利用者:Obendorf/聖公会
聖公会(せいこうかい)、国際的な名称としては アングリカン・チャーチ(英語: Anglican Church, Anglican-Episcopal Church, Anglicanism)は、イングランド国教会(Church of England/直訳は「イングランド教会」、日本聖公会における公式呼称は「英国聖公会」、俗には「英国国教会」とも)の系統に属するキリスト教の教派。
聖公会は自らを、西方教会におけるカトリック教会[注 1]とプロテスタントの中間として位置づけ、「中道(ヴィア・メディア)」の教会であると自認している。(詳細は「教義・様式」の節を参照)
世界各地にある聖公会の諸教会の世界的連合を、アングリカン・コミュニオン(Anglican Communion)という[注 2]。
「聖公会」(聖公會, 성공회)という漢語名称は、「使徒信条」(使徒信経)および「ニカイア・コンスタンティノポリス信条」(ニケヤ信経)の中の「聖なる公同の教会」(holy catholic Church)という語句に由来し、非公式には19世紀中葉から香港・中国で使われ始め[1][2]、正式には1887年に設立された日本聖公会で、その後中華聖公会・大韓聖公会などの漢字文化圏において用いられるようになった名称である[3][注 3]。
概要
[編集]信仰の規範
[編集]聖公会大綱
[編集]聖公会の信仰の規範となる教条としては、1563年に制定された『イングランド国教会の39箇条』(聖公会大綱)[4]があるが、全聖公会に必須の教条というわけではない。イングランド以外の聖公会においては、教理の基本的指針として参照されはするが、聖公会の日本での組織である日本聖公会などにおいては、一部条項が本邦の地域性と時代性にそぐわず、あくまで当時のイングランドの時勢に基づいた歴史的文書であるという見解のため、公式には批准していない。
従って、各聖公会が各々に定めた「教会問答」(カテキズム)が、その聖公会における教理の公式規範となる。
シカゴ-ランベス四綱領
[編集]「教会一致のための最低条件」として全聖公会が信認する教条としては、1886年、シカゴで開かれた米国聖公会の総会にて可決され、2年後の1888年に開かれた第3回ランベス会議で承認された、「シカゴ-ランベス四綱領」[5][6]がある。
- 「シカゴ-ランベス四綱領」要約
- 救いに必要な全てのことを載せたものであり、信仰の規範と究極の標準としての旧約と新約の聖書。
- 洗礼の象徴としての使徒信経と、キリスト教信仰の十分な宣言としてのニケヤ信経。
- キリストの制定語と彼によって命じられたエレメント(洗礼における水、聖餐におけるパンとワイン)を間違いなく使って執行される、キリストご自身の制定にかかる洗礼と主の晩餐の二つのサクラメント。
- 神がご自分の教会の一致の中に召された国民や人民の様々な必要に対応して、その運用方法を地方的に適合させる歴史的主教職。
カルヴァン主義の採択と廃止
[編集]清教徒革命中の1646年には、カルヴァン主義に基づく『ウェストミンスター信仰告白』がイングランド・スコットランド両国の国教会に共通する教条として宣言されたが、1660年の王政復古によって廃止された。その後、1689年の名誉革命ののち、長老派のスコットランド国教会においてはこの教条が再度採択され、世界中の長老派教会において教条とされて現代に至るが、王政復古以後現代に至るまでのイングランド国教会・スコットランド聖公会および各国の諸聖公会においては教条としていない。
ハイ・チャーチとロウ・チャーチ
[編集]聖公会には、伝統的な典礼を重んじカトリック的な傾向が強い「ハイ・チャーチ(高教会派)/アングロ・カトリック」(High church/Anglo-Catholic)と、福音主義的でプロテスタント的な傾向が強い「ロウ・チャーチ(低教会派)/エヴァンジェルズ」 (Low church/Evangels) 、また(前㆓者よりは言及されることが少ないが)その中間的な姿勢で自由主義的な「ブロード・チャーチ(広教会派)/リベラルズ」(Broad church/Liberals)がある。
これらは独立的な教会組織ではなくて、いずれも多くの場合は同一教区の中に混在し、同じ主教の監督下で運営されている。ただ、国や地域ごとの各教会管区によって、ハイ・チャーチ寄りかロウ・チャーチ寄りかの姿勢が優勢である場合もある。
また、ハイ・チャーチ⇔ロウ・チャーチという分類はあくまで典礼面において伝統的であるか否かであり、社会的思想や組織体質、また神学的理解においての保守的⇔革新的な傾向とは必ずしも一致しない。典礼や聖堂建築などの様式面では伝統的でありながら、思想・体質的にはリベラル傾向である教会・聖職者や、その逆のケースも多々存在する。
元々、聖公会はクエーカーやメソジストなどプロテスタントの多くの教派を生み出した母体で、様々な考えの人々を許容・包含している。よって、各々の教会によっては無論、さらにその中でも各聖職者や信徒個人によって濃淡はまちまちである。
アングリカン・コンパス・ローズ
[編集]アングリカン・コミュニオンのエンブレム、コンパス・ローズは、1954年、米国ミネソタ州ミネアポリスの聖マルコ大聖堂で開催された第2回国際聖公会会議のために作られ、1988年に現在のデザインにリニューアルされて、第12回ランベス会議中にカンタベリー大聖堂の床に置かれた[7]。
中央は、イングランドの国旗である聖ジョージ十字。十字架の周りに「真理はあなたたちを自由にする」(『ヨハネによる福音書』第8章32節)[注 4]とギリシア語で刻まれており、コンパス(羅針盤)の意匠は、海を越えて世界中へと伝道されてゆく聖公会の広がりと、「真理を模索し続ける」という精神性を思い起こさせる。一番上のマイター(主教帽)は、教会の核心にある主教制と使徒継承を象徴している[6]。
教義・様式
[編集]中道(Via Media)の教会
[編集]聖公会は、宗教改革の中からイングランドで生まれたイングランド国教会(英国聖公会)を母体とする一教派であるため、広義のプロテスタントに含まれると見なす(あるいは自認する)見解もある[8]が、典礼様式や組織構造など外面的な部分に関しては他のプロテスタント教会と大きく異なり、むしろローマ・カトリック教会と非常に近しい(ともすると、第2バチカン公会議以降の現代カトリック教会以上に古式を残している場合さえある)。ローマ・カトリックと狭義のプロテスタントの中間的立ち位置というのが実態であり、一般的には「中道(ラテン語: Via Media/ヴィア・メディア)」の教会・「ブリッジ・チャーチ(架け橋の教会)」であると自認している[6][9]。
「Via Media」とは、エリザベス1世(在位:1558年 - 1603年)時代にイングランド国教会および後世の諸聖公会の教義確立に大きく貢献した神学者リチャード・フッカー(1554年 - 1600年)が使い始め、のちにオックスフォード運動の先導者ジョン・ヘンリー・ニューマン(1801年 - 1890年)らが肉付けした言葉である[10]。
これは単に「中間的」・「どっちつかず」という意味ではなく、正確には「あれでもなく、それでもない」、「これでしかない」という、教会対立上の両極端を否定する毅然とした主張を表現する言葉である[11]。すなわち、ローマ・カトリック教会の(現在は緩和されたが、往時は顕著であった)教皇至上主義を根幹とする権威主義・全体主義や伝統墨守主義も、往時にはピューリタンや宗教改革急進派・近年では福音派プロテスタントやキリスト教根本主義らの聖書至上主義・極端な平等主義や禁欲主義・伝統的教会文化の軽視など、そして両極に共通する教条主義も、聖公会は否認する。ひいてはそれらの「両極」に留まらず、「あらゆる絶対主義・原理主義と極端を否認する」という点が根幹である[12]。
また、「究極的には、不完全な存在たる人間の為す集団である現実の教会組織に無缺・無謬はありえず、常に途上にある」という自戒精神も込められており[13]、「教条主義的な結論を性急に求めず、不完全性をむしろ誇りとして、多様な考え方を認めて共に考え続ける」、「真理の道を探求・模索し歩み続ける」といった含意もある[9]。
カトリック的な側面
[編集]- 歴史的主教制[14](監督制):聖職者を信徒(平信徒)と明確に区別し、主教(Bishop)・司祭(Priest)・執事(Deacon)の三聖職位制を保っており、使徒継承性を自認している。
- 管区・教区があり、必ず主教によって統括される。
- 聖職者の祭服(アルブ、ストールなど)や、聖堂の様式(ほとんど必ず中央奥に祭壇と聖卓がある)などはカトリックとほとんど同じである。
- 教会暦の概念があり、時節によって定められた祭色を用いる。
- 礼拝の式次第は、幾度もの変遷を遂げているが、現行のものは特に聖餐式に関しては、おおよそローマ典礼(カトリック教会のミサ)に準拠した形式となっている。また、朝の祈りでは「ザカリヤの賛歌」(ベネディクトゥス・ドミヌス・デウス)、夕の祈りでは「マリヤの賛歌」(マニフィカト)、就寝前の祈りでは「シメオンの賛歌」(ヌンク・ディミティス)が主に歌われまたは唱えられるのは、カトリックの聖務日課から受け継いだ形式である。
- 聖餐には原則的に薄い種無しパン(ホスチア、ホースト、ウェファー)とアルコール発酵したぶどう酒が用いられる。
- 儀礼の中では聖餐を何よりも重要視し、原則的に毎主日(教会によっては毎朝)聖餐式が行われる。
- 教名(一般的には洗礼名、または教名の風習がない教派からの転会者は堅信に際して名付けられる)、また教父母の風習がある。
- 多くの教会で、「聖○○教会」という具合に、特定の守護聖人に因んだ名が付けられる。
- 公祷の祈祷文は、原則的に全て成文祈祷であり、一冊の祈祷書にまとめられている(一冊の祈祷書に全ての成文祈祷を載せるという形式は、聖公会発祥である)。
- 主日の聖餐式や週日の朝・夕の祈りでは、その日に朗読される聖書箇所(聖書日課)が全て定められている。
- 逝去者のための祈り(レクイエム)を行う。
- グレゴリオ聖歌の旋律に由来する聖歌が用いられる場合がある[注 5]。
- 以下、主に「ハイ・チャーチ」と呼ばれる教会に見られる特徴
- 一部に修道士制度が存在する(一旦ほとんど廃止され、19~20世紀になってから復興された[16])。一部の地域にはカトリック教会と同様に、アングリカン・ベネディクト会、アングリカン・フランシスコ会などの修道会派制度も存在する[17]。
- 聖像を認めており、イエス・キリストや聖母マリア、その聖堂の名前の由来になった聖人、天使などの絵や彫像を、祭壇やステンドグラス、バナー(旗)などに用いる場合がある。
- 聖餐を伴う礼拝(聖餐式)のことを、英語ではMass(ラテン語の「ミサ:Missa」と同語)と呼ぶことがあり、日本語でも稀にミサと呼ぶ場合がある[18]。
- 礼拝中、特定の箇所で十字を切る、ひざまづく、立つなどの決まった所作がある。
- 陪餐の際に、分餐者の前でひざまづいて、分餐者の手から信徒の口で聖体を拝領する場合がある。
- 礼拝中、振り香炉(抹香)やトーチ(行列用の手持ち蝋燭)を用いる場合がある。
- 礼拝中の全てまたは多くの祈祷文を、旋律を付けたり一定の音程で歌唱・朗唱(唱詠司式/チャンティング:Chanting/コーラル・サーヴィス:Choral Service)する場合がある。こうした盛式聖餐式を、「ハイ・マス」(High Mass)・「荘厳ミサ」(Solemn High Mass)や「歌ミサ」(Sung Mass)と呼ぶ。対義語は「ロー・マス」(Low Mass)である[19]。
- 現在、多くの聖公会の礼拝は、司式者と会衆が向かい合って行われる対面司式が主流であるが、司式者が祭壇に向かい会衆に背を向けて司式する背面司式を行う場合もある。
- 司祭に対する敬称として、神父・Fatherと呼ぶ場合がある。(現代の日本聖公会においては多くの場合、そのまま「司祭」、あるいは「○○先生」と呼ぶ。日本聖公会における「牧師」(Rector)は、プロテスタントにおける牧師(Pastor)とは語源も概念も異なり、㆒個教会の司牧責任者たる聖職者という意味で用いられる。)[20](詳細は「牧師#呼称と役職の教派別対照表」および「牧師#聖公会の牧師」を参照)
プロテスタント的な側面
[編集]- ローマ教皇の首位権を認めず、また聖公会内に教皇のような絶対的指導者を置かず(カンタベリー大主教が名誉としての筆頭聖職者ではある)、原則として国や地域ごとに置かれた各教会のゆるやかな連合体(アングリカン・コミュニオン)として成り立っている。
- 聖母マリアの無原罪の御宿り・被昇天の教義を認めない。
- 煉獄の教義を認めない。
- 聖餐式は、聖職も信徒も等しく、原則的にパンとぶどう酒の二種陪餐(両形色)である[注 6]。
- 「聖体」を、聖餐式や病床訪問等の場において飲食する以外の目的で、拝礼の対象(聖体賛美式)などとして用いることは行わない。
- 礼拝は原則的に各国語で行われる。
- 公会議は、第4回目のカルケドン公会議まで、あるいは第7回目の第2ニカイア公会議までのみを認める[注 7]。
- 聖職者の結婚を認める(修道士を除く)。
- 個人懺悔を義務とせず、懺悔のあとに行動による「償い」も課さない。
- 離婚・再婚を否認しない。
- (20世紀後半以降の変革であり、現在も賛否両論あるが、)女性聖職者を認める事例が増えつつある。
- ことに非西欧文化圏におけるロウ・チャーチ傾向の教会では、それぞれの地域・民族に根ざした伝統文化やローカル色を取り入れたり、カジュアルなスタイルで礼拝を行う教会もあり、多様性を許容する。
これら「プロテスタント的な側面」の多く(ことに前半部分)は、正教会とも類似する要素である。
中間的な側面
[編集]- 旧約聖書はいわゆる「続編」を含み、礼拝中の聖書朗読でも普通に旧約聖書として扱われるが、「この部分のみを論拠として教義を建てない」という原則も持っており、聖典とは区別している[23]。
- 聖奠(サクラメント)は、全聖公会において洗礼・聖餐の2つを認めるが、加えて堅信・聖職按手・聖婚・個人懺悔・病人の按手および塗油の5つも広く執行され、「聖奠的諸式」(Sacramental Rites)と称して、実質的にはサクラメントに準じた聖霊の恵みを伴う神秘的儀礼として認めることがある。
- 聖餐論に関しては個々の聖職者や信徒によって様々な理解がなされているが、概して、カトリックの全実体変化説も、一部プロテスタントの象徴説からも距離を置く。ただ、聖餐式の式文中には、「イエス・キリストの肉を食し、その血を飲み」や「主イエス・キリストの体/血」などといった語句が用いられている。(詳細は「聖餐論#聖公会の聖餐理解」を参照)
- 聖人の概念があり、聖人崇敬を否定しないが、義務ともしない。また、聖母マリアや聖人に対する執り成しの祈りも公祷においてはほとんど行わない(但し、聖歌隊によるアンセムでは、「アヴェ・マリア」などが歌われることがある)。聖公会として公式に記念する聖人は、宗教改革以前の人物が多く、カトリックや正教会などよりも限定的である。しかし、これは認めないということではなく、「諸聖徒の交わり」として尊重している。例えば、教名に、カトリックでのみ、あるいは正教会でのみ認定されている聖人や福者らの名を用いることなどもできる場合がある。
- 「聖書のみ」ではなく、「聖書」・「伝統」・「理性」の3つを信仰の柱とする[24]。
- 礼拝中に歌われる歌(Chant:チャント/Hymn:ヒム)のことを、漢語では「讃美歌」ではなく「聖歌」と訳す(カトリック、正教会と同様)が、その多く(英語では"Hymn"と称するもの)は、ルター派のコラールに類似した、全会衆で唱和する平易な歌である。(但し、聖歌隊によるアンセムでは、カトリック由来のラテン語多声聖歌も歌われることがある。)また、祈祷文や詩編唱の唱詠において(英語では"Chant"と称するもの)は、アングリカン・チャントと呼ばれる、ホモフォニックかつメリスマをあまり用いずシラビックで平易な和声聖歌の伝統がある[25][注 8]。
「聖書・伝統・理性」の三本柱
[編集]「中間的な側面」の節でも触れたように、聖公会は「聖書」・「伝統」・「理性」の3つを信仰の柱とする。
聖書
[編集]「聖書」についての認識は、プロテスタント諸派の掲げる「聖書のみ」というモットーとは異なり、あくまで「信仰の三本柱」の中核的な㆒要素として位置付けられる。ことに福音派プロテスタントやキリスト教根本主義などが信奉する逐語霊感説・十全霊感説といった「聖書信仰・聖書至上主義」に対しては同調しない。
「理性」の節でも触れるが、特に近現代の聖公会においては、時に科学的知見や近現代の価値観・時代性と相違する聖書の記述を字面どおりに盲信せず、現代の歴史神学・聖書学の知見も参考にしつつ、文面の奥に示唆された精神性としての真意、そして現代社会における信仰生活や価値観の指針となりうる含蓄を探求する聖書解釈もなされる。
伝統
[編集]聖公会における「伝統」とは、基本的には、教会の歴史の中で連綿と受け継がれてきた「聖伝」とも称される霊性の尊重を意味する。『イングランド国教会の39箇条』第34条には、「伝統や儀式はどこにおいても同一である必要はない。伝統は常に多様で、国、時代、人々の慣習に従って変化することもある」という指針が示され、時代性に逆行せず柔軟かつ穏健な漸進的変革を続けてゆくことも「伝統」と矛盾しないと捉える。すなわち、いわゆる保守主義・伝統墨守主義とは別物で、教条主義的な教義や画一的な信仰様式を盲目的に信奉・墨守することを意味しない。
さらには、世界各地の地域・民族ごとの伝統文化を尊重し、各々の歴史と風土に根ざした多様性豊かな「各教会の伝統」を形成し続けてゆくという意味合いも含む。
理性
[編集]「理性」については、世俗的・個人主義的な意味での理性主義(合理主義)ではなく、「教会の共同体が経験する事柄」という意味と捉える[26][27]。教会権力や聖職が信徒に対して権威的・一方的に教義を教導するような教条主義に陥らぬよう、多様な考え方を尊重しつつ各聖職・信徒の間で意見を交わし合って、共に真理を探求し信仰理解を深めてゆく姿勢を推奨する。
こうした意味での「理性」に基いて、いくぶん宗教的近代主義・自由主義神学的な信仰理解をする者が比較的多いが、「ヴィア・メディア」の精神から、急進的な自由主義神学に偏向することも推奨されない。
よって、フランス革命期に旧来の教会勢力に対抗して急進的啓蒙主義者が催した「理性の祭典」に象徴される、極端な理性至上主義や理神論とは根本的に異なる。
歴史
[編集]古代~中世初期
[編集]グレートブリテン島にキリスト教が初めて到来したのは、ローマ帝国時代の紀元200年頃のことであると考えられている。イングランド(ブリタンニア)は紀元43年にローマ帝国によって征服され、410年までローマ帝国支配下の属州であっため、禁教時代でも、ローマ人植民者の軍人や貿易商人らの中にはキリスト教徒がいた。イングランド南部にセント・オールバンズという市があるが、ここで3世紀初頭頃に聖オルバンが殉教したという伝説も生まれている。313年にはミラノ勅令によってローマ帝国でキリスト教が公認されたが、依然として、ブリテン諸島の先住民族であるケルト人によるドルイド教や、ドイツ北岸近辺から移住してきたアングロ・サクソン人によるゲルマン神話の神々への信仰が多数派であり、ブリテン諸島のうちイングランド以外にはローマ帝国の支配が及んでいなかったことや、476年の西ローマ帝国滅亡に先立って410年にローマ帝国はブリタンニアから撤退したこともあり、キリスト教徒は少数派に留まっていた。
ブリテン諸島における本格的なキリスト教の普及は、ウェールズ出身で432年よりアイルランド島に伝道した聖パトリックを契機とする。続いて563年には、アイルランド出身の修道士・聖コルンバが、アイオナ島やスコットランドに伝道し、さらに635年には聖エイダンがイングランド北部にリンディスファーン修道院を創建して、ローマ・カトリック教会からは独立的なケルト系キリスト教が一時期ブリテン諸島の主流となった。
一方、597年にはカンタベリーのアウグスティヌスがローマ教皇グレゴリウス1世の命によりイングランドへ派遣され、初代カンタベリー大司教に着座し、ローマ教皇庁の裁治権下にある教会組織が形成された(聖公会の起源の一つとされる)。こうして土着的なケルト系キリスト教と直系のローマ・カトリックがせめぎ合う状態となったが、664年のウィットビー教会会議でケルト系キリスト教の主張が破られたことを転機として、イングランドをはじめ、その他の地域でも次第に、ケルト系キリスト教はローマ・カトリックに同化されていった。
のちの時代の聖公会においては、この歴史により、ブリテン諸島ではローマ・カトリックより前から独自のキリスト教文化があったとして、ケルト系キリスト教にアイデンティティーを見出す動きが一部に見られ、近代に建てられた各国の聖公会の聖堂や墓碑などにも、ケルト十字が好んで用いられるという傾向もある[28]。
中世盛期
[編集]イングランドでは11世紀以降、グレゴリオ聖歌を中心としたローマ典礼とは違った、ソールズベリー大聖堂を中心としたセーラム典礼(ソールズベリー典礼)という独自の典礼様式があった[29]。これは、1549年編纂の『イングランド国教会祈祷書』(第一祈祷書)にも影響を与えた[30]。
1380年、ジョン・ウィクリフが聖書の英語訳を行い、また教義面でもローマ・カトリックに異を唱え、ロラード派と呼ばれる初期宗教改革運動が始まった。
宗教改革期
[編集]イングランド王ヘンリー8世の時代、国王の離婚問題やローマ教皇庁に対する献金などの問題からイングランドと教皇庁との対立が生じ、1534年、ヘンリー8世はイングランド王をイングランド全教会の首長とする「国王至上法」(首長令)を公布し、ローマ・カトリック教会からの独立を宣言した。しかし、この時点ではあくまでローマ・カトリックの教義・典礼を残したまま、国家単位での組織的な独立のみを図った。これがヨーロッパ大陸におけるルターやカルヴァンらの宗教改革との決定的な相違点である[31]。のちの時代にフランスで興ったガリカニスムに近い。
1547年、ヘンリー8世が崩御してエドワード6世の治世に入ると、カンタベリー大主教トマス・クランマーらの主導により、内容的にも独自の宗教改革が進められた。1553年、クランマーは、ルター派との話し合いから生まれた『42箇条』を作成した[32]。しかし、同年にメアリー1世が即位すると、ローマ・カトリックへの復帰を進め、『42箇条』は廃棄され、1556年にはクランマーも処刑された。1558年にエリザベス1世が即位すると、カンタベリー大主教マシュー・パーカーらの主導で再びプロテスタント的な改革が進められ、エリザベス1世は1559年に改めて国王至上法を採択し、1563年には『イングランド国教会の39箇条』を発布して、ローマ・カトリックと完全に決別した[33]。しかしエリザベス1世のもとでの改革は、ローマ・カトリックへの復帰も急進的なプロテスタント化(ピューリタン)も退ける穏健・中立的な方針であり、「ヴィア・メディア」というスローガンもこの頃に定まった。
その後も、チャールズ1世(在位:1625年 - 1649年)の代には、ローマ・カトリックに親和的な反動政策と、ピューリタン弾圧や、1567年以来カルヴァン主義の長老派教会が国教(スコットランド国教会)となっていたスコットランドに対してもイングランド国教会の支配を強要しようとしたなどの問題が契機となって清教徒革命が勃発するなど、英国の宗教事情はカトリック的な伝統維持とプロテスタント的な改革を行き来したが、大局的には「Via Media」の精神が貫かれた。
近世
[編集]1784年、アメリカ合衆国の独立に伴って米国聖公会が成立し、英国領土以外では初の独立した聖公会となった。1867年には第1回ランベス会議が開催され、「アングリカン・コミュニオン」という国際的教会連盟となっていった。
1833年にはイングランド国教会内において、オックスフォード運動と呼ばれる典礼および神学上の復古運動が始まり、カトリック的な伝統への回帰の動きが高まった。アングロ・カトリックとも呼ばれるいわゆるハイ・チャーチは、これ以降のイングランドおよび北米などの英国系移民社会を中心に盛んになり、それらの伝道的影響が強い東アジアなどにも波及した。また、宗教改革期に一度ほぼ廃止された修道院制度の復興も行われた。
他方、イングランド国教会の司祭であったジョン・ウェスレー(1703年 - 1791年)による、改革派プロテスタントの一派・アルミニウス主義に立脚したメソジスト運動が興され、メソジスト監督教会として聖公会から分離独立するなどの動きも出た。
近現代
[編集]世俗社会の近代化に呼応して、ローマ・カトリックが1960年代の第2バチカン公会議以降に推進した典礼改革は、聖公会とも相互に影響しあい、背面司式を対面司式に改める[注 9]、カトリック教会やルター派教会などと共通の祈祷文や聖書日課などの諸式を制定するなど、エキュメニズム(超教派融和指向)に立脚した様々な改革が行われた。
初期近代英語や文語体日本語などの古典的言語よる祈祷書等[注 10]を、内容改訂や現代口語に改めたり[注 11]、一部に現代語と現代的音楽様式による聖歌を作曲する[注 12]などの改革・編纂も進められている。
その一方で、それらの改革に対する賛否のほか、女性の聖職者を認めるか否かや、性的少数者・同性愛者に対する姿勢などの諸問題において、教会制度および社会的思想上の保守派と革新派の対立が生じ、アングリカン・コミュニオン内の軋轢[34]に留まらず、保守的なグループが聖公会継続派教会(分離聖公会)として独立するなど、根深い問題が生じている。(「カトリック教会との関係」の節も参照)
組織
[編集]アングリカン・コミュニオン
[編集]世界各地にある聖公会の諸教会の世界的連合を、アングリカン・コミュニオン(Anglican Communion)という。アングリカン・コミュニオンは原則的にイングランド国教会を母体とし、カンタベリー大主教の名誉的地位を認めるが、カンタベリー大主教には自管区以外の全聖公会に対する裁治権はない(詳細は「カンタベリー大主教」の節を参照)。聖公会の教会組織は、国や地域ごとに独立して自治を行う形態をとっている[35]。
分離聖公会
[編集]聖公会とは基本的にはアングリカン・コミュニオンに属する諸教会を意味するが、北米聖公会など、アングリカン・コミュニオンに属さない(多くの場合は既存の聖公会組織から分離独立した「分離聖公会」と呼ばれる教会)ものの、聖公会の流れを汲み、聖公会であることを自認する教派・教会も少数派ながら存在する。
系譜と名称
[編集]「アングリカン」という名称
[編集]「アングリカン」(英語: Anglican)という語は、イングランドのラテン語「アングリア(Anglia)」の形容詞形に由来する。英語の可算名詞としての「アングリカン」(an Anglican)は、「聖公会の信者」[注 13]という意味でも用いられる[36]。特に、複数形で「アングリカンズ」(the Anglicans)と言う場合は、集合的に聖公会の信者を指す言葉である。
旧英国植民地のほか、イングランド国教会からの伝道が中心となって聖公会が結成された多くの国/地域の聖公会では、英国に端を発した教会という意味で、「アングリカン・チャーチ・オブ・国/地域名」(聖公会が主流的でない国/地域においては、「アングリカン・チャーチ・イン・国/地域名」)という名称を用いる[37]。イングランド国教会も、英語での正式名称は「チャーチ・オブ・イングランド」であるが、それらの源流であるから当然「アングリカン・チャーチ」に含まれる。
ブリテン諸島の聖公会と「国教会」
[編集]イギリス連合王国(The United Kingdom)の構成体である各「カントリー」および、元構成国であったアイルランドにおける聖公会のうち、アイルランド、ウェールズ、スコットランドの聖公会は、イングランド国教会とは別の独立した組織になっている。イングランド国教会(Church of England)とアイルランド聖公会(Church of Ireland)は、「国教会」と訳される事例が多い「チャーチ・オブ・国名」という名称[注 14]を用いるが、これらを一概に国教会と訳すことには様々な点で問題がある。
イングランド国教会の管轄する地域は、文字通りイングランドのほか、マン島、チャンネル諸島と、ジブラルタルおよびその他のヨーロッパ諸国を管轄するヨーロッパ教区などを含むが、そのうち明確に「国教」とされるのはイングランドにおいてのみである。「英国」や「イギリス」はイギリス連合王国全体を意味する語でもあるため、「英国国教会」・「イギリス国教会」という訳語には語弊があり、さらには全世界の聖公会を指す意味合いでの「アングリカン・チャーチ」を「英国国教会」と訳すことは実態にそぐわない。
アイルランド聖公会は、連合王国から独立したアイルランド共和国と、現在も連合王国のカントリーとして留まる北アイルランドの両者を合わせたアイルランド島全体を管轄しており、特にアイルランド共和国ではカトリックが多数派であることもあって、アイルランド共和国の独立後は国教とされていない。
スコットランドの国教は長老派教会のスコットランド国教会(Church of Scotland)であり、スコットランド聖公会(Scottish Episcopal Church)は少数派である。
ウェールズ聖公会(Church in Wales)は1920年までイングランド国教会の一部であり、ウェールズの国教はイングランド国教会であった。教会の独立後はウェールズの国教と位置付けられていない。
エピスコパル・チャーチ
[編集]スコットランド、アメリカ合衆国など、いくつかの国・管区においては、「アングリカン」という名称に代えて、「監督派教会」または「監督教会」(エピスコパル・チャーチ:Episcopal Church/その信者は Episcopalian[38])という名称を用いる[39]。「エピスコパル(英語: episcopal)」とは、主教(カトリックでは司教、プロテスタント等では監督と和訳)を意味するギリシア語「エピスコポス(ἐπίσκοπος, epískopos)」の形容詞形に由来する語である。
スコットランド聖公会(Scottish Episcopal Church)が「監督派(エピスコパル)」と呼ばれる所以は、宗教改革期以降のスコットランドにおいては、カルヴァン主義に立脚し長老制を採用する英国系長老派教会の元祖であるスコットランド国教会が多数派かつ国教であるのに対して、また清教徒革命(イングランド内戦)の時にイングランド国教会派側と対立した長老派と会衆派教会(組合派・独立派)に対して、少数派ながらあくまで歴史的主教制(監督制)の維持を重んじるスコットランド聖公会が「監督派(エピスコパル)」と名乗ったため、そしてイングランドに由来する「アングリカン」という語をスコットランド独自のアイデンティティーのゆえに避けたことによる。
米国においては、アメリカ独立戦争に伴って旧宗主国である英国のイングランド国教会との関係が断たれ、聖職按手などをスコットランド聖公会の協力の下で行なったので、それに倣って米国聖公会(Episcopal Church in the U.S.A.)もエピスコパルと称したという経緯である。
聖公会の他にも、カトリック教会や東方教会は無論、プロテスタントにおいてもルター派やメソジストなど、教会政治において監督制を採用する教派は多数存在する。ことに、メソジスト監督教会(メソジスト・エピスコパル・チャーチ:Methodist Episcopal Church)とその系列の教会は、名称に「エピスコパル」という語を含み、時にはこれを指す略語として「監督派/エピスコパル」と呼ばれることもあるため、混同に注意を要する。
アングリカン・エピスコパル
[編集]イングランド国教会やカナダ聖公会(Anglican Church of Canada)など「アングリカン・チャーチ」と呼ばれる教会と、米国聖公会など「エピスコパル・チャーチ」を名称とする教会の双方から伝道を受けた地域の教会(日本聖公会など)は、双方の名称を合わせて「Anglican-Episcopal Church」と名乗る場合がある。あるいは、一部に「アングリカン」ではなく「エピスコパル」という名称を用いている全世界の諸聖公会を指す中立的・包括的な総称としても用いる場合がある。
「主教と三聖職位」の節において後述するように、聖公会は「歴史的主教制」(監督制)を根幹とするため、名称にかかわらず全て「エピスコパル・チャーチ」(直訳的には「主教の教会」)でもあるといえる。
例外的なアングリカン・コミュニオン加盟教会
[編集]特異な例としては、イングランド国教会にもスコットランド聖公会にもルーツを持たず、19世紀に復古カトリック教会の流れからローマ・カトリックと分離し、のちにアングリカン・コミュニオンの一員となった、スペイン改革監督教会、ポルトガルのルシタニア・カトリック使徒福音教会がある。
また、聖公会とプロテスタント諸教派の合同教会である北インド教会・南インド教会・パキスタン教会・バングラデシュ教会も、アングリカン・コミュニオンに正式に加盟している[40]。
国際会議
[編集]アングリカン・コミュニオンに加盟する世界の聖公会および、復古カトリック教会など聖公会と密接な交わりを持つ教会の代表主教が10年ごとに集まり、意見を交換するランベス会議が開催される。この会議には公会議と違って裁治権はなく、交流会・相互学習会的なものである。
また、1979年から、アングリカン・コミュニオンの自立した教会の首座主教[注 15]が、2, 3年に一度、神学的・社会的・国際的な課題を協議するために集まる全聖公会中央協議会(ACC)も行われている[6]。
地位と権威
[編集]主教と三聖職位
[編集]「歴史的主教制」を根幹とし、「エピスコパル・チャーチ」を自認する聖公会において、主教・ことに教区主教の地位は非常に重要視され、本来的には各個教会も全て教区主教の司牧責任下にあり、司祭は教区主教の一部権限を委任された代理人として、主教に派遣されて実際的に一個教会の司牧担任を預かり受ける者と捉える。よって、司祭・執事の按手式、聖堂の聖別(献堂式)、新任「牧師(㆒個教会の司牧担任者)」の着任式など多くの場面で、主教自身による式執行が不可欠である。
権限範囲の大きさとしては[主教>司祭>執事]の順である「三聖職位制」とはいっても、執事は司祭に従属する部下ではなく、主教によって直接に按手・叙任され、司祭と同様に主教の委任を受けた司牧補佐役という立ち位置である。
このような司牧責任者としての権限に加え、使徒の継承者たる信仰上の権威として、主教は教会において表敬(リスペクト)されるべき地位である。しかし、主教の権威に関する信認と表敬は、主教に叙せられた人物個人に対して、その人柄・カリスマ性や社会的地位に拠るものではなく、あくまで「使徒継承」という歴史的継承性に拠る霊性的地位に対するものであると捉え、個人崇拝に陥ることは厳に戒められる。
ことに現代では、主教といえども個人的・独断的な裁治権を振るえるわけではなく、教会会議の議長的立場を務めたり、互選された聖職・信徒の委員会で合議によって議決された事項に最終的な決裁を下し、主教の名において公示することなどの職務に留まるのが基本である。また、新たな主教被選者の選出や教区主教の選任も、主教会や教区委員らの合議によって慎重に指名される。つまり、いわば立憲君主制のような形態となっている。
カンタベリー大主教
[編集]イングランドにおける使徒継承の源泉とされるカンタベリー大主教は、ランベス会議の議長であり、アングリカン・コミュニオンに加盟する全聖公会において、全主教の中の名誉的な首席(ラテン語: Primus inter pares:「対等な者の中の第一位」の意)の地位を認められている。しかし、カンタベリー大主教の直接的な裁治権はあくまで「イングランド国教会の首座主教」かつ「カンタベリー管区の管区長」[注 16]という地位に限定され、ローマ教皇のような全世界の教会を統べる絶対的裁治者・信仰上の超越的権威という位置付けではない。
特定の国・地域や一定範囲の地域圏ごとに独立した組織(基本的には一教会管区で一個独立教会)を持つ各聖公会は、権限㆖全て対等な関係であり、各聖公会の首座主教[注 15]も権限㆖対等である。管区の中は教区に分かれ、教区主教が司牧する。各個教会や聖職・信徒個人の直接的な司牧責任者は教区主教であり、カンタベリー大主教も含めた首座主教は、名誉上の上位席次と、各教区・管区間の議長・調整役的地位に留まる。礼拝中に名を挙げて記念・表敬するのも、自教会を管轄する首座主教と教区主教、あるいは教区主教のみであり、イングランド国教会以外においては平常から特段の表敬を示すことはない。
英国王
[編集]イギリスの君主(英国王)は、イングランド国教会の成立を主導したヘンリー8世以来「信仰の擁護者」(羅: Fidei Defensor, 英: Defender of the Faith)という称号を受け継ぎ、イングランド王としてはイングランド国教会の首長(同時に、スコットランド王としては、長老派教会であるスコットランド国教会の首長)という地位にある。
絶対王政時代には、国王が国教会の教会政治や教義などに関してまでも干渉して実権を振るっていたが、教会の直接的な裁治権と宗教上の首席権威については、あくまで国教会の首座主教にある。そして、近代化に伴って英国王の位置付けが政治的に「君臨すれども統治せず」という立憲君主制(あるいは象徴君主制)へと移行したのと同様に、現代ではあくまで「国教会に所属する“信徒”の総代表者」という程度の立場に過ぎない。
こうした王権と教会の関係性を象徴する事柄として、英国王の(「イングランド王」としての)戴冠式は、イングランド国教会ロンドン教区のウエストミンスター寺院において、カンタベリー大主教により執行される[注 17]。一方、近現代における英国王は、カンタベリー大主教をはじめとする英国領域内の各聖公会に対する聖職叙任権を実権的にも儀礼的にも持たず、教会による選任に形式的な同意表名をするのみである。諸国の聖公会と同様に、実際の聖職按手式を自身の権威により執行できるのは、聖公会の各主教のみである。
また、イギリス本国の連合王国構成体および、「イギリス連邦(コモンウェルス・オブ・ネイションズ)」の一員として英国王をコモンウェルス首長と仰ぐ同君連合諸国以外の国・地域の聖公会においては、英国王に対する表敬を教会として公式に行うことは特段ない。
信者数
[編集]聖公会系の教会は、大英帝国の植民地の拡張に伴い、米国聖公会(米国における教会員はおよそ300万人である)、カナダ聖公会(信徒数は200万人を越えている)、オーストラリア聖公会 (オーストラリア全人口の約20%がこの教会に所属している)、ニュージーランド、南アフリカ等で信者を増やしていった。現在ではイギリス国外における信者の人数が、国内の信者の人数を上回っており、その大部分はアフリカで占められる[注 18]。
他教派との関係
[編集]エキュメニズム
[編集]「ヴィア・メディア」の精神の1つとして「多様性の中の一致(Unity in Diversity)」という精神もあることから、多くの聖公会はエキュメニズム(超教派融和)運動に対して積極的である[13][14]。アングリカン・コミュニオンとして世界教会協議会(WCC)に加盟している。日本聖公会は、日本キリスト教協議会(NCC)に加盟している。
日本においては、日本聖公会、日本福音ルーテル教会、カトリック教会の三者での合同礼拝も行われた[41]。
密接な交わりを持つ教会
[編集]1870年の第1バチカン公会議に異議を呈したのを契機としてローマ・カトリック教会から分離して、中道的な改革を進めて(ハイ・チャーチ寄りの)聖公会と近似した教義・様式を形成し、オランダ・ドイツなどの中欧圏を中心に分布する復古カトリック教会(ユトレヒト・ユニオンに加盟する教会に限る)や、同じような指向性でローマ・カトリック教会から分離したフィリピン独立教会という西方教会の2教派に加えて、非カルケドン派正教会に分類されるシリア正教会の流れを汲むインドの教会・トマス派の一部が19世紀後半の改革運動によって独立したマール・トマ・シリア教会と、フル・コミュニオン(完全相互聖餐)関係を結んでいる。
これらの教会は、相互に聖餐を受けることが歓迎される(単なる相互聖餐)関係のみならず、互いの教会組織の礼拝・諸儀礼に完全に参加でき、各教会におけるサクラメント(および「聖奠的諸式:サクラメンタル・ライツ」)が相互に完全に有効とされるほか、相互の教理と信仰的立場に共通性を認め合い、聖職者が互いの教会で全面的に活動することもできるほどの深い関係性であり、毎回のランベス会議にも参加するなど、いわばアングリカン・コミュニオンの準加盟教会のような、極めて密接な交流関係にある[40]。
プロテスタント諸教派との関係
[編集]ルター派教会との関係
[編集]プロテスタント諸教派の中では、様式面や成立の経緯などの点において、ルター派教会・ことに北欧(スカンディナヴィア)諸国のルター派教会との共通点が最も多く、1994年から2010年にかけて、ヨーロッパの諸聖公会(ブリテン諸島およびスペイン・ポルトガル)と、ノルウェー国教会・スウェーデン国教会など北欧・バルト諸国のルター派教会とで、相互聖餐および互いの使徒継承性を認め合う合意(ポルヴォー・コミュニオン)がなされている。
メソジスト教会との関係
[編集]メソジスト教会はその成立の経緯から、元々忠実な聖公会司祭であったジョン・ウェスレーによって、聖公会内部でのムーブメントとして開始されたこともあって、聖公会との共通点・類似点がある。ことに、独立当初からの監督制と聖公会に由来する一部の教義・様式的特徴を維持する伝統的指向性が高いメソジスト監督教会系列の教会とは、親和性が高い傾向がある。
米国においては、メソジスト監督教会を主な前身とする合同メソジスト教会と米国聖公会との対話が半世紀にわたって行われており、両者の間でフル・コミュニオン関係の構築を目指して準備が進められている[42]。
カトリック教会との関係
[編集]ローマ・カトリックとの対話
[編集]「近現代」の節で触れたように、1960年代以降、カトリック教会(ローマ・カトリック)と聖公会は近代化とエキュメニズム運動の流れで相互に歩み寄り、歩調を合わせた教会改革や、和解・融和と交流深化を模索する対話を進めてきた。
「カトリック性」に関する認識
[編集]「教義・様式」や「歴史」の節などで前述したように、聖公会は「使徒継承」という宗教改革以前からの霊性的連続性と、「公同の教会」であることを主張し、自らの「カトリック性」を自認する。近世の聖公会において始まったオックスフォード運動以降はカトリック的な要素への回帰の動きが進み、ことに「ハイ・チャーチ」の潮流においてはその傾向を強く示し、「アングロ・カトリック」とも称されるように、カトリシズムを強く自認する。
ローマ・カトリック側からの認識としては、公同の教会という意味では聖公会のカトリック性について一定の理解を示すが、聖公会の使徒継承性については従来否認的で、宗教改革の時代にローマ教皇庁の裁治権を否認しローマ・カトリックとの交わりを絶った時点で、聖公会の使徒継承性は途切れたものと見なされてきた。教皇首位説に則ると、ローマ教皇の承認なく聖職者を叙階(按手・叙任)するのは禁止とされるためである。
近年、相互の対話と歩み寄りが進む中で、従前の英国におけるカトリックの聖職・信徒と教会機構が国家単位で独立・鞍替えして聖公会が成立したという経緯、すなわち初期の聖公会主教/司祭の多くは元々カトリックの司教/司祭であったという継続性を鑑みて、教皇の承認なき叙階が「教会法上は禁止事項」であっても、「サクラメントとして霊性性に無効」とまで全否定はしがたいという認識も示されつつある。しかし、ローマ教皇庁の裁治権に服していないことの他、カトリックが信認を不可欠とする幾つかの教義に関して同意していない(「プロテスタント的な側面」の節を参照)ことから、聖公会のカトリック性および使徒継承性は依然として「完全ではない」という見解が示されている。
カトリック司祭ホセ・ヨンパルトの著作によれば、「(聖公会自身は)ローマ教皇の教権と統治に逆らった点でプロテスタントであるが、使徒継承の信仰と伝統を護持する点でカトリック教会である」と述べている。狭義のプロテスタントに比べるとカトリック教会に近いという[43]。
カトリックとの間に残る問題
[編集]ローマ・カトリックとの関係改善を相互に模索する動きの一方で、現代の聖公会の中には、一連の近代主義的改革に反対する保守的な聖職者や信徒がカトリックに集団改宗するなどの問題も起きている。カトリック側も、聖公会からの改宗者のグループには、専用に編纂した聖公会的典礼様式を認めたり、従前の聖職位を改宗後も継続追認するなど、改宗を積極的に誘致する姿勢を示しており、メインラインの聖公会には、そうしたカトリック教会の動向に対する懸念や反感も生じつつある。(詳細は「エキュメニズム#失敗・分裂」を参照)
逆に、カトリックが多数派であるアイルランドなどでは、カトリック教会の信徒や聖職者が聖公会へと転会する事例も増えつつある。一般信徒レベルでの一因としては、離婚・再婚など社会生活上の多岐にわたる教会法および慣習的な制約が多いカトリックから、何らかの支障を契機として比較的自由度の高い聖公会へと転会するといった事由もある(詳細は「アイルランド聖公会#構成員」を参照)。また、古くは19世紀頃、現代よりも保守的であったカトリック教会から独立した改革的なグループが、のちにアングリカン・コミュニオンに加盟したり(#例外的なアングリカン・コミュニオン加盟教会)、密接な交流関係を持つようになった例もある。
正教会・東方諸教会との関係
[編集]東方正教会(ギリシャ正教/Eastern Orthodox Church)、ことにロシア正教会とは、神学上・教会法上の一定の親和性があったことと、ロシア帝国のロマノフ朝とイギリス連合王国のハノーヴァー朝が親戚関係にあったことなどから、正教会との関係深化や神学的交流のための対話は、19世紀頃からロシア革命まで行われていた[注 19]。ただし現在では正教会と聖公会との関係は、特別に深いものではなくなっている。
2014年に始まったウクライナ紛争をきっかけに決定的となった、「モスクワとコンスタンティノープルの断交」と呼ばれる諸正教会の対立激化に伴い、西側諸国の聖公会はロシア正教会(モスクワ総主教庁)およびその影響が強い諸正教会とは疎遠傾向になり、コンスタンティノープル総主教庁とその影響が強いウクライナ正教会 (OCU)[注 20]などの諸正教会に対する連帯的な姿勢を取るようになった[45][46]。
一方、イスラエル・パレスチナ問題に関しては、エルサレム・中東聖公会がパレスチナ人(アラブ系住民)の信者を多く抱えていることもあり、パレスチナ側に連帯的な姿勢を取る傾向がある[47][48][49][50]。中東・パレスチナのキリスト教は伝統的に正教会や東方諸教会の勢力が強いため、エルサレム・中東聖公会はそれらと協力的な関係をもって「聖地」と信仰・民族性を守る努力をしている。
現在イギリス国内で唯一の自主独立した東方教会組織である「英国正教会」は、コプト正教会[注 21]の流れを汲み、エジプトがかつて英国の保護国であった経緯によって設立され、今もイングランド国教会との関わりが深い。
また、西方教会に分類される教派にあって、東方教会の系譜に連なるマール・トマ・シリア教会がアングリカン・コミュニオンの準加盟教会のような親密な交流関係にあることは、かなりの規模と知名度を持つ東方典礼カトリック教会の事例がある以外では稀有な、特筆すべき点である。
現代の日本聖公会においては、在日本ウクライナ正教会[注 20]や、日本コプト正教会[注 21]の礼拝(奉神礼、聖体礼儀)に、自らの聖堂を貸し出すことが行われている[51][52]。
系統概略図
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 当記事では基本的に、東方典礼カトリック教会を含まない、ローマ教皇庁に直属する西方教会としての、狭義のカトリック教会(ローマ・カトリック)を指す。
- ^ 一部にはアングリカン・コミュニオンに属さない聖公会(#分離聖公会)も存在するが、当記事では基本的に、アングリカン・コミュニオンに属する諸教会について記述する。
- ^ なお中国語では、教派としての諸聖公会を包括的に指す名称としては「聖公宗」という。
- ^ ギリシア語: Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ/η αλήθεια ελευθερώσει υμάς/古典式再建音: ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース/中世・現代音: イ アリーシア エレフセロースィ イマース(ギリシア語聖書/欽定訳聖書(英語)/文語訳聖書)
- ^ 日本聖公会の『古今聖歌集』には、グレゴリオ聖歌「天使ミサ」(De Angelis:デ・アンジェリス)および「クレド3」に由来する聖餐式の唱詠がある[15]。
- ^ ただし、新型コロナウイルス感染症の世界的流行 (2019年-)以降は、防疫上、皆で1つの杯から口を付けてぶどう酒を飲む従来の陪餐形式を改め、パンのみの一種陪餐、あるいはパンを杯の中のぶどう酒に少しだけ浸けてから食べるインティンクション形式とする事例も増えた。
- ^ 第7回目の第2ニカイア公会議を認めるか否かは、聖公会内でも見解が分かれる[21][22]。
- ^ アングリカン・チャントの一例:“YouTube: Five hours of glorious Psalms (Anglican chant) - Guildford Cathedral Choir (Barry Rose)”. 2021年9月12日閲覧。
- ^ 「背面司式」は、司式者(司祭・主教)が礼拝中の多くの場面で、聖堂奥の祭壇側を向き、手前の会衆席側に背を向けて祈る方式。「対面司式」はその逆で、祭壇と会衆席の間に「聖卓」と呼ばれるテーブルを置き、司式者は聖卓の前で、祭壇を背にしてほぼ常に会衆と向き合って礼拝を執り行う方式。
- ^ 英語の1662年版『聖公会祈祷書』(Book of Common Prayer)、『欽定訳聖書』(King James Version)/日本聖公会の『日本聖公会祈祷書』1959年版までの各版、『古今聖歌集』(1902年)等。
- ^ イングランド国教会の『Common Worship』(2000年)/日本聖公会の『日本聖公会祈祷書』1990年版、『改訂共通聖書日課』(1969年)等。
- ^ 『日本聖公会聖歌集』(2000年)等。
- ^ 聖公会やカトリック教会等において「信者」とは、「聖職(聖職者)」と「信徒(平信徒)」の双方を包括する語である。
- ^ 聖公会の他には、北欧諸国のルター派教会、例えばスウェーデン国教会(スウェーデン語: Svenska kyrkan, 英語: Church of Sweden)などを「国教会」と訳す事例がある。
- ^ a b 首座主教-英語: “Primate”/スコットランド聖公会・米国聖公会等では“Presiding Bishop:総裁主教”という語が用いられるが、地位は同等。
- ^ イングランド国教会には、カンタベリー管区と並んでヨーク管区があり、その管区長であるヨーク大主教はイングランド国教会における次席の地位とされる。
- ^ 【参考資料(YouTube動画)】ウエストミンスター寺院での英国王チャールズ3世戴冠式の映像。
- ^ スコットランド聖公会、2016年での教会会員は3万1656人。日本聖公会、信者数はおよそ5万8千人。フィリピン聖公会、信徒数は推定12万5千人。東南アジア聖公会、信徒数は約9万8千人。北インド教会は北インドで、聖公会、長老派教会、会衆派教会、メソジスト教会などが合併してできた、キリスト教プロテスタントの信徒が多く参加する合同教会、信徒数は150万人。南インド教会は長老派教会、オランダ改革派教会、会衆派教会、メソジスト教会、聖公会が合併してできた、信徒数は380万人である。エルサレム・中東聖公会、信者数は3万5千人である。
- ^ 近代に復興されたアングリカン・ロザリー(アングリカン・プレイヤー・ビーズ:w:Anglican prayer beads)と呼ばれるロザリオの一種は、正教会のコンボスキニオンの一部と同様に、33歳で受難したと伝わるイエス・キリストの生涯を表す33珠である[44]。また、近代ロシア聖歌はホモフォニック・シラビックな和声聖歌であり、アングリカン・チャントに類似する。一例:“YouTube: Spasi, Gospodi, Iyudi Tvoya (O Lord, Save Thy People)”. 2021年9月12日閲覧。
- ^ a b “Orthodox Church of Ukraine” (OCU) - コンスタンティノープル総主教庁との一致にあり、モスクワ総主教庁系統と対立関係にある、ウクライナ自主独立派の教会。
- ^ a b 非カルケドン派正教会に分類され、エジプトのアレクサンドリア総主教庁を首座とする教派。エチオピア正教会なども近代にコプト正教会から独立した。
出典
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参考書籍
[編集]- 『日本聖公会祈祷書』《1990年版》日本聖公会管区事務所、1991年。
- 『日本聖公会 聖歌集』日本聖公会管区事務所、2006年。
- 西原廉太『聖公会が大切にしてきたもの』教文館、2016年。ISBN 978-4-7642-6125-9。(初版:聖公会出版、2012年。ISBN 978-4-88274-211-1)
- 竹内謙太郎『教会に聞く―日本聖公会の教会問答を読み解く』はるかぜ書房・みつば舎、2018年。ISBN 978-4-9908508-3-8 。
- マーク・チャップマン 著、岩城聰 訳『聖公会物語―英国国教会から世界へ』かんよう出版、2013年。ISBN 978-4-906902-20-0。
- B・D・タッカー 著、赤井勝哉 訳『道をたずねて―祈祷書に基づいたカテキズム』聖公会出版、1994年。ISBN 4-88274-083-4。
外部リンク
[編集]- “Anglican Communion Home Page”. 2021年9月12日閲覧。
- “日本聖公会”. 2021年9月12日閲覧。
- “聖公会用語集:英日&日英”. 2021年9月12日閲覧。
- 英国聖公会の39箇条(聖公会大綱) - ウェイバックマシン(2008年1月21日アーカイブ分)
- 聖公会という教会 - ウェイバックマシン(2016年3月4日アーカイブ分)(日本聖公会東北教区主教 加藤博道)
- “["https://www.youtube.com/watch?v=BqgmLx4Q2LU" 【YouTube動画】ウエストミンスター寺院でのチャールズ3世戴冠式の映像|Watch Charles III's coronation at Westminster Abbey]”. WTVR CBS 6 (2023年5月7日). 2024年7月11日閲覧。
関連項目
[編集]- キリスト教諸教派の一覧
- アングリカン・コミュニオン
- イングランド国教会(英国聖公会)
- 日本聖公会
- デズモンド・ムピロ・ツツ - 南部アフリカ聖公会の大主教、ノーベル平和賞受賞者