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Wikipedia‐ノート:井戸端/subj/DVDや映画パンフレットは検証可能性を満たさない情報源か

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「おれさま基準」について

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Nekosuki600さんのこの[1]ご意見について。すぐ下にコメントすると、議論の間に割り込むようで抵抗があるのと、コメントが時系列に追えなくなるのでこちらにコメントします。結論的にはほぼ同感です。Ks aka 98さんも述べておられますが、「将来の検証可能性」、例外を認めている方針の例外を認めない、というような解釈は方針の誤認であり、誤謬を広めることになります。このような独自の解釈に基づく編集合戦・論争がすでにあちこちで見られ、そのために大量のログが消費されている事実からすれば、この手の主張はウィキペディアの破壊行動の一種と見ることが可能で、ブロックする理由があるように思います。「要修行」というより、「方針無理解」「コミュニティを疲弊させる」ではないでしょうか。--みっち 2008年2月29日 (金) 09:03 (UTC)[返信]

ある面では同意します。反面、「わからん奴はブロック」という話は閉鎖的なものになり、それが是なのかどうか。DVDやパンフレットという事に限定した傍題が、その「わからん奴」を更に誤認させている訳で、「第一次的な典拠はそれ自体が既に情報源となりうる」「単一の典拠のみではなく第二次的、第三次的な典拠で補強される事が推奨される」「それぞれの典拠は揮発性でなく且つ物理的である事が強く望まれる」と結論付ければ済む事なのではと、今更ながら思っていたり。「典拠が無ければ不許可」等という論法自体が破壊行為であるとは思うので、そんな破壊屋に付き合うのは御免故にむしろ典拠なぞ逐一出す気になれない。「 أنا ويكيبيدي 」は「私はウィキペディアンである」という意味だ、等と書いたとして、その典拠を求められたら堪りません。Googleで検索してみればウィキペディアとそのミラーが殆どですし、「ウィキペディアン」などという単語の載っている辞書があるならこちらが教えて欲しいくらい。--٢١٩.١٧٤.١٥٨.٢٢٥ 2008年2月29日 (金) 18:39 (UTC)[返信]
ども。
いや、「要修行、というブロック理由」は、笑いをとりたかっただけなんですが(=^_^;=)(でも切実な苦笑いみたいなところを狙ってはいたのですが)、ええとまあなんだな。
おれが一時期専門としていた法律なんかもそうなんだけど、「条文」だけではなんでそういう規則があるのか読み解けないんですよ(それが良いことだとは思わないのだが)。なんでそういう条文が作られたのか、どういう主旨なのか、そこまで視野に入れないと危なっかしくて法律は語れない。すべての基準は、そういう宿命を負っているのじゃないだろうかと、おれは思うのであります。
そして、そういう「根本的なところでわかっていないやつ」には「わかるまで出てくるな」と言うのはありだろうと思ってて、そこらへんはまぁおいおい具体化を考えようかと。ただ、へたに門前払いにするとソックパペットを作って暴れるようなしょーもないレベルのやつであることも多いだろうから、簡単な話じゃないですね。
検証可能性をめぐる議論については、再三のよくわからない議論を提起しているやつはおそらくたったひとり、多くてもせいぜい数名で、全員が問題外だと思う。そろそろこのあたりはまとめて始末しちゃっていい時期かもしれません。つか、前に管理者伝言板でソックパペットとしてのブロック依頼をしてまとめて始末しちゃおうとしたのだが、なぜか管理者からのリアクションがなかったのでした。つなぎかえて別IPから投稿してたってことかもしれませんけどね。--Nekosuki600 2008年2月29日 (金) 19:30 (UTC)[返信]
こんばんは。色々とご配慮ありがとうございます。今回の件については、個人的にはとても難しい問題を孕んでいると思っています。
事の発端になったページにも少し書いたのですが。今回の件は、あちらの方のお考えは、現行ルール的には問題がないように思うのです。Wikipediaのルールを非常に厳格に受け止めてしまうと、あながち誤りのある判断ではないといいますか・・・・・・。
  • 「出典」には、一次情報は(一部の例外を除き)原則使わないこと
  • 「出典」には、一次情報より、二次情報を優先すること
  • 「出典要求」があれば、執筆者は出典を示すこと
  • 「出典」が明示されなければ、削除に異を唱えてはならないこと
現行ルールを要約すると、まあこんな感じかと思うのですが。これを、小説、漫画、映像作品などの創作作品全般に当てはめて考えると、次のようになると思うのです。
  • 作品そのものは出典にならない(「作品を見ればわかる」という説明は無効)
  • 作品内での記述と、雑誌記事(テレビガイド等)の記述に齟齬があれば、雑誌記事を採用する
  • 「出典要求」は、(自分で作品を確認せず)作品を見ていない状態でも自由に幾つでも出してよい
  • 雑誌や書籍等での出典が書かれなければ、全て削除できる
今回の流れのそもそもは、「概要」節に12箇所の「出典要求」が一度に大量に貼られたことに起因しているのですが。(ほとんど一行ごとの出典要求で、なんというか圧巻というか壮観というか)
私は該当項目の執筆にこれまで関わっておらず、そうした事が起こった後に初めてページを覗いたのですが。・・・・・・なんというか、まるで出鱈目なトンでも記事だとレッテルを貼られたような印象で、これは一年間ずっと丁寧に執筆を続けていらしたコミュニティの人にとっては、きついだろうなあと少々同情したくなりました。内容的にも、該当作品を見ていた私からすると、間違っていると思われる箇所はあまりなく、独自研究的な要素もさして見当たりませんでしたし。履歴やら、ノートの過去ログも確認してみたのですが。速報的な記述やテレビを見て安易に書き込まれたと思われるようないい加減な記述は即削除されていたり、独自研究的な執筆をされる方は袋叩き(後から読んだ私からすると怖いくらい)にあっていました。そういう意味で、特撮コミュニティはある程度の自浄作用を保っているのかなあと。まあ余談なのですが。
今回は「出典要求」が貼られた直後に、別件で保護がかかり、編集合戦のようなことは発生しなかったのですが。
もしも保護がかかっていなければ、おそらく「これと、これと、これと、これは作品を見ればわかる」と主張して、一部のタグを剥がす方との編集合戦になったんじゃないかなあと思うのです。ノートの流れをみた限りでも。そして、そうなった場合、おそらくブロックをくらっていたのは、出典タグを除去した側だったろうなと。感情的になってしまうのは、大抵は執筆した側ですので(まあ当たり前ですが)、あのまま行くとまずいかなと仲裁に入ったつもりがミイラ取りになって現在に至るのですが。
現行ルール内では、作品を見ていれば簡単にわかるような内容でも、出典要求が出されれば削除されたくなければ応じなければならない。そしてその出典は、作品外から持ってこなければならない
これ、かなりハードルが高いと思うんですよね。心情的にも作業的にも。(井戸端で相談した結果、「作品内」からの出典もOKと認められ、今後は作業的なハードルは少し楽になりましたが)
特撮コミュニティの方が、主に心情的な部分から出典要求を拒否しているのはなんとなくわかりましたので、部外者のほうがいいだろうということで、今回は横から私が口を出して出典を付けましたが。
これまで、こういった問題を、創作作品の系統の項目は、どうやってクリアしてきたのかなあと、そこは少し興味があります。創作作品系のメインカルチャーである「文学」は、プロジェクトもありませんし。文学系とWikipediaのルールは非常に相性が悪い(ように私は今回のことで感じています)ので、プロジェクト等がないのはもしかしたらそうしたことが原因かなとも思いますが。
今回のことは氷山の一角というか、きっと今後、出典要求でもめるケースは加速度的に増えていくように思うので、そうした場合の上手な解決策は切実に知りたいところです。(今回私が行ったような、逐次出典に全て応じるというやり方は、有名作品でないと出来ない芸当ですし)--Giftlists 2008年3月1日 (土) 10:34 (UTC)[返信]
◆どもども。
いやあなんだ。「現行ルール内では、作品を見ていれば簡単にわかるような内容でも、出典要求が出されれば削除されたくなければ応じなければならない。そしてその出典は、作品外から持ってこなければならない」というハードルですが、それはかなり高いハードルだと思います。でもさあ。そのハードルって実在しているんだろうか。
世の中、たいていのことは、ま、書かれていたりします。オカルト系の書籍の一冊も読めば、明らかに非科学的かつ自分の経験則とも合致しないことを発見できるだろうし、だからといってその「明らかに非科学的かつ自分の経験則とも合致しないこと」についてその書籍を出典として記せばそれはWikipediaに書くことが可能だったりもするわけです。
出典を求めることって、そういう「なにはともあれ探してこい。探してきてみつかれば書いていい」という話なんだろうか。それって、暇人ならばどうにでもできることなんじゃないだろうか。探すという意味でも仮想の参考文献をでっちあげるでも、ちょっとウデがありゃできますよね(更に話はぐだぐだになるだろうけれども)。
二次資料があれば、それはそれでありがたいことです。しかし一次資料を見ればおおむね他解釈があり得ないであろう部分についてまで、二次資料を探す必要はないだろうとも思います。そのあたりは、新河岸川の読みでもやったことだが、臨機応変に判断すべきであり、かつ自らの臨機応変な判断が間違っている可能性も常に認識しておくべきことでもある。それでいいじゃん。
でだ。話を戻す。
教条主義的に「検証可能性」をふりまわすひとって、どこまで検証すればいいのかをろくに考えていないんだと思うんですよ。突き詰めていけばメタな概念論に突入するのは明らかでありそれはそれでぐだぐだになる運命なんだが、教条主義的検証可能性論者ってそのレベルにすら到達していない。単に「おれさまの解釈に従え」と言っているだけだ。キツいとかなんとかいう以前に、それって問題外なんじゃないんだろうか。
ついでなんですが。
とある生物項目でしばらくやりあっていたのですが、「国際会議で合意された報告書にはこう記されている」という出典をきっちり示しても、その報告書を見たことがないひとが見ていないことを理由に検証可能性を否定してぐだぐだになったというケースがあります。まあそれ、事務局に請求すれば有償で入手できるものではあるものの、安くはないし英文だしテクニカルターム満載だし、異論を述べていたひとのうち一人を除いて残り全員は検証しようとなんかしないだろうともともとおれは思っていたのですが(その最後のひとりは、入手を試みているのか折れたのかわかんないけど、今のところリアクションがなくてちょっとさびしい(=^_^;=))。きっちり検証可能性を示したとしても、結果に納得できなければなんぼでも抵抗するひとびとがいるのだというあたりも、おさえておきたい。それは、一見したところ検証可能性の問題のように見えるかもしれないが、そうじゃなくて、ビリーバーの悪あがきにすぎないのだと。ビリーバーが悪あがきで検証可能性を口にしたときどう始末するかってのは、それなりにめんどくさいけど早めにノウハウを確立しておいた方がいいことかもしれません。
しょーじきおれは、その手の「検証可能性の名を借りたぐだぐだ」は、今回で打ち止めにしたいと思ってます。それは無駄に消耗する議論でしかないから。--Nekosuki600 2008年3月1日 (土) 18:46 (UTC)[返信]

どーも。今回はお疲れ様でした。検証可能性のノートでの過去の議論では、ぼくと、みっちさんやNekosuki600さんはけっこう対立していて、それは、何でもいいからとにかく出典出せばいいじゃねーか、という意見と、まあ明らかな情報なら出典いらないだろ、という意見の対立だと、捉えています。あと、おーたさんとは、最近ずーっと、その記事に必ずしも詳しくない、あるいは執筆者として参加していない利用者が出典を求めることについての議論もやってました。これらの意見の対立というのは、どこで線引きするか、現実的にどういう風に検証可能性を満たした記事が増えていくような状態にするために現状を捉え、個々の振る舞いを判断するか、といった部分での、議論だと思っています。今回の要出典の付け方、その後のノートでの議論での論旨というのは、みんなが問題あるものだという認識で共通しているというような状況です。

ぼくは、百科事典というのは、その記事や分野全体に関心がないのだけれど、なんらかの事情で概要を知る必要が出てきた場合に情報を求めるものだと思うので、明らかだといっても、基礎的なものも含めて、できるだけ詳細な出典を付けてほしいと思っています。別に中学の教科書を参考にして大化の改新に加筆してもいいから、それなら中学の教科書と書け、テレビのバラエティを参考にしてインドの貧困問題について加筆していいから、番組名書け、みたいな気持ち。それが恥ずかしいとか信頼できないとか思ってるなら、最初から書くな、と。

そんで、文学なら、たとえば夏目漱石なら腐るほど論文あるわけですね。新本格とかでも、書評とか評論集とか作家のインタビュー記事とか『メフィスト』のバックナンバーとか文庫化したときの解説とかをかき集めれば、たぶん、対応できる。どうしても資料がないなら、それは百科事典の項目に加えるには、尚早なのではないかと考えることも大事だと思います。百科事典の作品記事を書くってのは、あらすじを書き溜めることじゃなくて、そういう周辺の事情や評価や位置づけを書くものだと思うんですね。

ウィキペディアのコミュニティが、いつそういうことに気づいて、覚悟を決めて、資料を漁りだすのか、というのは、ちょっとわかりませんし、そんなめんどくさいことは、別に義務ではない。でも、本気で書こうという人が現れたら、除去されたりすることはあるだろう、それは手間を惜しんだからだ、という理解はしてほしいなと思っています。それで、ぼくたちは、別に専門家じゃないのだから、偉そうに何かを分析したりしたところで、説得力があるわけじゃない。本来百科事典を書くなんて立場にはさせてもらえるはずのない、ただの素人です。でも、論文とかは書けなくても、最新の知見に基づいた記事や斬新な視点を提示する記事は書けなくても、ある事柄の要約として信頼できる記事をまとめることくらいは、多くの人が、手間ひまかけて、いろんな資料を探していけば、やってやれないことはないと思うのですね。その信頼性は、検証可能な出典が担保する。検証可能性の方針というのは、そういう意味合いのものだと思うのです。みんなでそういう風に向かっていこう、ウィキペディアはそういう立場を取るのだ、と。

要出典タグを貼るというのは、そういう方向に向かう上で、信頼性を増すために必要だから貼るのだし、現在のウィキペディア日本語版の記事の状況からは、必要な作業だと思うのですけれど、同時に、今無闇にやってしまうと、みっちさんの言うとおりコミュニティは疲弊してしまうでしょう。せめて、どこに貼るのが効果的に、検証可能性を満たす必要性を、執筆者に実感してもらえるかということを考えたり、方針の意図することを、その人なりに理解して、説得力あるかたちで説明したりしてほしいとも思います。その一方で、執筆者の方々は、検証可能性の方針を読んで、できるだけ方針に沿うようになっていってほしいし、そのためには、誰かが、要出典を貼って、説得して回るというような作業をしなければならない。ある程度記事数が増えて、今度は質の向上へと向かう中で、出典というものが注目されるようになったのは、ここ一年位かなという印象なので、まだまだ明確な解決策は見つかっていないというようなところかなあ、と思いますです。当面は、少しずつでも、細かめに出典を付した記事を書こうという意識が、主に執筆を中心に活動している人のなかに芽生えてくることを期待。--Ks aka 98 2008年3月1日 (土) 12:05 (UTC)[返信]

名前が出たんで、私も少し書きます。編集歴が短い割に偉そうなことをイロイロ書いて皆様に付き合っていただき、感謝しておりますという社交辞令も少し書いておいて。
まー検証可能性というのは、誰でも簡単にできる方が良いだろうし、将来に渡って保証されている方が良いに決まっている訳です。んで、百科事典的には一次資料を出典にするよりは二次資料を出典にするほうが良い。しかしそーゆー一般論と、今現在での個々の記事でどこまでそれを追求するのかとゆーのは話を切り分けないといかんなぁ、というのが私の意見であります。
ここんとこ、検証可能性をめぐる議論に関わってよーく分ったんですけど、一般論を盾にとって削除を迫る割にはその記事を具体的にどう作り上げていくのかまったく関わろうとしない編集者ってのが、チラホラいらっしゃる。そしてそれは「たったひとり」じゃ無いような気がするのですが、彼らは「私達は削除することで記事の品質向上に貢献している」と主張するわけです。その気持も判らなくも無いけど、記事の内容も理解せずにそーゆーことをやると無駄な軋轢が増えるだけなんで、そーゆー参加は推奨しない方が良いと思うし、そういう文言がガイドラインに入ると良いんだけどな、と思ったりする今日この頃であります。
サブカル系は、批評史自体が短く、二次資料が少ないんで他の分野と出典要求レベルが異なるのは致し方ないんですが、検証可能性を満たした出典を固めて書こうと思えば書ける項目が無いわけじゃありません。出来はともかくとしてセカイ系なんてのはそのように出典で固めて書き直されたので、本格的な編集合戦も起きなくなった事例です。(Mixiの某所などでは陰口を叩かれているらしいけど。)でも、だからといってサブカル系の記事すべてに同水準の出典要求して、しかもその要求者が削除要求以外にその記事に関わろうとしないなら、単にコミュニティを疲弊させるだけの存在にしかならんのじゃないか。正直言えば「あらすじ」と「キャラクター紹介」しか書けない(そしてそれが百科事典執筆だと思っている無知な)サブカル系の執筆・編集者たちを見てると、まとめてポイポイしてしまいたくもなるのではありますが、芸のない出典要求一本槍で事態が改善するとも思えないのであります。個々の記事項目を愛せる人が、地道に取り組んで啓蒙していくしかないのじゃないかな。--おーた 2008年3月1日 (土) 13:09 (UTC)[返信]
◆Ks aka 98 さんもおつかれさまでした。ところで、誤認があるだよ。
おれは「何でもいいからとにかく出典出せ」なんて言ったことはないし、「まあ明らかな情報なら出典いらない」と断言したこともありません。「何でもいいからテキトーに出した出典」なんか意味がないと思っていますし、「明らかな情報」についても読者それぞれの知識レベルにおいてどこまでが明らかなのかは微妙だと思っています。
おれが主張したことがあるのは、「とにかく出典を出せ」にせよ「まあとりあえずテキトーな出典を出しておく」も「あたりまえのことをあたりまえだと見逃すこと」も「自分が知らないからといって常識的記述に異議をとなえること」も、全部馬鹿であるということだけだったと思います。おれが主張したことは、それぞれのケースで是々非々を判断しろ、ということだけです。
前から言っていることだけれども、「わからないでいることは、自分にはわかっていないことを、ちゃんと認識してしゃべってほしい」と、おれは思っています。わからないなら、素人の素朴な疑問として聞いて欲しいし、それならおれはなるべくちゃんと応対しようと思っています。ただ、「わかっていないくせに敵対的なやつ」の相手をしたいとは思っていません。
もうひとつ、これも前から言っていることだけれども。「全てのことには個別具体的な判断をしなければ適切な結論に至らない」ということがあります。教条主義的にルールを解釈しようとしても、そんなもんはたいして機能しません。だから、Wikipediaのルールを表層をなぞった程度で教条主義的に解釈し、自分なりの結論をあたかもWikipediaのルールででもあるかのように考えて他者を攻撃するやつは、馬鹿だと思っています。そういうことも、無駄だからやめてほしいと考えてます。
いずれにせよなんだね。知らないことに特攻するようなひとは、Wikipediaにいてもらう必要がないと思うんですよ。「要修行」というブロック事由って、ありだと思うんですよね。もしそのブロックが人格否定だと思われたとしても、ソレはそれでしょうがないっていうか、「あんたは否定されるべき人格部分を持っているのだから、正面から受け止めやがれ」とか思ったりするんでした。
そろそろさあ。その手の問題外はさくさく追い出してまともなクォリティアップを目指すくらいの方向転換があってもいいんじゃないかなあなんて夢想する今日このごろです。--Nekosuki600 2008年3月1日 (土) 18:13 (UTC)[返信]
あ、まとめかたは雑でした。すみません。--Ks aka 98 2008年3月2日 (日) 19:15 (UTC)[返信]
おはよー。
いやいや、詫びる必要はないです。Ks aka 98 さんをだしにして教条主義者の一群(もしかするとたったひとり)をぶんなぐっておこうと思っただけですから。
現実問題なんだな、微妙なところでおれと Ks aka 98 さんとは立場が違うのだが、しかしその立場の違いは、「ルール教条主義者との立場の違い」と比べたら、誤差の範囲内というか計測限界以下というか、その程度だと思います。おれとしては教条主義者に「そのくらい隔絶した思想の世界があるのだ」ということを思い知って欲しかったりするわけだ。
1stgoes氏(だったっけ? No1goes氏だったかもしらん)やらなんとか入道氏やらには、想像を絶する高みで悩んでいるひとが幾多いるのだと認識して、ご自身に「要修行」のステッカーを貼って、少なくとも10年くらいはWikipediaから離れていただきたいです。--Nekosuki600 2008年3月2日 (日) 21:07 (UTC)[返信]
要するに、人が書いたことを消したいだけなんじゃないかと。国立国会図書館にしても、一次資料の限定利用にしても、執筆者が自分を律する課題とすることについてはなんら問題はないし、むしろ尊敬に値するといってもいいくらいです。しかし、彼(ら)からは、より有用な情報を加えて項目を充実させるとか、より信頼性の高い資料からの記述に置き換える、などという発想は見られません。自らに制約を課して記事を書くのではなく、自分の気に入らない記述を除去したい理由として安易に持ち出しているだけです。除去が信頼性を高めるというなら、ウィキペディアの最高の信頼性は、コンテンツを全部除去することでしか得られないでしょう。これは「検証可能性」方針だけでなく、プロジェクトの自己否定につながる考え方です。--みっち 2008年3月3日 (月) 09:30 (UTC)[返信]
まー、ある記事を消す便法として検証可能性を使っている人が居るのは合意。ただどういうんだろう、ある種の権力行使が楽しくなっちゃったという検証可能性原理主義者が一個人に限らずチラホラ居るような気が私にはするんだけれど。喩えが適当かどうか分らないけど、単純な原理原則を過激に拡大解釈させて暴れ回らせた紅衛兵運動とかヒットラー・ユーゲントとかを思い浮かべちゃう訳です。問題を単純化させて過激に言い募って権力行使するのは、周りは迷惑でもやってる本人達は結構楽しかったし充実してたんだと思う。
で、人の執筆した記事を深く関わろうともせず、問答無用で切って捨てて行きたがる紅衛兵な方々の歯止めって出来ないんでしょうか? 「それはゴミ撒き屋さんを利するだけだから駄目」とも言われているけれど、ガイドラインの書き様はあると思うのですよ。--おーた 2008年3月4日 (火) 13:15 (UTC)[返信]
こんばんは。色々と難しいですね。悪意にとらないというのが顔の見えない共同作業の基本原則だと思いますが。海外の公開proxyさんとかですと、やはり一瞬ためらってしまいますね。乗りかかった船なのでそのまま、他の方が書かれたものについて、出典要求が出されたもの出典補助を続けていますが、正直いたちごっごの様相もていしてきました[2][3]。過渡期なのでしょうがないのかもしれませんが、放っておくと消されてしまうというのは、なかなかしんどいですね。全ての行に出典をつけるまで終わらない気もしてきました。前回、この井戸端でご相談させて以降、ぴたりと止まっていましたので、みなさんの説得で納得いただけたのかと思っていましたが。今日になってまた大量削除が始まったので、突然どうしたのかなあと思い海外proxyさんの履歴を辿ってきましたら、どうやらKs aka 98さんの井戸端のご発言(2008年3月17日 (月) 02:34 (UTC))に力を得られたのかなと納得。しばらく削除が続きそうですが、これを機に出典をつければいいかなあとまあ、焼酎なみに前向きに行こうかなあと思いつつ。私が馬鹿正直に出典要求に応じているために、どんどんエスカレートしている悪循環で、元々の特撮分野の執筆者の方にご迷惑をかけてしまっているのかなあと悩みつつ。本当にサブカルは難しいですね。--Giftlists 2008年3月18日 (火) 11:58 (UTC)[返信]
あの発言はやみくもな削除を促すものではないので、公開プロキシならブロック、あるいは記事の半保護などもご検討ください。--Ks aka 98 2008年3月18日 (火) 16:24 (UTC)[返信]