マント=ラ=ジョリー
Mantes-la-Jolie | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | イル・ド・フランス地域圏 |
県 (département) | イヴリーヌ県 |
郡 (arrondissement) | マント=ラ=ジョリー郡 |
小郡 (canton) | マント=ラ=ジョリー小郡 |
INSEEコード | 78361 |
郵便番号 | 78200 |
市長(任期) |
ミシェル・ヴィアレ (2008年-2014年) |
人口動態 | |
人口 |
43 309人 (2007年) |
人口密度 | 4617人/km2 |
地理 | |
座標 | 北緯48度59分27秒 東経1度43分02秒 / 北緯48.990833度 東経1.717222度座標: 北緯48度59分27秒 東経1度43分02秒 / 北緯48.990833度 東経1.717222度 |
標高 |
平均:m 最低:17 m 最高:41 m |
面積 | 9.38km2 |
マント=ラ=ジョリー (Mantes-la-Jolie)は、フランス、イル・ド・フランス地域圏、イヴリーヌ県のコミューン。
地理
[編集]イヴリーヌ県北部に位置する。マント=ラ=ジョリーを中心とする都市圏人口は約9万人である。
歴史
[編集]中世後期から、マントの場所には漁港があった。しかし地名はむしろガロ=ロマン語から派生したと考えられる。カロリング朝後期にはセーヌ川との往来を守るためこの地にモット・アンド・ベーリーが建てられ、ヴェクサン=ノルマン地方との国境となった。これを核として都市ができあがっていった。
イル・ド・フランスとノルマンディーの国境となる重要な水路と土地であるため、マントは初め商業や貿易の土地として現われた。そして軍事的要衝でもあった。フランス領ヴェクサン地方への報復戦を企てたノルマンディー公ギヨーム(イングランド王ウィリアム1世)は、この戦いの際1087年にマントを襲って甚大な被害を与えた。10世紀以降、モット・アンド・ベーリー上に城が建った。ガンヌの塔と呼ばれた要塞群である。マントは侵入者に対する難攻不落の地であった。マントの丈夫さを証明するようにカペー朝の王たちはマントに住んだ。1110年、ルイ6世はマントに町の地位を与えている。1223年、フィリップ・オーギュストはこの地で死去した。中世終わりには、原始的な要塞群は補強され、広く広がった壁で覆われた。マントのノートルダム教会は、1150年に工事が始まり、1510年に完成した。
セーヌ川に面し、ノルマンディーを見下ろすマントは、百年戦争ではイングランド王国やナバラ王カルロス2世が支配下に置いた。幾度も領主が変わったが、戦後平穏な時代を迎えた。ユグノー戦争ではカトリック同盟軍の支配下にあったが。やがてブルボン家のアンリ(のちのアンリ4世)が本拠地を置き、パリ制圧まで陣を敷いていた。その後、アンリ4世はマントを定期的に訪れては愛妾ガブリエル・デストレとの時間をすごした。
18世紀以降、近いヴェルサイユに人口が移る一方でマントは衰退していった。1110年に与えられた特権の損失、位置の重要性が薄れたこと、町第一の主産業であったワイン販売の衰退といった事態が、王のマント軽視を招いた。1739年、ルイ15世の命令でマントの防衛設備は廃止された。セーヌ川の一角にあった中世の村落は、次第に富裕層が暮らす邸宅に取って代わった。
19世紀以降、町は西へ向かって拡大した。1843年にはパリ=ルーアン間の鉄道が開通した。町には新たな工場が設置された。
第二次世界大戦はマントに傷を残した。1944年8月、自由フランス軍の爆撃で450人以上が死亡した。1944年5月の爆撃はさらにひどく、歴史的な町並みや橋を破壊した。戦後は、破壊された市の再生に取り組んだ。
かつてはフランス社会党がマントで強かったが、1995年以降の市長はUMP所属である。
姉妹都市
[編集]交通
[編集]- 道路 - A13
- 鉄道 - マント=ラ=ジョリー駅。トランジリアン、TGVの各路線が停車する
関係者
[編集]- 出身者
- ニコラ・ベルニエ:オルガニスト
- オドレイ・フルーロ:女優
- サンディ・カザール:自転車競技選手
- ムサ・ソウ:サッカー選手
- ニコラ・ペペ:サッカー選手
- オパ・エンゲット:サッカー選手
- エノク・クワテン:サッカー選手
- 居住その他ゆかりある人物
- アンリ4世:フランス国王
- ガブリエル・デストレ:アンリ4世の愛妾
- カンパン夫人:王妃マリー・アントワネット部屋付き第一侍女
- エレーヌ・ブーシェ:女性パイロット