中島永元
中島 永元 なかじま ながもと | |
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生年月日 | 1844年8月29日(弘化元年7月16日) |
出生地 | 肥前国佐賀郡佐賀城下鬼丸小路(現・佐賀県佐賀市) |
没年月日 | 1922年11月10日(78歳没) |
死没地 | 東京府豊多摩郡渋谷町下渋谷(現・東京都渋谷区) |
所属政党 | 茶話会、 同成会 |
称号 | 従三位勲二等 |
配偶者 | シツ |
子女 | ツナ(養女・糸山孝吉妻)、トク(次女・井上虎妻)、タネ(庶子)、正次(継嗣)、元平(三男) |
親族 | アイ(妹・鍋島克一妻)、トミ(妹・高水間衛七妻)、ふみ(妹・原田鎮治妻)、スヱ(妹・笹岡雅徳妻)、寅吉(弟) |
選挙区 | (勅選議員) |
在任期間 | 1891年12月22日 - 1922年11月10日 |
在任期間 | 1888年6月7日 - 1890年10月20日 |
中島 永元(なかじま ながもと[1] / のりもと[2] / えいげん[3]、1844年8月29日(弘化元年7月16日) - 1922年(大正11年)11月10日)は、明治時代の日本の文部官僚。旧佐賀藩士。明治初年までの名は秀五郎[4]。
辻新次とともに一貫して明治前期の中央教育行政にたずさわり、明治中期以降は大学分校、第三高等中学校(いずれも京都大学の前身の1つ)の校長、元老院議官、貴族院議員を歴任した。
来歴
[編集]弘化元7月16日(1844年8月29日)[5]、佐賀藩士中島永遠の長男として佐賀鬼丸小路に生まれる[6][7]。藩校弘道館、次いで蘭学寮に学んだのち、慶応元年(1865年)に副島次郎(種臣)、大隈八太郎(重信)らと長崎に遊学。幕府直轄洋学校済美館で蘭学を研究するかたわら、宣教師グイド・フルベッキから英語を学んだ[6][8]。慶応3年(1867年)には佐賀藩が長崎に新設した蕃学稽古所(のちの致遠館)の教官に抜擢されたが[9]、戊辰戦争が起こると職を棄てて江戸に向かい、国事に奔走した[6][8]。
明治2年(1869年)7月、官制改革により新政府のもとに大学校(同年12月に大学と改称)が置かれると、翌8月に大学中助教兼中寮長を命じられ、ほどなく大寮長を兼任。翌年6月には大学出仕(のち大学権少丞)となり、大阪洋学所(同年10月に大阪開成所と改称)の事務取扱を命じられた。明治4年(1871年)7月、文部省新設にともない文部権少丞に更任され大阪から帰京。翌8月に文部省七等出仕となり、南校の事務を担当した[4][10][11]。また同年10月、岩倉使節団理事官として欧米に派遣される文部大丞田中不二麿の随行を命じられ、翌11月に横浜を出港[10][12]。米国滞在ののち英国の教育調査を担当し[13]、明治6年(1873年)3月に帰国した[10]。
帰国後は同年中に文部省五等出仕まで進み、文部権大丞、文部権大書記官を経て明治14年(1881年)6月に文部大書記官に就任。明治18年(1885年)12月まで本省に勤務した。省内では明治6年11月から学務課長、報告課長、報告課副長、報告局長を、明治13年(1880年)12月から内記所長、内記局長、会計局長を歴任し、明治18年2月に再び報告局長となった[10]。明治18年12月、大阪に新設されて間もない大学分校の校長に転じ、翌年4月には中学校令制定による大学分校の改組にともない第三高等中学校長に更任[10][14]。12月に第三高等中学校の京都移転が決まると移転準備に着手したが、明治20年(1887年)4月に元大学分校長の文部省参事官折田彦市が兼任校長として復帰[15]。中島は文部書記官となって本省に戻り、記録課長ならびに折田がそれまで担当していた欧州出張中の浜尾新学務局長代理を務めたのち、同年10月に文部省参事官となった[10][16]。
その後、明治21年(1888年)6月に元老院議官に転出[10]。明治23年(1890年)10月の元老院廃止と同時に錦鶏間祗候となり、さらに翌明治24年(1891年)12月、貴族院議員に勅選された[6]。大正11年(1922年)11月10日、議員在職のまま東京下渋谷の自邸で死去。享年79[7][17]。関係資料として写真史料約600点と辞令・書簡・手帳・日誌などの文書史料約500点が現存しており、平成26年(2014年)12月に長崎歴史文化博物館がこれらを買い取っている[18]。
親族
[編集]- 父:永遠(- 1896) - 佐賀藩士[6][19]。
- 母:ミト(1836 -) - 佐賀県士族池田次左衛門四女[20]。
- 妻:シツ(1857 -) - 高崎藩士田中助之進長女。東京府平民田中篤郎の姉[6][24]。
栄典
[編集]- 位階
- 明治3年9月18日 - 正七位[10]
- 1876年(明治9年)3月22日 - 正六位[10]
- 1881年(明治14年)8月30日 - 従五位[10]
- 1886年(明治19年)11月16日 - 正五位[10][27]
- 1888年(明治21年)9月27日 - 従四位[10]
- 1894年(明治27年)5月21日 - 正四位[6]
- 1922年(大正11年)11月10日 - 従三位[28]
- 勲章等
- 1882年(明治15年)6月17日 - 勲五等双光旭日章[10]
- 1887年(明治20年)11月25日 - 勲四等旭日小綬章[10]
- 1889年(明治22年)
- 1896年(明治29年)3月29日 - 銀盃一組[30]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日中綬章[31]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[32]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[33]
- 1916年(大正5年)4月1日 - 勲二等瑞宝章[34]
- 1919年(大正8年)2月11日 - 金杯一個[35]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 金杯一個[36]
著作
[編集]- 「第七大学区第六大学区巡視功程」(『文部省第五年報附録 第一』)
- 「第五大学区長崎県下対馬五島平戸壱岐島原及熊本県下天草学事巡視功程」(『文部省第七年報附録』)
- 岩手青森両県下学事巡視功程(『文部省第十年報附録』)
- 「大学分校年報」(『文部省第十三年報附録』)
脚注
[編集]- ^ 『日本 現今人名辞典』、『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』、『新訂増補 海を越えた日本人名事典』、『明治大正人物事典 I』。
- ^ 『佐賀 幕末明治500人』、『長崎遊学者事典』、『佐賀県人名辞典』第3版。
- ^ 『新版 大日本人名辞書 下巻』、『新撰大人名辞典 4』。
- ^ a b 『第三高等中学校一覧 起明治十九年九月止明治二十年八月』 第三高等中学校、1887年11月、2頁。
- ^ 「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書」、『日本 現今人名辞典』、『肥前史談』第4巻第11号、『新撰 大人名辞典 第四巻』。『国乃礎後編 上編』は弘化元年8月29日生まれとする。
- ^ a b c d e f g 『国乃礎後編 上編』。
- ^ a b 『肥前史談』第4巻第11号。
- ^ a b 『現今 日本名家列伝』。
- ^ 岩松要輔 「英学校・致遠館」(杉本勲編 『近代西洋文明との出会い : 黎明期の西南雄藩』 思文閣出版、1989年10月、ISBN 4784205667)119頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書」。
- ^ 倉沢剛著 『学制の研究』 講談社、1973年3月、58頁、45-46頁、269-271頁。神陵史資料研究会編 『史料 神陵史 : 舎密局から三高まで』 神陵史資料研究会、1994年8月、79-80頁、121-122頁。
- ^ 前掲 『学制の研究』 369頁。小林哲也 「『理事功程』研究ノート」(『京都大学教育学部紀要』第20号、1974年3月、NAID 40000743240)85頁。
- ^ 前掲 『学制の研究』 372-375頁。森川輝紀 「田中不二麿の教育思想に関する一考察 : 欧米視察と「学制」改革への指標」(『教育学研究集録』第10集、東京教育大学大学院教育学研究科、1981年3月、NAID 40002585520)23-24頁。後藤純郎 「学監モルレー雇用の経緯(I)」(『教育学雑誌』第19号、日本大学教育学会、1985年3月、NAID 110009898916)26-27頁。前掲 「『理事功程』研究ノート」 84頁。
- ^ 前掲 『史料 神陵史』 523頁、533-534頁
- ^ 前掲 『史料 神陵史』 613-615頁。
- ^ 『官報』第1159号、1887年5月13日、121頁。同誌第1237号、1887年8月12日、121頁。
- ^ 『官報』第3086号、1922年11月13日、354頁。
- ^ 「中島永元 : 資料1100点、長崎の博物館が購入 岩倉使節団“同窓会”写真も」(『毎日新聞』 2015年2月1日、地方版・佐賀)。
- ^ 『読売新聞』第6750号、1896年5月11日、7面死亡広告。
- ^ a b c d 『第三版 人事興信録』。
- ^ 「原田鎮治」(猪野三郎編輯 『第三版 大衆人事録』 帝国秘密探偵社ほか、1930年7月)。「原田鎮治」(井関九郎監修 『大日本博士録 第五巻 工学博士之部』 発展社、1930年9月)。
- ^ 原田 鎮治(読み)ハラダ チンジコトバンク
- ^ 原田鎮治『人事興信録』9版 1931
- ^ a b c d e 『第六版 人事興信録』。
- ^ 「井上良馨」(内尾直二編輯 『第四版 人事興信録』 人事興信所、1915年1月)。「井上(子爵)」(霞会館華族家系大成編輯委員会編纂 『平成新修 旧華族家系大成 上巻』 霞会館、1996年9月、ISBN 4642036709)。
- ^ 「中島元平」(内尾直二編輯 『第十四版 人事興信録 下』 人事興信所、1943年10月)。「中島元平」(武内甲子雄編 『第三十一版 人事興信録 下』 人事興信所、1981年3月)。
- ^ 『官報』第1019号「叙任」1886年11月20日。
- ^ 『官報』第3086号、1922年11月13日、347頁。
- ^ 『官報』第1952号「叙任及辞令」1889年12月28日。
- ^ 『官報』号外、1896年4月24日、2頁。
- ^ 『官報』第7272号、1907年9月23日、461頁。
- ^ 『官報』第205号附録、1913年4月9日、3頁。
- ^ 『官報』第1311号附録、1916年12月14日、1頁。
- ^ 『官報』第1218号、1916年8月21日、453頁。
- ^ 『官報』第1982号、1919年3月14日、237頁。
- ^ 『官報』第2712号、1921年8月15日、387頁。
参考文献
[編集]- 「中島永元」(国立公文書館所蔵 「職務進退・元老院 勅奏任官履歴原書」)
- 我部政男、広瀬順晧編 『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 下巻』 柏書房、1995年6月、ISBN 4760111670
- 「正四位勲三等 貴族院議員錦鶏間祗候 中島永元」(杉本勝二郎編纂 『国乃礎後編 上編』 国乃礎編輯所、1894年12月 / 霞会館、1991年10月
- 「貴族院議員 中島永元君」(日本力行会編纂 『現今 日本名家列伝』 日本力行会出版部、1903年10月)
- 「中島永元」(日本現今人名辞典発行所著 『日本 現今人名辞典』 日本現今人名辞典発行所、1903年12月訂正第三版)
- 「中島永元」(内尾直二編輯 『第三版 人事興信録』 人事興信所、1911年4月)
- 「中島永元」(内尾直二編輯 『第六版 人事興信録』 人事興信所、1921年6月)
- 「中島永元」(大日本人名辞書刊行会著 『新版 大日本人名辞書 下巻』 大日本人名辞書刊行会、1926年6月増訂九版)
- 大日本人名辞書刊行会編 『新訂版 大日本人名辞書 第三巻』 大日本人名辞書刊行会、1937年4月増訂十一版 / 講談社、1974年8月 / 講談社〈講談社学術文庫〉、1980年8月、ISBN 4061585061
- 「中島永元」(『肥前史談』第4巻第11号(元寇六百五十年記念肥前将士列伝並に第三回先覚者小伝)、肥前史談会、1931年11月)
- 旧肥前史談会編纂 『編集復刻 佐賀県歴史人名事典』 洋学堂書店〈肥前復刻叢書〉、1993年10月
- 森谷秀亮 「中島永元」(下中弥三郎編輯 『新撰 大人名辞典 第四巻』 平凡社、1937年12月)
- 下中弥三郎編 『大人名事典 第四巻』 平凡社、1954年2月
- 下中邦彦編 『日本人名大事典 第四巻』 平凡社、1979年7月
- 「中島永元」(衆議院、参議院編 『議会制度七十年史 貴族院・参議院議員名鑑』 1960年12月)
- 衆議院、参議院編 『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』 1990年11月
- 芳賀登ほか編 『日本人物情報大系 30 憲政編10』 皓星社、2000年1月、ISBN 4774402745
- 「中島永元」(福岡博編 『佐賀 幕末明治500人』 佐賀新聞社、1998年12月第2版、ISBN 4882980649)
- 「中島永元」(平松勘治著 『長崎遊学者事典』 溪水社、1999年10月、ISBN 4874405665)
- 富田仁 「中島永元」(富田仁編 『新訂増補 海を越えた日本人名事典』 日外アソシエーツ、2005年7月、ISBN 4816919333)
- 「中島永元」(日外アソシエーツ編 『明治大正人物事典 I 政治・軍事・産業篇』 日外アソシエーツ、2011年7月、ISBN 9784816923289)
- 「中島永元」(佐賀県人名辞典編集委員会編 『佐賀県人名辞典』 佐賀県立佐賀城本丸歴史館、2019年7月第3版)
関連文献
[編集]- 松谷昇蔵 「「中島永元関係資料」における学事巡視日誌」(日本古文書学会編 『古文書研究』第82号、2016年12月、NAID 40021059444)
外部リンク
[編集]- 長崎歴史文化博物館 資料検索 - 中島永元関係資料の目録が閲覧できる。
- 帝国議会会議録検索システム - 国立国会図書館。
- 東京大学史料編纂所 古写真データベース - 中野健明氏関係史料の中島永元写真が閲覧できる。
- 中島永元 - アジ歴地名・人名・出来事事典
- 東京の中の佐賀 青山霊園 31 中島永元 - 佐賀城本丸歴史館。