置賜郡
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置賜郡(おきたまぐん、おきたまのこおり)は、山形県(出羽国・羽前国)にあった郡。中世から近世には長井郡ともいった。
郡域
[編集]郡域は下記の区域にあたるが、行政区画として画定されたものではない。
歴史
[編集]文献初出は『日本書紀』の持統天皇3年1月3日(669年2月8日)で、陸奥国優𡺸雲郡[1]の城養蝦夷の脂利古の息子2人が出家を願い出て許されたという記事にある。この当時は評制なので、正しくは優𡺸雲評であろうが、この優𡺸雲(うきたみ、うきたま[2])が置賜の前身とされる。城養蝦夷とは、城柵から食糧を給付されていた蝦夷なので、この頃の置賜評に名称不明の城柵があったこと、蝦夷が居住していたことも推定できる。
和銅5年10月1日(712年11月4日)に、最上郡とともに新設の出羽国の下に移された[3]。『続日本紀』にはこの後の霊亀2年9月23日(716年10月12日)条にも陸奥国置賜最上2郡を出羽国に隷(つ)けるという記事があって矛盾するが、霊亀2年のほうが何らかの誤りとみられている[4]。
平安末期は奥州藤原氏の支配下に入った。その滅亡後、大江広元が支配し、広元の子の長井時広が継承。置賜郡北西の長井荘(現長井市)から、以後長井氏を名乗る。後に長井氏が東南の米沢を拠点としたことから、置賜郡全体が長井荘とも言われるようになる[5]。近世には長井郡とも呼ばれるようになった[6][7]。
近世までの沿革
[編集]- 持統天皇3年1月3日(669年2月8日) - 日本書紀に陸奥国優𡺸雲(うきたむ)郡[1]として記されている。
- 和銅5年10月1日(712年11月4日) - 管轄国が陸奥国から出羽国に変更。
- 康暦2年(1380年) - 長井氏は8代広房の時、伊達宗遠に追われ、置賜郡は伊達領となる。
- 天正19年(1591年) - 豊臣秀吉の奥州仕置により伊達政宗は国替えを命ぜられ、岩出山城に遷り、代わって蒲生氏郷が会津に配置され、置賜郡は蒲生領となる。
- 慶長3年(1598年) - 蒲生氏は宇都宮に移され減封。代わって越後の上杉景勝が会津に入り、置賜郡はその家臣である直江兼続が統治する。
- 慶長5年(1600年) - 関ヶ原の戦いで東軍が勝利したため、西軍であった上杉景勝は徳川家康に降り、翌年(1601年)、会津地方が没収され、上杉景勝の領地は置賜郡・信夫郡・伊達郡のみとなった。以後、置賜郡は上杉氏のもと、米沢藩として機能する。財政難のため一時は領地を返上することまで検討されたが、第9代藩主上杉治憲(鷹山)による改革によって藩政を建て直し、幕末まで存続した。
近代以降の沿革
[編集]- 所属町村の変遷は南置賜郡#郡発足までの沿革、東置賜郡#郡発足までの沿革、西置賜郡#郡発足までの沿革をそれぞれ参照
- 「旧高旧領取調帳」の記載によると、幕末時点では出羽国に所属し、米沢藩領であった。米沢は便宜的に1町として数える。(1町292村)
- 明治元年12月7日(1869年1月19日) - 出羽国が分割され、本郡は羽前国の所属となる。
- 明治4年
- 明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により山形県の管轄となる。
- 明治11年(1878年)11月1日 - 郡区町村編制法の山形県での施行により、置賜郡のうち米沢ほか1町63村に南置賜郡が、高畠村ほか111村に東置賜郡が、宮村ほか116村に西置賜郡が、それぞれ行政区画として発足。同日置賜郡消滅。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典』 6 山形県、角川書店、1981年12月1日。ISBN 4040010604。
- 旧高旧領取調帳データベース
- 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋『日本書紀5』(岩波文庫、岩波書店、1995年、ISBN 4-00-300045-5)
- 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守、校注・訳『日本書紀3(新編日本古典文学全集4)』(小学館、1998年、ISBN 4-09-658004-X)
- 高橋崇『律令国家東北史の研究』(吉川弘文館、1991年、ISBN 4-642-02245-7)
- 『長井史 第一巻(原始・古代・中世編)』(長井市、印刷の芳文社、1984年)
関連項目
[編集]先代 ----- |
行政区の変遷 - 1878年 |
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