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坂野常善

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
坂野 常善
生誕 1884年(明治17年)12月1日
日本の旗 日本岡山県
死没 1971年(昭和46年)9月21日
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1905年 - 1934年
最終階級 海軍中将
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坂野 常善(さかの つねよし、1884年(明治17年)12月1日 - 1971年(昭和46年)9月21日)は、日本の海軍軍人海兵33期[注釈 1]。最終階級は海軍中将。岳父は宮原二郎(海軍機関中将、男爵[1][2]

略歴

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岡山県津高郡野谷村(現・岡山市)出身。岡山県士族・坂野半四郎の二男[3]

岡山県岡山中学校(現・岡山県立岡山朝日高等学校)を経て海軍兵学校に入校(第33期)。入校時席次は180名中第84位、卒業時席次は171名中第22位。第一次世界大戦中は、第二特務艦隊参謀として地中海に遠征し、英国海軍との連絡業務にあたった。

坂野は海軍部内で対英米協調派(条約派)の1人に数えられていた。海軍軍事普及部部長在任中に、陸軍強硬派と海軍艦隊派から買収された報知新聞記者に『海軍は宇垣一成[注釈 2] 内閣に反対ではない』と発言[4] したことが海軍大臣大角峯生の怒りを買い、いわゆる「大角人事」により予備役に編入された。

戦後の1947年(昭和22年)、公職追放の仮指定を受けた[5]

人物像

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坂野は日米避戦論者であり艦隊強硬派のターゲットになり不本意にも予備役に追い込まれたが、1945年(昭和20年)3月に手記『大東亜戦争ノ教訓』を脱稿する。

そこには主だった陸軍統制派軍人たちが機密費を濫用し軍紀を紊乱させた結果、諸外国の信頼を失墜させ、更に軍人の政治関与が日本の針路を誤らせたものと断罪しており、当時の坂野の無念振りと憤りを窺い知ることができる貴重な資料である。

趣味はゴルフ撞球、読書。

年譜

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栄典

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主要著作物

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  • 大東亜戦争ノ教訓(私稿版)

親族

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脚注

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注釈

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  1. ^ 坂野は、海軍大学校甲種学生の履歴を経ていない[1]
  2. ^ 宇垣は陸相時代に軍縮を行っており、陸軍の中堅層から不評であった。この坂野の発言は宇垣に大命降下した際のものである。

出典

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  1. ^ a b 秦 2005, p. 213, 第1部 主要陸海軍人の履歴-海軍-坂野常善
  2. ^ 宮原旭 (男性) 人事興信録データベース(名古屋大学大学院法学研究科
  3. ^ 第十版 大衆人事録』(昭和9年)サ七四頁より
  4. ^ 『海軍の昭和史』P90
  5. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「正規海軍将校並びに海軍特別志願予備将校 昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」69頁。
  6. ^ 『官報』第7084号「叙任及辞令」1907年2月13日。
  7. ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」1921年1月21日。
  8. ^ 『官報』第3747号「叙任及辞令」1925年2月20日。
  9. ^ 『官報』第2404号「叙任及辞令」1935年1月10日。

参考文献

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関連項目

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