新城新蔵
新城新蔵 | |
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生誕 |
1873年8月20日 福島県会津郡若松町 |
死没 |
1938年8月1日(64歳没) 中華民国、南京[1] |
研究分野 | 宇宙物理学、中国古代暦術 |
出身校 | 帝国大学理科大学物理学科 |
主な業績 | 中国科学史研究 |
影響を 与えた人物 | 荒木俊馬、上田穣 |
プロジェクト:人物伝 |
新城 新蔵(しんじょう しんぞう、1873年(明治6年)8月20日[1] - 1938年(昭和13年)8月1日)は、日本の天文学者・中国学者、理学博士、京都帝国大学第8代総長・名誉教授。専門は宇宙物理学および中国古代暦術。戦前の中国天文学研究の権威であった。
生涯
[編集]福島県会津若松の造り酒屋に六男として生まれる。若松中学校(現福島県立安積高等学校)、第二高等中学校を経て帝国大学理科大学物理学科を1895年に卒業。大学院に進学し、1897年陸軍砲工学校教授に就任。
1900年京都帝国大学理工科助教授となる。その後ドイツのゲッティンゲン大学に留学し天文学を学び、帰国後に教授となる。1918年、京大に宇宙物理学教室を設立、理学部長を経て1929年京大総長。
1935年、東方文化事業により上海に設立された上海自然科学研究所第2代所長に就任する。しかし1937年に日中戦争が始まると貴重文化財の保護のため東奔西走を重ね、1938年、その過労のために視察先の南京で急死した。
業績・人物
[編集]もともとは力学や地磁気を研究する物理学者であったが、ドイツ留学後、宇宙進化論を中心とする宇宙物理学への関心を深めた。また赴任先の京帝大では京大支那学を領導した狩野直喜・内藤虎次郎と親交が深かったこともあって中国古典に親しみ、それをきっかけに中国天文学史、および中国古代史の年代学(天文考古学)の研究に向かい、浩瀚な『東洋天文学史研究』(序文は内藤が執筆)を著すに至った。また徹底的な科学的合理主義者でもあり、著書『迷信』では暦に現れた迷信の打破を訴えた。
京大の中国科学史研究の先駆的存在であり、その研究は戦後の藪内清や山田慶児らに引き継がれる。
新城の弟子で娘婿に、保守派のイデオローグとしても活躍した天文学者の荒木俊馬がいる。著名な弟子としてはほかに上田穣がいる。
上海自然科学研究所と新城
[編集]新城は上海自然科学研究所の第2代所長として、対日感情悪化のもとで次第に困難になっていた日中共同の研究活動を維持すべく尽力した。日中研究者の交流会や市民向け講演会を開催したり、日本人の研究所員のために中国語講習会を開く一方、中国人職員に対して彼自身が日本語を教えることもあったという。こうした彼の努力により所内ではリベラルな雰囲気が保たれ、柘植秀臣・小宮義孝など左翼活動の前歴で日本国内での就職が難しくなっていた研究者が上海自然科学研究所に嘱託として採用されることもあった。
新城の死後も、熱意ある所員たちに文化財の保護事業は引き継がれ[3]、1941年に重慶の国民政府に整理報告・目録とともに引き渡された。しかし、佐藤秀三が第3代所長になってからはそのような熱意が失われ、研究所は戦時体制に組み込まれていった[4]。
著書
[編集]- 『宇宙進化論』(丸善、1916年)
- 『天文大観』(岩波書店、1919年)
- 『迷信』(興学会出版部、1925年。1939年に恒星社から新版発行)
- 『最近宇宙進化論十講』(龍谷大学出版部、1925年)
- 『天文学概観』(興学会出版部、1926年)
- 『宇宙大観』(岩波書店、1927年)
- 『東洋天文学史研究』(弘文堂、1928年)
- 『こよみと天文』(弘文堂、1928年)
- 『戦国秦漢の暦法』(東洋天文学史研究別冊、1928年)
- 『物理及ビ化学・宇宙物理学』(岩波書店・岩波講座)
出典
[編集]- ^ a b 『日本近現代人物履歴事典』274頁
- ^ 『会津会雑誌第61号』1937年
- ^ 大阪朝日新聞 1941.3.28 (昭和16)世界戦史に比なし 皇軍の文化擁護 文化施設の返還 故新城博士ら血の滲む労苦 (神戸大学附属図書館 新聞記事文庫)
- ^ 佐納康治・永野宏 (2010). “上海自然科学研究所物理学科と京都帝国大学理学部との関わり (特別寄稿)”. 京大地球物理学研究の百年: 126 .
参考文献
[編集]- 江上波夫編『東洋学の系譜』大修館書店、1992年、ISBN 9784469230871
- 秦郁彦『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年、ISBN 978-4-13-030153-4。