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ノート:喜連川騒動/過去ログ1

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閲覧者の方へ

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  • 現在喜連川騒動、ノート:喜連川騒動に細かな訂正を含めた投稿を続けているIPユーザーは、すべて同一人物と推定されます。また、OCNの可変IPであるため、投稿時と修正時のアドレスが異なることがあるようです。従って、改竄ではないようですので、あらかじめお含み置きください。いい加減ログインするとかプレビューするとか覚えてもらえればいいんですが……--Doripoke 2006年10月7日 (土) 04:48 (UTC)


参考ページからのコピペ。--12425183 2006年9月12日 (火) 22:43 (UTC)

記事内容について

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  • とりあえず「喜連川騒動」google検索をしてみたところ、wikipedia、及びその転載ページ以外では、記事中に書かれている外部リンク(初版投稿者のページ)にしかヒットしませんでした。喜連川町誌をソースとしている旨が書かれているので、実際にあった事件(内容はともかく)であると推定されますが、記事内容が正確であるかどうかの担保は確認できませんでした。以上、よろしくお願いします。--Doripoke 2006年10月6日 (金) 11:58 (UTC)


  • 初期原文投稿者「喜連川一色家」より。記事内容については、喜連川町誌関係者にとって、共通事項ですよ。リンク先については、あくまでも「・・・一考察・・・・説」と表記しております。正確性については、事件当時の故人でなければ知らないことです。ここで、外部リンク先の正確性を問うのはどうか?と考えます。また、現投稿本文に「国家老」とゆう表記になっておりますが、私の表記では、ありません。喜連川藩の理解者としてはずかしい表記であることも知っております。喜連川藩のは、江戸屋敷はなく、当然江戸家老はおりませんので「国家老」もおりません。筆頭家老が正しいのですよ。--222.149.207.8 2006年10月7日 (土) 02:14 (UTC)
  • 初版では、「筆頭(国)家老」です。(国)は、喜連川藩のことに詳しくない方ように、あとから追加しました、これを「国家老」に改ざんしてしまうのは、良くないですよ。必ず意味がありますのであとから修正する方は一度「ノート」にて確認するのが筋ではないですか?と思います。どうも、この投稿事態が都合悪いとしか思えませんが?皆さん、この点もご考慮願います。ただ、闇雲に削除を狙うのではなく、ご本人の説を、外部リンクにして、どうどうと述べ、読者が判断することです。と考えるのですが、いかがでしょうか?営業的または本文と関係ないリンクは、ウィキぺディアの物理的負荷を増やすものであり、理念に反する物であり、あらし行為です。これは、管理者の方の判断で簡単に排除できる者ではないでしょうか?単に外部リンク=宣伝では、ウィキぺディアの存在意義が「ただで、見れる曖昧情報のデータベース化」の恐れがあると考えます。ある程度は、サイト管理者の方で判断いただけることをお願いいたします。--喜連川一色家 2006年10月7日 (土) 06:28 (UTC)
  • 以下に初版冒頭部分を引用します。強調は私が行いました。
 喜連川騒動とは旧喜連川町誌によると、正保4年(1647年)に3代喜連川藩主足利尊信
の時、初代喜連川藩主足利国朝公より約58年間に渡り国家老を勤めた喜連川一色家の当主
一色刑部らによる藩政乗っ取り事件とあります。
なぜでしょうか?以上、ご説明をお願いします。--Doripoke 2006年10月7日 (土) 06:49 (UTC)
  • あなたは、お子様ですか?修正途中のLOGを持ち出してどうするのですか?なにが目的なのですか目的を明確にしていただいきたいのですが?なんの関係も無い人物が、突然「削除依頼」を出された理由を明確にすれば、こんな会話をする必要もないかと思うのですが、ただ、外部リンクがあるから削除とゆうことにしか聞こえないのですが。参考文献も外部リンクでは、誠実に紹介しておりますよ。?もっとも、これを行わないとただの妄想記事になりますので確認ください。何度も堂々と言います。参考文献は、喜連川町史の「狂える名君」と喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」が基本文献です。全て、外部リンク内の内部リンクにて、一字一句違わず、紹介しております。それでも、信用いただけない方は、ご自分の足で栃木県さくら市喜連川支所図書館に行き、現物を確認ください。私の真面目な態度がご理解いただけます。ついでに、龍光寺の一色家の墓と専念寺の足利家側室の墓を確認してください。いいかげんなリンクを張ってはいないことも明確です。何かと、問題提議させるDoripokeさんは、県内の方ですので是非確認後に問題提議していただけると良いのですが?なんどいっても、誠実に、投稿本文の検証をしていただけないようです。ご自分で、喜連川町誌のある図書館県内12箇所、県立図書館、国立図書館にあることをご存知なら是非行動に移していただきたいものです。それが、問題提議者の義務ではないでしょうか?--喜連川一色家 2006年10月7日 (土) 09:51 (UTC)
  • 立証責任は、投稿者にあります。これはWikipediaの公式方針です。詳しくは、Wikipedia:検証可能性(←リンクになっています)をご覧ください、以上、よろしくお願いします。--Doripoke 2006年10月7日 (土) 09:47 (UTC)
  • あと、ログインが無効になっているようです。ログイン画面下の「セッションを越えてパスワードを記憶する」にチェックを入れると、ブラウザを閉じても、ログインが有効になります。以上、重ねてよろしくお願いします。--Doripoke 2006年10月7日 (土) 09:50 (UTC)
  • 追伸、喜連川町誌には、文献資料に「城代家老」とゆう表現がみられますが、これも正しくはありません。なぜなら、喜連川町誌の年表には、喜連川(川崎)城は、1614年に「山城は不便のため山下に館を設ける。川崎城の一部を引き取り館の用材に使用する。」と記述されております。城もないのに城代家老は、正しくありません。--222.149.207.8 2006年10月7日 (土) 02:50 (UTC)
  • 追伸、初心者であり、システムに不慣れのため自分の意見の追加修正さえ、改ざん扱いになっているようで、困窮しました。とりあえず「アカウント」取得をしました。以後、原本投稿者「喜連川一色家」は以下の通り、統一します。--喜連川一色家 2006年10月7日 (土) 04:42 (UTC)
  • 前回、Doripokeさん、ご指摘の「国家老」ですが、文の始めに「旧喜連川町誌によると」とゆう記述ではじまる関係上、喜連川町誌の記述で「国家老」という表現を使用していたためでした。実際のところ、この件でも解るとおり、当時の関係者達は、十分な喜連川藩の歴史を知っていない状態で執筆されているのです。最初は、筆頭家老であったはずです。--喜連川一色家 2006年10月8日 (日) 10:00 (UTC)

筆頭家老であるということは間違いないのかな。なら「筆頭家老(原文は国家老)」とか。あるいは「国家老(町誌の記述による。制度上は筆頭家老であったと思われる)」とか。--Ks aka 98 2006年10月8日 (日) 10:14 (UTC)

  • 正直な話、私も悩んでいるのです。喜連川町誌の天保十三年の資料(藩内の役責家禄の取り決め)によると、「国老」・若家老・参政・中老の順なのですが、何分原文「古文書」写真ではなく、編集された資料であり、信憑性が乏しいのです。幕府により大名家の家臣の役責が固定して決められていたような資料があれば確信できるのですが、知識が少なく探せないのが原状です。初代足利国朝と喜連川に向かった家臣として足利家の家老格の家臣は一色下野守刑部の他に高(こうの)修理頭がいたはずなのですが、文禄三年(1594)の年表記述には、「国朝の遺臣等上総より来る。一色下野守・堆津下総守(後の二階堂)等二十四名」となっており、一色家の筆頭は、確認できます。堆津下総守は、里見家資料では、「堆津 某」と記録されており重要視された記述ではないようです。高家は、足利本家代々の家老の家格ですが、絶えたか離脱したと考えるしかありません。高師直の子孫だと考えられますが。喜連川入国時にはいなかったのでしょう。40名の国朝の家臣が入国時には、24名ですので、ここにも謎がのこります。しかし、筆頭の家臣であることはここでも伺えます。長くなりましたがいまだ考慮中です。事件のヒーロー老臣高野修理が氏名を変えた高(こうの)修理頭であれば、御弓系家臣の古河への一部編入など、古河系家臣の陰謀説がさらに、信憑性をおびてくるのですが。--喜連川一色家 2006年10月8日 (日) 14:43 (UTC)
  • 追伸、なにしろ、現さくら市においても、喜連川騒動記述に関する古文書は全て未公開なのです。事件に関わらない古文書のみ、新喜連川史にて写真資料として公開されているとゆうありさまで、困窮しているのが原状です。ですから、投稿本文には、共通事項しか記述できないと考えております。--喜連川一色家 2006年10月8日 (日) 14:53 (UTC)

うん。えーと、日本史詳しくないんであれなんですが、「喜連川藩のは、江戸屋敷はなく、当然江戸家老はおりませんので「国家老」もおりません。筆頭家老が正しいのですよ」というのが一般に正しいのだとすると、「資料には「国家老」とある、けど、それはおかしくて、それ以上の資料は未公開なので確認できないけど、筆頭家老というのは間違いない」ということが、現段階での「事実」なので、そういうことがわかるように書けばよいと思います。上で挙げた例は、そのつもり。わからないことを、どっちかに決定しようとするのは、ウィキペディアではやるべきではない、と。--Ks aka 98 2006年10月8日 (日) 15:02 (UTC)

  • いろいろ、ありがとうございます。「太平記」を読むと高家・桃井家などわかりますよ。本題ですが、さくら市でトップシークレット扱いなので、やもなく「筆頭(国)家老」と記述し、よけいな説明により、本文が複雑になるのを防ぐとゆう考えもあるのですが?いかがなもんでしょうか?--喜連川一色家 2006年10月8日 (日) 15:18 (UTC)

投稿本文の検証について

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  • 本文投稿者「喜連川一色家」より。投稿本文の検証は、ネット検索ではなく、栃木県さくら市喜連川支所図書館にて一般公開されている文献、喜連川町史の「狂える名君」&喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」と「年表」を実際に参照コピーして持ち出され、私の文章と対比することを是非お願いします。その上で、本文の修正が行われたのなら公正な処置と考えます。しかし、投稿本文を編集変更されたようですので、公正な処置とは思えません。喜連川町誌の「年表」には、「文禄3年(1594年)国朝(くにとも)の遺臣上総よりくる。一色下野守・堆津下総守(後の二階堂)等24名」と記されております。藩祖足利国朝公より3代藩主尊信公まで国家老を勤めたことは、明白です。家格で考ても、一色家・高家・堆津(二階堂)家の順になります。まじめに、投稿している人間に対しては、実際の足をもって調査した後に編集変更をするべきではないでしょうか?この2冊は、さくら市の手中にありますので、旧喜連川町の人間により証拠隠滅の危険さえあるので、あえて証拠のある内にと投稿しました。よろしくご検討のほど、お願いいたします。--60.39.68.54 2006年10月6日 (金) 17:11 (UTC)
  • 本文投稿者「喜連川一色家」より。私本人による修正です。--222.149.207.8 2006年10月7日 (土) 03:22 (UTC)
  • 付記になりますが、証拠隠滅のご心配をされている『喜連川町誌』ですが、栃木県立図書館をはじめ、栃木県内の12館に所蔵されています。また、(当然ですが)国立国会図書館にもありますので、少なくとも証拠隠滅の心配はないみたいです。以上、ご安心ください。--Doripoke 2006年10月6日 (金) 17:31 (UTC)

*それは、「新喜連川史」のことを言われているのではないでしょうか?--喜連川一色家 2006年10月7日 (土) 07:02 (UTC)

  • 「喜連川一色家」より。私のリンク先では、「捏造」などとゆう犯罪性の高い表現は、一切一字とも使用しておりません。あくまでも「歪曲」とゆう表現にとどめております。本文中の誰かの「捏造」とゆう表現は、誤解を招くものであり、やめていただきいたい。「捏造」と「歪曲」の意味を国語辞典で調べてみてください。あれは、私の記述ではないことを広くお伝えします。--60.39.68.54 2006年10月6日 (金) 18:33 (UTC)
  • 「喜連川一色家」より。本文頭部分、現在変更「不可」になっておりますが、Doeipokeさんより変更された、ようですが。あまりご存知でないようです。喜連川一色家は、あくまでも藩祖足利国朝から3代尊信までの約58年を筆頭家老を勤めております。上総御弓御所から考えねばなりません。また、喜連川家は10万石格の参勤交代を免除された大名ですので、江戸屋敷はありません。よって、一般大名家のように、江戸家老はいませんので、「国家老」とゆう役責は存在しないのです。変更者または管理者の方、元の私の文章にもどしてください。事件の背景を正しく伝える上で大変重要な要件で歪曲された状態です。このままでは、百科事典としての文献としても疑われる記事となります。--222.149.207.8 2006年10月7日 (土) 00:47 (UTC)
  • 変更不可ではありません。Wikipedia:編集の仕方よく読んで加筆してみてください。なお余談ですが、記事中に自分のホームページを貼り付ける行為は、宣伝と見なされ、嫌われる傾向があるようです。実例として、ノート:ウルフファング辺りをご覧ください。
  • ところで、利用者‐会話:12425183に、初版投稿者として、以下の記述がありますが、これは「検証不可能」であることを自ら公言しているものであると判断してよろしいでしょうか。そうであれば改めて削除依頼に提出したいと思います。
よろしく、ご理解のほど、お願いいたします。喜連川騒動にかかわる記述は、
旧喜連川町発行の「喜連川町史」・「喜連川町誌」と私の「喜連川騒動における一考察」以外は、
現在のところ存在しないはずです。

以上、よろしくお願いします。--Doripoke 2006年10月7日 (土) 04:48 (UTC)

  • ですから、皆さんに同町の2冊を検証いただき、私の説と比較していただきたいと、どうどうと

明記しているのです。だれが読まれても、中立的立場で検証すれば明らかなことです。以後「喜連川一色家」は「アカウント」取得により以下のように統一します。削除依頼者(Doripokeさん)は、明らかに、喜連川町関係者のようです。誠実に検証ください。--喜連川一色家 2006年10月7日 (土) 05:10 (UTC)一部強調--Doripoke 2006年10月7日 (土) 05:25 (UTC)

私も他人の説明等を中々理解できないことが往々にしてあります。Wikipediaでは、記事が真実かどうかの追究には頓着していない事とか、最新の研究結果をいち早く世間に知らるつもりは全く無い事とかを、言葉を変えて、文章を変えて、繰り返し説明するべきです。相手が聞く耳を持っている間は。202.233.244.22 2006年10月7日 (土) 06:26 (UTC)
  • そうなんですか?私は、公的文書の修正を間接的に促すことも出来る、画期的なすばらしいサイトであると考えていました。史実に頓着しないのなら、なぜ、本文の「削除依頼」やら「検証依頼」やら「中立性の確保」などの機能が存在し、投稿者を困窮させるのでしょうか?本当にその通りなら残念です。しかし、世の中なんでも、取り決めに書いてあることは、あくまでも目安であり、判断は、サイト側の経営理念判断になるのではないでしょうか?本当に、そうであるなら私にとって、新しいビジネスチャンスを見つけた気分です。 私の理念とするサイトが無いのなら、私が立ち上げれば良いだけですよ。--喜連川一色家 2006年10月7日 (土) 06:53 (UTC)
  • それをわかっていただくために、あなたに呼びかけていたわけです。残念ながらWikipediaは「正義のための存在」ではないのです。
  • このままですと、あなたの主張が原形をとどめなくなるおそれがあります(ご覧の通り、Wikipediaは「誰が編集してもいい」わけですし、初版投稿者であっても、Wikipedia:著作権に従う必要があります。ややこしいのでリンク先をご覧ください)ですので、ここはこの記事を「検証不可能」という形で、Wikipedia上から削除し、他人の偏見が入らない場で、改めて「正義」を行う必要があると考えます。
  • 幸いにして、この記事の編集は、私のwikify(Wikipediaの書き方に合わせる)以外、喜連川一色家さん記述しか存在しません。あなたからの削除依頼に不都合があれば(喜連川一色家さんには、ログインから日が浅いので賛否表明権がありません)私が変わって削除依頼を行いたいと思いますが、いかがでしょうか?以上、よろしくお願いします。--Doripoke 2006年10月7日 (土) 07:04 (UTC)
ウィキペディアにはいわゆる「管理者」というのはいないです。Wikipedia:管理者は削除、保護などの機能が使えるだけで、一般ユーザーと同じ立場です。議論が紛糾したときはWikipedia:コメント依頼を利用するのがよろしいかと。--Calvero 2006年10月7日 (土) 10:19 (UTC) もう出されてましたか、失礼しました。--Calvero 2006年10月7日 (土) 10:37 (UTC)

はじめまして。これまでのノートを読みましたが、どうも喜連川一色家さんがウィキぺディアに不慣れなために損している気もします。残念ながら栃木県から遠くて原本を確認できないので、教えてください。

  1. 「経緯」は喜連川町史・喜連川町誌の内容に基づいていて、「疑問点」はそれ以外の研究成果と理解しましたが、それで良いですか?
  2. その場合、喜連川町史・喜連川町誌と同じ文章を使うと著作権違反になりますが、同じ文章は使っていませんか?
  3. また、「経緯」の内容には、喜連川町史・喜連川町誌に無い内容を追加しましたか?

--Coleus 2006年10月7日 (土) 08:22 (UTC)

  • ありがとうございます。すべて、前回のDoripokeさんの提議された「削除依頼ノート」内でクリアされております。どうも、あらし行為者に、遊ばれている気分です。ただ、削除したいと言う意志しか感じられません。ウィキぺディアの機能を利用して遊んでいるようには、みなさん感じられませんか?--222.149.207.8 2006年10月7日 (土) 09:43 (UTC)
ログアウトした状態になっているためでしょう。ログインするときに「セッションを越えてパスワードを記憶する」をチェックしておけば、自動的にログアウトしなくなります。--Calvero 2006年10月7日 (土) 09:51 (UTC)


(コメント依頼から来ました)読んでみました。全部は読んでませんが、初版からいくつかは拾い読みしました。記載されている事実関係について、およびこの騒動が百科事典の項目としてふさわしいかどうかについては考慮しない事とします。。

既に「喜連川町史」・「喜連川町誌」の参考文献が挙げられています。本文には、「喜連川騒動における一考察」にある考察は、あまり記述されていないようです。検証可能性は、上記文献を挙げていただいている事で問題なさそうですし、中立的観点としても、あくまで町史・町誌の内容を主として書かれています。「一考察」をそのまま載せれば「独自研究」ですが、今の記述は独自研究にも当たらないと思います。

Wikipedia:独自の調査Wikipedia:検証可能性Wikipedia:中立的な観点は、それぞれウィキペディア独自の方針ですので、項目名から想像する内容とは微妙に意図する方針が異なっています。お手数ですが、ご確認下さい。

「喜連川騒動における一考察」は、(最近加筆があったようですが)今読んだものは、出典も記されていますし、既存の記述を元に他の資料で検証しながら自分の論を組み立てていて、特定の偏った観点に基づいて記述されたものではないと思いました。体裁としては、地方史の資料として十分な考察と思いますが、ウィキペディアでは、公開されている媒体上、信頼できる資料とはみなせない点を喜連川一色家さんはご理解下さい(ご理解いただいているようでもありますが)。

既に指摘があるように、ウィキペディアは正義のためのものではありません。「公的文書の修正」を目的とするのであれば、他の定期刊行物などで専門的な方々の検証を経て公的文書を正しく修正するか、ご自身のHPなどで意見を述べることが望まれます。

しかし、当該内容についての研究機関が存在せず、またこれを対象とする研究者がごく限られている場合で、公的文書に矛盾があり、他の資料によって論理的にこれを補える場合、公的文書の記述をそのまま掲載するよりは、慎重に矛盾を指摘し、他の研究の存在を示す事はあってもよいと考えます。

以後の加筆では、まず町史・町誌にある「喜連川騒動」が、どのようなものか、近郊に住んでいない人にも判るように記述を充実させて欲しいと思います。また、町史・町誌には物語として書かれているとありますが、「言い伝え」として存在しているのか、史実をわかりやすく物語化しているのかはわかったほうがいいかもしれません。

その町史・町誌の記述に明らかな矛盾がある事は、指摘するべきでしょう。その矛盾点が資料を当たっていない人にも判るよう、また著作権を侵害しないよう留意して指摘してください。また、資料や研究が少ないのであれば、「喜連川騒動における一考察」のリンクを張る事も必要かと思われます。ただし、「一考察」にあるように矛盾を解き明かす過程を詳細にウィキペディアで述べる事は百科事典的ではないと思いますので、ほどほどにしていただければと思います。

文体は、改めていただけるとよいかもしれません。一般的な百科事典の、都市や国の項目の中に歴史に関する節などを参照してみてください。

というわけで、喜連川一色家さんには、引き続きウィキペディアの方針を外れることなく加筆いただけるよう、Doripokeさんにおかれましても、引き続き不慣れな投稿者に優しくウィキペディアの方針を理解していただくための活動を期待します。

--Ks aka 98 2006年10月7日 (土) 10:24 (UTC)

研究の元となった史料の存在について

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本件のソースについて、Ks aka 98さんは『喜連川町史』・『喜連川町誌』で十分とおっしゃっていますが、当該の先行研究は、研究の下敷きとして何を根拠史料に使ったのでしょうか。このくらいの事件規模があれば、幕府方が書類を残して『徳川実紀』あたりに言及がありそうですが、当該記事の本文及びノート、また本文中の外部リンクのWebページにもその旨記載がありませんでした。そのあたりをまず教えてください。

喜連川一色氏さんへ。本件のように知名度のない事件については、先行研究だけではなく「そもそも同時代史料のどこに事件が記されていたか」を記し、まず事件自体の実在を明らかにしてください。また、確かにウィキペディアは自由な投稿が可能ですが、記事自体の立証責任の一切は投稿者にあり、立証できなければ削除されるのはやむをえないということもご確認のうえ、もう少し本記事自体の根拠づけをお願いします。また、これに関連しますが外部リンクとして挙げられているご本人(と思われる)のウェブサイトの内容ですが、現時点では外部リンクとするにはやや内容薄弱と思われます。墓碑などではなく、文書史料などをご自分で渉猟したうえで論拠とすれば、もっと信用の増す内容になりますよ。Aboshi 2006年10月8日 (日) 15:23 (UTC)

ええっと。いずれも喜連川町による出版ですので、Wikipedia:検証可能性としては十分だと思います。タブロイド新聞のような「信頼性に乏しい情報源」、自費出版物、個人のウェブサイトやブログのような「自主公表された情報源」ではありませんし、「自主公表された情報源:公式サイト」とも異なります。
編集者が、例えばニューヨーク・タイムズの記事の中身が真実かどうか検証する責任があるという意味ではありません。実際のところ、編集者はその種の調査をしないよう強く求められます。なぜならウィキペディアでは独自の調査を発表はしてはならないからです
という観点から見れば、先行研究の根拠を問い直すこと自体は求められていないと考える方がよいかと思います。立証すべきは、『喜連川町史』・『喜連川町誌』を参照しているということであって、『喜連川町史』・『喜連川町誌』に書かれている事が真実かどうかではありません。
それを踏まえた上で、Aboshiさんの助言にあるように信頼の出来る同時代的な資料に関連する記述を求める事は、より信頼性を増す事として推奨されます。--Ks aka 98 2006年10月8日 (日) 17:23 (UTC)
  • 皆さんの、ご助言ありがたく読ませていただきました。「徳川実記」ですか。是非調べて見たいと思います。しかし、手元に「徳川実記」がないのです。よろしければ、手に入れる方法などありましたらご助言いただけるとありがたいのですが。やっぱり、国立図書館ですかね?なかなか、行けるところではないので少々手間がかかりそうです。--喜連川一色家 2006年10月8日 (日) 18:54 (UTC)

吉川弘文館から出てるので、県立図書館クラスまたは地域の中央図書館クラスでもあるんじゃないかと。最寄りの図書館で協力貸し出しで何とか出来ると思いますし、15冊揃いで古本で買っても4万くらい。--Ks aka 98 2006年10月8日 (日) 19:34 (UTC)

Ks aka 98さんへ。今回私が先行研究が利用した元の史料を求めるのは、『喜連川町史』『喜連川町誌』自体が地方郷土史研究家による作品の可能性が高いことにあります。一般的に町史などに掲載された論文は掲載大学の紀要に掲載された論文などと異なり、執筆者の論文の質および一定の査読を経ているかどうかが極めて怪しいものが多いです(もちろん例外もあります)。確かに当方には著作に対する批判権限はありませんが、著作物の質は判別しないと先行研究が少ないものなどはトンデモ論が大手を振ってまかりとおるリスクが発生します。ウィキペディアのルール以前に、それは避けなければなりません。
それにしても本件、町史以外に先行研究はないのでしょうか。本文を見る限り幕府を巻き込んだそれなりの規模の事件でプロの研究者が取り組んでいそうなものですが。Aboshi 2006年10月9日 (月) 00:43 (UTC)
  • そうなんですよね。なんか、割り込んでしまってすみません。なかなか、それが見つからないのです。TVドラマ「遠山の金さん」のストーリで採用されたことがあるのですが、万姫が「お雪」だったですかね。江戸町奉行の就任履歴等の資料をみますと時代も異なりますし、話的には、喜連川町誌を参考に作られたようで、これがメジャーになってしまっているようです。マスメデアの力には敵いません。だれか、ご存知の方がいれば良いのですが。それと、Ks aKa 98さん。情報ありがとうございます。自分で望んだ訳でもないのですが、公的な仕事もあり、自分の仕事もあり、基本的には休みなしの状態でなかなか時間がかかってしましそうですが「徳川実記」での検証試みてみます。なにぶん、初執筆、初投稿で、どこまでかくべきか、かくべきでないのかなど右往左往しているのが原状です。投稿内容としては、ほぼ織り込んだところです。今後とも皆様のご助言よろしくお願い申し上げます。--喜連川一色家 2006年10月9日 (月) 01:29 (UTC)

>Aboshiさん 喜連川町に限定するわけではなく、一般に地方史関係は信頼性への疑問や学問的手続が十分ではないものが混じっているという点については認識しています。紀要だってどこまで信頼できるものだか。ところが、ウィキペディアのルールでは、地方自治体が出している出版物を情報源としている以上、たとえ真実ではなくても、それを書くべきであり、正しい歴史であっても発表されていないものを書くのであれば、ウィキペディアではなく、まず他の信頼できる媒体で発表しなければなりません。そうでないと、執筆者がトンデモ説をウィキペディアで発表する事を止められないということになってしまいます。したがって、他に論文などがあればいいのですが、見つからない場合は、『喜連川町史』『喜連川町誌』に従った記述をし、その矛盾を指摘し、その後出典を示しながら論理的にそれを修正していくという記事にせざるをえないと思います。それでも「独自の研究」と言われるかもしれませんが、妥当な記述であれば削除はされないと思います。 >喜連川一色家さん 今メンテ中なんですが、国会図書館のHPで、雑誌記事検索というのがあります。あと近代デジタルライブラリ。そこで思いつくキーワードを放り込んでみてください。雑誌記事検索は、登録すれば複写申請すれば郵送してくれますし、近代デジタルライブラリは複写画像をそのまま見る事が出来ます。(書名忘れ:追記)--Ks aka 98 2006年10月9日 (月) 08:42 (UTC)


喜連川藩は城持大名ではなく陣屋大名なので、やはり城代家老はおかしいように思います。また徳川親藩ではなく外様大名と思いますが、いかがでしょうか。 なお、喜連川藩は高家大名でしょうか?よく知りませんのでお教えください。--寂華 2006年10月9日 (月) 08:15 (UTC)

  • その辺の所は、私の独自研究文書ですが外部リンクの「喜連川騒動の一考察・・古河系家臣団の陰謀」に記述させていただいております。概要としては、幕府を開く為には、「征夷大将軍」の地位を天皇から許されなければならないのですが、条件として源家の親族でないと難しいとゆう、古来のしきたりがあったのです。しかし、徳川家は、源氏ではないことは、多くの戦国大名の知るところでした。そこで、実力では、NO1の徳川家康は、家系を詐称して天皇に武力で「征夷大将軍」の地位をもらったのです。そして、特に前室町将軍家である足利家の親族を高家旗本などに優遇したのです。特に喜連川足利家は、その足利家の直系であったので、特に徳川家の親族大名扱いとすることで、徳川幕府の安泰の基礎作りのための、一つの方策としたのです。たしか、江戸城内では、当時の御三家「紀州」「尾張」「駿河」の次で「水戸家」と同格の席順でした。ですから外様ではないのです。多少おおざっぱですがこんな所です。ご参考になれば幸いです。 それと、国会図書館のホームページの件、ありがとうございます。皆様のご好意ありがたく感じております。メンテ終了を待ち、ものにしたいと思います。オークションでも販売されているようですが、3万円~10万円と言うことと、現在、出品がないことで、これも出品待ち状態です。--喜連川一色家 2006年10月9日 (月) 14:49 追記(UTC)--喜連川一色家 2006年10月10日 (火) 09:17 (UTC)
余計ながら少し。『徳川実記』につきまして、ご存知であれば大変恐縮ですけれども、徳川幕府の歴史を編年体にまとめた一見すると無味乾燥な書物です。『続日本紀』をイメージすると判りやすいと思います。非常に厖大な量になっており、現在普及している刊本で言えば、『国史大系』(吉川弘文館)の第38巻~第47巻に当たります。幸いなことに、『国史大系』は県立図書館や大きな市立図書館なら大抵所蔵しています。(栃木県立図書館にも所蔵されてましたよ。)
ついでに東京大学史料編纂所データベースの「大日本史料総合DB」にて「喜連川」で検索したところ、喜連川騒動らしき事件の綱文(慶安1年12月22日付け)がヒットしました。当該事件に係る史料(『人見私記』『万年記』『慶安日記増補』『慶延略記』など)も示されています。ひょっとすると『徳川実記』の慶安元年12月22日条に何らかの記述があるかも知れませんね。すぐ下でAboshiさんも仰ってますが『栃木県史』も参照しておきたいところです。県史レベルであれば、専門の研究者(○○大教授とか)が執筆していることが通例ですから資料としての信頼性がグッと高まります。何かのご参考になりましたら幸いです。--shimoxx 2006年10月10日 (火) 18:21 (UTC)
Ks aka 98さんのご意見、ありがたく読ませていただきました。こういったルール的なことへのものの考え方は私はとても苦手で、勉強になります。とっても正直に申し上げますと、そこまで裁量を奪われると逆にリスクが発生するのでは」と反発を覚えているところですが、恥ずかしながら反論するほど理屈が固められないので私自身しばらく悩むことにします。ただ、この件については本来の話題からずれますので、やめにしましょう。
話を戻して、実は当該事件の存在自体については木村礎他編『藩史大事典』(1989、雄山閣)の喜連川藩の項に書いてありました。ただ、やはり参考資料を見ると『喜連川町史』とありはしたのですが・・・そこには喜連川藩全体の参考資料ながら『栃木県史』なども他に参考文献として掲載していました。入り口としてですが、『藩史大事典』を参照してみるのもいいかもしれません。Aboshi 2006年10月10日 (火) 14:06 (UTC)

資料調査お疲れ様です。ま、ぼくもこれをがちがちに適用するのがいいと思っているわけではありません。まあ、ウィキペディア用語の説明と思っていただければ。まあ目安。逆に、多少信頼できなくても出典さえ示せば書くことはできたり、とか。要は、説得力があればいいってことで、説得力を増すためには検証できる資料を重視しましょうよ、くらいのことと思って、執筆をがんばってください。--Ks aka 98 2006年10月10日 (火) 14:18 (UTC)

  • 皆さん、暖かいお言葉と情報ありがとうございます。大変励みになっております。ところで、東京大学のデータベースを教えていただいた通り、検索させていただきました。「徳川実記」の記述まで確認できておりませんが、近世編年データベースの喜連川騒動の記述には驚かされました、事件のヒーロー高野修理は、高修理頭ではないかと疑っていたのですが、その可能性が大きくなりました。大島に流されたのは、高四郎左衛門等でした。たぶん、「高修理頭四郎左衛門」が高野修理の本名のようです。すなわち、喜連川町誌と喜連川町史のヒーロー高野(こうの)修理が大島に流されたとゆうことですかね。これが本当なら、とんでもない歪曲&捏造の可能性があると言うこと、私の説の可能性まで大きくなってきました。がぜんガンバリます。本当にありがとうございます。--喜連川一色家 2006年10月10日 (火) 19:28 (UTC)

その勢いで、この項目だけにこだわるのではなく、関連する用語や人物の項目にも手を付けたりしてみてくださいな。--Ks aka 98 2006年10月10日 (火) 20:06 (UTC)

  • ありがとうございます。ところで、「資料綱文」と書いてあったのですが、専門用語のようで?どういったことなのでしょうか?目次の項目みたいなものだとよいのですが、なにぶん喜連川町誌の評定記述じたい、信用ならないようで、困惑しています。--喜連川一色家 2006年10月10日 (火) 20:21 (UTC)
喜連川一色家さんのノートへご返事してみました。--shimoxx 2006年10月11日 (水) 16:47 (UTC)
  • 「綱文」の意味大変わかりやすく教えていただき、ありがとうございました。また、ご指摘の点を修正してみました。いかがでしょうか?、それと、「栃木県史」に目を通してみましたが、事件についての記述はなかったようです。あまり、こういった事件記述は、編集対象になっていないようです。「寛政重修諸家譜」については、日光市日光支所図書館にあるようですが、古文書本体であり、現在修理中であり、閲覧できないようです。なんとか、事件記述の中身を知りたいのですか、以前困窮中です。他の史料がネット上に公開されていればよいのですが?--喜連川一色家 2006年10月13日 (金) 06:58 (UTC)
う~ん、現在の喜連川騒動#補足の節を読む限りでは「綱文」の意味をまだ十分にご理解されてないようですね(^_^;)。とりあえず「補足」の節を修正しておきました。
今日、仕事帰りに図書館でいろいろ調べてみましたので、以下に報告してみます。
史料
(書名)
所蔵機関
人見私記 国会図書館、内閣文庫
万年記 国会図書館、内閣文庫、東京都公文書館
慶安日記増補 内閣文庫
慶延略記 内閣文庫
寛明日記
(寛明事績録)
国会図書館、内閣文庫
寛政重修諸家譜 国会図書館、内閣文庫、その他多数
足利家譜 東京大学史料編纂所
及聞秘録 (調べてません)
まず『徳川実記』(国史大系40巻)を調べてみました。慶安元年12月22日条に喜連川騒動関連の記述はありませんでした。同年7月3日条に「喜連川尊信が病に伏せったので、老臣が手配し、松平忠次の家医である関卜養に治療をさせた」という内容の記述はありましたが、図書館閉館まぎわでしたので、それ以上のことは調べきりませんでした。
大日本史料DBの綱文(慶安1年12月22日2条)の典拠となっている史料についても調べてみました。右表のとおりです。原史料に当たるには、どうやら国会図書館・同館内閣文庫に行くのがデフォルトっぽいですね。まあ、ご参考になれば幸いです。
『藩史大事典』と『栃木県史』も見てみました。確かに『栃木県史』に喜連川騒動のことは書いてませんでした。ですので『藩史大事典』の喜連川騒動の箇所は『喜連川町誌』を典拠としている可能性が高いように感じられました。
話は変わりますが、喜連川騒動に関してまとまった考察を加えている文献は、現在判明している範囲では『喜連川町誌』『喜連川町史』しかないようです。ですので、結局、両書の喜連川騒動関連の箇所がどれだけ信頼できるかってところがポイントなのだろうと思います。「喜連川騒動の顛末」(『喜連川町誌』)と「狂える名君」(『喜連川町史』)にはそれぞれ執筆者・参考史料・参考文献などの情報が書かれてあるハズです。これらの情報こそ文献の信頼性を担保するものですので、もしこれらの情報が書かれていなければ、信頼あたわない文献として取り扱っても全く構わないという気がしています。(自分は密かに、『喜連川町誌』はある程度信頼できそうだけど、『喜連川町史』の方はだいぶキツイよなあ、という予断を抱いてますが、果たしてどうでしょうか。)
あと、余計なことですが、歴史の真実ってのは一つだけでないことにも留意しておきたいものです。『歴史とは何か』(E・H・カー、岩波文庫)にはそのことがとても判りやすく書いてありますのでオススメです。
とりあえず、本項目が徐々に良い方向へ向かっていることは確かだと思いますので、今後に期待しています。--shimoxx 2006年10月13日 (金) 18:19 (UTC)
  • お忙しい中、いろいろ情報をいただきありがとうございます。「(新)喜連川町誌」については、以前、現さくら市の編さん委員の方と名紙交換した時、喜連川騒動事件の記述は「喜連川町誌」1977年編さん版をそのまま移行した形であると聞いていたので、確認しておりませんが、1977年版では、当然そのことは気になる所でしたので、確認しております。しかし、文献の最後に、私のページで紹介しているまとめた形での紹介でしかなかったはずです。来月また法事で喜連川に行きますので、再度確認してみます。たぶん99%近く、この騒動記述の筆者は、明記されておりません。それと、投稿本文の補足部分ですが、やはり高家(こうけ)の記述ですが、姓名を連ねる時は(こうの~)とよむことが正しく、「高野修理」との関連性は、明記しないまでも「におわす」ていどなら、文面的に、百科事典としておかしくない程度に、記述することは、必要かと思いますので、また異なる表現で追加してみたのですがいかがなものでしょうか?--喜連川一色家 2006年10月14日 (土) 08:44 (UTC)
高四郎左衛門と足利尊氏執事の高師直一族とについてですが、その関連性に言及した論文・文献がない限り書いてはいけない、と言いたいところなのですが、そこまで言ってしまって良いものかどうか、逡巡する気持ちも少なからずあります。どっちにしろ自分は『喜連川町史』『喜連川町誌』を閲覧することができませんので、判断しないでおきます。--shimoxx 2006年10月14日 (土) 12:11 (UTC)
  • Shimoxさんへ、「徳川実記」の件ありがとうございます。重要な情報をいただいてたようで気付かず、すみませんでした。ここ記述は、喜連川町誌の記述にある幕府御上使が喜連川に向かった慶安元年7月11日の8日前の記録です。喜連川町誌では、幕府御上使の目的は、3代尊信が「正常」か「否か」を確認することでしたので、8日前に治療の記述が幕府公式文書に記録されたことは、この御上使の本来の目的が伺い知れるものです。この点、改めて御礼申し上げます。また、幕府が喜連川騒動事件を「徳川実記」に記録していないこと、ここにその不自然さが感じられます。意識的なものであったかもしれませんね。--喜連川一色家 2006年10月22日 (日) 01:21 (UTC)
  • 喜連川町史(明治44年版)「狂える名君」の出所が判明しました。喜連川騒動における5人の同心の子孫、高塩家の文書が元でした。書かれた時期が幕末の二階堂政権下のものであり、記述内容の信憑性は無いと思われます。先祖の失敗をそのまま残す訳もなく、本来の足利家直系の藩主は、4代足利昭氏までで、以後は他家からの養子藩主ばかりであり、事実を知るわけも無く、しかも一色家のいない藩内では歪曲は思いのままであったと思われます。歴代の国老を勤めた二階堂家により、都合の悪い藩内資料の歪曲や廃棄など思いのままの時代が続いていたといえます。

しかも、喜連川騒動を示す資料はこの高塩家文書のみであり、しかも、喜連川町誌(昭和52年版)の「喜連川騒動の顛末」は、当時の歴史保存研究委員と教育長を勤めた故高塩氏と故高野氏(実名は伏せます)により執筆されており、現編纂委員会の担当者に確認したところ、「喜連川町誌は、歴史書ではなく有志により自由に書いてもらった文献であり確証するものではない。」ということでした。

本年4月に発行される、最後の喜連川町史(近世版)には、この高塩家文書の原文がのせられています。現編纂委員会としては、「喜連川町に残された古文書の一つとして紹介するまでのものであり、記述内容の信憑性は問わないスタンスである。」とのことでした。しかし、一般人には、そのまま受け取るしかなく困窮するのみです。OBを悪者にはしたくないということのようです。

多くの地方歴史書のいいかげんさを思い知らされた一日でした。---喜連川一色家 2007年3月31日 (土) 08:28 (UTC)

今後の喜連川騒動の編集について

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皆様のご協力を持ちまして、喜連川騒動の史実についての編集は大方終了したかと思います。

今後は、なぜ喜連川騒動が起きたのか?と言うテーマをもって史実の追求調査し、この喜連川騒動ページに追記して行きたいと思います。

そもそも、元をたどれば喜連川藩の重臣たちは、足利高基と足利義明兄弟の古河公方家家臣であり、それぞれが関東地方に所領を持つ豪族達であり、鎌倉公方家・古河公方家を補佐する御奉公衆といわれ、関東公方家から所領を貰った者達ではなく、いわば日本の太古の昔にあった大和朝廷のような形態であったかと思います。

即ち関東公方家は、武力で関東地方の豪族を従えたのではなく、関東地方の豪族は、天皇家を中心とした朝廷の武家として第一の臣とした足利家に連なることで、自分達の所領と権力を保持することを望みのこ上、関東公方家を始めとする組織が出来上がったと考えます。

しかし、関東公方家は、戦国時代と言う時代の変動により、鎌倉公方から古河公方、小弓公方そして、喜連川足利家と所領・権力は縮小しましたが、江戸時代の初期であり、喜連川足利家の家臣達の心境としては、まだまだ個々、城持ちであった頃の気位が残っていたはずでもあります。

このような、喜連川藩特有の事情が喜連川騒動の原因であり、現代における価値観により誰が善で誰が悪とゆう、ことで語るべきではないと考えております。

よって、以後は喜連川騒動に関わった家臣達のそれぞれのルーツをさぐり、それぞれの家臣達の心境を踏まえた上で、簡単な原因としての記述を追加して行きたいと考えております。

この調査も、個人の力では、相当困窮するものであり、こ今後とも、このノートにてご協力いただける方があれば幸いです。----喜連川一色家 2007年2月17日 (土) 04:07 (UTC)

記事の大幅削除について

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  • 今回削除された部分については、公式方針となったWikipedia:独自研究は載せないにおける「一次資料の直接公表」であると判断し、wikipedia上から削除し、外部リンクの紹介にとどめる編集としました。ただし、このことが利用者:喜連川一色家さんの言論を封殺する目的でないことは、ここで表明しておきます。すでに喜連川一色家さんがご自分のページでその研究の成果を公表されていること、またその研究が専門家による査読を通ったものではないことなど、何らかの形で公の出版物(自費出版は含みません)や研究発表(個人ホームページは含みません)がなされていないものであることから、ご理解いただきたいと思います。何かご意見がありましたら、Wikipedia:独自研究は載せないをよく読んだ上で、コメントをお願いします。--Doripoke 2007年5月6日 (日) 20:17 (UTC)

コメント依頼について

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  • すでに、この記事のあり方について、Wikipedia:コメント依頼にかけています。
  • 改めて申し上げますが、喜連川一色家さんの研究を否定しようとするつもりはありません。ただ、現時点で「同誌の記述は喜連川騒動事件で直訴の原告であり尊信派とされる高野修理と高塩清左衛門の子孫が執筆に関わっており、歪曲されていた」(本文より引用)という研究をされているのは、世界中で喜連川一色家さんただ一人であり、そういう意味で「一次情報」にあたるわけです。したがって、内容の真偽にかかわらず、この記事に関しては(もし記載するとすれば)、公的出版物である旧喜連川町誌の記述をそのまま書くしかないのが、現在のwikipediaのルールなのです。そのあたりをご理解いただけないと、今後ウィキペディアンとして活動をしていく上で著しい不都合が生じることになってしまいます。
  • この記事に関しては、喜連川一色家さん以外が、容易にその真偽を確認することができない(Wikipedia:検証可能性)点においても、問題のある記事であると考えます。従って、喜連川一色家さんの意向を最大限に考慮するならば、この記事を丸ごと削除するしかない、ということになってしまいます。(そうしないと、「喜連川町誌」に従った記述は「検証可能性あり」「一次情報ではない」ということになり、喜連川一色家さんの意に反した記述がwikipedia上に残ることになります。)以上、改めて、Wikipedia:独自研究は載せないをよくお読み下さいますよう、よろしくお願いいたします。
  • 可能であるならば、喜連川一色家さんの手で、Wikipedia:査読依頼にかけていただけると、不毛な争いは終わることになるかと思いますので、重ねてお願いいたします。--Doripoke 2007年5月7日 (月) 10:27 (UTC)

とりあえず、まずはリバート合戦は両者ともにお控えいただくべきだと思います。たいへん不毛であり、Wikipediaとしても得るものがありません。 さて、初めて記事の内容と議論の経緯を読ませていただきました。 喜連川一色家さんには、もう少しWikipediaの方針について粘り強く説明を行い、ご理解をいただく努力を続けるべきだと思いました(私もまだじゅうぶん理解できていないことがたくさんありますが)。

喜連川一色家さん、できればWikipediaは何でないかをご一読ください。 喜連川一色家さんの研究はたいへん精緻な素晴らしいものであり、興味深いと思いますし、他の方も(Doripokeさんも含めて)みなさんそう思っているはずです。喜連川一色家さんの記述内容が嘘だとか間違いだと一方的に思っている人もいないはずです。 しかしながら、残念なことに、Wikipediaの存在理由と目的は、そのような研究を発表する場ではない、と現状は定義されているのです。私たちはWikipediaの編集に参加する以上、現状の方針には従う必要があります(もちろん、方針を変えていく議論に参加することもできます)。 まずはDoripokeさんの指摘されている「独自研究」という意味と、それがなぜWikipediaからは削除されるのか、という点について、Wikipediaは何でないかなどをご参考に、ご一考ください。

Doripokeさん、喜連川一色家さん、両方に。まずは話し合いましょう。まずは合意を得る努力をお互いにしましょう。 いかがでしょうか?--Horlicks 2007年5月8日 (火) 16:23 (UTC)

  • はじめまして、喜連川一色です。今回の案件について、どのようにコメントしたらよいか正直困惑しております。ただ一言いいたいことは、私の投稿文はあくまで検証可能である喜連川町発刊の「喜連川町史」・「喜連川町誌」が基本であり、栃木県内の公営図書館・国立図書館に保管され自由閲覧できる文献であること。また、同誌の記述を否定する文献資料も東京大学史科編纂所のデータベースや市販もされている「徳川実記」やその他多くの有名な古文書等であります。しかも、事件の評定は江戸で幕府により行われてるので、喜連川藩士(敗訴側)の高塩家文書のみを根拠としている旧喜連川町の2誌より、江戸の公平な立場で書かれた文献のほうが信憑性が高いのは当然のことです。しかし、文中では同2誌を完全に否定した表現記述はしていないこと。あくまで、公平な立場での記述をこころがけていることを読み取っていただきたくおもいます。事件は、あくまで謎なのです。事件評定結果は、江戸の文献が正しいことは明らかですが、実際の事件の史実は、その時代時代の情勢により事実とは異なる形で政略的に裁かれることは、昔も現在も変わらないことです。ですから、喜連川と江戸での事件記述の双方を乗せる必要があるのです。Doripokeさんの大幅削除と修正の形ですと、ただの外部サイトへの誘導記事となってしまい、そのままでは、私やこれまで会社帰りの貴重な時間を割いて、文献調査をしてくだされた他の方々の意に反し、削除対象の記事の形となります。(計画的に、次に削除依頼を出す為の布石となる修正としか思われません。)

また、wikipediaの基本方針の削除すべき「独自研究」の意味は、この言葉をそのまま取るのではなく、「検証不可能な研究」の意味だと判断すべきかと考えます。 東京大学史科編纂所のデータベースの綱文の出展拠点となる多くの古文書や「徳川実記」は、いずれも喜連川町の2誌より信頼できる有名な歴史的公式文書では、なかつたでしょうか?--喜連川一色家 2007年5月8日 (火) 19:20 (UTC)

ご返信ありがとうございました。最初に明確にしておきますが、私はDoripokeさんによる編集を全面的に支持しているわけではありませんし、もし現状でこの記事に対する削除依頼が提出されれば、間違いなく反対票を投じます。その点はご懸念には及びませんのでご安心ください。私はただ両者の話し合いを促すべきと考えたのです。最終的にはこの記事がWikipediaにふさわしい素晴らしい記事になることを願っています。
さて、喜連川一色家さんからコメントいただいた内容はよくわかります。
話をわかりやすくするために整理します。
  1. 記述にあたって引用、参照した資料(史料)の真偽や、本記事の記述内容の真偽そのものは問題になっていない(明らかな虚偽であるから削除せよ、と言われているわけではない)。
  2. 問題にされているのは、記述された見解が、ある条件に適合した媒体等により、一定の公知性を既に得た情報であるかどうか(=独自の研究に該当するかどうか)、ということ。
「独自の研究」に関する喜連川一色家さんのご理解は、私としては、やや不完全な点があると思います。私は、排除される「独自の研究」とは、公知性を得ていない情報、を指すと思います。
Wikipedia:ウィキペディアは何でないかにあるとおり、Wikipediaは論文や研究を発表する場ではなく、まだ一般に知られていない情報を知られるように公開するための場でもないのです。むしろ、すでによく知られている情報(すでに公的になっている情報)を集積する場であると考えたほうがよいと思います。
たいへん残念なことに、『喜連川町誌などの記述には疑問があり、その背景には利害関係者による意志が働いている』とする見解については、まだ公知性が得られていない情報(多くの人がすでに知っている、または容易に知り得る情報ではない情報)だと思います。
当然、喜連川一色家さんがおっしゃる通り、それぞれの史料から、それぞれの歴史的事実については公知性が得られていると思います。
しかし、それらの史料や事実から見解を導く部分について、そこが「研究」にあたるわけですが、それが公知性を得ていない情報になると思います。
ある史料AにBという記述がある、という事実は公知性があり検証可能な情報であるとしても、ある史料Aの記述Bと、史料Cの記述Dには矛盾があり、その理由は関係者Eによる捏造の可能性が考えられる、という見解は、すでにそのような見解が公表され、公的な情報となっているのでない限り、「独自の研究」に該当すると思います(この記事がそれに該当するかどうか、その点は判断が微妙で、議論の余地はあると思いますが)。
ですので、そのあたりを慎重に記述することで、この記事をWikipediaに掲載すべきよい記事にすることができると思っています。
すでに喜連川一色家さんのコメントはいただきましたので、Doripokeさんのコメントもいただければ、と思います。喜連川一色家さんへの反論や、私への反論があれば、それもお願いします。
喜連川一色家さんからもコメントがあればお願いします。--Horlicks 2007年5月9日 (水) 00:42 (UTC)
  • お話は理解できました。どう対処するかはこれから検討するところですが、「捏造」という表現はあえて当投稿文では意識して使用していないこと、また「歪曲」という表現は、本投稿文の本文ではなく、あくまで外部リンク先の補足説明文として記述表現していることも、私の意識的なところです。
  • そして、あくまでも、投稿本文は、残された文献記述の紹介が中心であり、結論(独自研究結果)は出していない形としていることも読み取りいただきたいのです。「歴史に詳しい方」・「詳しくない方」だれが読んでも、本文中の年数や人物名に注意をはらい、wikipedeiaの内部リンクにも目を通して、検証しながら読むならば、当然矛盾点が発生するわけで、同時にこれを補足する形が、本文の趣向です。その種明かし(結論)は、あくまで補足情報としての外部リンク「喜連川騒動の一考察」(個人研究)の紹介文となります。あくまで「個人研究は、外部リンクで」が私の考えです。--喜連川一色家 2007年5月9日 (水) 02:13 (UTC)
その方針(結論は出さない)がよいと私も思います。現状の本文は・・・微妙なところですね。はっきりと「こうだ」と断言はしないものの、ある特定の結論を得ていることを前提として、それを論証する証拠を提示しているような文章になっています。
つまり、たとえば「A氏は犯行時刻ごろ犯行現場で目撃されている。A氏にはアリバイがない。A氏は被害者B氏とは不仲だった」と書けば、「A氏が犯人という結論は書いてない」とは言えなくもないですが、「明らかにA氏が犯人であるという推論に沿って書かれている」と受け取られるのは仕方ないと思います。
やはり、記述としては「この史料にはこう書かれている」「いっぽうで別のこの史料にはこうある」というようにするのがいいのではないかと思います。
私もあまり記事をたくさん読んでいないのですが、一つの例として、佐久間信盛あたりの記述は参考になるのではないかと思っています。ぜひご一読ください。
それと、現状の本文はかなり雑然としている(失礼)感がありますので、もう少し読みやすいように整理すると、いらぬ誤解を受けることも減るのではないかと思います。
あとはDoripokeさんのコメントを待ちましょう。--Horlicks 2007年5月9日 (水) 03:01 (UTC)


横から失礼します。喜連川一色家さんのご努力は大変なもので、また、興味深いと感じています。何とか合意できる記事として残せれば良いと思います。一方、確かに現在の文章には独自の研究が多いですし、文章そのものも同じことの繰り返しが多かったり分かりにくく、全体的に見直しが必要に思います。一旦大幅に削除されたDoripokeさんのお気持ちは分かります。このままでは合意点が見つけにくいと感じましたので、私の方で代替案を作ってみました

おそらく、喜連川一色家さんから見ると不正確で、逆にDoripokeさんから見ると独自の研究が残る中途半端な案かもしれませんが、現状の記事で議論を進めるよりは合意点を見つけやすい叩き台になると思います。合意いただければ、とりあえず現状の記事をこれで置き換え、その後で改訂していただければと思うのですが、いかがでしょうか?--Coleus 2007年5月10日 (木) 01:57 (UTC)

拝見しました。脚注の使い方など、さすが、という感じですね。
とてもわかりやすくすっきりと整理されており、かつ、慎重な記述で問題点を回避できているように思いました。
後は当事者のお二人にご賛同いただけるかどうかですね。
ここから始めて、さらに加筆されて素晴らしい記事に成長していくといいですね。--Horlicks 2007年5月10日 (木) 03:04 (UTC)

たいへん残念なことですが、Doripokeさんの利用者ページを見ると、どうやら話し合いは断念されたように見受けられます。 ただ、それでもやはり念のため、コメントを待ったほうがいいですね。--Horlicks 2007年5月11日 (金) 07:22 (UTC)

  • 了承しました。--喜連川一色家 2007年5月11日 (金) 08:12 (UTC)
  • Coleusさんの改訂に全面的に賛成です。感謝します。一点だけ懸念されるところは、「この記事が、ただ単にスクウェアヒルズHPへの誘導と取られるおそれはないか?」ということです。こればっかりは、コミュニティーの判断だと思うので、私個人としては何とも言いにくいですが。--Doripoke 2007年5月11日 (金) 12:29 (UTC)
  • 残念ながら、スクウェアヒルズは宿泊業ですので、このような記事からお客様の集客を望もうとは考えておりません。望める訳もないかと考えております。かえってイメージダウンになりかねませんのでメインページへのリンクは張っていないことを、ご確認いただければ幸いです。まして広告記事に信憑性を感じる方も少ないかと思います。ご安心ください。あくまでも、本件は、私の個人的案件であることをご理解いただけることを重ねて、お願い申し上げます。アドレスからメインページにまで入るマニアは一部の方々だけかと思います。--喜連川一色家 2007年5月11日 (金) 20:26 (UTC)
  • 追伸です。Coleusさんの代替案との切り替えの延期と現投稿文の再検証の件よろしくお願いします。「脚注」を使用することにより、文章がスッキリする点では、私も賛同した訳ですが、読み手(読者)によりですが、脚注に気付かない方がおりますと、かえって混乱するということはないでしょうか?

また、本年はじめの頃、事件における尊信派の「梶原平左衛門」の子孫である仙台市在住の梶原さんからメールが届きました。結論から申しますと「感謝」のメールでした。内容は、梶原平左衛門の先代、平右兵衛門は、古河公方家、重臣として使えており、喜連川尊信の入国に従い、喜連川に移住したが、喜連川騒動以降、喜連川での存在が確認できない。(墓もない。)しかし、この「平右衛門」は、古河の地にて1662年に亡くなっていることが、存在する墓石により確認できる。このことが、梶原家のルーツをさぐる上で、困窮の原因となっていた。「喜連川町誌」では、嫡子「平左衛門」は、忠臣として記述されていたのに、梶原一族は、古河に戻っていることの、原因が、当投稿文と「喜連川騒動における一考察」により判明したとのことでした。現在では、この梶原さんとは、それぞれの一族全体の研究仲間としてメール交換をしております。

この事件の真相を明確にすることは、喜連川の地を離れた尊信派家臣の子孫の方々のルーツをつなぐことでもあったのです。以上を含めて、再検証いただければ幸いです。--喜連川一色家 2007年5月14日 (月) 08:19 (UTC)

改訂しました(07/05/14)

[編集]

下書きの内容に差し換えしました。喜連川一色家さんには、私が切り替えを延期するように勘違いされたようなので、迷いました。しかし、検討する原稿がバラバラでは混乱しやすいので、申し訳ないとも思いますが実施しました。

この改訂版を元に、喜連川一色家さんは今後も加筆されることと思います。もちろん加筆することに全く問題はありませんが、これまでのように加筆を続けられると、再び同じような議論になることが懸念されます。そこで喜連川一色家さんに提案ですが、混乱を避けるために、これからしばらくの間は、加筆の多少に関らず、本文に加筆する前にノートに提案して確認されることをお勧めします。--Coleus 2007年5月14日 (月) 08:47 (UTC)

すみません、私自身の勘違いに気付いたので、改訂案を修正しました。私のノートに書いた下書きについて、喜連川一色家さんが手を加えていたのですが、気がつかず、その修正案に差し替えしていました。このままにすると、いったんは下書き案に合意いただいたDoripokeさんやHorliksさんと話が噛み合わなくなります。そこで、元の下書き案に戻さしていただきました。これは、加筆内容に問題があるわけではなく、「加筆前にこのノートで合意形成したい」と考え、手順を重視したからです。喜連川一色家さんにはお手数ですが、修正したい内容を改めてこのノートでご提案いただけますでしょうか?--Coleus 2007年5月14日 (月) 10:00 (UTC)

改定作業ご苦労さまです。また、ありがとうございました。とりあえず、一つ一つ提案することは、非効率ですので、Coleusさんの改定版から、これに追加修正を加えた形で差し戻しました。しかし、前述の「脚注」使用の利点と予想される弊害(脚注に気付かず、誤解されるケースの存在は無いのか?)についてと、喜連川騒動の特殊性におよぶ、元の投稿文の「疑問点」記述の追加のて点、皆様からご意見をいただければ幸いです。実際、喜連川騒動事件で大嶋に流罪となった梶原平左衛門関係の子孫の方(先代在住で実家は古河)との事件に関する真相について意見交換は、できており、彼等の先祖の「行動の必然性」と「幕府評定の必然性」について追記することも、歴史を理解する上で必要なことかと考えております。江戸時代を含め、これより、昔の武家や公家そして天皇家であろうと、現在の法律では、皆有罪となる行為(殺人・汚職・詐欺・強奪・誘拐など)は権力争いの過程で行ってきたことで、「負ければ罪人」、「勝てば英雄」は、日本を含め、世界の歴史の流れでは、なかったでしょうか?このことを理解した上で、事件関係者の子孫の方にも、先祖を尊敬できるよう、この事件を理解していただけるよう、追記修正して行きたく思います。--喜連川一色家 2007年5月14日 (月) 11:56 (UTC)

せっかく合意にこぎつけたと思っていたのですが、また一からやり直しですか。 ちょっと悲しいですね。--Horlicks 2007年5月14日 (月) 13:36 (UTC)

自分としては、一旦Coleusさんの版まで戻したいと思うのですが、自分はこれ以上戻すと、3RRに引っかかってしまうので、もし可能であれば戻した上で、保護依頼を貼っていただきたいと思うのですが、いかがでしょうか?--Doripoke 2007年5月14日 (月) 13:50 (UTC)
以前、少し口出ししたshimoxxと申します。率直な意見を申し上げますと、余分な記述を廃して論旨を明確にしたColeusさんの版の方が百科事典の項目としてはるかに優れていると思いました。喜連川一色家さんのご加筆内容には問題が多いと感じざるを得ません(脚注を忌避する必要はありませんし、記述する事実の取捨選択に偏りがあるように感じられますし、論旨をぼやけさせる余計な記述が非常に多いと思います)ので、一旦、Coleusさんの版に戻した上で、ご面倒でも加筆したいご内容を逐一お諮りになる必要があると思います。wikipediaは共同作業でつくりあげる百科事典です。喜連川一色家さんにはぜひ協調性のあるご行動をお願いします。--shimoxx 2007年5月14日 (月) 16:24 (UTC)

再改訂しました(07/05/15)

[編集]

Coleusです。皆さん、お疲れさまです。喜連川一色家さんはブロックが解除されれば戻ってくると思いますので、それからゆっくりやりましょう。喜連川一色家さんの加筆について検討し、再改訂してみました。箇所が多いので長くなりますが、以下がその説明です:

  1. 事件の背景 第1段落 ― 交代寄合的、国主格、無役、国勝手、参勤交代の任が無い、など多くの説明が加筆されました。しかし、よほど歴史に詳しい人でないと意味がわからないので、混乱しやすい文になったと思います。そこで、比較的意味が分かりやすい「諸役御免」と「参勤交代の任の無い」という説明は残し、その他の説明は省略しました。
  2. 事件の背景 第2段落 ― 一色刑部の父である一色氏久に対して長い説明が加筆されました。しかし、喜連川騒動は一色刑部に関する騒動であり、氏久の説明が長すぎて逆に記事の理解を妨げることと、一色氏久の記事を参照すれば十分と思われますので、一部を残して省略しました。
  3. 事件の背景 第3段落 ― 「この一色氏久の喜連川一色家は」の太字部分が加筆されましたが、省略しました。その他の部分は加筆を残しています。
  4. 経緯の節 見出し ― 「経緯」から「喜連川町誌における事件の経緯」に変更されました。そのまま変更を残しています。
  5. 経緯の節 「城代家老」の敬称に関する脚注 ― 城が無かったという説明に対し、実際には城があったので、修正が加わりました。修正はそのまま活かしましたが、余談の説明は省き、文章は見直ししました。
  6. 経緯の節 白河藩主名に関する脚注 ― 「実際は、本多能登守(本多忠義)が白河城主となったのは1649年であり、白河藩主榊原忠次が正しいと思われる。」の太字部分が加筆されました。加筆部分は独自の研究と思われますので、省略しました。
  7. 経緯の節 後半の記述 ― 家督相続の年の矛盾その他、大幅に加筆されました。しかし、この加筆内容の大部分は、いくつもの手がかりをつなぎ合わせた推理であり、明らかな独自の研究に思われます。とりあえずは加筆前の状態に戻しました。
  8. 補足の節 ― 見出しは「補足」から「事件評定が行われた江戸での文献と記録」に変更されました。そこで、変更を部分的に活かし、シンプルに「江戸での文献と記録」に変えました。その他の内容については、文の順序の入れ替え程度の細部の編集を行いました。
  9. 参考文献と外部リンク ― 喜連川町誌と喜連川町史のコピーを参照するサイト、および、喜連川騒動の略年表を商家するサイトとして、喜連川一色家さんの個人サイトへのリンクが3つ加筆されました。しかし、ウィキペディアでは個人サイトへのリンクは推奨されません。例外として、当記事ではすでに喜連川一色家さんの個人サイトへのリンクがありますので、追加されたリンクは外しました。
  10. 最後に ― 喜連川一色家さんにお願いです。これまでのノートの会話で明らかなように、喜連川一色家さんの加筆は、合意を得るためには時間がかかりそうです。だからといって加筆をやめる必要はありませんが、ペースを落として、1回の変更は1箇所に絞って、1回ずつ合意を取っていただけませんか? 面倒に思われるかもしれませんが、一歩ずつ進めるほうが、結果的には早いと思います。上に書いたように、今回はたくさんの加筆を私も一箇所ずつ見直ししましたが、さすがにこれほどの作業は負担に感じています。それに、上記の箇所について、今後バラバラに検討して合意を得ようとしたら、ノートの議論も混乱するでしょう。ご協力をお願いします。

--Coleus 2007年5月15日 (火) 01:20 (UTC)

Coloeusさんのご提案に賛同します。
Wikipediaはみんなで作るものです。また、一人ひとりでは不足している知識や情報も、たくさん人が集まることで、より客観的な、より有用な情報にすることができる場合があります。
ここは、みんなで話し合いながら、この項目を育てていくのがよいと思います。--Horlicks 2007年5月15日 (火) 10:33 (UTC)
  • 喜連川一色家です。覚悟のブロックアウトから帰ってきました。皆様には、何かとご協力いただき感謝しております。

さて、私の本投稿文の追加修正の目的を先に、ご説明させていただきます。

  1. 事件の背景 第1段 
  • 交代寄合」・・・万石未満の旗本の内、参勤交代を許された武家である。喜連川家は4800石であるが、参勤交代の任がないので交代寄合的と表現した。代表的なのが、私の親戚(母方の実家)である群馬の「岩松家」の120石である。現さくら市では、当初、喜連川藩は5000石としていたが現在は実高一万石としている。これは、江戸時代に新田の開墾が行われたためで、このケースは全国の大名家にいえることである。一般に喜連川家は、万石未満であるので旗本ではないのか?と思われているのでこの点は欠かすべきではないと考える。
  • 「国主格」・・・例として仙台藩の家老は皆万石大名であるが国主ではない。国主はあくまでも藩主である。よって、この記述も、事件評定を理解する上でかかせない記述となる。
  • 「無役」諸役御免の正式表現である。しかし、誤解のないよう、諸役御免でおぎなっている。幕府の保全処置。
  • 「国勝手」・・・大名の参勤交代の免除の意味で、源氏の棟梁となる「足利家当主」に江戸にいて諸藩の当主と自由に交流をもたれることは幕府にとって都合が悪いので、喜連川家にのみ許したと見せかけた幕府の保全処置。
  • よって、いずれの記述も省くべきではない。
  1. 事件の背景 第2段
  • 喜連川家における一色家の特別な位置付は、この事件評定の真実の結果に結びつくものであり、リンク先の記述で補うことは、読者に混乱をもたらすものと考える。現在に至っては本投稿記述のメインは、江戸に残された事件記述であるので、これに関連性を持たせなければならない。喜連川家の菩提寺である「龍光寺」においても足利一門の墓として、特別扱いの史跡として表札を設けるなど管理されている。「喜連川町誌」の事件記述を信じているのは、執筆にかかわった2家だけでおおくの旧喜連川町民は、記述に不信をいだいており、公的文献となった「喜連川町誌」だけが一人歩きして一般に知られていることは、現在の「喜連川町史」編纂委員会においても困窮の元となっている。よって、現さくら市のホームページの旧喜連川町の歴史年表では、当時の関連事項は抜いて作成している。
  1. 「城代家老」の定義
  • 一般に「城代家老」とは、城主不在の時、その城を守る家臣の代表の表現である。たとえば、幕末の宇都宮藩(戸田家)の家老(戸田家)は、高徳藩の藩主であった、最後に大名となった人物として有名である。しかし、彼は、宇都宮藩の家臣であるので、高徳の地に在したことはない。それで、高徳城は、その家臣の星家が預かっており、星家が「城代家老」である。よって、藩主が常に、国元にいる、喜連川藩に「城代家老」の存在はありえないのである。また、諸藩では、参勤交代により藩主が、国を留守にするとき、留守役となる「国老」・「国家老」・「筆頭家老」が「城代家老」といわれる。喜連川町では、旧藩主は、「足利家」であり「城もあった。(江戸時代初頭には、使わず廃城となる)」の誇りから「城代家老」と表現したと思われる。ありえない表現である。よって、繰り返しますが大切なことは、藩主が常に国元に在したので、「城代家老」は、喜連川藩には存在しえないのである。
  1. 白河藩主」の件
  • 事件当時の白河藩主は、「徳川実紀」でも、榊原忠次松平忠次)のリンクでも明白であるので、追加記述が必要である。まちがいだけでは、読者は混乱するのでは?
  1. 喜連川昭氏」の生誕日の件
  • 喜連川昭氏の生誕日は、「寛政重修諸家家譜」でも、内部リンクでも明白であり、「喜連川町誌」の誤りOR歪曲は、明白である。その他、関連ページ喜連川家の系図喜連川氏(足利家)においても明白である。それでは、なぜ、私がこのような「喜連川町誌」の記述から、立証する記述をするのか?といえば、「語るに落ちる」形で、現さくら市においても汚点となる、同誌記述を否定する必要があるからです。一般に一人歩きしている、記述を改訂する方法なのです。現町史編纂委員会としては、OBが作り出版した同2誌を、公式に表立って否定することはできないとの見解を確認している。
  1. 「喜連川町誌」の年表と「喜連川騒動の顛末」・「狂える名君」のリンクについて」
  • この記事の元となる資料の開示は、この記事の正当性を立証する上で欠かせないものです。これがないと、この記事は歪曲の上に基ずく「とんでも論」ではないこと証明であります。多くの旧喜連川町民および現喜連川町史編纂委員会と私の意図することを実現するための絶対定石でもあります。
  • 以上の件を検討いたでければ幸いです。反対者は、日本中において歪曲文書を信じる「高塩家」と「高野家」関係の方々だけかと思います。「梶原家」からは、当然同意をいただいております。
  • 現在の「喜連川家」と本来の喜連川家重臣の子孫は、明治から大正時代には、当地を皆はなれているのが現実です。江戸時代なら、喜連川は、奥州街道の宿場町として栄えていたが、国道4号線の開通に伴い、喜連川の主要産業は、農業のみになりました。財力のある重臣・家臣・商家の多くは、国内の主要都市や満州の地へ離れていったのです。そして、残された町民の一部により、作成されたのが「狂える名君」であり「喜連川騒動の顛末」です。情報元の少ない、喜連川の地にあり、十分な教育もない時代ですから、「書いたもの勝ち」であったのです。--喜連川一色家 2007年5月16日 (水) 10:47 (UTC)

追加改定案について

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  • 上記に長々と、私の考えを述べましたが、次に「脚注」部分の改定案を提示します。
  • 脚注2--『喜連川町誌』による。実際は本多能登守(本多忠義)が白河藩主となったのは1649年である。==>『喜連川町誌』による。実際は本多能登守(本多忠義)が白河藩主となったのは1649年6月である。そして、1649年6月までの藩主は榊原忠政の嫡子松平忠次である。(寛政重修諸家譜より)
  • 脚注3--『喜連川町誌』による。喜連川の専念寺にある墓石には、昭氏の生母(一色刑部の娘であり3代尊信の側室)の死去年は、家督相続の10年前の寛永19年(1642年)12月2日と刻まれている。==>『喜連川町誌』による。喜連川の専念寺にある墓石には、昭氏の生母(一色刑部の娘であり3代尊信の側室)の死去年は、『喜連川町誌』の「年表」で記述される家督相続年(1652年)の10年前の寛永19年(1642年)12月2日と刻まれている。そして、昭氏の出生年は寛永19年(1642年)10月27日であり、生母は昭氏を生んで死去した。(寛政重修諸家譜より)
  • 脚注4--『喜連川町誌』による。実際は榊原忠政は1607年に死去している。==>『喜連川町誌』による。実際のところ榊原忠政は1607年に死去しており、嫡子であり1649年6月まで白河藩主であった榊原忠次松平忠次)が正しい。また、喜連川昭氏の家督相続は1648年である。(寛政重修諸家譜より)
  • 以上3件をまず追加改定案として提案します。検証可能な記述かと思いますが?ご検討のほど、よろしくお願いいたします。--喜連川一色家 2007年5月16日 (水) 19:55 (UTC)
Coleusです。喜連川一色家さん、編集の手を休めていただき、ありがとうございました。おかげで落ち着いて検討できます。現時点で検討箇所は
  1. 事件の背景 第1段落
  2. 事件の背景 第2段落
  3. 「城代家老」の定義
  4. 白川藩主の件(脚注2の改定案あり)
  5. 喜連川昭氏の生誕日の件(脚注3、脚注4の改定案あり)
  6. リンクについて
でよろしいですね。
一度に検討すると大変なので、まずは脚注の改定案がある4.と5.について検討し、その結論が出てから残りを検討しましょう。どちらも、参考文献が明記されて良くなったと思います。
4. 白川藩主の件 - ご提案の脚注2を少しだけ補正して(重複を省きました)、「『喜連川町誌』による。実際は本多能登守(本多忠義)が白河藩主となったのは1649年6月であり、それまでの藩主は榊原忠政の嫡子松平忠次であった(『寛政重修諸家譜』より)。」でいかがでしょうか?
5. 喜連川昭氏の生誕日の件 - 一点確認ですが、「昭氏の後見人は榊原忠次である」ということは、『寛政重修諸家譜』に明記されているのでしょうか?それと、脚注の場所が混乱している気がします。そこで私の提案としては、脚注3と脚注4とをどちらも文中から文末に移動して、次の文章にしてはいかがでしょうか?
脚注3 『寛政重修諸家譜』によると、喜連川昭氏の出生年は寛永19年(1642年)10月27日であり、家督相続は1648年である。また、『喜連川町誌』に後見人と記載された榊原忠政は、1607年に死去している。
脚注4 喜連川の専念寺にある墓石には、昭氏の生母(一色刑部の娘であり3代尊信の側室)の死去年は、『喜連川町誌』に記述された家督相続より10年前の寛永19年(1642年)12月2日と刻まれている。
--Coleus 2007年5月17日 (木) 01:24 (UTC)


  • 喜連川一色家です。ご回答ありがとうございます。Coleusさんのご意見を参考にして、次の記述ではいかがでしょうか?
4.白河藩主の件 -- 「『喜連川町誌』による。実際は本多能登守(本多忠義)が白河藩主であったのは、喜連川騒動事件解決の翌年1649年6月からであり、それまでの白河藩主は榊原忠政の嫡子榊原忠次(別名松平忠次)であった(『寛政重修諸家譜』より)。」
  • 上記の記述は、『徳川実紀』の記述との整合性をもたせる上で必要かと思います。
5.喜連川昭氏の生誕日の件 -- 「『喜連川町誌』による。実際は喜連川昭氏の生誕日は寛永19年(1642年)10月27日であり、家督相続は喜連川騒動解決の1648年である。また、『喜連川町誌』の「年表」に記述された1652年の家督相続時に昭氏の後見人と記載された榊原忠政は、1607年にすでに死去した人物となる(『寛政重修諸家譜』より)。」
  • 上記の記述も、『喜連川町誌』との関連性をもたせる上で必要かと思います。「年表」につては、『喜連川町誌』内の文書であり、「喜連川騒動の顛末」とは執筆者が異なる。しかし、これに合わせて修正作成されたと思われ、家督相続年を動かされてしまったか、編集段階で悪意により変更された疑いがあるので、原文を検証材料として提示する必要があると考える。
  • 上記の喜連川昭氏の生誕日の記述末尾に追加する形で -- 「また、喜連川の専念寺にある昭氏の生母(一色刑部の娘で、3代尊信の側室)の墓石に刻まれた死去年は、昭氏生誕の一ヶ月後の寛永19年(1642年)12月2日と刻まれている。」
  • 上記の記述は、明治44年版『喜連川町史』の「狂える名君」の記述である「事件は、嫡子誕生により、正室と側室による主導権争いに始まり、即刻一色刑部・伊賀金右衛門等は側室腹による藩政乗っ取りを謀った。即刻昭氏は彼等の真意を見破るべく発狂の病を粧した。(要訳)」を否定する形で必要である。もっとも、この記述だけで同誌を知る読者は、このことに気付くはずである。また、昭氏の実弟、氏信の生没年は、1650年~1670年でしたので(寛政重修諸家譜より)どちらを嫡子にするかの争いではありません。
  • また、喜連川家では、男子と正室婦女子と側室婦女子の墓(菩提寺)はそれぞれ異なることは、旧喜連川町民の皆知るところであり、『喜連川町誌』においても、このことは記述されている。
  • 以上、3件の記述でいかがでしょうか?皆様のご意見をお待ちします。--喜連川一色家 2007年5月17日 (木) 08:11 (UTC)
  • 追伸、何か下の方がすごいことになっているようなので、『喜連川町誌』の原文の一部をリンクさせました。一応、現喜連川町史編纂委員会に出向き、了承を得ておりますことを、先にお断りささていただきます。しかし、「喜連川騒動の顛末」と「狂える名君」の書き写しでの紹介と一部資料写真の紹介の了承はいただいておりますが、全文の写真での紹介の確認はとれてませんので困惑しております。できれば、なんだかんだ言う前に、近くの図書館にでも足を運んでいただければよいのですが。
  • 早くこの記述案件の同意をいただき本文への修正に入りたいものです。下の方々の言い分を読んでいると、予想された罠にはまっているようです。一応、冷静に当修正案件の同意を待つつもりです。--喜連川一色家 2007年5月17日 (木) 16:10 (UTC)
Coleusです。まず、4.と5.について、喜連川一色家さんの文案をそのまま脚注として本文に反映しました。脚注の場所などは完璧ではないかもしれませんが、話を進めるためには、これで妥協いただければと思います。また、もし他の方も異論があれば教えてください。
それと、『喜連川町誌』と書くか『喜連川町誌』昭和52年版と書くかバラバラだったので、本文の最初と参考文献だけは丁寧に『喜連川町誌』昭和52年版と書き、他の箇所は短縮しました。また、綱文の脚注に検索方法まで追記されていましたが、そこまでは必要ないと思います。
それでは話を進めます。ちょうど問題になったので、次は6.リンクについて検討しましょう。
まず前提条件として、存知の通り、
特に、歴史など学術分野の記事では、これらの方針は比較的良く守られています。喜連川一色家さんのサイトへのリンクは、この二つの方針のどちらにも従わないことになります。ちょうど下でも議論になっているように、記事に加筆している人の個人サイトが外部リンクにある限り(たとえ本記事とサイトの内容がどれほど充実しようと)、この記事はウィキペディアの方針に従わない怪しい記事で、検証可能性と中立性を疑われ続けることでしょう。重要な参考文献の原文も、方針に従わない個人サイトへのリンクでは、かえって記事全体の信頼性を下げています。
そこで、申し上げにくい提案ですが、疑いを晴らすためのベストな方法は、喜連川一色家さんのサイトを外部リンクから外すことだとも思います。例えリンクが無くても、喜連川騒動に興味がある方は、自分で検索して、間違いなく喜連川一色家さんのサイトにたどり着くでしょう。まずは喜連川一色家さんにおかれましては、ここまで努力した記事の信頼性を高めるために、ご自分を犠牲にしてもリンクを外すことをご検討ください。ただしどうしても承服できない場合、喜連川一色家さんの熱意に敬意を表して、ベストの解決ではないですが信頼性を犠牲にし、最小限のリンク1ヶ所を残しても良いと考えています(個人的な意見です)。--Coleus 2007年5月18日 (金) 00:47 (UTC)
  • 了承しました。ただし、「狂える名君」と「喜連川騒動の顛末」の写しのページへのリンクは、残しました。「これらの文献は、栃木県内と旧喜連川町と国会図書館近郊の方々以外、容易に閲覧することが大変であること」からです。皆様にご理解いただければ幸いです。実際、この「写し」は、検証資料として、全文、写真に撮りネット上に公開することの確認は取れていないため、原文を誤字までそのまま、丁重に写したもにです。全文の写しの紹介は、現さくら市の「喜連川町史」編纂委員会、主事の方に「一般に販売された公開文献であること」から、公開の承諾は得ております。
  • また、私は、昨年10月より、現在に至るまで、毎月一度の同編纂委員会詣でを行っており、本来昨年11月発刊予定の「喜連川町史(近世)」の原版を確認し、すでに印刷に入っていること」も確認しており「狂える名君」と「喜連川騒動の顛末」の基となった、「高塩家文書」が載せられていることも確認しております。しかし、「喜連川町史(近世)」は、現在に至っても(半年以上)今だ、販売予定日が決まっておりません。製本終了後の修正の為、追加予算がたたないためと思われます。宇都宮から来られている、編纂の基となる文章を書く先生の「なんだこりゃ!」「どうなっているのだ!」「そんなバカな!」の困窮の声も確認しております。主事である担当の方からは、「喜連川町史」(明治44年編さん)と「喜連川町誌」(昭和52年編さん)は、あくまで「町内の史実を知る方に自由に書いていただいたものであり、歴史書ではない。」とのコメントとなりました。たとえ個人であっても、誠実な根拠と資料をもって対処すれば、公的行政機関の歴史の歪曲を正すことは、可能なのです。余談となりました。--喜連川一色家 2007年5月18日 (金) 07:10 (UTC)
個人ページへのリンクはいろいろ思い入れがあったろうと推察しますが、提案を受けていただき、ありがとうございました。「狂える名君」と「喜連川騒動の顛末」の写しのページへのリンクは、私個人としては妥協範囲ですが、それでも本来は望ましくないので、他の人からは異論が出るかもしれません。もしも異論が出たら改めて合意点を探しましょう。
次に、3.城代家老の定義の件ですが、「城代家老ではなく筆頭家老である」という喜連川一色家さんの記述は、現在の記事の文章に十分反映されていると思います。問題があれば、改定案をノートで教えてください。
次に、2.事件の背景第2段落の件です。「一色家の特別な位置づけを記述したい」という喜連川一色家さんの意図に反論はありません。ただし、一色刑部の父である一色氏久について細々と記載した当初の文では、おそらく大半の人は混乱するばかりでわけがわかりません。今一度、どうしても記載したい内容を整理して、改定案をノートに提案いただけませんか?--Coleus 2007年5月18日 (金) 08:42 (UTC)
Coleusさんに同意です。喜連川一色家さんのいろいろと加筆なさりたいお気持ちはわかるのですが、アレコレ項目に盛り込みすぎることで、かえって読者は混乱してしまうと思います。自分も喜連川一色家さんの版を拝読したときにだいぶ混乱してしまいました。むしろColeusさんの簡潔な版の方が、事件の要点が頭に入りやすく、はるかに理解しやすかったです。
ウィキペディアは既に公知となっている資料・文献を元に記述することしか許されていません。公知の資料・文献を元に記述せざるを得ない以上、いくらおかしいと思っていても受容しなければならないこともある訳です。例えば、日本の旧石器時代の捏造事件がありましたが、事件発覚以前であれば、いくらおかしいと思っていても、ウィキペディアにはその当時の研究成果に従って、数十万年前の日本に高度な石器文化があったと書かなければならないことになります。これはウィキペディアの根幹をなす方針です。
今現在、本項目の根拠となるべき文献は非常に限定的のようです。その文献の内容がおかしいことが明らかだと思っても、他によるべき公知の文献がなければ、その文献を否定する研究が発表されるまで我慢するのがウィキペディアの流儀なのです。どうもこれまでの喜連川一色家さんのご行動を拝察しますに、公知の文献に基づくならば望まない項目内容になってしまう、他によるべき文献は今のところない、しかし史料などを総合すると歴史の真実は別にあることが明らかだ、そのことを何とかウィキペディア上で明らかにしていきたい、という意図があるように思われます。我々ウィキペディアンが依拠してよいのは誰か研究者の研究成果だけです。いくら考察を加えていないと言っても、ある史料を取捨選択してウィキペディア上で示す時点でそれは独自の研究になってしまうのです。残念ながら喜連川一色家さんのご記述方針では、独自の研究になっている可能性が非常に高いと思いました。Coleusさんの版はその懸念を払底してくださっていると感じます。
つまらないことを長々と述べました。どうもすみませんでした。--shimoxx 2007年5月18日 (金) 12:03 (UTC)
  • Shimoxxさん、いろいろとご協力ありがとうございます。なんだか、よくわかりませんが、現在、Coleusさんの提案に合意して、変更編集に肉付をしていることは、このノートを読んで、理解していただけているかと思います。
  • さて、先ほど「筆頭家老」の項目に内部リンクをはりました。このことにより、「喜連川騒動の顛末」の執筆者でさえ誤解していた「城代家老」の件は、かたずいたかと思います。実際の所、私の知識を説明している内部リンク先があって良かったです。また、幕府の公式文書「寛政重修諸家譜」での調査に至り、この文献でも、3代尊信の任期と4代昭氏の家督相続年やその他登場人物の任期や生誕年が裏付できたことは、幸いでした。私の方の追加修正は終了しました。また、また何かありましたらご意見をいただければ幸いです。いろいろとありがとうございました。--喜連川一色家 2007年5月18日 (金) 13:29 (UTC)

Wikipediaは研究を公表する場所ではありません

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たとえ優れた研究成果であっても、信頼できる出典からの引用をしているかのごとく、冷静に読みやすく叙述してください。拝察するにリンク先の個人Webpageと同時進行で編集が進んでいるようですが、このような進行形態は感心できない。Wikipediaは版権を主張できないのですから、実際すぐれた研究の場所にするには「もったいない」ですよ?--125.205.8.21 2007年5月16日 (水) 23:11 (UTC)

  • この投稿文は、このノートの最初に記述されている通りで、一度、個人研究に基ずく削除依頼があり、削除依頼のノートで「継続」が議決されております。私が最初の投稿者ですが、この内容は、権威あるプロの研究者の研究材料となることを望んでおります。版権は望んでおりませんので悪しからずご理解いただければ幸いです。また、この利用者名125.205.8.21から判断するとDoripokeさんですよね。--喜連川一色家 2007年5月17日 (木) 08:17 (UTC)
  • いえいえ!全く別人です。Wikipedia:独自研究は載せないに誤投稿があったのを発見した経緯で、当テーマに辿り着いた全く通りすがりの者です。ページの充実を楽しみに、また拝読させて頂きます。<(_ _)>ペコーリ--125.205.8.21 2007年5月17日 (木) 08:55 (UTC)


  • まあ妄想も甚だしいというか……。何とか家の子孫の次は、IPでの自作自演疑いですか。私は喜連川一色家さんのような土地持ちの経営者とは違って、単なる給与労働者ですから、仕事の時間中にWikipediaに書き込むなんてことをしたら、当然就業規則違反で首が飛んでしまいます。もしお疑いになるようでしたら、Wikipedia:CheckUserの方針をお読みの上で、Wikipedia:CheckUser依頼を行っていただければと思います。私としてはチェックユーザーに同意しますので。--Doripoke 2007年5月17日 (木) 09:45 (UTC)
  • いやいや!ワタクシをネタに楽しまないでくださいよw論争が起きる事はWikipediaにおいては素晴らしい事ですから、信頼できる出典に忠実に、のCooLなスタンスで宜しくでありますヽ(´▽`)--125.205.8.21 2007年5月17日 (木) 11:49 (UTC)


タグについて

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こんにちは。町誌とほかの文献との齟齬について、大変興味深く拝見しました。ただ、原則として個人サイトをウィキペディアの情報源とするわけには参りません。残念なことに独自の研究といわざるを得ないのではないでしょうか。ですが、ただちに削除するには惜しいとも思いました。ウェブは広いので、ひょっとしたら出典とできる資料を持った方が見つかるかもしれないので、独自研究などのテンプレートのタグを貼りました。これらのタグは、確かな出典が得られるまではがさないようお願いします。--miya 2007年5月17日 (木) 11:52 (UTC)

  • いちど「独自研究」の件で削除依頼が出されて、継続との投票が得られたようですよ。ノートの記載が多すぎでワタクシも分かんなかったんですがwまあ、テンプレートくらいあったほうが、中立の観点でいいのかしらん?出典を羅列されても、大抵の素人にはその出典を検証できる能力(or時間)が無いというのが辛いところ・・・(;´Д`)--125.205.8.21 2007年5月17日 (木) 11:57 (UTC)
流れを巻き戻してしまっているように思います。
すでにその段階(独自の研究)の話は通過してきていまして、その後、いかにして独自の研究を排した記事にできるか、ということでColeusさんにより案が出され、いったんその案を基礎とすることで合意しました。
その後、また喜連川一色家さんの編集が続いたので、今後は編集を行う前に事前にノートで話し合うようにしませんか、という提案がされているところです。--Horlicks 2007年5月17日 (木) 13:46 (UTC)
ちなみに、Wikipedia:削除依頼/喜連川騒動を読むとわかりますが、独自の研究を理由とした削除依頼が「継続」という結果になったのは、「独自の研究には当たらない」という結論ではなく、「削除ではなく編集で対応すべき」という結論になったためです。
喜連川一色家さんには、どうもその点で誤解があるように見受けられます。--Horlicks 2007年5月17日 (木) 14:53 (UTC)
  • Horlicksさんのご懸念は分かってますよ。現在、改定案の記述の討議を行っていますので、ここで、話すのではなく上記の討議に入っていただけたらと思います。また、他の皆様も、ただ口出しするだけでなく、検証資料の提示は当然行っておりますので内部リンク・外部リンクや図書館などで検証いただき討議に参加していただければ幸いです。また、「喜連川騒動事件」について、多くの皆様に読んでいただいていることが実感できたことも私としてもありがたく思います。--喜連川一色家 2007年5月17日 (木) 16:23 (UTC)
  • 追伸、「東京大学史科編纂所の大日本史DB」の綱文は、「喜連川」と「綱文」をKEYにして検索すると皆様のパソコン画面に表示されますよ。他の文献は、上記の通りで、やはり検証&編集に参加する以上、その責任において、自分の足で確認されるのが、マナーかと存知ます。公営の図書館なら『喜連川町誌』・『寛政重修諸家譜』はどこにでもありますよ。『喜連川町史』は旧喜連川町図書館、(現さくら市喜連川支所)にあります。--喜連川一色家 2007年5月17日 (木) 16:47 (UTC)
現状はHorlicksさんのご説明の通りです。以前は独自の研究でしたが、現段階では状態は改善されたと思っています。とはいうものの、まだ改定作業中ですから、作業が落ち着くまでタグがあっても良いとは思います--Coleus 2007年5月18日 (金) 00:49 (UTC)
  • そうですね、タグについては私もある意味賛成です。喜連川騒動事件を知らない方々の窓口となりますので初版投稿者としても、大いにこのルートから入っていただき「喜連川騒動事件」の真実を知っていただけることを望むと同時に、新たな資料などありましたら提示していただければ幸いです。--喜連川一色家 2007年5月18日 (金) 05:19 (UTC)
  • すみません、説明不十分だったので補足します。保護依頼が出ていたのでひさしぶりに見に来たら現在のような状況で、「これは保護するよりも、出典タグと独自研究タグを貼った上で加筆を続けていただいたほうがよさそうだ」と考えたのでした。Horlicksさんは上で「その段階(独自の研究)の話は通過」と書いておいでですが、『寛政重修諸家譜』の解釈などは依然としてウィキペディアのオリジナルなリサーチ、というべきではないでしょうか。寛政重修諸家譜の項目を読むと、この資料にある「当主の出生年」などは必ずしも正確ではないようですし。喜連川騒動 について学術的な論文や著書が見つかるまでは、これらのタグはこのまま貼って置いていただくほうが良いのではないかと思います。--miya 2007年5月18日 (金) 06:17 (UTC)
  • Miyaさんへ、『[[寛政重修諸家譜』の記述を丁寧に見直していただけないでしょうか。出世年を「サバ読む」にしても、「むちゃくちゃ」ですよ、生母の史跡もあり、「専念寺」の過去帳と昭氏の生母の埋葬にともなう、藩主尊信と昭氏の古記も同寺にのこされていますよ。また、多くの喜連川足利氏の研究者のページでは、1648年の隠居と相続は常識です。ぜひ、ネット上だけでも調査していただければと思います。
  • また、藩主の出生年の「サバ読み」が行われたのは、「慶安事件」以後の話であり、この時期は、「嫡子なし」の場合、親藩の場合、養子縁組で対処され、これ以外は、即刻、改易・取り潰しの時代であったことは、歴史研究家の間では常識ですよ。もっとも、タグは賛成で望むところであることは、変わりません。--喜連川一色家 2007年5月18日 (金) 07:36 (UTC)
  • 「研究者の間では常識」という説明はWikipedia的ではありませんね。もっとも、出典を提示されてもわざわざ寺に出かけて確認するような!!労力を割ける人はマレでしょう(・∀・)!学会ではないのでお手柔らかに。( ´_ゝ`) -3--125.205.8.21 2007年5月18日 (金) 15:00 (UTC)

何でもリンクにしないで下さい

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この版での編集はいくら何でもないでしょう。項目名に全角括弧は用いません。何でも[[]]で囲めばいいというものではないんですが。また、リンクの際はリンク先を確認してください。徳川実紀を「徳川実記」とか書いていたような人[3]には通じないことかもしれませんが。--Lonicera 2007年5月21日 (月) 15:10 (UTC)

  • ご指摘ありがとうございました。コメントを入れていませんでしたので、誤解があったのかとおもいます。改めてこの編集の意図をご説明させていただきます。
この「喜連川騒動」記述内の内部リンクの目的ですが、記述の検証性を高めること、そして、現在Wikipedia内の内部リンクはないが、聞いたことのある項目であれば、だれか知っている方もいるはずですので、ひと目で未投稿項目であることを提示し、有意義な投稿をしていただき、この「喜連川騒動」の検証性をより高めていただく協力者の募集の意味があります。そして、歴史にきよみは、あるが人物関係の知識に自信がなく、記述の意味がうまく読み取れない方であっても容易に理解できる、そういった記述の編集としたいからです。ご理解いただければ幸いです。--喜連川一色家 2007年5月22日 (火) 03:02 (UTC)
    • 利用者:Loniceraさんが指摘している点の一つは、Wikipedia:記事名の付け方に反した命名(=リンク)がされている点です。詳しくはこちらをお読み下さい。ところで、「歴史にきよみは、あるが人物関係の知識に自信がなく(歴史に興味(きょうみ)はあるが、人物関係の知識に自信が無く」でしょうか?)部分の意図するところがわかりませんので、解説していただければ幸いです。--Doripoke 2007年5月22日 (火) 12:46 (UTC)

削除された部分について

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  • 喜連川一色家氏が「不当である」とおっしゃっている部分は、全て、ノート:高氏師で私が質問している部分です。回答がいただけないと言うことで、「出典なし」と見なしています。出典を明示した回答がなされれば、当然、記述されてもいいと思いますが、現状、喜連川一色家氏が回答を拒否している以上、載せるべきではないでしょう。ご不満でしたら、是非、ノート:高氏師での質問項目に、全てお答えください。


  • だいたい、お答えいただけない以上、二階堂主膳助と二階堂又市が同一人物であるということすら、喜連川一色家氏の頭の中にしか根拠がないことと判断せざるを得ないんですよ。--Doripoke 2007年5月25日 (金) 09:29 (UTC)

さくら市立喜連川図書館に行ってきました。

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とりあえず本丸を攻めれば、何か打開策があると思ったので、さくら市立喜連川図書館(旧:喜連川町図書館)に行ってみました。で、いくつかのことがわかりましたので、ご紹介します。

  • 喜連川一色家氏が『喜連川町史』からの出典としていた「狂える名君」は、実は『喜連川郷土史・前編』(片庭壬子夫・喜連川町教育委員会、1955年)に載っているものであること
  • 喜連川文書」というものが存在すること。
  • さらに「喜連川文書」を調査した栃木県立博物館の報告書が出版されていること

これらを参考にして、一部加筆訂正を行いました。なお、『喜連川郷土史・前編』『栃木県立博物館調査研究報告書 喜連川文書』の当該部分はコピーして持ち帰ってきました。必要であれば提示する用意があります。以上、よろしくお願いします。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 08:46 (UTC)

それらの資料に、この事件(と言われているもの)に関する記録がある、ということでしょうか?
であるなら、それを下敷きにして、明確な出典のある記事として全面的に改訂するのが、最善の解決になりそうですね。--Horlicks 2007年5月26日 (土) 11:50 (UTC)
内容を見た上で次節に新たにコメントしなおしましたので、こちらは削除します。--Horlicks 2007年5月26日 (土) 12:05 (UTC)

章立ての変更の提案

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ご苦労さまです。新たな資料があったことを踏まえ、「江戸での文献と記録」と「「喜連川町誌」における事件の経緯」の章の順序を入れ替えることを提案します。「江戸での文献と記録」が充実するのであれば、多くの資料に基づいたそちらの節を本記事の主柱とするほうが簡明でしょう。--スのG 2007年5月26日 (土) 11:08 (UTC)

特に反対する理由もないので、同意したいと思います。なお、実際の作業については、少し待ってからの方がスムーズに行くと思うのですが。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 11:52 (UTC)
今、内容を見ました。なるほど、またちょっと話が微妙に違っているようで興味深いですね。
さて、確かに出典の明確性、信頼性から言っても、「喜連川文書」の記述を一次史料として優先して記述するべきだと思いますので、賛成します。
みなさんの同意が得られれば、有志が編集すればよいかと思いますが、問題は喜連川一色家さんがこれをどう受け止められるか、ですかね。--Horlicks 2007年5月26日 (土) 12:04 (UTC)
自分としても、喜連川一色家氏がおそらく長い間かけて研究したことを、図書館に入って15分でアレしてしまったので、ある意味弱ってしまったのですが、そういう事情で、編集については、しばらく待ってみた方がいいかもしれません(いろんな意味で)。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 12:26 (UTC)

「出典の出典」は不要です

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  • 徳川実紀関係で出典先として様々な書物を記載されていますが、本文で直接用いられていない以上、「出典の出典」は不要です。以上、ご確認下さい。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 12:38 (UTC)

「引用(blockquote)」の使い方について

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喜連川一色家さんは喜連川文書の要約部分を<blockquote>~</blockquote>にされていますが、quoteとは「引用」のことで、「引用」とは、改変を加えずに原文を引き写すことを言うので、該当箇所のような「概略の趣旨を現代文で要約したもの」は当てはまりませんよ。--Horlicks 2007年5月26日 (土) 15:11 (UTC)

スタイルの問題は、Wikipediaのガイドラインにできる限り従うほうがいいと思います。
また、ウィキプロジェクトごとに独自のガイドラインが存在する場合もあります。--Horlicks 2007年5月26日 (土) 15:41 (UTC)
  • Block依頼により、いずれWikipediaより消える私ですが、貴重なご指導をいただき、ありがとうございました。また、「喜連川騒動の削除依頼のノート」を閲覧していてくだされば幸いです。Doripokeさんのこれまでの「喜連川騒動」における行動の理由が、理解できたようです。--喜連川一色家 2007年5月26日 (土) 16:04 (UTC)

喜連川一色家さんが指摘された疑問点について

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ノート:削除依頼/喜連川騒動より引用(喜連川一色家さんの発言)

どうも、記述内容を冷静に試読してみると、つじつまが合わないようなのですが?喜連川尊信の「発狂」自体は、いくら当時でも「取り潰し」の対象になったかどうか?嫡子がいるわけですし、しかも、榊原忠次は、徳川家康の姪の子であるので、徳川(松平)一族扱いです。当時としては、かなり幕府の温情が感じられる沙汰です。筆頭家老が責任を取ることは、納得できますが、その他の家臣までとは?、まして、彼等の嫡子までお咎めがあるとは?史実は事実であるなら、そのへんの「信憑性」を示すものはないのでしょうか?

改易の項目を見てもわかりますが、乱心(発狂)は改易の事由になり得る重大な問題で、実際に事例もたくさんあります。 現代の価値観で見ると納得できないかも知れませんが、当時のものの考え方としてはこういうものです。 個人的な感覚やイメージ、思い込みだけで史料の記述の批判を試みるのは、歴史学の態度としてはやや問題があります。史料の記述の批判は、別の史料の提示で行うべきです。--Horlicks 2007年5月26日 (土) 15:23 (UTC)

  • そのことは、私自身、よく理解しているつもりです。ただ、これまで、事件の多くを知りながら、「削除依頼の提出」や「コメント依頼の提出」、私にたいする「Block依頼」での「永久Block」をコメントとして提案しているDoripokeさんの真意を知りたく、コメントをいただきたいと思っていたところでして、ご理解いただければ幸いです。そもそも、栃木県博物館の展示物を関係者以外が知る可能性は低いと考えております。(断定は出来ませんが)であれば、これまでのDoripokeさんの行動も「やむなし」として許せる気もするのです。--喜連川一色家 2007年5月26日 (土) 15:45 (UTC)
落ち着いて、冷静によく読みましょう。Doripokeさんは栃木県博物館が刊行した書籍に収録されたものを、さくら市喜連川図書館でご覧になった、と説明されています。
いずれにしても、新たな事実を提示しようとしている人に対して、根拠もなく頭ごなしに嘘つきのような扱い方をするのは少々失礼が過ぎるのではないでしょうか。
これまで喜連川一色家さんがおっしゃってこられたように、不審の向きがあれば、ご自身で確認されるのがベストだと思いますよ。--Horlicks 2007年5月26日 (土) 15:49 (UTC)
  • それでは、「喜連川騒動」の出典で「喜連川文書」の所在を詳しく、記述投稿したのは、Doripokeさんですが、栃木県立博物館と明らかに編集されております。これでは、つじつまが合わないと私が指摘したコメントの答えになっていないことはお気ずきでしょうか?Horlicksさんには、投稿当初より大変おせわになっている方ですので、Block依頼も含め賢明な判断を、重ねてお願いいたします。いつも感謝しております。--喜連川一色家 2007年5月26日 (土) 16:15 (UTC)
    • 栃木県立博物館が出版した、『喜連川文書』というタイトルの、喜連川文書の研究報告をまとめた本のことです。なにか勘違いをされていたようですね。詳しくは(詳しくないのですが)amazonの検索で「喜連川文書」と入れてご覧下さい。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 16:20 (UTC)
    • (編集競合しましたがそのままで)何度も書きますが、県内各地の図書館にあります。栃木県図書館総合目録(http://www.lib.pref.tochigi.jp/soumoku/soumoku_top.htm )で、県内の公立図書館の蔵書が調べられます。これによると、「県立・県立足利・上三川・鹿沼・真岡・芳賀・市貝・栃木市・小山中央・壬生・石橋・野木・大平・藤岡・矢板・氏家・喜連川・大田原・黒磯・南那須・烏山・小川・佐野・宇都宮市立・宇都宮東」の各図書館に所蔵されています。お近くの図書館をご利用下さい。あと、私のブロック提案(3ヶ月、ただしソックパペット行為をした場合は無期限)が一番緩やかだと思うのですが。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 16:00 (UTC)

念のため、Amazonのページでも貼っておきましょう。こちらです--Horlicks 2007年5月26日 (土) 16:43 (UTC)

プレビュー機能を使って下さい

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誰とは言いませんが。「貢献人」とは何ですか。いい加減にしていただきたい。

「Block依頼により、いずれWikipediaより消える」と自覚しているなら、しばらく編集の方はお休みいただけませんでしょうか。喜連川の子孫には何の関係もなく(ゆえに、何の利害関係もしがらみもなく)、客観的に執筆しようという人がこれだけ出てきてくれている現状で、問題のユーザの行動は流れを逆行させるものにしかなっていないように見受けられるのですがいかがなものか。--Lonicera 2007年5月26日 (土) 17:41 (UTC)

「名君剣の舞」について

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--Doripoke 2007年5月26日 (土) 17:59 (UTC)

「名君剣の舞」は「喜連川騒動の顛末」のなかで言及されていたので、私もぐぐって、そのページは見ています。あらすじは、似ているといえば似ていると言えなくはないでしょうが、偶然としても、それほどおかしくはないと思います。「モチーフとなった」と言うなら、それなりのソースが必要でしょう。--Dwy 2007年5月26日 (土) 18:34 (UTC)
了解です。もう少し真面目に探してみます。(映画は完全に専門外なので)--Doripoke 2007年5月26日 (土) 23:34 (UTC)
こちらでの議論に気づかず本文修正(rv)をしてしまいました(´Д`;)映画のほうも主人公(英直)が狂人のフリをするなどディテールを臭わせる点はありますが、せっかくなので慎重な編集態度で望みたいと思います。--125.205.8.21 2007年5月27日 (日) 01:20 (UTC)
「狂へる名君」という作品(製作=松竹キネマ(下加茂撮影所)1929.12.01白黒・無声)もあるようです。原作・監督は同じで家名に「喜連川」を冠していない点を除けば主人公は(左京亮英直←喜連川英直)、家老は(須見剛太夫)で同じです。いかんせん資料が無い・・・(;´Д`)--125.202.234.20 2007年5月30日 (水) 02:13 (UTC)

「喜連川町史・誌」に基づく記述について

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「喜連川町史・誌」の「狂える名君」と「喜連川騒動の顛末」は信頼性に欠ける情報源であり、それに基づく記述は一旦全てを除去すべきだと言うのが私の意見ですが、他の方々の意見は違うようなので、もし残すのであればここが問題だと思うという箇所を書き出してみました。

  • 喜連川騒動(きつれがわそうどう)とは、喜連川藩で正保4年(1647年)に起こった藩政の混乱である。 この定義部分の記述は、喜連川町誌「喜連川騒動の顛末」に従ったもので、江戸の文献の記述とも整合しているようですが、「狂える名君」の記述とは合致していません。「狂える名君」の記述が信頼できないので採用しないということなら、首尾一貫して不採用とすべきだと思います。都合の良いところだけピックアップして記述するのは独自の研究になってしまうので、万姫についての「1911年版ではこのことは記述されていない」のような記述もやめるべきでしょう。
  • 脱藩浪人となった尊信派の老臣高野修理が、5人の百姓と密かに藩を抜け出し・・・直訴に至った。 「喜連川騒動の顛末」の記述によれば、5人の百姓と密かに藩を抜け出し直訴に及んだのは万姫のはずです。高野修理は、「これより先、高野修理浪人となり、江戸下谷池之端に住し」ていたことになっており、はっきりと断言できる書き方ではありませんが、そのまま江戸にいたようにも解釈できる記述になっています。
  • 幕府に「城代家老一色刑部派が君主喜連川尊信公を発狂の病と偽り城内に閉じ込め、藩政を我が物にしている」と直訴に至った。 厳密に言うと「尊信公を発狂の病と偽り場内に閉じ込め、藩政を我が物にしている」というのは評定所の決定(判決・主文)に出てくる表現で、万姫の直訴の趣旨は必ずしも明確に書かれていません。
  • 幕府御上使は・・・「高野修理等の直訴内容に偽りはなく、喜連川尊信は正常である」と報告した。 「喜連川騒動の顛末」では「万姫の訴えに偽りのないことを報告した」となっており、(少なくともこの部分では)高野修理を訴えの中心人物として名指しにはしていません。
ちなみに「喜連川尊信は正常である」の部分は、「喜連川騒動の顛末」では「尊信公相違無之候」と記載されています。この部分は、もともと「尊信公(狂疾)相違無之候」の意味だったものを、「喜連川騒動の顛末」の著者が誤って解釈したのかもしれないと私は思います。(思いっきり独自の調査・・・というかあてずっぽうの説です。ごめんなさい)
  • 幕府の老中が諸藩の事件評定に参加することは珍しかったが 「喜連川騒動の顛末」では「事件の性質により、三奉行と目付が組み合わされて裁判に当たったが、お家騒動は老中、若年寄が参加することが多かった」と言っています。矛盾しているようです。
  • 喜連川藩の一色派の家は断絶となったとされる。 「喜連川騒動の顛末」には、このような記述は無いと思います。情報源は何でしょうか?信頼できる資料中にそのものズバリの記述があれば良いのですが、そうでなければ、信頼できる資料によって、(1)どの家が「一色派」だったかを特定し、(2)それらの家が(すべて?)断絶になったことを確認する、という手順が必要です。これは相当困難だと思います。
  • 二階堂又市だけは喜連川騒動事件の15年後に帰参を許されている。 これも「喜連川騒動の顛末」には記述が無いようですが、情報源は何でしょうか?「二階堂又市だけは」のところが本当に検証可能か、少し引っかかるところです。

--Dwy 2007年5月26日 (土) 19:45 (UTC)加筆修正 --Dwy 2007年5月27日 (日) 06:07 (UTC)

あまりフォローになっておりませんが(すみません)、「喜連川町史・誌」に基づいた記述の除去に賛成します。今思えば、amazonで「喜連川」と検索するだけで新たな手がかりがつかめたわけですね。ちょっと反省してます。--スのG 2007年5月26日 (土) 20:12 (UTC)
二階堂の帰参については、『喜連川町誌』の巻末年表に記載されていました。一色家氏のページにも出ているのですが、いかんせんアレは引用と称した加除訂正が多いのでなんとも。あとの項目はわかりません。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 23:34 (UTC) 
なお、「狂える名君」の出典は、喜連川一色家氏が主張する「喜連川町史」ではなく、『喜連川郷土史』(前編)ですので、ご確認下さい。喜連川町の当該時代の分冊は、現在未発売です。(喜連川一色家氏が主張する「今年中に発刊される」本のことです。)--Doripoke 2007年5月27日 (日) 06:35 (UTC)
  • 喜連川町史編纂委員会がなんと言おうと、現状として、全国の図書館で当然栃木県内の図書館では、貸出禁止の歴史的文献として扱っていることは、事実です。この歪曲OR間違いについては、最低平成5年には、同町の教育委員会の所蔵として『喜連川文書』があることで明白です。である以上、この点について、修正または間違いとして、何らかの処置がされない以上、未来永劫にわたり、この2誌の記述は生きているのではなでしょうか?であれば、この対処がされるまでは、社会一般人にも読みやすい、同2誌が、相対的に「信憑性」が高いとされる訳でですから、この記述は、それまでは、残すべきと考えます。--喜連川一色家 2007年5月29日 (火) 11:13 (UTC)
  • 「喜連川文書」は、喜連川教育委員会の所蔵の「文書」で栃木県立博物館の発刊したのは「『喜連川文書』をもとに解読し概要を付け、写真として編集した研究文献」でこの概説じたい、正確なものではありません。90%はOKですが、微妙な解読表現に、偏りがあります。栃木県博物館の研究員は、こう解読した、とゆう文献です。私は手紙「文書」自体を『喜連川文書』と表現しております。誤解がありましたら、1ページ目~3ページまでの前書きをご確認ください。また、「江戸老中奉書」とゆう命名がありますが、本来手紙に名前などなく、研究員が付けた名前です。余談でした。--喜連川一色家 2007年5月29日 (火) 14:32 (UTC)
上にも書いていますが、このとおり一般書店で販売されており、だれでも入手可能ですよ。--Horlicks 2007年5月29日 (火) 11:28 (UTC)
  • 「閲覧禁止」であるなら問題ないと思いますが、「貸出禁止」で「閲覧可能」でコピー可であるので問題だと思っております。また、現在、販売中の夜桜乙女捕り物帳「つむじ風」和田正明薯 学研M文庫650円、もあり「著名性」も十分です。セブンイレブンでも販売中です。[4]--喜連川一色家 2007年5月29日 (火) 13:51 (UTC)
前に「その『筋書き』を読むだけで明白です」とおっしゃっていましたが、そういう勝手な思い込みで記事を書こうとされるのでは、あまりにも百科辞典を舐めていると言わざるを得ません。「つむじ風」が「喜連川騒動」の話だと言いたいなら、しっかり調査して「『つむじ風』は正保4年に喜連川藩で起こったお家騒動をモデルにしている」とはっきり書いた信頼に足る情報源を探し出して下さい。--Dwy 2007年5月29日 (火) 14:25 (UTC)
  • 「喜連川騒動」とゆう項目の「著名性」が大切で、Wikipediaを見て、こうゆう事件だったのか。と理解してもらえれば、これが百科事典なのでは、ないでしょうか?映画や時代小説の中身と同じであれば、百科事典を調べる意味はないと思いますが?いかがでしょうか?--喜連川一色家 2007年5月29日 (火) 14:42 (UTC)
ウイキペディアという百科事典がどのようなものであるかについては、既にWikipedia:ウィキペディアは何でないかをお読みになるようにアドバイスがあったはずです。勝手な思い込みで記事がかけないことは、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないを見ればすぐに分かるはずですが、この二つの文書も、複数の方からお読みになるようにお勧めしたはずです。喜連川一色家さんの勝手な理屈では、Wikipediaは動きません。基本方針の文書を読んだ上で、それに則って議論するのでなければ、いくら話し合っても無駄なのです。
もう一度言います。(何度でも言います。)「つむじ風」が「喜連川騒動」の話だと言いたいなら、「『つむじ風』は正保4年に喜連川藩で起こったお家騒動をモデルにしている」という趣旨の明確な記述がある信頼できる情報源を探し出してください。それ以外の方法はありません。--Dwy 2007年5月29日 (火) 15:24 (UTC)

どうも話が拡散しすぎていて、喜連川一色家さんの言われたいことというのがわかりづらいところがあります。 おおむね以下のような趣旨と考えてよいでしょうか?

  • 「喜連川文書」という書籍(栃木県立博物館の刊行)が図書館において閲覧可能、コピー可能で、内容を入手可能であることは問題である。 → これについては、だれにとって、何がどう問題だと言われたいのか、よくわかりません。
  • 「つむじ風」という創作作品はじゅうぶんに著名である。 → これについては、著名であるからどうだと言われたいのか(「つむじ風」という項目をWikipediaに立ててもよいと思う、という意味?)というのがよくわかりません。
  • Wikipediaの記事の記述内容は、一般に著名な、よく知られている内容とは異なっていることに意義がある。 → これについては、「つむじ風」は著名である、という主張と逆のことを言われたいのか、著名な項目について著名でない内容を書くべき、ということを言われたいのか、よくわかりません。また、小説や映画と内容的に一致するか、反しているかということは、Wikipediaの記事の妥当性や質の判断基準ではないと思います。

もう少し、大事なところを省略せず、言いたいこと、聞きたいことを個別にまとめて(互いに混ぜたり組み合わせたりせず)、一つ一つ丁寧に確認していったほうがいいと思います。 今のままでは言いたいことが伝わらずに損をするだけですよ。--Horlicks 2007年5月30日 (水) 01:42 (UTC)

喜連川尊信の記事と統合しては如何でしょう?

[編集]

削除依頼が否決されたばかりのことろで(しかも自分も継続票を入れておいて)こんなことを言い出すのもなんなんですが、もう一度冷静になって考え直してみると、やっぱり著名性の点で、この記事には問題があると思います。「騒動」としてこの事件を取り上げているのは、「狂える名君」と「喜連川騒動の顛末」だけ(しかも、「狂える名君」の方は、昭氏の時の事件としています)。映画や小説で取り上げられたという説もあるようですが、あらすじが似ているからというあやふやな根拠に基づく主張のようで、今のところは信用できません。私が思うに、単独の記事として維持するには、少し著名性が足らないのではないかと思います。そこで、皆さんに伺いたいのですが、喜連川尊信の記事の中でこの事件を取り上げるというはダメですか?喜連川尊信の方も今のところスタブに毛が生えた程度の状態ですし、ふたつの記事を統合してしまう方が、きれいにまとまると思うのですが・・・--Dwy 2007年5月29日 (火) 11:35 (UTC)

お気持ちは分かりますし、ご提案内容も検討の価値があると思います。とはいえ、削除依頼が否決されたばかりですし、最近になって出典も増えているところですから、統合の検討などはもっと落ち着いてからの方が良いのではないでしょうか?私としては、3~6ヶ月してからでも良い気がします。--Coleus 2007年5月29日 (火) 13:59 (UTC)
とうとう無期限ブロックになってしまいました。なんとかまともな会話が成立するようにならないものかと、じたばたしましたが、他の人から見れば、けんかを売っているようにしか見えなかったかもしれません。
もう急ぐ必要はありませんから、落ち着いてから検討することに賛成します。--Dwy 2007年5月30日 (水) 05:02 (UTC)
みなさまお疲れ様です。しばらく意図的に冷却期間をおいて、検討するのがいいのではないでしょうか。それに関して、ひとつ提案がございます。上にある種々の議論は無期限ブロックされた方が活発に発言しておられるので、中にいろいろな知見が含まれているとはいえ、そのまま続きをという感じにはなかなかなりにくいかと思います。過去ログにして仕切り直しした上で、必要なら要約をおくなりコピペでノートページに戻すなりして、議論を再開されてはと存じます。--Aphaia 2007年5月30日 (水) 18:44 (UTC)

保護依頼について

[編集]

保護依頼が出ていますが、これは要するに、問題の人がムキになって編集を行ったために版を重ねる結果になったことに起因するわけですよね。当人はブロックとなったわけですし、取り下げてもよいのではないかと思います。ソクパペで荒らすということはないんじゃないかと思う。--Lonicera 2007年5月30日 (水) 18:48 (UTC)