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利用者:Earthbound1960/Sandbox/work6

大正5年頃の西田幾多郎

善の研究』(ぜんのけんきゅう)は、日本思想家である西田幾多郎が41歳の時に著した作品。1911年明治44年)2月6日に弘道館より出版された。明治初期に日本にヨーロッパの哲学が伝えられて以来始めて日本で生まれた日本独自の体系的な哲学思想である[1]

概要

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当初は『純粋経験実在』という題名のもとに構想されていたが、出版社の弘道館が反対したため、この名に改題された[2][引用 1][3] 出版当初はあまり反響がなかったが、大正・昭和を通じて、哲学を学ぶものだけでなく一般の読者層にも読まれる広く普及した哲学書であった[1]

1896年に母校である第四高等学校の講師となり、心労を克服するために参禅体験を積む。善体験による人格の統一を通じて思想を統一することが最善の道と考えるようになった[4]。『善の研究』は西田幾多郎の最初期の作品で、何度かの転換点を越え、『場所の論理』の発表の頃より呼称されるようになった『西田哲学』 [引用 2][5][引用 3][6]につながっていく基礎となった作品である[7]

構成

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『善の研究』は、「純粋経験」、「實在」、「善」、「宗教」の四つの編で構成されている[8]。第一編の「純粋経験」においては、「純粋経験」という概念が西田幾多郎の思想の根底にあり、「純粋経験」が何であるかが論じられている。しかし、なぜ「純粋経験」が問題になるのかと言うことが説明されないままに、いきなり「純粋経験」とは何かを論じているため、唐突な印象を受ける[3]。これは「純粋経験」が第二編の「實在」よりも後に書かれたことに起因している。第二編の「實在」

第一編 純粋經驗
第一章 純粋經驗[9][10]
第二章 思惟[11][12]
第三章 意志[13][14]
第四章 知的直觀[15][16]
第二編 實在
第一章 考究の出立点[17][18]
第二章 意識現象が唯一の実在である[19][20]
第三章 實在の眞景[21][22]
第四章 眞實在は常に同一の形式を有つて居る[23][24]
第五章 眞實在の根本的方式[25][26]
第六章 唯一實在[27][28]
第七章 實在の分化發展[29][30]
第八章 自然[31][32]
第九章 精神[33][34]
第十章 實在としての神[35][36]
第三編
第一章 行爲 [37][38]
第二章 行爲 [39][40]
第三章 意思の自由[41][42]
第四章 價値的研究の自由[43][44]
第五章 倫理學の諸說 其一[45][46]
第六章 倫理學の諸說 其二[47][48]
第七章 倫理學の諸說 其三[49][50]
第八章 倫理學の諸說 其四[51][52]
第九章 善(活動說)[53][54]
第十章 人格的善[55][56]
第十一章 善行爲の動機(善の形式)[57][58]
第十二章 善行爲の目的(善の内容)[59][60]
第十三章 完全なる善行[61][62]
第四編 宗敎
第一章 宗敎的要求[63][64]
第二章 宗敎的の本質[65][66]
第三章 [67][68]
第四章 神と世界[69][70]
第四章 知と愛[71][72]

第一編 純粋経験

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第一章 純粋経験

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純粋経験は前期の西田哲学の中心概念である[73][74][75]。西田はアメリカの哲学者ジェームズオーストリアの哲学者マッハの影響を受けながら[76][77]純粋経験を唯一の実在と見なし[73]、純粋経験とはピュシス[引用 4][78]に到達することだと考えた[79]

西田の考える純粋経験とは静止的直観ではなく発展的活動である[80]。純粋経験における発展とは純粋経験そのものと別の何かではなくて純粋経験とは発展活動そのものである。よって、純粋経験の発展を外から見ることは不可能であると主張している[80]

純粋経験における統一と対立の問題についても、統一と対立は相対するものではなく統一は対立を止揚したものと西田は捉えている[81]。分裂と統一はひとつであり、分裂するということは統一の拡大であると解釈している[81]。事実について西田は「事実そのままの現在意識」と表現し、現在意識もしくは純粋経験は事実とは等置概念としている。また、意味について『善の研究』の中では事実と意味を分別していたが純粋経験のなかでは一つに結びつけて考えている[82]

純粋経験は、さらに進んで「物質と精神」「客観と主観」とを包括する真実在として、自らのうちに区別を明らかにし統一する活動として捉えるべきであると考え「自覚」について考察を進めることになる[83]

第二章 思惟

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思惟[84]とは、直観的に心に思い浮かべられる外的対象像のあいだの関係を決定しこれを統一する作用のことを指す[85][86]。判断は思惟の代表的な例である。例えば「人が歩く」という判断は「歩く人」という一つの表象[87]を分析することによって生まれる。判断の背後には純粋経験が存在する[88]

従来は思惟と純粋経験は別の精神作用であると考えられていたが、ジェームズの主張[引用 5][89]するように「関係の意識を経験の中に入れる」ように考えると思惟も純粋経験の一種ということが可能となる。知覚[90]と思惟の要素である心像[91]は、外界からの末梢神経への刺激と脳の刺激に基づくと区別可能で、体内においても知覚と心像を混同することはないが、夢の中においては心像と知覚を混同するようなこともあり厳密には区分することが困難な場合もある[92]

一般に知覚による経験は受動的で、その作用の全てが無意識であるのに対して、思惟は能動的であると考えられている。しかし、ある問題を解明しようとして思惟に没頭している時の思惟の活動は無意識の中で行われており、思惟の活動を意識するのは何らかの雑念が入ったときである。このことから思惟は一概に能動的なものでは無いと西田は論じている[93]

また、知覚的経験は外界の制限を受けるが思惟の働きは自由である、知覚的経験は外部から突き動かされるが思惟は内部から突き動かさえる、知覚による経験は具体的な事実についての経験であるが思惟は抽象的関係の意識であると言った、知覚的経験と思惟の差異について西田は程度の際はあっても両者には性質的な違いはないと論じている[93]。思惟するという事の本質は真偽を明らかにすることにあるが、すべての意識現象は純粋経験であり真偽の区別は無い[94]。同様にすべての意識体系も体系全体を見た場合真偽の区別は存在しない。真偽の区別は意識現象と意識体系との関係、つまり、意識現象が意識現象より大きな意識体系の中に包摂[95]された時に真となると論じている[96]。この章の結論として、思惟作用と知覚的経験は異なった性質の精神作用ではなく、程度の違いに過ぎないと述べている[97]


第三章 意志

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この章では精神の基本的な働きであるところの意志[引用 6][98]について述べられている。

引用

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  1. ^ 【実は最近、この本の初版の出版先である弘道館と西田とのあいだで交わした出版契約書が発見された。それを見ると、最初この本の表題は、「純粋経験と存在」とされていたことが分かる。このタイトルの方が間違いなく本書の内容にふさわしい。この書における西田の根本の主張は、「純粋経験」こそ実在、つまり真にあるものであるというものだからである。】(「西田幾多郎『善の研究』を読む」藤田正勝 著 18ページ11行目〜15行目より引用)
  2. ^ 【論文『場所』(1926年)が発表されると、当時新カント学派であった左右田喜一郎はこの論文に独特な性質の思索と哲学史上の新しい意義を見出し、「西田哲学」と呼んだ。この呼称が西田の思想の展開とともに学会・思想界に流布し定着した。】(「岩波 哲学・思想辞典」1208ページ20行目〜24行目より引用)
  3. ^ 【いわゆる<西田哲学>という呼び名は、さきにものべたように、彼の画期的な著作『働くものから見るものへ』のうちぬふくまれる<場所>という論文に対して、それを批評した故・左右田喜一郎によって与えられたものであり、これを機縁として次第にこの名称が学界をはじめ一般読書界まで拡がっていったのである。】(「西田幾多郎の世界」 鈴木亨著 27ページ11行目〜14行目より引用)
  4. ^ ヘラクレイトスによれば、ピュシス(自然)は「隠れることを好む」とされ、常に隠されている存在なのですが、ロゴスの立場というのは、自然は完全に人間の理性の中で暴かれていて、その隠れなさゆえに全てが理解し尽くせると考える立場です。人間の理性にとって矛盾して相反するものは、見ることも理解することもできないものであるから問題にする必要がないとして、ヘラクレイトスなどのピュシス的な立場から、人間の理性に合致するもの、隠れなく「見えているもの」の原型・模範をのみ探求するロゴスの立場へと哲学が転換するのが、ソクラテスプラトンの時代です。】(池田善昭・福岡伸一著『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅、動的平衡と絶対矛盾的自己同一』40頁9行目〜15行目より引用)
  5. ^ 【『純粋経験の世界』(A World of Pure Experience 1904年)ジェームスの根本的経験論の立場の本質を明らかにした重要な論文、従来の経験論においては、経験は個々ばらばらのものと考えられ、これらの経験を結ぶのは思惟の作用であると考えられたが、ジェームスはこの論文において、経験と経験を結びつける関係それ自身も一つの経験であると考え、経験と経験との分離的関係を強調するとともにその接続的関係を強調するとともに、経験の持つ能動的な働きを強調した。】(西田幾多郎著 小阪国継全注釈『善の研究』60頁8行目〜13行目より引用)
  6. ^ 意志 本能や衝動のように自然的要求にもとづく活動ではなく、一定の動機にもとづく目的追求の自覚的行為をいう。】(西田幾多郎著 小阪国継全注釈『善の研究』85頁12行目〜13行目より引用)

脚注

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  1. ^ a b 下村 1979, p. 247.
  2. ^ 櫻井歓 (2023年4月9日). “実は煽りタイトルだった? 意外と知らない西田幾多郎『善の研究』の「本当のテーマ」”. 現代新書. 講談社. 2024年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年9月30日閲覧。
  3. ^ a b 藤田 2022, p. 18.
  4. ^ 哲学辞典・平凡社 1971, p. 1048.
  5. ^ 哲学思想辞典・岩波 1998, p. 1208.
  6. ^ 鈴木 1985, p. 27.
  7. ^ 哲学思想辞典・岩波 1998, p. 964.
  8. ^ 思想・小坂 2002, p. 90.
  9. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 1–11.
  10. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 1–15.
  11. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 13–26.
  12. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 16–32.
  13. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 27–42.
  14. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 33–51.
  15. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 43–50.
  16. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 52–60.
  17. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 51–58.
  18. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 61–70.
  19. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 59–66.
  20. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 71–80.
  21. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 67–73.
  22. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 81–88.
  23. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 74–79.
  24. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 89–95.
  25. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 80–86.
  26. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 96–105.
  27. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 87–93.
  28. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 106–111.
  29. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 94–100.
  30. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 112–120.
  31. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 101–108.
  32. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 121–130.
  33. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 109–119.
  34. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 131–143.
  35. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 120–126.
  36. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 144–152.
  37. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 127–134.
  38. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 153–161.
  39. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 135–139.
  40. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 162–167.
  41. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 140–148.
  42. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 168–177.
  43. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 149–153.
  44. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 178–183.
  45. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 154–159.
  46. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 184–190.
  47. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 160–165.
  48. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 191–197.
  49. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 166–172.
  50. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 198–205.
  51. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 173–183.
  52. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 206–218.
  53. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 184–190.
  54. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 219–227.
  55. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 191–197.
  56. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 228–236.
  57. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 198–203.
  58. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 237–243.
  59. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 204–212.
  60. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 244–253.
  61. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 213–218.
  62. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 244–262.
  63. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 219–224.
  64. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 263–269.
  65. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 225–231.
  66. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 270–278.
  67. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 232–246.
  68. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 279–296.
  69. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 247–255.
  70. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 297–307.
  71. ^ 善の研究・弘道館 1911, pp. 256–261.
  72. ^ 善の研究・岩波 1921, pp. 308–314.
  73. ^ a b 哲学思想辞典・岩波 1998, p. 1454.
  74. ^ 池田・福岡 2017, p. 68.
  75. ^ 神尾 2017, p. 53.
  76. ^ 横田 2009, pp. 790, 798.
  77. ^ 満原 2023, pp. 107–108.
  78. ^ 池田・福岡 2017, p. 40.
  79. ^ 池田・福岡 2017, p. 69.
  80. ^ a b 石神 1991, p. 106.
  81. ^ a b 石神 1991, p. 110.
  82. ^ 石神 1991, pp. 115–116.
  83. ^ 横山 1981, pp. 94–95.
  84. ^ 小学館. “思惟(しい)”. デジタル大辞泉. 小学館. 2024年12月24日閲覧。
  85. ^ 満原 2018, p. 37.
  86. ^ 小坂・全注釈 2006, p. 75.
  87. ^ 木田元. “表象 (ひょうしょう)”. 改訂新版 世界大百科事典. 平凡社. 2024年12月23日閲覧。
  88. ^ 小坂・全注釈 2006, p. 58.
  89. ^ 小坂・全注釈 2006, p. 60.
  90. ^ 小学館. “知覚/智覚(ちかく)”. デジタル大辞泉. 小学館. 2024年12月24日閲覧。
  91. ^ ブリタニカ国際大百科事典. “心像 しんぞう image”. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. ブリタニカ・ジャパン. 2024年12月23日閲覧。
  92. ^ 小坂・全注釈 2006, pp. 59–60.
  93. ^ a b 小坂・全注釈 2006, p. 70.
  94. ^ 思想・小坂 2002, p. 96.
  95. ^ 小学館. “包摂(ほうせつ)”. デジタル大辞泉. 小学館. 2024年12月24日閲覧。
  96. ^ 小坂・全注釈 2006, pp. 78–79.
  97. ^ 小坂・全注釈 2006, p. 84.
  98. ^ 小坂・全注釈 2006, p. 85.


参考文献

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書誌情報

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関連文献

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  • 香山リカ『善の研究 実在と自己』哲学書房〈能動知性 = intellectus actu 5〉、2000年7月。ISBN 4-88679-255-3 
  • 大熊玄『善とは何か 西田幾多郎『善の研究』講義』新泉社、2020年。現代口語訳
    • 続編『実在とは何か 西田幾多郎『善の研究』講義』新泉社、2023年
  • 若松英輔『西田幾多郎 善の研究 人は誰もが生かされている』、NHK出版、2019年10月「100分de名著」放送テキスト
  • 藤田正勝『西田幾多郎『善の研究』を読む』筑摩書房〈ちくま新書〉、2022年8月
  • 『善の研究 まんがで読破』イースト・プレス・コミック文庫、2014年。


外部リンク

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