アントニー
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Antony | |
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行政 | |
国 | フランス |
地域圏 (Région) | イル=ド=フランス地域圏 |
県 (département) | オー=ド=セーヌ県 |
郡 (arrondissement) |
アントニー郡 (郡庁所在地) |
小郡 (canton) | 1小郡庁所在地 |
INSEEコード | 92002 |
郵便番号 | 92160 |
市長(任期) |
ジャン=イヴ・セナン (2014年-2020年) |
自治体間連合 (fr) | メトロポール・デュ・グラン・パリ |
人口動態 | |
人口 |
62012人 (2011年) |
人口密度 | 6528人/km2 |
住民の呼称 | Antoniens |
地理 | |
座標 | 北緯48度45分14秒 東経2度17分51秒 / 北緯48.753888889度 東経2.2975度座標: 北緯48度45分14秒 東経2度17分51秒 / 北緯48.753888889度 東経2.2975度 |
標高 |
最低:48 最高:100 m |
面積 | 9.7km2 (970ha) |
公式サイト | ville-antony.fr |
アントニー(フランス語: Antony)はフランス、イル=ド=フランス地域圏のオー=ド=セーヌ県にある都市でアントニー郡の郡庁所在地。
地理
[編集]パリの南に位置する。セーヌ川の支流ビエーヴル川が流れる。2000年以上前から南北の主要道が通じる、重要な交差点上にあった。県の南端にあるため、エソンヌ県、オー=ド=セーヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県と接している。
歴史
[編集]アントニーの歴史はガロローマ時代にまでさかのぼる。フランソワ1世によるパリからオルレアンまでの道路建設および19世紀の鉄道の開通に伴い、パリから人口が流入、都市化が進む。最初の人口増加は、当時の市長オーギュスト・ムニエの指揮によるもので、彼が1914年に就任した当時は4000人あまりであった人口が、1940年に退任した頃には20000人を突破していた。
1944年8月24日、アントニーはセーヌ県で最も早くにフィリップ・ルクレール将軍率いる自由フランス軍第2機甲師団によって解放された[1]。
第2期の人口増加は、フランス領アルジェリアからの帰国者を収容するため、1960年代初頭に非常に早く住宅建設が進んだ結果である。1955年から1975年までの20年間で、人口は24512人から57795人となった。
人口統計
[編集]1962年 | 1968年 | 1975年 | 1982年 | 1990年 | 1999年 | 2006年 | 2011年 | 2013年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
46483 | 56638 | 57540 | 54610 | 57771 | 59855 | 60552 | 62012 | 61727 |
参照元:1999年までEHESS[2]、2004年以降INSEE[3][4]
交通
[編集]姉妹都市
[編集]- ライニッケンドルフ(ドイツ)
- レキシントン(アメリカ合衆国)
- ルイシャム(イギリス)
- エレフテロポリス(ギリシア)
- スデロット(イスラエル)
- コッレーニョ(イタリア)
- プロトビノ(ロシア)
- ハマム=リフ(チュニジア)
- オロモウツ(チェコ)
出身著名人
[編集]- ローラン・ラフォルグ - 数学者
- アニエス・ジャウィ - 女優
- マルク=アントワーヌ・マチュー - 漫画家
- マデリーン・ルボー - 女優
脚注
[編集]- ^ La libération d'Antony, numéro spécial de Revue de l'association pour la promotion du patrimoine d'Antony, Antony, no 10, 1er semestre 1994.
- ^ http://cassini.ehess.fr/cassini/fr/html/fiche.php?select_resultat=969
- ^ http://www.statistiques-locales.insee.fr
- ^ http://www.insee.fr
外部リンク
[編集]シャトネ=マラブリー | ソー | ライ=レ=ローズ | ||
ヴェリエール=ル=ビュイッソン | フレンヌ | |||
アントニー | ||||
マシー | ヴィスー |