この論考は新鮮さをもって受け止められた[22]。
五木寛之「艶歌」観の浸透
[編集]演歌の政治的批判精神が欠落し「艶歌化」したことは論壇での批判の対象になっていた。1966年、五木寛之は艶歌プロデューサー・馬淵玄三をモデルにした小説「艶歌」[23]を発表した。同作は艶歌と外来音楽のプロデューサーが、レコード社内での進退をかけて売上を競う内容である。小説には以下の脚色がなされていた。
- 「艶歌」はレコード歌謡の初期から存在する。
- 「艶歌」は軍歌や明朗快活な歌(「リンゴの唄」など)とは別の独自のカテゴリーを構成している。
- 「艶歌」制作は勘頼りの職人芸であり、合理的な西洋音楽とは相容れない。
- 「艶歌」は派手な売り出しを行わず、地道に売るものである。
主人公は、演歌の歌い方は「差別され、踏みつけられている人間が、その重さを葉を食いしばって全身ではねのけようとする唸り声」であると主張している[24]。スガ秀実は、五木に吉本隆明「日本のナショナリズム」の影響が見られることを指摘した[25]。
五木は同作を通じて、社会批判の「演歌」が芸能化して「艶歌」となったことを肯定的にとらえた。五木は「大衆自身の声ではなく、インテリゲンチャの警世の歌」であることが「演歌」の弱さであり「艶歌」に転ずることによって、庶民の口に出せない怨念悲傷を歌う「怨歌」になったのだと記している。五木が艶歌の定義として設けた「暗さ」や「感傷性」は、従来の楽曲のジャンル分けとは異なる新しい枠組みであった[26]。
1966年発表の美川憲一「柳ヶ瀬ブルース」は、有線放送を通じてローカルなヒットになった。これは地元の有線放送のヒットが全国区の大手レコード会社から発売される、というボトムアップ方式のヒットであり、レコード会社主導の上からのヒットという従前のモデルとは異なるものであった。同年デビューの青江三奈や森進一は「ブルース」と名付けられたご当地ソングを発売。ブルースの流行は、高度経済成長に伴う地方都市の小都会化に起因するとされる[27]。
1969年にデビューした藤圭子は、その壮絶な生い立ちが五木が小説で示した「怨歌」に当てはまる存在であった。五木は藤のファーストアルバムを「正真正銘の〈怨歌〉である」[28]と称賛した。藤の音楽性についての評論は、新左翼系論壇においても行われた。藤は五木的な意味での典型的な「演歌」歌手であったが、曲調はブルース歌謡がメインで、社会的なメッセージ性をもつフォークの要素も取り入れていた[29]。
1970年版の現代用語の基礎知識では「演歌(艶歌)」の項目が立てられ、藤のブレイクに伴って「演歌」は世間一般での知名度を得た[30]。
藤がブームになったのち、1972年頃まで若者にも演歌が興味を持って受け入れられ、若者向けの雑誌でも演歌歌手が多く取り上げられた。また、グループサウンズや青春歌謡の歌手も、演歌に寄せた曲を発表していた[31]。
演歌の健全化と様式美
[編集]藤圭子ブームの翌年、1971年に小柳ルミ子が「わたしの城下町」でデビューした。小柳の歌は音の運びは演歌であったが、その内容は絵葉書のような「日本情緒」であり、暗さやアウトローとは無縁であった。また、1973年には「艶歌」ジャンル確立以前から活動している春日八郎がリサイタル「演歌とはなんだろう」で文化庁芸術芸能部門大賞を受賞する。アウトローから始まった演歌が早くも国民の文化財という主流派の立ち位置を得て、その先鋭性を失った[32]。
一方、演歌の特徴的な形式のみが切り離され、この要素を商業的に消費する流れが続いた。1972年にコミックバンドのぴんからトリオが歌う「女のみち」が大ヒット。同曲は過剰にこぶしを強調していた。翌1973年も様式化した曲調の殿さまキングス「なみだの操」がヒットする。1974年のさくらと一郎「昭和枯れすゝき」は大正期の船頭小唄にフォークの要素を加え、男女の悲恋を強調した[33]。1970年代後半は五木ひろしと八代亜紀が人気を得るが、曲調はモダンなものであった。
1977年にはカラオケが登場する。当時のカラオケは夜の盛り場で用いられることが多く、演歌が人気であった。この頃のヒット曲は都はるみ「北の宿から」や石川さゆり「津軽海峡・冬景色」で、演歌の舞台には徐々に北方の雪景色が多数を占めるようになった。しかし若い世代の間では、ぴんからトリオなどの過剰な模倣(いわゆる「ド演歌」)の後は演歌人気は続かなかった。1978年は演歌のヒット作が出ず、同年の「第29回NHK紅白歌合戦」のトリはポップス系の山口百恵と沢田研二であった。1979年にはカラオケ酒場を主な舞台とした「演歌復興」が喧伝され、小林幸子「おもいで酒」・渥美二郎「夢追い酒」など「酒」が演歌の重要な要素に加わる[34]。
テレビ番組では、1981年から「NHK歌謡ホール」がスタート。演歌歌手メインの番組であるが、新曲よりも過去のスタンダードナンバーを中心とする構成であった(後継番組は現在まで継続)。さらに演歌が「カラオケで歌う歌」となったため、歌詞・曲調・歌唱技法が均質化していった。やがてカラオケ教室が流行し「明るい家庭」とは対極的な立ち位置にあった演歌が、中高年女性に支持されるようになった。これに伴い、川中美幸「ふたり酒」(1980年)や三船和子「だんな様」(1983年)など「夫婦」が演歌のテーマに加わる。ところが1980年代後半になると、カラオケボックスの普及によって若者がカラオケを利用するようになり、演歌の占めるシェアは狭まっていった[35]。
この頃、演歌独自の音楽表現に嫌悪を示す者も現れた。作曲家のすぎやまこういちは「演歌撲滅運動」を提唱し「日本の音楽文化に暗黒時代を築いた」と自著に記している[要出典]。歌手の淡谷のり子は演歌嫌いを公言した[注釈 3]。
平成以降
[編集]平成に入るとJ-POPが登場し、レコード産業の主力となった。それ以外の歌は「演歌・歌謡曲」と呼ばれ、オリコンチャートでは「演歌・歌謡曲部門」が設けられるようになった。
同年代の演歌の市場規模は縮小の一途をたどる。1996年にはオリコンチャートが発足した1968年以後、初めて年間シングルチャート100位以内に演歌がランクインしなかった(演歌で年間1位の伍代夏子「鳴門海峡」は総合で年間153位)[36][注釈 4]。1989年から2019年までの平成30年間において、オリコン年間ランキング20位以内にランクインした演歌は2000年の大泉逸郎「孫」のみである。1990年代末にはレコード会社が演歌部門を撤退し、大御所歌手さえもリストラされる事態に陥る。リストラされた演歌歌手の多くは、演歌を主力とするレコード会社に移籍した。
1990年代後半には日本テレビ『とんねるずの生でダラダラいかせて!!』の企画から誕生した憲三郎&ジョージ山本の「浪漫-ROMAN-」、NHK『ふたりっ子』の劇中歌だったオーロラ輝子の「夫婦みち」といったテレビ番組からのヒット曲が生まれた[38]。
2000年代前半にはJ-POPの低調もあり、CD売上枚数に占める演歌のシェアが相対的に上昇しつつあるとされる[39]。オリコン調べによると演歌のシェアは2000年頃は3%程度だったが、2003年は7.7%、2004年上半期は8.6%である[39]。秋元順子「愛のままで…」・ジェロ「海雪」のヒットが生まれた2008年は、演歌・歌謡曲のシェアが10%台にまで回復した[40]。
平成期には演歌というジャンルの土台を築いた春日八郎・三橋美智也・三波春夫・村田英雄らの男性歌手や「演歌の女王」と称された美空ひばり・島倉千代子らの女性歌手が亡くなった。また、作詞・作曲家などの共同製作者が鬼籍に入り、ヒット曲の作り手が減少している。ファンも高齢化が進み、2005年頃には観客の大半が70代以上であったとされる[41]。
現在
[編集]日本レコード協会による2015年度の「よく聞く音楽ジャンル」調査では、60代の25.3%、50代の18.7%が「演歌・歌謡曲」を愛聴しており、それ以下の世代は10パーセントに満たなかった[42]。
大泉逸郎「孫」・氷川きよし「箱根八里の半次郎」・ジェロ「海雪」以来大ヒットはなく、全体的な低迷が続いている。「日本レコード大賞」においても、2006年の氷川きよし「一剣」が大賞を受賞して以来、大賞受賞者が永らく遠ざかり、2022年まで演歌界は氷川による「一強の大横綱」状態である[43]。2015年以降、氷川きよし「限界突破×サバイバー」をはじめ、徳永ゆうき「車輪の夢」・石原詢子「ただそばにいてくれて」(古内東子詞曲)・島津亜矢「SINGALONG」など演歌歌手によるポップス調のシングルもリリースされている。
CD売上の大半をコンサートやキャンペーンでの現地販売に頼っており、コロナ禍には売上が激減した[41]。紅白に連続出場する人気歌手を例にとっても、山内惠介の2019年シングル「唇スカーレット」(9万3000枚)から2020年「残照」(1万7569枚)、三山ひろしの2019年シングル「望郷山河」(4万9000枚)から2020年「北のおんな町」(5609枚)といった具合である。
2022年の音楽市場規模3,946億円のうち、ポップスが91%を占めるのに対し、演歌の割合は1.4%に留まった[44]。
この窮状から政治に支援を求める向きもある[45]。2016年3月、歌手の杉良太郎が長年の友人である二階俊博に依頼したことにより[46][47]、 議員連盟「演歌・歌謡曲を応援する国会議員の会(演歌議連)」が発足した[45]。五木ひろしも同年2月に国務大臣の遠藤利明を訪問し、2020年東京オリンピックにて、ジャンルや世代を越えた多くのアーティストがテーマ曲を歌うことを提案した[48][49]。五木は12月にも自民党本部を訪れ、林幹雄幹事長代理と演歌議連の活動などについて歓談している[50]。演歌議連発足を受けて、作詞家の及川眠子は「自分たちの不勉強や努力のなさを棚に上げ、国会議員に縋ろうとする意地汚さ。同じ業界に生きる者として恥ずかしい」と非難した[51]。2019年から2023年にかけて、議員連盟後援のコンサートが開催されている。
一方、千葉テレビ放送など一部の独立局では、主にシニア層の視聴が多い平日午前中を中心に、演歌のレギュラー番組を自社制作などでほぼ毎日放送しており、近年の新人歌手にはお笑い第七世代になぞらえた「演歌第7世代」(辰巳ゆうと・新浜レオンら、主に2010年代にデビューした歌手)がいる[52][53]。
また、ニコニコ動画にて「ラスボス」の愛称で若い世代から親しまれる小林幸子[54]や、YouTubeにて海外人気を博した三田りょう[55]、アメリカのフェスに出演した神野美伽[56]、フランスにて「ル・サロン」永久会員の称号を得るなど画家としても活躍し、2022年にはパリ公演を開催した八代亜紀[57]など、デジタルトランスフォーメーションの活用や、海外へと活躍の場を展開し、既存路線に囚われない道を模索する演歌歌手も増加している。2022年には韓国人DJのナイト・テンポによる細川たかしの「北酒場」のリエディット[注釈 5][58] [59]版が発売されるなど、国境を越えた演歌ファンの新規獲得も期待されている。
海外での演歌
[編集]台湾
[編集]台湾では、戦前に日本語教育を受けた世代が日本の歌を好んで聴いたことから、台湾人歌手によって日本の演歌が歌謡ショーなどで歌われてきたほか、台湾語によるカバーも数多く出現し、日本でヒットした演歌の大部分は台湾語(一部は、国語 (中国語)である北京語)でカバーされる状況が続いてきた。 また台湾で作曲されたオリジナル演歌も多く、その題材や歌唱法は日本の演歌と変わらない。 台湾歌謡界では戦後長らく、ポップス=北京語、演歌=台湾語という言語による棲み分けが続いたため、演歌は「台語歌」とも称される。 日本で演歌の衰退が言われる現在でも、台湾では演歌の人気は依然として高く、テレビでは演歌中心の歌謡番組が定期的に放送されており、日本語の原曲と台湾語のカバー曲を交互に歌唱するなどの演出も一般的である。
東南アジア
[編集]シンガポールやマレーシアを中心とした東南アジアには、中国系の住民が多く、それらのうち福建系の住民は台湾語とほぼ同じ言語(閩南語)を話すため、台湾語でカバーされた日本の演歌や台湾語のオリジナル演歌が「福建歌」「Hokkien Song」として普及しており、現地の作詞家によってオリジナルの歌詞を付けられたカバーも存在する。インド系の歌手で、福建歌=演歌の歌唱をメインに活動している者もいる。また、これらの演歌はタイ語、ベトナム語、クメール語、マレー語、インドネシア語など、現地の言語で再びカバーされた曲もあるが、一般に「チャイニーズ・ソングのカバー」と認識されている。
中国
[編集]中国では、テレサ・テンなど台湾の歌手が国語 (中国語)でカバーした日本の演歌が広く浸透しているが、これらの演歌は一般に台湾の歌として認識されており、「台湾歌」と呼ばれている。また1980年代には北国の春を中国の歌手がカバーし、流行したこともあった。
韓国
[編集]韓国では、日本統治期に入ってきた演歌から派生したとされるトロットというジャンルがある[60](演歌というジャンル名自体は、日本統治期に存在しなかったものの、演歌調の歌はあった)。
北米
[編集]アフリカ系アメリカ人のジェロは幼少期に、日本人だった祖母から演歌に親しみ、2008年に日本で演歌歌手としてデビューした。また、2010年にはラッパーのイェ(当時はカニエ・ウェスト)が、自身のアルバム「My Beautiful Dark Twisted Fantas」の収録曲「Dark Fantasy」にて梶芽衣子の「銀蝶渡り鳥」をサンプリングしたことで販売元のテイチクと係争騒動を引き起こした[61]。
南米
[編集]2007年、ブラジルのサンパウロにて行われた日系移民100周年記念イベントでは、日本の音楽として演歌が流された。また大城バネサや南かなこのような南米出身の日系演歌歌手もいる。
欧州
[編集]ポルトガルの民族音楽・ファドは、演歌との相似性が高いとされている[62]。
インド
[編集]インドのゴア地方のゴア歌謡は、ポルトガルからの影響を受けているため、演歌との相似性が高いと言われる[63]。
その他
[編集]- 中央アジアのキルギス共和国では、2013年8月に、 三田りょうが同国独立22周年記念コンサートにて『風の旅人』を披露し5万人以上からの喝采を浴びた光景が、翌年動画投稿サイトYouTubeにて2ヶ月で100万回再生を記録し活躍を見せる[55]。
オリコンシングルチャート1位獲得作品
[編集]※太字の曲はミリオンセラーとなったもの。演歌・歌謡曲として歌謡曲も一部含まれる。
週間
[編集]- 1968年6月3日付 - 7月1日付、8月17日付の6週
- 1969年6月9日付 - 7月7日付の5週
- 1969年9月8日付 - 10月13日付の6週
- 1970年3月30日付 - 5月18日付の8週
- 圭子の夢は夜ひらく(藤圭子)
- 1970年5月25日付 - 7月27日付の10週
- 1970年11月9日付 - 12月28日付の8週
- 望郷(森進一)
- 1971年1月25日付 - 2月8日付の3週
- 1971年7月19日付の1週
- 1971年7月26日付 - 10月11日付の12週
- 1971年11月8日 - 1972年1月3日の9週
- 瀬戸の花嫁(小柳ルミ子)
- 1972年5月15日付 - 6月5日付の4週
- 京のにわか雨(小柳ルミ子)
- 1972年9月11日付 - 9月25日付、10月9日付 - 10月16日付の5週
- 1972年10月30日付 - 1973年2月12日付の16週
- 1974年3月18日付 - 5月13日付の9週
- 夫婦鏡(殿さまキングス)
- 1974年7月15日付 - 8月5日付の4週
- 冬の駅(小柳ルミ子)
- 1974年11月18日付、12月9日付の2週
- 1974年12月16日付の1週
- 1975年4月28日付 - 5月12日付の3週
- 1975年7月28日付 - 8月18日付の4週
- 1976年12月6日、12月20日付 - 1977年1月10日付の4週
- 1979年7月23日付の1週
- 矢切の渡し(細川たかし)
- 1983年4月18日付 - 5月2日付の3週
- 1986年6月23日付の1週、史上初の演歌初登場1位曲
- 1987年2月9日付の1週
- 1987年8月24日付の1週
- 2004年10月4日付の1週、平成初の演歌1位曲[注釈 6]
- 2005年2月21日付の1週、平成初の演歌初登場1位曲
- 2009年1月26日付の1週、史上最年長記録
- 浪曲一代(氷川きよし)
- 2009年2月16日付の1週
- ときめきのルンバ(氷川きよし)
- 2009年8月31日付の1週
- 2014年1月20日付の1週
- 群青の弦(氷川きよし)
- 2022年2月8日付の1週、令和初の演歌初登場1位曲
(1968年1月4日付 - 2022年2月8日付まで、計31曲)
年間
[編集]- 1968年度 星影のワルツ(千昌夫)
- 1971年度 わたしの城下町(小柳ルミ子)
- 1972年度 - 1973年度 女のみち(宮史郎とぴんからトリオ)
- 1974年度 なみだの操(殿さまキングス)
- 1975年度 昭和枯れすゝき(さくらと一郎)
- 1979年度 夢追い酒(渥美二郎) - 週間最高2位
- 1983年度 さざんかの宿(大川栄策) - 週間最高2位
- 1987年度 命くれない(瀬川瑛子) - 週間最高2位
(1968年度 - 2024年度まで、計8曲)
テレビ番組
[編集]- 演歌の花道 - 演歌専門の音楽番組(1978 - 2012年、テレビ東京)
- 木曜8時のコンサート〜名曲!にっぽんの歌〜(2011年10月13日 - 2017年3月、同上)
- 演歌百撰(テレビバージョン)
- ごごウタ(ごごナマ、2017年、NHK総合テレビ)
ラジオ番組
[編集]以下は全てアール・エフ・ラジオ日本で放送。
- 杉紀彦のラジオ村
- 夏木ゆたかのホッと歌謡曲
- 坂井隆夫のほのぼの歌謡曲→おはよう歌一番
- 歌謡曲☆歌謡曲
- 三波豊和の歌うラジオ
- ひばりさんへの手紙
- えんか侍
- 突撃! 日本の歌道中
- それ行け! 歌謡道中
- 松村和子と立花英樹の歌仲間
演歌を題材にした作品
[編集]- 映画
- わが命の唄 艶歌(監督・舛田利雄、日活、1968年)
- シャ乱Qの演歌の花道(監督・滝田洋二郎、フジテレビ、1997年)
- のど自慢(監督・井筒和幸、東宝、1999年)
- ビッグ・ショー! ハワイに唄えば(監督・井筒和幸、東宝、1999年) - 都はるみ助演
- テレビドラマ
- 涙の河をふり返れ〜艶歌より(よみうりテレビ、1971年)
- 海峡物語(テレビ朝日、1977年)
- 演歌・唱太郎の人情事件日誌(TBS、1996 - 1997年)
- 演歌の女王(日本テレビ、2007年)
- 小説
- 漫画
- 俺節(土田世紀) - ビッグコミックスピリッツ掲載
- ゲーム
- 爆走デコトラ伝説シリーズ - 走行中BGMに演歌を採用
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1968年の水前寺清子の歌に「艶歌」がある(作詞五木寛之、作曲安藤実親)。
- ^ うぐいす芸者歌手。芸者出身者としては藤本二三吉・小唄勝太郎・市丸・赤坂小梅・美ち奴・神楽坂はん子・神楽坂浮子、「芸者風」では久保幸江・榎本美佐江・五月みどりら。
- ^ 軍歌はもちろんだけど演歌も大嫌い。情けなくなるの。狭い穴の中に入っていくようで望みがなくなるのよ。私は美空ひばりは大嫌い。人のモノマネして出て来たのよ。戦後のデビューの頃、私のステージの前に出演させてくれっていうの。私はアルゼンチン・タンゴを歌っているのに笠置シヅ子のモノマネなんてこまちゃくれたのを歌われて、私のステージはめちゃくちゃよ。汚くってかわいそうだから一緒に楽屋風呂に入れて洗ってやったの。スターになったら、そんな思い出ないやっていうの。 — 西村建男「余白を語る――淡谷のり子さん」朝日新聞1990年3月2日
- ^ 演歌の場合はキャンペーンなどでの手売りの割合が大きく、レコード店での売上を対象とするオリコン等のチャートに反映されない売上も多いという指摘もある[37]。
- ^ 曲のパートが再編成され、修正を目的として明瞭なドラムビートなどの目立たない程度の演奏が追加されるが、全体的な音色はそのまま残すよう編集したもの。
- ^ 1987年の石原裕次郎「北の旅人」以来17年1ヶ月ぶりの演歌によるオリコンチャート1位[64]。
出典
[編集]- ^ a b 輪島裕介『創られた「日本の心」神話 ― 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』光文社〈光文社新書〉、2010年10月15日。ISBN 978-4-334-03590-7。
- ^ 永嶺 重敏. “歌う大衆と関東大震災「船頭小唄」「籠の鳥」はなぜ流行したのか、永嶺 重敏(著)”. 青弓社. 2022年2月4日閲覧。
- ^ 永嶺 重敏. “歌う大衆と関東大震災「船頭小唄」「籠の鳥」はなぜ流行したのか、永嶺 重敏(著)”. 青弓社. 2022年2月4日閲覧。
- ^ “演歌・歌謡曲の定番曲 昭和のヒット曲から新曲まで”. 株式会社USEN (2022年6月17日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ a b “演歌・歌謡曲とはなにか~ラップとの音楽的共通性~”. 中将タカノリ (2013年4月9日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ “加波山事件と富松正安「思想」の一考察”. 飯塚彬 法政大学史学会 (2013年6月24日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ 輪島, pp. 50–53.
- ^ 輪島, pp. 53–56.
- ^ 輪島, pp. 59–61.
- ^ 輪島, pp. 61–64.
- ^ 輪島, pp. 70–72.
- ^ 輪島, pp. 72–74.
- ^ 輪島, pp. 74–75.
- ^ 輪島, pp. 189–195.
- ^ “都はるみと阿久悠の演歌ルネサンス” (PDF). 平山朝治 (2016年1月1日). 2023年6月2日閲覧。
- ^ 輪島, pp. 76–84.
- ^ 輪島, pp. 103–108.
- ^ 輪島, pp. 111–121.
- ^ 輪島, pp. 123–142.
- ^ 輪島, pp. 174–176.
- ^ 輪島, pp. 199–207.
- ^ 輪島, pp. 208–219.
- ^ 五木寛之「艶歌」『蒼ざめた馬を見よ』文芸春秋、1972年。
- ^ 輪島, pp. 221–239.
- ^ 絓秀実氏との対談(2015年3月3日)・その5|外山恒一|note
- ^ 輪島, pp. 239–241.
- ^ 輪島, pp. 143–148.
- ^ 『怨歌の誕生』初出:オール讀物(文藝春秋)1970年10月、1971年『 四月の海賊たち』で単行本化
- ^ 輪島, pp. 252–263.
- ^ 輪島, pp. 271–272.
- ^ 輪島, pp. 275, 286.
- ^ 輪島, pp. 298–300.
- ^ 輪島, pp. 294–295.
- ^ 輪島, pp. 304–308.
- ^ 輪島, pp. 308–316.
- ^ 『オリコン年鑑 1997年版』オリコン、1997年、5頁。(但し該当ページにはノンブル表記なし)
- ^ 「演歌は死んだのか レコード会社は前向き」『日本経済新聞』1991年3月9日付朝刊、39頁。
- ^ オーロラ人気は「演歌も売り方次第」の時代、ZAKZAK、1997年4月15日。(インターネットアーカイブのキャッシュ)
- ^ a b 「演歌、存在感じわり回復 話題と地道さ両面でPR(トレンド)」『朝日新聞』2004年7月29日付朝刊、27頁。
- ^ “[https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/2659/ 演歌の逆襲 ~ヒット連発の秘密~]”. NHK. 2024年12月19日閲覧。
- ^ a b “自力で未来を切り開く, NYに行って確信した「演歌は自分の個性」”. 朝日新聞DIGITAL (2022年10月5日). 2024年12月18日閲覧。
- ^ “他の年代とは大きく異なる、「60代」の音楽傾向”. 株式会社インプレス (2016年4月12日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ ““一強”氷川きよしの活動休止 新時代を担う演歌「四天王」とは”. 太田サトル (2023年1月2日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ “『2023ライブ・エンタテインメント白書』サマリー”. ぴあ総研. 2024年12月18日閲覧。
- ^ a b “日本の伝統文化の演歌を絶やすな! 超党派「演歌議連」発足へ”. 産経新聞 (2016年3月2日). 2024年12月16日閲覧。
- ^ “「マスク会食」ではなかった 菅首相ら8人でステーキ 参加の森田実氏「静かに食事」”. 毎日新聞 (2020年12月16日). 2024年12月16日閲覧。
- ^ “伍代夏子お手製“おでん”を囲み… 「自民」「民進」幹事長が会合”. デイリー新潮 (2017年10月3日). 2024年12月16日閲覧。
- ^ “文化を通じた2020年東京大会の盛り上げに向けた意見交換”. 首相官邸. 2024年12月18日閲覧。
- ^ “五木さん、新五輪音頭の制作提言 遠藤氏と意見交換”. デイリースポーツ (2016年2月8日). 2024年12月18日閲覧。
- ^ “五木ひろしさんと歓談”. 千葉県第十選挙区支部 衆議院議員 林もとお(林幹雄) 公式ホームページ (2016年12月22日). 2024年12月18日閲覧。
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- ^ “歌謡界にも「第7世代」注目理由はSNS駆使、個性派ぞろい、共通した目標”. 日刊スポーツ. (2021年10月11日) 2021年11月30日閲覧。
- ^ “【演歌第7世代とは?】令和の演歌界をけん引する歌手の特徴と第1~第6世代の歴史”. うたびと (2021年11月8日). 2021年11月30日閲覧。
- ^ “設定どういうこと!? 小林幸子、 マジの“ラスボス”になるマンガ『異世界小林幸子』が連載スタート”. ITmedia.inc (2023年5月6日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ a b “『日本人のおじさんがなぜか海外で大人気!youtubeの再生回数もあっという間に100万回突破!』”. 株式会社テイチクエンタテインメント (2014年5月17日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ “演歌歌手 神野美伽「40周年」 昭和歌謡のスケール感じて”. 大阪日日新聞 (2023年2月12日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ “明日の「八代亜紀いい歌いい話」新春2時間SPで八代亜紀のパリスペシャルコンサートに密着”. 全日本歌謡情報センター (2023年1月4日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ “Re-Edit(リエディット)とは – 音楽用語”. 洋楽データバンク (2023年5月13日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ “細川たかし Night Tempo presents ザ・昭和グルーヴ”. 日本コロムビア株式会社 (2022年7月1日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ “트로트” (朝鮮語). 한국민족문화대백화사전. 2022年5月20日閲覧。
- ^ “RZA SUING PIANIST MEIKO KAJI OVER SAMPLE INFRINGEMENT ALLEGATIONS”. HipHopDX (2013年3月1日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ “ポルトガル音楽のファドってなに?楽しみ方から有名歌手も紹介!”. ポルトガルトラベル (2021年7月6日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ “まるで日本! 演歌?歌謡曲? 驚愕のゴアのローカルミュージック!”. 軽刈田 凡平 (2018年12月10日). 2023年6月6日閲覧。
- ^ “関ジャニ∞(エイト)、演歌としては17年ぶりの1位に!!”. オリコンニュース (2004年9月28日). 2023年6月6日閲覧。
参考文献
[編集]- 見田宗介『近代日本の心情の歴史 - 流行歌の社会心理史』 講談社、1967年(講談社学術文庫249、1978年。『定本 見田宗介著作集 第4巻』岩波書店、2012年)
- 見田宗介『現代日本の心情と論理』 筑摩書房、1971年。(「新しい望郷のうた」などを収録)
- 奥山弘『「艶歌の竜」と歌謡群像』三一書房、1995年10月。
- 菊池清麿『さすらいのメロディー鳥取春陽伝』郁朋社、1998年。
- 藍川由美『「演歌」のススメ』文春新書、文藝春秋、2002年。
- 菊池清麿『日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ 』 論創社、2008年。
- 輪島裕介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史』光文社新書、2010年10月20日。ISBN 978-4-334-03590-7。
- 高護『歌謡曲――時代を彩った歌たち』岩波新書、岩波書店、2011年。