コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:むらのくま/sandbox

ハーラル3世 (ノルウェー王) (翻訳版)

[編集]

冒頭部

[編集]
ハーラル3世
Harald III Hardråde
ノルウェー王
在位 1046年 - 1066年9月25日
別号 ハーラル・シグルズソン
ハーラル・ハルドラーダ
ハーラル苛烈王

出生 1015年
 ノルウェー リンゲリーケ英語版
死去 1066年9月25日
イングランド王国の旗 イングランド王国 ヨークシャー
スタンフォード・ブリッジ英語版
埋葬  ノルウェー トロンハイム
配偶者 エリザヴェータ・ヤロスラヴナ
  トーラ・トールベルグスダッテル
Tora Torbergsdatter
子女 インゲゲルド・ハーラルスダッテル
マリア・ハーラルスダッテル英語版
マグヌス2世英語版
オーラヴ3世
家名 シュル家
王朝 ホールファグレ朝
父親 シグル・シュル(Sigurd Syr
母親 オースタ・グドブランスダッテル(Åsta Gudbrandsdatter
宗教 カトリック教会
テンプレートを表示

ハーラル3世ノルウェー語: Harald III。1015年 - 1066年9月25日)は、1046年から1066年にかけて在位したノルウェー王国の王である。別称は、ハーラル・ジグルズソン(ノルウェー語: Harald Sigurdsson、古ノルド語: Haraldr Sigurðarson)[1]ハーラル・ハルドラーダ(ノルウェー語: Harald Hardråde、古ノルド語: Haraldr harðráði)[2][注 1]ハーラル苛烈王[3]ハーラル1世(美髪王)の玄孫オーラヴ2世の異父弟。父はリンゲリーケ地方英語版小王英語版シグル・シュル(Sigurd Syr)。

王位就任前の約15年間は、キエフ大公国や、ビザンツ帝国ではヴァラング親衛隊英語版で、傭兵、軍指揮官として亡命生活を送っていた。ノルウェー王位就任後は、1064年まではデンマーク王位、1066年にはイングランド王位への就任を求めたが、どちらも失敗に終わった。

1030年、ハーラルが15歳の時、異夫兄オーラヴ2世がデンマーク王・イングランド王クヌート大王に2年前に奪われたノルウェー王位を奪還するため、オーラヴ2世と共にスティクルスタードの戦い英語版にてクヌート大王配下の勢力と対峙するが敗北。オーラヴ2世は敗死し(のちに列聖[4]、ハーラルはキエフ大公国[注 2]への亡命を余儀なくされた。そこではキエフ大公ヤロスラフ1世の軍隊に所属し、最終的には傭兵隊長(captain)クラスとなった。1034年頃には部下を引き連れてビザンツ帝国のコンスタンティノープルへ移った。程無くしてビザンツ帝国のヴァラング親衛隊の指揮官に就任し、地中海アナトリアシチリアに加え、おそらくパレスチナ周辺(所謂、アブラハムの宗教における聖地)、ブルガリア、またコンスタンティノープルを含め、各地の様々な戦役に携わった。ハーラルは、このビザンツ帝国時代に巨万の富を築き上げ、その財宝を安全に保管するためにキエフ大公国のヤロスラフ1世の許に送っていた。1041年に皇帝ミカエル4世が没すると、その養子で後継皇帝のミカエル5世と、未亡人ゾエによる帝位をめぐる争いに巻き込まれることとなった。1042年、ハーラルは遂にビザンツ帝国を離れ、ノルウェー王位奪還作戦の準備をするため、再びキエフ大公国に戻った。ハラールがノルウェーを離れている間に、デーン人でイングランド王・デンマーク王・ノルウェー王であったクヌート大王が没し(1035年)、オーラブ2世の非嫡出子であったマグヌス1世(ハーラルの甥に当たる)がノルウェー王位に就いていたことを、ハラールは認識していた様である。

1046年、ハーラルは、デンマーク王であったスヴェン1世の孫でデンマーク王位就任を主張するスヴェン2世と手を組み、デンマークの沿岸地域への襲撃を開始した[注 3]。マグヌス1世は叔父であるハーラルとの戦いを望まず、ハーラルが持つ財宝を分け合うことを条件に、ノルウェーを共同統治することに同意した。翌1047年になるとマグヌス1世が死去、共同統治体制はあっけなく終わり、ハーラルは単独のノルウェー王となった。国内的には、各地域の反対勢力を全て打ち破り、統一国家としての統治体制をノルウェー全土に及ぼした。ハーラルの治世は比較的平和で安定していたとされ、持続可能な貨幣経済体制や他国との貿易制度を構築した。対外的には、かつてクヌート大王が作り上げたイングランド・デンマーク・ノルウェーに跨る「北海帝国」を自分の手で再び作り上げようとしたのか、デンマーク王位も主張することとなり、1064年までほぼ毎年、デンマーク沿岸地域を襲撃し、先の同盟者でデンマーク王となっていたスヴェン2世と戦った。この毎年の襲撃はうまくいったものの、デンマークを征服するには至らず、1064年にデンマーク王位への主張を断念するに至った。

1066年1月にイングランド王となったハロルド2世の弟ではあるが、兄王の戴冠に反対であった前ノーザンブリア伯英語版トスティ・ゴドウィンソンは、ハーラルに忠誠を誓った上で「イングランド王位を狙ってみないか」とイングランド侵攻を進言した。ハーラルは了解し、同年9月、1万人の軍勢、300隻のロングシップを率いてイングランド北部英語版へ侵攻、沿岸部を襲撃した。同年9月20日にはヨーク近郊でのフルフォードの戦いにて、イングランドの地方勢力(ノーザンブリア伯爵、マーシア伯爵)の軍勢を打ち負かした。緒戦はうまくいったものの、同年9月26日、スタンフォード・ブリッジの戦いにおいてハロルド2世の軍勢の奇襲に遭い、ハーラル軍はほぼ全滅しハーラルも敗死した。ハーラルの死により、このイングランド侵攻は終結、現代の歴史家の多くは、これを以て「ヴァイキング時代の終焉」としている。

ハーラルの死後、ノルウェーは2人の息子マグヌス2世英語版オーラヴ3世が共同統治した。

エピセット(別名)

[編集]

ハーラル3世のエピセット(別名)は「harðráði」(古ノルド語)が最も知られており、「hard in counsel(協議は難しい)」、「tyrannical(専制的な)」[5][6]、「tyrant(専制君主)」、「hard-ruler(厳しい支配者)」、「ruthless(無慈悲な)」、「savage in counsel(協議では非常に暴力的)」、「tough(厳しい)」、「severe(容赦のない)」といった意味合いで訳されてきた[7]。ヴァイキング研究者のジュディス・ジェシュ英語版は「severe(容赦のない)」が最適の訳語であるとし[8]、一方、古アイスランド語学者のアリソン・フィンレイ(Alison Finlay)[9]、アンソニー・フォークス(Anthony Faulkes)[10]は「resolute(断固とした)」が最も適切であろうとしている[7]。「harðráði」(古ノルド語)の英語への翻字は「Hardrada」(ハルドラーダ)とすることが慣例となっているが、ジュディス・ジェシュによると、元の「harðráði」(斜格で語尾が変化している)そのままの翻字ではない「Hardrada」は「まがいもの」の形であるという[8]。この「harðráði」は13世紀頃に書かれた王のサガ英語版(中世のアイスランドで成立した散文群「サガ」の一類型)で使われ、知られるようになった[11]

ところで、ブリテン諸島での出来事に関する複数の独立した史料(そのほとんどはサガよりも古い)では、古ノルド語の「hárfagri」(「hair-beautiful(美髪)」の意)に由来するエピセット(別名)がハーラル3世に用いられていた。これらには以下の様なものがある。

一方で、アイスランドで書かれたものに関しては、アリ・ソルギルスソン著『アイスランド人の書』(1134年頃筆)にて、ハーラル3世よりも前のノルウェー王ハーラル1世のエピセット(別名)として「hárfagri」(Fairhair。美髪)が使われており、以降に編纂されたサガにおいても、ハーラル1世を「hárfagri」としていることがよく知られている。この相違について、20世紀の歴史学者たちは「ブリテン諸島での出来事に関する史料では、間違って、ハーラル3世=美髪としてしまったもの」と考えていた。しかし、ブリテン諸島での出来事に関する各史料間の独立性が認められるようになると、ハーラル3世は「Fairhair」(美髪)として広く知られてていたという説が支持されるようになり、さらには、のちのサガにおけるハーラル1世の描写に疑問が呈される様になっている[12][13][14]

歴史学者のスヴェリール・ヤコブソンアイスランド語版は、ハーラル3世のエピセット(別名)に関し、「fairhair(美髪)はハーラル3世自身が望んだエピセットの可能性が有り、harðráði(severe、容赦のない)は争った相手側により付けられたエピセットに相違ない」と主張している[11]

若年期

[編集]
後期のサガに拠る、高祖父ハーラル1世(Harald Fainhair)からハーラル3世(Harald Hardrada)に至る系図。イタリック体での表記は、その存在に争いがある人物[15]

1015年もしくは1016年[注 4]ノルウェーリンゲリーケ地方英語版で生まれる[16]。父はリンゲリーケ地方の小王英語版で、ノルウェー内陸部オップラン地域(Opplandene)で有数の財と権力を持っていたシグル・シュル(Sigurd Syr[17]。母は、子(のちのオーラヴ2世。ハーラルから見れば異父兄)を身ごもっている最中に夫を亡くし、シグル・シュルと再婚したオースタ・グドブランスダッテル(Åsta Gudbrandsdatter[18]。父シグルと母オースタとの間には息子が3人生まれ、ハーラルは末っ子であった。少年の頃、父シグルに似て堅実で所有する農場の維持を第一に考える二人の兄とは異なり、ハーラルは天下を狙う野心家の典型で、目指すべき目標としてオーラヴ2世に敬服していたという[19]

アイスランドのサガ、とりわけ13世紀に『ヘイムスクリングラ』を著したスノッリ・ストゥルルソンは、ハーラルの父シグルは、オーラヴ2世の父ハーラル・グレンスケ英語版と同じく、ハーラル1世美髪王の男系の曾孫であったと記している。しかしながら、ハーラル1世を祖とする他の家系も同様であるが、ハーラル1世からシグル(ハーラルの父)に連なる系図は、史実であるというよりは、史料が作成された当時(ハーラルが生きた時代の約200年後の13世紀)の政治的、社会的な要請が反映された創作である、との説が通説となっている[18][20]。ハーラル(3世)がハーラル1世の子孫であるとされる言及は、ハーラルが生きていた時代のものは確認されておらず、ハーラル自身の為には何ら役に立っていない。このことは、ハーラルのノルウェー王位への主張に関連して重要な正当性を提供したであろうことを考えると奇妙にも思われる[18]

1028年にハーラルの異父兄でノルウェー王であったオーラヴ2世に対する反乱が発生、オーラヴ2世は追放され、1030年初めにノルウェーに帰還した。ハーラルはオーラヴ2世の帰還計画を聞き付けるとオップラン地域から600人の兵を集め、オーラヴ2世とその配下がノルウェー東部に到着するとハーラルの軍勢も合流した。ハーラル勢を温かく向かい入れると、オーラヴ2世は兵を集め、オーラブ2世・ハーラルの軍勢は最終的には1030年7月29日にスティクルスタードの戦い英語版を戦うこととなった[21]。この戦いはクヌート大王(イングランド・デンマーク・ノルウェー王)に奪われていたノルウェー王位を奪還する試みであったが、クヌート大王に忠誠を誓うノルウェーの在地勢力に敗れ、オーラヴ2世は敗死、ハーラルは重傷を負った[22]。この戦いにおいてハーラルは負傷し負け戦となったわけだが、それでもなお、「ハーラルは卓越した軍事的才能を示した」と言われている[23]

東方での亡命生活

[編集]

キエフ大公国への亡命

[編集]

スティクルスタードの戦い英語版クヌート大王に敗れたのち、ハーラルはログンヴァルド・ブルーサソン英語版(のちのオークニー伯爵英語版)の助けを借りてノルウェー南東部エストラン地方の人里離れた農園に何とか逃げ込んだ。傷を癒すために暫く(おそらく1か月程度)滞在した後、山越えをして北方のスウェーデンに向かった。スティクルスタードの戦いでの敗戦から1年が経った頃、ハーラルはキエフ大公国サガでは「ガルザリーキ英語版」または「スヴィーショウズ・ヒン・ミクラ(Svíþjóð hin mikla)」[注 5]との表記)に入った。1031年前半にはスタラヤ・ラドガ(アルデイユボルグ、Aldeigjuborg)の街に入り、しばらくそこで過ごしたと思われる。キエフ大公ヤロスラフ1世は、その妻インギゲルド・オラフスドッテル英語版がハーラルの遠縁だったこともあり、ハーラルとその配下を温かく迎い入れた[26][27]。軍の指揮官をひどく欲していたヤロスラフ1世は、ハーラルの軍事的能力を見込み、軍の指揮官の一人に任じた[28]。以前、ハーラルの異父兄オーラヴ2世が反乱に遭い追放された折(1028年)には、オーラヴ2世はヤロスラフ1世の許に身を寄せていた縁もあり[29]王のサガ英語版モルキンスキンナ』では「ハーラルはオーラヴ2世の弟だったので、何よりもまず、ヤロスラフ1世はハーラルを受け入れた」と記されている[30]。ハーラルは、1031年のヤロスラフ1世のポーランド人との戦いに参加しており、また1030年代のキエフ大公国の敵対勢力や対抗勢力であったエストニアチュヂ族、、ビザンツ人ペチェネグやほかの草原遊牧民との戦いにも参加した可能性が有る[31]

ビザンツ帝国での活躍

[編集]
ほぼ同時代に描かれたビザンツ帝国ヴァラング親衛隊英語版ヨハネス・スキュリツェスの『年代記』より)

キエフ大公国で数年を過ごしたのち、おそらく1033年ま1034年にハーラルとその配下約500名[16]は南方のビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープル古ノルド語ミクラガルズノルウェー語版)に移り[32]、ビザンツ帝国の北欧人部隊であるヴァラング親衛隊英語版に加わった。王のサガ英語版などが収められている写本『フラート島本』では「ハラールは当初、自身が王族であることを隠そうとしていた」としているが、他のほとんどの史料によれば「当時、東方のかの地(コンスタンティノープル)にもハラールとその配下の名声は轟いていた」様である。ハラールが加わったヴァラング親衛隊は元々はビザンツ皇帝の身辺警護部隊であったが、ハーラルはビザンツ帝国の「ほとんど全ての辺境地域」での戦闘に参加してたことが知られている[33]。ハーラルは、まず地中海でのアラブ人海賊との戦闘に、それから海賊側を支援していた小アジア(アナトリア半島)内陸部の諸都市での戦闘に参加した。13世紀のアイスランドの歴史家・詩人・政治家スノッリ・ストゥルルソンによると、この頃までには「ヴァラング親衛隊全体の指揮官」になっていたという。1035年までにビザンツ帝国側はアラブ人勢力を小アジアから東側、南東側に追い出したが、その際、ハーラルは東方のメソポタミアティグリス川ユーフラテス川に至る戦いに従事した。「ハーラル付きのスカルド詩人ショウゾウルヴル・アルッノルスソン英語版曰く、ハーラルはこの戦いにおいて80に上るアラブ人の城の攻略に参加した」とサガでは語られているが、歴史家のシグフース・ブロンダル(Sigfús Blöndal)とBenedikt Benedikzも、この80という数字に疑問を挟む理由は特にないとしている。サガが示唆する様にハーラルは軍を単独で動かす指揮権を保持していたわけではないが、ハーラルと配下のヴァラング親衛隊は城や街を攻略するために時折派遣されていた様である[34][35]。ビザンツ帝国皇帝ミカエル4世治世が1034年に始まってからの4年の間には、ハーラルはおそらく遊牧民ペチェネグとの戦いにも従事していた様である[36]

その後ハーラルはエルサレムへ向かい、そこでの戦闘に参加した、とサガでは伝わる。サガでは、このエルサレムでの戦闘をシチリア島遠征(1038年)の後としているが、歴史家ケリー・デヴリース英語版はこの前後関係に疑問を呈している[37]。このエルサレム遠征は軍事目的だったのか平和なものだったかは、1036年のミカエル4世、ファーティマ朝カリフアル=ムスタンスィル・ビッラー英語版[37](1036年当時は未成年で、実際は、元東方教会教徒であった母Rasadが実権を握っていた)間の和平合意前か後によると考えられるが、和平合意前であった可能性は低いと考えられている。現代の歴史家は「和平合意が成り、ビザンツ帝国側が聖墳墓教会の修復を行うことも合意されており、ハーラルはエルサレム巡礼者(恐らく帝室の者が含まれていた)を護衛するために派遣された部隊の一員であった様だ。さらには巡礼者を狙う山賊と戦う場面があったかもしれない」と推測している[38][39]

1038年、ハーラルは、イスラム教徒であるサラセン人に奪われていたシチリア島イスラーム期のシチリア)を奪還するためのゲオルギオス・マニアケス英語版(サガでは「ギュルギル」[40])を総司令官とする[41]ビザンツ帝国の遠征軍に参加した[42][43]。この遠征では、ハーラルは鉄腕グリエルモ(William Iron Arm)といったノルマン人傭兵と共に戦った[42]。スノッリ・ストゥルルソンによると、ハーラルはシチリア島の4つの街を攻略したという[43]。1041年、ビザンツ帝国のシチリア島遠征が終わると、南イタリアランゴバルド人・ノルマン人勢力の反乱が勃発、ハーラルはヴァラング親衛隊を率い[44]、ビサンツ帝国イタリア総督(Catepan of Italyミカエル・ドケイアノス英語版らとともに反乱勢力と戦った。緒戦はビサンツ帝国側が優勢であったが、1041年3月のオリヴェントの戦い(Battle of Olivento[45]、同年5月のモンテマッジョーレの戦い英語版で、かつて共に戦った鉄腕グリエルモ率いるノルマン人勢力[注 6]にビサンツ帝国側は敗北するに至った[47]。この敗北の後、ビザンツ皇帝はゲオルギオス・マニアケスを投獄[注 7]、緊急事態が発生(ブルガリアでの反乱発生[49])し、ハーラルと配下のヴァラング親衛隊はコンスタンティノープルに呼び戻されることとなった[50]。その後、ハーラルとその配下はブルガリア(ヨーロッパ南東端のバルカン半島)へ派遣された(1041年後半)[36]。ハーラルはそこで、ペタル・デリャン英語版が率いるブルガリアの反乱(ペタル・デリャンの蜂起)に対する1041年のオストロボの戦い(Battle of Ostrovo)に参加、後にハーラル付きのスカルド詩人はハーラルを「ブルガリアの焼打ち人(Bolgara brennir)」とあだ名した[51][52]

ミカエル4世とマニアケスと対立がハーラルに悪影響を及ぼすことは無く、ハーラルのブルガリアからの帰還の際には栄誉と敬意を以って迎えられた。1070年代にギリシャで書かれたケカウメノス英語版著『ストラテギコン英語版』には「アラルティス(Araltes。ハーラルのこと)は皇帝の寵愛を勝ち取った」と書かれている[53][54][55]。同書によると、ビザンツ皇帝はシチリア島遠征のあと当初は、ハーラルを、近衛兵マングラヴィテス英語版[注 8](恐らく「プロトスパタリオス英語版=首席帯剣護衛」と同一と考えられる)に任命した様である[51][57]。ブルガリアでハーラルが再び顕著な戦果を挙げると、モスィヌポリ英語版の街において[58]スパサロカンズィザトス英語版の位階(宮廷官職で中位の位階[56])を与えられた。この「スパサロカンズィザトス」との位階は、歴史家ケリー・デヴリースによると「おろらく、ビザンツ帝国で上から3番目の位階」、歴史家ミハイル・ビビコフ(Mikhail Bibikov)によると「通常は皇帝の外国人同盟者に与えられるプロトスパタリオス(Protospatharios)=首席帯剣護衛よりも低い位階」とされている[51]。ハーラルは「マングラヴィテスやスパサロカンズィザトスに任じられただけでは腹を立ててはいなかった」と伝えられており、ハーラルに与えられた位階はどちらかと言えば低いと『ストラテギコン』は示唆している[59]。ハーラル付きのスカルド詩人ショウゾウルヴル・アルッノルスソンによると、ビザンツ帝国時代にハーラルは18の大規模な戦役に参加してきた[18]。1041年12月にミカエル4世が没すると、ハーラルに対する帝室の引き立ては急速に失われることとなった。帝位はミカエル5世(ミカエル4世の甥)が継いだが、皇太后ゾエ(ミカエル4世の未亡人)との間で争いが続くこととなった[60]

この帝室内の混乱の最中、ハーラルは逮捕、投獄された。その背景については、史料間で相違がある[61]。サガでは「ハーラルはマリアという名の皇太后ゾエの(おそらく架空の)姪もしくは孫と思われる娘[18]へ求婚した[62](恐らく自身がハーラルと結婚したいと考えていた皇太后がこれを断った)だけでなく、皇帝の財宝をだまし取った」とされている[63]。中世イングランドの歴史家マームズベリのウィリアムによれば「高貴な女性を穢した」、中世デンマークの歴史家サクソ・グラマティクスによれば「殺人を犯し投獄された」とされている。歴史家ケリー・デヴリースは「新帝ミカエル5世は、ハーラルの先帝ミカエル4世への忠誠を恐れたのではないか」と指摘する[62]。ハーラルがどのようにして獄から逃れたかについても史料間で相違があるが、新帝ミカエル5世に対する反乱が勃発した折に、何者かにより助け出された様である。ヴァラング親衛隊の一部はミカエル5世の護衛に就いた一方で、ハーラルは反乱側についたヴァラング親衛隊の指揮を執る様になった。ミカエル5世はついにはその聖域から引きずり出され、目を潰され、修道院に追放された。サガには「目を潰したのはハーラル自身である。少なくともそうだと言われている」とある[64]

キエフ大公国への帰還

[編集]
エリザヴェータ・ヤロスラヴナキエフ大公ヤロスラフ1世の娘)

ハーラルはビザンツ帝国での活動を通じ莫大な財を蓄え、その財宝を安全に保管するためにキエフ大公国へ輸送していた(キエフ大公ヤロスラフ1世が財宝を預かった)[65]サガには「ハーラルが莫大な戦利品を保有していたほかに、ポウルータスヴァルフ(polutasvarf。宮殿略奪の大意)に3回参加した[66]」と記されている。この「ポウルータスヴァルフ(polutasvarf)」は、「皇帝死去の際に宮廷の宝物庫から宝物を略奪する(慣習があった[67])」、あるいはもしかすると「ヴァラング親衛隊英語版の忠誠を確保するために、新皇帝が財宝を分け与える」ことを意味するとされる[68]。「ポウルータスヴァルフ(polutasvarf)」への参加が3回とは、ビザンツ皇帝のロマノス3世(1034年没)、ミカエル4世(1041年没)、ミカエル5世(1042年没)の死去に際してに違いなく、通常の収入を超えた莫大な富を得る機会となった様である[69]。なお、このコンスタンティノープルで蓄えた莫大な財宝により、ハーラルはノルウェー王位を主張することが出来るようになったと考えられている[66]

1042年4月にゾエが皇帝位に就いた後[注 9]、ハーラルはノルウェー帰還の許しを願い出た。ゾエはこれを許さなかったが、ハーラルは幾ばくかの忠臣と共に2隻の船で金角湾から何とか逃げることができた。2番船は金角湾とボスポラス海峡間に張られていた防鎖によって破壊されたが、ハーラルの乗る1番船は防鎖を巧みな操船で乗り越え、黒海へと無事に出帆した[64]。このような経緯があったにもかかわらず、同時代のビザンツ帝国の著述家ケカウメノス英語版は、ハーラルがビザンツ帝国に対して抱いていた「忠誠と愛情」を称えており、また、ハーラルはノルウェーへ戻り王位に就いた後もその心情を持ち続けたと伝わる[71]。コンスタンティノープルを離れたハーラルは、1042年後半にはキエフ大公国へ戻った。この2度目の滞在中に、ヤロスラフ1世の娘でスウェーデンオーロフの孫に当たるエリザヴェータ・ヤロスラヴナスカンディナヴィアの史料では エットゥリスィヴ Ellisif)と結婚した[66][72]。ハーラルがキエフに着いてすぐに、ヤロスラフ1世はコンスタンティノープルを攻撃しており(1043年ルーシ・ビザンツ戦争)、ハーラルはヤロスラフ1世にビザンツ帝国の状況についての貴重な情報を提供したと考えられている[73]

エリザヴェータとの結婚は、ハーラルがキエフ大公国に最初に滞在した折に既に約されていたか、少なくとも二人は知り合いであったと考えられている。ビザンツ帝国での活動中に「いまだガルダリキの女神は / 私の金の指輪を受け取ってはくれない」との一節を含む恋歌を作っているが[74]スノッリ・ストゥルルソンによれば「ガルダリキの女神」はエリザヴェータのこと)、王のサガ英語版モルキンスキンナ』によると「キエフ帰還時に結婚するとの約束をヤロスラフ1世が忘れない様にする必要がハーラルにはあった」という[75]。また同書では、「ハーラルがキエフ大公国に最初に滞在した折に、エリザヴェータと結婚したい旨をヤロスラフ1世に話したが、ハーラルに十分な資力がないことを理由にただ拒絶されただけ」とされる[76]。いずれにせよ、ハーラルがヤロスラフ1世の娘との結婚を許されたことに意味があり、というのも、ヤロスラフ1世の他の子らは、アンリ1世フランス王)、アンドラーシュ1世(のちのハンガリー王)、コンスタンティノス9世(ビザンツ皇帝)の娘といった人物と結婚しているからである[73]

ノルウェー王

[編集]

スカンディナビアへの帰還

[編集]

1045年初頭、異父兄オーラヴ2世が失った王国を取り戻そうと[77]、ハーラルは西方へと移動を開始、ノヴゴロド(ホルムガルド)を出発し、船を手に入れたスタラヤ・ラドガ(アルデイギュボルグ)へと向かった。船でラドガ湖からネヴァ川、海に出てフィンランド湾からバルト海へと進んだ。スウェーデンシグトゥーナに、1045年末[78]もしくは1046年初頭には着いた様である[66]スカルド詩人ショウゾウルヴル・アルッノルスソン英語版によると、ハーラルがスウェーデンに着いた折には、積み荷の大量の金で船は傾いていたという[18]。ハーラルがノルウェーを離れていた間に、オーラヴ2世の庶子であるマグヌス1世がノルウェー王となっていた。ハーラルは実際にこのことを知っていたと思われ、さらにはこれこそがハーラルがノルウェーに戻ろうとした理由かもしれないと考えられている[79]イングランドデンマーク・ノルウェーの王であったクヌート大王が1035年に死去すると、その息子のハロルド1世ハーデクヌーズはイングランドの支配をめぐり争い、ノルウェーを放棄することとなった。この両名は若くして死去、1035年にノルウェー王となっていたマグヌス1世の地位は安泰となった。なお、マグヌス1世が治めた時代、ノルウェー国内では、治世の妨げとなる様な脅威、暴動といったものは記録されていない[77]。デンマーク・イングランド王であったハーデクヌーズが1042年に死去すると、ノルウェー国王マグヌス1世がデンマーク王にも選ばれ、ハーデクヌーズの後継者としてデンマーク王位を主張していたスヴェン・エストリズセンとの争いにも何とか勝利した[80]

「MAHNUS ARALD REX」(マグヌス・ハーラル王)の銘がある銀貨。マグヌス1世とハーラル3世が共同統治していた短い間(1046-1047年)のもので[81]、先に王となっていたマグヌス1世が描かれていると一般的に考えられている[82]。一方で、マグヌスとの名は死後に付けられたエピセット(別名)で、この銀貨はハーラル3世が単独の王となってからのものであるとの説もある[83]

スヴェンがマグヌス1世に敗れたと聞き、ハーラルは、スウェーデン王アーヌンド・ヤーコブ、およびスウェーデンに逃げてきていた同士(スヴェン?、ハーラルの甥でもある=疑問?)と集まり[18]、三者で協力してマグヌス1世に立ち向かうこととなった。この三者連合の軍事的行動は、まずデンマーク沿岸部への襲撃から始まった[84]。この襲撃は、デンマーク沿岸部にはマグヌス1世の庇護が及んでいないことを当地の住民に印象付けることにより、当地住民をハーラルとスヴェンに服させようとするものであった。この襲撃の報に接したマグヌス1世には、次の標的がノルウェーであろうことは分かっていた様である[85]。ハーラルは、「当初は父シグル・シュル(Sigurd Syr)がかつて小王英語版として治めいていたリンゲリーケ地方英語版の王となり、その後に残りの地域の支配を主張する」といったことを目論んでいたのかもしれない[86]。いずれにしても、ノルウェーの人々はマグヌス1世の敵に回るつもりはなく、ハーラルの目論見の一報を受けたマグヌス1世(当時ノルウェー国外にいた)は全軍を率いてノルウェーに帰国した[86]。マグヌス1世の重臣たちは若き王マグヌス1世に対し叔父であるハーラルとの戦いは避ける様に進言し、両者は戦いに至ることなく、1046年、ノルウェーの統治(デンマークは含まず)はマグヌス1世とハーラルとが共同で行う(但し、マグヌス1世が上位に置かれる)との妥協案で合意するに至った。この妥協で特筆すべきは、ハーラルは自身が持つ財宝の半分を、当時は事実上破産状態にあり資金をひどく必要としていたマグヌス1世に分け与えることに同意する必要があった事である。この短い共同統治の時代、ハーラル3世とマグヌス1世は夫々別の宮廷廷臣を持つことにより自身を守っていた。なお、記録に残っているものに限れば、両者の会談は、意見の対立、衝突に留まらず物理的な衝突に発展するのが常であった[87][88]

1047年、マグヌス1世とハーラル3世はレイザング英語版(海軍役)の軍勢と共にデンマークへ向かった。その年の後半、共同統治が始まって1年も経たないうちに、マグヌス1世は跡取りとなる子息がいないままユトランド半島(デンマーク)で死去した。マグヌス1世はその死が訪れる前に、スヴェンにデンマークを、ハーラル3世にノルウェーを引き継がせることを決めていた[89]。マグヌス1世の訃報を受け、ハーラル3世はノルウェー在地の指導者たちをすぐに集め、自身がデンマーク王およびノルウェー王であると宣言した[90]。マグヌス1世はスヴェンを後継のデンマーク王に指名したにも関わらず、ハーラル3世はすぐに、軍を招集しデンマークからかつての同士スヴェンを追い出す計画を発表した。これに対し、エイナル・サンバルスケルヴィルが束ねるノルウェー在地の指導者たちおよびその軍勢は、デンマークに攻め入るいかなる計画にも反対した。ハーラル3世自身はマグヌス1世の亡骸をノルウェーに持ち帰ることに不服であったが、ノールウェー軍はニーダロス英語版(現在のトロンハイム)への移送の手筈を整え、1047年後半には彼の地のオーラヴ2世(マグヌス1世の父)の隣に埋葬した[91][92]。ハーラル3世に否定的であったエイナルは「生きている他のいかなる王に従うよりも、亡くなったマグヌス1世に従う方が良い」と言い切ったという[91]

ハーラル3世の治世下、ノルウェーでは王室が貨幣鋳造を独占するようになった[93]。ハーラル3世の下で鋳造された貨幣は、一般的に使用される通貨として受け入れられていた様である(一方で、主に外国で鋳造された貨幣の使用も続いた)[93]。貨幣の鋳造により、ハーラル3世治世下の年間歳入のかなりの部分を賄っていた様である[93]。なお、のちの14世紀後半になると、ノルウェーでの貨幣鋳造は行われなくなった[93]

デンマークへの侵攻

[編集]

ハーラル3世は、ノルウェーマグヌス1世デンマークをも支配した様に[注 10]、両国を支配する体制を再度成立させたいとも考えており[18]、長期的にはおそらくクヌート大王北海帝国の様なノルウェー、デンマーク、イングランドの三国支配を完全に復活させようと目論んでいた[95]。ハーラル3世のデンマーク侵攻との第一の方策はうまくいかなかったが、翌1048年、デンマーク王となったスヴェン2世との絶えず続く戦いへと乗り出し、その戦いは1064年までほぼ毎年続いた。かつてのマグヌス1世のデンマーク支配に対する一連の軍事行動(当時はスヴェンと共に戦った)と同様に、スヴェン2世に対する軍事行動のほとんどはデンマーク沿岸部への素早く激しい襲撃であった。1048年にはユトランド半島を荒らし、1049年には、当時のデンマークで最も重要な貿易拠点で、スカンディナヴィアで最も保護され人口も多い街の一つであったヘーゼビューを略奪し焼打ちした[96]。市民都市としてのヘーゼビューはハーラル3世が行った破壊から復興するはなかった(1066年にはスラヴ人がヘーゼビューを略奪し、完全に荒れ果て放棄されるこことなった)[97]。ハーラル3世とスヴェン2世間で二回機会があった通常戦闘(conventional battle)のうち一回は、同年後半に戦闘が勃発するはずであったが、12-13世紀の歴史家サクソ・グラマティクスによると、ノルウェーの軍勢が近づくとやや小ぶりであったスヴェン2世の軍勢は非常に恐れ、逃げようと水に飛び込むことを選び、そしてそのほとんどが溺れ死んだ。両軍の交戦は、そのほとんどがハーラル3世側の勝利であったが、デンマークを占領するまでには至らなかった[98]

ハーラル3世が鋳造したペニー銀貨。キリスト教流入以前の古代北欧の宗教で使われ、キリスト教徒も用いるトリケトラ英語版文様があしらわれている[81]。この文様はデンマークにおいてクヌート大王、その息子ハーデクヌーズが用いており、ハーラル3世は恐らく自身のデンマーク王位主張の一環として採用したと思われる[注 11][99][100]

もう一つのより重要な戦い(海戦)は1062年8月9日のニーソの戦い(Battle of Niså)であった。これまで幾たびかデンマークを襲撃してきたものの征服するには至っておらず、ハーラル3世はスヴェン2世に対して完全な勝利を収めたかった様である。ハーラル3世はついには約300隻の船と大軍勢でノルウェーを出発した。この戦いは予め会戦場所と日時が取り決められており、スヴェン2世もまた会戦の準備を整えていた。スヴェン2世は決められた会戦日時に現れず、ハーラル3世は軍勢の半分を占めいていた農民兵(bóndaherrin)をノルウェーに送り返した。農民兵を乗せた船が会戦区域より遠くに去ると、スヴェン2世の軍勢を乗せた船団、恐らく300隻がついに現れた。この戦いでハーラル3世はデンマーク軍を打ち破り(乗り手を失ったデンマーク軍70隻が「空船」として残されたという)、多くの血が流れたが、スヴェン2世を含め兵士、船団の多くは何とか逃げ延びた[101] 。この戦いでは、ほとんどの兵が緒戦でするように、ハーラル3世も自ら積極的に矢を放ったという[102]

決着がつかないデンマークとの戦いに疲弊し、また莫大な戦費がかかっていたこともあり、ハーラル3世は結局はスヴェン2世との和平を模索する様になり、1064年(『モルキンスキンナ』によると1065年)、両王は無条件の和平合意に達した[103]。この合意では、両国の国境線は従来のまま、賠償金の支払いは無しとされた。その後の1065年冬、ハーラル3世はノルウェー領内を視察して廻り、ハーラル3世が課す各種税役を農場主たちが果たしていないと糾弾した。農場主たちの返答によってはハーラル3世は残忍に振る舞い、従わない人々への警告として、一生残る障害を負わせたり殺したりした[104]。ハーラル3世は、自身の常設私設軍ヒルド(Hird。ノルウェーの領主たちは夫々ヒルドを抱えていた)を使うことにより、ノルウェーの支配、統制を維持した。ハーラル3世は、王のみがヒルドを保持できるとの施策を断行し、軍事力を各地の領主たちから奪い中央に集中、ノルウェーの君主制の強化に寄与することとなった[105]

ノルウェー国内の反発

[編集]

歴史学者クヌート・ヘレ(Knut Helle)によると、ハーラル3世は、自らが「ノルウェー国土統一」と呼ぶ施策の第一段階を成し遂げた[106]。力尽くで王位に就いたハーラル3世にとって、自身がノルウェーを単独で支配するにふさわしい人物であると、ノルウェーの指導者層に納得させる必要があった。ノルウェー国内を纏めるために、ハーラル3世はノルウェー有数の権勢を誇る一族出身のトーラ・トールベルグスダッテル(Tora Torbergsdatter)を妻に迎えた[107]。ハーラル3世支配に反対していた主な勢力は、ノルウェー王の下で広範な自治権を認められノールノルゲ地域とトロンデラーグ地域を代々支配してきた「ラーデのヤール」一族出身のハーコン・シグルザルソンの子孫たちであった様である。ハーコンは975年から、オーラヴ・トリグヴァソンにその地位を取って代わられそして殺された995年まで、(名目上はデンマーク王の下で)ノルウェー全体をも支配していた。ハーコンの死後もなお、その子孫はノルウェー北部に一定の主権を有しており、ハーラル3世治世初期には、ハーコンの娘と結婚していたエイナル・サンバルスケルヴィルが一族を率いていた。この一族はマグヌス1世とは良好な関係を保っていたが、ハーラル3世による専制政治と王権強化は程無くエイナルとの衝突をもたらすこととなった[108][109]

ハーラル3世が「ハルドラーダ(Hardrada)」すなわち「厳しい支配者(the hard ruler)」との別名が付けられるようになったのは、ノルウェーの指導者層との権力闘争からであった[110]。ハーラル3世とエイナルの関係は初めから良くなかったが、ハーラル3世が北にある自身のニーダロス英語版の宮廷に向かうまでは、両者の衝突は起こらなかった。ある時ニーダロスで、エイナルがハーラル3世の宮廷に来た折には、自身の力を誇示するため「ロングシップ8-9隻と兵士500人近く」を同行させており、明らかにエイナルはハーラル3世との衝突を望んでいたが、ハーラル3世を怒らせるには至らなかった。史料により状況は異なるが、次に宮廷に来た折に結局は、エイナルはハラルド3世配下の兵士に殺されることとなり、この事件によりノルウェーは内戦状態に陥る恐れがあった。生き残っているハーコン・シグルザルソンの子孫たちはハーラル3世に対する反乱を検討したが、最終的にはハーラル3世はその一族と何とか和平を結ぶことができ、残りの治世において一族の臣従を得ることとなった[111][112]。この1050年頃のエイナルおよびその息子に死によって、「ラーデのヤール」は反対勢力の拠点という役割を失い、トロンデラーグ地域は明確にハーラル3世の王国に従属することとなった[106]

ニーソの戦い(Battle of Niså)の前に、ホーコン・イヴァールソンノルウェー語版がハーラル3世陣営に加わった。ホーコンは戦いで顕著な働きを示し、ハーラル3世の歓心を得た。ハーラル3世は、ホーコンにヤールJarl)の爵位を授与することを考えていたとも伝わるが、後にハーラル3世がこの考えを撤回すると、ホーコンはひどく腹を立てた。オップラン地域(Opplandene)を強力に支配していたホーコンは、スウェーデンステンキルよりヴェルムランド地方のヤール位も与えられた。1064年初め、ホーコンはオップラン地域に入り各種税役を徴収、このようにオップラン地域は事実上ハーラル3世への臣従を絶つ事態になりつつあった。ホーコンとオップラン地域の農場主たちのこの反乱は、ハーラル3世が最終的にデンマーク王スヴェン2世との和平合意を申し入れた主な理由だった可能性が有る。和平合意を結んだ後、ハーラル3世はオスロに行き、徴税人をオップラン地域に送り込んだが、結局は、農場主たちはホーコンが来るまでは各種税役を納めるつもりがないということが判っただけであった。この事態に際し、ハーラル3世は軍勢を率いスウェーデンに入ると程無く、ホーコンを打ち負かした[113]。それでもなお、ハーラル3世は農場主たちからの反発に直面したままであり、各種税役を拒否する地域を圧伏するための軍事行動に乗り出した。オップラン地域はノルウェー内陸部の奥深くに位置する為、これまでノルウェー王国領土の一部として統合されることは無かった。ハーラル3世は残酷な方法を用い、農場や小村を焼き払い、人々をひどく傷つけたり殺したりした。この一連の軍事行動は、ロメリケ英語版で始まり、ヘードマルクハーデラン英語版リンゲリーケ英語版へと続いた。これらの地域には裕福な農村集落がいくつか在り、農地を没収することでハーラル3世は自身の経済的地位の強化を行った[106][114]。反対派は殺されるか、国外追放されるか、沈黙を強いられるかしたため、1065年末までにはノルウェーは平穏になった様である[115]

諸政策

[編集]

ハーラル3世の軍事司令官としての経歴がその統治に顕著に表れており、武力で争いごとを解決することが多かった。ハーラル3世付きのスカルド詩人の一人は、ハーラル3世が地中海沿岸での戦いにおいて自ら為した合意をいかに破ったかを、スカルド詩に詠むことさえもあった[18]サガでは主にデンマークスヴェン2世との戦いとイングランドへの侵攻に焦点を合わせている一方、ハーラル3世の国内政策についての言及はほとんど無い。このことは、専制政治を行ったにもかかわらずハーラル3世の治世はノルウェーにとって平和と発展の時代であった表れであると、現代の歴史学者は考えている。ノルウェーの流通貨幣と持続可能な貨幣経済体制を発展させ、それによってノルウェーの国際貿易参画が可能になったことから、ハーラル3世は優れた経済政策を施行したと考えられている。スコットランドアイルランドに加えて、ハーラル3世は自身の人脈を用いてキエフ大公国ビザンツ帝国との交易も始めた[116]。また、後世のサガによると、ハーラル3世がオスロの街を創建し、そこで多くの時間を過ごしたという[18]

ハーラル3世はまた、ノルウェーでのキリスト教の布教活動も続けた。ハーラル3世の治世下で複数の教会が建設され、また改築されたことが、考古学発掘調査により明らかになっている。ハーラル3世はまた、外国、とりわけキエフ大公国やビザンツ帝国から、司教司祭修道士たちを招き入れた。東西教会の分裂が起こる前ではあったが、このようにノルウェーには、北欧の他の地域とはやや異なる形でキリスト教が導入された[117]。これら聖職者はイングランドやフランスでは叙階されておらず、それにも関わらず教皇特使英語版一行がハーラル3世を訪問する処となり、物議をかもすこととなった。特使の抗議を受け、ハーラル3世は自身の宮廷よりカトリックの聖職者を追い出し、伝わるところによれば、特使に対し「国王である自分自身のほかにはいなかる大司教もノルウェー領主も知らない」と明言したという[18][118]。ノルウェーの歴史学者ハルヴダン・コート英語版は「まるでビザンツ帝国の専制君主が話したかのような言葉」と述べている[18]。ハーラル3世がノルウェー王となった後もビザンツ皇帝との関係を維持していた可能性が有り、このことがハーラル3世の教会政策の背景にあった様である[119]

北方探検

[編集]

いったんノルウェーに戻ってしまうと、ハーラル3世は自身の領土の踏査に関心を示していたらしく、例えば『モルキンスキンナ』ではハーラル3世のオップラン地域(Opplandene)内へと入る旅について語られている。ハーラル3世はまた自身の王国の領域を超えた海域も探検したと言われており、同時代の年代記著者ブレーメンのアダムは、このようなハーラル3世が海軍を率いて行った探検行について次のように記している[120]

最も進取の気性に富むノルウェー人のハーラル王子が近頃この海に挑んだ。彼は、船で北の大洋の隅から隅まで徹底的に探索し、ついには荒涼とした世界の暗いしくじりの境界を眼前にしたが、元来た海路を辿ることによって、どうにかこうにか辛うじて深い淵から無事に逃れた。
ブレーメンのアダム『ハンブルク教会史英語版』, 4. XXXIX.[120]

歴史学者ケリー・デヴリース英語版は、ハーラル3世は「ほんの少し前にヴァイキングの航海者が発見したヴィンランドと呼ばれる伝説上の土地のことも知っており、その地を探し出そうとしていたのかもしれない」との考えを示している。なお、ヴィンランドについては、ブレーメンのアダムは先の探検行の句代理においてそれに先立ち「デンマークとノルウェーにおいて広く伝えられていた」と軽く触れている[120]

一方、気候学者のヒューバート・ラムは「ハーラル3世はスピッツベルゲン島もしくはノヴァヤゼムリャ島のいずれかに到達していた可能性が有る」と提唱している[121]

イングランド侵攻

[編集]

背景

[編集]
むらのくま/sandboxの位置(スコットランド内)
シェトランド諸島
シェトランド諸島
オークニー諸島
オークニー諸島
ダンフェームリン
ダンフェームリン
タインマス(9月8日)
タインマス(9月8日)
ハーラル3世艦隊の1066年イングランド遠征ルート

デンマークの征服が出来ないことを受け入れたハーラル3世はイングランドに目を向ける様になった。ハーラル3世のイングランド王位請求は、1038年のマグヌス1世と、その前の支配者で1042年に子供がないまま死去したハーデクヌーズとの間の協定に基づいていた。この協定は「どちらかが死ねば、もう片方がその領土を受け継ぐ」というものであったが、マグヌス1世が戦わずしてイングランド王位を得ることができるは考えていなかった様である。ハーデクヌーズ自身は異父兄のエドワード懺悔王を好ましく思っており、エドワード懺悔王はハーデクヌーズが死去すると、ハロルド・ゴドウィンソン(のちのイングランド王ハロルド2世)の父ウェセックス伯ゴドウィンを後ろ盾にイングランド王となった。マグヌス1世の1045年のイングランド侵攻計画は、スヴェン・エストリズセン(のちのデンマーク王スヴェン2世)の反乱へ対処する間、見合わせることとなった[122]

1047年にマグヌス1世が死去すると、ハーラル3世がマグヌス1世のイングランド王位請求を受け継いだ。しかしながら、エドワード懺悔王は敵になる可能性がある諸勢力の夫々に対し跡を継がせるかもしれないとほのめかし、夫々を喜ばせ続けた。これら諸勢力には、ハーラル3世に加えて、スヴェン2世、ノルマンディー公ギヨーム2世(のちのイングランド王ウィリアム1世)が含まれていた[123]。詳細はよくわかっていないが、1058年、ハーラル3世の息子マグヌス(のちのノルウェー王マグヌス2世英語版)が率いる艦隊がウェールズによるイングランドへの大規模な襲撃を支援した[124]。このことは、ハーラル3世はデンマークおよびイングランドと同時に戦うことが出来なかったことを示していると思われる。また、1066年1月にエドワード懺悔王が死去し、ハロルド・ゴドウィンソンがイングランド王(ハロルド2世)となったことを宣言した折に、このことは極めて重要なものとなった[125]

ハロルド・ゴドウィンソンの弟で先のノーサンブリア伯爵英語版であったトスティ・ゴドウィンソンがこの時、表舞台に登場、爵位や領地の回復を望み、ギヨーム2世、スヴェン2世双方に支援してくれるよう話を持ち掛けたと伝わる。しかしながら、ノルウェーがイングランドに侵攻するためには、イングランド北部英語版は上陸の最適地であったことから、ハーラル3世にとってトスティはより利用価値が高かった。詳細は不明だが、トスティは自身はフランスに留まる一方で、ともに追放されていた同志コプシ(Copsi)をハーラル3世と面会し同意を取り付ける為にノルウェーに派遣した様である。この通りであれば、トスティは、こちらも王位を請求していた[126]ギヨーム2世による侵攻を同時に支援することにより、ハーラル3世、ギヨーム2世双方の王位請求の見込みを高めることになったと思われる[127]

フルフォードの戦いにおいてヨーク近郊に上陸するハーラル3世(左)と戦いに敗れたノーサンブリアの軍勢(右)。マシュー・パリス英語版著『エドワード懺悔王の生涯』(13世紀の年代記)より。

1066年の3月か4月、ハーラル3世はソグネ・フィヨルドにあるソルンド英語版で自身の艦隊の編成を始め、1066年9月初めには編成を完了させた[128]。この艦隊にはハーラル3世の旗艦、「オルメン(Ormen)」(「蛇(Serpent)」の意)が含まれていた[129]。ノルウェーを離れる前に、ハーラル3世は息子マグヌスにノルウェー王となったことを宣言させ(マグヌス2世英語版)、妻のトーラ・トールベルグスダッテル(Tora Torbergsdatter)はノルウェーに残し、もう一人の妻エリザヴェータ・ヤロスラヴナ、娘たち、息子のオーラヴ(のちのノルウェー王オーラヴ3世)を遠征に同行させた[130]。道中、ノルウェー支配下のシェトランド諸島およびオークニー諸島に立ち寄り、オークニー伯爵英語版であったポール・トルフィンソンとアーランド・トルフィンソン兄弟(Paul and Erlend Thorfinnsson)を始めとした軍勢を追加招集した。スコットランドダンファームリンにおいて、ハーラル3世は、トスティと同盟を結んでいたスコットランド王マルカム3世に面会し、スコットランド兵約2,000名の提供を受けた[131]

ハーラル3世は、そこでトスティとも会った可能性はあるが、ほとんどの史料では、兵士約10,000-15,000名、ロングシップ約240-300隻を率い1066年9月8日にタインマス英語版で合流したとされている[132]。トスティの船は12隻のみであったが、ハーラル3世にとってトスティとの繋がりははるかに重要であった[133]。年代記編者のウスターのジョン英語版は、1066年の5月か6月にトスティはフランドルを離れ、イングランド南部英語版にあるハロルド2世の領地の中心地域であるワイト島からサンドウィッチにかけてを襲った。ノルマンディーからの攻撃が差し迫っていると思わせたことにより、トスティは北方へと出航したにも関わらず、ハロルド2世とその軍勢のほとんどは南部に留まり、ノルマンディー公ギヨーム2世を待ち受けることとなった[134]

緒戦およびフルフォードの戦い

[編集]

タインマス英語版を出航したハーラル3世とトスティ・ゴドウィンソンは、ティーズ川で上陸したと思われる[135]。それからクリーブランド地方英語版に入り[136]、沿岸部を略奪し始めた。スカーブラで最初の抵抗に遭遇、この街はハーラル3世の降伏要求を拒否した。結局、ハーラル3世は街を焼き払う手法を採り、この行動は他のノーサンブリアの街々がハーラル3世に降伏することにつながった。街々の襲撃をさらに行った後、ハーラル3世とトスティはハンバー川を遡航、1066年9月20日にリクコール(Riccall)で下船、上陸した。襲撃が始まったとの一報がノーサンブリア伯爵英語版モーカー英語版マーシア伯爵エドウィンに届き、同9月20日、ヨーク南方3km付近のフルフォード英語版にて、両名はハーラル3世の侵略軍と衝突した(フルフォードの戦い)。この戦いはハーラル3世、トスティ軍の決定的勝利に終わり、9月24日にはヨークが陥落するに至った[137]。また、この戦いは、スカンディナヴィアの軍勢がイングランドの軍勢を打ち破った最後の戦いとなった[138]。ヨーク陥落の同日、ハロルド2世とその軍勢は、ノルウェーの艦隊が停泊するリクコールからほんの11kmの距離のタッドカスター英語版に到着。ハロルド2世はそこからノルウェーの艦隊を偵察し、奇襲を仕掛ける準備を行ったと思われる。ハーラル3世は軍勢を残さずにヨークを離れたため、ハロルド2世はヨークを通りスタンフォード・ブリッジ英語版へと抵抗を受けることなく進軍した[139]

スタンフォード・ブリッジの戦い

[編集]
スタンフォード・ブリッジの戦いにおけるハーラル3世。マシュー・パリス英語版著『エドワード懺悔王の生涯』(13世紀の年代記)より。マシュー・パリスは、当時のノルウェー(ヴァイキング)から一般的に連想されるものとして、または異父兄オーラヴ2世にまつわる王家の象徴として、斧をハーラル3世のアトリビュートとした可能性がある[140]サガによると、ハーラル3世は青のチュニックを身に着け、を振るい、「Landøyðan」(レイヴン・バナー英語版、カラス文様の旗の一つ)を王旗としていたが、メイル・シャツ「Emma」、およびリクコール(Riccall)に残したままであったは身に着けていなかった、とされる[141]

9月25日早朝、ハーラル3世とトスティ・ゴドウィンソンは軍勢の大部分を率いて上陸地点のリクコール(Riccall)を出発したが、軍勢の三分の一はリクコールに残したままにした。ハーラル3世の下で誰がヨークの街を治めるかを決めるためにヨーク市民とスタンフォード・ブリッジ英語版で面会する予定だった(前日に面会について合意があった)ので、ハーラル3世とトスティは軽装の防具しかもってきていなかった[142]。スタンフォード・ブリッジに着くと、攻守両面で重装備で、数もハーラル3世軍をはるかにしのぐハロルド2世の軍勢が近づいてきているのを、ハーラル3世は確認した。(サガ以外の史料によると、)一人の巨人の様なノルウェー人がイングランド軍をダーウェント川英語版に掛かる橋でしばらく足止めする間に、ハーラル3世とトスティは軍勢をシールド・ウォール英語版陣形へと立て直すことができたが、最終的にはハーラル軍はひどく打ち負かされた。この戦い(のちにスタンフォード・ブリッジの戦いと名付けられた)の始まるとすぐにハーラル3世は喉を射抜かれ、メイル・シャツを着用せず両手で剣を握り激しく戦う「ベルセルクの狂乱(berserkergang)」(神話上の戦士が獣の様に我を忘れて激しく戦うさま)のまま死亡した[143][144]

戦いがほぼ終わったころになって、エイステイン・オーリが率いるリクコールからの援軍がようやく現れたが、援軍は道中ずっと走り通しで疲れ切っていた。エイステインは地面に落ちていたハーラル3世の王旗「Landøyðan(Landwaster)」(レイヴン・バナー英語版、カラス文様の旗の一つ)を拾い上げ、最後となる反撃を開始した。ひとときはイングランド軍の戦線を概ね突破したかのように見えたが、エイステインは突如戦死し、残存の兵たちは戦場から逃げ出すこととなった[145]。戦いの後にリクコールに取り残された軍勢にはイングランド軍により安全に帰国することが許された者もおり、その中にはハーラル3世の息子オーラヴ3世がいた[146][147]。複数の史料によると、残存のハーラル3世軍はノルウェーへの帰路に就く際は船20-25隻を満たすのみであったが、この数はノルウェーの軍勢のみの数字であったと思われる。スコットランドおよびオークニー諸島からの軍勢のほとんどは、恐らくこの戦いの間はずっとリクコールに留まっていたようであり(オークニー伯爵英語版のポール・トルフィンソンとアーランド・トルフィンソン兄弟(Paul and Erlend Thorfinnsson)は確実に戦いの間はずっとリクコールに留まっていたことが知られている)、古くから用いられているこの数字には含まれていない[145]

ハロルド2世のこの勝利も束の間に終わり、ほんの数週間後にはヘイスティングズの戦いにてノルマンディー公ギヨーム2世に打ち負かされ、殺された。ハロルド2世はハーラル3世とスタンフォード・ブリッジで戦うために強行軍、その後のノルマン人の侵攻への対処のために全速力での南方への移動、この全てを3週間に満たない間に強いられたという事実は、ヘイスティングズでのギヨーム2世の勝利の主要因であったと広く認識されている[148]

人物

[編集]

スノッリ・ストゥルルソンは、ハーラル3世を「他の男たちよりも大柄で屈強」な体をしている、と描写している[77]。また、ハーラル3世は明るい髪色に、あごひげ、長い口髭を生やし、片眉が他方よりやや高い位置にあったと言われている。さらに、手足が大きく、身長は5エル[注 12]あったと伝わる。なお、ハーラル3世の身体的特徴に関するスノッリの描写が実際に歴史的事実を示しているかどうかは判っていない[150]スタンフォード・ブリッジの戦いを前にハロルド2世が、トスティ・ゴドウィンソンに対してはノーサンブリア伯爵英語版位の返還を打診し、ハーラル3世に対しては(ハーラル3世自身の墓穴用として)「イングランドの土地を6フィート、またはほとんどの兵よりも背が高く見えることから、もしかするとそれ以上」(ヘンリー・オブ・ハンティングドンによる)[151]、または「イングランドの土地を6フィート、またはほとんどの兵よりも背が高いので7フィート」(スノッリ・ストゥルルソンによる)[152]の提供を申し出たという故事からも、ハーラル3世の背が高かったことは裏付けられる。

ハーラル3世は自らもスカルド詩を詠んでいた。言語学者のリー・M・ホランダー(Lee M. Hollander)曰く、ノルウェーの王にとって詩を詠むことは当たり前のことであったが、「卓越した才を示した」のはハーラル3世のみであった[153]。また、ハーラル3世は、詠詩、酒の醸造、乗馬、水泳、スキー、射撃(弓矢)、ハープ演奏に加え、ヴァイキング時代当時のスポーツとされる種々の競技に熟達していたと、記している詩もある[154][155]サガによると、ハーラル3世と配下のヴァラング親衛隊英語版が、とある街を包囲している最中に運動競技を楽しむために休憩をとったことが少なくとも一度はある様である[156]

宗教に関し、ハーラル3世はその生涯の大半を過ごしたキエフ大公国(ガルザリーキ)やビザンツ帝国東方教会文化の影響を受けていたが、歴史学者ケリー・デヴリース英語版曰く、「キリスト教への傾注傾向」があり、「キリスト教会と公的にも親密」であった。ハーラル3世はノルウェーでのキリスト教の発展に関心があったことは明白で、そのことは、治世を通じて教会の建設や改修を継続的に行っていたことからも見てとれる。一方で、デヴリースは、ハーラル3世の結婚の状況を例に引き、「個人的な道徳感はキリスト教の理想像には合致していなかった様に見える」と記している[118]

妻子

[編集]

ハーラル3世は1044-1045年頃にキエフ大公[[ ヤロスラフ1世]]の娘エリザヴェータ・ヤロスラヴナ(1025年頃生 - 1066年以降没)と結婚[157]、子の人数は定かではないが恐らく数人、スノッリ・ストゥルルソンによれば娘2人を儲けた[158]

まずオーロフ1世(のちのデンマーク王)と結婚、その後、オーロフ1世が死去するとフィリップ(のちのスウェーデン王)と再婚した[159]
トーラ・トールベルグスダッテル(Tora Torbergsdatter)の兄弟でノルウェー貴族のエイステイン・オーリに嫁ぐことが決まっていたが、スタンフォード・ブリッジの戦いでハーラル3世とエイステイン・オーリが戦死した同日にオークニー諸島で死去したと伝わる。

サガによると、ハーラル3世は1048年頃にトーラ・トールベルグスダッテル(Tora Torbergsdatter。1025年頃 - 1066年以降)と結婚した[160]。現代の歴史学者の中には、ハーラル3世はこの時すでにエリザヴェータと結婚しており、トーラとも結婚したとすると重婚に当たる為、この結婚に異議を唱える者も複数存在する[161]。それでもなお、11世紀のノルウェーでこのような結婚が為され、ハーラルは2人の妻を持った可能性はあるが、王妃の称号を持っていたのはエリザヴェータのみであった点には注意が必要である[162]。トーラとの間には少なくとも2人の子がいた[18][158]

ノルウェー王(治世 1066年 - 1069年)
ノルウェー王(治世 1067年 - 1093年)

遺産

[編集]

埋葬地

[編集]
トロンハイムクロステルガタ通りノルウェー語版。かつてヘルゲセテル修道院(Helgeseter Priory)があった。

スタンフォード・ブリッジの戦いで敗死した1年後、ハーラル3世の遺体はノルウェーに移され、ニーダロス英語版トロンハイム)のマリア教会(Mary Church)に埋葬された。この埋葬の約100年後、ヘルゲセテル修道院(Helgeseter Priory。17世紀に取り壊された)に再埋葬された[163]。ハーラル3世没後940年にあたる2006年9月25日、新聞「アフテンポステン英語版」は「ハーラル3世のものを含めノルウェーの古代の王の埋葬地は劣悪な状態にあり、ハーラル3世の埋葬地は道路の下に位置する(埋葬地のあった修道院跡を横切る形で道路が造られた)と伝わる」との記事を掲載した[163]。翌9月26日の続報によると、トロンハイム市は「ハーラル3世の遺骨を発掘しニーダロス大聖堂(前任のマグヌス1世、後任のマグヌス2世英語版)を始めとする9名のノルウェー王の埋葬地)への再埋葬ができないか可能性を調査する予定である」と明かしたが[164] 、1か月後、この発掘計画は取り止めになったと報じられた[165]

近代以降の記念像など

[編集]

ハーラル3世が創建したと古くから考えられてきた街であるオスロには、ハーラル3世を顕彰する2つの記念像が建てられている。馬に乗るハーラル3世を模した


Two monuments have been erected in honour of Harald in Oslo, the city which he is traditionally held to have founded. A bronze relief on granite by Lars Utne depicting Harald on horseback was raised on the eponymously named square Harald Hardrådes plass in 1905. In 1950, a large relief by Anne Grimdalen, also of Harald on horseback, was unveiled on the western façade of the Oslo City Hall.[166]

Oslo City Hall (centre of image) with relief depicting Harald on the western façade
Monument to Harald at Harald Hardrådes plass in Gamlebyen
Window with portrait of Harald in Lerwick Town Hall, Shetland


メモ

[編集]
  • ハーラル[167]:日本語ではほかに、「ハラルド」[168][169][170][1]、「ハラール」[171][172]、「ハラル」との表記も見られる。
  • ジグルズソン[1]
  • ハルドラーダ:「ハルロラーデ」[170]、「ハルドラーデ」[173]、「ハドラーダ」[174]との表記も見られる。日本語(漢字)では「苛烈王」(かれつおう[175])が当てられている[175][167][3][172][176][177][178]。「強意王」との表記も見られる[168][169][171]。(シンプソン 1982, p. 292)(索引)によると、「Harald hard-ready」、古北欧後=古アイスランド語で「Haraldr inn harðráði」として「ハラルド強意王」の記載がある。また、「酷王」[179]、「烈王」[180]も使用例がある。
  • オーラヴ聖王の異父弟[181]
  • ウラジーミル1世(聖公)の息子、ヤロスラフ賢公の娘、エリザベート(エリザヴェータ・ヤロスラヴナ)が妃[182]
  • (ファーバー 2001, pp. 126–130, 217–220)にハーラルに関する記述有り。
  • 1030年の対クヌーズ大王敗戦→スウェーデン→キエフ大公国→ビザンツ帝国のヴァラング兵[181]
  • スウェーデン近衛兵→ビザンツ帝国将軍となった[183]
  • 1045年帰国、スヴェン・エストリズセンと提携し、マグヌス善王と敵対[181]
  • 1047年、ノルウェー王になると、デンマーク王となったスヴェン・エストリズセンと敵対し、1064年の和平締結まで争いが続いた[181]
  • 1066年、イングランド王位簒奪を目論み、300隻+9000人でイングランド侵攻するが、時のイングランド王ハロルド・ゴドウィンソンスヴェンに敗れ、敗死[167]
  • ノルウェーでは、ハーラル戦死を以て「ヴァイキング時代の終焉」とされている[181]
  • ヴァイキング時代とは、記録されている限りにおいて西欧への襲撃が始まったとされる790年代から、他地への襲撃と植民が行われなくなった11世紀中ごろまでを指す[184]
  • (武田龍夫 2005, p. 40)によると、オーラヴ3世(柔和王。-1093年)を以て「ノルウェーバイキングの時代」が終わった、としている。
  • (川瀬進 2018, pp. 63–67)に、イングランド侵攻に関する経緯の記載有り。
  • (ワイズ 2000, p. 22)によると、15歳時にノルウェー王位争いに敗北、キエフへ敗走→ヤロスラフ賢公の娘の誘惑に失敗→ミクラガルド(ビザンツ帝国首都コンスタンティノープル)でバリャーギ親衛隊に入隊、最終的には隊長→10年間各地へ遠征(ギリシア、小アジア、コーカサス、イェルサレム)→莫大の富とともにキエフへ帰還、キエフ王女と結婚→1047年ノルウェー王に、スカンディナビア全体を荒らしまわり「北の雷」との異名も→1066年イングランド王位を狙いイングランド侵攻、9/25敗死。
  • (ジョーンズ 1987, p. 274)。1030年スティクラルスタディールで敗れるとキエフのヤロスラフの元に亡命、ヤロスラフの軍に入り、ハーラルをヤロスラフを主君、後見人としてヤロスラフの軍に入った。後にヤロスラフの娘エリザベスと結婚した。
  • (ジョーンズ 1987, pp. 430–442)。1030年-1066年の事績について記載有り。

名称まとめ

[編集]
ファーストネーム
ラストネーム
別名(カナ転記)
別名(漢字)


脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ サガで使われた。「ハルドラーダ」は「容赦のない勧告をする者」「冷酷な支配者」の大意。
  2. ^ サガではガルダリキとして言及。
  3. ^ マグヌス1世は、1042年にはデンマーク王にも就いていた。
  4. ^ サガには、1030年のスティクルスタードの戦い英語版の時点で15歳、との記載がある。
  5. ^ 「スヴィーショウズ」はスウェーデンの古称[24]。全体で「偉大なスウェーデン」の意[25]
  6. ^ マニアケスが行う戦利品の分配に不満を述べたノルマン人指揮官アルデュアンに対し、マニアケスは鞭打ちの刑で対処。結果、ノルマン人の離反を招いた[46]
  7. ^ シチリア遠征の最中、皇帝の従兄弟で提督(マニアケスの部下)であったステファノスが、マニアケスの指示を守らず、イスラム側指揮官の逃亡を許してしまう事態が発生、マニアケスはステファノスを厳しく叱責した。屈辱を与えられたステファノスは皇帝に報告、結果、マニアケスは召喚の上、投獄されるに至った[48]
  8. ^ 元は皇帝が行った行列の先導役の衛兵の肩書[56]
  9. ^ 1042年4月からゾエの妹テオドラと共に、同年6月からは新たにゾエの夫となったコンスタンティノス9世と共に共同統治[70]
  10. ^ ノルウェーマグヌス1世は、デンマークハーデクヌーズとの協定に基づき、ハーデクヌーズ死去後にデンマーク王にも就任した[94]
  11. ^ クヌート大王自身は、古来から北欧で使われてきたトリケトラ英語版文様を採用することで、自身をデンマーク古来の王家スキョルドゥング家英語版の一員と看做していた。デンマーク王位を継いだ息子ハーデクヌーズもこの文様を使い、ハーラル3世についても同様に、前デンマーク王マグヌス1世及びスキョルドゥング家の継承者としてデンマーク王位を主張するために同じ文様を採用した様である。
  12. ^ 1ヴァイキング・エル=約18インチ、よって5エル=約90インチ=約7.5フィート[149]=約229cm。

出典

[編集]
  1. ^ a b c ボルヘス & ビオイ=カサレス 1976, p. 47.
  2. ^ Norseng, Per G. (2019年3月15日). “Harald Hardråde” (ノルウェー語). Store norske lexikon. Foreningen Store norske lexikon. 2022年10月13日閲覧。
  3. ^ a b c ハーラル[3世]”. コトバンク. DIGITALIO. 2022年10月13日閲覧。
  4. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)「オーラフ(2世)https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%95%EF%BC%882%E4%B8%96%EF%BC%89コトバンクより2022年10月16日閲覧 
  5. ^ Cleasby, Richard; Gudbrand, Vigfusson (1874-01) (英語). An Icelandic-English Dictionary. Clarendon Press. p. 240「harð-raðr」. https://books.google.co.jp/books/about/An_Icelandic_English_Dictionary.html?id=HkJXAAAAMAAJ&redir_esc=y 2022年10月18日閲覧。 
  6. ^ harðraðr” (英語). An Icelandic-English Dictionary Richard Cleasby and Gudbrand Vigfusson, Oxford, 1874.. Germanic Lexicon Project (2021年8月23日). 2022年10月18日閲覧。
  7. ^ a b Sturluson, Snorri Finlay, Alison; Faulkes, Anthony訳 (2015) (英語) (pdf). Heimskringla. 3. London: Viking Society for Northern Research. p. x. ISBN 978-0-903521-93-2. http://vsnrweb-publications.org.uk/Heimskringla%20III.pdf 2022年10月18日閲覧。 
  8. ^ a b Jesch 1996, p. 139.
  9. ^ PROF ALISON FINLAY” (英語). Birkbeck, University of London. 2022年10月18日閲覧。
  10. ^ Anthony Faulkes (d.o.b. 23.6.1937)” (pdf) (英語). Viking Society for Northern Research. 2022年10月18日閲覧。
  11. ^ a b Jakobsson 2016, p. 4.
  12. ^ Jesch 1996, pp. 139–147.
  13. ^ Ghosh, Shami (2011-09-20). Kings' Sagas and Norwegian History: Problems and Perspectives. The Northern World. 54. Brill. pp. 66-70. ISBN 978-90-04-20989-3. https://brill-com.wikipedialibrary.idm.oclc.org/view/title/20444?rskey=UzRCKx&result=1&contents=toc-50344 2022年10月23日閲覧。 
  14. ^ Jakobsson 2016, p. 7.
  15. ^ Krag, Claus (1995) (ノルウェー語). Vikingtid og rikssamling: 800–1130. Aschehougs Norgeshistorie. 2. Oslo: Aschehoug. pp. 92–93,171. ISBN 8203220304 
  16. ^ a b Hjardar & Vike 2011, p. 284.
  17. ^ Tjønn 2010, p. 14.
  18. ^ a b c d e f g h i j k l m Krag, Claus. “Harald 3 Hardråde” (ノルウェー語). Norsk Biografisk Leksikon. Norsk nettleksikon. 2012年10月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年10月26日閲覧。
  19. ^ Tjønn 2010, pp. 15–16.
  20. ^ 一例として、
  21. ^ Tjønn 2010, pp. 17–18.
  22. ^ Blöndal & Benedikz 2007, p. 54.
  23. ^ DeVries 1999, p. 25.
  24. ^ ラーション 2008, p. 52.
  25. ^ Thomsen, Vilhelm Söderberg, Sven訳 (1882) (スウェーデン語). Ryska rikets grundläggning genom Skandinaverna. Samson & Wallin. p. 155. http://runeberg.org/ryskarik/0161.html 2022年11月1日閲覧。 
  26. ^ Tjønn 2010, pp. 21–22.
  27. ^ DeVries 1999, pp. 25–26.
  28. ^ DeVries 1999, p. 26.
  29. ^ Tjønn 2010, p. 16.
  30. ^ Tjønn 2010, p. 25.
  31. ^ DeVries 1999, p. 27.
  32. ^ Tjønn 2010, p. 28.
  33. ^ DeVries 1999, p. 29.
  34. ^ DeVries 1999, pp. 29–30.
  35. ^ Blöndal & Benedikz 2007, pp. 60–62.
  36. ^ a b Blöndal & Benedikz 2007, p. 63.
  37. ^ a b DeVries 1999, p. 30.
  38. ^ DeVries 1999, pp. 30–31.
  39. ^ Tjønn 2010, p. 43.
  40. ^ ストゥルルソン 2010b, p. 13.
  41. ^ ラーション 2008, p. 56.
  42. ^ a b DeVries 1999, p. 31.
  43. ^ a b Tjønn 2010, p. 47.
  44. ^ Beeler 1971, p. 68.
  45. ^ Blöndal & Benedikz 2007, p. 70.
  46. ^ ラーション 2008, pp. 58–59.
  47. ^ Gravett & Nicolle 2007, p. 102.
  48. ^ ラーション 2008, p. 58.
  49. ^ ラーション 2008, p. 59.
  50. ^ DeVries 1999, pp. 31–32.
  51. ^ a b c Bibikov 2005, p. 21.
  52. ^ Tjønn 2010, pp. 55–56.
  53. ^ Blöndal & Benedikz 2007, p. 57.
  54. ^ Bibikov 2005, p. 20.
  55. ^ Tjønn 2010, p. 32.
  56. ^ a b ラーション 2008, p. 71.
  57. ^ DeVries 1999, p. 33.
  58. ^ D'Amato, Raffaele (2010-06-22) (英語). The Varangian Guard 988–1453. Osprey Publishing. p. 8. ISBN 978-1-84908-179-5 
  59. ^ Tjønn 2010, p. 41.
  60. ^ DeVries 1999, pp. 33–34.
  61. ^ DeVries 1999, p. 34.
  62. ^ a b DeVries 1999, pp. 34–35.
  63. ^ ストゥルルソン 2010b, p. 27.
  64. ^ a b DeVries 1999, pp. 35–38.
  65. ^ Bimbaum, Thenrik (1978). “Yaroslav's Varangian Connection” (英語). Scando-Slavica 24 (1): 5–25. doi:10.1080/00806767808600734. 
  66. ^ a b c d DeVries 1999, p. 39.
  67. ^ ラーション 2008, p. 68.
  68. ^ Blöndal & Benedikz 2007, pp. 80–83.
  69. ^ Skaare 1995, p. 45.
  70. ^ ラーション 2008, pp. 65–67.
  71. ^ Bagge 1990, p. 175.
  72. ^ Jesch, Judith (2015-06-05) (英語). The Viking Diaspora. Routledge. p. 29. ISBN 978-1-317-48253-6 
  73. ^ a b Tjønn 2010, p. 77.
  74. ^ Henriksen, Vera (2011) (ノルウェー語). Dronningsagaen - Kongespeil. Aschehoug. ISBN 978-8203350788 
  75. ^ DeVries 1999, pp. 26–27.
  76. ^ Tjønn 2010, p. 27.
  77. ^ a b c DeVries 1999, p. 40.
  78. ^ Tjønn 2010, p. 83.
  79. ^ Blöndal & Benedikz 2007, p. 96.
  80. ^ DeVries 1999, pp. 40–41.
  81. ^ a b Vogt, Yngve (2007年12月6日). “Omfattende myntindustri på 1000-tallet” (ノルウェー語). Forskningsmagasinet Apollon. Universitetet i Oslo. 2012年9月18日閲覧。
  82. ^ Schive 1865, p. 24.
  83. ^ Skaare 1995, p. 46.
  84. ^ Thunberg 2012, pp. 39–40.
  85. ^ DeVries 1999, p. 42.
  86. ^ a b Tjønn 2010, p. 94.
  87. ^ DeVries 1999, pp. 43–45.
  88. ^ Tjønn 2010, pp. 95–102.
  89. ^ Tjønn 2010, pp. 102–103.
  90. ^ DeVries 1999, pp. 45–46.
  91. ^ a b Tjønn 2010, p. 103.
  92. ^ DeVries 1999, p. 57.
  93. ^ a b c d Bagge, Sverre (2014) (英語). Cross and Scepter: The Rise of the Scandinavian Kingdoms from the Vikings to the Reformation. Princeton University Press. pp. 126–127. ISBN 978-1-4008-5010-5. https://books.google.com/books?id=NFJNAgAAQBAJ&pg=PP1 
  94. ^ 世界大百科事典 第2版「マグヌス[1世]」https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8C%E3%82%B9%5B1%E4%B8%96%5Dコトバンクより2022年11月30日閲覧 
  95. ^ Moseng 1999, p. 81.
  96. ^ DeVries 1999, pp. 56–58.
  97. ^ Hjardar & Vike 2011, p. 118.
  98. ^ DeVries 1999, pp. 59–60.
  99. ^ Skaare 1995, pp. 47–48.
  100. ^ Hertzberg, Ebbe; Bugge, Alexander (1915) (ノルウェー語). Norges historie: andet binds første del tidsrummet 1030–1103. Oslo Kristiania: Aschehoug. p. 280. OCLC 984919926 
  101. ^ DeVries 1999, pp. 61–65.
  102. ^ Hjardar & Vike 2011, p. 83.
  103. ^ DeVries 1999, p. 66.
  104. ^ Sprague, Martina (2007) (英語). Norse Warfare: The Unconventional Battle Strategies of the Ancient Vikings. Hippocrene Books. p. 302. ISBN 978-0-7818-1176-7. https://archive.org/details/norsewarfareunco0000spra/page/302 
  105. ^ Popperwell, Ronald G. (1972) (英語). Norway. New York: Praeger. p. 79. ISBN 0510389090 
  106. ^ a b c Moseng 1999, p. 79.
  107. ^ Tjønn 2010, pp. 104–106.
  108. ^ DeVries 1999, pp. 51–52.
  109. ^ Tjønn 2010, p. 115.
  110. ^ Tjønn 2010, p. 114.
  111. ^ DeVries 1999, pp. 52–56.
  112. ^ Tjønn 2010, pp. 115–120.
  113. ^ Tjønn 2010, pp. 144–153.
  114. ^ Tjønn 2010, pp. 153–155.
  115. ^ Tjønn 2010, p. 155.
  116. ^ DeVries 1999, pp. 46–47.
  117. ^ Jakobsson, Sverrir (2008). “The Schism that never was: Old Norse views on Byzantium and Russia” (英語). Byzantinoslavica (Slovanský ústav Akademie věd ČR) 66: 173–188. ISSN 0007-7712. 
  118. ^ a b DeVries 1999, pp. 47–48.
  119. ^ Bagge 1990, pp. 176–177.
  120. ^ a b c DeVries 1999, p. 49.
  121. ^ Lamb, H.H. (1982) (英語). Climate, History, and the Modern World. Taylor & Francis. p. 165. ISBN 978-0-416-33440-1 
  122. ^ Barlow 1970, pp. 55–57.
  123. ^ DeVries 2001, pp. 65–67.
  124. ^ DeVries 1999, p. 78.
  125. ^ DeVries 2001, pp. 67–68.
  126. ^ Tjønn 2010, p. 165.
  127. ^ DeVries 1999, pp. 231–240.
  128. ^ DeVries 1999, p. 230.
  129. ^ Hjardar & Vike 2011, pp. 141, 143.
  130. ^ Tjønn 2010, p. 169.
  131. ^ Hjardar & Vike 2011, pp. 284–285.
  132. ^ Tjønn 2010, p. 167.
  133. ^ DeVries 1999, pp. 251–252.
  134. ^ DeVries 1999, pp. 242–243.
  135. ^ DeVries 1999, p. 252.
  136. ^ Tjønn 2010, p. 170.
  137. ^ DeVries 1999, pp. 250–261.
  138. ^ Tjønn 2010, p. 172.
  139. ^ DeVries 1999, pp. 267–270.
  140. ^ Fuglesang, Signe Horn (1997) (ノルウェー語). Bilder og bilders bruk i vikingtid og middelalder. Norges forskningsråd. p. 77. ISBN 8212009424 
  141. ^ DeVries 1999, pp. 199, 276–278, 284, 290.
  142. ^ Tjønn 2010, pp. 172–174.
  143. ^ DeVries 1999, pp. 276–296.
  144. ^ Hjardar & Vike 2011, pp. 289–291.
  145. ^ a b Hjardar & Vike 2011, p. 291.
  146. ^ DeVries 1999, p. 296.
  147. ^ Stenton 1971, p. 590.
  148. ^ Stenton 1971, p. 592.
  149. ^ Hollway, Don (2021-09-02) (英語). The Last Viking: The True Story of King Harald Hardrada. Bloomsbury Publishing. p. 23. ISBN 9781472846532. https://books.google.co.jp/books?id=HZz8DwAAQBAJ&pg=PA23&lpg=PA23&dq=%22Viking+Ell%22&source=bl&ots=PY2oPZZmsU&sig=ACfU3U3cgCjEv-pA23FBc3YyBO8wWvTVbA&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwiozu3w36X8AhX9s1YBHQ5rDUsQ6AF6BAgbEAM#v=onepage&q=%22Viking%20Ell%22&f=false 
  150. ^ Bagge 1990, pp. 187–189.
  151. ^ Barclay, Cyril Nelson (1966) (英語). Battle 1066. University of Michigan. p. 35 
  152. ^ Carrington, C.E.; Jackson, J.Hampden (2011) [1932] (英語). A History of England. Cambridge University. p. 68. ISBN 978-1-107-64803-6 
  153. ^ Hollander 1947, p. 197.
  154. ^ Hjardar & Vike 2011, p. 60.
  155. ^ Hollander 1947, p. 200.
  156. ^ DeVries 1999, p. 32.
  157. ^ Krag, Claus. “Ellisiv” (ノルウェー語). Norsk biografisk leksikon. 2012年10月9日閲覧。
  158. ^ a b DeVries 1999, p. 48.
  159. ^ Lindqvist, Herman (2006) (スウェーデン語). Historien om alla Sveriges drottningar: från myt och helgon till drottning i tiden. Volum 3 av Historien om Sverige. Norstedt. p. 41. ISBN 9789113015248 
  160. ^ Røskaft, Merete. “Tora Torbergsdatter” (ノルウェー語). Norsk biografisk leksikon. 2012年10月9日閲覧。
  161. ^ DeVries 1999, pp. 48–49.
  162. ^ Tjønn 2010, p. 106.
  163. ^ a b Guhnfeldt, Cato (2006年9月25日). “En norsk kongegrav” (ノルウェー語). Aftenposten. オリジナルの2014年11月9日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20141109114529/https://www.aftenposten.no/nyheter/iriks/article1470628.ece 2012年9月20日閲覧。 
  164. ^ Guhnfeldt, Cato (2006年9月26日). “Kan bli gravd opp” (ノルウェー語). Aftenposten. 2013年10月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年9月20日閲覧。
  165. ^ Agerlie, Kristin (2006年10月25日). “Hardråde får ligge i fred” (ノルウェー語). NRK Trøndelag. 2012年9月20日閲覧。
  166. ^ Norseng, Per G.. “Harald 3 Hardråde” (ノルウェー語). Store norske leksikon. 20 September 2012閲覧。
  167. ^ a b c ヒースマン姿子 2000, p. 135.
  168. ^ a b シンプソン 1982, p. 109.
  169. ^ a b c d オスロ」日本大百科全書(ニッポニカ)https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%ADコトバンクより2022年10月21日閲覧 
  170. ^ a b c d 川瀬進 2018, p. 64.
  171. ^ a b c d バイキング」日本大百科全書(ニッポニカ)https://kotobank.jp/word/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0コトバンクより2022年10月21日閲覧 
  172. ^ a b c d デジタル大辞泉プラス「苛烈王https://kotobank.jp/word/%E8%8B%9B%E7%83%88%E7%8E%8Bコトバンクより2022年10月21日閲覧 
  173. ^ 武田龍夫 2005, p. 39.
  174. ^ ファーバー 2001, p. 217.
  175. ^ a b 村井誠人 & 大溪太郎 2022, p. 52.
  176. ^ a b 常見信代「イングランド人の国王ハロルド2世の一族とその経歴」(pdf)『北海学園大学人文論集』第36号、北海学園大学人文学会、2007年3月31日、276頁、2022年10月19日閲覧 
  177. ^ a b 『1000点世界文学大系』既刊書解説”. プレスポート・北欧文化通信社. 2022年10月19日閲覧。
  178. ^ a b ディカプリオ製作で最後のバイキング王を映画化 主演の可能性も”. エイガ・ドット・コム (2013年8月12日). 2022年10月19日閲覧。
  179. ^ 新紀元社編集部 & 川口妙子 2015, p. 49.
  180. ^ コア 1993, p. 120.
  181. ^ a b c d e ヒースマン姿子 2000, p. 139.
  182. ^ ファーバー 2001, p. 124.
  183. ^ 武田龍夫 2005, p. 61.
  184. ^ シンプソン 1982, p. 10.
  185. ^ 熊澤喜章「貴婦人ゴディヴァの伝説とコヴェントリ」(pdf)『明大商學論叢』第100巻第2号、明治大学商学研究所、2018年2月15日、47頁、ISSN 0389-59552022年10月22日閲覧 

参考文献

[編集]



  • Barlow, Frank (1970). Edward the Confessor. University of California. ISBN 978-0520016712 



  • DeVries, Kelly (2008). “Medieval mercenaries: methodology, definitions and problems”. In France, John. Mercenaries and paid men: the mercenary identity in the middle ages: proceedings of Conference held at University of Wales, Swansea, 7th–9th july 2005. Brill. p. 58. ISBN 978-90-04-16447-5 
  • DeVries, Kelly (2001). Harold Godwinson in Wales: Military Legitimacy in Late Anglo-Saxon England in The Normans and their Adversaries at War: Essays in Memory of C. Warren Hollister (Warfare in History). Boydell Press. ISBN 978-0851158471 



  • van Nahl, Jan Alexander (2016). “The Medieval Mood of Contingency. Chance as a Shaping Factor in Hákonar saga góða and Haralds saga Sigurðarsonar”. Mediaevistik, International Journal of Interdisciplinary Medieval Research 29. pp. 81–97 




図書館資料

[編集]
市図書館(有用)

  • ファーバー, グスタフ 著、片岡哲史戸叶勝也 訳『ノルマン民族の謎 海賊ヴァイキングの足跡』 5巻、アリアドネ企画〈アリアドネ古代史スペクタクル〉、2001年11月12日。ISBN 4-384-02690-0 

市図書館(無用)

県図書館(有用)
県図書館(総論)
  • 熊野聰『ヴァイキングの歴史 実力と友情の社会』創元社〈創元社世界史ライブラリー〉、2017年2月20日。ISBN 978-4-422-20341-6 
  • 角谷英則『ヴァイキング時代』 9巻、京都大学学術出版会〈諸文明の起源〉、2006年3月15日。ISBN 4-87698-809-9 
県図書館(無用)
  • ワイズ, テレンス 著、佐藤俊之 訳『サクソン/ヴァイキング/ノルマン ブリテンへの来寇者たち』新紀元社〈オスプレイ・メンアットアームズ〉、2000年12月31日。ISBN 4-88317-835-8 
  • クラーク, ヘレン、アンブロシアーニ, ビョーン 著、角谷英則 訳『ヴァイキングと都市』熊野聰(監修)、東海大学出版会、2001年4月20日。ISBN 4-486-01531-2 
  • 角田文衛 編『北欧史』 6巻(第7版第16刷)、山川出版社〈世界各国史〉、1974年8月10日。 
  • ストゥルルソン, スノッリ 著、谷口幸男 訳『ヘイムスクリングラ 北欧王朝史3』 北欧篇3-3、プレスポート・北欧文化通信社〈1000点世界文学大系〉、2010年1月12日。ISBN 978-4-938409-06-7 
  • デイヴィス, ウエンディ 編『ヴァイキングからノルマン人へ』 3巻、慶應義塾大学出版会〈オックスフォード ブリテン諸島の歴史〉、2015年10月15日。 







ノルウェー語(ブークモール)の読み方

[編集]

訳語

[編集]

ハーラル3世 (ノルウェー王) (現行版)

[編集]
ハーラル3世
Harald III Hardråde
ノルウェー王
在位 1046年 - 1066年

出生 1015年
 ノルウェー、リンガーリカ
死去 1066年9月25日
イングランド王国の旗 イングランド王国ヨークシャー、スタンフォード・ブリッジ
埋葬  ノルウェートロンハイム
配偶者 エリザヴェータ・ヤロスラヴナ
  トーラ・トールベルグズドーテル
子女 インゲゲルド
マグヌス2世
オーラヴ3世
家名 シュル家
王朝 ホールファグレ朝
父親 シグル・シュル
母親 オースタ・グドブランズドーテル
テンプレートを表示

ハーラル3世“苛烈王”ノルウェー語:Harald Hardråde、1015年 - 1066年9月25日)は、ノルウェー王(在位:1046年 - 1066年)で、ハーラル1世(美髪王)4代目の子孫にあたる。オーラヴ2世の異父弟。父は、ノルウェー東部の小王の〈シグル・シュル(雌豚のシグルズ)英語版〉。英語文献の翻訳などでは「ハラルド・シグルズソン」などの表記もみられる[1]

略歴

[編集]
『ハラルド(ハーラル)苛烈王のサガ』の一場面

1030年、ハーラルの異父兄オーラヴ2世が2年前から喪失していたノルウェー王位を奪還するため、スティクラスターの戦い英語版でノルウェー反乱貴族の軍勢と激突した。兄オーラブ2世と共に戦闘に参加したハーラルであったが、敢えなく戦闘は反乱軍側の勝利に終わり、オーラブは戦死。ハーラルも這々の体で戦線離脱し、そのままキエフ公国へ亡命した。そしてハーラルは当時のキエフ大公ヤロスラフ賢公に仕え多くの戦役に参加し、結局はキエフ公国の将軍の地位にまで昇り詰めた。その後、1034年頃、ハーラルはビザンツ帝国へ移り、ヴァラング親衛隊英語版の司令官として帝国に仕えた。ビザンツ帝国で軍人として過ごした間、ハーラルは地中海小アジアシチリア島聖地イェルサレムブルガリアやといった帝国各地で様々な戦役に参加した。また、では当時のビザンツ皇帝ミカエル4世の寵愛を受け昇進を続けたハーラルであったが、ミカエル4世の没後、ビザンツ皇族内で発生した内紛に一時巻き込まれた。ビザンツ帝国での華々しい軍歴によりハーラルは巨万の富を築き上げ、その貯蓄は保管のためにキエフ公国のヤロスラフ公に運送されたほどであった。1042年、ハーラルは遂にビザンツ帝国を離れ、再びキエフ公国に戻った。そこでハーラルはノルウェー王位奪還を目論み軍事遠征の準備を行った。おそらくハーラルは、自身がキエフに亡命した頃デンマークの君主クヌート大王によって奪われいたノルウェー王位が、大王の没後、自身の亡命生活中にオーラブ2世の非嫡出子マグヌス善王の手によって取り返されていたことを知っていたのかもしれない。

1046年、ノルウェー遠征に乗り出したハーラルはマグヌス善王のデンマークでの政敵でデンマーク王位請求者スヴェン2世と手を組み、デンマーク王国沿岸部を襲撃してまわった。(当時マグヌス善王はデンマーク王でもあったからだ。)しかし、マグヌスは自分の叔父であるハーラルと戦う気がなかったため、ハーラルの富を分かち合うことを条件にノルウェーをハーラルと共同統治することに同意した。そんなマグヌスとの共同統治は翌年のマグヌスの死によってあっけなく終わり、ハーラルは遂に単独のノルウェー王となった。ノルウェー国内では、ハーラルは地元の抵抗勢力を全て打ち破り、ノルウェー王国の版図を確定した。ハーラルの治世はおそらく比較的平和で安定し、国内の貨幣経済を確立し諸外国間の貿易も押し進めた。ハーラルはおそらく、クヌート大王が作り上げていた北海帝国を自分の手で再び作り上げようと試みていたのであろう。そんなハーラルはデンマーク王位を主張し始め、1064年までほぼ毎年、デンマーク沿岸部を荒らし回り、先の同盟者スヴェン2世と戦った。彼の軍事遠征は成功したものの、デンマークを征服することはなかった。

ハーラルはその後デンマーク王位の主張を引き下げたが、それから程なくして、イングランドよりとある貴族が彼を訪ねてきた。先のノーザンブリア伯英語版トスティ・ゴドウィンソンである。トスティは当時のイングランド国王ハロルド・ゴドウィンソンの戴冠に反対しており、ハーラルに対してイングランド征服の支援を要請してきたのだ。ハーラルはトスティの要請を受け、1066年9月、10,000の軍団と300隻のロングシップを率いてイングランド北部に遠征した。そしてイングランド沿岸を荒らし回り、1066年9月20日、ハーラル・トスティの軍勢を討伐すべく目前に立ちはだかったノーザンブリア伯モルカル英語版マーシア伯エドウィンの軍勢とヨーク南部のフルフォード村にて衝突し、これを打ち破った。ハーラルのイングランド遠征は順調に進むかのように見えたが、ハーラルの思惑は外れた。彼の予想を遥かに上回る早さでイングランド王ハロルド2世率いるイングランド主要部隊がノルウェー軍を目掛けて北上してきたのだ。1066年9月25日、ハーラル率いる9千の軍勢はハロルド率いる1万の軍勢から奇襲を受け、ハーラル・トスティともども討ち果たされた。ハーラルの軍勢はほぼ全滅した。現在の歴史家たちは、ハーラルの戦死によって、ノルウェーのイングランド遠征は潰えてしまったが、彼の死は遠征のみならず、ヴァイキングの時代に幕を閉じるきっかけにもなったであろう考えている。


『ハーラルが戦死したとされるスタンフォード・ブリッジの戦いを描いた絵』

ハーラルの死後、ノルウェーは2人の息子マグヌス2世英語版オーラヴ3世が共同統治した。

東方での亡命生活

[編集]

キエフ大公国への亡命

[編集]

スティクラスターの戦い英語版クヌート大王に敗れたのち、ハーラルはen:Rögnvald Brusason (後の オークニー伯英語版)の支援のもとでノルウェー南東部のエストラン地方の農園に身を隠した。彼はその地で戦での傷を癒やし、しばらくのち(おそらく1ヶ月ほど)北上し山越えをしてスウェーデンに向かった。スティクラスターでの敗戦から1年が経った頃、ハーラルはキエフ公国に亡命した。(なお、サガではハーラルが亡命した町はen:Garðaríki またはSvíþjóð hin miklaと言及されている。)ハーラルはスタラヤ・ラドガ(Aldeigjuborg)の街で1031年の前半を過ごした。ハーラルとその従者はキエフ大公 ヤロスラフ1世に歓迎され迎え入れられた。大公の妃である インゲゲルド英語版がハーラルの縁戚であったからだとされている[2][3]。ヤロスラフ大公は当時、軍事指揮官をひどく欲していたために、亡命してきたハーラル3世に軍事的才能があることを見抜いた大公はハーラルに自らの軍団の指揮官に任じた[4] 。この大抜擢は、ハーラルがキエフ大公国に亡命する前からキエフに亡命していた[5]元ノルウェーの統治者オーラヴ2世がハーラルの兄弟であったからだと言われている[6]。ヤロスラフ大公の軍勢の指揮官となったハーラル3世は、1031年にはポーランド人に対する遠征に参加した。また、1030年代には、エストニアに勢力を張るチュヂ族ビザンツ帝国ペチェネグ人や他の遊牧民族といったキエフ大公国の宿敵に対する遠征にも参加していた可能性もある[7]


ビザンツ帝国での活躍

[編集]

キエフ公国で数年間過ごしたのち、1033年、若しくは1034年、ハーラルと彼に従う500人の従士たち[8]ビザンツ帝国の帝都コンスタンティノープルに向かい[9]、そこでヴァラング親衛隊英語版としてビザンツ皇帝に仕えた。中世アイルランドの写本の中で最も重要とされているフラート島本によると、ハーラルは当初、ノルウェー王という自身の高位な身分を隠そうとしていたとされているが、他の多くの歴史的文献によれば、ハーラルと彼の従士たちの名声はこの時すでにビザンツ帝国にも伝わっていたという。そんなハーラルが属したヴァラング親衛隊とは元々は皇帝の身辺警護を任務とする部隊であったが、ハーラルは"帝国のほぼ全ての辺境地域"で戦闘任務についていたことが分かっている[10] 。ハーラルが最初に就いた任務は地中海におけるアラブ人海賊の討伐と、アラブ人海賊を支援していたアナトリア地方内陸部の諸都市征伐であった。当時のアイルランドの歴史家スノッリ・ストゥルルソンによると、この頃にはハーラルはヴァラング親衛隊の全部隊を率いる指揮官に任じられていたという。1035年までにビザンツ帝国はアラブ人勢力をアナトリア地方から東部・南東部へ駆逐し、ハーラルもそのアラブ人駆逐任務の一部に参加して、メソポタミア地方、チグリス川ユーフラテス川まで遠征した。ハーラルに仕えたスカルド詩人ショーゾルヴ・アルノールソン英語版(サガに詳細に記されている)によれば、ハーラルはメソポタミアの地で80ものアラブ人の砦の攻略に参加した。現代の歴史家であるSigfus BlöndalやBenedikt Benedikzらによると、この数に関してはなんら疑いの余地はないとされる。サガが示唆するようにハーラルは独立した軍隊の指揮官ではなかったが、ハーラル王とヴァラング隊が城や町を占領するために派遣されていた可能性は少なくない[11][12]。ビザンツ皇帝ミカエル4世の治世下において、ハーラルはペチェネグ人との戦役にも従事していたかもしない[13]

ビザンツ帝国のヴァラング親衛隊を描いた挿絵。ヨハネス・スキュリツェスがほぼ同時代に著した歴史書に描かれている。

その後、ハーラルはイェルサレムに向かいその地で戦闘を行ったとサガに伝えられている。サガはこの出来事を彼がシチリア遠征に参加した後に行われた出来事としているが、現代の歴史家Kelly DeVriesは示された時期について疑問を呈している[14]。近代歴史家たちは、ハーラルが遠征の一環としてイェルサレムに向かったのではなく、ビザンツ皇族を含む聖地巡礼者を保護するための一団にハーラルが加わっていたのではないかと推測している。というのも帝国とファーティマ朝との間で締結された平和条約はビザンツ帝国の民が聖墳墓教会の修復に携わるのを認める合意でもあったからだ。それゆえこの一団に同行したハーラルには、聖地に向かうキリスト教徒を襲撃する盗賊と戦う機会あったのかもしれない[15][16]


1038年、ハーラルはビザンツ帝国のシチリア島遠征に参加した[17][18] 。この遠征はビザンツ帝国の将軍ゲオルギオス・マニアケス英語版の試みであり、サラセン人に長年奪われていたシチリア島を奪還するのが目的であった。この遠征中、ハーラルは当時南イタリアで活躍していた鉄の腕ウィリアム英語版などといったノルマン人傭兵たちと共に戦った[17]。当時の歴史家ストゥルルソンによれば、ハーラルはシチリア島で4つの町を占領したという[18] 。1041年、ビザンツ帝国のシチリア島遠征が終結した頃、南イタリアでロンバルド系ノルマン人らの反乱が発生し、ハーラルはヴァラング隊と共に反乱鎮圧にあたった[19]。ハーラルは当時のビザンツ領イタリアの総督ミカエル・ドケイアノス英語版と共に戦い、緒戦は反乱軍に対して優勢であった。しかし、シチリア島遠征時には味方であったノルマン人鉄の腕ウィリアムが反乱軍側に回り、ウィリアム率いる反乱軍が3月にはオリヴェントの戦い英語版 [20]、5月にはモンテマッジョーレの戦い英語版にてビザンツ帝国軍を撃破した[21]ことで形成は逆転した。敗戦後、ハーラルとヴァラング隊はコンスタンティノープルに呼び戻された。シチリア島遠征に共に参加していたビザンツ将軍マニアキスが皇帝により幽閉されたことや、さらなる緊急の事態が発生したためであった[22]。ハーラルとヴァラング隊はその後、1041年後半にはブルガリアにおける南東ヨーロッパでの前線に派遣された[13]。ハーラルはブルガリアの地でミカエル4世の軍に従軍し、ペタル・デリャン英語版が起こしたブルガリアの反乱の鎮圧戦に参加、その一環としてオストロボの戦い英語版で戦闘に従事した。この時のハーラルの活躍により、自身のスカルド詩の中でBulgar-burnerと称されるに至った[23][24]

子女

[編集]

大衆文化

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ ボルヘス、柳瀬訳、1976年、47頁。
  2. ^ Tjønn (2010) pp. 21–22
  3. ^ DeVries (1999) pp. 25–26
  4. ^ DeVries (1999) p. 26
  5. ^ Tjønn (2010) p. 16
  6. ^ Tjønn (2010) p. 25
  7. ^ DeVries (1999) p. 27
  8. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「vikingerikrig284」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  9. ^ Tjønn (2010) p. 28
  10. ^ DeVries (1999) p. 29
  11. ^ DeVries (1999) pp. 29–30
  12. ^ Blöndal & Benedikz (2007) pp. 60–62
  13. ^ a b Blöndal & Benedikz (2007) p. 63
  14. ^ DeVries (1999) p. 30
  15. ^ DeVries (1999) pp. 30–31
  16. ^ Tjønn (2010) p. 43
  17. ^ a b DeVries (1999) p. 31
  18. ^ a b Tjønn (2010) p. 47
  19. ^ Beeler (1971) p. 68
  20. ^ Blöndal & Benedikz (2007) p. 70
  21. ^ Gravett, Nicolle (2007) p. 102
  22. ^ DeVries (1999) pp. 31–32
  23. ^ 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「Bibikov21」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  24. ^ Tjønn (2010) pp. 55–56
  25. ^ “On-demand giant commissions new version of TV saga made in Ashford Studios”. Irish Times. (19 November 2019). オリジナルの14 November 2020時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20201114232940/https://www.irishtimes.com/business/media-and-marketing/vikings-spin-off-valhalla-to-be-filmed-for-netflix-in-wicklow-1.4088535 7 January 2020閲覧。 

参考文献

[編集]
  • ホルヘ・ルイス・ボルヘス、アドルフォ・ビオイ=カサレス、柳瀬尚紀訳 『ボルヘス怪奇譚集』、晶文社、1976年。

関連書籍

[編集]

外部リンク

[編集]
先代
マグヌス1世
ノルウェー国王
1046年 - 1066年
次代
マグヌス2世



Harald Hardrada

[編集]
むらのくま/sandbox
Coin of Harald as the sole Norwegian king, "ARALD[us] REX NAR[vegiae]". Imitation of a type of Edward the Confessor.[1]

在位期間
1046 – 25 September 1066
Co-ruler Magnus I (until 1047)
先代 Magnus I
次代 Magnus II

出生 c. 1015
Ringerike, Norway
死亡 1066年9月25日(1066-09-25)(50–51歳没)
Stamford Bridge, Yorkshire, England
埋葬 Trondheim; Mary Church until 12th century, Helgeseter Priory until 17th century (demolished)
実名 Haraldr Sigurðarson
王室 Hardrada
父親 Sigurd Syr
母親 Åsta Gudbrandsdatter
配偶者 Elisiv of Kiev
Tora Torbergsdatter
子女
Ingegerd, Queen of Denmark and Sweden
Maria Haraldsdatter
Magnus II, King of Norway
Olaf III, King of Norway
信仰 Catholicism
テンプレートを表示

Harald Sigurdsson, also known as Harald of Norway (古ノルド語: Haraldr Sigurðarson; c. 1015 – 25 September 1066) and given the epithet Hardrada (harðráði; modern ノルウェー語: Hardråde, roughly translated as "stern counsel" or "hard ruler") in the sagas,[2] was King of Norway (as Harald III) from 1046 to 1066. Additionally, he unsuccessfully claimed both the Danish throne until 1064 and the English throne in 1066. Before becoming king, Harald had spent around fifteen years in exile as a mercenary and military commander in Kievan Rus' and of the Varangian Guard in the Byzantine Empire.

When he was fifteen years old, in 1030, Harald fought in the Battle of Stiklestad together with his half-brother Olaf Haraldsson (later Saint Olaf). Olaf sought to reclaim the Norwegian throne, which he had lost to the Danish king Cnut the Great two years prior. In the battle, Olaf and Harald were defeated by forces loyal to Cnut, and Harald was forced into exile to Kievan Rus' (the sagas' Garðaríki). He thereafter spent some time in the army of Grand Prince Yaroslav the Wise, eventually obtaining rank as a captain, until he moved on to Constantinople with his companions around 1034. In Constantinople, he soon rose to become the commander of the Byzantine Varangian Guard, and saw action on the Mediterranean Sea, in Asia Minor, Sicily, possibly in the Holy Land, Bulgaria and in Constantinople itself, where he became involved in the imperial dynastic disputes. Harald amassed considerable wealth during his time in the Byzantine Empire, which he shipped to Yaroslav in Kievan Rus' for safekeeping. He finally left the Byzantines in 1042, and arrived back in Kievan Rus' in order to prepare his campaign of reclaiming the Norwegian throne. Possibly to Harald's knowledge, in his absence the Norwegian throne had been restored from the Danes to Olaf's illegitimate son Magnus the Good.

In 1046, Harald joined forces with Magnus's rival in Denmark (Magnus had also become king of Denmark), the pretender Sweyn II of Denmark, and started raiding the Danish coast. Magnus, unwilling to fight his uncle, agreed to share the kingship with Harald, since Harald in turn would share his wealth with him. The co-rule ended abruptly the next year as Magnus died, and Harald thus became the sole ruler of Norway. Domestically, Harald crushed all local and regional opposition, and outlined the territorial unification of Norway under a national governance. Harald's reign was probably one of relative peace and stability, and he instituted a viable coin economy and foreign trade. Probably seeking to restore Cnut's "North Sea Empire", Harald also claimed the Danish throne, and spent nearly every year until 1064 raiding the Danish coast and fighting his former ally, Sweyn. Although the campaigns were successful, he was never able to conquer Denmark.

Not long after Harald had renounced his claim to Denmark, the former Earl of Northumbria, Tostig Godwinson, brother of the newly chosen (but reigning not for long) English king Harold Godwinson (also known as Harold of Wessex), pledged his allegiance to Harald and invited him to claim the English throne. Harald went along and invaded Northern England with 10,000 troops and 300 longships in September 1066, raided the coast and defeated English regional forces of Northumbria and Mercia in the Battle of Fulford near York on 20 September 1066. Although initially successful, Harald was defeated and killed in a surprise attack by Harold Godwinson's forces in the Battle of Stamford Bridge on 25 September 1066, which wiped out almost his entire army. Modern historians have often considered Harald's death, which brought an end to his invasion, as the end of the Viking Age.

Epithets

[編集]

Harald's most famous epithet is Old Norse harðráði, which has been translated variously as 'hard in counsel', 'tyrannical',[3] 'tyrant', 'hard-ruler', 'ruthless', 'savage in counsel', 'tough', and 'severe'.[4] While Judith Jesch has argued for 'severe' as the best translation,[5] Alison Finlay and Anthony Faulkes prefer 'resolute'.[4] Harðráði has traditionally been Anglicised as 'Hardrada', though Judith Jesch characterises this form as 'a bastard Anglicisation of the original epithet in an oblique case'.[5] This epithet predominates in the later Icelandic saga-tradition.[6]

However, in a number of independent sources associated with the British Isles, mostly earlier than the Icelandic sagas, Harald is given epithets deriving from Old Norse hárfagri (literally 'hair-beautiful'). These sources include:

In Icelandic sagas the name Harald Fairhair is more famously associated with an earlier Norwegian king, and twentieth-century historians assumed that the name was attached to Harald Hardrada in error by Insular historians. However, recognising the independence of some of the Insular sources, historians have since favoured the idea that Harald Hardrada was widely known as Harald Fairhair, and indeed now doubt that the earlier Harald Fairhair existed in any form resembling the later saga-accounts.[7][8][6]

Sverrir Jakobsson has suggested that 'fairhair' 'might be the name by which King Harald wished himself to be known. It must have been his opponents who gave him the epithet "severe" (ON. harðráði), by which he is generally known in thirteenth-century Old Norse kings' sagas'.[9]

Early life

[編集]
Harald's ancestry according to the younger sagas. Individuals whose existence is disputed by modern historians are in italics.[10]

Harald was born in Ringerike, Norway[11] in 1015 (or possibly 1016)[注釈 1][12] to Åsta Gudbrandsdatter and her second husband Sigurd Syr. Sigurd was a petty king of Ringerike, and among the strongest and wealthiest chieftains in the Uplands.[13] Through his mother Åsta, Harald was the youngest of King Olaf II of Norway / Olaf Haraldsson's (later Saint Olaf) three half-brothers.[14] In his youth, Harald displayed traits of a typical rebel with big ambitions, and admired Olaf as his role model. He thus differed from his two older brothers, who were more similar to their father, down-to-earth and mostly concerned with maintaining the farm.[15]

The Icelandic sagas, in particular Snorri Sturluson in Heimskringla, claim that Sigurd, like Olaf's father, was a great-grandson of King Harald Fairhair in the male line. Most modern scholars believe that the ancestors attributed to Harald Hardrada's father, along with other parts of the Fairhair genealogy, are inventions reflecting the political and social expectations of the time of the authors (around two centuries after Harald Hardrada's lifetime) rather than historical reality.[14][16] Harald Hardrada's alleged descent from Harald Fairhair is not mentioned and played no part during Harald Hardrada's own time, which seems odd considering that it would have provided significant legitimacy in connection with his claim to the Norwegian throne.[14]

Following a revolt in 1028, Harald's brother Olaf was forced into exile until he returned to Norway in early 1030. On hearing news of Olaf's planned return, Harald gathered 600 men from the Uplands to meet Olaf and his men upon their arrival in the east of Norway. After a friendly welcome, Olaf went on to gather an army and eventually fight in the Battle of Stiklestad on 29 July 1030, in which Harald took part on his brother's side.[17] The battle was part of an attempt to restore Olaf to the Norwegian throne, which had been captured by the Danish king Cnut the Great (Canute). The battle resulted in defeat for the brothers at the hands of those Norwegians who were loyal to Cnut, and Olaf was killed while Harald was badly wounded.[18] Harald was nonetheless remarked to have shown considerable military talent during the battle.[19]

Exile in the East

[編集]

To Kievan Rus'

[編集]

After the defeat at the Battle of Stiklestad, Harald managed to escape with the aid of Rögnvald Brusason (later Earl of Orkney) to a remote farm in Eastern Norway. He stayed there for some time to heal his wounds, and thereafter (possibly up to a month later) journeyed north over the mountains to Sweden. A year after the Battle of Stiklestad, Harald arrived in Kievan Rus' (referred to in the sagas as Garðaríki or Svíþjóð hin mikla). He likely spent at least part of his time in the town of Staraya Ladoga (Aldeigjuborg), arriving there in the first half of 1031. Harald and his men were welcomed by Grand Prince Yaroslav the Wise, whose wife Ingegerd was a distant relative of Harald.[20][21] Badly in need of military leaders, Yaroslav recognised a military potential in Harald and made him a captain of his forces.[22] Harald's brother Olaf Haraldsson had previously been in exile to Yaroslav following the revolt in 1028,[23] and Morkinskinna says that Yaroslav embraced Harald first and foremost because he was the brother of Olaf.[24] Harald took part in Yaroslav's campaign against the Poles in 1031, and possibly also fought against other 1030s Kievan enemies and rivals such as the Chudes in Estonia, and the Byzantines, as well as the Pechenegs and other steppe nomad people.[25]

In Byzantine service

[編集]
Near-contemporary depiction of Byzantine Varangian Guardsmen, in an illumination from the Skylitzes Synopsis.

After a few years in Kievan Rus', Harald and his force of around 500 men[11] moved on south to Constantinople (Miklagard), the capital of the Eastern Roman Empire (later known as the Byzantine Empire), probably in 1033 or 1034,[26] where they joined the Varangian Guard. Although the Flateyjarbók maintains that Harald at first sought to keep his royal identity a secret, most sources agree that Harald and his men's reputation was well known in the east at the time. While the Varangian Guard was primarily meant to function as the emperor's bodyguard, Harald was found fighting on "nearly every frontier" of the empire.[27] He first saw action in campaigns against Arab pirates in the Mediterranean Sea, and then in inland towns in Asia Minor / Anatolia that had supported the pirates. By this time, he had, according to Snorri Sturluson (a contemporary Icelandic historian, poet, and politician), become the "leader over all the Varangians". By 1035, the Byzantines had pushed the Arabs out of Asia Minor to the east and southeast, and Harald took part in campaigns that went as far east as the Tigris River and Euphrates River in Mesopotamia, where according to his skald (poet) Þjóðólfr Arnórsson (recounted in the sagas) he participated in the capture of eighty Arab strongholds, a number which historians Sigfus Blöndal and Benedikt Benedikz see no particular reason to question. Although not holding independent command of an army as the sagas imply, it is not unlikely that King Harald and the Varangians at times could have been sent off to capture a castle or town.[28][29] During the first four years of the reign of Byzantine Emperor Michael IV the Paphlagonian, Harald probably also fought in campaigns against the Pechenegs.[30]

Thereafter, Harald is reported in the sagas to have gone to Jerusalem and fought in battles in the area. Although the sagas place this after his expedition to Sicily, historian Kelly DeVries has questioned that chronology.[31] Whether his trip was of a military or peaceful nature would depend on whether it took place before or after the 1036 peace treaty between Michael IV and the Muslim Fatimid Caliph Ma'ad al-Mustansir Billah[31] (in reality the Caliph's mother, originally a Byzantine Christian, since the Caliph was a minor), although it is considered unlikely to have been made before. Modern historians have speculated that Harald may have been in a party sent to escort pilgrims to Jerusalem (possibly including members of the Imperial family) following the peace agreement, as it was also agreed that the Byzantines were allowed to repair the Church of the Holy Sepulchre. Furthermore, this may in turn have presented Harald with opportunities to fight against bandits who preyed on Christian pilgrims.[32][33]

In 1038, Harald joined the Byzantines in their expedition to Sicily,[34][35] in George Maniakes's (the sagas' "Gyrge") attempt to reconquer the island from the Muslim Saracens, who had established the Emirate of Sicily on the island. During the campaign, Harald fought alongside Norman mercenaries such as William Iron Arm.[34] According to Snorri Sturluson, Harald captured four towns on Sicily.[35] In 1041, when the Byzantine expedition to Sicily was over, a Lombard-Norman revolt erupted in southern Italy, and Harald led the Varangian Guard in multiple battles.[36] Harald fought with the Catepan of Italy, Michael Dokeianos with initial success, but the Normans, led by their former ally William Iron Arm, defeated the Byzantines in the Battle of Olivento in March,[37] and in the Battle of Montemaggiore in May.[38] After the defeat, Harald and the Varangian Guard were called back to Constantinople, following Maniakes' imprisonment by the emperor and the onset of other more pressing issues.[39] Harald and the Varangians were thereafter sent to fight in the southeastern European frontier in Bulgaria, where they arrived in late 1041.[30] There, he fought in the army of Emperor Michael IV in the Battle of Ostrovo of the 1041 campaign against the Bulgarian uprising led by Peter Delyan, which later gained Harald the nickname the "Bulgar-burner" (Bolgara brennir) by his skald.[40][41]

Harald was not affected by Maniakes' conflict with Emperor Michael IV, and received honours and respect upon his return to Constantinople. In a Greek book written in the 1070s, the Strategikon of Kekaumenos, Araltes (i.e. Harald) is said to have won the favour of the emperor.[42][43][44] The book says that the Byzantine emperor first appointed him manglabites (possibly identified with the title protospatharios), a soldier of the imperial guard, after the Sicilian campaign.[40][45] Following the campaign against the Bulgarians, in which Harald again served with distinction, he received the rank while at Mosynopolis[46] of spatharokandidatos, identified by DeVries as a promotion to the possibly third highest Byzantine rank, but by Mikhail Bibikov as a lesser rank than protospatharios that was ordinarily awarded to foreign allies to the emperor.[40] The Strategikon indicates that the ranks awarded to Harald were rather low, since Harald reportedly was "not angry for just having been appointed to manglabites or spatharokandidatos".[47] According to his skald Þjóðólfr Arnórsson, Harald had participated in eighteen greater battles during his Byzantine service.[14] Harald's favour at the imperial court quickly declined after the death of Michael IV in December 1041, which was followed by conflicts between the new emperor Michael V and the powerful empress Zoe.[48]

During the turmoil, Harald was arrested and imprisoned, but the sources disagree on the grounds.[49] The sagas state that Harald was arrested for defrauding the emperor of his treasure, as well as for requesting marriage[50] with an apparently fictional niece or granddaughter[14] of Zoe, called Maria (his suit supposedly being turned down by the empress because she wanted to marry Harald herself). William of Malmesbury states that Harald was arrested for defiling a noble woman, while according to Saxo Grammaticus he was imprisoned for murder. DeVries suggests that the new emperor may have feared Harald because of his loyalty to the previous emperor.[50] The sources also disagree on how Harald got out of prison, but he may have been helped by someone outside to escape in the midst of the revolt that had begun against the new emperor. While some of the Varangians helped guard the emperor, Harald became the leader of the Varangians who supported the revolt. The emperor was in the end dragged out of his sanctuary, blinded and exiled to a monastery, and the sagas claim that it was Harald himself who blinded Michael V (or at least claimed to have done so).[51]

Back to Kievan Rus'

[編集]
Harald's wife Elisiv of Kiev, daughter of Yaroslav the Wise

Harald became extremely rich during his time in the east, and secured the wealth collected in Constantinople by shipments to Kievan Rus' for safekeeping (with Yaroslav the Wise acting as safekeeper for his fortune).[52] The sagas note that aside from the significant spoils of battle he had retained, he had participated three times in polutasvarf (loosely translated as "palace-plunder"),[53] a term which implies either the pillaging of the palace exchequer on the death of the emperor, or perhaps the disbursement of funds to the Varangians by the new emperor in order to ensure their loyalty.[54] It is likely that the money Harald made while serving in Constantinople allowed him to fund his claim for the crown of Norway.[53] If he participated in polutasvarf three times, these occasions must have been the deaths of Romanos III, Michael IV, and Michael V, in which Harald would have opportunities, beyond his legitimate revenues, to carry off immense wealth.[55]

After Zoe had been restored to the throne in June 1042 together with Constantine IX, Harald requested to be allowed to return to Norway. Although Zoe refused to allow this, Harald managed to escape into the Bosphorus with two ships and some loyal followers. Although the second ship was destroyed by the Byzantine cross-strait iron chains, Harald's ship sailed safely into the Black Sea after successfully manoeuvring over the barrier.[51] Despite this, Kekaumenos lauds the "loyalty and love" Harald had for the empire, which he reportedly maintained even after he returned to Norway and became king.[56] Following his escape from Constantinople, Harald arrived back in Kievan Rus' later in 1042.[57] During his second stay there, he married Elisabeth (referred to in Scandinavian sources as Ellisif), daughter of Yaroslav the Wise and granddaughter of the Swedish king Olof Skötkonung.[53][58] Shortly after Harald's arrival in Kiev, Yaroslav attacked Constantinople, and it is considered likely that Harald provided him with valuable information about the state of the empire.[59]

It is possible that the marriage with Elisiv had been agreed to already during Harald's first time in Rus', or that they at least had been acquainted. During his service in the Byzantine Empire, Harald composed a love poem which included the verse "Yet the goddess in Gardarike / will not accept my gold rings"[60] (whom Snorri Sturluson identifies with Elisiv), although Morkinskinna claims that Harald had to remind Yaroslav of the promised marriage when he returned to Kiev.[61] According to the same source, Harald had spoken with Yaroslav during his first time in Rus', requesting to marry Elisiv, only to be rejected because he was not yet wealthy enough.[62] It is in any case significant that Harald was allowed to marry the daughter of Yaroslav, since his other children were married to figures such as Henry I of France, Andrew I of Hungary and the daughter of Constantine IX.[59]

King of Norway

[編集]

Return to Scandinavia

[編集]

Seeking to regain for himself the kingdom lost by his half-brother Olaf Haraldsson,[53] Harald began his journey westwards in early 1045, departing from Novgorod (Holmgard) to Staraya Ladoga (Aldeigjuborg) where he obtained a ship. His journey went through Lake Ladoga, down the Neva River, and then into the Gulf of Finland and the Baltic Sea. He arrived in Sigtuna in Sweden, probably at the end of 1045[63] or in early 1046.[53] When he arrived in Sweden, according to the skald Tjodolv Arnorsson, his ship was unbalanced by its heavy load of gold.[14] In Harald's absence, the throne of Norway had been restored to Magnus the Good, an illegitimate son of Olaf. Harald may actually have known this, and it could have been the reason why Harald wanted to return to Norway in the first place.[64] Since Cnut the Great's sons had chosen to abandon Norway and instead fight over England, and his sons and successors Harold Harefoot and Harthacnut had died young, Magnus's position as king had been secured. No domestic threats or insurrections are recorded to have occurred during his eleven-year reign.[65] After the death of Harthacnut, which had left the Danish throne vacant, Magnus had in addition been selected to be the king of Denmark, and managed to defeat the Danish royal pretender Sweyn Estridsson.[66]

Coin with the legend "MAHNUS ARALD REX". Generally held to date from Magnus and Harald's short co-rule,[67] depicting Magnus who had precedence,[68] but also speculated as Harald's alone, with Magnus an epithet adopted after his death.[69]

Having heard of Sweyn's defeat by Magnus, Harald met up with his fellow exile in Sweden (who was also his nephew), as well as with the Swedish king Anund Jacob,[14] and the three joined forces against Magnus. Their first military exploit consisted of raiding the Danish coast.[70] The purpose of that was to impress the natives by demonstrating that Magnus offered them no protection, and thus leading them to submit to Harald and Sweyn. Learning about their actions, Magnus knew that their next target would be Norway.[71] Harald may have planned to be taken as king of his father's petty kingdom, and thereafter claim the rest of the country.[72] In any case, the people were unwilling to turn against Magnus, and on hearing news of Harald's schemes, Magnus (abroad at the time) went home to Norway with his entire army.[72] Instead of going to war, Magnus's advisors recommended the young king not fight his uncle, and a compromise was reached in 1046 in which Harald would rule Norway (not Denmark) jointly with Magnus (although Magnus would have precedence). Notably, Harald also had to agree to share half of his wealth with Magnus, who at the time was effectively bankrupt and badly in need of funds. During their short co-rule, Harald and Magnus had separate courts and kept to themselves, and their only recorded meetings nearly ended in physical clashes.[73][74]

In 1047, Magnus and Harald went to Denmark with their leidang forces. Later that year in Jylland, less than a year into their co-rule, Magnus died without an heir. Before his death, he had decided that Sweyn was to inherit Denmark and Harald to inherit Norway.[75] On hearing the news of Magnus's death, Harald quickly gathered the local leaders in Norway and declared himself king of Norway as well as of Denmark.[76] Although Magnus had appointed Sweyn his successor as king of Denmark, Harald immediately announced his plans to gather an army and oust his former ally from the country. In response, the army and the chieftains, headed by Einar Thambarskelfir, opposed any plans of invading Denmark. Although Harald himself objected to bringing the body of Magnus back to Norway, the Norwegian army prepared to transport his body to Nidaros (now Trondheim), where they buried him next to Saint Olaf in late 1047.[77][78] Einar, an opponent of Harald, claimed that "to follow Magnus dead was better than to follow any other king alive".[77]

Under Harald's rule, Norway introduced a royal monopoly on the minting of coins.[79] The coins minted under Harald's rule appear to have been accepted as a commonly used currency (as opposed to continued use of primarily foreign-minted coins).[79] Minting of coins likely provided a substantial part of Harald's annual revenues.[79] Minting of coinage collapsed in Norway in the late 14th century.[79]

Invasions of Denmark

[編集]

Harald also wanted to re-establish Magnus's rule over Denmark,[14] and in the long term probably sought to restore Cnut the Great's "North Sea Empire" in its entirety.[80] While his first proposal to invade Denmark fell through, the next year Harald embarked on what would turn into constant warfare against Sweyn, from 1048 almost yearly until 1064. Similar to his campaigns (then together with Sweyn) against Magnus's rule in Denmark, most of his campaigns against Sweyn consisted of swift and violent raids on the Danish coasts. In 1048, he plundered Jutland, and in 1049 he pillaged and burned Hedeby, at the time the most important Danish trade center, and one of the best protected and most populous towns in Scandinavia.[81] Hedeby as a civil town never recovered from Harald's destruction, and was left completely desolate when what remained was looted by Slavic tribes in 1066.[82] One of two conventional battles was set to be fought between the two kings later the same year, but, according to Saxo Grammaticus, Sweyn's smaller army was so frightened when approached by the Norwegians that they chose to jump in the water trying to escape; most drowned. Although Harald was victorious in most of the engagements, he was never successful in occupying Denmark.[83]

Penny minted by Harald, with a triquetra on the obverse, used both by Christians and in Norse paganism.[67] It was used on coins in Denmark by Cnut the Great and his sons,[注釈 2] and Harald probably adopted it as part of his claim to the Danish throne.[84][85]

The second, more significant battle, a naval encounter, was the Battle of Niså on 9 August 1062. As Harald had not been able to conquer Denmark despite his raids, he wanted to win a decisive victory over Sweyn. He eventually set out from Norway with a great army and a fleet of around 300 ships. Sweyn had also prepared for the battle, which had been preassigned a time and place. Sweyn did not appear at the agreed time, and Harald thus sent home his non-professional soldiers (bóndaherrin), which had made up half of his forces. When the dismissed ships were out of reach, Sweyn's fleet finally appeared, possibly also with 300 ships. The battle resulted in great bloodshed as Harald defeated the Danes (70 Danish ships were reportedly left "empty"), but many ships and men managed to escape, including Sweyn.[86] During the battle, Harald actively shot with his bow, like most others in the early phase of the battle.[87]

Fatigue and the huge cost of the indecisive battles eventually led Harald to seek peace with Sweyn, and in 1064 (or 1065 according to Morkinskinna) the two kings agreed on an unconditional peace agreement.[88] By the agreement, they retained their respective kingdoms with the former boundaries, and there would be no payments of reparations. In the subsequent winter of 1065, Harald travelled through his realm and accused the farmers of withholding taxes from him. In response, he acted with brutality, and had people maimed and killed as a warning to those who disobeyed him.[89] Harald maintained control of his nation through the use of his hird, a private standing army maintained by Norwegian lords. Harald's contribution to the strengthening of Norway's monarchy was the enforcement of a policy that only the king could retain a hird, thus centralising power away from local warlords.[90]

Domestic opposition

[編集]

According to historian Knut Helle, Harald completed the first phase of what he has termed the "national territorial unification of Norway".[91] Having forced his way to the kingship, Harald would have to convince the aristocracy that he was the right person to rule Norway alone. To establish domestic alliances, he married Tora Torbergsdatter of one of the most powerful Norwegian families.[92] The primary opposition to Harald's rule would be the descendants of Haakon Sigurdsson, from the powerful dynasty of Earls of Lade who had controlled Northern Norway and Trøndelag with much autonomy under the Norwegian king. Haakon had even ruled the whole of Norway (nominally under the Danish king) from 975 until 995, when he was killed during the takeover by Olaf Tryggvasson. Even after Haakon's death, his offspring held a certain degree of sovereignty in the north, and by Harald's early reign the family was headed by Einar Thambarskelfir, who was married to Haakon's daughter. While the family had maintained good relations with Magnus, Harald's absolutism and consolidation of the kingship soon led to conflict with Einar.[93][94]

It was from his power-struggle with the Norwegian aristocracy that Harald got himself the reputation that gave him the nickname "Hardrada", or "the hard ruler".[95] Although the relationship between Harald and Einar was poor from the start, confrontation did not occur before Harald went north to his court in Nidaros. One time in Nidaros, Einar arrived at Harald's court, and in a display of power was accompanied by "eight or nine longships and almost five hundred men", obviously seeking confrontation. Harald was not provoked by the incident. Although the sources differ on the circumstances, the next event nonetheless led to the murder of Einar by Harald's men, which threatened to throw Norway into a state of civil war. Although the remaining descendants of Haakon Sigurdsson considered rebellion against the king, Harald eventually managed to negotiate peace with them, and secured the family's submission for the remainder of his reign.[96][97] By the death of Einar and his son around 1050, the Earls of Lade had outplayed their role as a base of opposition, and Trøndelag was definitely subordinated to Harald's national kingdom.[91]

Before the Battle of Niså, Harald had been joined by Haakon Ivarsson, who distinguished himself in the battle and gained Harald's favour. Harald reportedly even considered giving Haakon the title of Earl, and Haakon was greatly upset when Harald later backed down from his promise. With a strong hold over the Uplands, Haakon was additionally given the earldom of Värmland by the Swedish king Stenkil. In early 1064, Haakon entered the Uplands and collected their taxes, the region thus effectively threatened to renounce their loyalty to Harald in response. The revolt of Haakon and the farmers in the Uplands may have been the main reason why Harald finally had been willing to enter a peace agreement with Sweyn Estridsson. After the agreement, Harald went to Oslo and sent tax collectors to the Uplands, only to find that the farmers would withhold their taxes until Haakon arrived. In response, Harald entered Sweden with an army and quickly defeated Haakon.[98] Still facing opposition from the farmers, Harald embarked on a campaign to crush the areas that had withheld their taxes. Due to the remote location of the region in the interior of the country, the Uplands had never been an integrated part of the Norwegian king's realm. Using harsh measures, Harald burned down farms and small villages, and had people maimed and killed. Starting in Romerike, his campaign continued into Hedmark, Hadeland and Ringerike. Since the regions contained several rich rural communities, Harald strengthened his economic position by confiscating farming estates.[91][99] By the end of 1065 there was probably peace in Norway, as any opposition had either been killed, chased into exile or silenced.[100]

Policies

[編集]

Harald's reign was marked by his background as a military commander, as he often solved disputes with a brute force. One of his skalds even boasted about how Harald broke settlements he had made, in his battles in the Mediterranean.[14] While the sagas largely focus on Harald's war with Sweyn and the invasion of England, little is said about his domestic policies. Modern historians have taken this as a sign that, despite his absolutism, his reign was one of peace and progress for Norway. Harald is considered to have instituted good economic policies, as he developed a Norwegian currency and a viable coin economy, which in turn allowed Norway to participate in international trade. He initiated trade with Kievan Rus' and the Byzantine Empire through his connections, as well as with Scotland and Ireland.[101] According to the later sagas, Harald founded Oslo, where he spent much time.[14]

Harald also continued to advance Christianity in Norway, and archaeological excavations show that churches were built and improved during his reign. He also imported bishops, priests and monks from abroad, especially from Kievan Rus' and the Byzantine Empire. A slightly different form of Christianity was thus introduced in Norway from the rest of northern Europe, although the East–West Schism had not yet taken place.[102] Since the clergy was not ordained in England or France, it nonetheless caused controversy when Harald was visited by papal legates. The protests by the legates led Harald to throw the Catholic clergy out of his court, and he reportedly stated to the legates that "he did not know of any other archbishop or lord of Norway than the king himself".[14][103] Norwegian historian Halvdan Koht has remarked that the "words seemed as if spoken by a Byzantine despot".[14] It is possible that Harald maintained contacts with Byzantine emperors after he became king, which could suggest a background for his church policies.[104]

Northern explorations

[編集]

Once he had returned to Norway, Harald seems to have displayed an interest in exploring his own realm, as for instance the Morkinskinna recounts Harald's trip into the Uplands. Harald is also said to have explored the seas beyond his kingdom, as the contemporary Adam of Bremen reports of such naval expeditions conducted by Harald:[105]

The most enterprising Prince Haraldr of the Norwegians lately attempted this [sea]. Who, having searched thoroughly the length of the northern ocean in ships, finally had before his eyes the dark failing boundaries of the savage world, and, by retracing his steps, with difficulty barely escaped the deep abyss in safety.
Adam of Bremen, Gesta Hammaburgensis ecclesiae pontificum, 4. XXXIX

Kelly DeVries has suggested that Harald "may even have known of and sought out the legendary land called Vinland, which Viking sailors had discovered only a short time before", which Adam mentions earlier in the same passage to have been widely reported in Denmark and Norway.[105] H. H. Lamb has on the other hand proposed that the land he reached may have been either Spitsbergen or Novaya Zemlya.[106]

Invasion of England

[編集]

Background and preparations

[編集]
むらのくま/sandboxの位置(スコットランド内)
Shetland
Shetland
Orkney
Orkney
Dunfermline
Dunfermline
Tynemouth, 8 September
Tynemouth, 8 September
Route taken by Harald's fleet, 1066

Accepting he could not conquer Denmark, Harald switched attention to England; his claim was based on a 1038 agreement between Magnus and its previous ruler, Harthacnut, who died childless in 1042. The agreement stated that if either die, the other would inherit his lands; however, it was unlikely Magnus assumed he would gain the English throne without fighting. Harthacnut himself preferred his brother, Edward the Confessor, who became king with the backing of Earl Godwin, father of Harold Godwinson. Plans by Magnus to invade England in 1045 were suspended, while he dealt with an uprising by Sweyn of Denmark.[107]

After Magnus died in 1047, Harald took over his claim; however, Edward kept potential enemies happy by hinting they might succeed him; in addition to Harald, these included Sweyn, and William, Duke of Normandy.[108] In 1058, a fleet under Harald's son Magnus supported a large scale Welsh raid into England, although details are limited.[109] This may have shown Harald that he could not simultaneously fight Denmark and England; this became crucial when Edward died in January 1066, and Harold Godwinson proclaimed king of England.[110]

Harold's brother Tostig Godwinson, formerly Earl of Northumbria, now appeared on the scene; hoping to regain his titles and lands, he reportedly approached both William and Sweyn Estridsson for their support. However, since Northern England was the most suitable landing place for a Norwegian invasion, he was more valuable to Harald. Details are limited, but it is suggested Tostig sent a fellow exile, Copsig, to meet with Harald in Norway and agree plans, while he remained in France. If correct, this would also have allowed Tostig to increase both their chances by simultaneously supporting an invasion by William,[111] who also claimed the throne.[112]

Harald landing near York (left), and defeating the Northumbrian army (right), from the 13th century chronicle The Life of King Edward the Confessor by Matthew Paris.

In March or April 1066, Harald began assembling his fleet at Solund, in the Sognefjord, a process completed by the start of September 1066;[113] it included his flagship, Ormen, or "Serpent".[114] Before leaving Norway, he had Magnus proclaimed king of Norway, and left Tora behind, taking with him Elisiv, his daughters, and Olaf.[115] En route, he stopped at the Norwegian-held islands of Shetland and Orkney, where he collected additional troops, including Paul and Erlend Thorfinnsson, the Earls of Orkney. At Dunfermline, he met Tostig's ally, Malcolm III of Scotland, who gave him around 2,000 Scottish soldiers.[116]

Although possible he also met Tostig there, most sources suggest they linked up at Tynemouth, on 8 September, Harald bringing around 10–15,000 men, on 240–300 longships.[117] Tostig had only 12 ships, his connections being far more significant.[118] The chronicler, John of Worcester, suggests he left Flanders in May or June, raiding the heartland of Harold's estates in southern England, from the Isle of Wight to Sandwich. Having made it seem an attack from Normandy was imminent, he then sailed north, while his brother and most of his troops remained in the south, waiting for William.[119]

Early raids, invasion, and Battle of Fulford

[編集]

After embarking from Tynemouth, Harald and Tostig probably landed at the River Tees.[120] They then entered Cleveland,[121] and started plundering the coast. They encountered the first resistance at Scarborough, where Harald's demand for surrender was opposed. In the end, Harald resorted to burning down the town and this action led to other Northumbrian towns surrendering to him. After further raiding, Harald and Tostig sailed up the Humber, disembarking at Riccall on 20 September. News of the early raids had reached the earls Morcar of Northumbria and Edwin of Mercia, and they fought against Harald's invading army threeキロメートル (2 mi) south of York at the Battle of Fulford, also on 20 September. The battle was a decisive victory for Harald and Tostig, and led York to surrender to their forces on 24 September.[122] This would be the last time a Scandinavian army defeated English forces.[123] The same day as York surrendered to Harald and Tostig, Harold Godwinson arrived with his army in Tadcaster, just elevenキロメートル (7 mi) from the anchored Norwegian fleet at Riccall. From there, he probably scouted the Norwegian fleet, preparing a surprise attack. As Harald had left no forces in York, Harold Godwinson marched right through the town to Stamford Bridge.[124]

Battle of Stamford Bridge

[編集]
Harald at Stamford Bridge. Matthew Paris may have attributed the axe to Harald due to its general Norse association, or the royal iconography around St. Olaf.[125] According to the sagas, Harald wore a blue tunic and helmet, wielded a sword, and Landøyðan as his royal standard, but not his mail-shirt ("Emma") and shield, which was left at Riccall.[126]

Early on 25 September, Harald and Tostig departed their landing place at Riccall with most of their forces, but left a third of their forces behind. They brought only light armour, as they expected to just meet the citizens of York, as they had agreed the day before, at Stamford Bridge to decide on who should manage the town under Harald.[127] Once there Harald saw Godwinson's forces approaching, heavily armed and armoured, and greatly outnumbering Harald's. Although (according to non-saga sources) the English forces were held up at the bridge for some time by a single gigantic Norwegian, allowing Harald and Tostig to regroup into a shield-wall formation, Harald's army was in the end heavily beaten. Harald was struck in the throat by an arrow and killed early in the battle, later termed the Battle of Stamford Bridge, in a state of berserkergang, having worn no body armour and fought aggressively with both hands around his sword.[128][129]

When the battle was almost over, some reserve forces from Riccall led by Eystein Orre finally appeared, but they were exhausted as they had run all the way. Eystein picked up Harald's fallen banner, the "Landwaster" (Landøyðan), and initiated a final counter-attack. Although they for a moment appeared to almost breach the English line, Eystein was suddenly killed, which left the rest of the men to flee from the battlefield.[130] Among those left at Riccall after the battle, who were allowed to return home peacefully by the English forces, was Harald's son Olaf.[131][132] Although sources state that Harald's remaining army only filled 20–25 ships on the return to Norway, it is likely that this number only accounts for the Norwegian forces. Most of the forces from Scotland and Orkney probably remained at Riccall throughout the battle (the earls Paul and Erlend Thorfinnsson are certainly known to have been stationed there the entire time), and has not been counted in the traditional figure.[130]

Harold Godwinson's victory was short-lived, as only a few weeks later he was defeated by William the Conqueror and killed at the Battle of Hastings. The fact that Harold had to make a forced march to fight Hardrada at Stamford Bridge and then move at utmost speed south to meet the Norman invasion, all in less than three weeks, is widely seen as a primary factor in William's victory at Hastings.[133]

Personal life

[編集]

Harald is described by Snorri Sturluson to have been physically "larger than other men and stronger".[65] He is said to have had light hair and beard, a long "upper beard" (moustache), and that one of his eyebrows was somewhat higher situated than the other. He also reportedly had big hands and feet, and could measure five ells in height. It is not known whether Snorri's description of Harald's physical appearance actually represents historical facts.[134] The tall stature of Harald is also substantiated by a story that relates that before the Battle of Stamford Bridge, Harold Godwinson offered Tostig back the earldom of Northumbria, and Harald "six feet of the ground of England, or perhaps more seeing that he is taller than most men" (according to Henry of Huntingdon)[135] or "six feet of English ground, or seven feet as he was taller than other men" (according to Snorri Sturluson).[136]

Harald himself composed skaldic poetry. According to Lee M. Hollander, composing poetry was normal for Norwegian kings, but Harald was the only one who "showed a decided talent."[137] According to one poem, Harald had mastered a number of activities that were considered sports in the Viking Age, in addition to poetry, brewing, horse riding, swimming, skiing, shooting, rowing and playing the harp.[138][139] The sagas state that Harald and his Varangians at least once took a break during the siege of a town to enjoy sports.[140]

With regards to religion, Harald had, according to DeVries, a "religious inclination towards Christianity" and was "publicly close to the Christian Church", although he was influenced by the Eastern Christian culture of Kievan Rus' (Garderike) and the Byzantine Empire, having spent most of his life there. He was clearly interested in advancing Christianity in Norway, which can be seen by the continued building and improvement of churches throughout his reign. Despite this, DeVries notes that Harald's "personal morality appears not to have matched the Christian ideal", citing his marriage arrangements.[103]

Issue

[編集]

Harald married Elisiv of Kiev (c. 1025 – after 1066) around 1044/45,[141] and they had an unknown number, possibly several children. According to Snorri Sturluson, they had two daughters:[142]

According to the sagas, Harald married Tora Torbergsdatter (c. 1025 – after 1066) around 1048.[144] Some modern historians have disputed this, since Harald in that case would be in a bigamous marriage, as he was still married to Elisiv.[145] It is nonetheless possible that such a marriage could take place in Norway in the 11th century, and although Harald had two wives, only Elisiv is noted to have held the title of Queen.[146] Harald and Tora had at least two children:[14][142]

  • Magnus II (c. 1049 – c. 1069). Reigned as king of Norway from 1066 to 1069.
  • Olaf III (c. 1050 – c. 1093). Reigned as king of Norway from 1067 to 1093.

Legacy

[編集]

Burial

[編集]
The present Klostergata in Trondheim, site of the former Helgeseter Priory

A year after his death at Stamford Bridge, Harald's body was moved to Norway and buried at the Mary Church in Nidaros (Trondheim). About a hundred years after his burial, his body was reinterred at the Helgeseter Priory, which was demolished in the 17th century.[147] On 25 September 2006, the 940th anniversary of Harald's death, the newspaper Aftenposten published an article on the poor state of Norway's ancient royal burial sites, including that of Harald, which is reportedly located underneath a road built across the monastery site.[147] In a follow-up article on 26 September, the Municipality of Trondheim revealed they would be examining the possibility of exhuming the king and reinterring him in Nidaros Cathedral, currently the burial place of nine Norwegian kings, among them Magnus the Good and Magnus Haraldsson, Harald's predecessor and successor respectively.[148] A month later it was reported that the proposal to exhume the king had been scrapped.[149]

Modern memorials

[編集]

Two monuments have been erected in honour of Harald in Oslo, the city which he is traditionally held to have founded. A bronze relief on granite by Lars Utne depicting Harald on horseback was raised on the eponymously named square Harald Hardrådes plass in 1905. In 1950, a large relief by Anne Grimdalen, also of Harald on horseback, was unveiled on the western façade of the Oslo City Hall.[150]

Oslo City Hall (centre of image) with relief depicting Harald on the western façade
Monument to Harald at Harald Hardrådes plass in Gamlebyen
Window with portrait of Harald in Lerwick Town Hall, Shetland
[編集]
  • Harald appears in a number of historical fiction books. In H. P. Lovecraft's novella The Call of Cthulhu, one key character "lay in the Old Town of King Harold Haardrada, which kept alive the name of Oslo during all the centuries that the greater city masqueraded as 'Christiana'." Justin Hill's Viking Fire is the second in his Conquest Trilogy, and tells the life of Harald in his own voice. He serves as the protagonist in two children's books by Henry Treece, The Last of the Vikings/The Last Viking (1964) and Swords from the North/The Northern Brothers (1967).[151] He also appears as the protagonist in the trilogy The Last Viking (1980) by Poul and Karen Anderson, and in Byzantium (1989) by Michael Ennis, which chronicles Harald's career in the Byzantine Empire.[152]
  • The alternative history book Crusader Gold (2007) by marine archeologist David Gibbins features Harald as a key figure, as it follows him in acquiring the lost Menorah among his treasures during his service in the Byzantine Varangian Guard.[153] Harald also makes an appearance in Meadowland (2005) by Tom Holt.[154]
  • Harald's unorthodox departure from Constantinople is featured in music by the Finnish folk metal band Turisas in the song "The Great Escape"; in addition, he is followed loosely throughout the story of the albums The Varangian Way (2007) and Stand Up and Fight (2011).[155]
  • Harald is a playable character in the Mobile/PC Game Rise of Kingdoms.

Explanatory footnotes

[編集]
  1. ^ The sagas mention that Harald was fifteen years old at the time of the Battle of Stiklestad (1030).
  2. ^ Cnut himself had adopted the triquetra from earlier Norse uses, viewing himself as a Scylding. His successors also used the symbol, and Harald in turn probably adopted it in order to claim his right to Denmark as heir to Magnus the Good and the Scyldings.

Citations

[編集]
  1. ^ Schive (1865) p. 26
  2. ^ "Det store norske leksikon" (The Great Norwegian Encyclopedia)
  3. ^ Cleasby, Richard and Gudbrand Vigfusson, An Icelandic-English Dictionary, 2nd edn by William A. Craigie (Oxford: Oxford University Press, 1957), s.v. harðr.
  4. ^ a b Snorri Sturluson, Heimskringla, trans. by Alison Finlay and Anthony Faulkes, 3 vols (London: Viking Society for Northern Research, 2011–15) (second edition 2016–), vol. 3 p. x.
  5. ^ a b Judith Jesch, 'Norse Historical Traditions and Historia Gruffud vab Kenan: Magnus Berfoettr and Haraldr Harfagri', in Gruffudd ap Cynan: A Collaborative Biography, edited by K. L. Maund (Cambridge, 1996), pp. 117–147 (p. 139 n. 62).
  6. ^ a b Sverrir jakobsson, 'The Early Kings of Norway, the Issue of Agnatic Succession, and the Settlement of Iceland', Viator, 47 (2016), 171–188 (pp. 1–18 in open-access text, at p. 7); doi:10.1484/J.VIATOR.5.112357.
  7. ^ Judith Jesch, 'Norse Historical Traditions and Historia Gruffud vab Kenan: Magnus Berfoettr and Haraldr Harfagri', in Gruffudd ap Cynan: A Collaborative Biography, edited by K. L. Maund (Cambridge, 1996), pp. 117–147 (pp. 139–147).
  8. ^ Shami Ghosh, Kings' Sagas and Norwegian History: Problems and Perspectives, The Northern World, 54 (Leiden: Brill, 2011), pp. 66–70.
  9. ^ Sverrir Jakobsson, 'The Early Kings of Norway, the Issue of Agnatic Succession, and the Settlement of Iceland', Viator, 47 (2016), 171–188 (pp. 1–18 in open-access text, at p. 7); doi:10.1484/J.VIATOR.5.112357.
  10. ^ Krag, Claus (1995). Vikingtid og rikssamling 800–1130. Aschehougs norgeshistorie. 2. Oslo: Aschehoug. pp. 92–93 & 171 
  11. ^ a b Hjardar & Vike (2011) p. 284
  12. ^ Tjønn (2010) p. 13
  13. ^ Tjønn (2010) p. 14
  14. ^ a b c d e f g h i j k l m Krag, Claus. “Harald 3 Hardråde” (ノルウェー語). Norsk biografisk leksikon. 20 October 2012時点のオリジナルよりアーカイブ。30 July 2012閲覧。
  15. ^ Tjønn (2010) pp. 15–16
  16. ^ See, for example, Joan Turville-Petre, "The Genealogist and History: Ari to Snorri", Saga-Book 20 (1978–81), pp. 7–23 (pdf), Claus Krag, Ynglingatal og Ynglingasaga: en studie i historiske kilder, Oslo: Universitetsforlaget 1991, OCLC 256562288 (ノルウェー語), and Knut Helle, Cambridge History of Scandinavia, Volume I, Prehistory to 1520, Cambridge University Press, 2003, ISBN 0-521-47299-7, pp. 185, 191.
  17. ^ Tjønn (2010) pp. 17–18
  18. ^ Blöndal & Benedikz (2007) p. 54
  19. ^ DeVries (1999) p. 25
  20. ^ Tjønn (2010) pp. 21–22
  21. ^ DeVries (1999) pp. 25–26
  22. ^ DeVries (1999) p. 26
  23. ^ Tjønn (2010) p. 16
  24. ^ Tjønn (2010) p. 25
  25. ^ DeVries (1999) p. 27
  26. ^ Tjønn (2010) p. 28
  27. ^ DeVries (1999) p. 29
  28. ^ DeVries (1999) pp. 29–30
  29. ^ Blöndal & Benedikz (2007) pp. 60–62
  30. ^ a b Blöndal & Benedikz (2007) p. 63
  31. ^ a b DeVries (1999) p. 30
  32. ^ DeVries (1999) pp. 30–31
  33. ^ Tjønn (2010) p. 43
  34. ^ a b DeVries (1999) p. 31
  35. ^ a b Tjønn (2010) p. 47
  36. ^ Beeler (1971) p. 68
  37. ^ Blöndal & Benedikz (2007) p. 70
  38. ^ Gravett, Nicolle (2007) p. 102
  39. ^ DeVries (1999) pp. 31–32
  40. ^ a b c Bibikov (2004) p. 21
  41. ^ Tjønn (2010) pp. 55–56
  42. ^ Blöndal & Benedikz (2007) p. 57
  43. ^ Bibikov (2004) p. 20
  44. ^ Tjønn (2010) p. 32
  45. ^ DeVries (1999) p. 33
  46. ^ Raffaele D'Amato, page 8 "The Varangian Guard 988 – 1453, ISBN 978-1-84908-179-5
  47. ^ Tjønn (2010) p. 41
  48. ^ DeVries (1999) pp. 33–34
  49. ^ DeVries (1999) p. 34
  50. ^ a b DeVries (1999) pp. 34–35
  51. ^ a b DeVries (1999) pp. 35–38
  52. ^ Thenrik Bimbaum, "Yaroslav's Varangian Connection" in Scando-Slavica, 1600–082X, Volume 24, Issue 1, 1978, Pages 5–25
  53. ^ a b c d e DeVries (1999) p. 39
  54. ^ Blöndal & Benedikz (2007) pp. 80–83.
  55. ^ Skaare (1995) p. 45
  56. ^ Bagge (1990) p. 175
  57. ^ Tjønn (2010) p. 74
  58. ^ Jesch, Judith (2015) (英語). The Viking Diaspora. Routledge. pp. 29. ISBN 978-1-317-48253-6. https://books.google.com/books?id=uTvLCQAAQBAJ 
  59. ^ a b Tjønn (2010) p. 77
  60. ^ Henriksen (2011)
  61. ^ DeVries (1999) pp. 26–27
  62. ^ Tjønn (2010) p. 27
  63. ^ Tjønn (2010) p. 83
  64. ^ Blöndal & Benedikz (2007) p. 96
  65. ^ a b DeVries (1999) p. 40
  66. ^ DeVries (1999) pp. 40–41
  67. ^ a b Vogt, Yngve (6 December 2007). “Omfattende myntindustri på 1000-tallet” (ノルウェー語). Forskningsmagasinet Apollon. University of Oslo. 18 September 2012閲覧。
  68. ^ Schive (1865) p. 24
  69. ^ Skaare (1995) p. 46
  70. ^ Thunberg (2012) pp. 39–40
  71. ^ DeVries (1999) p. 42
  72. ^ a b Tjønn (2010) p. 94
  73. ^ DeVries (1999) pp. 43–45
  74. ^ Tjønn (2010) pp. 95–102
  75. ^ Tjønn (2010) pp. 102–103
  76. ^ DeVries (1999) pp. 45–46
  77. ^ a b Tjønn (2010) p. 103
  78. ^ DeVries (1999) p. 57
  79. ^ a b c d Bagge, Sverre (2014) (英語). Cross and Scepter: The Rise of the Scandinavian Kingdoms from the Vikings to the Reformation. Princeton University Press. pp. 126–127. ISBN 978-1-4008-5010-5. https://books.google.com/books?id=NFJNAgAAQBAJ&pg=PP1 
  80. ^ Moseng et al. (1999) p. 81
  81. ^ DeVries (1999) pp. 56–58
  82. ^ Hjardar & Vike (2011) p. 118
  83. ^ DeVries (1999) pp. 59–60
  84. ^ Skaare (1995) pp. 47–48
  85. ^ Hertzberg, Ebbe; Bugge, Alexander (1915). Norges historie: andet binds første del tidsrummet 1030–1103. Kristiania: Aschehoug. p. 280 
  86. ^ DeVries (1999) pp. 61–65
  87. ^ Hjardar & Vike (2011) p. 83
  88. ^ DeVries (1999) p. 66
  89. ^ Sprague, Martina (2007). Norse Warfare: The Unconventional Battle Strategies of the Ancient Vikings. Hippocrene Books. p. 302. ISBN 978-0-7818-1176-7. https://archive.org/details/norsewarfareunco0000spra/page/302 
  90. ^ Popperwell, Ronald G., Norway (New York: Praeger Publishers, 1972), 79.
  91. ^ a b c Moseng et al. (2019) p. 79
  92. ^ Tjønn (2010) pp. 104–106
  93. ^ DeVries (1999) pp. 51–52
  94. ^ Tjønn (2010) p. 115
  95. ^ Tjønn (2010) p. 114
  96. ^ DeVries (1999) pp. 52–56
  97. ^ Tjønn (2010) pp. 115–120
  98. ^ Tjønn (2010) pp. 144–153
  99. ^ Tjønn (2010) pp. 153–155
  100. ^ Tjønn (2010) p. 155
  101. ^ DeVries (1999) pp. 46–47
  102. ^ Jakobsson (2008)
  103. ^ a b DeVries (1999) pp. 47–48
  104. ^ Bagge (1990) pp. 176–177
  105. ^ a b DeVries (1999) p. 49
  106. ^ Lamb, H. H. (1982). Climate, History, and the Modern World. Taylor & Francis. p. 165. ISBN 978-0-416-33440-1 
  107. ^ Barlow 1970, pp. 55–57.
  108. ^ DeVries 2001, pp. 65–67.
  109. ^ DeVries 1999, p. 78.
  110. ^ DeVries 2001, pp. 67–68.
  111. ^ DeVries (1999) pp. 231–240
  112. ^ Tjønn (2010) p. 165
  113. ^ DeVries (1999) p. 230
  114. ^ Hjardar & Vike (2011) pp. 141, 143
  115. ^ Tjønn (2010) p. 169
  116. ^ Hjardar & Vike (2011) pp. 284–285
  117. ^ Tjønn (2010) p. 167
  118. ^ DeVries (1999) pp. 251–252
  119. ^ DeVries (1999) pp. 242–243
  120. ^ DeVries (1999) p. 252
  121. ^ Tjønn (2010) p. 170
  122. ^ DeVries (1999) pp. 250–261
  123. ^ Tjønn (2010) p. 172
  124. ^ DeVries (1999) pp. 267–270
  125. ^ Fuglesang, Signe Horn (1997) (ノルウェー語). Bilder og bilders bruk i vikingtid og middelalder. Norges forskningsråd. p. 77 
  126. ^ DeVries (1999) pp. 199, 276–278, 284, 290
  127. ^ Tjønn (2010) pp. 172–174
  128. ^ DeVries (1999) pp. 276–296
  129. ^ Hjardar & Vike (2011) pp. 289–291
  130. ^ a b Hjardar & Vike (2011) p. 291
  131. ^ DeVries (1999) p. 296
  132. ^ Stenton (1971) p. 590
  133. ^ Stenton (1971) p. 592
  134. ^ Bagge (1990) pp. 187–189
  135. ^ Barclay, Cyril Nelson (1966). Battle 1066. University of Michigan. p. 35 
  136. ^ Carrington, C. E.; Jackson, J. Hampden (2011). A History of England. Cambridge University. p. 68. ISBN 978-1-107-64803-6 
  137. ^ Lee M. Hollander, The Skalds: A Selection of Their Poems, With Introductions and Notes, The American-Scandinavian Foundation, 1945, repr. Princeton: Princeton University, 1947, OCLC 213834959, p. 197.
  138. ^ Hjardar & Vike (2011) p. 60
  139. ^ Translated in Hollander, p. 200.
  140. ^ DeVries (1999) p. 32
  141. ^ Krag, Claus. “Ellisiv” (ノルウェー語). Norsk biografisk leksikon. 9 October 2012閲覧。
  142. ^ a b DeVries (1999) p. 48
  143. ^ Lindqvist, Herman (2006). Historien om alla Sveriges drottningar: från myt och helgon till drottning i tiden. Volum 3 av Historien om Sverige. Norstedt. p. 41 
  144. ^ Røskaft, Merete. “Tora Torbergsdatter” (ノルウェー語). Norsk biografisk leksikon. 9 October 2012閲覧。
  145. ^ DeVries (1999) pp. 48–49
  146. ^ Tjønn (2010) p. 106
  147. ^ a b Guhnfeldt, Cato (25 September 2006). “En norsk kongegrav” (ノルウェー語). Aftenposten. http://www.aftenposten.no/nyheter/iriks/article1470628.ece 20 September 2012閲覧。 
  148. ^ Guhnfeldt, Cato (26 September 2006). “Kan bli gravd opp” (ノルウェー語). Aftenposten. オリジナルの2 October 2013時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131002113602/http://www.aftenposten.no/nyheter/iriks/article1472089.ece 20 September 2012閲覧。 
  149. ^ Agerlie, Kristin (25 October 2006). “Hardråde får ligge i fred” (ノルウェー語). NRK Trøndelag. http://www.nrk.no/nyheter/distrikt/nrk_trondelag/1.1210808 20 September 2012閲覧。 
  150. ^ Norseng, Per G.. “Harald 3 Hardråde” (ノルウェー語). Store norske leksikon. 20 September 2012閲覧。
  151. ^ Barnhouse, Rebecca (2004). The Middle Ages in Literature for Youth: A Guide and Resource Book. Scarecrow Press. p. 57. ISBN 978-0-8108-4916-7. https://books.google.com/books?id=DoLcQ7zDu6IC&q=Treece+Hardrada&pg=PA57 
  152. ^ Halsall, Paul (1996年). “A Guide to "Byzantine" Literature”. Fordham University. 15 November 2012閲覧。
  153. ^ Quinn, Colleen (7 January 2011). “Review: Crusader Gold”. Bookreporter.com. 15 November 2012閲覧。
  154. ^ Walker, Lars (25 February 2011). “Meadowland, by Thomas Holt”. Brandywine Books. 15 November 2012閲覧。
  155. ^ Dick, Chris (17 February 2011). “Streaming: Turisas 'The Great Escape'”. Decibel. http://www.decibelmagazine.com/featured/streaming-turisas-the-great-escape/ 15 November 2012閲覧。. 

General sources

[編集]
  • Barlow, Frank (1970). Edward the Confessor. University of California. ISBN 978-0520016712 
  • Beeler, John (1971). Warfare in Feudal Europe: 730–1200. Cornell University. ISBN 978-0-8014-9120-7. https://archive.org/details/warfareinfeudale0000beel 
  • Bibikov, Mikhail (2004). “Byzantine Sources for the History of Balticum and Scandinavia”. In Volt, Ivo; Päll, Janika. Byzanto-Nordica. Tartu, Estonia: Tartu University. ISBN 9949-11-266-4 
  • Blöndal, Sigfús (2007). Benedikz, Benedikt S.. ed. The Varangians of Byzantium. Cambridge University. ISBN 978-0-521-21745-3 
  • DeVries, Kelly (1999). The Norwegian Invasion of England in 1066. Boydell & Brewer Ltd. ISBN 978-0-85115-763-4 
  • DeVries, Kelly (2008). “Medieval mercenaries: methodology, definitions and problems”. In France, John. Mercenaries and paid men: the mercenary identity in the middle ages: proceedings of Conference held at University of Wales, Swansea, 7th–9th july 2005. Brill. p. 58. ISBN 978-90-04-16447-5 
  • DeVries, Kelly (2001). Harold Godwinson in Wales: Military Legitimacy in Late Anglo-Saxon England in The Normans and their Adversaries at War: Essays in Memory of C. Warren Hollister (Warfare in History). Boydell Press. ISBN 978-0851158471 
  • Gravett, Christopher; Nicolle, David (2007). The Normans: Warrior Knights and Their Castles. Osprey. ISBN 978-1-84603-218-9 
  • Henriksen, Vera (2011) (ノルウェー語). Dronningsagaen ; Kongespeil [Queen's Day; King's Mirror]. Aschehoug. ISBN 978-8203350788. https://www.tanum.no/_dronningsagaen--kongespeil-vera-henriksen-9788203350788 
  • Hjardar, Kim; Vike, Vegard (2011) (ノルウェー語). Vikinger i krig. Spartacus. ISBN 978-82-430-0475-7 
  • Jakobsson, Sverrir (2008). “The Schism that never was: Old Norse views on Byzantium and Russia”. Byzantinoslavica. Slovanský ústav Akademie věd ČR, v. v. i. and Euroslavica. pp. 173–188 
  • Moseng, Ole Georg (1999) (ノルウェー語). Norsk historie: 750–1537. I. Aschehoug. ISBN 978-82-518-3739-2 
  • van Nahl, Jan Alexander (2016). “The Medieval Mood of Contingency. Chance as a Shaping Factor in Hákonar saga góða and Haralds saga Sigurðarsonar”. Mediaevistik, International Journal of Interdisciplinary Medieval Research 29. pp. 81–97 
  • Schive, C. I. (1865) (ノルウェー語). Norges Mynter i Middelalderen. Christiania: H. Tønsberg 
  • Skaare, Kolbjørn (1995) (ノルウェー語). Norges mynthistorie: mynter og utmyntning i 1000 år, pengesedler i 300 år, numismatikk i Norge. 1. Universitetsforlaget. ISBN 82-00-22666-2 
  • Stenton, F. M. (1971). Anglo-Saxon England. Oxford History of England. II (3rd ed.). Oxford: Clarendon Press-Oxford University Press. ISBN 978-0-19-821716-9 
  • Sverre, Bagge (1990). “Harald Hardråde i Bysants. To fortellinger, to kulturer”. In Andersen; Øivind; Hägg, Tomas (ノルウェー語). Hellas og Norge: kontakt, komparasjon, kontrast : en artikkelsamling. University of Bergen. pp. 169–192. ISBN 82-991411-3-3 
  • Thunberg, Carl L. (2012) (スウェーデン語). Att tolka Svitjod [To interpret Svitjod]. Göteborgs universitet, CLTS. ISBN 978-91-981859-4-2 
  • Tjønn, Halvor (2010) (ノルウェー語). Harald Hardråde. Sagakongene. Saga Bok/Spartacus. ISBN 978-82-430-0558-7 
[編集]
Harald Hardrada

25 September1066

爵位・家督
先代
Magnus I
King of Norway
1046–1066
共同統治者 Magnus I (1046–1047)
次代
Magnus II

Template:Monarchs of Norway Template:Norman conquest of England