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城ヶ島(じょうがしま)は、神奈川県三浦半島の南端に位置する島。
周囲長約4 km、面積0.99 km²で、神奈川県最大の自然島である。東西幅約1.8 km、南北幅約0.6kmと東西に細長い菱形の地形であり、東西南北にそれぞれ安房ヶ崎(東)、長津呂崎(西)、赤羽根崎(南)、遊ヶ崎(北)という岬がある。長津呂崎には城ヶ島灯台、安房ヶ崎には安房埼灯台が建つ。安房ヶ崎は神奈川県の最南端でもある(北緯 35゜ 7'32)。行政区分は三浦市で、220世帯604人が暮らす(2005年10月1日現在)。
風光明媚な三浦半島の情景を凝縮したような景観で、鎌倉時代からの景勝地である。漁業、軍事、交通、文学に深く関わってきた多面的な歴史を持っており、大正時代に北原白秋の『城ヶ島の雨』(後述)が評判を呼ぶと、ロマンの島として全国に名を知られるようになった。大正末期から終戦までは東京湾要塞の一部として砲台が存在した。現在は磯釣、磯遊びに適する行楽地として知られる他、三崎と共に海を囲み、遠洋漁業基地三崎漁港の一角を成す。
三崎との距離が約500mと近く、歴史的にも三浦三崎の一部と言える存在である。かつては三崎仲崎岸壁より出ていた渡し舟が唯一の渡島手段であったが、1960年に城ヶ島大橋が開通すると三崎との一体化は一層進行した。
古代には「尉が島」「尉ヶ嶋」等と称されており、「城ヶ島」と呼ばれるようになったのは中世以降である。 「城ヶ島」となった由来・時期は諸説あり、
- 「尉」という者が住んでいたので尉ヶ嶋と呼ばれていたものを源頼朝が「城ヶ島」に改めた(『三浦郡神社寺院民家並古城旧跡 』)
- 戦国時代に房総の里見義弘がこの島に砦を築いた頃に「城ヶ島」と呼ぶようになった(村井玄斎『桜の御所』)
などがある。 後者は明治時代の観光パンフレット「相州三浦半嶋案内」でも紹介されており、かつては多くの人が島名の由来を知っていたと思われるが、現在では地元でも知る人が少ない。
尚、しばしば伊豆の城ヶ崎と混同されるが、三浦三崎周辺に城ヶ崎という地名は存在しない。
地理
[編集]気候
[編集]黒潮の影響で冬でも温暖な太平洋岸気候であるが、海からの風が常に吹いている。 暴風時には太平洋岸は非常に激しい海象となり、人を全く寄せ付けなくなる。翻って三崎側の海面は本島が天然の防波堤として機能するため、比較的穏やかである。このことが三崎漁港を古来から避難港、風待港として天然の良港たらしめている。
地質
[編集]島の東西で岩質が異なり、東部は初声層(約400~300万年前に堆積したスコリアと軽石質砂礫からなる凝灰岩)、西部は三崎層(約1200~4000万年前に堆積した凝灰質シルトとスコリア質凝灰岩の互層)から成り、島のほぼ中央に断層が通る。褶曲等の地質学的に貴重な露頭が多く、コツコツと岩を叩く地質学者や学生の姿がよく見られる。GUPI(NPO)地質情報整備・活用機構による『日本の地質百選』にも選ばれている。
地形
[編集]標高30m程の平坦な台地が大部分を占め、沿岸部で急激に海に落ち込んでいる。海岸は島の東西端部に岩礁地帯が広がり、所々に砂浜がある。太平洋側の赤羽根崎より東側は険しい海食崖が発達している。元来、沿岸部に平坦な場所が殆どない地形である。
土地利用
[編集]北岸と南岸では全く異なる土地利用がなされている。
北岸
[編集]三崎漁港に面し、ひなびた漁港風景が広がる。遊ヶ崎(城ヶ島大橋の下)より東側は研究所、造船所、マリーナなどの比較的規模の大きい施設がある。西側は住民の生活の場である。西端の城ヶ島灯台周辺は土産物店が軒を連ねる観光中心地になっており、京浜急行電鉄グループによってホテル、バス停留所(起終点)、油壺へ向かう観光船発着場などが整備されている。
かつての北岸には、遊ヶ崎、酔女ヶ浜などの砂浜があった。特に遊ヶ崎は現在の白秋碑苑付近から大駐車場まで砂浜が広がり、源頼朝が笠懸を行ったと伝わるほどの広さがあった。大正時代までは遊ヶ崎海水浴場として大いに賑わっていたが、1923年9月1日の関東大震災による異常隆起で砂中の岩が露出し、客足が遠のいてしまった。その後、城ヶ島砲台の設置が決まり、遊興地としての佇まいは失われた。 戦後、急激な復興を遂げた三崎漁港の施設用地不足解消のため、県営埋め立てが始まった。埋め立てには三崎漁港の浚渫土砂が使われ、西側(現在の観光船発着場付近)から3つの地区に分けて行われた。途中、城ヶ島大橋の架橋後に東側海域も埋め立てられ、蛇島などの景勝が消滅した。現在では島面積の19%が埋立地となり、北岸の自然海岸は遊ヶ崎の白秋碑苑付近、水っ垂れ~安房ヶ崎間、西端の楫の三郎山周辺にわずかに残るのみである。 結果、現在の北岸は古来の面影を全くと言って良いほど残していないが、戦前から広く知られた景勝地のため、当時の絵葉書などに多くの写真が残されている。それらを見ると、城ヶ島と三崎との距離は現在よりも遥かに遠く、松の生えた奇岩に波が砕け、白砂青松を絵に描いたような景色であったことを窺い知ることができる。また、江戸時代の絵画にもよく登場しており、1812年に浦賀の加藤山寿が著した『三浦古尋録』などに当時を偲ばせる絵図が残っている。
南岸
[編集]太平洋に面し、沖合に伊豆大島を望む。自然がそのまま残されており、人工物とは縁の無い世界である。自動車も近づけないため、船の航行音以外に人工音は聞こえない。東西を結ぶハイキングコースが整備されている。
赤羽根崎より東側は海食崖が発達し、人は容易に近づけない。このため、ウミウ、ヒメウ、クロサギの繁殖地となっており、神奈川県の指定天然記念物となっている。この繁殖地は城ヶ島公園から崖上を通って灯台に至る道中から望むことができる。 城ヶ島公園内から海辺に降りることもできるが、かなり険しい道である。また、海岸も波食棚が発達していて歩きにくく、ハイヒール等では危険である。
赤羽根崎より西側は砂浜と広大な岩礁地帯(隆起海食台地)があり、典型的な海岸段丘を形成している。岩場としては比較的なだらかで、西へ進むと城ヶ島灯台に出る。
南岸は普段は静かなため、夏場にはキャンプをする人が多い。しかし、外海に直接面しているため、暴風時には岩場よりも高い波が押し寄せる強烈な海象となる。また、遠方で津波が発生した場合、島に近づくにつれ急に波高を増して襲ってくるが、背後に急峻な崖が迫った逃げ場のない場所であることを忘れてはならない。
植生
[編集]樹木は北岸に集中して生えている。海風が強いため、南岸の崖には樹木が殆ど生えておらず、島の台地上の樹木は北側に傾いて生える。 スイセン、ハマユウ、ハマナデシコ、ハマゴウ、イソギク、アシタバ等の海浜植物が自生する。 台地上には人の背丈を遥かに越えるハチジョウススキが密生しており、眺望が効く場所は限られる。
産業
[編集]漁業
[編集]遊ヶ崎に弥生時代の遺跡があり、食料調達としての漁はその頃から行われていたと考えるべきであろう。 商いとしての漁業は江戸時代、江戸の発展に呼応するように始まった。夏には海士と呼ばれる男達が裸潜水漁でアワビ、サザエ等を採取し、冬には覗突漁(舫丁)で魚を突いた。併せて小規模な網漁(磯立網、七目網など)も行われ、1649年には海老網漁が始まっている。また、鰹などの回遊魚も出荷していた。水揚げされた魚介は当時の快速艇である押送り舟(おしょくり)で江戸に運ばれた。1781年には城ヶ島の戸数68の内、1軒が商家の他は全て漁師であったと伝わっており、漁業は正に城ヶ島の生業であった。明治時代にはサンマの流し網漁を相模湾で行うようになった。
現在、対岸の三崎と共に遠洋漁業基地の一角を成しているが、島を拠点とする漁業は刺し網、採貝、採藻などの沿岸漁業が中心である。特にアワビは『新かながわの名産100選』に選ばれている[1]。 また、神奈川県水産技術センターでは、水産資源の研究が大規模に行われている。
観光
[編集]観光地としての歴史は古く、鎌倉時代に源頼朝が度々訪れ、酔女ヶ浜、遊ヶ崎、水っ垂れなどに由来を残しており、数千株の桜を植えたと伝わる(今はない)。戦国時代には北条氏康親子が桜見物に訪れ、3日間滞在した記録がある。
現在でも島自体が地元の重要な観光資源である。三浦市の統計によれば、昭和30年代以降に三浦市域に来訪した観光客の30%弱は城ヶ島に来訪している。1956年の来島客数は約27万人であったが、1960年に城ヶ島大橋が開通すると約147万人と5倍以上に増加した。現在までの最盛期は1970年~1971年(昭和45~46年)で、年間200万人以上の観光客が訪れ、京急が快速特急「城ヶ島・マリンパーク号」「城ヶ島号」などの臨時列車を運行したほどであった。オイルショック後に観光客数は急減、京急三崎口駅開業や横浜横須賀道路開通などで歯止めが掛かったものの、1970年代後半~80年代は増減が激しく、他の観光地との競争激化、レジャーの多様化の影響が窺える。平成以降は緩やかな減少を続けているが、三浦市域における観光集客力では突出しており、中心的存在であることに変わりはない。
文学
[編集]北原白秋
[編集]詩人北原白秋は、1910年に三崎を初訪、紆余曲折の後の1913年、城ヶ島遊ヶ崎対岸の三崎町向ヶ崎(むこうがさき)にあった異人館に翌年まで住んでいた。 三崎居住期にも詩歌をノートに書き溜めており(三崎ノート)、その成果は1915年に歌集『雲母集(きらら集)』として発表している。
白秋は三浦三崎、そして城ヶ島を生涯愛した。 1937年には三崎小学校、三崎実科高等女学校(後の県立三崎高等学校、2004年廃校)の校歌を作詞している。 また、白秋が生前に歌碑建立を許したのは城ヶ島と三崎の見桃寺のみと言われる。 特に、1941年11月2日に行われた見桃寺の歌碑は、除幕式に白秋本人が参列した唯一のものである。
『城ヶ島の雨』
[編集]雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる
雨は眞珠か 夜明の霧か それともわたしの忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを 濡れて帆あげたぬしの舟
ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
雨はふるふる 日はうす曇る 舟はゆくゆく 帆がかすむ
『城ヶ島の雨』は、白秋が三崎滞在中の1913年に演出家島村抱月の依頼で作られた。島村は自身の主宰する芸術座の音楽会で発表するオリジナル曲のために白秋に作詞を依頼、作詞後すぐに梁田貞によって曲が付けられ、1913年10月30日、東京有楽座にて梁田自身の独唱(ピアノ:松平信博)で発表された。附曲された白秋の詩としては第一号である。 城ヶ島や三崎の風情を詠っており、奥田良三が吹き込んだレコードが全国的にヒットすると、城ヶ島はロマンの島として全国に知られることとなり、憧れを抱いた若い男女が大勢来訪した。 後年、山田耕作も曲を付けており、1959年には同名の映画も作られた。現在でも大正ロマンの名曲として親しまれている。
歌碑
[編集]『城ヶ島の雨』の歌碑は白秋存命中より建立が望まれていたが、島が要塞地帯であったため、戦後の1949年になってようやく実現した。 歌碑は城ヶ島北岸中央の遊ヶ崎に白秋が望んだ帆形の根府川石を用いて建立され、刻まれた草書は白秋の自筆である(歌碑裏側に「昭和16年7月 白秋先生揮毫」とある)。 建立時、既に白秋は没していたが、除幕式には作曲者梁田貞が出席した。
その後、歌碑は城ヶ島大橋の建設に伴って西側に移動されて現在に至る。 遊ヶ崎は城ヶ島大橋の真下となっているが、白秋碑苑として整備され、白秋記念館が建つ。 同記念館に備え付けられたノートには、遠方から来訪した人たちの書き込みもある。 城ヶ島の趣は当時とは大きく変わったが、当時を知る人たちにはこの歌に強い思い入れを抱き続けている人が少なくないことを窺わせる。
歌った歌手の例
[編集](順不同)
灯台
[編集]城ヶ島には2つの灯台がある。東京湾の入口に位置するため歴史は古く、1648年(慶安元)に島東端の安房ヶ崎に設置された烽火台(のろし台)が起源とされる。
城ヶ島灯台
[編集]島西端の長津呂崎の根元、標高約30m の崖上に建つ灯台。
江戸時代に現在地(西山)に設置された灯明台が直接のルーツである。これは前述の安房ヶ崎の烽火台を移設したもので、後に松明を焚く篝火(篝屋)に変更された。城ヶ島を描いた江戸期の絵画で姿を偲ぶことができる。幕末に西洋式灯台の建設が計画され、1870年(明治3)に初点灯した。日本の西洋式灯台では5番目で、最も古い時代に設置された灯台の1つ。当初の灯台は関東大震災で倒壊し、現在の灯台は1927年に再建された2代目である。戦前、城ヶ島付近で軍事演習が行われる際には明弧の制限も行われた。
詳細は城ヶ島灯台の項を参照のこと。
安房埼灯台
[編集]島東端の安房ヶ崎にある灯台。標高数m の岩場に建つ。
烽火台が島西端に移動された後、安房ヶ崎には長らく灯台のない時代が続いた。しかし、当地周辺も遠浅の岩礁地帯であり、通航に危険を伴うことに違いがなかったため、地元の陳情を受けて1962年にようやく灯台が設置された。
塔体中央にくびれを持ち、灯台らしい姿の城ヶ島灯台とは大きく異なる印象を受ける。海面に近い岩場に建つため、常に波飛沫を受けている。
- 初点:1962年
- 構造:塔形(円形)コンクリート造
- 灯塔高:11.5 m
- 標高:13 m
- 光度:2,000 cd
- 光達距離:約19 km
- 灯質:単閃白光(4秒に1閃光)
- 管理:第三管区海上保安本部 城ヶ島航路標識事務所
海防・軍事
[編集]三浦水軍・北条水軍
[編集]鎌倉時代、三浦半島一帯は三浦氏の支配下にあり、城ヶ島はその水軍(三浦水軍)の本拠地であった。
戦国時代、三浦氏は一度は滅亡するも相模三浦氏として再興していたが、1516年に北条早雲によって新井城、三崎城が落城、滅亡した。 この時、亀崎、鈴木、下里、三富、出口を名乗る者を中心とする残党が城ヶ島に立て篭もって抵抗した。 彼らは三崎の船を全て城ヶ島に持ち去ったため、責めあぐねた早雲は建長寺、円覚寺の両和尚に調停を頼んでようやく講和したという(『北条五代記』)。 この残党は「三崎十人衆」と呼ばれ(『小田原衆所領役帳』)、北条氏の下で里見水軍の侵攻をよく防いだとされる。 彼らの苗字は現在も三崎に残っている。
北条氏の支配下では、梶原景宗率いる北条水軍が房総半島の安房里見氏と対峙した。 里見水軍はしばしば城ヶ島周辺を来襲していたが、1562年に城ヶ島に上陸すると、北条軍は三崎城に陣を構えて海戦となった(三崎三浦海戦)。 現在、島にこれらの遺構は残っていないが、城ヶ島から三崎を望んだ際に見える高台が三崎城跡である。[1]。
幕末の砲台
[編集]江戸時代末期に外国船が頻繁に訪れるようになると、東京湾(江戸湾)の入口に位置する城ヶ島は海防の要所として重要視されることとなった。 1808年に浦賀奉行岩本正倫が砲台を築いたのを皮切りに、1810年に幕府より相模海防役を命じられた会津藩主松平容衆は、城ヶ島に遠見番所を設置したり、安房ヶ崎にて大砲発射演習を行うなどの活動を行った。 1821年に会津藩に代わって川越藩が相模海防役に就くと、城ヶ島砲台は浦賀奉行の所管となった。 米国ペリー艦隊は横須賀の浦賀に来航、久里浜に上陸したが、来訪を真っ先に知らせたのは松輪沖で漁をしていた城ヶ島の漁師であったと伝えられている。 また、1854年には三崎の名主吉兵衛が城ヶ島沖に異国船2隻を発見、上宮田の海防陣屋に報告している。
要塞化
[編集]明治に入り、大日本帝国海軍は1894年に臨時東京湾守備隊司令部(東京湾要塞司令部の前身)を設置し、三崎に監視哨を置いた。 1898年、勅令第百七十六号「要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件」が公布され、次いで1899年に軍機保護法、要塞地帯法が成立する。これによって城ヶ島を含む三浦半島全域が要塞地帯に指定され、三浦半島の観光ガイドブック『三浦大観』が発禁処分になるなど、観光地としての城ヶ島は大打撃を受けた。 1905年、日露戦争の最中、海軍は城ヶ島に望楼を設置した。当時、海軍はバルチック艦隊が対馬海峡を通るか、太平洋を抜けて津軽海峡を通るかの進路予測に苦慮しており、この一環であったと思われる[2]。
城ヶ島砲台
[編集]東京湾要塞の一部として島東部の台地上に設置された沿岸砲台(三崎第3区砲台)。艦砲を転用した砲塔砲台で、1945年の終戦まで存在した。
建設当時、三崎地区には既に三崎砲台(1921年竣工)が築かれていたが、関東大震災で損壊した。1924年、参謀本部は東京湾要塞復旧建設要領を策定し、ここに城ヶ島砲台の新設が決定した(三崎砲台の修繕、剱崎砲台の新設も同時決定)。1924年10月12日に工事着手し [3]、 1927年4月2日付で竣工が報告された [4]。
設置砲は45口径25cm連装砲塔2基、弾量235kg、最大射程距離24600mというもので、1923年のワシントン海軍軍縮条約調印で除籍された戦艦安芸 (薩摩級)の舷側主砲塔が転用された。砲塔・砲身は迷彩塗装が施され、演習用の照準器も備えられた。照準装置にはアナログコンピュータを用いた八八式海岸射撃具が設置され、2基の砲塔には電線が通された。この電線は、小網代の高山観測所まで引かれた埋設電線を当地より空中に架線し、現在の県道松輪入口交差点付近~岩堂山(ここで一部が剣崎砲台へ分岐)~宮川~向ヶ崎を経て田中(窪ガリ付近)の海底線室から海底を通り、城ヶ島の養老子(現在の新潟造船正門付近)の海底線室から再び埋設線となって安房ヶ崎を経て各砲塔に配された [5] [6]。 東西南の3方向を海に囲まれた地の利から、千葉県鋸南町付近から鎌倉市由比ヶ浜付近に達する広い射界を有した。 試験射撃では南方向へ発砲したようである [7]。
竣工後も、砲塔を航空機から隠蔽する偽装屋根、偽装家屋、弾薬庫、観測所などが逐次増築された [8]。 また、井戸を特殊な掘削技術を要する掘抜式の深井戸としたため、その工事は陸軍工兵学校に委託された [9]。 太平洋戦争中には島中央部に野砲陣地や高角砲陣地(未完成)、洞窟陣地も増設されている。 この砲台の存在により、三崎の住民は城ヶ島を眺めていると官憲に注意されたという。
しかし、城ヶ島砲台は第2砲台の傾斜が徐々に進行するという、砲台としては致命的な欠陥を抱えていた。この問題は竣工8ヶ月後の1927年12月6日、第2砲台の傾斜が火砲履歴規則の「許シ得ヘキ限界」に近づきつつあるとして陸軍兵器本廠長より陸軍大臣に報告された。竣工後の報告にも関わらず「基礎鉄部据付後逐次傾斜しつつあり~」とあり、少なくとも実務レベルでは傾斜の進行を竣工前から認知していた節がある[10]。翌7日には築城部本部長より砲台の沈下量、付近の土地の移動量、対岸(三崎)に対する城ヶ島の沈下量を毎日測定する暫定処置を取ったことが報告されており、大騒ぎとなったことが窺える。傾斜はその後も増大し、1928年10月4日、傾斜量が遂に規定を超過したことが陸軍兵器本廠長によって報告された[11]。 その後も幾度となく状況が報告されたが、1940年3月の報告でも「操砲に支障なし」とされており、最後まで解決できなかったようである。この報告における原因考察では、「軟弱地盤に起因するならば観察可能なはずの諸現象(各部の傾斜角度から発生が推測されるコンクリートのひび割れ等)が見られないことから地耐力は充分であり、不等沈下を来すことは絶対にない」とした上で、主因については「関東地震による異常隆起の後、城ヶ島の局部的な沈降が徐々に進行、砲台周辺の土地もこれに伴って太平洋方向(南方向)に傾斜したと判断する他にない」と結論付けている [12]。 (関東地震による城ヶ島一帯の異常隆起については#エピソードの項を参照のこと。)
戦後、砲塔は撤去されたが、一部の地下構造物・付帯設備跡が現存する。例えば、城ヶ島公園の展望台下部にある鉄扉は観測所の跡である。また、ウミウ展望台から城ヶ島灯台に至る道にも掩体や塹壕の跡がある。かつては城ヶ島大橋を渡りきった付近(現在は駐車場)にも遺構が残っていたが、橋の建設時に撤去された。架橋後も駐車場から城ヶ島公園への道路に繋がる歩道脇に遺構らしき建造物が長らく残っていたが、これも近年撤去された。 尚、砲を提供した戦艦安芸は、展望台から見える房総半島の最南端、野島崎の沖合いに沈んでいる。
要塞ゆえに砲台の写真は殆ど残されていない。ただ、城ヶ島大橋竣工当時に神奈川県が発行した案内パンフレットに城ヶ島公園正門駐車場が未整備の頃の空撮写真が残っており[2]、かろうじて砲台設置当時の周辺状況を窺い知ることができる。
県立城ヶ島公園
[編集]1950年、砲台跡地約17 ha が都市計画公園に指定、県立城ヶ島公園として1958年に設置された。一部は農地改革で民間に払い下げられ、現在は面積約14.6 ha の風致公園となっている。園内にはスイセン、イソギク等が群生し、芝生の広場では弁当を広げる家族連れが多い。また、崖に付けられた階段から海岸に降りることもできる。砲台当時は観測所であった展望台からの眺望は素晴らしく、東に房総半島、南に伊豆大島、西に伊豆半島と富士箱根の山々を一望することができる。
エピソード
[編集]流れ鯨
[編集]1656年、篝屋(城ヶ島灯台の項参照)の下で流れ鯨が捕獲された記録がある。三崎西浜の地蔵院にある「くじら塚」は、この鯨の供養のために建てられたと伝わる。
関東大震災と城ヶ島
[編集]1923年9月1日に発生した関東地震は、小田原沖での発生直後に三浦半島直下でも発生したことが知られている[3]。 地震発生時に三崎港は隆起によって干上がり、数日間は歩いて城ヶ島に渡ることができた。その後、海水は数日をかけて徐々に戻ってきたという。この現象は当時を知る人達によって口伝えられており、地元では知る人が多い。現在の三崎港を眺める限りは信じ難い現象であるが、『大正震災志』(内務省社会局編)に三崎の隆起が最大7.5mに達して徐々に沈降したことや、城ヶ島の東側海域でガスの噴出があったことが記録されている。地盤変動は三崎周辺を平均1.4mも隆起させて収束した。
大正時代までの三崎周辺には多くの海水浴場があり、城ヶ島にも遊ヶ崎海水浴場があった。しかし、地震による隆起で砂中の岩があちこちで露出した結果、旅館が足りずに海水浴客が民家の軒先を借りるほどの人出があった海水浴場としての賑わいは過去のものとなった[13]。
尚、三崎港の干上がり現象は、1703年12月31日(旧暦11月23日)の元禄大地震でも発生した。復旧費用は江戸幕府の援助のみでは足りず、旗印を掲げた船で沖を通る船から寄付を集めたとされる。
馬ノ背洞門
[編集]侵食によって岩がメガネ状に繰り抜かれたアーチ状の岩(海食洞門)で、赤羽根崎の突端にある。1923年以前は洞門下を小船で通航できたが、関東地震による隆起で陸化した。地震による隆起現象を今に伝える存在である。稀に上部を歩く観光客がいるが、幅が狭い上既に亀裂が入っており、崩落の可能性があるので危険である。
電灯
[編集]三崎には1913年に電灯が点灯したが、城ヶ島はその後もランプを使用していた。1928年1月25日、三崎町議会は城ヶ島電灯敷設工事負担金5000円のうち、2000円の町費補助を決定。これにより、三崎に遅れること15年にしてようやく城ヶ島に電灯が点灯した。 同時に、アセチレンガスを光源としていた城ヶ島灯台の光度が2万燭光[14]から一気に12万燭光へ引き上げられた。
城ヶ島の大火
[編集]城ヶ島では1808年と1936年に大火が発生しているが、本稿では1936年2月2日に発生した大火について述べる。
1936年2月2日午前2時30分頃、城ヶ島の集落西端から出火した。出火当時、風速10メートルを越える西風が吹いており、炎は藁葺き屋根を伝って瞬く間に全集落に広がった。当時の三崎~城ヶ島間の交通は舟のみであったが、三崎から消火救援に漕ぎ出た船は波をかぶって転覆、警官や電灯会社員は泳いで島に辿り着いたという。また桟橋がなかったため、ガソリンポンプを運ぶ舟がポンプを降ろし終えた時には既に出火後30分以上が経過しており、手が付けられない状況であった。要塞施設も延焼の危険があったが、午前6時頃になってようやく鎮火。 被害は全島119戸中、焼失106、半焼大破3、被災者591人というもので、文字通りの焦土と化した。 また、この火事で三崎消防組小頭の藤井助次郎、筒先の石橋三郎の2名が放水中に3300ボルトの電灯高圧線に触れて感電、殉職している。
被災者に対する支援として白米72俵の炊き出しが行われ、女学校生徒が交代で毎日手伝った。 炊き出しは当初12日間の予定であったが、羅災家屋保険金の支払遅延のため8日間延長された。 また、分教場は民家から離れていたため延焼を免れたが、臨時休校した。 この分教場は旧城ヶ島分校海の資料館として現存している。
当時、前述の『城ヶ島の雨』によって全国に名を知られていた城ヶ島の大火はショッキングな事件であったようで、東京日日新聞は「名勝城ヶ島の大火、全島廃墟と化す」と題した号外を発行して大きく報じている。
水垂れの黒松
[編集]かつて、城ヶ島北岸東側には「水垂れ(みずったれ/みぞったれ)の黒松」と呼ばれる松が生えていた。樹高6m、幹回り1.5mの古木で、岩壁から海にせり出すように生えた雅やかな姿で「かまくらと三浦半島の古木・名木50選」にも選ばれた。しかし、2002年10月1日に三浦半島を縦断した台風21号によって幹の中心から折れてしまい、その後樹勢は衰退してしまった。原因を調査したところ、松食い虫の被害にあっていることが判明、周辺の健康な松への感染を防ぐため、2005年6月に惜しまれながらも伐採された。内部は空洞になっており、蛇が2匹住み着いていたという。樹齢は長らく不明とされていたが、伐採時に初めて樹齢230年前後であることが確認された。白秋記念館において防虫処理された根元部分が保存展示されている。
歴史・年表
[編集]古代
[編集]遊ヶ崎(城ヶ島大橋直下)にて弥生時代の遺跡が発見されており、この頃から人が住んでいたと考えられる。
奈良時代には薬師山に奈良東大寺の大仏建立に協力した行基によって開かれた神宮寺という寺があったと伝えられる。寺は既に存在しないが、三崎の見桃寺の本尊薬師如来像は元々この寺の本尊であったと言われる(『新編相模国風土記稿』)。本像は三浦市の重要文化財に指定されている。
864年には藤原資盈(藤原鎌足から11代目)が任地赴任中に三浦に漂着、船の楫(かじ)を取っていた家臣三郎に住居の場所を占わせ、島西端にある小山に鎮座したとされる。のちに三郎を祀った梶ノ三郎神社が建立され、以降、小山は楫の三郎山と呼ばれるようになったという。ちなみに、藤原資盈は三崎の海南神社の祭神として祀られている。
中世
[編集]源頼朝が三崎をしばしば来遊、三御所(桜の御所、桃の御所、椿の御所)や歌舞島などに由来を残している。 城ヶ島においては、水辺の岩から流れ出る清水(「水っ垂れ」として現存)で茶を淹れたり、硯の水として使ったといわれる。
- 1516年:北条早雲によって新井城、三崎城が落城し、三浦氏が滅亡。三浦氏の残党が城ヶ島に立て篭もって抵抗(三崎十人衆)。
- 1556年:北条氏康、城ヶ島・三崎の海上で里見水軍と交戦。
- 1562年:里見水軍が城ヶ島に上陸、北条氏と交戦(三崎三浦海戦)。
- 1565年:北条氏康父子、桜見物のため三崎に来訪。城ヶ島に3日間滞在。
- 1570年頃:城ヶ島に三崎海南神社の分霊を歓請。
- 1573年:了善が常光寺を開山。
- 1590年:神宮寺焼失。豊臣秀吉天下統一、三浦郡は徳川氏直轄領となる(代官長谷川七左衛門)。
- 1594年:代官長谷川長綱、三浦郡全域の検地を行う。
- 1602年:神宮寺、城ヶ島より三崎に移り、高庵坊が神宮寺薬師堂を再建。
江戸時代
[編集]城ヶ島を含む三崎一帯は江戸幕府の直轄地(天領)となる。 慶長年間に三崎御番所が置かれ、三崎代官(一時、三崎奉行)によって統治された(初代代官:長谷川長綱)。
- 1648年:三崎奉行設置。同奉行安部次郎兵衛が島東端の安房崎に烽火台を設置。
- 1649年:城ヶ島で海老網漁が始まる。
- 1676年:衣笠庄三崎郷が分割され、城ヶ島村となる。
- 1678年:烽火台を島西部に移設して灯明台を設置。
- 1681年:州の御前で雨乞いが行われる。
- 1696年:三崎奉行廃止、浦賀奉行所の所管下で再び三崎代官を設置、平岡三郎衛門が任官。
- 1721年:三崎代官河原清兵衛、灯明台を篝火に変更する。
- 1808年:城ヶ島の大火。浦賀奉行岩本正倫、砲台を設置。
- 1810年:幕府、会津藩主松平容衆に相模海防役を命じる。
- 1811年:会津藩、城ヶ島砲台を修理して遠見番所を併設。城ヶ島を含む三崎一帯の領主となる。
- 1812年:会津藩、安房ヶ崎にて大砲発射演習を行う。浦賀の加藤山寿が『三浦古尋録』を著す。
- 1821年:幕府、会津藩の相模海防役を解き、代わって川越藩が同役に就く。城ヶ島砲台は浦賀奉行の所管となる。
- 1841年:『新編相模国風土記稿』成立。
- 1854年:三崎の名主吉兵衛、城ヶ島沖に異国船2隻を発見、上宮田陣屋に報告。
- 1856年:遠見番所廃止。
- 1867年:幕府によって灯台建設が計画される。
- 1868年:三崎一帯は韮山代官江川太郎左衛門の監督下に置かれる。
明治
[編集]- 1868年:城ヶ島を含む三浦は韮山県に属す。
- 1870年:城ヶ島灯台初点。
- 1871年:神宮寺跡、廃地となる。廃藩置県により神奈川県に属す。
- 1873年:城ヶ島学舎が常光寺に開校。
- 1875年:城ヶ島灯台、緑色光となる。城ヶ島村、三崎町に合併。
- 1877年:城ヶ島海南神社、宮ヶ崎から現地に移動。
- 1881年:城ヶ島学校新築。
- 1888年:城ヶ島学校、宮ヶ崎に新築。
- 1889年:町村制施行、城ヶ島は三崎町となる。初代町長は最後の城ヶ島村名主であった加藤泰次郎。
- 1894年:臨時東京湾守備隊司令部(後の東京湾要塞司令部)が設置され、三崎に監視哨を置く。
- 1898年:勅令第百七十六号「要塞近傍ニ於ケル水陸測量等ノ取締ニ関スル件」公布。要塞近傍における測量・模写・撮影には要塞司令官の許可が必要となる。
- 1899年:軍機保護法、要塞地帯法公布。城ヶ島を含む三浦半島全域が要塞地帯に指定。制限事項は漁業活動、土木・建築等に拡大。
- 1905年:海軍、城ヶ島に望楼設置。水難救済会、赤羽根に見張所設置。
- 1911年:城ヶ島学校、小網代学校と共に三崎学校に合併、分校となる。
大正
[編集]- 1913年:北原白秋、『城ヶ島の雨』発表。
- 1919年:北原白秋、『城ヶ島の雨』を『白秋小唄集』に収録、刊行。
- 1923年:関東大震災により城ヶ島灯台倒壊。
- 1924年:東京湾要塞復旧建設要領策定により、城ヶ島への砲台新設が決定。東京湾要塞城ヶ島砲台起工(10月12日)。
昭和
[編集]- 1927年:城ヶ島灯台再建。東京湾要塞城ヶ島砲台竣工(4月2日)。
- 1928年:城ヶ島に電灯が灯る。灯台の光度も2万燭光から12万燭光となる。
- 1931年:三崎尋常小学校城ヶ島分教場設置。
- 1936年:城ヶ島の大火。
- 1945年:城ヶ島砲台廃止、要塞砲を破壊処理。
- 1947年:三崎尋常小学校城ヶ島分教場を三崎小学校城ヶ島分教場と改称。
- 1949年:『城ヶ島の雨』歌碑完成。
- 1950年:旧軍用地約17 ha を都市計画公園に決定。
- 1953年:県営埋立着工(北岸西側、観光船発着場周辺)
- 1955年:三崎町、南下浦町、初声村が合併、三浦市となる。三崎小学校城ヶ島分教場を三崎第一小学校城ヶ島分校と改称。
- 1956年:西山地区の埋立竣工。
- 1957年:城ヶ島大橋着工。
- 1958年:県立城ヶ島公園設置。城ヶ島保育園開園。
- 1960年:城ヶ島大橋竣工、開通。遊ヶ崎埋立着工。
- 1962年:安房崎灯台初点、県営埋立竣工(北岸東側、現在の新潟造船一帯)、城ヶ島ユースホステル開館。
- 1964年:神奈川県水産試験場設置。
- 1966年:皇太子明仁親王(今上天皇)、神奈川県水産試験場に御来訪。
- 1970年:三崎小学校城ヶ島分校廃校(城ヶ島公民館に転用)。新潟鐵工所(現新潟造船)三崎工場操業開始。京急が快速特急「城ヶ島・マリンパーク号」「城ヶ島号」運転。
- 1971年:城ケ島のウミウ、ヒメウ及びクロサギの生息地が県指定天然記念物に指定される。
- 1982年:城ヶ島漁撈用具コレクションが県指定有形民俗文化財に指定される。
平成
[編集]- 1991年:城ヶ島灯台公園開園。
- 1995年:神奈川県水産試験場が神奈川県水産総合研究所と改称。
- 1997年:神奈川県水産総合研究所改築。
- 2002年:名木「水垂れの黒松」が台風21号の暴風によって折れる。
- 2003年:城ヶ島ユースホステル閉館。
- 2005年:神奈川県水産総合研究所が神奈川県水産技術センターと改称。「水垂れの黒松」伐採。
名所
[編集]- 城ヶ島灯台
- 安房崎灯台
- 県立城ヶ島公園
- 白秋碑苑(『城ヶ島の雨』歌碑、白秋記念館)
- 馬ノ背洞門(赤羽根崎)
- 洲の御前
関係文化財
[編集]指定区分 | 名称 | 指定年月日 | 所在地 | 備考 |
---|---|---|---|---|
県指定天然記念物 | 城ヶ島のウミウ、ヒメウ及びクロサギの生息地 | 1960年(昭和35年)5月31日 | 三浦市三崎町城ヶ島赤羽根海岸 | 毎年10月末~翌4月頃に飛来。 |
県指定有形民族文化財 | 城ヶ島漁撈用具コレクション | 1982年(昭和57年)2月9日 | 三浦市三崎町城ヶ島411 旧城ヶ島分校海の資料館 | |
市指定文化財(彫刻) | 薬師如来立像 | 1967年(昭和42年)3月28日 | 三浦市三崎町白石19-2見桃寺 | 元々は城ヶ島にあった神宮寺(廃寺)の本尊。 |
市指定文化財(建造物) | 旧三崎小学校城ヶ島分校 | 1987年(昭和62年)1月30日 | 三浦市三崎町城ヶ島411 | 昭和初期の学校建築。廃校後は城ヶ島公民館、現在は海の資料館。 |
レジャー
[編集]- 城ヶ島京急ホテル
- 城ヶ島周遊観光快速船
- 城ヶ島マリーナ
その他の施設
[編集]交通
[編集]- 京急久里浜線三崎口駅から京浜急行バスで30分
- 油壺(京急油壺マリンパーク)から城ヶ島周遊観光快速船で40分
脚注
[編集]- ^ 現在の三浦市役所一帯で、掘割等の遺構がかろうじて残る。また、城ヶ島から出ている観光船で油壺まで行くと新井城跡に行くことができる。なお、近年では新井城が三浦氏時代の三崎城であり、現在の三崎城は北条氏によって築かれたとする説もある。
- ^ 結果的に対馬海峡を通り、日本海海戦となった。尚、前年の1904年にはロシアのウラジオストク艦隊が津軽海峡を突破して房総沖、城ヶ島沖を回り、遠州灘にまで達して引き返すという事件が発生している。
- ^ アジア歴史資料センター Ref.C03022660800 密大日記 大正13年 5冊の内第3冊 『工事着手の件』、国立公文書館
- ^ アジア歴史資料センター Ref.C01003733900 昭和2年「密大日記」6冊ノ内第3冊 『城ケ島備砲竣工の件』、国立公文書館
- ^ アジア歴史資料センター Ref.C02031242500 大日記甲輯 大14 『軍用水底電線敷設の件』、国立公文書館
- ^ アジア歴史資料センター Ref.C01004605300 昭和14年「密大日記」第5冊『東京湾要塞城ヶ島砲台八八式海岸射撃具電続試験及補修工事實施の件』、国立公文書館
- ^ アジア歴史資料センター Ref.C01003861900 昭和4年「密大日記」第3冊 『城ヶ島砲台第2砲台試験射撃の件』、国立公文書館
- ^ アジア歴史資料センター Ref.C01004188300 昭和11年「密大日記」第5冊 『佐世保要塞俵ヶ浦弾薬本庫増改築及東京湾要塞城ヶ島砲台増改築工事実施の件』、国立公文書館
- ^ アジア歴史資料センター Ref.C01006202000 大日記乙輯昭和3年 『城ヶ島砲台堀井戸工事を陸軍工兵学校へ委託の件』、国立公文書館
- ^ これは1940年の報告で工事中の測定値が報告されていることでも裏付けられる。
- ^ アジア歴史資料センター Ref.C01003809500 昭和3年「密大日記」第3冊 『東京湾要塞城ヶ島砲塔沈下の件』、国立公文書館
- ^ アジア歴史資料センター Ref.C01004802000 昭和15年「密大日記」第8冊 『城ヶ島砲台第2砲塔砲床傾斜に関する件』、国立公文書館
- ^ 多くの海水浴旅館は料理旅館へと衣替えを強いられた。
- ^ 1燭光=1.0067カンデラ
参考文献
[編集]- 三浦市史編集委員会 『目でみる三浦市史』 三浦市、1984年(第4版)。
- 長山総一郎・田辺悟監修 『図説 三浦半島 その歴史と文化 上・下巻』 郷土出版社、1994年。
- 神奈川県 『城ヶ島大橋』(パンフレット) 神奈川県東部漁港事務所、1960年。
- 石田地震科学研究所 「ニューオフィス 27 関東大震災で生じた相模湾内の隆起・沈降現象」
- 歴史群像シリーズ 『日本の要塞』 学習研究社、2004年。
- 三浦市 『平成17年度版三浦市統計書』、2006年。
- 国立公文書館 アジア歴史資料センター(JACAR)