コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

田村通顕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊達庸村から転送)
 
田村通顕/伊達茂村
田村通顕像(仙台市博物館蔵)
時代 江戸時代後期
生誕 嘉永3年6月8日1850年7月16日
死没 慶応3年6月16日1867年7月17日
改名 磐二郎(幼名)、田村通顕、伊達庸村、茂村
別名 総二郎、藤次郎(通称
墓所 宮城県仙台市太白区大年寺
官位 従四位下侍従美作守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家定家茂
陸奥一関藩主→陸奥仙台藩世嗣
氏族 田村氏伊達氏
父母 父:田村邦行、母:岡田氏の娘・米
養父:伊達慶邦
養子:邦栄
テンプレートを表示

田村 通顕(たむら ゆきあき)は、江戸時代後期の大名陸奥国一関藩の第9代藩主。のち陸奥仙台藩の世嗣。官位従四位下侍従美作守

生涯

[編集]

嘉永3年(1850年)6月8日、第8代藩主・田村邦行の長男として一関館にて誕生した。幼名は磐二郎

安政4年(1857年)5月12日、父・邦行の死去に伴い田村家の家督を相続する。万延元年(1860年)に分家の旗本田村顕彰に追加の内分分知を与えて同家の家禄を2000俵にする。

文久3年(1863年)、跡取りのいなかった宗家・陸奥仙台藩伊達慶邦の養嗣子として迎えられることになり、急遽、一関藩主田村家の家督を譲る養子を迎える必要に迫られた。初め一門亘理伊達家当主・伊達邦成を迎えようとしたが、亘理の家老・常盤顕允らの猛反発に遭って断念し、代わりに同じく一門の角田石川家から石川義光の七男・啓之進を迎えた。これが10代藩主・栄顕(邦栄)である。

こうして10月9日、通顕は慶邦の養子となり、伊達庸村(つねむら)と名乗り(慶邦の初名・寿村から「村」の一字を与えられた)、同年12月19日、14代将軍・徳川家茂御目見し、偏諱を受けて茂村(もちむら)に改名した。従四位下・侍従・美作守に叙任されたが、茂村は慶邦に先立って慶応3年(1867年)6月16日、江戸の浜屋敷にて死去した。享年18。

系譜

[編集]

父母

養子

参考文献

[編集]
  • 『一関市史』第一巻(岩手県一関市、1978年)