利用者:LudwigSK/向井去來
向井 兼時 | |
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去來像 明和元年刊 康工撰『百一集』所収 | |
ペンネーム | 落柿舎去來 |
誕生 |
慶千代 1651年 (慶安4年) 長崎 後興善町 |
死没 |
1704年10月18日 (宝永元年9月10日) 京都 岡崎聖護院 |
墓地 | 鈴聲山 真正極楽寺 覺圓院 |
職業 | 俳人 |
ジャンル | 俳諧・俳論 |
文学活動 | 蕉風 |
代表作 | 『猿蓑』『去來抄』 |
デビュー作 |
風瀑編『 「五日経ぬあすは戸無瀬の鮎汲ん」 「雪の山かはつた脚もなかりけり」 |
配偶者 | 可南 |
子供 | 登美・多美 |
親族 | 向井元升(父) |
影響を受けたもの
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影響を与えたもの
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ウィキポータル 文学 |
向井去來(むかい きょらい 1651年(慶安4年) - 1704年10月8日(宝永元年9月10日))は、江戸時代元禄期の俳人。高雅清寂の作風と篤実な人柄で知られる。
俳号を去來と称し、
俳諧を松尾芭蕉に学んで蕉門十哲に数えられ、「西三十三ヶ国の俳諧奉行」と渾名された。俳諧撰集では凡兆と共に芭蕉の監修の下で『猿蓑』を撰し、「俳諧の古今集」と称され蕉風を代表する書となった。俳論では遺稿を纏めた『去來抄』は、土芳の『三冊子』と並ぶ蕉風俳論の最も重要な文献とされている。
業績
[編集]俳論
[編集]『去來抄』などは蕉風の根本問題に触れた批評が多く蕉門の俳諧書として良くまとまり、近世俳諧史上、蕉風俳論の最も重要な文献とされている[1]:3-4。 去來が書き記した思想は、エッカーマンによる『ゲーテとの対話』のごとく、芭蕉のそれを実直忠実に受け継いだものと言って良い。芭蕉は自らを語ることを嫌い、また自分の思想が師伝とされて後世を縛ることを恐れた節もある。芭蕉自ら書き残した俳論は驚くほど少なく、その思想は門人それぞれに解釈し書き記した諸説を読み合わせて窺い知るしかない[2]:3-6。 芭蕉の没後、門人らの手になる俳論書が次々と刊行されたが、去來はこれらに対して己の理解するところを書き記さんとした[3]:240-294。
- 「
不玉宛論書 」 - 1694年(元禄7年)3月頃[* 1]、出羽酒田の俳人
不玉 [† 2]の問いに対する去來の返書。去來が『去來抄』を執筆する際にこの「不玉宛論書 」の草稿裏面を利用したため、現代に残ることとなった。全10枚のうち初稿は2枚目を欠き、再稿は9~10枚目を欠くが、合わせ見ることによって全体が明らかとなる[5]:52-56。内容は不玉の問いに答える形で記され、通常の書簡体ではない。不玉は6項目の問いを投げかけているが、第1の問い「花実」、第2から第5の問い「軽重」は俳論として重要なものである。[6]:3-4。特に「軽重」について、「軽」とは自然な趣きを、「重」とはおもくれて手の込んでいることを指すと説く。『去來抄』など蕉門の俳書の中でも、これほど詳述しているものはない[7]:204-221。なお第6の問いは俳諧に関するものではなく、不玉 の門人が去來に歌仙の点付けを依頼した際、酒堂らに代行させたことに抗議したものである。去來はこれに弁明し、その内容からは去來の篤実謙虚な人柄を伺う事が出来る[6]:44。
- 「浪化宛去來書簡」
- 1694年6月5日(元禄7年5月13日)に当時在京していた浪化に宛てた書簡。後に1791年(寛政3年)
岸芷 によって『去來文』として公刊されて世に流布した[5]:52-56。内容としては浪化が『浪化集 』を撰するに際し、去來へ5月1日付けで出した質問に答える形になっている。中でも付句・発句に対する論評や、句作についての応答は俳論として見るべきものがある。『ひさご』に見える「あらび」の様、付句における「しおり」、発句での切れ字のあり方、「花実」においては「実」を重視すべきことなど、蕉風の俳論を詳細に説明している[6]:47-49。
- 「許六宛去來書簡」
- 1695年3月13日(元禄8年1月29日)に許六に宛てたもので、浪化の選集への助力として許六との間に交わした書簡のうちの一つ。去來真蹟を
林篁 が筆写したものが現代に残る。その内容は後年の『旅寝論』『去來抄』に通ずるところも多い[5]:52-56。前半部分は「俳評論段」と後書きされ、入集を予定する許六や彦根俳人の句についてや、許六による去來の句への批判など11の句に対し、去來の思うところを記している。後半は「同巣」「さび」「ねばり」「てにおは」「新古の格」「しおり」などを説くが、特に「同巣」「さび」については詳細に論じている[6]:109-111。
- 「
去来贈其角書 」 - 1697年(元禄10年)閏2月に其角に宛てた書簡。芭蕉が晩年に移った「軽み」などの新風に、自他共に高弟とされる其角が未だ進まないことに遺憾の意を表明した。其角は直接これに返答せず、手を加えて其角撰『
末若葉 』の巻末に跋文として流用した。去來と親交のあった風国[† 3]は去來の真意が損なわれると考え、風国撰『菊の香 』に『末若葉 』所収の改文と去來正文とを並べて掲げた[4]:263。改文と正文との相違は、そのまま其角と去來との俳諧に対する考え方の相違であるとも言える[6]:179-182。
- 『俳諧問答』
- 1697年(元禄10年)から1698年(元禄11年)にかけ、去來と許六との間に取り交わされた一連の俳論。主として不易流行についての俳論を戦わせる。1785年(天明5年)に浩々舎芳麿により『俳諧問答
青根が峯 』として刊行され、寛政以後は『俳諧問答』と改名された。其角は「去来贈其角書 」に対し直接反論しなかったが、これを見た許六が「贈落柿舎去來書」を呈して始まる[4]:266。答えて去來は、1698年(元禄10年12月)に返書「答許子問難弁 」を著した。「贈落柿舎去來書」を30章にわけて逐一これに答え、其角への評価と不易流行について教え諭した。許六は元禄11年3月に「再呈落柿舎先生」として再度返信し、自論である血脈 説などを綴った「俳諧自賛之論 」「自得発明弁 」「同門評判 」と共に寄せた[8]:142-143。一連の俳論は、去來の『旅寝論』『去來抄』及び許六の『篇突 』成立に至る素因ともなった[4]:266。
- 『旅寢論』
- 1698年(元禄11年)長崎に滞在していた去來の下に、許六の『
篇突 』が送られた。これに対して去來と同地の俳人たちとの間で問答が取り交わされ、その問答を去來が著して翌1699年(元禄12年3月)に成立した。写本として『弁篇突』『篇突論』『去來俳諧評判』『旅寝論』など様々な題名で流布した[9]:289。去來は『篇突』が俳諧修行上少なからず有益であるとしつつ、師説への自らの理解と異なる点について30項目に渡り説いている。また「余評」として、かつて路通が長崎の蕉門に伝授した蕉門の付句十七体の教えは、芭蕉の真意を理解しておらず濫りに伝えたものであると述べる[6]:281-283。
- 『去來抄』
- 去來最晩年の執筆であり、完成を見ぬまま1704年10月(宝永元年9月)に去來が没して絶筆となった。その草稿が写本の形で一部に伝承されていたが、1775年(安永4年)に加藤
暁臺 が板行して世に流布した。去來は当初『落柿舎集』と題して俳論と俳諧の双方を収める句文集を計画しており、1702年(元禄15年)ごろから集句を開始していたが、後に1704年(元禄17年)になってこれを『去來抄』と改め、俳論の執筆を行った[4]:314。「先師評」「同門評」「故実」「修行」の4篇の下157の短章に分かれ、芭蕉の説、同門や自身の見解を書き綴る。去來の20年に亘る俳諧活動で得た経験談を基にしているが、内容を仔細に検討すると、去來の記憶違いと見られるところも多い。また時と場所を違える3回の対話をあたかも1回の対話であるように書いたところ、文通によるものを直談のように書いたところなどもあり、これは執筆上の技法であると解するべきである[10]:3-15。
俳諧撰集
[編集]- 『猿蓑』
- 去來・凡兆の共撰による発句・連句集。1691年7月27日(元禄4年7月3日)に井筒屋庄兵衛より刊行された。巻之一から巻之四は冬夏秋春の順に蕉門118名による発句382句、巻之五には同じく冬夏秋春の順で歌仙4巻、巻之六には芭蕉の「
幻住庵記 」と去來の兄震軒による漢詩及び「几右日記」より発句35句を収める。乾・坤2冊の半紙本仕立とし、其角による序を北向雲竹、本文及び丈艸の跋を雲竹門の正竹が浄書している[11]:4-12。芭蕉はこの『猿蓑』について元禄四年五月十日付半殘宛書簡で「去來集追付出来申候」と伝えるなど、撰では去來の資するところが大きかったと見える[12]:24-25。『猿蓑』は不易において真に確立され、また連句においては匂付けが完成を見た。流行においては更に『炭俵』の「軽み」へと向かうが、蕉門では『猿蓑』こそ俳諧の古今集であると称し、全く花実を備えたとその風潮を重んじた[13]:251-270。
- 『
浪化集 』 - 浪化の撰による俳諧撰集。去來は撰に後見し、1695年(元禄8年)に井筒屋庄兵衛より刊行された。四つ目綴の半紙本で、上巻「
有礒海 」41丁と下巻「刀奈美山 」22丁の2巻で構成される。上巻に丈艸による序文「懶窩埜衲丈艸謾書」を載せる[14]。
- 『渡鳥集』
- 卯七の撰による発句・連句集。去來は撰に後見し、1704年(宝永元年)に井筒屋庄兵衛より刊行された。四つ目綴の半紙本で、上巻「昼」32丁と下巻「夜」の2巻で構成される。「昼」には序文として支考による「贈芭蕉翁御句文」と卯七による「游簾雪庵并序」及び跋文として丈艸による「賀渡鳥集句并序」を載せ[15]、「夜」には去来撰「入長崎記」を載せる[16]。井筒屋の目録には「渡り鳥二 同(宝永元年) 長崎卯七并去來 二匁五分」と見えて撰者卯七と後見した去來の共編として知られるが、蒐句・編纂・草稿の執筆など殆ど去來自撰の集と言っても良いほどのものであった[17]:5-9。丈艸の潘川宛書簡には「頃日去來方にて長崎卯七が集を取立○付、愚句など遣○序に、其角の發句、野徑ノなど一所に書付、集中加入○やうニ申遣○」[* 2]とあり、許六の「去來ガ誄」には「崎の卯七をたすけて渡鳥集を集む」ともある。去來自身「宝永元年五月廿七日付土芳・半殘宛書簡」において「此集の事は、卯七遠國諸方之ほ句ども拙夫手つだひあつめ遣し申○。歌仙は六年前下拙向之時申捨に仕○を集に及○故、あちらこちらと内普請仕、漸一集に取立○へども、猶古木のミしはり○て、工手間の入○ほどに見えず○故、別而棟梁の恥辱と口をしく○」[* 2]と記している[18]:6。「元禄十五年正月晦日付土芳・半殘宛書簡」によれば、去來は正月晦日よりこの『渡鳥集』編纂を思い立ち、二月中に蒐句を始めた。同年暮れには草稿を完成し、その裏面を再利用して『去來抄』草稿を執筆している[17]:5-9。
発句
[編集]去來の入門は其角や嵐雪に比べれば遅い代わり、当初より純然たる蕉門の俳人である[19]:35-41。 句作にあたり、去來は芭蕉の教えを誠実に守った[20]:108-109。 去來の句は、言葉の歴史を吟味し、古典に学んで作られている[21]:3-4。 またその句は対象の姿を捉えることに長け、奇抜な着想や凝った趣向は見られない。ただ誠実であり、素直に対象を見て感じた句作である[22]:212-214。
支考は『落柿先生ノ挽歌』において「風雅は武門より出れば、かたき所にやはらかみありて」と、武門の出らしい堅さの中にも柔らかさが同居すると述べる。野坡門の風之[† 4]は『
『去來抄』の「先師評」には、去來が芭蕉に連れられ初めて水田正秀に会い、発句を請われて滞ったエピソードがある。去來に代わって芭蕉が発句を出し、正秀が脇句を、去來は第三を付けた。その夜曲翠亭に泊まった際「今夜初正秀亭に會す。珍客なれバほ句ハ我なるべしと 、兼而覺悟すべき事也。其上ほ句と乞ハヾ、秀拙を撰ばず早ク出すべき事也。一夜のほど幾ばくかある。汝がほ句に時をうつさバ、今宵の會むなしからん。無風雅の至也。餘り無興に侍る故、我ほ句をいたせり。」と一晩中叱られたという。「修行」には、芭蕉は去来に対して「句〱さのみ念を入るゝものにあらず。又、一句は手強く、慥に俳意作すべし」と指導したとある[21]:3-4。
近代においては、正岡子規は『城南評論』1892年(明治25年)4月号に「向井去來」と題した俳論を寄せている。子規の俳論のうち、誌上に発表された中では最も早いものである。子規は去來の句を「平易尋常にして曲節もなく、工夫もなく、色も臭も無きが如き者あり。」とその平凡さ故に其角に劣るものとしつつも、其角の句は奇抜で数回吟じるうちに不快を感じるのに対し、去來の句は何度唱えても反感を覚えることがないとした[23]。また『獺祭書屋俳話』では、平穏真樸の中に詩歌的観念を発揮する自然な格調においては、其角や嵐雪はおろか芭蕉すら及ぶものではないと評した[24]:21-25。
主要句
[編集]秋風やしらきの弓に弦はらん[句解 1]—『阿羅野』
湖の水まさりけり五月雨[句解 2]—『阿羅野』
一昨はあの山越ツ花盛リ[句解 3]—『花摘』
尾頭のこゝろもとなき海鼠哉[句解 4]—『猿蓑』
螢火や吹とばされて鳰のやみ[句解 5]—『猿蓑』
鳶の羽も刷ぬはつしぐれ[句解 6]—『誹林一字幽蘭集』
応々といへど敲くや雪の門[句解 7]—『句兄弟』
俳文・漢文
[編集]- 『伊勢紀行』
- 『回家休』
- 本紙は縦28.8cm横45.2cm、軸装されて外寸縦108.0cm横46.9cmとなっている。内題に「回家休」、外題に「去来自詩」と記され、箱には「落柿舎去来叟真蹟」とある。籾山梓月旧蔵、早稲田大学図書館蔵[29]。
- 1年3ヶ月に亘って滞在した長崎から京都へ帰り、直後の1699年12月(元禄12年10月)に崎陽学思堂[* 4]へ宛て寄稿した七言律詩。長旅から帰宅し、5歳になる長女と3歳の次女、妻との再会を喜ぶ。書簡に「御約束の通ニ御ざ候」とあることから、長崎滞在中に約していたものと考えられる。書簡末尾は「學思堂詩集の草稿ニ御入可被下候」と結び『學思堂詩集』編纂の試みがあったものと見えるが、この詩集は確認されていない。また「此間、患眼詩を賦候、此ハ重而可入高覧候」とあって別途「患眼詩」と呼ぶ作があったものと見えるが、伝存していない[30]:16-17。
- 『回家休』を含む「学思堂宛去来書簡」は一時失われていたが、2009年5月に見いだされ早稲田大学図書館蔵となっている[31]。
門人
[編集]「我京師に在といへども、惣て諸生の事にあづからず。ただ嵯峨の為有・野明、長崎の魯町・卯七・牡年のみ、故ありて予此を教訓す」(「答許子問難弁」)
- 為有
- 為有は『炭俵』に「嵯峨田夫」とあり、農夫とみられる。山城の人。
滝壷に命うち込小鮎かな—為有、『炭俵』
- 野明
- 野明すなわち坂井宗正(さかい むねまさ - 1713年4月6日(正徳3年3月12日))は、嵯峨野に住む博多黒田家の浪人。元は鳳仭と号し、芭蕉が野明の俳号を与えた。野明を嵯峨の人物とするのは『藤の実』における素牛(惟然)の句に「嵯峨鳳仭子の亭を訪し比~」との前書があり、また自らにも嵯峨に草庵を選び定めたとする句が見られるからである[32]:110。
嵯峨のほとりに草の戸を卜て
麦の穂の世に出るまでの庵—野明、『続有磯海』
- 同じ嵯峨に
落柿舎 を構える去來とは親交があり、「答許子問難弁」には「故ありて予此を教訓す」といい「同門評」には「予此人を教る事とし有」とあって、去來が野明を指導していたさまが見られる[32]:111。この去來との由縁については、野坂門の樗路 による『袋鉢』に野明は黒田家を辞して嵯峨へ移った奥西善六であるとする記述があり[33]:40-41、『異本坂井氏系譜』における坂井作太夫包元の経歴と全く一致する。すなわち、野明は去來にとっては母方である久米家の主筋にあたるのである[32]:118-121。 - 魯町
- 魯町こと向井元成(むかい げんせい 1656年(明暦2年) - 1727年3月31日(享保12年2月9日))は江戸前・中期の儒者・俳人。肥前長崎の人。去來の弟で元升の三男である[* 5]。本名を元成、字は叔明。別号に鳳梧斎・禮焉子など、通称は小源太。天文理数に通暁して父元升が建てた長崎聖堂の第3代祭主となり、江戸幕府長崎奉行所の書物改役も勤めた。俳諧においては『去來抄』に去來との問答がみえ、去來を介して『有磯海』『猿蓑』『己が光』などへの入集が20数句確認される。
二三番鶏は鳴どもあつさ哉—魯町、『炭俵』
- 卯七
名月の麓を呼ぶや茂木肴—卯七
- 牡年
- 牡年こと久米利文( - 1727年11月16日(享保12年10月4日)享年70)は、江戸時代前期から中期の蕉門俳人。去來の弟で元升の四男であり[* 5]、田上尼の養子となって久米姓を名乗った。別号に智焉子、通称は七郎左衛門。肥前長崎では長崎町年寄を務めた。俳諧においては『あら野』『有磯海』『韻塞』『渡鳥集』などに入句が見られる。『有磯海』以前は暮年、それ以後は牡年の号を用いた。
石ぶしや裏門明て夕凉み—牡年、『續猿蓑』
- 千子
花にあかぬ憂世男の憎き哉
大内のかざり拝まん星まつり—千子、『続虚栗 』
- 可南女
月影に動く夏木や葉のひかり—可南、『炭俵』
- 田上尼
朝顔の莟かぞへむ薄月夜—田上尼、『続猿蓑』
生涯
[編集]出自
[編集]去來は1651年(慶安4年)[* 6]、向井元升の次男として肥前長崎に生まれた[* 7]。
向井家は藤原氏を本姓とし、遠くは大和に出た武門である。後醍醐天皇の皇子懐良親王に従って肥後に下り、菊池郡向井邑に留まった。6代を重ね、菊池氏が滅亡すると肥前国神埼郡に移り数邑を領した[4]:6-8。 豪族として威を振るい、冠者宮の再建や眞福寺の創建などを行っている[3]:4-5。 去來の祖父兼義の代に長崎へ移る[4]:6-8。 兼義の長男嘉兵衛は三浦按針を船主とする御朱印船に乗り組み、遭難して帰らなかった[34]:357-359。 次男元升は武門を継がず儒医となった[4]:6-8。
去來の父元升は儒医及び本草家として知られる。肥前神崎郡崎村を出て長崎の後興善町に住し、1647年(正保4年)同地東上町に聖堂を建てて祭酒となった[4]:6-8。 幼名を宮菊といい、後に左近・玄松・玄昇・元升と改めた。字は素柏・以聞・以順ともいう。号は觀水子・捨棄奴・靈蘭堂がある[3]:4-5。 社学輔仁堂(靈蘭堂)を開いて門弟の教育を行い、その講義は常に満席であったという。医名も高く、平戸の松浦からは300石、筑前の黒田からは700石の食禄で誘いを受けたが、元升は自身の健康や両親の扶養を理由としてこれを固辞した[4]:6-8。 また元升は井上政重より幕命を受け、1656年(明暦2年)から翌年にかけて出島蘭館医から聞き取って和に解した『阿蘭陀伝外科類方』を著すなど、西洋医術に由来する知識も身につけていた[35]:75-79。
去來の母貞淑は筑前福岡藩の藩士久米諸左衛門家治の娘である[3]:4-5。 久米家治には長男七郎左衛門道端、女、次男諸左衛門利品、三男伊兵衛の三男一女があった。この女が貞淑である[34]:416-418。
元升と貞淑の間には五男四女があり、長男元端は典薬として父の跡を継ぐ。次男が元淵すなわち去來である。三男元成、俳号魯町は後に長崎に帰り、長崎聖堂の第3代祭酒となった。四男利文、俳号牡年は母方の久米七郎左衛門利延の養子となって久米姓を名乗った。その養母となった久米利延の妻は蓑田氏の出で、後の田上尼である。五男城右衛門兼之は20歳前後で早世している[4]:6-8。 長女の春は去來の誕生から間も無く、1652年(慶安5年)9月28日に夭折した。次女佐世は宇野久兵衛に嫁し、1684年(貞享元年)に没した。三女千代、俳号千子は清水籐右衛門に嫁し、1688年(元禄元年)に娘を残して没した。四女八重も早世している[3]:4-5。
1658年12月15日(万治元年11月21日)元升50歳の冬、束帯をつけた菅原道真公が夢に訪れ、なんじ洛に入りて医とならば大功有らんと告げたという[* 8]。元升は急遽京都へと上洛し、去來ら一家はこれに同道した[* 9][4]:6-8。
故郷も今はかり寝や渡鳥[句解 8]—去來、『けふの昔』
青少年期
[編集]去來は『落柿舎去來先生事實』に「幼にして屢々前筑福岡にありて、叔父久米諸左衛門の家に養はる」とあるように、1666年(寛文6年)に「最長于射騎于拳術」と言われた叔父の筑前福岡藩士久米諸左衛門利品の元へ身を寄せ武芸を嗜んだ[3]:7-10。この福岡行きについては、あるいは利品の養嗣子となるはずではなかったかとされる[4]:6-8。『落柿先生行状』には「御術は大坪式部大輔廣秀が嫡流福山某に聞き、和は笠原氏の門に習ひ、剣術は安部の何某に学び、共にその大意をさとす。軍は甲州一流の奥をきはむ」とあり、相当の腕前であった[3]:7-10。『落柿舎去來先生事實』には、その武芸の才を買われ黒田家からは知行をもって招かれたとある。しかし去來は黒田家の招きを固辞し、1675年(延宝3年)京に去ることとなった。福岡の地を離れた理由を記すものは無いが、1669年(寛文9年)8月に久米家の嗣子となる元察が生まれていることも一因と推定される。[4]:6-8。
鴨啼や弓矢を捨て十余年[句解 9]—去來、『いつを昔』
京に移った去來は、武芸より一転して神道を学んだ。薄田三郎兵衛すなわち
芭蕉入門
[編集]『伊勢紀行』の跋によれば、去來は1684年(貞享元年)の夏に京都で其角との知遇を得て、蕉門と交渉を持つに至った[* 11]。この機縁は、京都で俳諧を学び後に江戸へ移った
初春や家に譲りの太刀はかん[句解 10]—去來、『貞享三年其角歳旦帖』歳旦吟
蛙合
[編集]1686年(貞享3年)の春、仙化[† 6]の主催により芭蕉の句「古池や蛙飛びこむ水の音」を中心に、「蛙」という伝統的な歌題を題とした20番の句合が江戸深川の芭蕉庵で試みられた。後に『蛙合』として刊行されたが、文通によって参加した去來の句は第5番に李下の句と番えられ、勝とされた。芭蕉は同年閏3月10日付書簡で「此度蛙之御作意、爰元ニ而云尽したる様ニ存候処、又々珍敷御さがし、是又人々驚入申候」と言い送っている[4]:8-11。
右勝
一畦はしばし鳴やむ蛙哉[句解 11]—去來、『蛙合』第五番右
芭蕉との書簡
[編集]伊勢紀行
[編集]1686年(貞享3年)8月下旬頃、去來は妹の千子を連れ、伊勢神宮に詣でて『伊勢紀行』を執筆した。去來は芭蕉にこの紀行文を送り、添削を願った。芭蕉はこれに答えて本文数箇所に添削を加え、賞賛の跋文と共に送り返した[3]:21-45。
東西のあはれさひとつ秋の風—芭蕉庵桃青、『伊勢紀行』跋文
江戸下向
[編集]去來は1686年(貞享3年)冬、江戸へ下り芭蕉と初めての対面を果たす[4]:8-11。
- 1687年(貞享4年)初春 歌仙「久方や」芭蕉・其角・嵐雪と
- 同4月8日 其角の母死去、追悼句を寄せる
- 同 其角編『
続虚栗 』発句15句入集
元禄のころ
[編集]芭蕉は1688年5月(貞享5年4月)に須磨・明石に到って『笈の小文』の旅を終え、京へは5月22日(同4月23日)に入る。去來はこの時芭蕉と交誼を結び得たかは定かではない[4]:12-15。 この年6月12日(同年5月15日)には、去來は妹の千子を喪っている[4]:12-15。
もえやすく又消やすき螢哉—千子、『いつを昔』
いもうとの追善に
手のうへにかなしく消る蛍かな—去來、『阿羅野』
千子か身まかりけるを聞てミのゝ國より去來方え申遣し侍る
なき人の小袖も今や土用干—芭蕉、『猿蓑』
其角の上洛
[編集]- 1688年(元禄元年)冬 上京した其角が去來を訪ね、加生(凡兆)を交え嵯峨で遊吟
- 不卜編『続の原』発句2句入集
熊野参詣と長崎への旅
[編集]- 1689年(元禄2年)5月、田上尼と熊野巡礼
- 同夏 田上尼を送り長崎へ、仲秋頃帰京
落柿舎
[編集]- 1689年(元禄2年)秋頃より
落柿舎 と称する
柿ぬしや木ずゑはちかきあらし山[句解 12]—去來、『猿蓑』
阿羅野
[編集]- 1689年(元禄2年)荷兮編『阿羅野』発句14句入集
猿蓑
[編集]幻住庵の芭蕉
[編集]- 1689年(元禄2年)12月24日、芭蕉と共に
落柿舎 で鉢叩きを聞き、「鉢叩の辞」成立 - 1690年(元禄3年)3月16日、甥向井菊千代死去
- 同4月18日、「鼡説」成立し其角へ送る
- 同、其角編『いつを昔』に序を寄せる
- 同夏、幻住庵の芭蕉を訪問
- 同6月初め、京に出た芭蕉と歌仙「市中は」を凡兆を交え巻く
- 同7・8月頃、芭蕉から『幻住庵記』草稿に意見を求められる
元禄3年8月14日
- 同8月14日、甥向井俊素死去
仲秋の望、猶子を送葬して
かゝる夜の月も見にけり野邊送[句解 13]—去來、『猿蓑』
- 同9月頃、凡兆と共に膳所無名庵の芭蕉を訪れ、歌仙「灰汁桶」
- 同初冬、芭蕉・凡兆らと共に歌仙「鳶の羽も」
- 同12月下旬、芭蕉と共に京上御霊社示右亭の忘年句会に出席
猿蓑の刊行
[編集]初しぐれ猿も小蓑をほしげ也—芭蕉、『猿蓑』冒頭句
- 1691年(元禄4年)3月中旬、江戸の嵐蘭が訪ね、御室に花を見る
- 同4月18日より5月5日まで
落柿舎 に芭蕉滞在、しばしばこれを訪問 - 同日芭蕉は
落柿舎 を出、6月下旬まで京に滞在。芝居見物や黒谷・白河へ行くなどする - 同7月3日、『猿蓑』刊行
- 同7月中旬・下旬、芭蕉が京に出、連句興行
- 同秋、湖南を訪れる
- 同9月下旬、藤堂家に牡丹2本進上
- 同10月14日、伊賀の中尾・浜宛に手紙
- 同10月ごろ湖南を訪れる
- 同11月、序文を草したノ松編『西の雲』下巻刊行
可南女
[編集]- 1692年(元禄5年)、加賀の句空を訪れ半歌仙
- 同晩春、南都を訪れるか
- 同初夏、曲水と共に膳所勢多の蛍見
- 同5月、大坂より之道・車庸が訪れる
- 同5月7日付、芭蕉より長簡[38]:1-13
- 同9月5日、膳所の昌房宛手紙
- 同年、可南女と共に嵐蘭編『けし合』に入集
己が光
[編集]呂丸の客死
[編集]- 1693年(元禄6年)2月2日、羽黒の呂丸が洛中の桃花房で客死
- 同3月3日、史邦らと境で潮干見物
- 同6月、長崎より卯七が上京
- 同夏、大坂の酒堂や車庸の居所を訪れる
- 同秋、浪化の京の居所を訪れ歌仙一折興行
- 同秋、素牛・野童・鳳仭らが
落柿舎 を訪れる
落柿舎の普請
[編集]- 同秋、
落柿舎 を小普請
芽立ちより二葉に茂る柿の實と申傅りしはいつの年にや有けん、かの落柿舎もうちこぼすよし發句に聞えたり
やがて散る柿の紅葉も寝間の跡—去來
落柿舎普請のころ
屋根崩す鎌のしり手や柿紅葉—可南、『初蝉』
- 同8月27日、江戸の嵐蘭が47歳で没し「千貫のつるぎ埋けり苔の露」を手向ける
- 同12月17日、加賀の塵生宛に手紙
- 同年、真如堂の元升の墓を南に改葬
落柿舎の日々
[編集]- 1694年(元禄7年)2月7日、伊賀上野の芭蕉の実兄松尾半左衛門に宛てて書簡
不玉宛論書
[編集]- 3月、不玉宛論書
- 春、上京していた魯町が長崎へ帰る
芭蕉上洛
[編集]1694年(元禄7年)4月末から去來は病に臥し、5月10日を過ぎてようやく回復した。その直後13日には、浪化に宛てて長文の書簡を送っている。いわゆる『浪化宛去來書簡』である。浪化は撰集を意図し、去來の指導を受けていたものと思われる。そのころ芭蕉は西国行脚に出ており、閏5月22日には去來の下へも訪れた。門人たちはこれを迎えて
- 浪化、去来の手引きで
落柿舎 にて芭蕉に会い、入門する - 之道、酒堂を避けて
落柿舎 の芭蕉を訪なう - 「落柿舎の制札」はこの頃
- 6月15日、芭蕉は
落柿舎 を去り湖南へ - 野坡ら編『炭俵』に発句7
- 7月5日、芭蕉が京の去来宅を訪問する。10日過ぎまで滞在か
- 秋、牡丹の上花の苗木を藤堂家に献上
- 9月10日付、芭蕉より金2歩を無心の手紙
芭蕉永訣
[編集]病床の師翁
[編集]- 10月6日、芭蕉が病床にあるとの通知を受け、夜舟で大坂へ下る
- 10月9日、芭蕉に「波に塵なき」の句の破棄を依頼される
うづくまる薬の下の寒さ哉—丈艸
葬儀と追善
[編集]- 10月12日、芭蕉死去。遺骸を夜舟で湖南の義仲寺へ運ぶ
- 10月14日、義仲寺に芭蕉を埋葬
- 11月、浪化に芭蕉の死去前後の様子を知らせる
- 11月13日夜、嵐雪・桃隣・其角が
落柿舎 を訪問 - 11月17日、義仲寺で芭蕉の57日法会に出席
- 1695年(元禄8年)1月23日頃、義仲寺の芭蕉塚に詣でる
変容する蕉門
[編集]許六宛書簡
[編集]- 1月29日、許六に「俳評論談」の長簡
浪化集
[編集]- 3月中旬、上洛中の浪化と会い、芭蕉終焉の際のことを話す
- 浪化編『有磯海・となみ山』刊
西国巡礼
[編集]- 晩春より夏、田上尼と西国巡礼
- 夏・賀茂祭のころ、魯町・卯七などが上京
- 7月8日、支考に手紙
おくのほそ道
[編集]- 9月12日、
落柿舎 で『おくのほそ道』を写了し、跋文を書く - 冬、湖南無明庵の丈艸を訪問
- 長女登美誕生
- 1696年(元禄9年)3月、史邦編『芭蕉庵小文庫』刊
- 9月、越中高岡の十丈が上洛し去来と会う
- 10月12日、義仲寺の芭蕉3回忌に出席
俳諧問答
[編集]- 1697年(元禄10年)閏2月、其角に「
去来贈其角書 」を送る - 同秋・冬、許六より「贈落柿舎去来書」を受け取る
- 同10月初め、健康優れず
- 同10月11日、木節・乙州宛書簡
- 12月、「答許子問難弁」
- 次女多美生まれる
- かつて身を寄せた母方の叔父久米諸左衛門利品(弁顕)が筑紫より京へ移住
- 1698年(元禄11年)元禄戊寅歳旦牒に歳旦吟が入集
長崎の旅寝
[編集]猶子守寿の死
[編集]元禄11年2月7日、猶子守寿が没する。守寿とは牡年の子英俊のことであるが、父牡年が住する長崎ではなく去來の住む京都で葬られ、またその死を聞いた浪化が去來に「綴俚語弌篇以呈元淵先生吟梧右兼寄膝下之綠髪童」と題する詩を寄せていることなどから、去来の養子として育てられていたのではないかと推測されている[3]:205-240。
去来と魯町の追悼句を見ることが出来る。
猶子守寿の十六歳の春、身まかりけるに
死顔のおほろおほろと花の色—去来、『続有磯海』
同守寿都にて身まかりけると聞て
朝夕に生かへるかと風便り—長サキ 魯町、『続有磯海』
- 3月、許六より「再呈落柿舎先生」を受け取る
入長崎記
[編集]- 6月30日、長崎へ出立、7月11日に着
稀人支考
[編集]- 7月12日、牡年亭で支考と会う
牡年亭夜話
[編集]- 7月13・14日頃、「後麿山の賦」
- 7月中頃、「入長崎記」
千歳亭記
[編集]- 仲秋、田上の千歳亭「千歳亭記」
- 8月30日、風国に書簡
- 初冬、野坡が長崎に来る
旅寝論
[編集]- 1699年(元禄12年)春、田上尼の前栽で花見
- 3月、『旅寝論』書き終える
- 8月16日、野坡らと桜の馬場に遊ぶ
- 9月13日、牡年亭
帰京
[編集]- 9月末、長崎を発って大宰府に詣で、福岡・中国筋を経て10月上旬に帰京
- 10月中旬、学思堂宛去來書簡「回家休」を長崎学思堂へ送る
- 冬、眼病を患う
- 1700年(元禄13年)2月頃、家事多忙
- 3月12日、義仲寺で芭蕉7回忌取越し追善興行に出席
- 3月13日、伊賀の半殘・土芳宛書簡
- 宇鹿・紗柳編『草の道』跋文
- 春から夏の末、浪化が京にあがり対談
- 8月頃、除風編『青莚』跋文
- 10月12日、芭蕉7回忌の追善
- 1701年(元禄14年)夏、「六玉川の記」成立か
- 6月20日、野童が落雷で死去
- 6月下旬、浪化へ野童の死を知らせる
- 7月3日、風国が急逝
- 7月、長崎より帰路にあった野坡が訪れる
- 12月20日、甥の向井伯彦が死去
- 晩柳編『放鳥集』に「霊虫の伝」が入集
晩年
[編集]稚きものを愛して
正月を出して見せうか鏡餅—去來
渡鳥集
[編集]- 1702年(元禄15年)1月晦日、半殘・土芳へ『渡鳥集』への出句を求め書状を送る
- 2月20日、浪化・支考が聖護院の去来を訪ねる
- 『落柿舎集』を企て、土芳に出句を求める
- 10月12日、芭蕉の墓に詣でた義仲寺の帰路、丈艸を訪ね龍が岡の仏幻庵で一夜を語り明かす
- 冬、長崎から先放が京に上がり、去来を訪れる
- 年末、弟(牡年?)が関東で病み、迎えに赴く
- 井筒屋より『おくのほそ道』が刊行
去來抄
[編集]- 1703年(元禄16年)3月、叔父の久米利品(弁顕)が法橋に叙せられる
- 夏、雲鈴が佐渡より上洛して去來を訪ねるが、会えず
- 10月9日、浪化が死去
- 晡川編『枯野塚集』跋文
- 1704年(宝永元年)2月24日、丈艸が死去
- 4月初め、支考が
落柿舎 を訪れる - 5月、魯九編の丈艸追悼集『幻の庵』が成立、「丈艸ヶ誄」入集
- 5月3日、柳斎に宛て書状
- 5月半ば、『渡鳥集』刊
- 5月27日、半殘・土芳宛に手紙
- 1702年からこの年にかけ、『去來抄』執筆
終焉
[編集]- 8月15日頃、病床にあり、「猿蓑文集」の下書き・『本朝文選』序文を許六に送る
- 9月10日朝、聖護院の森のそばの家で病没。
- 9月11日申の刻、真如堂にて葬儀が行われ、同寺の向井家墓地に葬られる
ふして見し面影かへせ後の月—可南尼 貞松、『誰身の秋』
さや豆を手向て悲し後の月—娘 登美
正月二日に墓まいりして
雪汁に裾をそめけり墓の前—娘 多美
追悼
[編集][40]:255-260
句碑
[編集]脚注
[編集]句解
[編集]- ^ 秋風やしらきの弓に弦はらん (あきかぜや しらきのゆみにつるはらん)
『阿羅野』に初出、他に『去來発句集』に集句[25]:13-65。季語は「秋風」で秋の句。「しらき」は漆などを塗らない白木のままの弓をさす。また四季を色で表すと秋は白となり、万葉集には秋風を白風とした例もある。武芸に通じた去來らしさがうかがわれる[26]:15。
- ^ 湖の水まさりけり五月雨 (みずうみのみずまさりけり さつきあめ)
『阿羅野』に初出、他に『雑談集』『青根が峯』『本朝文選』『去來発句集』に集句[25]:13-65。季語は「五月雨」で夏の句。「湖」は琵琶湖のこと。広大な琵琶湖が梅雨によって水かさが増したさまを表現している[26]:16。 - ^ 一昨はあの山越ツ花盛リ (おとといはあのやまこえつ はなざかり)
『花摘』に初出、他に『葛の松原』『旅寝論』『去來抄』『去來発句集』に集句[25]:13-65。季語は「花盛り」で春の句。「一昨」は一昨日が正しい。「花」は桜である。旅路にて、おととい越えてきた山を振り返り見やると、桜が満開に咲いている。『去來抄』によれば、技巧を凝らさぬ軽やかな詠みぶりに、芭蕉は「いま発表しても取る人はあるまい。なお二、三年早いであろう」と評した[26]:20。 - ^ 尾頭のこゝろもとなき海鼠哉 (おがしらのこころもとなきなまこかな)
『猿蓑』に初出、他に『去來発句集』に集句[25]:13-65。季語は「海鼠」で冬の句。海鼠のどちらが頭か判らないさまを詠み、滑稽さを出している[26]:22。 - ^ 螢火や吹とばされて鳰のやみ (ほたるびや ふきとばされてにおのやみ)
『猿蓑』に初出、他に『去來発句集』に集句[25]:13-65。季語は「蛍火」で夏の句。「鳰」は鳰の海を略したもので、琵琶湖のこと。湖畔にきらめく蛍が、夜風に吹き飛ばされて暗闇になってしまった。明から暗に転じたさまを詠む[26]:26。 - ^ 鳶の羽も刷ぬはつしぐれ (とびのはもかいつくろいぬ はつしぐれ)
『誹林一字幽蘭集』に初出、他に『去來発句集』に集句[25]:13-65。季語は「はつしぐれ」で冬の句。「刷」は身繕いをすること。鳶の羽根が折からの時雨で濡れて繕われたと見るか[26]:33、初時雨に濡れて乱れた羽を鳶が身繕う情景と見る[27]:36。『猿蓑』にはこの句を発句とし、芭蕉が脇を務めて巻かれた歌仙が集録され[27]:36、『猿蓑』巻頭「初しぐれ猿も小蓑をほしげ也」に呼応する[28]。 - ^ 応々といへど敲くや雪の門 (おうおうといえどたたくや ゆきのかど)
『句兄弟』に初出、他に『有磯海』『翁草』『真木柱』『綿繍緞』『梟日記』『去來抄』『宰陀稿本』『ねなし草』『去來発句集』に集句[25]:13-65。季語は「雪」で冬の句。雪の日に、訪れた者が門を叩く。中の者が「はい、はい」と返事をしても、叩き続けている[26]:47。 - ^ a b 故郷も今はかり寝や渡鳥 (ふるさともいまはかりねや わたりどり)
『けふの昔』に初出、他に『渡鳥集』『去來発句集』に集句[25]:13-65。前書に「崎陽に旅寝の比」とある。季語は「渡鳥」で秋の句。崎陽は去來が幼時を過ごした長崎のこと。京に住み京に帰る去來は、いずれ旅立たなければならない。故郷の長崎も、渡り鳥のように旅寝なのである[26]:57。 - ^ 鴨啼や弓矢を捨て十余年 (かもなくや ゆみやをすててじゅうよねん)
『いつを昔』に初出、他に『錦繡緞』『去來発句集』に集句。『いつを昔』では前書に「続みなしぐりの撰びにもれ侍りしに、首尾年ありて、此集の人足にくはゝり侍る」とある。この句を発句とした去來・嵐雪・其角による三吟歌仙は『続虚栗 』に間に合わず、後年首尾した為『いつを昔』に加えられたのである[25]:13-65。季語は「鴨」で冬の句。鴨の鳴く寂しげな声を聞いて、弓矢の道に励んだ往時に陰士たる現在を思う[26]:26。 - ^ 初春や家に譲りの太刀はかん (はつはるや いえにゆずりのたちはかん)
『貞享三年其角歳旦帖』に初出、他に『続虚栗 』には上五を「元日や」として集句。季語は「初春」または「元日」で新年の句。「はかん」は「佩く」であり、刀を腰につけること。新しい年を迎え、古くより伝来する太刀を身につけて心持ちを改める。武家の流れを汲む去來らしい句である[26]:3。 - ^ 一畦はしばし鳴やむ蛙哉 (ひとあぜは しばしなきやむかわずかな)
『蛙合』に初出。季語は「蛙」で春の句。 - ^ a b c 柿ぬしや 木ずゑは近きあらしやま (かきぬしや こずえはちかきあらしやま)
『猿蓑』に初出、他に『本朝文選』『去來発句集』に集句[25]:13-65。季語は「柿」で秋の句。私が所有する柿の木の梢に嵐山が見える。柿の実を落とした嵐とも無縁ではない。俳文「落柿舎記 (『本朝文選』に収録)」ではこの句を文末に据え、柿の実が一夜にして落ちてしまったさまを記している。以来、去來は嵯峨の別宅を落柿舎 と名付け、自らも庵号として名乗るようになった[26]:47。 - ^ かゝる夜の月も見にけり野邊送 (かかるよのつきもみにけり のべおくり)
『猿蓑』に初出。季語は「夜の月」で秋の句。向井俊素の葬儀は翌日の元禄3年8月14日に営まれ、この日は仲秋の名月にあたる。野辺送りの夜、名月をこんなに悲しく見ることがあるとは思わなかった[37]。 - ^ 君がてもまじる成べしはな薄 (きみがてもまじるなるべし はなすすき)
『猿蓑』に初出、他に『釿始』『真木柱』『みちはし大全集』『去來発句集』に集句[25]:13-65。前書に「つくしよりかへりけるに、ひみといふ山にて卯七と別て」とある。季語は「はな薄」で秋の句。「ひみ」は長崎の日見峠のこと。見返すと一面に花芒が揺れている。別れを惜しむ君の手も、その中にあるのだろう[26]:47。 - ^ 駒牽の木曾や出らんみかの月 (こまひきのきそやいずらん みかのつき)
『句兄弟』に初出、他に『其便』『浮世の北』『去來文』『真木柱』『去來抄』『みちはし大全集』『水薦刈』『去來発句集』に集句[25]:13-65。季語は「三日月」で秋の句。「駒牽」は諸国から献上された馬を陰暦8月16日に天覧に供する行事。三日月を見ると、この行事に用いられる馬は今頃木曽を出たころだろうと思いやられる。『去來抄』によれば、紀貫之の「逢坂の関の清水に影見えて今や引くらん望月の駒」(『拾遺集』)の歌をひいて吟じたものであったが、芭蕉には「よく計算を合わせている」と評されたという[26]:47。 - ^ a b 岩はなやこゝにもひとり月の客 (いわはなや ここにもひとりつきのきゃく)
『笈日記』に初出、他に『浮世の北』『藁人形』『去來抄』『本朝文選』『芭蕉盥』『鴨矢立』『柴のほまれ』『浪化日記』『三日月日記』に集句[25]:13-65。季語は「月の客」で秋の句。「岩はな」は岩の突き出ている部分のこと。岩頭。『去來抄』によると去來は当初、名月に興じていると、岩頭にも一人月見客を見つけた、と詠んだ。しかし芭蕉はこの句を見、月の客とは自分自身のことで、自ら名乗り出たものと解釈するほうがどれ程風流であるかと評した[26]:57。許六が「去來ガ誄」において特にこの句を取り上げているのは、この芭蕉による解釈が門人の間でも広く知られていた為と見える[44]:47-48。 - ^ 糸桜腹いっぱいに咲にけり (いとざくら はらいっぱいにさきにけり)
『猿蓑』に初出、他に『去來抄』に集句。季語は「糸桜」で春の句。糸桜は枝垂桜の別称。この句は発句ではなく『猿蓑』にある歌仙「灰汁桶」名残の裏5句目(全36句中35句目)で、花の定座にあたる。花を桜に替えた経緯については、『去來抄』の「故実」に書かれる。
人物
[編集]- ^
藤井巴水 (ふじい はすい)
加賀金沢の人。元禄6年、『薦獅子集 』を撰し、住吉神社に奉納した。句空編『北の山』・北枝編『喪の名殘』『卯辰集』に句が散見される。 - ^
伊東玄順 (1648年 (元禄2年) - 1697年6月21日 (元禄10年5月3日))
出羽酒田庄内藩の医師。医師名は渕庵といい、別号に潜庵・潜淵庵 がある。医師伊東是久の長子として酒田に生れ、1670年(寛文10年)には京都に上り長井宗朔に師事して医学を学んだ。1683年 (天和3年)仙台を離れ全国行脚中に酒田を訪れた大淀三千風に俳諧を師事した。1689年 (元禄2年)6月には『おくのほそ道』の途上の芭蕉を迎え、曾良を加えて三吟歌仙を残す。1690年 (元禄3年)には陸奥を旅する路通を迎える。1692年 (元禄5年)には各務支考・羽黒の呂丸とともに象潟に遊び、支考の『葛の松原』に残る。酒田美濃派を開いた。著作に『継尾集』など。 - ^
伊藤風国 (いとう ふうこく - 1701年9月23日 (元禄14年7月3日) )
名古屋玄医門下の京都の医師。通称は玄恕。芭蕉最初の句集『泊船集』の編者。元禄7年に芭蕉が大坂で病に倒れた際、養生所を用意した。編著『初蝉』は、許六に杜撰だと非難された。他に『菊の香』など。 - ^
額田正三郎 (1687年 - 1748年)
大和額田出身の俳人。1716年頃に熊本で旅先の志太野坡に入門し、門下では梅従とともに高弟とされる。俳諧勉学所「九十九庵」を開いた。俳号を風之、別号に九十九庵、一歩人がある。寺町通五条に書肆を営み、『藪の井』『野坡吟艸集』など野坡門下の俳諧書を多数出版した。著作に『六行会(野坡・梅従と共編)』『三日之菴』『軽口はる袋』『屋土里塚(梅従と共編)』『誹諧耳底記』などがある。女芭蕉といわれた湖白庵諸九尼『秋かぜの記』を支弁した額田文下の父 - ^
松葉七郎大夫 (生年不明 - 1707年3月13日 (宝永4年2月10日))
江戸時代前期から中期の俳人。別号に垂虹堂。伊勢神宮の町年寄師職家の3代目であり、風瀑の父正親が伊勢屋の当主を務めたころ、風瀑は江戸伊勢屋に出向していた。1684年 (貞享元年6月)中旬に江戸から伊勢へと帰り、約2ヶ月後には『野ざらし紀行』の旅に出た芭蕉がこれを訪ねて10日程足を止めている。また榎本其角や芳賀一晶らとも交遊があった。著作に『丙寅紀行』『一楼賦 』など - ^
仙化 (生没年不明)
江戸時代前期の俳人。江戸の人。別号に青蟾堂。芭蕉の門人で『あら野』『虚栗 』『続虚栗 』などに入句が見られる。1686年 (貞享3年)に『可般図(蛙合)』を編み、その巻頭は左に芭蕉の「古池や」の句を配し、右には仙化の句が配された。
註釈
[編集]- ^ 本文には「三月日 去來」としかないが、8枚目にある酒堂らの訪れが史邦『
芭蕉庵小文庫 』や巴水[† 1]『薦獅子集 』によって1693年(元禄6年)のことと判る。また野明の句が旧号である鳳仭 として引用されているが、野明は1694年(元禄7年)夏に改号しているためそれ以前に記されたと判る[4]:237 - ^ a b 「○」は不読文字
- ^ 志田義秀は、これら蕉門俳人は去來の徳望に影響され、実質以上に評価している恐れもあるともしている[19]:35-41
- ^ 学思堂は、去來の弟元成すなわち魯町の営む学塾と推定される。魯町は去來らの父元升が興した長崎聖堂の第3代祭酒となっていた[30]:16-17
- ^ a b 支考は『梟日記』において、魯町及び牡年は去來とは骨肉の間であると記している。去來もまた『續別座敷集』で「弟魯町故郷へ帰りけるに」と記し、更には『渡鳥集』では句の前書に「立山下、魯町がもとにて」とある。去來の兄弟のうち立山下に居たのは、長崎聖堂の祭主を勤めていた元成である。畢竟、牡年は利文であると判る[34]:484-486。
- ^ 去來の生年を記すものは知られていない。向井元仲『落柿舎去來先生事實』及び佐々木尚義『落柿先生行状』『向井家系圖』により享年54(満53歳)と知れ、没した1704年から逆算して1651年の出生とされる。また去來自身が『旅寝論』において、京への旅を8歳(満7歳)のときと記している。これが『落柿舎去來先生事實』等により1658年のことと判る[3]:237
- ^ 曰人の『蕉門諸生全傳』や許六『本朝文選』の「去來ガ誄」には末子と伝えるが、『長崎先民傳』に兄元端の別号が仁焉子とあり、去來の別号が義焉子、弟元成は『向井氏系譜』によれば禮焉子、利文は『本蓮寺過去帖』に智焉子、早世した兼之は『覺圓院過去帖』に信焉子とある。去來が次男であることは明らかである[34]:309-312
- ^ 『落柿舎去來先生事實』による。原文は「五十歳冬十一月廿一日夜夢蒙天満神霊束帯告曰爾入洛医有大功」[4]:6-8。
- ^ 元升は京都でも医術で令名を馳せ、皇子後宮や公家太夫に多くの患者を抱えた。特に八條金剛壽院宮に薬を献上して治癒したことで、後水尾上皇から褒美を受け、天下の良医と称された[3]:4-5。また貝原益軒と会して交友を持ち、深く影響を与えた[34]:394-399。益軒の主著書である『大和本草』は、元升の著した『庖厨備用倭名本草』にその多くを負っている[34]:368-375。
- ^ 去來が出入りした堂上家とは諸説あり、『蝶夢和尚文集』には栗田口の宮すなわち青蓮院の宮と、『耳鳴草』には二条家と、『標注七部集』には菊亭殿すなわち今出川家、『風俗文撰通釈』には飛鳥井家とある[4]:8-11
- ^ この時其角は京阪を旅して歌仙を興行し、また西鶴の矢数俳諧23500句の後見役を務めている[36]:365-374。
- ^ 蚊足は其角と親しく、『新山家』の版下は蚊足の手になるものであるし、其角撰の『
続虚栗 』にも多く入集している。一方で去來とは『貞享三年其角歳旦帖』の三ツ物に加え、同年閏3月10日付去來宛芭蕉書簡にも蚊足と去來の間に交渉があったさまを見ることが出来る[3]:21-44。
出典
[編集]- ^ 藤村作 1933.
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- 吉田義雄「『続猿蓑』吟味 : 去来・土芳・許六たちの関はり方について」『横浜国立大学人文紀要. 第二類, 語学・文学』第13号、横浜国立大学、14-22頁、1966年12月26日。ISSN 0513563X。 NCID AN00246540 。
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外部リンク
[編集]- 伊藤洋「向井去来」『芭蕉関係人名集』、芭蕉(bashoDB)、2009年4月23日 。2014年11月14日閲覧。
- 『LudwigSK/向井去來』 - コトバンク