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利用者‐会話:編集一徹

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  • ウエルカムメッセージはご辞退申し上げます。
  • バーンスターも不要です。

削除依頼の参加資格について

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はじめましてと申します。編集一徹さんが、Wikipedia:削除依頼/R戦闘機20080315にて、存続票を入れましたが、Wikipedia:削除依頼#参加資格にあるとおり、「削除依頼が出された時点で編集回数が50回未満のログインユーザ」ですので、投票に見え消しを入れさせていただきました。なお、コメント資格はあります。その他、Wikipedia:削除の方針Wikipedia:削除依頼をご確認になってください。-- 2008年3月17日 (月) 10:13 (UTC)[返信]

こんにちは

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こんにちは。単に要出典を加えたりするのではなく、自分で出典を探して、書き加えることもできるということを忘れず、また、出典を確認して加えることは、それなりに面倒なものですし、検証可能性の方針はまだまだ日本語版で定着していませんから、出典を求める場合には、なぜ必要なのかの説明や、出典の書き方の説明なども含めて、執筆者が納得・理解して出典を加えるように、丁寧な対処をお願いしたいところ、ではあります。 Wikipedia:井戸端/subj/「公式な方針」をめぐる対話拒否についてあたりの議論もご一読ください。よろしくお願いします。--Ks aka 98 2008年3月17日 (月) 15:51 (UTC)[返信]

編集方針について

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川津祐介にて一行程度の「趣味」、「家族」とまで過剰に節分けし、他者が節を解除すると執拗に差し戻す意図は何なのでしょうか? 履歴によると、他にもさまざまなページにて常軌を逸した差し戻し行為を行っていますが、理由を提示してください。貴殿は以前にも可変IPにて1ヵ月間の投稿ブロックを受けていますが、このままでは無期限ブロックの恐れもあります。--Radioclash 2008年3月17日 (月) 15:58 (UTC)[返信]


対話拒否はやめてください。これ以上続ければ、ウィキペディアの編集ができなくなる投稿ブロックの対象となります。ご注意ください。--219.207.246.17 2008年3月17日 (月) 16:04 (UTC)[返信]

ブロックのお知らせ

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ブロックされました
ブロックされました

あなたは川津祐介において、Three-revert ruleに反した過度のリバート(編集の差し戻し)を行ったため、一時的に投稿ブロックされました。いかなる理由であれ、編集合戦はお止めください。ブロックは時間がたつと自動的に解除されます。解除後、基本的な決まりを守って参加するなら、あなたの投稿は歓迎されます。この件に関するお問い合わせや異議申し立ては、メーリングリストにて受け付けています。--Carkuni 2008年3月17日 (月) 16:09 (UTC)[返信]

(追記)クールダウンして頂き川津祐介での編集方針をノートにて議論して頂く様お願いいたします。(節名に誤りがありましたので訂正しております。)--Carkuni 2008年3月17日 (月) 16:45 (UTC)[返信]

新銀行東京の記述に付された要出典タグへのdate引数補足編集のリバートについて

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新銀行東京#設立の経緯節中の{{要出典}}タグにdate引数がなく、タグが付された版を調べて年月を補足する編集を行いましたが、何故リバートなさったのでしょうか?--ゴンベイ 2008年3月19日 (水) 05:43 (UTC)[返信]

date引数を戻していただいたのを確認しました。ご理解いただきありがとうございました。--ゴンベイ 2008年3月19日 (水) 06:36 (UTC)[返信]

あなたはブロックされました。しばらくウィキペディアの編集を行うことはできません。ブロックは時間がたつと自動的に解除されます。解除後、基本的な決まりを守って参加するなら、あなたの投稿は歓迎されます。この件に関するお問い合わせや異議申し立てはメーリングリストで受け付けています。 Three-revert rule違反。--Los688 2008年3月24日 (月) 15:21 (UTC)[返信]

福地崇生

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なぜこの人だけ高校を消すのですか?それなら他の学者の高校も消せばよかろうに。--211.4.118.220 2008年4月2日 (水) 01:55 (UTC)[返信]

確認はまだとれておりませんが、福地教授は新制高校の卒業生ではありません(旧制一中、旧制一高ともに修了の可能性あり)。よって、現段階で、「都立第一新制高校四年修了」は記述として妥当なものではありません。それから「それなら他の学者の高校も消せばよかろうに」の文言は、理由・根拠なしに出身高校を削除すればよい、とのニュアンスをもってうけとめました。これは無断削除へ挑発行為ともとれますので、今後は乱暴ないい回しは控えていただきたく存じます。--編集一徹 2008年4月2日 (水) 02:41 (UTC)[返信]

こちらは確認がとれてます。日比谷高校名簿は新橋の名簿図書館にでも置いております。ご覧ください。--211.4.36.195 2008年4月5日 (土) 02:30 (UTC)[返信]

伏屋和彦

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はじめまして。Kurihayaと申します。伏屋和彦を3日間保護しました。問題となっている内部リンクの有無にどのような意味をもたせたいのか、ノート:伏屋和彦で議論なさってください。(このお知らせは、2日以降編集のあった5者にお送りしております。)--Kurihaya 2008年4月4日 (金) 09:46 (UTC)[返信]

Kurihayaです。3日間というごく短い保護期間が明けた10分後に、ノート:伏屋和彦への提起もなく、同様の編集をなさったことを残念に思います。記事は改めて1週間の保護としました。川津祐介高山佳奈子で投稿ブロックになった意味をご理解いただけなかったのでしょうか。Wikipedia:管理者伝言板/3RRで報告があったものの投稿ブロックではなく記事の保護をしているのは、編集合戦によって記事が損なわれている程度は大きくなく、むしろ議論の欠如に問題があると考えたためです。Wikipediaは百科事典作成の共同作業です。編集一徹さんに議論による合意形成のお手間を取っていただくことを期待し、今回も保護のみにとどめました。--Kurihaya 2008年4月7日 (月) 10:22 (UTC)[返信]
ブロックされました
ブロックされました
あなたは市村真一において、Three-revert ruleに反した過度のリバート(編集の差し戻し)を行ったため、一時的に投稿ブロックされました。いかなる理由であれ、編集合戦はお止めください。ブロックは時間がたつと自動的に解除されます。解除後、基本的な決まりを守って参加するなら、あなたの投稿は歓迎されます。この件に関するお問い合わせや異議申し立ては、メーリングリストにて受け付けています。
度重なる編集合戦で本来なら前回並みのブロックとしたいところですが、2日間のブロックいたしました。今一度、基本方針を熟読し、なぜ編集合戦をしてはいけないのか、なぜ3RRルールが存在するのか考えてください。短い期間ですが、編集を今一度見つめなおしてください。--Carkuni 2008年4月8日 (火) 09:20 (UTC)[返信]

倉澤豊哲‎

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倉澤豊哲‎で3rrを確認したため管理者伝言板にお知らせしたことを報告しに来ましたが、会話ページをみて驚きました。あなたは何度同じことを注意されているのでしょうか?また、IP:122.22.2.73会話 / 投稿記録 / 記録 / Whoisは編集一徹さんではないですか?もうこんなことはやめて下さい。--220.104.254.19 2008年4月14日 (月) 10:24 (UTC)[返信]

編集一徹さん、当該記事は保護依頼中です。もう少し自制願いします。--TamtarmかいわP 2008年4月15日 (火) 01:26 (UTC)[返信]

ブロックされました
ブロックされました

あなたは倉澤豊哲において、Three-revert ruleに反した過度のリバート(編集の差し戻し)を行ったため、一時的に投稿ブロックされました。いかなる理由であれ、編集合戦はお止めください。ブロックは時間がたつと自動的に解除されます。解除後、基本的な決まりを守って参加するなら、あなたの投稿は歓迎されます。この件に関するお問い合わせや異議申し立ては、メーリングリストにて受け付けています。--202.208.158.195 2008年4月15日 (火) 02:15 (UTC)[返信]

投稿ブロック依頼

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あなたのウィキペディアへの参加姿勢は非常に問題があると思いますので、投稿ブロック依頼をいたしました。詳しくはWikipedia:投稿ブロック依頼/編集一徹20080415をご覧ください。--STB-1 2008年4月15日 (火) 03:35 (UTC)[返信]

1週間投稿ブロックのお知らせ

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Kurihayaです。今朝、倉澤豊哲における3rr違反を確認し、1週間の投稿ブロックをかけました。こちらになんと書いたものか考えあぐねている間に、他の利用者が話を進めていらっしゃいます。

伏屋和彦では記事の保護を先々週の金曜日からまず3日間、その甲斐もない同様の編集を受け先週の月曜日からさらに1週間とかけつつも、編集一徹さんへの投稿ブロックは見送ってきました。その後先週の火曜日には市村真一で過度の差し戻しがあり、おそらく私の対処を見たことにより、Carkuniさんは前回より短い2日間の投稿ブロック期間を選択なさいました。これだけでも、ご自身の編集内容が注視されていることはお分かりだったのではないかと思います。せっかく参加されたのですから、ここで共同作業に加わっていただけませんか。まずは、編集の手を休めてください。上記のメーリングリストでなくとも、私あてのウィキメールでご連絡いただくことも可能です (Special:Emailuser/Kurihaya)。お待ちしております。--Kurihaya 2008年4月15日 (火) 10:28 (UTC)[返信]

無期ブロックのお知らせ

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あなたは無期限ブロックされました。今後ウィキペディアの編集を行うことは一切できなくなります。また、ブロックが自動的に解除されることもありませんのでご留意ください。今後の対話ならびに異議申し立てはメーリングリストで受け付けます。--Bellcricket 2008年4月28日 (月) 12:31 (UTC)[返信]

閲覧は可能なはずですので一言。▼冒頭言「書き込みはご自由に。返信はしません」はブロック要件の一つである「対話の拒否」に該当します。解除されましたらこれは撤回されますように。--Gordon S 2008年5月13日 (火) 14:26 (UTC)[返信]

お知らせ

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はるひです。ブロック解除の審議の結果、解除意見が多数でしたので、先ほど解除しました。

解除の審議では、いろいろな意見が出ています。今後の活動では、それらの意見も参考に、解除票を入れてくださった方を初めとして多くの方の期待と信頼に思いを馳せていただければと、個人的に思っております。--はるひ 2008年7月29日 (火) 00:41 (UTC)[返信]

主人公の「一人称における主体の人物」節に対するリバートについて

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コメントや方針文書の表面的な意味だけを取って反射的に反応するのではなく、内容をよく理解した上での対応をお願いします。--КОЛЯ 会話 2009年7月19日 (日) 12:05 (UTC)[返信]

КОЛЯ様、はじめまして。編集一徹と申します。一文、拝読致しました。

大変申し上げにくいのですが、「内容をよく理解した上での対応」とはいかなることでありましょうか。”記述を読んで意味がわかれば、あえて出典など必要ない。いちいち目くじら立てるな。「要出典」を外しても問題なかろう” こうおっしゃるわけですか。それは、いささか無理な相談かと存じます。

「一人称における主体の人物」節の記述「しかし三人称の場合、この意味での主人公は存在しないことになる」。これが公刊物、それもきちんと裏づけのとれた(ウィキペディアで言う「信頼できる情報源」)ものからの引用・使用であれば全然問題ありません(そのためには、「出典」すなわち文献表記をする必要があるのですが)。

それに、文献(広く信頼されている発行元から公開される事実、表明、学説、見解、主 張、意見、議論)に基づく記述がなされておれば、それだけで記述自体が一定の妥当性を持ちます。ウィキペディアンを待たずとも、文献自体が外部からのチェックを受けているからです。

КОЛЯ様のおっしゃるとおり、方針文書の理解は表面的なものかもしれません。ですが、文献の明記は鉄則(Wikipedia:出典を明記するWikipedia:検証可能性)でありますので、これを曲げることは小生にはできかねるのであります。--編集一徹 2009年7月19日 (日) 17:02 (UTC)[返信]

ご返答ありがとうございます。
まず大前提として、三人称小説の地の文において一人称の人物が登場することは普通ありません。まずこのことを知っておく必要があります。
その上で、もしも出典があるのなら出典を張ることにやぶさかではありませんが、なかなか見つかりません。それもそのはず、三人称小説において一人称の人物というのはそもそも存在しないのが普通ですから、そんな存在しないものを主人公の定義とするというのは噴飯もの、まともな研究者でこんなこと誰も言いません。誰も言わない定義に対して出典を見つけることは不可能に近いです。
それでは「しかし三人称の場合、この意味での主人公は存在しないことになる」などと書かずに、除去ないし要出典を張ればよかったではないかと仰るかもしれません。実際、この節以外の多くの節に対してコメントアウトを施しました(もっとも、すぐに外されてしまいましたが)。しかし、一人称主体を主人公と考える見方は、割合素朴な感覚として存在するみたいなのです。私は、誤っていると思います。しかし、「誤っている」と記事に書くことはできません。出典がないからです。そこで、読者に注意を促すために、「論理的に明らかなこと」のみを書いた次第です。前段の「主人公とは一人称主体のことである」との記述がはじめから存在しなければ、当該一文は書く必要のなかったことです。
ご参考までに、こんなことが議論されていたようです。この中でNekosuki600氏の発言およびMizusumashi氏の敷衍が私の感覚に近いです。ご一読くださればと存じます。
で「内容をよく理解した上」というのは、三人称小説というものの性格に思いをはせて頂きたく思ったわけです。その上で、「内容自体に疑義がある」或いは「出典がありそうだけど書かれていないから欲しい」と仰るのであれば、要出典タグも甘受せざるを得ませんけれども、今のところ出典を見つけるには至っておりません。しかし自分の記述に対してタグをつけられた以上は放置しておくわけにもいきませんので、弁明させていただいた次第です。--КОЛЯ 会話 2009年7月19日 (日) 18:46 (UTC)[返信]

小林誠 (物理学者)などの編集について

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はじめまして。小林誠 (物理学者)における編集一徹さんの編集を差し戻しました。理由についてはノートに記載しております。編集意図についてノートで説明していただければ幸いです。--Tondemonai 2009年11月21日 (土) 13:42 (UTC)[返信]

はじめまして。編集一徹と申します。

わざわざ書き込みに来て下さりありがとうございます。 仰せの通り、「ノート:小林誠(物理学者)」にて、私なりの弁明ならびに釈明を行って参りました。 駄文にて、読みがたき点多々あろうかと存じますが、なにとぞご容赦くださいませ。 --編集一徹 2009年11月21日 (土) 20:04 (UTC)[返信]


お尋ね

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こんにちは。つかぬことを伺いますが、「ピックアップTVウイークリー」(『産経新聞』)の著作権者の方、ご自身なのでしょうか?もしそうでなければ、著作権的に問題があるのではないかと懸念されますが。--miya 2011年2月20日 (日) 22:17 (UTC)[返信]

miya様、はじめまして。編集一徹と申します。一文、拝読致しました。

大変申し上げにくいのですが、「著作権的に問題がある」とはいかなることでありましょうか。私は公刊物、それもきちんと裏づけのとれた(ウィキペディアで言う「信頼できる情報源」)ものから引用したとおもっております(『産経新聞』の記事「ピックアップTVウイークリー」)。また、「出典」すなわち文献表記(表題、発行所、発行年月日、引用面)も載せております。無断引用にはあたらないと考えます。

miya様のお名前はウィキペディアの編集でよく拝見しておりますので、相当練達のウィキペディアンとお見受けします。そのmiya様にいまさらながらこのようなことを申し上げるのも心苦しいのですが、文献(広く信頼されている発行元から公開される事実、表明、学説、見解、主 張、意見、議論)に基づく記述がなされておれば、それだけで記述自体が一定の妥当性を持ちます。ウィキペディアンを待たずとも、文献自体が外部からのチェックを受けていると考えられるからです。

それとも、「ピックアップTVウイークリー」と載せたことに違和感をお持ちなのでしょうか。「ピックアップTVウイークリー」は、『産経新聞』夕刊(産業経済新聞大阪本社発行)の土曜日付に載っているテレビ番組紹介欄であります。そのタイトルを そのまま載せたまでのことであります。

それとも、「ピックアップTVウイークリー」掲載記事を一度に他の編集記事に記述をおこなったことに違和感をお持ちなのでしょうか。しかし、私は「ピックアップTVウイークリー」記事を個々の映画記事に割り振って引用しております。すなわち部分引用であります。著作権法に抵触するとはおもえないのですが…。

正直申し上げまして、miya様の「著作権者の方、ご自身なのでしょうか?」「著作権的に問題があるのではないか」なる疑問の呈し方においては、なにをもって当方を著作権者と推測されたのか、著作権的に問題があるとは具体的にどのような記述をもってそう呼ぶのかが明確ではありません。回答する側としては、その真意をはかりかねます。問題の所在・根拠を提示された上で質問なさるがよろしいかと存じます。

最後に個人的な苦言を一つ。冒頭「こんにちは。つかぬことを伺いますが」は、さすがにぞんざい過ぎはしませんか。つっけんどんな印象を受けます。せめて「編集一徹さん」と名指しのひとつはあってもいいのではないでしょうか。、当方も人格ある人間であります。礼儀をもって応じる人にはこちらも礼儀をもって応対しようとおもうものです。--編集一徹 2011年6月10日 (金) 03:55 (UTC)[返信]

お返事

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率直に言わせていただきますが、ウィキペディアへの参加は方針をちゃんと理解してからにしていただけませんか?一次資料云々についてはノート:わが命つきるともKanoharaさんに指摘されていますが、「検証可能性の”検証”とは、校閲を指すのです」というのも酷い勘違いですね。そのようなお考えで編集されたら、また著作権侵害のオンパレードになるでしょう。ウィキペディアにとって非常に迷惑です。--uaa 2011年10月12日 (水) 11:49 (UTC)[返信]

対話拒否はやめてください。対話拒否はやめてください。あなたがこれ以上、わが命つきるともでなさったような投稿を続けると、ウィキペディアの編集ができなくなる投稿ブロックの対象となります。ご注意ください。--Kanohara 2011年10月12日 (水) 19:13 (UTC)[返信]

Kanohara様

はじめまして。編集一徹と申します。

早速ですが、本題に入ります。

逆にお尋ねしたいのですが、なぜお二方(貴殿とUaa様)とも「出典明記」テンプレート剥がしに躍起になるのでしょう。ウィキペディアにおいて出典の明記は鉄則です。ウィキペディアンであればなんびとたれ、くつがえすことのできないきまりです。 私は方針不遵守の行為をおこなう(出典不明記)者のために注意喚起をうながすため テンプレートを張りました。なのにそれを剥がすとはいかなることでしょう。理解に苦しみます。

私はUaa様の利用者会話ページに「出典をお願いします」と題して以下の文章を書きました。

>早速ですが、「マスター・アンド・コマンダー」の「ストーリー」節の出典を示してください。

>ご存知かとはおもいますが、ウィキペディアにおいて情報の出所が不明の記述は認められておりません。すみやかに情報源たる書籍・新聞・雑誌等の所在を示す情報の記述を願います。

>なお、ウィキペディアにおいて映画そのものは文献たりえません。映画の「事」を”記した”ものが、すなわち書籍・新聞・雑誌がウィキペディアにおける文献であります。

>以上

ウィキペディアにおいて情報源は書物です。それ以外の著作物をよしとはされておりません。貴殿はノート:わが命つきるともの「コメント」で「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)」  を掲げて、フィクションにおいては必ずしも出典を必要としない旨を述べておられましたが、当方の解するところによれば、フィクション世界の記述においてもその情報源は書物であるのするのが妥当です。少し思考をめぐらせてください。もしテレビ番組をエンサイクロペディアの記事にしたいとき、その出典はテレビ番組そのものである、ラジオ番組の場合もそう、アニメも漫画もそう、ゲームならゲ-ムソフトを出典にしてもかまわない。そうおっしゃるのと同じです。そういうことになれば、ウィキペディア日本語版は、そのような偏った考えの持ち主たちのもと内部崩壊におちいるでありましょう。

当方からすれば貴殿の行為は、Uaa様ほかの方針不遵守を容認するようなもので、許しがたい愚挙に映ります。

わたしが言いたいのは以上です。なお「マスター・アンド・コマンダー」「わが命つきるとも」の双方、差し戻しさせていただきました。--編集一徹 2011年10月12日 (水) 21:21 (UTC)[返信]

コメント まず編集一徹さんは「Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料」を熟読してください。公開されている一次資料から集めた情報を整理することは、ウィキペディアでは「独自研究」には当たらず、「情報源に基づいた調査」であるとして、百科事典の執筆の基本であると位置づけられています。また、分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない場合、公開済みの一次資料を用いることには何ら問題がないとされています。ここで言う一次資料には「映画・ビデオ」が含まれていることもご確認ください。
> アニメも漫画もそう、ゲームならゲ-ムソフトを出典にしてもかまわない。そうおっしゃるのと同じです。
もちろん出典にして構わないのです。BD/DVD化されていないテレビ番組、CD化されていないラジオ番組については、再検証が困難という理由で議論の争点になっていますが(Wikipedia‐ノート:検証可能性/Archive09#「TVで観た」という出典に関して)、ビデオソフト化された作品が検証可能性を満たすことは明らかと言えるでしょう。
確かに、かつては「作品本編に基づいた情報はウィキペディアに載せるべきではない」という意見がウィキペディア全体を牽引していた時期もあり、その後も議論が交わされたという経緯はあります。私が参加した議論もあり手前味噌ではありますが、以下の議論もご覧ください。
ですが結局のところ、確かに過去にはいろいろ論争もあったものの、編集一徹さんが一時的にフィクション記事での活動を休止している間に、「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)」が整備されたので、現在は映画などの一次資料を元に記事を書くことが認められている状態にあると考えます。出典とは検証可能でさえあれば、必ずしも文字媒体という形式をとる必要はなく、文字媒体にあらずんば出典にあらず、という編集一徹さんの主張は、ウィキペディアでは時代錯誤的であるように思えます。--Kanohara 2011年10月12日 (水) 22:14 (UTC)[返信]

報告 今回の争点に関してより広い意見を求めるため、「Wikipedia:コメント依頼/編集一徹」を提出させていただいたことをご報告させていただきます。--Kanohara 2011年10月13日 (木) 00:31 (UTC)[返信]

Kanohara様

編集一徹です。

ウィキペディアンの本分を忘れてはいませんか。ウィキペディアンが許される行為は、編集です。既発表の記事を(系統的に)集めてエンサイクロペディアの形にまとめることです。貴殿の言い分だと、ウィキペディアンが映画を取材して記事を書いてもよい、うけとれます。もしそういうことなら、当方は大いに疑問をいただきます。 ”はたして、それでいいんですか”と。

貴殿の言い分だと、映画とてビデオ・DVDの形で存在すれば、検証可能性を満たすすなわち常に多くの人の目に触れる形(つまり大多数が時空に関係なく視聴可能な環境が整っている)であれば、その内容と日本語版の記事とが参照可能でテクスト形式によらずとも方針の条件を満たす、とこういうわけですね。

ほんとにそうでしょうか。ちがうとおもいますね。あくまで検証可能なのは、ビデオ・DVD化された映画の”内容”だけでしょう。そうではなくて、ここで問われるのは、あなたがたが一次資料とみなす映画から作成した”記事”の信頼性です。”それは映画を見て(そして日本語版の記事も併せて覗いてくれた)人によって担保されます”、だなんておっしゃらないでくださいね。Wikipedia:検証可能性をよくお読みになれば判るとおもいますが、当方が文献たりうると主張している(ま、”主張”というほど威張れたもんでもないですが)書籍・新聞・雑誌はいずれも校閲つまり外部チェックによる事実確認を受けている旨が記されています(ま、それでも事実誤認はたびたびありますが(笑))。そうやって情報の信頼性を高めていかないと公表はできないってことなんでしょう。ひるがえって、映画からの作成記事についてはどうなのでしょう。校閲は受けておられるのでしょうか。既にどこかで公表された記事なのでしょうか。--編集一徹 2011年10月15日 (土) 19:34 (UTC)[返信]

コメント フィクションの映画は、映画制作者によって矛盾なく起承転結のある物語として創作され編集されたものであり、脚本家、映画監督、編集者といった人々の手が入り、信頼できる配給会社によるチェックを経て公開されたり商品化されたりしているものです。現実の事件やその記録映像、ハプニングが起こりうる遊園地のアトラクションや舞台演劇といったものとは異なり、観客が現場に居合わせるわけではありません。詳しい返答はWikipedia:コメント依頼/編集一徹#コメント依頼の依頼者からのコメントに書かせて頂きましたので、そちらをご覧ください。--Kanohara 2011年10月15日 (土) 21:57 (UTC)[返信]

Kanohara様

編集一徹です。

どのように申し上げたら判っていただけるのですかねえ(笑)。

貴殿がおっしゃるのは、映画の”コンテンツ”に関する信頼性のこと。当方が問うてるのは、その映画を一次資料として作成されたウィキペディアの記事の信頼性は誰が担保するのか、とういうこと。そして、その信頼性担保の責任の所在はどこに、だれにあるのかを問いたいのです。

質問のしかたを変えます。以下二点の質問に答えてください。

1.書籍・雑誌・新聞であれば、著者、編者、翻訳者、出版社に記事(もしくは著書)の信頼性担保の責任の所在があるとわたしはおもうのですが、映画「わが命つきるとも」「マスター・アンド・コマンダー」における著者、編者、翻訳者、出版社に相当するのは誰でしょうもしくはどこ(組織・団体)でしょう。

2.もしいるとすれば、彼らにウィキペディア日本語版「わが命つきるとも」「マスター・アンド・コマンダー」のストーリー節”記事の信頼性担保の責任”はありますか。--編集一徹 2011年10月16日 (日) 20:30 (UTC)[返信]

コメント 正直、質問の意図を掴みかねています。「Wikipedia:コメント依頼/編集一徹#コメント依頼の依頼者からのコメント」をお読み頂けなかったのでしょうか? そのことについては既に回答済みだと思うのですが、もう一度繰り返させて頂きます。
  1. 「わが命つきるとも」「マスター・アンド・コマンダー」の記事にはいずれも、{{Infobox Film}}を用いて映画監督と脚本家、編集者、配給会社といった情報が書かれています。また日本語訳されているものであれば、映画のエンドクレジットの最後に翻訳者の名前が表示されることでしょうし、ビデオソフト化されたものであれば、パッケージに販売会社の名前が書かれています。これは書籍・雑誌・新聞における著者、編者、翻訳者、出版社に該当するものであると言えるでしょう。
  2. 当然あるでしょう。学生が作った自主制作映画ならともかく、真っ当な映画であれば、ストーリーは矛盾や誤りのない、特別な訓練を受けていない観客でも理解できるような内容であるようにと管理されているはずです。
確かにウィキペディアの編集者の中には、理解力の不足から映画のストーリーを正しく読み取れず、誤っていたり人によって解釈が分かれたりするような内容を書いてしまう者もいることでしょう。ですがそれは読解力の不足から出典となる書籍・雑誌・新聞などの文献の内容を誤読し、誤っていたり解釈が分かれたりするような内容を書いてしまう状況と大した違いはありません。出典とした文献が明示された記述であれば、他の編集者が書籍を入手して誤りがないかどうかを検証することが可能であるように、DVD化されている映画では、再現性のない現実の出来事と違って自由に時間を巻き戻したり早送りしたりすることができるので、誰にでも状況を再現して検証し、誤りを修正することができます。これはコメント依頼でも述べたとおりです。--Kanohara 2011年10月17日 (月) 03:57 (UTC)[返信]

Kanohara様

編集一徹です。

貴殿が質問2でお答えになったのは、前回同様、映画の”コンテンツ”に関する信頼性のこと。当方が問うてるのは、その映画を一次資料として作成されたウィキペディアの記事の信頼性は誰が担保するのか、とういうことです。

再度質問します。

映画監督と脚本家、編集者、配給会社がウィキペディア日本語版「わが命つきるとも」「マスター・アンド・コマンダー」のストーリー節”記事の信頼性”を担保するのですか。--編集一徹 2011年10月19日 (水) 20:10 (UTC)[返信]

コメント その質問には直前の発言で回答済みだと思うのですが? どの資料を検証すればいいのかは記事名に記載されているのですから、間違っていたら誰かが修正するでしょうし、読者が信頼性が怪しいと思えば原典となる映画の内容を確認すればよいのです。これは資料が映画作品であろうと文献であろうと同じことです。文字媒体の文献を二次資料として作成されたウィキペディアの記事が、文献の著者の意を完全に酌んでいるか否かは、文献の著者によって担保される訳ではありません。
逆に質問しますが、例えばウィキペディアのある悪質な利用者が、脚注形式で出典となる書誌の書名や著者名、出版社名、ISBNなどを明記した上で、その文献に書かれていない虚偽の内容を書き、それに誰も気が付かなかったとしましょう。編集一徹さんはこの記事の信頼性を損ねた責任は、虚偽の記述を行ったウィキペディアの編集者ではなく、あくまで偽の出典として挙げられた書誌の著者や出版社にあるとお考えなのでしょうか?--Kanohara 2011年10月19日 (水) 21:52 (UTC)[返信]

Kanohara様

編集一徹です。

あのような質問をしたのは貴殿に、(1)映画と記事では行為主体が異なること(2)信頼性担保は各主体がおこなうこと(3)記事作成の主体がウィキペディアンの場合、「検証可能性」「独自研究は載せない」の制約の下、一次資料使用の記事に信頼を与えることができるか、ということにおもいをいたしていただきたかったからです。

ですが、貴殿は上記(1)(2)(3)のいずれにもおもいをめぐらすことはなく、ただ、映画は誰が見てもわかるように作られている。そして、記事はそれをそっくりことばにおきかえただけなので、映画の信頼性担保は即、記事の信頼性担保のつながる旨を主張され、再度の質問にもかたくなに態度をかえませんでした。当方の意図がつたわらず誠に残念です。

さて、ご質問の件ですが、二次資料使用の場合(あくまで書誌情報が正しい場合に限られます)、貴殿の想定状況下においても、もとの資料(公刊物)を参照することにより、不当行為の見定めを迅速におこなえると存じます。これもひとえに、公刊物は公表前、公表後に外部チェックによる事実確認をおこなって記事の信頼性を担保するようつとめているからと考えられます。

一方、これがウィキペディアンによる一次資料使用の場合、その摘発は困難になると予想されます。ウィキペディアンは独自に記事の検証をおこなえないので、結果として、出典不在(情報源の所在を示す書誌情報が不明)、検証不能性(ウィキペディアンは検証をおこなえない)、独自研究を載せる(世間に認知されない非公表の書き物)シロモノとなり、仮に何者かにイタズラされても、いずれが不当なのか、そもそも不当な行為自体がなんなのかすらあやふやなままということになるでしょう。--編集一徹 2011年10月22日 (土) 18:49 (UTC)[返信]

コメント どうも話が噛み合っていないような気がするのですが、ひょっとすると編集一徹さんは、「Wikipedia:著作権#他人の著作物を使うとき」「Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#文章を丸写しすること」「Wikipedia:引用のガイドライン#執筆は自分の言葉で」といった、「出典の内容は編集者自身の言葉で再構成しなければならない」という方針や意見(私論含む)に対しては不同意であり、ウィキペディアはウィキクォートのような引用句集であるべきだとお考えなのでしょうか? だとするなら、映画記事のストーリーは、登場人物の台詞やナレーションの引用だけで構成しなければならないことになりますが、そんなはずはないでしょう。もし編集一徹さんがそのようなことを考えているのであれば、一度「Wikipedia:五本の柱」をお読みください。
さて、どうやら編集一徹さんは、文字媒体の出典から文字媒体の記事への再構成を行うことと、映像媒体の出典から文字媒体の記事への再構成を行うことに、越えられない壁が存するとお考えのようですが、そんなことはないでしょう。(1)確かに映画を制作する者とウィキペディアの編集者とでは行為主体が異なりますが、それは文字媒体の文献を執筆する者とウィキペディアの編集者とで行為主体が異なることと、何ら差はありません。(2)たとえ文字媒体の文献を用いた記事であっても、編集者自身の言葉で再構成された内容は、ウィキペディアの編集者が信頼性を検証しなければなりません。(3)「検証可能性」「独自研究は載せない」にも、公開済みの一次資料の使用を禁じる方針はありません。
何度も言いますように、DVD化されて販売・レンタルされている映画は、実際に現場に居合わせて見聞きした実際の事件や、再現性のない遊園地のアトラクションや舞台演劇などと異なります。編集一徹さんの仰る意見は、後者(居合わせた事件、アトラクション、舞台演劇)を一次資料とする場合には大いに当てはまりますが、DVD化されている映画の場合はそうではありません。DVDは入手可能で、その内容を検証することも可能で、記事の内容が映画から読み取れる内容に沿っている限りは、独自研究ではありません。残念ながら、中には解釈が分かれる内容について推測を交えたり、勘違いやイタズラから虚偽の内容を書く編集者もいますが、元の映画のDVDなどを検証することで、不当な編集を迅速に見定めることは可能です。ましてや対象が2時間前後の映画であれば「その摘発は困難」とは言い難いことでしょう。発行部数が少なかったり絶版となっていたりする文献を資料とした記事の方が、「編集者自身の言葉で再構成された」内容の正しさを検証する作業はより困難に思えますが、ウィキペディアではそうした記事も「検証可能である」としています。--Kanohara 2011年10月22日 (土) 20:19 (UTC)[返信]

Kanohara様

編集一徹です。

下記二点の根拠となるウィキペディアのルールの所在をご教示いただけないでしょうか。

>編集者自身の言葉で再構成された内容は、ウィキペディアの編集者が信頼性を検証しなければなりません。

>「検証可能性」「独自研究は載せない」にも、公開済みの一次資料の使用を禁じる方針はありません。 --編集一徹 2011年10月23日 (日) 20:57 (UTC)[返信]

情報 そのような初歩的な、あるいは何度も繰り返してきた内容を改めて質問する意味が分からず困惑しているのですが、どうも我々の会話は根本からズレているようなので、一応根拠を示しておきます。
>> 編集者自身の言葉で再構成された内容は、ウィキペディアの編集者が信頼性を検証しなければなりません。
ウィキペディアでなぜ検証可能性が重要視されているのかを思い起こして下さい。これはウィキペディアが事実関係を確認する機能を持たないため、他の編集者や読者が記事の内容を検証する必要があるためです。
記事を執筆する際は、閲覧者や他の編集者が内容を検証できるよう、信頼できる情報源 (en:Wikipedia:Reliable sources) にあたり、出典を明記するべきです。

(中略)

なぜいけないのでしょう。それは「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから」です。 — Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」
出典の内容は編集者自身の言葉で再構成しなければならない以上、誤りを含んでいる可能性は常にあります。他のウィキペディア編集者が検証した結果として誤りが見つかった場合、その編集者が改善を試みるのは当然のことです。
記事の記述に改善点があるように感じたら、ぜひ改善を試みてください。 — Wikipedia:編集方針#記事の改善を試みて下さい、但し慎重さも忘れずに
この検証作業は文字媒体の書籍に限らず、出版社から出版されている漫画、きちんとした企業から正規のBD/DVD/ビデオテープが発売されている映画、アニメ、ドラマでも行うことが可能です。編集一徹さんが、なぜ出典が書誌ならそれが可能で、映像だと不可であると考えているのか、その理由が私には分からない。
>> 「検証可能性」「独自研究は載せない」にも、公開済みの一次資料の使用を禁じる方針はありません。
同じ映画を見て、10人中10人が同じように受け取る内容であれば、記事の内容は一次資料に基づいていて構わないとされています。
一次資料とは、考古学的な人工遺物・映画・ビデオ・(中略)といった、情報やデータを提供するものです。

(中略)

ウィキペディアにある記事は全て、既に発表されている一次資料や二次資料に基づいていなければなりません。なお、現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、もちろん強く奨励されています。そうした記述は「独自の研究」には当たりません—それは「情報源に基づいた調査」であり、百科事典の執筆の基本です。

なお、(1)専門知識がなくとも分別のある大人であれば誰でもその正確性を簡単に検証できる解説、(2)分析、総合、解釈、評価にあたる主張を全く行わない記事、のような場合には、ウィキペディアの記事がもっぱら一次資料に基づいていてもかまいません。 — Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料
かつてウィキペディアにおけるフィクション記事において、フィクションの本編そのものを資料として用いて良いのか否かという議論があったのは確かです。ですが、これについては「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)」が正式なガイドラインとなったことで解決していると考えます。
全てのウィキペディア記事のように、フィクションに関する記事は現実世界を最優先の理論として固守すべきです。これは、フィクション作品やその派生を含む現実世界の観点から主題について説明するということです。また、これには一次情報と二次情報の両方を必要としています — Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)#現実世界の観点
一次情報はフィクション世界に関する一次資料、すなわちフィクションの原書またはその系列作品(例えば同じシリーズの別のエピソード)から抜粋された情報です。現実世界の観点への厳格な固守があっても、フィクションに関して書く際には、常に情報源としてオリジナルのフィクション自体を使用することを含んでいます。

(中略)

そして、もちろんプロット自体も該当します

— Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)#一次情報
現実世界の観点には一次と二次、両方の情報が必要です。一次資料と二次資料のバランスの取れている使用を維持してください — Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)#結論
編集一徹さんは、これらの方針やガイドラインには従うべきではないと考えているということでしょうか?--Kanohara 2011年10月24日 (月) 02:10 (UTC)[返信]

Kanohara様

編集一徹です。

誠に懇切丁寧な引用ありがとうございます。 また、ところどころでコメント文までつけてくださり恐縮です。

ところで、一次資料についてですが、 Wikipedia:信頼できる情報源#情報源なるものをみつけました。

このなかの「一次資料」の説明において特に目をひく箇所が三箇所ありましたので抜粋します。 「ほとんどの一次資料となる題材は、適切に用いるための訓練が必要です。」「ウィキペディアの記事で一次資料を使ってよいのは、信頼できる出版元から公刊されている場合だけです。」「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません。」

この点について、貴殿はどうお考えになられますか。ご意見の程よろしくお願いします。--編集一徹 2011年10月24日 (月) 20:57 (UTC)[返信]

コメント 「Wikipedia:信頼できる情報源」は草案段階のガイドラインで、「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)」は正式に採用されたガイドラインです。もちろん草案段階であっても尊重すべきルールですが、「Wikipedia:信頼できる情報源」で言及されている一次資料とは、未整理の統計資料や日記など、フィクションの物語のように順序立てられていない記録なども含んだものを指したものです。今回は議論の対象がフィクションに関する内容であることから、「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)」の方を優先すべきだと考えました。ですが両者のルールは対立するものではないと考えます。
> ほとんどの一次資料となる題材は、適切に用いるための訓練が必要です。
学術論文や統計資料を用いる場合はそうでしょう。フィクションについても、難解なテーマを扱っていたり、解釈を観客に委ねるような場面がある場合は、批評家の助けが必要です。そうしたことは「Wikipedia:スタイルマニュアル (フィクションの記述)」にも明記されており、その点で編集一徹さんと私との間に争点はないと考えます。ですが以前も述べたように、真っ当な映画であれば、ストーリーは矛盾や誤りがなく、特別な訓練を受けていない観客でも理解できるような内容であるようにと管理されているはずで、解釈の余地がない内容については一次資料に基づいていて構わないと考えます(Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料)。「Wikipedia:信頼できる情報源」でも、一次資料は「注意して取り扱」う必要があるとは書かれていますが、使用してはいけないとは書かれてはいません。解釈が分かれる内容を避けつつ、フィクションの内容から誰もが読み取れる内容を引き写すのは、「注意して取り扱」う範疇であると、私は考えます。
> ウィキペディアの記事で一次資料を使ってよいのは、信頼できる出版元から公刊されている場合だけです。
もちろんです。そして「マスター・アンド・コマンダー」の場合はユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパンから、「わが命つきるとも」の場合はソニー・ピクチャーズ エンタテインメントからDVDが販売されています。いずれも信頼できる販売元であると考えます。これらのDVDは、Amazon.co.jpなどで購入することが可能です。
> 信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません。
もちろん、映画監督が頭の中で企画中の感動超大作の構想を、ウィキペディアで発表するようなことは認められません。完成した映画であっても、例えば『シェラ・デ・コブレの幽霊』のような未公開映画の記事で、一次資料を元に記事を作成するのは不適切でしょう。
さて編集一徹さんは、「出版元」(翻訳元の記事では“publisher”)という表現を字面通りに受け取っていて、ウィキペディアの出典は書籍の出版を業務とする企業からリリースされた情報しか用いることができない、と考えているのであろうと想像します。つまり角川映画について書かれた記事では映画を出典にしても良いが、松竹映画は映画を出典にできないと言いたいのですよね? ですが「Wikipedia:信頼できる情報源」にはウェブサイトを一次資料として使う場合の詳細な言及があるように、「使ってよい一次資料」が書籍を扱う企業から書籍として販売されたものに限定されるという解釈は、私は違うと思います。
ウィキペディアのルール解釈は字面よりも、そこに書かれた本来のルールの精神や意図を汲むことが重視されているはずです。このことは「Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#ルールの悪用」にも書かれています。--Kanohara 2011年10月25日 (火) 04:48 (UTC)[返信]

Kanohara様

編集一徹です。

結論めいたことを申しますと、私が一次資料としての映画(映画に限らず、漫画、小説、エッセー等それ自体公刊物の形態であってもこれを一次資料すなわちウィキペディアンが情報源に加工する対象として扱うことに懸念を抱きます)はいけないとおもうのは、ウィキペディアにおいては、外部チェックを経ない(このため、本来なら公表するにいたらない)ふたしかな情報しかうまないからです。ここで外部というのは、ウィキペディア内部の第三者(報道機関または出版機関の意味です)、チェックというのは、当事者二者すなわち映画を一次資料として情報源作成と記事作成をおこなったウィキペディアンと勝手に文章におこされた映画の関係者双方の言行に関する事実確認をおこなう、という意味です。--編集一徹 2011年10月30日 (日) 20:45 (UTC)[返信]

コメント ですから、それは出典が一次資料であっても二次資料であっても同じことでしょう? と私は何度も言っているわけです。
例えばここに相対性理論について解説した書籍があったとして、ウィキペディアの編集者がこれを出典としつつ、文献のうち30ページ程度の内容を「アインシュタインによれば、物体の速さが光速を超えることはない」と一言で要約したとしましょう。仮にその書籍が査読機関を置いている信頼できる情報源であったとしても、無名のウィキペディアの編集者が、30ページ分の内容を適切に要約できていることを誰が証明できるでしょうか? もちろん勝手に要約を作成された書籍の著者や査読機関が、ウィキペディアを見に来て、事実確認を行うということはありません。ウィキペディアにおいては、映画の内容が正しく要約できているのかを確認するのが他の編集者や読者の役目であるように、二次資料を元に書かれた記述が二次資料の内容を要約できているのかを確認するのもまた、他の編集者や読者の役目です。残念ながら。ですので編集一徹さんが今しがた挙げた例は、(公開済みの)一次資料と二次資料の優劣を比較する上で、まったく意味のない例示なのです。
もう少し相対性理論の例を続けます。もし前述の二次資料に言及した三次資料があれば、「アインシュタインの相対性理論について解説した書籍の著者である某は、アインシュタインは物体の速さが光速を超えることはないと言ったと解説した」という書き方も可能であるかもしれません。これで要約の正しさは三次資料によって保証されたかに見えます。ですがその三次資料が300ページの文献で、この記述もまた要約であるとしたらどうしますか? どうにかして四次資料を探し出し「古今の物理学を網羅した某百科事典によれば、アインシュタインの相対性理論について解説した書籍の著者である某は、アインシュタインは物体の速さが光速を超えることはないと言ったと解説したとされる」と記述したとしても、ウィキペディアの編集者が四次資料を適切に要約できているという保証はありません。これは五次資料、六次資料、七次資料と辿っていったとしても、最後に文献からウィキペディアへと記述を引き写すのが無名の編集者である限り、永久に解決しません。なぜなら問題の本質が「一次資料か二次資料か」という点にはないからです。
ですがウィキペディアにおいて、現存する一次資料や二次資料から情報を集めて整理する調査は、独自研究ではなく「百科事典の執筆の基本」となる「情報源に基づいた調査」として「強く奨励されています」(Wikipedia:独自研究は載せない#一次資料と二次資料)。つまり、一次資料なり三次資料なりを集約してウィキペディアへと引き写す段階で、情報が加工され変質してしまうことは許容されています。そういったウィキペディアのあり方が許せないという理由で、ウィキペディアに批判的な立場へと転向するのは編集一徹さんの自由です。しかしウィキペディアで広い賛同を得ていないマイルールを盾に、仮にも出典(一次資料)が示されている記述に対して、有るものを無いと言い張るのは無理難題なのではないかと思います。編集一徹さんの理屈は、出典が二次資料であろうが三次資料であろうが適用できるという意味で、ウィキペディアの方針と相容れないもののように私には思えます。
もちろん、解釈の余地のある内容など、一次資料よりも二次資料を用いたほうが適切な場面は数多くあり、それ自体は私も否定しません。ご自身で信頼できる二次資料を見つけてくるのは結構なことだと思います。丸写しなどでなければ。ですが出典が明らかである記述に{{要出典}}や{{出典の明記}}を張るのはおやめください。もちろん、出典とされている映画を確認したけれどそのような内容は読み取れなかった、違う意味にも受け取れた、あるいは独自の解釈や個人の感想に拠っていると思われる部分に、部分的に{{要出典}}をつけたり、{{信頼性要検証}}や{{出典無効}}を用いたりするのは推奨される編集の範疇だと思います。概ね間違ったことは書いていないけれど二次資料も欲しい、という記事には{{単一の出典}}などを貼って他の出典の充実を待つという手もあります。映画や書籍のどの場面、どのページか分からない時には{{いつ}}{{要ページ番号}}のようなテンプレートを使う手もあります。ですが出典が何も示されていないわけではないのですから、幾らなんでも{{出典の明記}}はないだろう、と私は思うわけです。--Kanohara 2011年10月31日 (月) 08:49 (UTC)[返信]

Kanohara様

編集一徹です。

これまでの会話ページのやりとりを通読してみて、互いの話が噛み合わないわけが読めてきました。

当方に言わせれば、貴殿は二次資料を用いた記事作成と他のウィキペディアンによる確認(行為)におけるあやまちをそのまま一次資料でもやらかしていることです。

貴殿は記事作成を「要約」だとおっしゃってますが、ちがいます。事の「概要」を示すことです。元になる文献からエンサイクロペディアに必要な情報(「いつ」「どこ」「だれ」「なに」「なぜ」「どのように」)を抜き出し、ウィキペディアンの記述を加えて記事にすることです。ことわっておきますが、あくまでウィキペディアンの記述箇所は要素情報の補足でしかなく、要素情報が「主」、記述が「従」の関係です。要素情報の記述自体をウィキペディアンが勝手にいじることは許されないと考えます。恣意性が増すからです。

確認にしても、それは文献の記述とウィキペディア記事とを照合することで、ウィキペディアンの恣意的な操作がおこなわれていないかどうかをチェックし、排除することにあると考えます。決してウィキペディアンが自らの感性・知識・知見に照らして文献記述箇所を精査・吟味し、誤りを正すことではないのです。そのような役目はウィキペディアンの役目ではありません。ウィキペディアンは著述家ではありません。ウィキペディアンが任意でおこなえるのは編集行為のみで、大別して以下の二つの行為1.文献の収集・選択 2.文献からの情報抜粋と情報の合成、この二点のみ恣意性がみとめられる(みとめられるというより、やむをえないといいたところでしょうか)と考えます。仮に誤りがあったとしてもそれは、著述に責任を持つ著者・編者・訳者、発行に責任を持つ出版側がみずからの責任で正せばよいことです。 たとえば、文献引用箇所で誤字・脱字といった表記上のあやまりや事実関係誤認がウィキペディアンによってみとめられたとしましょう。だからといって、ウィキペディアンはそこに勝手に”直し”をいれてはいけません。書籍であれば版があらたまる際、雑誌・新聞であればもっとはやく、事後校閲もしくは外部の有識者なり読者の指摘により誤りが認められればただちに訂正をおこなうでしょう。それをまってから”直し”をかけても遅くはないでしょう。もし、そこまでまてない、いや訂正はされたが当該箇所ではないというなら文献選択が不適切だったとして、事実関係が正しく、表記もまっとうな別の文献に差し替える形で表記を改めればいいのです。

もし、二次資料を用いた記事作成が「要約」、ウィキペディアンによる確認を著述の誤り探しと独自の修正が加えられるとするならば、それは著述のよりどころは文献に依拠するのではなく、ウィキペディアンの解釈・判断に依拠することを意味します。

ここに貴殿(ほか大多数のウィキペディアン)と当方の文献の扱いに対する認識の違いがでてきます。要するに著述のよりどころはどこに起因するかの点で、貴殿と当方とでは、正反対の立場だからです。貴殿は著述のよりどころはウィキペディアンの解釈・判断に依拠するとのお考えのようですが、当方は著述のよりどころは文献に依拠するとの立場をとります。

この文献の扱い方に対する認識の違いを一次資料としての映画を用いた記事作成にあてはめてみましょう。貴殿は著述のよりどころは、ウィキペディアンの解釈・判断によるものとのお考えなので、映画を文字媒体に変換することになんの疑念も感じません。一方、当方は、日本語版の記事というものは日本語かつ文字表記でなければならないと考えます。もし、当方が視聴覚作品を文献に選ぶならば、ウィキペディアの記事は映像と音声のコピペに、これを補足した文章を継ぎ足したものになるでしょう。 --編集一徹 2011年11月8日 (火) 07:11 (UTC)[返信]

コメント まず編集一徹さんは「Wikipedia:原典のコピーはしない」のガイドラインを読み返して下さい。編集一徹さんの「ウィキペディアはこうあるべき」論は、ウィキソースウィキクォートにおいては適切ですが、ウィキペディアの基本方針には全く当てはまりません。もし編集一徹さんがウィキペディアの基本的な方針やガイドラインに賛同できないのでしたら、活躍の場をウィキソースやウィキクォートに移すのが宜しいかと思います。
> ことわっておきますが、あくまでウィキペディアンの記述箇所は要素情報の補足でしかなく、要素情報が「主」、記述が「従」の関係です。要素情報の記述自体をウィキペディアンが勝手にいじることは許されないと考えます。
全く違います。これは編集一徹さんの根本的な勘違いです。編集一徹さんの言う、記述自体を弄ることができない「要素情報」とは、言い換えれば著作権のある文章をそのまま抜き出す行為、すなわち引用に他なりませんが、著作権法32条にもあるように、引用とは目的上正当な範囲内で行なわなければなりません。ウィキペディアの記事では「引用#要件」にもまとめられていますが、この「正当な引用の要件」を編集一徹さんの表現を借りて説明すれば、ウィキペディアの記事が「主」、引用された要素部分が「従」の関係になければならないということです。編集一徹さんの主張はあべこべで、ウィキペディアのルールどころか著作権法に抵触する、違法行為を助長するものです。著作権が切れていない資料を用いて、そのようなことをしてはなりません。「Wikipedia:削除依頼/利用者:編集一徹氏による映画のストーリー関係」のようなことを繰り返さないで下さい。
さて編集一徹さんは、映画の台詞は音声ファイルのまま用いなければならず、台詞を文字に変換することは独自研究であると考えておられるようですが、そんなことはないでしょう。編集一徹さんの考えに正当性があるなら、日本語訳された台詞を文字に書き写したり要約したりする以上に、翻訳によって細部のニュアンスが失われたり、誤訳が発生する可能性は多くあると思われ、外国の文献を勝手に翻訳することなどは言語道断ということになると思いますが、実際そのようなことはありません。ウィキペディアでは他国の原語で書かれた出典を用いたり、他国語版の記事を翻訳することも認められており、多くの翻訳記事が新着記事や秀逸な記事に選ばれています。
音声をテキストに起こしたり、映画の内容を自分の表現に言い換えることに問題はないのですから、映画のストーリー全体の内容の概要(「いつ」「どこ」「だれ」「なに」「なぜ」「どのように」)を抜き出して、その内容を「あらすじ」としてまとめることは、十分に可能であろうと思います。もちろん人によって判断が分かれるような内容や主観に基づく主張を交えないように留意する必要はありますが。音声を文字に変換してはならないとか、文章全てを引用で構成しなければならず自分の言葉に書き直してはならないとかいったことは、編集一徹さんの中だけにある私論であって、方針文章やガイドラインにあるルールではなく、むしろ「Wikipedia:原典のコピーはしない」のようなガイドラインに反するものです。そうした私論を根拠にして{{出典の明記}}を貼ったり、他人の方針無理解を責めたり、著作権法に反した編集を正当化したりするのは、筋違いなのではないでしょうか。
編集一徹さんが内心で、日本の法律に守る価値がないと考えたり、ウィキペディアのルールに共感できないと考えるのは内心の思想の自由ですが、それを実行に移したり他人に勧めたりするようなことは、やめて頂きたいと思います。--Kanohara 2011年11月8日 (火) 14:36 (UTC)[返信]

Kanohara様

編集一徹です。

なんですか、これは。
>コメント 被依頼者の利用者ページにおける2011年11月8日 (火) 07:11 (UTC) の発言ですが、要約すると被依頼者は、ウィキペディアは出典となる二次資料から誤字まで含めて一字一句忠実に引き写した引用句集でなければならず
>ウィキペディアを著作権が存する文献のコピー・アンド・ペーストで埋め尽くし、ウィキクォートの現代版へと改革しようという企て
悪ふざけはよしてください。以下の文は、要約ではなく、捏造です。他人の言ってないことをあたかもそう言ったかのように偽り、伝えているのです。
なぜこんなデタラメを書くのです。教えてください。
ともかく、この文章は当方の言い分を反映したものではありませんので、即刻削除してください。
(お願い)これまで貴殿は当方のことを”さん”付けで呼んでおられましたが、以後は”様”付けで呼んでくださるよう願います。--編集一徹 2012年2月11日 (土) 17:37 (UTC)[返信]
コメント 編集一徹さんの主張は、そのようにしか読み取れません。直前の発言でこのように言っているではありませんか。
もし、当方が視聴覚作品を文献に選ぶならば、ウィキペディアの記事は映像と音声のコピペに、これを補足した文章を継ぎ足したものになるでしょう。 — 編集一徹、利用者‐会話:編集一徹 2011年11月8日 (火) 07:11 (UTC)
そもそも編集一徹さんは、「Wikipedia:削除依頼/利用者:編集一徹氏による映画のストーリー関係」に関する問題を指摘された時も、以下のような弁明をして、「ウィキペディアを現存する文献のコピー・アンド・ペーストで埋め尽くすこと」の正当性を主張されたのではないですか?
大変申し上げにくいのですが、「著作権的に問題がある」とはいかなることでありましょうか。私は公刊物、それもきちんと裏づけのとれた(ウィキペディアで言う「信頼できる情報源」)ものから引用したとおもっております(『産経新聞』の記事「ピックアップTVウイークリー」)。また、「出典」すなわち文献表記(表題、発行所、発行年月日、引用面)も載せております。無断引用にはあたらないと考えます。 — 編集一徹、利用者‐会話:編集一徹 2011年6月10日 (金) 03:55 (UTC)
過去にこのような主張をして問題を起こしておいて、またしても「映像と音声のコピペ」を主張しているのですから、他にどのように理解すれば良いというのですか? --Kanohara 2012年2月11日 (土) 18:15 (UTC)[返信]

Kanohara様

編集一徹です。

再掲します。
なんですか、これは。
>コメント 被依頼者の利用者ページにおける2011年11月8日 (火) 07:11 (UTC) の発言ですが、要約すると被依頼者は、ウィキペディアは出典となる二次資料から誤字まで含めて一字一句忠実に引き写した引用句集でなければならず
>ウィキペディアを著作権が存する文献のコピー・アンド・ペーストで埋め尽くし、ウィキクォートの現代版へと改革しようという企て
悪ふざけはよしてください。以下の文は、要約ではなく、捏造です。他人の言ってないことをあたかもそう言ったかのように偽り、伝えているのです。
なぜこんなデタラメを書くのです。教えてください。
ともかく、この文章は当方の言い分を反映したものではありませんので、即刻削除してください。
もし、当方が視聴覚作品を文献に選ぶならば、ウィキペディアの記事は映像と音声のコピペに、これを補足した文章を継ぎ足したものになるでしょう。 — 編集一徹、利用者‐会話:編集一徹 2011年11月8日 (火) 07:11 (UTC)
>そもそも編集一徹さんは、「Wikipedia:削除依頼/利用者:編集一徹氏による映画のストーリー関係」に関する問題を指摘された時も、以下のような弁明をして、「ウィキペディアを現存する文献のコピー・アンド・ペーストで埋め尽くすこと」の正当性を主張されたのではないですか?
大変申し上げにくいのですが、「著作権的に問題がある」とはいかなることでありましょうか。私は公刊物、それもきちんと裏づけのとれた(ウィキペディアで言う「信頼できる情報源」)ものから引用したとおもっております(『産経新聞』の記事「ピックアップTVウイークリー」)。また、「出典」すなわち文献表記(表題、発行所、発行年月日、引用面)も載せております。無断引用にはあたらないと考えます。 — 編集一徹、利用者‐会話:編集一徹 2011年6月10日 (金) 03:55 (UTC)
>過去にこのような主張をして問題を起こしておいて、またしても「映像と音声のコピペ」を主張しているのですから、他にどのように理解すれば良いというのですか?
ご質問の件について、何かこちらから答えを用意しようかともおもいましたが、ばからしいのでやめます。当方から言えるのは、再度、上記引用箇所の全文を始めから終わりまでよく読んでくださいということです。ともかくよく読んでください。一度読んでわからなければ二度、二度読んでわからなければ三度と…くりかえしくりかえし読んで、趣旨を汲み取るようつとめてください。
そういえば、貴殿、以下の文章も読み飛ばしてはいませんか。
(お願い)これまで貴殿は当方のことを”さん”付けで呼んでおられましたが、以後は”様”付けで呼んでくださるよう願います。--編集一徹 2012年2月11日 (土) 19:05 (UTC)[返信]
コメント 編集一徹さんが掲げている「ウィキペディアのルール」は、どうやら私の知っているウィキペディアのルールとは違いすぎて、正直なところ途方にくれています。私は他人の心が読める超能力者ではないので、そのような独自のルールを押し付けられて「理解出来ないほうが悪い」と言われても困ってしまいます。多少のニュアンスの違いはあるかも知れませんが、記事の内容が「映像と音声のコピペ」でなければならないというのはウィキペディアではなくウィキクォートで行うべき領分であるように聞こえますし、引用が主なければならず、誤字・脱字に直しをいれてはいけないと主張したのも、編集一徹さんがこの会話ページで 2011年11月8日 (火) 07:11 (UTC) に発言したことです。「Wikipedia:コメント依頼/編集一徹」でuaaさんが2011年10月16日 (日) 19:09 (UTC) の発言で指摘している点について、私も同様の懸念を編集一徹さんに対して抱いています。
> 以後は”様”付けで呼んでくださるよう願います。
私にはそのような指図を受けなければならない理由がありません。拒否します。--Kanohara 2012年2月11日 (土) 19:42 (UTC)[返信]

Kanoharaさん

編集一徹です。

あなたに要約は任せておけないので、当方が要約を書いてきました。
(要約)2011年11月8日 (火) 07:11 (UTC)、被依頼者は、依頼者と被依頼者との対話における齟齬が埋まらぬのは、文献を用いた記事作成におけるスタンスが、依頼者と被依頼者とでは正反対であるとして(1)記事作成は要約にあらず(2)ウィキペディアンの「検証」は知見によって正すことではないと発言されてます。
(1)被依頼者によれば、記事作成とはエンサイクロペディアに必要な5W1Hを文献より抜粋(ばっすい=要所を抜き出すこと)し、構成する。そしてウィキペディアンの地の文は体裁をととのえるためにあり、その意味において文献の5W1Hが「主」、地の文が「従」であると述べておられます。
(2)被依頼者によれば、文献の誤りは文献側が正すもの。ウィキペディアン自身の知見に照らして正すものではない。そして、ウィキペディアンの「検証」とはページ記事を文献と照合することでウィキペディアンの恣意的行動をチェックすることだ、と述べておられます。
(1)(2)に共通して言えることは、被依頼者曰く「著述のよりどころは文献に依拠する」とのことです。
また、被依頼者は、日本語版の記事が日本語で記述する以上、文献もまた日本語でかかれたものでなければならない、よってたつ基盤が同じでなければならないとの考えを表明されておられます。そして、仮の話として、この考えを視聴覚作品の記事作成にあてはめれば、必要箇所は音声や映像をそのまま抜き出すことになる、と述べておられます。
上記の「要約」を下記引用箇所と即刻差し替えてください。あなたの要約は、他人(ひと)の文章を独断と偏見に基づいて改変したにすぎません。迷惑です。
>コメント 被依頼者の利用者ページにおける2011年11月8日 (火) 07:11 (UTC) の発言ですが、要約すると被依頼者は、ウィキペディアは出典となる二次資料から誤字まで含めて一字一句忠実に引き写した引用句集でなければならず、音声を文字に書き起こすことすら独自研究であると主張しています。また、このような出典からの忠実な引き写しは、引用箇所が主、記事が従の関係でならなければならないとも述べています。--編集一徹 2012年2月21日 (火) 20:31 (UTC)[返信]
コメント 「引用」という表現を用いたのは、他ならぬ編集一徹さんでしょう。このページをCTRL+Fで検索してみて下さい。「著述のよりどころは文献に依拠する」のは、もちろんウィキペディアとして当然の編集方針ですが、編集一徹さんの言う「エンサイクロペディアに必要な5W1Hを文献より抜粋(ばっすい=要所を抜き出すこと)し、構成」した結果が、「Wikipedia:削除依頼/利用者:編集一徹氏による映画のストーリー関係」のようなものであったり、「音声や映像をそのまま抜き出す」という奇妙な主張であったりするのなら、それはウィキペディアのウィキクォート化に他ならないように聞こえます。
コメント依頼には被依頼者の発言者欄がありますので、主張があるならそちらに書いて下さい。私には、私の要約と編集一徹さんの主張に、どのような違いがあり、何をもって「独断と偏見」だと感じて立腹しておられるのかが分かりません。--Kanohara 2012年2月22日 (水) 03:00 (UTC)[返信]

Kanoharaさん

編集一徹です。

ゴタクは結構です。あなたの要約(下記引用箇所)を私の書いた要約と差し替えてくだされば、それでよいのです。それでコメント依頼における依頼者のコメント問題は終わるのです。
>私には、私の要約と編集一徹さんの主張に、どのような違いがあり、何をもって「独断と偏見」だと感じて立腹しておられるのかが分かりません。 
逆にお訊ねします。なぜ、抜書きを引き写し(ここでいう「引き写し」とは全文丸写しという意味です。「コピペ」も同義)と解釈されるのですか。ウィキペディアでは、部分引用すらゆるされないのですか。
>「音声や映像をそのまま抜き出す」という奇妙な主張 
その前の「必要箇所は」のところ、お読みになってます? これ、そのはるか前の「エンサイクロペディアに必要な5W1H」の言い換えだってことは理解されてますよね。「視聴覚作品の記事作成にあてはめれば…」のくだりは、種明かしますとね、反語表現なんです。わたしの考えでは「日本語版の記事が日本語で記述する以上、文献もまた日本語でかかれたものでなければならない、よってたつ基盤が同じでなければならない」のだから、もし、音声や映像で構成される視聴覚作品自体を文献とするならば、「ウィキペディアンの解釈・判断に依拠」して文字に、日本語に変換することはせず「必要箇所は音声や映像をそのまま抜き出す」ことになりますよ、と。でも、貴殿が「『音声や映像をそのまま抜き出す』という奇妙な主張」とおっしゃるように、これっておかしいですよね、ヘンですよね。だってもし「日本語版の記事が日本語で記述する」ことが必須ならば、まったく異なる媒体のものを「同居」させるわけだから。でもわたしはみずからの「解釈・判断に依拠」して視聴覚文献を邦文に直すことはできない。それは「著述のよりどころは文献に依拠する」に反することだから。では、どうするか。その視聴覚作品の「事」を記した(つまり日本語・邦文で書かれた)公刊物に頼るしかない、とこういうわけです。わたしにとっての「著述のよりどころは文献に依拠する」は、「ウィキペディアンの解釈・判断に依拠」して勝手な「翻訳」はしないという意味合いも含まれているのです。おわかりになりましたでしょうか。--編集一徹会話2012年3月10日 (土) 19:36 (UTC)[返信]
報告 はい、とてもわかり易い説明をありがとうございます。編集一徹さんのお考えはよくわかりましたので、このたび「Wikipedia:投稿ブロック依頼/編集一徹 20120312」を提出させていただいたことをご報告させて頂きます。長々と議論に付き合って下さり、重ねて感謝の言葉を申し上げます。大変ありがとうございました。--Kanohara会話2012年3月12日 (月) 01:44 (UTC)[返信]

Kanoharaさん

編集一徹です。

なぜ、そこまで、当方の言い分とあべこべの解釈をされんです?

Wikipedia:投稿ブロック依頼/編集一徹 20120312」で述べておられるような丸写しの強要など主張しておりません。それにウィキペディアンの基本方針を遵守されておられないのは貴殿のほうではないですか? ウィキペディアンの本分は、あくまで「編集」です。みずから著者となって「執筆」することではありません。

>はい、とてもわかり易い説明をありがとうございます。
>このたび「Wikipedia:投稿ブロック依頼/編集一徹 20120312」を提出させていただいたことをご報告させて頂きます。長々と議論に付き合って下さり、重ねて感謝の言葉を申し上げます。大変ありがとうございました。 
このような態度をなんというかご存知ですか。「慇懃無礼」というのです。
以下の文章を当方の独断と偏見に基づいて”翻訳”すればこうなります。
”はいはい、もうあなた(編集一徹)との対話にはとてもついていけんわ。わがままかってな言い分ばかり続けるようだから「投稿ブロック」してもらうよう仰ぐことにしましたわ。はい、さよなら”--編集一徹会話2012年3月12日 (月) 06:56 (UTC)[返信]
コメント 私は今までの編集一徹さんの編集態度や、これまでの対話を通じて、編集一徹さんの仰る「ウィキペディアンの基本方針を尊守した編集」なるものが、その言葉とは裏腹に、ウィキペディアの基本方針からかけ離れた丸写しの強要であると考えています。なお投稿ブロック依頼では被依頼者のコメントも許可されていますので(Wikipedia:投稿ブロック依頼#依頼・コメント資格について)、主張があるのでしたら私を通じて発言の訂正を求めるのではなく、「Wikipedia:投稿ブロック依頼/編集一徹 20120312」の方で自らの言葉で主張して下さい。私が提出したブロック依頼が不当で、編集一徹さんの主張が、真にウィキペディアの運営を円滑にするための方針・ガイドラインに沿ったものであるのなら、ブロック依頼は不成立という結果に終わることでしょう。--Kanohara会話2012年3月12日 (月) 09:34 (UTC)[返信]

コメント 編集一徹さんへ。ちと長くなるのでこちらに書きます。

編集一徹さんの、Kurihayaさんの会話ページでの発言を拝見しました。相変わらず何か勘違いをなされているようなので、一応コメントをしておきます。私にとっても論敵をブロック依頼で締め出すような行為は本意ではありませんし、編集一徹さんが勘違いをしたままウィキペディアを去るような結果になっては後味が悪いので、一度冷静になって自分を省みてくださればと思っています。

さて、編集一徹さんは今一度、引用の要件とはどういうものかをご確認ください。おそらく編集一徹さんは、自分ではよく理解しているつもりでいて、重大な勘違いをされています。幾らか法解釈の余地はあるでしょうが、例えば「Wikipedia:引用のガイドライン」で規定されている引用の要件とは、このようなものです。

  1. (公表された著作物であること)被引用文が公表されていること
  2. (必然性)引用する必然性があること
  3. (一部であること)被引用文は原則として被引用著作物の一部であること
  4. (主従関係)記事本文が主、被引用文が従の関係にあること
  5. (明瞭区別性)記事本文と被引用文を明瞭に区別して認識できること
  6. (同一性)原則として被引用文を改変しないこと
  7. (出所表示)被引用文の出所を明示していること
— Wikipedia:引用のガイドライン、2011年3月18日 (金) 06:36 (UTC)の版

引用の要件を満たすには、これら全ての条件を満たす必要があるとされています。ところが編集一徹さんはこの要件を、どれか一つを満たしていればよいと勘違いしているか、あるいはウィキペディアを引用する場合のGFDLまたはCC-BY-SAライセンスと混同していておられる。なぜそのような思い込みに至ったのかは私にはわかりかねますが、編集一徹さんの思い込みの中では、書籍一冊を全文引用するわけではなく、また引用元を段落末尾の脚注として示してさえいれば、引用が正当化されるということになっているようです[1][2]。ですが、それは誤りです。もちろん引用が正当な場合もあります。ウィキペディアでは一切の引用が認められないという主張もありますが、個人的にはその論には賛成しません。ですが、引用を行う場合は引用の要件を厳密に満たす必要があり、引用という形式を用いなければならない「必然性」が必要です。

翻って、私と編集一徹さんの間で長々と争点になっている映画あらすじの件ですが、通常、映画のあらすじは映画本編を見た人なら誰にでもその内容を要約することができるのですから、あらすじを書くのにどうしても文献の引用という形を取らなければならないという「必然性」は発生しないであろうと、普通は考えます。「映画は紙媒体の文字情報ではないので出典として使用できない」というルールは編集一徹さんの思い込みの中にしかありませんし、仮にそういうルールがあったとしても、それは法律を覆すものではないので、裁判所は引用を行う正当な理由としては認めてくれないでしょう。引用が不当である状況において、創作性のある表現を、段落丸ごと文献から引っ張ってくるような行いは、それが全文引用であろうと何百何千ページのうちの1ページであろうと、正当性がないのです。

ですので、編集一徹さんが、私の根本的な勘違いであると思い込んでいる「全文引用か部分引用か」という相違は、実は取るに足らない違いでしかありませんし、付け加えれるなら私としては、最初から全文引用ではなく、編集一徹さんが「著作権法情問題ない部分引用」と思い込んでおられる、「Wikipedia:削除依頼/利用者:編集一徹氏による映画のストーリー関係」の件のような例を問題視して「丸写し」と言っているつもりです。

まとめると、編集一徹さんが、私が勘違いをしていると思い込んでいること自体が編集一徹さんの勘違いであり、この勘違いはおそらく編集一徹さんが「引用の要件とは何か」という点で勘違いしていることに由来するのでしょう。編集一徹さんの勘違いはこの一点に留まりませんが、こうした法やルールの勘違いを勘違いとして認識せず、自分のルール解釈が正しく他の全員が間違っているという態度を取り続ける間は、ウィキペディアの編集に参加するのは難しいのではないかと感じています。--Kanohara会話2012年3月12日 (月) 23:26 (UTC)[返信]

Kanoharaさん

編集一徹です。

じつは当方にとっても「全文引用か部分引用か」という相違は、実は取るに足らない違いでしかありません。私が言いたいのは、引用する云々そういうことではなく、文献なくしては、ウィキペディアンは一字たりとも書くことはできない。そういうことです。映画をインプットして各人の「解釈・判断」を経て文章としてアウトプットなんてのはおかしいよ、ということです。

>映画あらすじの件ですが、通常、映画のあらすじは映画本編を見た人なら誰にでもその内容を要約することができる
いえ、できません、できません。おんなじものを見てもぜんぜんちがった風に人は解釈するものです。実例を示すことにします。じつは、私の知人にAさんとBさんがいます。彼らに同じ映画を見てもらったところ違ううけとめかたをしました。三つほど挙げます。
「あれだ、あれがハワードロックウッドの島さ」。このハワードロックウッドが何かについてふたりにたずねたところ、Aさんは「島の名前」、Bさんは「所有者の名前」とこたえました。
次。主人公が島内の建物をうろついています。すると、馬のいななく声が。そちらをむいて主人公が「あのう、ちょっとお伺いしたいんですけど…」とたずねると、そこにはナポレオン風の男が。そしてまたすこし進むとこんどは軍服姿の男とすれちがい、主人公、すかさず「ハイル・ヒットラー!!」なんとヒトラー似の男ではありませんか。そこでA、B御両人にこの二人は何者かときいたらAさんは「二人はナポレオンとヒトラーの複製人間」、Bさんは「ナポレオン、ヒトラーに似てるというだけでここに連れてこられ、むりやり廃人にされた哀れなひとたち」とのこと。
次。この主人公、なぞの老人によってむりやり潜在意識を映像化できる装置にかけられます。ところが、意識の深層をさぐったとたん、この老人が呻く。老人曰く「なんということだ。×××は”夢”を見ない。くうかん、虚無。それは白痴の、神の意識に他ならない」。さて、なざとひらがなにした「くうかん」、Aさん、Bさんどのような漢字をあてたか。Aさんは「空間」、Bさんは「空観」なるあまりみかけぬ字をあてました。そこでBさんにたずねると、Bさん曰く「空観ってのはね、心がねすみきっていてわだかまりのない状態のことを言うの。あとの虚無にもそういった意味があるのよ。だから、ふたつあわせて、この男、うまれながらに悟りの境地に達していると見ていいんじゃないの」
さきほど、わたし、引用する云々は…といいましたが、それはそうとして、引用用件の4(主従関係)について説明ねがえますか。私は法学部卒業者ではないので法解釈にまったくうといので…「記事本文が主、被引用文が従の関係にあること」とありますが、なにをもって「主」、なにをもって「従」とはかればよいのでしょう。--編集一徹会話2012年3月15日 (木) 09:26 (UTC)[返信]
コメント 「ウィキペディアにおける検証可能性とは校閲可能性である」というのは編集一徹さんの間違った思い込みであって、Jkr2255さんも指摘しているように、記事を執筆する際には資料を自分の言葉で書き直すのが基本です。映像媒体であろうが文献であろうが、人によって意図せずして解釈が分かれる部分というのは多々ありますが、その解決策として法を犯すというのは犯罪者の論理です。丸写し(引用の要件を満たさない部分転載)の資料を継ぎ接ぎして記事を作ることは、最も正確かつ安易で労力がかかりませんが、それは著作権侵害になるのでダメなのです。
なおウィキペディアでは、人によって判断が分かれるような「解釈」は、書いてはならないという建前になっています。『ルパン三世 ルパンVS複製人間』の例示ですが、私はその映画を見ていないので判断はつきかねるものの、
  1. その場面だけで判断せず映画全体を見れば、その名称が島の地名として何度も登場するか、「ハワード・ロックウッド」が登場するかで判断ができそうに思いますが、どちらともつかないのであるなら、記事では「ハワードロックウッドの島」という表現を使うのが宜しいでしょう。
  2. 劇中で明言されていない情報を推測したり解釈したりすることは、独自研究や発表済みの情報の合成になりますので、映画を最後まで見ても明かされないのであれば、記事では「ナポレオンとヒトラー似の人々」としてください。わからないものを分かるふりをして書く必要はありません。判断がわかれるなら「劇中では明言されない」などの表現を使う方法もあるかと思います。
  3. 洋画や、一部の字幕放送に対応している番組などでは、台詞が文字で表記される場合もあります。そういったものがない作品で、台詞が不明瞭なら、その「くうかん」の解釈については触れないような記事にする手もあるかと思います。普通に作られている商業作品であれば、一部の台詞が聞き取れないだけで作品の意味内容が変わってしまったり、そのような重要な場面の台詞が不明瞭だったりするような作り方はしないでしょう。
判断が分かれる部分で、部分的に二次資料などを出典に用いることは、もちろん好ましいものですが、出典を元に書くことは必ずしも引用という形を取る必要がなく、ましてあらすじを書くのに段落単位で引用を行うのはやりすぎでしょう。引用と本文の主従関係ですが、ある事物(この場合は映画のあらすじ)について説明する上で、他の文献から一字一句正確に引き写してきた引用部分に説明を丸投げしてしまっているようなものは、「引用が主になってしまっている」であると言えるのではないでしょうか。他の方がまとめた私論「Wikipedia:引用のガイドライン」などもご覧下さい。
なお、著者の死後一定期間が経過してパブリックドメインになった文献などは、あまり法のことを気にせず自由な利用が可能ですので、編集一徹さんにおかれましてはウィキペディアの姉妹プロジェクトであるウィキクォートウィキソースに活躍の場を移してはどうかと思います。あちらでは「一字一句正確に文献を書き写す」という編集一徹さんの方針は歓迎されるであろうと思います。--Kanohara会話2012年3月15日 (木) 16:17 (UTC)[返信]

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