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せんだみつお

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
千田光雄から転送)
せんだ みつお
本名 中野 光雄(なかの みつお)
別名義 千田光雄
せんだ光雄
二千田光雄
ムッシュ中野
浦島みつお
生年月日 (1947-07-29) 1947年7月29日(76歳)
国籍 日本の旗 日本
血液型 O型
職業 タレント
コメディアン
俳優
コメンテーター
MC
ナレーター
ジャンル 映画
テレビドラマ
バラエティ番組
活動期間 1956年 -
配偶者 あり
著名な家族 せんだ雄太(息子)
せんだるか(娘)
事務所 生島企画室
公式サイト 所属事務所によるプロフィール
主な作品
映画
こちら葛飾区亀有公園前派出所』(1977年の映画)
トラック野郎シリーズ
テレビドラマ
真夜中のあいさつTV
銀座NOW#』
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せんだ みつお1947年昭和22年)7月29日 - )は、日本タレントコメディアン[1]

駒澤大学仏教学部中退[1][注釈 1]服部栄養専門学校卒業。調理師の免許を取得[3]。実息は俳優・せんだ雄太、実娘はタレント・せんだるか

芸名[編集]

芸名の由来は、慣用句の「千三つ」から[4]

後述の『東芝ワイドワイドサンデー』の仕事の際に、ニッポン放送ディレクターの上野修が名付けたものである[5]。当初は漢字だったが、声優千田光男がいることから、ひらがなにした[6]

千田光男とは血縁関係はなく、名前の読みが同じだけの全くの別人だが、誤って千田のギャラがせんだに振り込まれるなどの出来事があり、互いに意識していた。

この2人は海外テレビドラマ『特捜刑事マイアミ・バイス』と、映画『ブルース・ブラザース』の吹替えで共演している。

過去には千田光雄せんだ光雄ムッシュ中野の芸名で活動していた時期もある[4]2000年にはミレニアムにちなんで1年間限定で二千田光雄にせんだみつおに、2009年には3か月のみ[7]浦島みつおに改名した。

来歴[編集]

子供時代[編集]

父は王子製紙の技術者で、父の赴任先であった樺太(サハリン)で生まれた。18歳年上の兄が居る[8]1948年昭和23年)に父の故郷である岩手県北上市引き揚げ、その後、父の転勤によって宮崎県日南市に移る[8]。小学校2年生の時に再び父の転勤により、東京都杉並区に移り住んだ[8]

当時は、本人曰く「目立ちたがり屋な美少年」で、スカウトされて[2]小学校3年生の頃より「劇団杉の子」に所属し、子役として活躍していた。初舞台は轟夕起子主演の舞台『人形の家』で、主人公・ノラの長男[9]。その他、子供服のモデルとして婦人雑誌などでも活動していたが、当時は役者になることは考えていなかった[2]ため、子役活動は約2年で辞める。

中学生時代の部活は野球部でセカンドのレギュラー、高校生時代の部活はバスケットボール部[9][10]穂口雄右は中学の同期生で、同じクラスになったことはなかったが、家が近所で仲が良かった。また、田中清司は高校の同期生[11]

学生時代と芸能界入り[編集]

高校時代に出会った菅原進[注釈 2][12][注釈 3][2]と仲良くなった。駒澤大学進学後に3歳年上の女性と恋愛関係になり、2年生の時に結婚を考えるようになった[2]。大学卒業まで待てず、結婚後の収入を考えて調理関係の仕事に就こうと大学を中退して調理師学校に通い始めた[2]

また、同時期にしばらくの間、菅原進が結成したアマチュアバンド時代のビリーバンバンコンガを叩いていたこともあった[1][注釈 4][注釈 5]

せんだは上記の服部栄養専門学校に通いつつ、ムッシュ中野という芸名でビリーバンバンの付き人兼司会を務めることとなったが、その仕事が他のバンドにも広がり、アンドレカンドレ(井上陽水)、吉田拓郎などのコンサートの司会を務めた。しかし上記の交際女性が別の男性と結婚し、大きなショックを受けて何の目標もなくなってしまったという[2]

菅原進がボイストレーニングに通っていた浜口庫之助のつてで、世志凡太の運転手や世志が加わっていたフランキー堺のバンドの巡業に加わるなどの仕事を経て、ビリーバンバンのコンサートに出演していたせんだを見ていた上野修にスカウトされる形で、上野がディレクターを務めていた、坂本九がメインパーソナリティーを務めるラジオ番組『東芝ワイドワイドサンデー』(ニッポン放送)のレポーターの仕事を得ることとなった[4][1]。後にせんだは菅原について、「僕が芸能界に入れたのは彼のおかげです。恩人だと思っています」と語っている[2]

タレントとして活躍[編集]

初のメイン司会番組は1969年(昭和44年)の『ワゴンでデート』(ニッポン放送)で、和田アキ子とのトーク番組だった。その後も『ラジオカウント』、『セイ!ヤング』、『ハローパーティー』など数多くのラジオ番組の司会者を務める。

1972年(昭和47年)10月にキャシー中島とテレビ番組『ぎんざNOW!』(TBS)の司会となり好視聴率を得たことで[注釈 6]、司会者として人気に火がついた[2]

続いて1973年(昭和48年)10月に放送開始した全国ネットの『うわさのチャンネル』(日本テレビ)の司会を務めた。ユニークなキャラが視聴者にウケて人気と知名度が急上昇し、以後レギュラー番組が増えていった[2]湯原昌幸と『せんみつ・湯原のドット30!』(TBS)で共演。絶妙なコンビで人気を博し、後に明星食品のラーメンのCMに共演する事になる[注釈 7]

この頃に結婚。披露宴の司会は、みのもんたが務めた。

うわさのチャンネル』のエンディングで「NHKに出たい」と書いたボードを持ちながらふざけて踊っていたことがあったが、そこから1977年にNHKのテレビドラマ『北上山系』の出演につながったというエピソードがある[13]

1970年代半ば頃は、レギュラー番組が10本を超えるほどの人気ぶりで極めて多忙であり、無理なスケジュールで体調を崩した[2](次項参照)。

半年間の休業、俳優業で活躍[編集]

1978年(昭和53年)12月にロケ先で食べた牡蠣にあたり、病院で「過労を伴う肝炎」と診断された[2]尿管結石も併発していたとされる)。医師から「何より休養を要する」と告げられたため、仕事を全てキャンセルして入院生活を余儀なくされた[2]。半年間の休業後、折からの漫才ブームなどでレギュラー番組がすべてなくなるなど、急速に人気に陰りがでた。せんだ本人はこのことに関して、当時は動きの芸からしゃべりの芸への移行期であり、自分にはテンポがなかったためだと分析している[14][注釈 8]

1980年代以降も芸能活動をし、テレビ出演などもこなしているものの、タレントとしての露出度は1970年代の全盛期には及ばない。全国メディアでは、旧知の和田アキ子らの番組にゲスト出演する程度に留まった。

お笑い系タレントとしての仕事は減ったが、一方でそれと入れ替わるように俳優としての活動に重点が置かれた[2]。1977年には映画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』では、主人公の両津役を演じた[2]。また、1981年のNHK大河ドラマ『おんな太閤記』では、豊臣秀吉の妹・あさひをめとった副田甚兵衛役を好演[2]。1984年には、NHKドラマ『新・夢千代日記』で中国残留孤児の王永春役で迫真の演技をして絶賛された[2]。コメディーだけでなくシリアスな演技もできることが評価されたことから、これまでに他のNHKの大河ドラマや朝の連続テレビ小説にも複数回出演している[2]

さらに声優としても、『ゴールデン洋画劇場』での『ブルース・ブラザース』テレビ初放送時には、ジョン・ベルーシの吹き替えを担当。小野ヤスシが担当したダン・エイクロイドとの絶妙なやり取りを見せた[注釈 9]

近況[編集]

近年は「ウケない金ない仕事がない」の「三ない」や、自称「大スター」等の自虐ネタを持ち味としている。

2001年には、当時リバイバルヒットしていた「明日があるさ」に対抗して「明日がないさ」という楽曲を発表。歌詞も、そっくりそのままネガティブにしており、「明日がない 明日がない 明日がないさ」と歌っている[注釈 10]

文化放送の『吉田照美のやる気MANMAN!』(2007年終了)では、ゲストではなくリスナーとして投稿が採用されることがよくあった。

2017年10月から、TOKYO MXひるキュン!』の水曜レジェンドレポーターとして出演、地上波テレビでは十数年ぶりのレギュラー獲得を果たす。その他、イベント司会等の全国営業、2時間ドラマを中心とした主要脇役としても活躍している。

2021年7月には、ビリーバンバンの菅原進がカバーしたアニメソングユニバーサルミュージックから配信開始するのに合わせ、インターネットに公開されたPV「ようこそジャパリパークへ」(連続テレビアニメーション『けものフレンズ』主題歌)に、ほいけんたとともに出演した[15]

人物[編集]

家族・親族[編集]

2007年1月にTBSナショナル劇場浅草ふくまる旅館』でデビューした俳優せんだ雄太は長男[1]。また長女のせんだるか2009年にタレントとしてデビューしている。

2022年にるかが元プロ野球選手の山本浩二の三男と結婚したため、山本とは縁戚関係となった[16]

芸風・印象[編集]

両手を顔の横に上げ、それを前後に動かしながら「ナハッナハッ」と言うギャグや、「せんだ偉い!せんだ偉い!」などと自分で自分を持ち上げるギャグがある。その他、人名や地名を連呼するギャグを得意とする。現在でも「せんだみつおゲーム」(後述)として残っている。

ウルトラマンは『シュワッチ』の他に『ナハッ』って言ってたんだよ」と湯原が言っていたことがこのギャグが出来たきっかけでもあり、「せんだ偉い!」も元々は湯原が「湯原偉い!」と言っていたもの[17]。一方で「ナハッナハッ」のきっかけについては、湯原は別のインタビューで以下のようにも証言している。湯原がせんだの番組にゲスト出演した際、普通に登場するのではつまらないからと、両手を振って「ナハハハ!」とスタジオに入ったことがあった[2]。すると、その1週間後くらいに放送された深夜ラジオのオープニングで、せんだがいきなり『ナハ、ナハ!』とギャグをやり始め、放送を聞いた湯原は「おっ、パクりやがったな(笑)」と思ったとのこと[2]

村上ファンドの創設者である村上世彰はせんだの熱烈なファンで、高校時代はせんだみつおの弟子になることが夢であり、「せんだの人生には偽りがない」という文章を文集に残している[18]

世志凡太の付き人になった後の初めての巡業でフランキー堺と一緒になった際、コメディーの芝居をやりたいと話した。すると堺から「芝居でコメディーな演技をするには、単に笑わせるだけじゃダメだ。コメディーをやりながらシリアスな芝居もやりなさい」と助言された[2]

話術、気配り、礼儀正しさ、正義感などもあって、交友関係が広い[2]

湯原昌幸からはせんだの考え方について、「テレビなどで見せる顔とは180度違うもう一つの顔がありますよ。真面目に物事を考え、世の中の不正に怒ったり政治に不満を抱いたり。非常にグローバルな視点を持っている男ですよ」と評されている[2]

学生時代に一時ジャーナリストに憧れたこともあったが、勉強嫌いなため諦めたという。芸能界入りした後もジャーナリズムのような気持ちは持っており、1985年6月6日の朝日新聞の投書欄に《(元人気女性アイドルの)引退後の生活まで乱す権利はどこに(東京都/せんだ・みつお テレビタレント 37歳)》などと送って[注釈 11]掲載されたことがある[2]

本人は、「(せんだはタレントや司会者として人気となったが、1970年代後半に現れた)たけし君、タモリさん、所ジョージ君、さんま君…数え切れないくらいの芸人たちがどんどん僕を飛び越えていった。私は芸能界の元祖“跳び箱タレント”です」と自己評価している[2]

夏木ゆたかからは、司会者として話術などを高く評価されている[注釈 12]

交友関係[編集]

俳優の萬屋錦之介とは数多く時代劇で共演し、萬屋が1982年に大病を患って入院した時も見舞いに訪れた。また、せんだが「トラック野郎」シリーズに出ることになった時、萬屋から「監督の鈴木則文さんにこれを持って行きなさい」と一升瓶を渡された。そこには「萬屋です。せんだみつおをよろしくお願いします」という手紙が添えられており、大先輩の心遣いにとても感激したとのこと[19]

森繁久彌とは『水戸黄門』などのドラマで共演し、彼の生前は家が近所で遊びに行ったこともある[注釈 13]

長嶋茂雄とは、過去に月に3回一緒にゴルフに行っていた時期がある[2]

司会を担当した『ぎんざNOW!』には、矢沢永吉が所属したキャロルが何度も出演していた。楽屋でメンバーたちがポマードを塗っていた時、せんだが矢沢に「お前がリーダーか?ポマードが臭いんだよ。便所で塗ってこい!」と注意したことがある[注釈 14]

ラジオの深夜番組『燃えよせんみつ足かけ二日大進撃』に、変なコントを何本も書いて送ってくる1人のリスナーがいた。番組側が「発想が面白そうだから」と番組に呼んでやってきたのが、当時学生で放送作家志望の秋元康だった。以来その収録スタジオで、せんだは「秋元、弁当買ってこい!」などとアゴで使っていたが、その後せんだの黄金期は終わり、秋元は大物プロデューサーになった[注釈 15]

菅原進がとある歌番組で石野真子と共演したことがきっかけで、せんだも彼女と知り合い、以後女優業をする彼女に時々助言をしたり、プライベートで一緒にカラオケに行くなど交流が続いている[注釈 16]

せんだみつおゲーム[編集]

合コンなど宴会の余興で行われるゲームの一つ。参加者は車座となり、最初にある人間が「せんだ」といいながら誰か他の参加者を指差す。するとその指を指された人間は「みつお」と言いながら、また参加者の誰かを指差す。その後指をさされた人間の両隣の人間(あくまでも両隣の人間だけで、さされた当人はつられてはダメ)が「ナハッナハッ」のギャグを行うと1ターンが終了する。その後は「みつお」を言われた人間が最初の人間となり、以降だれかがミスをするまで繰り返す。

その応用版として、芸人とそのギャグや口癖を使った「○○[注釈 17]ゲーム」(○○はその芸人の名前)も存在し、宴会などで行われている。

せんだ自身は1996年頃、読売ジャイアンツ桑田真澄(当時)から、せんだみつおゲームが流行っていることを聞かされた[20]。さらに1997年に放送されたアコム自動契約機むじんくん」のCM(「パーティー篇」[20])で、チャント星人セイン・カミュなどが演じていた)が土星人との合コンに参加した際にやっていたことで広く世間に知られた。その際、せんだは制作側に名前の使用を快諾した上、さらにはCM出演にも乗り気だった[20]。実際にはせんだ自身はCMに一切出演していないが、広告代理店からせんだに対して謝礼が支払われた[21][信頼性要検証]

逸話[編集]

不祥事[編集]

2000年(平成12年)9月22日未明に飲酒運転で事故を起こし、業務上過失致傷及び道路交通法違反の現行犯逮捕された。

その容疑は、記憶を無くす程の飲酒で泥酔だったにも拘わらず、乗用車(BMW)を運転して自宅に帰る途中に追突事故を起こした。同日の午前2時頃、東京都千代田区皇居外苑の二重橋交差点で、信号待ちをしていた乗用車へ後続のせんだが運転する乗用車が追突した。せんだは、その事故現場から逃走した為、約600m離れた路上で追突された会社員の男性に取り押さられた後、警視庁丸の内警察署交通課が業務上過失致傷及び道路交通法(救護義務)違反でせんだを現行犯逮捕した。

逮捕当時は、明らかに酒を飲んだ状態であり、送検時に道交法違反(酒気帯び)の容疑も追加された。同署の取り調べに対し、「逃げるつもりはなかった。安全なところまで車を移動させただけだ」等と供述している。逮捕後は、留置所で6日間拘留。起訴後の裁判では、運転免許証の取り消しと罰金刑の処分を受けた。

出演[編集]

テレビ番組[編集]

テレビドラマ[編集]

ラジオ番組[編集]

ラジオドラマ[編集]

映画[編集]

人形劇[編集]

吹き替え[編集]

DVD[編集]

Vシネマ[編集]

CM[編集]

  • ちび六ラーメン(明星食品)普通の2分の1サイズの即席ラーメンが6ピースあり、食べる量に合わせて何ピースか調整出来るといったラーメン。(1975年頃)
  • うまかめん(明星食品)友人・湯原との共演。「これぞ80年代のラーメン。」が謳い文句だった。(1980年頃)
  • ギャロップレーサー2000 (テクモギャロップレーサーシリーズ第4作。「せんだが二人で、にせんだ!」 (2000年2月)
    • 「二千田光雄」の由来となっている。CF演出は遅塚勝一
  • 100円ショップのスーパーステーション
  • パチンコ&スロット GARDEN「28は庭の日」GARDEN'S DAY(2009年)
  • PACHINKO & SLOT 一番館 「ナハを連発」(2011年 FM NACK5 79.5MHz)
  • 浜松聖地霊園 (2021年11月10日~)SBSテレビ静岡第一テレビのみ放映

ゲーム[編集]

  • beatmania APPEND GOTTAMIX - 「DJ Senda & Tiny-K」名義にて、谷啓との連名による参加。また、サウンドトラックアルバムにも同名義でオリジナル曲を提供。
  • スピンテイル(ゲックスの続編の日本版) - 主人公レノの声

パチンコ[編集]

  • CRせんだみつおの本日ナハナハ大開店!!

ディスコグラフィ[編集]

  • 「ダメな男のロック」(1973年、キャニオンレコード、A-167、EP(シングル盤)
    A面:ダメな男のロック(作詞・作曲:麻田浩、編曲:星勝
    B面:妹と二人(作詞:鈴木ヒロミツ、作曲・編曲:星勝)
    鈴木ヒロミツのプロデュースであったが6000枚の販売に止まる。バックの演奏はザ・モップス
  • 「高原の二人」(1977年、ビクター音楽産業株式会社、SV-6263、EP(シングル盤)。 両面とも作詞:奥山侊伸、作曲:湯原昌幸、編曲:いしだかつのり
    A面:高原の二人
    B面:もしかして
    友人でもある湯原が作曲した楽曲。加山雄三の「君といつまでも」など一連の楽曲を下敷きにしたことでも知られる。リリース当時、せんだが担当するラジオ番組で自主的ヘヴィー・ローテーションを実施した。EP盤のみの発売で現在では入手困難。
  • 「今度はいい友達で」(1989年6月28日発売、東芝、RT07-2394、EP(シングル盤)。 両面とも作詞・作曲:遠藤実、編曲:京建輔
    A面:今度はいい友達で
    B面:めおと戦争
    八汐亜矢子とのデュエット。演歌
  • 「こんな会社やめちゃおう!」(1992年10月7日発売、キングレコード、KIDS-108、8cmCD
    全作詞・作曲:佐藤秀一
    1. こんな会社やめちゃおう!(4分33秒)
    2. OLブギ
    3. こんな会社やめちゃおう!(オリジナル・カラオケ)
    4. OLブギ(オリジナル・カラオケ)
    KISS-108、カセットテープ 
    A面:1.こんな会社やめちゃおう! 2.OLブギ
    B面:1.こんな会社やめちゃおう!(オリジナル・カラオケ) 2.OLブギ(オリジナル・カラオケ)
    祝 芸能生活20周年
    サラリーマンの日常的な怒りをコミカルに歌ったもの。宴会ソングとして評判に。
    発売当時、第一興商レーザーカラオケに、せんだ自ら出演した本人映像で導入された。
  • 「明日がないさ」(2001年、アウトサイダー、DLCR-01052、「せんだみつお featuring 池尻大橋交番上」名義、 全曲作詞:青島幸男、作曲:中村八大、替え歌:奥山侊伸、「明日があるさ」替え歌版、CD
    1. 明日がないさ(3分48秒)
    2. 明日がないさ〜クラブ"赤坂"MIX〜
    3. 明日がないさ(Instrumental)
    4. 明日がないさ〜クラブ"赤坂"MIX〜(Instrumental)
    インディーズ流通のためCDとしては現在入手困難であるが、「着うたフル」で購入可能。
    帯コピー:明日がないって唄ってる事が明日があるんだから…もし売れたら明日がある…(青島幸男)
    「明日があるさ」の替え歌、メロコアヴァージョン

著書・参考文献[編集]

  • 『ぼく せんだみつお エマニエル夫人も真ッ青!』講談社1975年
  • タレント、父親、普通人 : 窓ぎわのコメディアンのホロリいい話リヨン社、1986年10月1日。ISBN 4576861158
  • せんだみつお『ナハ』東京書籍、2002年。ISBN 4-487-79714-4 

脚注[編集]

注釈
  1. ^ 長年、様々な媒体のプロフィールに「経済学部中退」となっていたが、2024年4月のインタビューで「仏教学部中退である」ことを明かした。本人は、「芸能界に学歴はいらないと思っていて、面倒くさいから今まで訂正してこなかった(笑)」と理由を述べている[2]
  2. ^ 菅原は日大二高に通っていたが共通の友人がいたという。
  3. ^ 別のインタビュー記事では、「バンド活動にハマっていた関係で菅原に出会った」とも証言している。
  4. ^ ビリーバンバンが「白いブランコ」でメジャーデビューしたのは、せんだみつおが調理師免許の取得のために学校に通い始めた後のことであり、ビリーバンバンは菅原兄弟2人のユニットとして売り出された。
  5. ^ 菅原によると、「当時せんだは歌は下手だったけど、雰囲気があるから時々加山雄三さんの曲とかをステージで歌うと、お客さんに結構ウケたんです(笑)」と回想している[2]
  6. ^ 当時は大橋巨泉の事務所に所属していた。
  7. ^ 互いの足首を掴みあい地面を転がり回る「合体」というネタがあった。
  8. ^ 別のインタビュー記事で本人は、「『うわさのチャンネル』で、僕は和田アキ子さんに(パフォーマンスとして)ド突かれたり、覆面レスラーのザ・デストロイヤー足4の字固めをかけられたりして、その悶絶する姿や派手な動きで視聴者を笑わせていた。でも漫才ブームでしゃべりで笑わせる人たちが主流になってきた。つまり、笑いが新旧交代の時期を迎えていたんです。入院するまでは“自分の時代はいつまでも続く”と思っていたけど、僕の黄金期は7年間で終わりました(笑)」と回想している[2]
  9. ^ その後同作品の吹き替えはバブルガム・ブラザーズが担当したため、せんだの吹き替え放送は1回のみ。
  10. ^ 最後のサビ部分では元歌の通りに「明日がある 明日がある 明日があるさ」と歌っている。
  11. ^ このアイドルとは、1980年に引退した歌手の山口百恵のこと。山口は1970年代のアイドルの中でも特に大人気だったこともあり、せんだが投書した1985年頃も彼女はマスコミから私生活を執拗に追いかけられていた。私人となった彼女のプライバシーを報じるマスコミの姿勢を、せんだは投書により「えげつない」と断じたという。
  12. ^ 具体的には、夏木は「せんださんに本気で司会をやらせたら季節感を織り交ぜたり、お客さんの反応を見たりしながら、素晴らしいMCができる人なんですよ。彼は司会者として関東が誇る第一人者だと思います。だけど彼自身目立ちたい人だから、すぐに“ナハ、ナハ!”とか始めちゃう。そういう意味では司会者の枠に収まっていられない、根っからのエンターテイナーなんですよね。僕はせんださんの大ファンです」と語っている[2]
  13. ^ せんだによると、初めて森繁の家に遊びに行った際、「手土産を持たずにウチに来たのは、お前が初めてだ」と言われたとのこと[2]
  14. ^ せんだによると、「その後、歌手・俳優としてビッグになった矢沢さんと偶然同じ飛行機に乗り合わせ、数十年ぶりに再会した彼から「“ハーイ、せんちゃん。ユー、元気?”って気さくに声をかけてくれたんです。僕は、『はい、その節はお世話になりました』って平身低頭で返しました(笑)。芸能界は下剋上です。ナハ!」と回想している[2]
  15. ^ (2010年前後の)ある日数十年ぶりに秋元と再会したせんだは、「秋元君はすっかりご立派になられていたので、こっちはペコペコして(笑)。『これはこれは秋元先生、(頂ける仕事が)何かあったらよろしくお願いします』って頭を下げました。そしたら後日、秋元君が『渡り廊下走り隊』のプロモーションビデオに僕を使ってくれましてね。もう天変地異ですよ。だけど、(人気の浮き沈みや立場の逆転も含めて)良くも悪くもそれが芸能界なんです」と回想している[2]
  16. ^ 石野によると、「2020年にドラマ『恋はつづくよどこまでも』でせんださんと親子役で共演しました。撮影当時は、コロナ禍だったので(感染抑制、飛沫防止により)セリフ以外のお喋りがほとんどできなかったんですよ。それでもせんださんがアイコンタクトで私を引っ張ってくれて、本当に違和感なく親子の雰囲気を出せたように思います。それから、2023年に大河ドラマ『光る君へ』(放送は2024年)の出演が決まった時は、“ドキドキするわ”って話たら、せんださんがメールをくださって激励のメッセージだけじゃなく、“演技の役に立つかもしれないよ”って平安時代の資料を教えてくれたんです。せんださんってそういう心遣いがいつもさりげなく、優しい方なのです」と述懐している[2]
  17. ^ 桂三枝=いらっしゃ〜い、ビートたけし=(首を捻りながら)バカヤロー!、志村けん=アイーン、明石家さんま=クワッ!、所ジョージ=すっごいですね〜、など。
  18. ^ せんだ司会のテレビ番組『スター爆笑座』(TBS系・1980年)に、当時売出し中の漫才コンビ・ツービートがアシスタントとして出演。ある日せんだが楽屋のテレビでたまたま女子の体操競技を視聴すると、ルーマニアのナディア・コマネチ選手の際どいユニフォームについ目がいった。思わず彼女のハイレグを模して自分の股間の前で両手をV字にして「コマネチ!」と声に出した。するとその場にいたたけしから、「それ、(たけしの持ちギャグとして)使ってもいいですか?」と言われ、シャレのつもりで「3万円で売ってやる」と答えたところ、本当にたけしが3万円を出したため、実際に譲ったとのこと[2]
  19. ^ 当時は原作漫画でフルネームが判明しておらず、映画本編で語られるのは苗字のみ。
出典
  1. ^ a b c d e "タレント・せんだみつおが語る、ビートたけしの"コマネチ"売却秘話、黄金期から氷河期まで激動の芸能人生を振り返る「どんどん僕を飛び越えていった」". 週刊女性PRIME. 主婦と生活社. 12 May 2024. 2024年5月12日閲覧
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 『週刊女性』2024年5月21日号.
  3. ^ “自伝・集中連載 せんだみつお・4”. 夕刊フジ: p. 6. (2016年7月1日) 
  4. ^ a b c “自伝・集中連載 せんだみつお・8”. 夕刊フジ: p. 6. (2016年7月6日) 
  5. ^ 上野修『ミスター・ラジオが通る実業之日本社、1986年6月20日、142頁。
  6. ^ せんだみつお 2002, p. 67
  7. ^ 2009年7月8日より1年間の予定だったが、10月14日に「すべったからやめる」と撤回した[1]
  8. ^ a b c “自伝・集中連載 せんだみつお・1”. 夕刊フジ: p. 6. (2016年6月28日) 
  9. ^ a b “自伝・集中連載 せんだみつお・2”. 夕刊フジ: p. 6. (2016年6月29日) 
  10. ^ “自伝・集中連載 せんだみつお・3”. 夕刊フジ: p. 6. (2016年6月30日) 
  11. ^ https://mobile.twitter.com/yusuke_hoguchi/status/383471902594830336”. Twitter. 2022年4月24日閲覧。
  12. ^ せんだみつお 2002, p. 60
  13. ^ “自伝・集中連載 せんだみつお・14”. 夕刊フジ: p. 6. (2016年7月13日) 
  14. ^ せんだみつお 2002, p. 100
  15. ^ 「【配信開始!】「ようこそジャパリパークへ」をビリーバンバン 菅原進(73歳)が歌ってみた。【けものフレンズOP】」ニコニコ動画)2021年7月7日。
  16. ^ 美人娘♡息子が結婚!山本浩二とせんだみつおが家族になっていた!”. FRIDAYデジタル (2022年11月1日). 2022年11月1日閲覧。
  17. ^ “自伝・集中連載 せんだみつお・11”. 夕刊フジ: p. 6. (2016年7月9日) 
  18. ^ 小山雄人「村上世彰の罪と罰 モラルなき友との四半世紀 」(『新潮45』2006年9月号)
  19. ^ 週刊現代5月15日号「昭和の怪物」研究その117・萬屋錦之介「見得を切らなかったひと」p181-188
  20. ^ a b c CM NOW』VOL.711998年3-4月号、玄光社、65頁。 
  21. ^ 全国おとな電話相談室ポッドキャスト2009年1月31日配信分
  22. ^ “自伝・集中連載 せんだみつお・13”. 夕刊フジ: p. 8. (2016年7月12日) 
  23. ^ ういちとヒカルのおもスロい人々#127、128

参考文献[編集]

  • 「人間ドキュメント「私が元祖“跳び箱タレント”です ナハ!~せんだみつお」」『週刊女性』2024年5月21日号、主婦と生活社、2024年5月8日、36-42頁、JAN 4910203630545 

外部リンク[編集]