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信濃鉄道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
信濃鉄道
種類 株式会社
本社所在地 日本の旗 日本
長野県松本市大字白板75[1]
設立 1912年(明治45年)3月30日[1]
業種 鉄軌道業
事業内容 旅客鉄道事業、電力供給、砂利、石材採取販売[1]
代表者 社長 今井五介[1]
資本金 1,560,000円(払込額)[1]
特記事項:上記データは1937年(昭和12年)4月1日現在[1]
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信濃鉄道(しなのてつどう)は、かつて長野県松本市松本駅から大町市信濃大町駅を結ぶ鉄道路線、および同線を所有していた鉄道会社である。該当路線は現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)大糸線の南部にあたる。

概要

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1902年明治35年)篠ノ井線が開通し、その4年後の1906年(明治39年)には中央線も開通した。これにより、松本地方諏訪甲府を経て関東方面に、また木曽名古屋を経由して関西方面に直結することとなった。

ところで、次に起こる問題は、北越糸魚川に通ずる鉄道の敷設であった。そのころ政府は幹線鉄道国有の方針を定めた。私設鉄道については1910年(明治43年)軽便鉄道法、翌年には軽便鉄道補助法を公布して、その建設を奨励した。これに促されて糸魚川鉄道敷設の機運が高まった。松本地方の有志と在京有力者とが相呼応して運動を開始した。

当初の計画では、有明から高瀬川の東岸に出て、池田を経由し大町に達するはずであった。しかし実地測量の結果「人家が少ないこと、地上物件が多いこと、田畑の買収費がかかること、土地が狭いこと、山岳縦断で難工事になること」などの理由により、予定を変更し松川・常盤を経て高瀬川を渡り大町に至ることになった。その結果、取り残された池田は別途池田鉄道を建設することとなる。

そして1912年11月に工事施工の認可になったが、この年に社長であり工事請負人であった才賀藤吉の才賀電機商会が経営不振により営業を停止。これに対し地元資本の片倉製糸工場の今井五介[2]を社長に就任させ片倉製糸直営で工事をすすめた。最初の区間が開通したのは1915年1月であった。

信濃鉄道の経営は順調に伸び、第一次世界大戦の影響で経済界も好景気になり、旅客数、貨物量共に増加し、1926年大正15年)には収入が3倍から4倍になった。その間、会社の経営も多様化し、1918年(大正7年)にバス経営、文化事業などにも力を入れた。増加する乗客の輸送対策として1924年(大正13年)10月の株主総会では全線電化を決定し、安曇電気株式会社の電力供給を得て、穂高に変電所を建設した。1926年1月8日から電化営業に切り替えて、電車運転を始め、時間の短縮、回転数の増加、輸送力も改善された。

大正期の信濃鉄道は、経営も順調に進展し、地域住民に欠かせない交通機関となって経済生活を支え、沿線市町村の生活環境を大きく変革させた。

昭和に入ると経済恐慌の影響を受けて、利用者が減少し始め、それに加えて沿線に乗合バスが走り競業化が進んだことなどの原因により、収益が伸びず、経営が停滞した。

政府は、中部日本の横断線として、軍用や経済の上で中央線と北陸本線と連絡できる大町-糸魚川への路線延長事業を重視し、1927年(昭和2年)11月、大町と糸魚川の両方面から工事を進めていた。1935年(昭和10年)11月、信濃大町-中土間が段階的に開通した。こうして敷設した国有鉄道は鉄道省が設けられて以来、その管理下になったので、省線と呼ばれていた。

このころ、信濃鉄道買収問題が国会で議題となり、買収方針が決まったので、政府は会社側と話し合いを重ねた。会社側では、臨時株主総会を開催し、時局の体制や今後の経営を考えて買収に応じる意向を決めたので1937年(昭和12年)6月1日、松本-信濃大町間35.1kmは、国有鉄道に移管され、政府で敷設した信濃大町-中土間と合わせて大糸南線となった[3][4]

歴史

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会社の動向と、路線開業について記す。駅の改廃等については、大糸線#信濃鉄道を参照。

  • 1910年明治43年)12月11日 - 信濃鉄道免許申請書提出。
  • 1911年(明治44年)4月5日軽便鉄道免許状下付(松本-大町間)[5]
  • 1912年(明治45年)3月31日 - 創立総会開催。信濃鉄道株式会社設立[6][7]
    • 4月4日 - 工事施工の認可申請を提出。
  • 1912年(大正元年)12月30日 - 本社事務所を松本市仲町に移転。
  • 1913年(大正2年)4月22日 - 松本白板の本社駅起点で地鎮祭と起工式を施行。
  • 1914年(大正3年)12月31日 - 梓川1000尺の鉄橋が完成。
  • 1915年(大正4年)1月4日 - 松本 - 豊科間の開通式挙行。
    • 1月6日 - 松本市(現:北松本) - 豊科間(6.7M≒10.78km)の営業開始[8]
    • 4月5日 - 南松本(現:松本) - 北松本間(0.4M≒0.64km)開業[9]
    • 6月1日 - 豊科 - 柏矢町間(1.7M≒2.74km)開業[10]
    • 7月15日 - 柏矢町 - 穂高間(1.2M≒1.93km)開業[11]
    • 8月8日 - 穂高 - 有明間(1.4M≒2.25km)開業[12]
    • 9月29日 - 有明 - 池田松川(現:信濃松川)間(4.7M≒7.56km)開業[13]
    • 11月2日 - 池田松川 - 信濃大町(後の仏崎)間(4.6M≒7.40km)開業[14]
  • 1916年(大正5年)7月5日 - 高瀬川700尺の鉄橋が完成。仏崎 - 信濃大町間(1.1M≒1.77km)開業、全線開通[15]
    • 9月18日 - 松本 - 北松本間の旅客営業を開始[16]
  • 1925年(大正14年)12月 - 松本 - 信濃大町間、電化工事完成。
電化工事の際に設置された、架空電車線を吊り下げるための三角柱
俗に「チャンネルポール」と呼ばれる
  • 1926年(大正15年)1月8日 - 全線で電車(同社では電動客車と称した)の運転開始。
  • 1930年昭和5年)4月1日 - 営業距離をマイル表記からメートル表記に変更(21.8M→35.1km)。
  • 1937年(昭和12年)6月1日 - 国有化され、鉄道省大糸南線に編入。信濃鉄道解散。

路線

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路線データ

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国有化直前時点

  • 区間(営業キロ):松本駅 - 信濃大町駅間 35.1km
  • 軌間:1067mm
  • 駅数:21駅(起終点駅含む)
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:全線(直流1500V電化)
    • 穂高変電所、水銀整流器(交流側550V直流側750V)直流側の出力250kW、常用2予備3、製造所SS[17]
  • 閉塞方式:不詳

駅一覧

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※国有化直前時点。括弧付きは国営化時点で廃止となっていた駅

松本駅 - (北松本臨時貨物積卸場) - 北松本駅 - 青島停留場 - 島内駅 - 島高松停留場 - 梓橋駅 - 一日市場駅 - 中萱停留場 - 南豊科停留場 - 豊科駅 - 柏矢町駅 - 穂高駅 - 有明駅 - 安曇追分駅 - 細野停留場 - おかめ前停留場 - 池田松川駅 - 常盤沓掛停留場 - 常盤停留場 - (仏崎駅)- 昭和停留場 - 信濃大町駅

輸送・収支実績

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年度 輸送人員(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 営業益金(円) その他益金(円) その他損金(円) 支払利子(円) 政府補助金(円)
1914 55,202 254 4,864 4,742 122
1915 400,884 10,850 49,684 41,708 7,976 31,907 18,566
1916 630,312 27,803 101,430 61,197 40,233 42,314 14,037
1917 666,015 40,965 130,284 85,615 44,669 21,582 6,460
1918 749,021 54,223 171,791 138,070 33,721 自動車12,077 土地家屋欠損金402自動車減価償却金4,000 20,450 8,859
1919 903,717 72,992 238,774 189,674 49,100 土地家屋自動車営業益金7,702 15,079
1920 841,694 76,040 324,456 222,365 102,091 土地家屋賃貸業損金2,347雑損及自動車減価償却金5,064 24,611
1921 842,513 86,080 341,379 200,316 141,063
1922 893,511 90,845 348,065 220,995 127,070
1923 954,721 103,503 389,519 233,002 156,517 雑損金1,781 20,882
1924 943,594 103,941 382,857 220,196 162,661 雑損金1,488 17,628
1925 1,045,398 87,452 349,794 223,410 126,384 雑損1,718 17,581
1926 1,268,729 78,464 400,103 209,930 190,173 雑損1,543 89,326
1927 1,272,648 81,199 365,679 222,371 143,308 雑損127 107,586
1928 1,396,780 94,162 396,315 208,757 187,558 109,666
1929 1,431,113 138,617 447,710 236,899 210,811 114,001
1930 1,091,779 74,780 313,906 199,724 114,182 砂利採取業38 86,117
1931 1,075,988 58,741 256,218 172,007 84,211 砂利業118 90,257
1932 922,506 66,011 221,004 155,274 65,730 砂利採取業326 92,864
1933 1,048,837 61,700 244,877 164,592 80,285 砂利採取業394 93,638
1934 1,067,518 98,764 313,221 178,244 134,977 砂利業その他112 償却金20,000 81,534
1935 1,150,011 118,225 332,143 187,482 144,661 砂利業277 償却金59,000 74,585
1936 1,253,716 135,491 353,685 198,501 155,184 砂利業3,523償却金50,000 65,128
1937 499,869 35,064 91,801 70,454 21,347 砂利業35定期払戻金12,570 10,528
  • 鉄道院年報、鉄道院鉄道統計資料、鉄道省鉄道統計資料、鉄道統計資料、鉄道統計各年度版

車両

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1937年に買収された車両は、蒸気機関車3両(10 - 12)、電気機関車3両、電車10両、貨車48両であった[18]

脚注

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  1. ^ a b c d e f 『地方鉄道及軌道一覧. 昭和12年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  2. ^ 製糸業で財を成した片倉組(後に片倉財閥となる)の長である片倉兼太郎の実弟 肖像写真及び略歴は近代日本人の肖像 を参照(国立国会図書館)
  3. ^ 『豊科町誌 近現代編』、豊科町誌刊行会(1997)、P484-P490
  4. ^ 『穂高町誌 歴史編下』、穂高町誌刊行会(1991)、P703-P708
  5. ^ 「軽便鉄道免許状下付」『官報』1911年4月7日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  6. ^ 『日本全国諸会社役員録。 第21回』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  7. ^ 『地方鉄道及軌道一覧 : 昭和10年4月1日現在』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  8. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年1月12日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 「軽便鉄道停車場名称変更並運輸開始」『官報』1915年4月9日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  10. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年6月4日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  11. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年7月23日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  12. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年8月13日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  13. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年10月2日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  14. ^ 「軽便鉄道運輸開始」『官報』1915年11月6日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  15. ^ 「軽便鉄道運輸開始並停車場改称」『官報』1916年7月8日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  16. ^ 「軽便鉄道旅客運輸開始並停車場名改称」『官報』1916年9月29日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  17. ^ 『電気事業要覧. 第19回 昭和3年3月』(国立国会図書館デジタルコレクション)
  18. ^ 『鉄道統計。 昭和12年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)

関連項目

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外部リンク

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