コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

坂野鉄次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
坂野鉄次郎
さかの てつじろう
生年月日 1873年11月14日
出生地 日本の旗 日本 岡山県津高郡菅野村
(現・岡山県岡山市北区)
没年月日 (1952-06-05) 1952年6月5日(78歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学政治科卒業
(現東京大学法学部)
前職 中国合同電気社長
称号 正四位
配偶者 坂野亀代の
子女 長男・坂野常礼

岡山県野谷村長
在任期間 1929年7月23日 - 1931年9月4日

在任期間 1932年9月29日 - 1947年5月2日
テンプレートを表示

坂野 鉄次郎(さかの てつじろう、1873年明治6年)11月14日[1] - 1952年昭和27年)6月5日[2])は、日本の逓信官僚政治家貴族院議員(多額納税)[3]実業家

経歴

[編集]

岡山県津高郡菅野村(後の御津郡野谷村菅野、現在の岡山市北区菅野)出身[4]。岡山県士族・坂野半四郎の長男[1][3][5][6]1898年(明治31年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業し、高等文官試験に合格した[1][3][5][6]

逓信省通信局に入る[3]1899年(明治32年)、逓信事務官に任ぜられた[1]。大阪郵便局に転じ、監理課長を務めた[3]北清事変の際には野戦郵便事務視察官を務めた[3]1901年(明治34年)、長野郵便局長に任ぜられ、1902年(明治35年)、本省書記官となり、日露戦争の際には大本営野戦高等郵便局長を務めた[3]。その後逓信書記官・関東都督府参事官、東京郵便局長、大阪逓信管理局長、西部逓信局長を歴任した[1]

1915年大正4年)に退官した後は、大阪電灯常務取締役を務めた[3]。その後、藤田組理事を経て、中国合同電気社長を務めた[3]

県下の多額納税者に列し[6]1932年(昭和7年)9月29日、貴族院議員に選出され[7]1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]

その他、山口電灯取締役、大阪亜鉛鉱業取締役、鳥取電灯社長、片上鉄道社長、大神中央土地監査役、姫路電球相談役、京都競馬倶楽部監事などを務めた[1][3]

人物

[編集]

1928年(昭和3年)、家督を相続した[5]。趣味は囲碁[6]。宗教は仏教[6]。住所は大阪市東区北新町[1]、同市住吉区天王寺町[5]、岡山県津高郡野谷村[3][8]、岡山市富田町[6]

栄典

[編集]

家族・親族

[編集]
坂野家

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『人事興信録 第5版』さ69頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月3日閲覧。
  2. ^ a b 議会制度七十年史 1960.
  3. ^ a b c d e f g h i j k 『財界二千五百人集 本編』503頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月3日閲覧。
  4. ^ 坂野記念館(津高観光協会)
  5. ^ a b c d 『帝国大学出身名鑑』サ59頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月4日閲覧。
  6. ^ a b c d e f g 『人事興信録 第11版 上』サ134-135頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月3日閲覧。
  7. ^ 『官報』第1727号、昭和7年9月30日。
  8. ^ a b c d e f g 『人事興信録 第10版 上』サ92頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年6月6日閲覧。
  9. ^ 『官報』第1024号「叙任及辞令」1915年12月29日。
  10. ^ a b 『豪閥 地方豪族のネットワーク』385 - 393頁。

参考文献

[編集]
  • 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
  • 校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。
  • 財界二千五百人集編纂部編『財界二千五百人集 本編』財界二千五百人集編纂部、1934年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第10版 上』人事興信所、1934年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937-1939年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度七十年史 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1960年。 
  • 佐藤朝泰『豪閥 地方豪族のネットワーク』立風書房、2001年。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]


先代
大原孫三郎
中国合同電気(旧備作電気)社長
1921年 - 1939年
次代
牛尾健治