内村良蔵
うちむら りょうぞう 内村 良蔵 | |
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生誕 |
1849年(嘉永2年) 出羽国置賜郡米沢元籠町(現・山形県米沢市) |
死没 | 1910年(明治43年)9月19日(享年63) |
墓地 | 吉祥寺(東京都文京区本駒込) |
国籍 | 日本 |
別名 | 公平、洋庵 |
職業 | 教育者、官吏 |
肩書き | 従五位勲五等 |
配偶者 | 末子(先妻・伊東昇廸娘)、歌子(後妻) |
子供 | 政子(長女・内村達次郎妻)、鹿郎(長男)、三樹(息子)、高梧(息子)、シゲ(娘・鳥居春洋妻) |
内村 良蔵(うちむら りょうぞう[1][2]、1849年(嘉永2年) - 1910年(明治43年)9月19日)は、明治時代前半期の日本の教育者、文部官僚。旧名公平(きみひら)[3][4]。東京外国語学校(東京外国語大学の前身)校長を務めた。
来歴
[編集]嘉永2年(1849年)、米沢藩医内村慶玄の嫡子として米沢元籠町に生まれる。幼名は洋庵[1]。慶応3年(1867年)6月、同藩の平田道策(東助)らとともに慶應義塾に入社したが、江戸の情勢が緊迫すると帰藩を命じられた。戊辰戦争後、米沢で渡辺洪基、樫村清徳から英学を学び、さらに明治2年(1869年)5月頃から東京麻布の藩邸で慶應義塾教員吉田賢輔の指導を受けたのち、同年中に平田とともに大学南校に入学[1][5]。明治3年(1870年)閏10月に大学少舎長、翌明治4年(1871年)4月に大学中舎長兼大得業生となり、大学南校寄宿舎の英学生徒を監督するとともに変則生徒に英学を教えた[1][3]。
同年7月に大学が廃され文部省が置かれると9月に文部省九等出仕となった[6]。また岩倉使節団理事官として欧米に派遣される文部大丞田中不二麿の随行を命じられ、11月に横浜を出港[7]。英国の学事調査を担当し[8]、明治6年(1873年)に帰国した[1]。
帰国後は同年中に文部省七等出仕まで進み、翌明治7年(1874年)6月に文部省六等出仕、明治9年(1876年)2月に文部少丞となった[9]。この間、外務省から明治6年5月に移管された外国語学所の学長を経て同年10月に本省の学校課長となり、11月からは会計課長を務めた[10]。また、明治7年10月から11月まで宮城外国語学校長心得を、明治9年4月から12月まで東京博物館長事務取扱を、12月から翌年1月まで同館御用掛を、同1月から2月まで教育博物館御用掛を兼務している[11]。明治10年(1877年)1月、東京外国語学校長に転じ[9]、明治18年(1885年)9月に東京外国語学校が東京商業学校に併合されると文部権大書記官に就任[12]。本省学務二局勤務となり東京商業学校御用掛を兼務したが、同年12月に非職となった[13]。
退官後は本郷で金貸しを経営。晩年は駒込に広大な邸宅を構え、那須・葉山などに別荘を所有したという。明治43年(1910年)9月19日、病により享年63で死去。墓所は東京都文京区本駒込の吉祥寺にある[1]。
親族
[編集]- 祖父:良英(1804 -)[1][14]
- 先妻:末子 - 米沢藩医伊東昇廸の娘で、平田東助の実妹。良蔵と離婚ののち伊東猪之吉と再婚[1][17]。
- 後妻:歌子[1]
著作
[編集]- 「贓贖金ヲ以学資ニ充ツル儀内村八等出仕献白書上申」(国立公文書館所蔵 「公文録・明治六年・第五十七巻」)
- 「東京外国語学校年報」(『文部省第五年報附録 第一』)
- 「東京外国語学校年報」(『文部省第六年報附録』)
- 「東京外国語学校年報」(『文部省第七年報附録』)
- 「東京外国語学校第八年報」(『文部省第八年報附録』)
- 「東京外国語学校年報」(『文部省第九年報附録』)
- 「東京外国語学校第十年報」(『文部省第十年報附録』)
- 「東京外国語学校第拾一年報」(『文部省第十一年報附録』)
- 「東京外国語学校第十二年報」(『文部省第十二年報附録』)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j 『続 米沢人国記』。
- ^ 『新版 山形県大百科事典』。『新訂増補 海を越えた日本人名事典』。『幕末維新大人名事典 上巻』。
- ^ a b 「大學南校一覧/明治文化研究会発行」、hdl:20.500.12000/37800。
- ^ The Japanese in America. University Pub. Co., 1872. p. 9.
- ^ 松野良寅著 『東北の長崎 : 米沢洋学の系譜』 松野良寅、1988年11月、72-74頁、201-208頁。松野良寅編著 『興譲館世紀』 山形県立米沢興譲館高等学校創立百年記念事業実行委員会、1986年9月、184-188頁。
- ^ 倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、275頁。
- ^ 前掲 『学制の研究』 369頁。小林哲也 「『理事功程』研究ノート」(『京都大学教育学部紀要』第20号、1974年3月、NAID 40000743240)85頁。
- ^ 前掲 「『理事功程』研究ノート」 84頁。
- ^ a b 「官吏進退・明治二十一年官吏進退二十三」。
- ^ 野中正孝編著 『東京外国語学校史』 不二出版、2008年11月、ISBN 9784835057675、9-10頁。東京大学文書館所蔵 「文部省往復及同省直轄学校往復 明治六年分四冊ノ内丁号」 660丁表、231丁表、243丁表。西村正守 「東京書籍館の人々」(『図書館学会年報』第20巻第1号、日本図書館学会、1974年7月、NAID 40002718949)、49頁。
- ^ 「宮城英語学校年報」(『文部省第二年報附録』)。『東巡録』巻之六、21頁。「東京博物館年報」(『文部省第四年報附録 第一』)。「教育博物館年報」(『文部省第五年報附録 第一』)。
- ^ 「旧東京外国語学校及同校所属高等商業学校記事要畧」(『文部省第十三年報附録』)。『官報』第671号、1885年9月24日、303頁。
- ^ 『官報』第672号、1885年9月25日、320頁。同誌第671号、1885年9月24日、304頁。同誌号外、1885年12月29日、3頁。
- ^ a b c d e f 『明治の曙』。
- ^ 松野良寅 「内村達次郎」(山形放送編 『新版 山形県大百科事典』 山形放送、1993年10月)。
- ^ a b 「内村達次郎」(内尾直二編輯 『第十二版 人事興信録 上』 人事興信所、1939年10月)。
- ^ 加藤房蔵編纂 『伯爵平田東助伝』 平田伯伝記編纂事務所、1927年6月、490頁。
- ^ a b 『明治過去帳』。
- ^ 「鳥居春洋」(内尾直二編輯 『第六版 人事興信録』 人事興信所、1921年6月)。「鳥居武雄」「鳥居文雄」(内尾直二編輯 『第十四版 人事興信録 下』 人事興信所、1943年10月)。「鳥居武雄」(武内甲子雄編 『第廿二版 人事興信録 下』 人事興信所、1964年3月)。
参考文献
[編集]- 「非職元統計院大書記官従五位杉享二外十一名特旨ヲ以テ陞叙ノ件」(国立公文書館所蔵 「官吏進退・明治二十一年官吏進退二十三」)
- 「内村良蔵」(大植四郎編 『国民過去帳 明治之巻』 尚古房、1935年12月)
- 大植四郎編 『明治過去帳』 東京美術、1971年11月
- 松野良寅 「内村良蔵」(米沢市史編さん委員会編 『米沢市史編集資料 第12号 続 米沢人国記』 米沢市史編さん委員会、1983年9月)
- 「未完の逸材・内村良蔵」(松野良寅著 『明治の曙 : 一隅を照らす人々』 遠藤書店、1985年5月)
- 松野良寅 「内村良蔵」(山形放送編 『新版 山形県大百科事典』 山形放送、1993年10月)
- 楠家重敏、富田仁 「内村良蔵」(富田仁編 『新訂増補 海を越えた日本人名事典』 日外アソシエーツ、2005年7月、ISBN 4816919333)
- 安岡昭男 「内村良蔵」(安岡昭男編 『幕末維新大人名事典 上巻』 新人物往来社、2010年5月、ISBN 9784404037640)
公職 | ||
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先代 校長 伴正順 |
宮城外国語学校長心得 1874年 |
次代 校長 下斗米精三 |