北田正董
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北田 正董(きただ まさただ、天保12年(1841年) - 明治40年(1907年)10月5日[1])は、日本の代言人。
生涯
[編集]上総国[2]山辺郡南横川村(現在の千葉県大網白里市)出身。明治初頭後藤象二郎の食客となり、後藤が大阪府知事当時大阪府取締大区長、警察事務を担当明治七年辞職。同年三月に代言業の傍ら、島本仲道らと共に北州社を設立して法律の研究に努めた[2]。
1882年(明治15年)に板垣退助、後藤象二郎らと共に自由党を結成し、同年6月に行われた臨時大会で馬場辰猪、大石正巳、末広重恭、林和一、大井憲太郎らと並んでその常議員に選出された[3]。同年12月の福島事件で自由党員の河野広中らが逮捕されると、大審院に設置された高等法院においてその弁護を担当した[2]。
1890年(明治23年)の第1回衆議院議員総選挙に東京府第3区から出馬したが落選した[4]。
東京弁護士会会長、東京弁護士会常議員会議長を歴任した。墓所は谷中霊園にある。
親族
[編集]子に息子の正寅、娘の酉のほか、二女の作家北田薄氷、三男の弁護士で代議士北田正平、五男の初代駐アフガニスタン公使北田正元らがいる[5]。
孫に内務官僚から政治家になった大橋武夫(娘・酉の子)、実業家の北田正典(息子・正寅の子)、実業家高橋義治の妻高橋朝子(息子・正寅の子)らがいる。
大蔵省関税局長の大橋宗夫と、昭和電工社長の大橋光夫ら兄弟(娘・酉の孫)、インド史学者の石田保昭(娘・酉の孫)、世情を賑わした電通顧問の高橋治之と、イ・アイ・イグループ総帥の高橋治則ら兄弟(息子・正寅の孫)らは、それぞれ正董の曾孫にあたる。
出典
[編集]- ^ 奥平昌洪『日本弁護士史』有斐閣書房、1914年、p.1127
- ^ a b c 佐倉 1888, p. 73
- ^ 寺崎 1986, p. 173
- ^ “東京3区 - 第1回衆議院議員選挙(衆議院議員総選挙)1890年07月01日投票 | 選挙ドットコム”. 選挙ドットコム. 2020年10月16日閲覧。
- ^ “北田正元 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. 名古屋大学法学研究科. 2020年10月16日閲覧。
参考資料
[編集]- 佐倉政蔵『民間人物論 : 壮士志士』能勢土岐太郎、1888年3月。
- 寺崎修「自由党役員名簿と同党大会出席者名簿」『法学論集』第32巻、駒澤大学法学会、1986年1月、171-191頁。