野村万蔵 (6世)
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(六世野村万蔵から転送)
六世野村 万蔵(のむら まんぞう、1898年(明治31年)7月22日 - 1978年(昭和53年)5月6日)は、狂言方能楽師、日本芸術院会員・各個認定の重要無形文化財保持者(人間国宝)。本名・野村 万作。
のむら まんぞう 野村 万蔵 (六世) | |
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本名 | 野村 万作(のむら まんさく) |
生年月日 | 1898年7月22日 |
没年月日 | 1978年5月6日(79歳没) |
出身地 | 東京府(現在の東京都) |
職業 | 狂言方和泉流能楽師 |
活動期間 | 1903年 - 1978年 |
活動内容 | 舞台 |
配偶者 | 野村梅子 |
著名な家族 |
長男:野村萬(七世野村万蔵) 次男:二世野村万作 四男:野村四郎 五男:野村万之介 孫:八世野村万蔵(五世野村万之丞) 孫:九世野村万蔵 孫:二世野村萬斎 曾孫:野村太一郎 曾孫:六世野村万之丞 曾孫:野村拳之介 曾孫:野村眞之介 |
人物
[編集]東京出身。五世野村万造の長男。九世三宅藤九郎は弟。子供に七世野村万蔵(野村萬)、野村万作、野村四郎(能役者)、野村万之介。
孫に八世野村万蔵、九世野村万蔵、二世野村万禄、二世野村萬斎、野村昌司。
曾孫に野村太一郎、六世野村万之丞、野村拳之介、野村眞之介(いずれも長男・萬の孫)がいる。
戦後の「第一次狂言ブーム」において、長男の四世万之丞(現在の初世・萬)などの活動と共にクローズアップされる。芸風は型に忠実なものでありながら、老年にいたって型にとらわれない飄逸さ・写実性を加え、名人として高い評価を受けた。また狂言面など古面を蒐集する一方で能面打ちとしても知られ、自作の能面や狂言面を多数残した。白洲正子とも交友があった。
来歴
[編集]- 1903年:本名である「万作」を名乗り初舞台。
- 1911年:「三番叟」を披く。
- 1913年:東京市下谷区実業補習学校卒業。
- 1918年:大正天皇・皇后行幸行啓能で「釣狐」を披く。
- 1920年:「よいや会」を創立。
- 1923年:六世野村万造を襲名、「花子」を披く。
- 1930年:長男の太良(たろう)が誕生。
- 1934年:長男の太良が初舞台を踏む。
- 1940年:万蔵と改名。
- 1948年:日本能楽協会理事。
- 1952年:「よろづ会」を創設。
- 1958年:芸術選奨文部大臣賞受賞。
- 1959年:太良の長男・耕介(こうすけ)が誕生。なお、耕介は六世万蔵の初孫である。
- 1962年:広瀬能楽賞受賞。
- 1963年:文部省芸術祭賞受賞、米国ワシントン大学[要曖昧さ回避]東洋研究所客員教授。同年、初孫の耕介が初舞台を踏む。
- 1964年:米国公演。
- 1965年:「野村狂言の会」を創立、ヴェネツィア・ビエンナーレに参加、ベルリン公演。同年、太良の次男・良介(りょうすけ)が誕生。
- 1968年:重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定(各個認定)、勲四等旭日小綬章受章、米国公演。
- 1969年:文化庁芸術祭奨励賞受賞。
- 1970年:日本芸術院賞受賞[1]。同年、孫の良介が初舞台を踏む。
- 1971年:宮中において「棒しばり」を務める。
- 1972年:文化庁芸術祭大賞受賞。
- 1974年:日本芸術院会員。
- 1978年:死去。後に正五位勲三等瑞宝章受章。
家族
[編集]太字は万蔵家嫡流を表す。
万蔵家
[編集]- 父:五世野村万造(隠居名:初世野村萬斎)(1863年-1938年)。
- 長男:七世野村万蔵(隠居名:野村萬)。本名・野村
太良 。(1930年- )。
庶家
[編集]- 次男:二世野村万作。本名・野村
二朗 。(1931年- )。 - 四男:野村四郎(野村幻雪)。(1936年-2021年)。
- 孫:野村昌司。(1970年- )。四郎の長男。
- 五男:野村万之介。(1939年-2010年)。
著書
[編集]- 狂言の道(わんや書店、1955年) - 復刊:「人間の記録」118巻(日本図書センター、1999年)
- 狂言面(わんや書店、1956年)
- 夏に技冬に声 - 随筆集(新潮社、1974年)
- 狂言芸話(わんや書店、1981年)
- 野村万蔵著作集(五月書房、1982年)
出演
[編集]CM
[編集]- 名物かまど(岡山香川ローカル、1970年代)
脚注
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