Wikipedia‐ノート:削除依頼/喜連川騒動 20070520
検証可能性-信頼できる公刊された情報源
[編集]- (コメント)信頼性に乏しい資料によりウィキペディア外に誤謬が存在しているとしても、それを訂正する任務はウィキペディアの目的を超えていると考えます。そもそもウィキペディアでは信頼性に乏しい資料に拠る記述は書かない、というのが Wikipedia:検証可能性 に基づく簡明な態度です。信頼性に乏しい資料に拠る記述をあえて書いてそれを訂正するという作業は、ノート上でならあり得るとしても記事上で行うべきではないと考えます。--スのG 2007年5月20日 (日) 18:54 (UTC)
- 個人調査の結果、「信憑性に乏しい資料」であつても、「公共機関の発刊し発表された資料」であれば、たとえそれが間違った記述であったとしても、Wikipediaとしては、これを書かねばならない(検証資料となり得る)では、なかったかと皆様から教えていただいてますが?この記述を削除し編集することは、それ自体が「個人研究」の発表となりはしないでしょうか?皆様とともに、資料を確認すながら改定修正をおこなって来た、現「喜連川騒動」の投稿文には、個人研究の結果は、記述してないことを、ご確認いただければ幸いです。事件真相の調査研究は、読者個々が行なっていただければと参考文献の広く示したいところですが、参考文献項目は、現在、追加しても、削除されてしまう始末です。しかたないので、文中の文献名を目目立つようにするのが、せいっぱいといった所です。--喜連川一色家 2007年5月21日 (月) 05:37 (UTC)
- (コメント)ウィキペディアで情報源とすべきなのは「信頼できる公刊された情報源」、その詳細は Wikipedia:信頼できる情報源 にあります。そちらのページについてどなたかに紹介を受けたり、目を通されたことはおありでしょうか? 公刊されただけではだめで「信頼性 (reliability)」が必要です。「信頼性」という言葉にウィキペディアなりの基準がありますので Wikipedia:信頼できる情報源 をご参照下さい。おそらく喜連川一色家さんが信頼性という言葉に対して持っているイメージとは多少異なる意味で使われているでしょう。なお、もしもどなたかが「公刊されたものは必ず書かねばならない」という趣旨をおっしゃったのであれば、それは不完全なコメントです。--スのG 2007年5月21日 (月) 06:04 (UTC)
- 喜連川一色家がおっしゃっているのはKs aka 98さんのこの発言のことだと思いますが、これは必ずしも「皆様」がそう考えているわけではないと思います。Ks aka 98さん本人も、「ぼくもこれをがちがちに適用するのがいいと思っているわけではありません」[1]とおっしゃっているわけで、少なくとも議論の余地は大いにあるでしょう。
- また、Ks aka 98さんがおっしゃっている趣旨は
- 公共機関の発刊した資料であれば一応「信頼に足る資料」と認められる(この点については私的には大いに異論があります)
- 「信頼に足る資料」に記述された内容については、Wikipediaにおいては、更に検証を求めない。
- ということですから、最初から「信憑性に乏しい資料」であり間違った記述だと分かっているものを「Wikipediaとしては、これを書かねばならない」とするものではないでしょう。
- 問題の町誌・町史は、どのような一次資料に基づいて論述されたものかを脚注や参考文献に明記するというような、学術的歴史研究としての最低限の様式を踏んでいません。どう見ても大衆向けの歴史読み物でしかありません。歴史を語るときの資料として、こういうのを信頼に足る情報源とするのは、どうしても無理があると思います。--Dwy 2007年5月21日 (月) 08:21 (UTC)
- その Ks aka 98さんのご解説は、(地方自治体が出している出版物を)情報源とするかしないか、という取捨選択には言及していないようにお見受けします。情報源とするのであれば云々、というお話ではないでしょうか。--スのG 2007年5月21日 (月) 08:34 (UTC)
- こんにちは。今仕事中なんで、夜中にまた来ます。--Ks aka 98 2007年5月21日 (月) 12:03 (UTC)
- 安直にたとえますが「三国志演義や水滸伝を情報源とするようなもの」という捉え方をしてよろしいでしょうか? 西遊記を情報源とするよりはマシでしょうけれど。--スのG 2007年5月21日 (月) 18:02 (UTC)
- その Ks aka 98さんのご解説は、(地方自治体が出している出版物を)情報源とするかしないか、という取捨選択には言及していないようにお見受けします。情報源とするのであれば云々、というお話ではないでしょうか。--スのG 2007年5月21日 (月) 08:34 (UTC)
- 「喜連川町誌」「喜連川町史」の記述は、私自身、なにがなんでも「残したい」と考えているわけでもないのです。しかしながら、問題は同2誌は、旧喜連川町が発刊した文献であるので栃木県内の全公立図書館、国会図書館、全国の県立中央図書館などで管理閲覧できるものであることです。しかも、この2誌は、問題ある「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」だけの出版物ではないので、一部修正がきかないのです。そのため、仮に現「喜連川騒動」の投稿記述から、この部分を削除したとしても、全国のこの2誌を読んだ方が、Wikipediaに投稿して来る可能性を残すことになります。そこで、であれば、先にこの2誌の内容も、要約して載せておくことにより、これらの混乱をふせぐことになります。しかも、同2誌をすでに読んで、知識として所有する方が読んでも、混乱せずに理解いただけるためには、この2誌の記述は、残すべきではないのか?というのが、私の考えなのです。--喜連川一色家 2007年5月21日 (月) 16:05 (UTC)
- (コメント)同じ文言を繰り返しますが、ウィキペディア外に誤謬が存在しているとしても、それを訂正する任務はウィキペディアの目的を超えていると考えます。また、混乱を予期して予防する任務もしかりです。それらの任務はしかるべき学術組織に任せるべきであり、ウィキペディアが担うものではないと考えます。--スのG 2007年5月21日 (月) 16:16 (UTC)
- ええと、まず、この「騒動」あるいはその呼び名に相当する出来事が存在すると捉えることが妥当かどうか、については、判断してません。つまり、項目自体が独自の研究に相当するかどうかってことは、考えまてせん。
- いわゆる地方史の文献は、その信頼度という点については玉石混淆としか言い様のないのが現実だと思います。この点については、Dwy さんのご意見に同意します。発刊後、地方史研究が進んでいる地域もあるでしょうし、進んでいない地域もあるでしょう。より信頼できる研究があるならば、そちらに沿って記述するべきです。ただ、他に真っ当な研究がないのであれば、地方自治体などが出している地方史が、それ自体の信頼性が十分に担保できないとしても、研究の基礎として扱うべき資料の一つとなるでしょう。つまり、地方史研究に置いては、絶対的な信頼度は低いとしても、相対的にそれが一番信頼できるとみなさざるをえない位置にあることが、多いのではないか、と思います。この場合、ウィキペディアの執筆者は、その地方史文献の信頼度が十分高くないからと言って、自分の考えを真実だとして記述することは許されません。ぼくの書き込みの意図は、地方自治体などから出版されている地方史文献の他に、その題材を直接取り上げている信頼できる資料がないという前提で、自分が正しいと信じることを書くのではなく、まずはその地方史文献の記述を書きましょう、ということです。方針で言えば、独自研究は載せないを視野に入れての書き込みでした。
- このような状況で、執筆を進めるならば、まず十分信頼できないとはいえ、その地方史文献にある記述を採り、他の資料との整合性を探っていくというのが、望ましい態度だと思います。出典を示しながら、ある部分では文献の記述を補強し、ある部分ではそれを否定することになるでしょう。そこで、意図的に偏りを作ることは避けられるべきです。今なら学問的には、蔵を調べさせてもらったり聞き取りしたりということも求められるかもしれませんが、これらの調査手法はウィキペディアでは、許されません。
- 喜連川一色家さんは、地方史文献の記述を「間違い」と認識していらっしゃるようですが、それはまだ一般的には「間違い」ではないと思われます。たとえ、将来の研究によって地方史文献の記述が間違いであることが決定したとしても、現時点では、喜連川一色家さんよりも、地方史文献のほうが信頼できると考えざるをえません。ですから、今のところは、「間違い」と書いてはいけない。しかし、出典を示しながら、地方史文献の記述に合致しない資料を示すことはできます。その選択が恣意的であったり、論理的でなければ、ノートで指摘されるでしょう。
- 以下は、個人的な考えで、異論もあると思います。地方史の分野は、大衆文化などと同様、直接その内容について扱った十分に信頼できる研究が存在しないケースも少なくないと思うんですね。では、その地域には歴史がないかというとそんなことはなくて、なんとか歴史記述を試みることも、あっていいと思います。十分信頼できる情報源が存在しないものは、ウィキペディアに書けない、となると、チンドン屋も書けないわけで。聞き取りのような一次調査を自ら行うことや、家の蔵で見つかった非公開の家系図を根拠とすることは、ウィキペディアでは許されませんが、多くの資史料を漁り、検証可能性を担保し、中立的観点を保持しながら、断片的な記述を論理的に繋ぎ合わせることは、非常に困難が伴う作業ですが、不可能ではない。ひたすら資料を漁り、事実を積み上げていく作業は、とにかく時間がかかりますし、地域に関する資料は、その土地に住んでいる人でなければアクセスできないこともあります。そういう作業を行う意志があるなら、事実と推察と自分の考えを区別する学問的態度を身につけたり、これまで実証的な研究が行われなかった分野で実証性を確保する方法を考えたりして、ウィキペディアの方針に合致する形で貢献できるはずです。学問的態度は、ウィキペディアで学ぶことだってできると思いますし、事実を積み重ねる作業の後に、誰かが大胆に整理して、解決されるかもしれません。検証可能性を担保し、中立的観点を保持することを心がけた、未完成な記事は、許容されていいのではないかなあと思っている次第です。--Ks aka 98 2007年5月21日 (月) 16:35 (UTC)
- 実は、私がここでいろいろ問題提起し議論しているのは、以前英語版で論争して結局結論が出ないままに終わってしまっているこの議論を心の中で引きずっているからです。そのときの論争は、英語版の「対馬」の記事において韓国の新聞の記事をソースとして書かれていた「対馬は新羅の支配を受けていた」等の(私に言わせれば)トンデモ説に関するもので、私の主張は「新聞は学術的な歴史研究を発表するフォーラムじゃないから、古代史の記事を書く場合の「信頼に足る情報源」とはなりえない」というものでした。
- 私の主張(はっきり言って英語版の他の方々の受け売りなのですが)をもう少し詳しく説明すると、歴史研究とは一次資料(同時代資料)を収集・整理し解釈を加える作業である。したがって、論述のもとになった第一次資料が脚注・参考文献等で詳細に記載されていない研究は、最低限の学術的レベルを満たしていないと言える。新聞記事はこの基準を満たしていないから、(新聞記事自体を一次資料として使用する場合を除き)「信頼に足る情報源」とはならない。というものでした。
- そこで、喜連川騒動で町誌・史をソースに記事を書いてよいとされる方にお聞きしたいのですが、町誌・史をOKとしておいて、韓国の新聞記事(一流紙らしいです)を排除できる理屈がありますでしょうか?皆さんが救おうとしている喜連川騒動を救いたい気持ちは私にもあるのですが、こちらを救ってしまうと、あちらも立てなければいけなくなるような気がして・・・。「日本語版と英語版は別だ!」というのもありかもしれませんが、それでは私の良心が少し痛みます。脱線してしまい申し訳ありません。--Dwy 2007年5月21日 (月) 18:47 (UTC)(--Dwy 2007年5月22日 (火) 05:44 (UTC)加筆)
- 「喜連川町史」と「喜連川町誌」の記述を、なぜ本来敵視すべき私が、投稿本文に記述してるかの理由を説明させていただきます。まず、同2誌は、地方自治体が正式に発刊したものであるので、「古文書」と同じ扱いで、日本国では、永久保存されるものなのです。たとえその内容が、信憑性に劣るものであってもです。それは、日本国がそれを正しい文献としてではなく、将来に渡って、検証可能とするためです。ですから、いつでも検証材料となるように、一般開示しているのです。そして、そうである以上、この2誌の記述が一般論となるのです。であれば、この記述を無視して、私に都合よく一方の「江戸時代の文献」の存在だけでWikipediaのおいて記述することは、それこそ「独自の研究」となってしまうのです。そこで、2誌の記述を最初に記述し、補足するような形で「江戸の文献」の開示の形をとっているのです。私個人の心情としては、旧喜連川町発刊の2誌の記述など本来残したくないことをご理解いただければとおもいます。当然「江戸の文献」も日本国としては、同2誌と同じ公的文献であり、同等以上に保管され、一般開示しているものです。--喜連川一色家 2007年5月21日 (月) 22:28 (UTC)
本筋から外れたところにお付き合い。対馬の問題については、おそらく学術的に扱われる話題であるけれど(定説があるかどうかはわからない)、資料が十分ではないために解釈の余地があるというものだと推測します。ならば、まずは学術的な研究を調べる、新聞の記事が学術的な発表に基づくものでないかどうかを確認するということが第一ではないかと思います。その調査ができないということであれば、これはおそらく領土問題に関わってくる話題だと思うのですが、だとすると、一流紙であったとしても国際的な論争の当事者として捉えて、一方の意見として、そのような報道があったと記述することは許されるでしょう。「(歴史学者であれ政治家であれ)誰かが、そのような見解を述べた」という事実についてならば、その新聞は、信頼できる情報源です。しかし、「対馬が新羅の支配を受けていた」という事実については、新聞は十分信頼できる情報源とはならないでしょう。新聞記事だけを根拠に、対馬の歴史として「対馬は新羅の支配を受けていた」と書かれていたのならば、さらなる出典を求めたり、「対馬は新羅の支配を受けていた」とすべきではないと言えるだけの、より信頼できる出典を示して修正するべきです。その意見が「トンデモ」であるなら、可能性を完全に否定することは困難であっても、事実として記述するのが当然であるという意見を覆すに足りる信頼できる情報源は簡単に見つかるはずです。日本と韓国では、学術上も異なる歴史を定説としている可能性もありますが、この場合留意すべき方針は「中立的観点」のほうになると思います。
著名性の所で「町誌・史=学術的レベルに達しない素人歴史家の研究=学問的にはすごく些細」と書かれていますが、歴史研究全体から見たら、地方史というのは「些細」ですが、その地域の情報を得ようとすると、町誌・史は、唯一の、といってもいいような研究なんですね。町誌・史のほかに信頼できる情報源がないという状況なら(しっかりとした研究が他にあるなら話は別です)、町誌・史を根拠として、出典を示しつつ記述することは、最善の記述方法であると考えます。地方史に通じる人であれば、出典が十分信頼できないことも、その記述から読み取ることができますし、より信頼できる資料が存在するならば加筆することもできます。他方、十分な知識を持たない人にとっては、そこに記述されていることを信じることになりますが、本気でその地方の歴史を研究するのでもなければ、それ以上の情報を得ることもできない、ということになり、これはこれで妥当な状況だと思うのです。さもなければ、学術的な歴史研究の対象となる地域以外は、ウィキペディアでは掲載できないこととなってしまいます。それはそれで、ひとつの考えだと思いますが、個人的には、それを採りたくないなあと思っています。
物理学や考古学などでは、専門家でなければ難しくて判断がしにくいとはいえ、どこかに学問的に認められた説なりなんなりが存在するはずです。ところが、学問の対象として扱われない事項・分野というのは、相当にあるわけで、そのへんを、普通の百科事典はその筋の人の権威でお茶を濁しているわけですが、ウィキペディアでは高い水準で出典を求められる、となると、書けなくなってしまう。サブカル系記事、地方史、大衆文化や日常品の記事をどうするか、という大きな問題です。たとえば、(手前みそですが)チンドン屋やGARNET CROWのように査読論文誌以外の、十分に信頼できる情報源ではないものを出典とせざるをえないが可能な限り多くの資料にあたって記述したものを、「独自研究」と一蹴するか、検証可能性と中立的観点を満たしているなら、基本的には第三者が論理的に判断できるものとして、許容するか、というところにあるのだと思うのです。Wikipedia:信頼できる情報源#いくつかの定義とか、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源あたりは、それを許容しているように思います。--Ks aka 98 2007年5月22日 (火) 16:14 (UTC)
- お付き合いいただいてありがとうございます。
- 上で「町誌・史=学術的レベルに達しない素人歴史家の研究=学問的にはすごく些細」と言ったのは、問題の喜連川町誌・史のことを意図していたので、素人歴史家による地方史研究全般を指していっていたわけではありません。また、喜連川町誌・史についても、喜連川騒動の外部リンクのところに引用されているものを読んだだけでの判断ですから、ひどく断定的に言い過ぎたと反省もしています。ただ、歴史の研究と言うのは、上にも書いた通り、一次資料(同時代資料)の分析・解釈で成り立つものですから、論述の元になった一次資料が明らかにされていない形式の研究は、やはり信用が置けないだろうと思います。「学術的レベルに達しない=些細」というのは、そういう意味のことでした。
- (もっとも、前述の通り喜連川町誌・史を全部読んだわけではありませんから、脚注や参考文献リストにおいて論述の基礎となった一次資料がいくらかでも明らかにされているのならば、かなり話が違うかも知れません。)
- ちなみに、チンドン屋の例を引き合いに出されていますが、チンドン屋と喜連川騒動では、かなり事情が違うと思います。チンドン屋の場合、最近あまり見なくなったとはいえ、関連する資料やデータは相当の量が現存するでしょう。また、直接の経験や知識が豊富な人だって、たくさんいるはずです。だから、ある程度信頼できる資料を集めていくことは(いろいろ苦労はあるでしょうが)不可能ではないだろうと思います。これに対して、喜連川騒動の場合、直接この事件を知っている人はもういません。一次資料に直接アクセスできる人(能力とチャンスが両方ある人)も限定されています。信頼できる資料の収集は、チンドン屋の場合よりずっと難しいだろうと思います。
- というか、私が本当に心配しているのは、この件に関する一次資料が満足に存在しない可能性です。もしそうなら(高○資料とやらが公の場に出てこない限りその可能性は著しく高いと思うのですが)喜連川騒動で記事を立てる試みは不毛の努力でしかありません。
- いずれにしろ、喜連川騒動の場合、(幸か不幸か)喜連川一色家さんによる分析・批判があるわけです。喜連川一色家さんの説自体は、独自の研究ですからWikipediaに記載するわけにはいきませんが、喜連川町誌・史の内容が歪曲されているのではないかという疑いを抱かせるには充分なものがあります。疑わしいとわかってしまったものを見て見ぬ振りをして記事にするのには、やはり相当の抵抗を感じます。--Dwy 2007年5月22日 (火) 18:16 (UTC)
- 「高塩家文書」を不用意に伏字にしてしまい、余計な混乱を招いたことをお詫びします。誰か他の方の表現を真似たつもりだったのですが、今もう一度見直してみると、伏字にしたのは多分私が最初のようです。まことに申し訳ありませんでした。--Dwy 2007年5月24日 (木) 07:54 (UTC)
- 失礼します。喜連川一色です。Dwyさんが懸念されることは、私なりにですが理解できました。喜連川騒動の一次資料となる「高○家文書」は、実は、昨年11月に「喜連川町史(2)(近世)」(全5巻の2巻目)の中に、原文のまま、昔の候文で提示され製本されました。しかし、この二次文献となる「喜連川騒動の顛末」も『喜連川町誌』より、そのまま移設収録されており、私が現喜連川町史編纂委員会に出向き、「喜連川騒動の顛末」と実際に江戸の徳川幕府により評定を行った地である「江戸の文献・と記録」の矛盾を指摘したので、その発買が遅れているのです。現在、「喜連川町」は無く3?市町村合併により「さくら市」となったので、最後の喜連川町史編纂委員会による出版となりますので、将来に渡り、この矛盾を残す文献をそのまま発売するわけには行かないので、修正後(喜連川騒動の顛末の削除または修正、多分削除)作業が必要となり、再製本も必要となり時間がかかっております。本年3月発刊予定に変更されましたので4月の初めと5月10日に確認しましたが、6月とのことでした。最後の発刊ですので慎重なのです。再製本の為の追加予算の取得問題もあるようです。とはいえ、本年中には必ず事件の存在と登場人物の記述された「高○家文書」や同町の「足利家文書」を載せた「喜連川町史2(近世)」は、発売されます。そして、専門の宇都宮から来ている先生方によ「古文書」解読がされたものでだそうです。そして、「高塩家文書」は、その内容にかかわりなく、喜連川町に残された「古文書」のひとつとして公表されます。よって、Dwyさんの懸念も解けると思います。--喜連川一色家 2007年5月23日 (水) 10:47 (UTC)
- すいませんが、その「高○家文書」というのは、「新○和歌集」(新式和歌集、新和歌集とも。鎌倉時代の宇都宮歌壇の歌人たちの和歌が主に収録されている。)のような、「一文字が抜けたもの」でしょうか?それとも、いわゆる「伏せ字」をしたということでしょうか。もし伏せ字だとしたら、
伏せ字をしなければ載せられないようなものが、信頼される情報となり得ますか?このあたり、お教え下さい。
ついでなので、もう一点お聞きしますが、高修理守が高氏師の子孫だというのは、喜連川一色家氏の推定ですよね?完全な独自研究ですよね?(http://www11.ocn.ne.jp/~square.h/kituregawa-oyumi.htm )この点に関して、出典をいただけない場合は高氏師に削除依頼を出させていただきます。--Doripoke 2007年5月23日 (水) 12:07 (UTC)
- すいませんが、その「高○家文書」というのは、「新○和歌集」(新式和歌集、新和歌集とも。鎌倉時代の宇都宮歌壇の歌人たちの和歌が主に収録されている。)のような、「一文字が抜けたもの」でしょうか?それとも、いわゆる「伏せ字」をしたということでしょうか。もし伏せ字だとしたら、
- その古文書の出典として、高塩家が明示されていたので、出しても特にかまいませんと思います。それと、3~4日前に削除さていた「高氏師」がなんでまた復活したのかは、まったく知りませんよ。特に思い入れもありませんので、気にせず「削除」しちゃってください。復活の依頼も出しておりません。こちらが解決しましら、また、ゆっくり編集します。--喜連川一色家 2007年5月23日 (水) 16:13 (UTC)
- 質問をはぐらかさないでください。私が質問していることは、高氏師への思い入れではなく、記事の出典です。ご面倒でもノート:高氏師の質問にすべてお答え下さい。これらは喜連川騒動の記事の信憑性(検証の可能性とは異なります)に関わる重要な質問です。--Doripoke 2007年5月23日 (水) 16:29 (UTC)
『本年中には必ず事件の存在と登場人物の記述された「高○家文書」や同町の「足利家文書」を載せた「喜連川町史2(近世)」は、発売されます。そして、専門の宇都宮から来ている先生方によ「古文書」解読がされたものでだそうです。』
- ということなら、その公刊を待ってから記事を作成する、という選択肢は考えられませんか?--Horlicks 2007年5月23日 (水) 14:37 (UTC)
- 「高塩家文書」は、江戸時代後期の原文「候文」です。そのまま、Wikipediaにのせても、意味がありません。結局だれかが、現代文に直さなくてはなりません。実際、その作業は、昭和52年か明治44年の旧町史・誌の発刊時に終了しております。大切なのは、発刊される『喜連川町史(2)近世』には『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」が削除され、資料として「高塩家文書」が候文で載せられるということです。よって、現状かつ将来にわたり、相対的に、「信憑性」が高いと、せざるおえないのが『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」なのです。この相対的な考え方の理論を考えるなら、現在の形の投稿文「喜連川騒動」の編集方法が妥当と考えるのです。当然、現「さくら市」が「喜連川騒動の顛末」をテレビ・新聞・広告等で歪曲の事実を公開するならば、その時初めて、現投稿文「喜連川騒動」に修正を加えるのが、本筋となるのではないですようか?もっとも、現「さくら市」には、その意向は、ありません。最低最短でも、「旧喜連川町誌編纂委員会メンバー全員」が、現世の方である内は、ありえないことです。それが地方自治体であるうえでの、最善の施策であり、正しい選択であることは理解しております。こういったことも考えていただければ幸いれあり、よろしくご検討ねがいます。--喜連川一色家 2007年5月23日 (水) 16:46 (UTC)
- 二つほど。(1) 「高○家文書」の○の字は、ひょっとすると「鹽」(塩の古字体)の字ですか? (2)直上のコメントについて、「よって」のところの前後の文脈のつながりがよく分かりません。「高塩家文書」が載せられるということであれば、一次文献としてより有用なのではないのですか? それとも「高塩家文書」が観点的に偏っていることを危惧されるのですか? --スのG 2007年5月23日 (水) 17:21 (UTC)
- 「高塩家文書」は、江戸時代後期の原文「候文」です。そのまま、Wikipediaにのせても、意味がありません。結局だれかが、現代文に直さなくてはなりません。実際、その作業は、昭和52年か明治44年の旧町史・誌の発刊時に終了しております。大切なのは、発刊される『喜連川町史(2)近世』には『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」が削除され、資料として「高塩家文書」が候文で載せられるということです。よって、現状かつ将来にわたり、相対的に、「信憑性」が高いと、せざるおえないのが『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」なのです。この相対的な考え方の理論を考えるなら、現在の形の投稿文「喜連川騒動」の編集方法が妥当と考えるのです。当然、現「さくら市」が「喜連川騒動の顛末」をテレビ・新聞・広告等で歪曲の事実を公開するならば、その時初めて、現投稿文「喜連川騒動」に修正を加えるのが、本筋となるのではないですようか?もっとも、現「さくら市」には、その意向は、ありません。最低最短でも、「旧喜連川町誌編纂委員会メンバー全員」が、現世の方である内は、ありえないことです。それが地方自治体であるうえでの、最善の施策であり、正しい選択であることは理解しております。こういったことも考えていただければ幸いれあり、よろしくご検討ねがいます。--喜連川一色家 2007年5月23日 (水) 16:46 (UTC)
- 私からもひとつだけ質問します。上に書いた通り、私の最大の懸念は「この件に関する一次資料が満足に存在しない可能性」なのですが、旧町史・誌の発刊時に現代文に直されたという「高塩家文書」には、この件に関する情報がどのくらい記述されているのでしょうか?お殿様が狂った振りをしたとか、お姫様を押し立てて直訴とか、5人の同心とか、そういうことが高塩家文書で確認できますか?--Dwy 2007年5月24日 (木) 10:51 (UTC)
- 編集ページにページサイズの警告が、出ていますので、下の節で回答します。--喜連川一色家 2007年5月24日 (木) 11:18 (UTC)
検証の可能性と相対的「信憑性」の確保 前節の続き
[編集]- <スのGさんへの回答>「高塩家」は、「喜連川騒動の顛末」に書かれた登場人物「高塩清左衛門」(正室の娘の護衛に付けられた五人の同心の一人で、下級家臣)の子孫の家です。現存家ですので具体的なことは避けます。よって、主犯に命令または正室の命令で動いたと考えられ、この五人の同心はお咎め無しで、子孫は、天保十三年の喜連川家家臣の役席・家禄取り決め(スライドショウ2枚目)の中に確認できます。また、旧喜連川編纂委員会メンバー(スライドショウ3枚目右側高塩家、左側に高野家)の中にも確認できます、この高塩家文書は、二階堂政権下のものである為、「中立性」の確認は難しく「主観的」文献の可能性が高いといえるのです。しかも、「候文」(漢文調)で一般の方には読めないのです。せいぜい、出典として載せるのが、せいいっぱいなのです。将来、専門の権威ある研究家が正式に解析した文書が権威をもって発表されないかぎり、「喜連川騒動の顛末」より上位の文献として「信憑性」を一般的に得ることは、できないと考えます。--喜連川一色家 2007年5月23日 (水) 18:15 (UTC)
- 追伸、これも、皆さんがご存知のことと思いますが、一応、誤解のなよう、ご説明させていただきます。地方公共団体(行政機関)・政府等の発刊文献は、公共図書館にて、永久に管理されると同時に国民に開示されます。当然、部数が少なく「貸し出し禁止」の文献でさえ、「コピー持ち出し」はOKです。これは、これらの公共文献の権威「相対的信憑性」を保守させる一方、将来、その文献記述内容において、訴訟、裁判が起きる可能性をも踏まえての中立的処置であり、管理なのです。ですから、私が、これらの文献のコピーや写真を用いて、研究、第三者に開示することは、なんら法的に問題はないのです。とはいえ、礼儀として、この件は、現喜連川町史編纂委員会に報告し確認済みではあります。--喜連川一色家 2007年5月24日 (木) 05:28 (UTC)
- 「狂える名君」・「喜連川騒動の顛末」が「高塩家文書」の解読を基に記述されていることは、現「喜連川町史編纂委員会で聞いて知りえたことです。(私の解読による研究結果ではありません)実際の所、漢字は苦手で「高塩家文書」を見せてもらいましたが、「漢文」にみえました。ここは、素直に、そうなんですか。と旧喜連川町の発表をそのまま受け入れるしかありませんでした。30%~40%の漢字が読める程度ですから。「読み方が、上にいったり下にいったり」で訳がわかりません。へたすると、結論の読み違えさえ、起こしそうで解読はあきらめました。極論でいいますと、一次情報だけにこだわると、「古代石版に刻まれた文字」をメインにもって行き、投稿者がかってに解読して、Wikipediaに投稿するようなものです。とても、「信憑性」を補うものではないと考えます。
- 「喜連川騒動の顛末」になってからの、登場人物の追加と藩主名の修正は、当然昭和52年の編纂委員会による研究調査によると考えます。そして、昭和52年の人より、当然明治44年の人のほうが、「候文」には接していたわけですから正確には、「狂える名君」の原文が「高塩家文書」と考えて問題ないです。よって、「高塩家文書」は、江戸末期から明治の初めに藩内か町内で書かれた読み物の原文と見るべきかと考えております。
- それゆえに、「喜連川騒動の顛末」を現存する「事件の詳細を記述する資料」として、相対的に「信憑性」が高い文献とせざるおえないのです。そして、社会一般には、この記述の影響が大きく、日本国内の時代劇ファンの間違った認識となっているのが現状なのです。(相対性とは「相対性理論」の相対性と同じ意味合いで使用しております。)--喜連川一色家 2007年5月24日 (木) 12:11 (UTC)
- Wikipedia:独自研究は載せない があります。お考えを記事に反映することは難しいでしょう。本削除依頼の依頼理由や削除よりのコメント、さらに Wikipedia:投稿ブロック依頼/喜連川一色家 を追証しかねないコメントを出されますと対応に困ります。また、公共機関が発刊したものであっても、研究論文については著作権が発生するとお考えください。ですので、著作権が存在する文書としての取り扱いをお願いします。また、後生ですからプレビュー機能を適切にお使いください。せめてウィキペディア上においては「1年後に丸くおさまっていればいい」ぐらいの感覚でご行動いただけませんか。--スのG 2007年5月24日 (木) 14:03 (UTC)
- 「喜連川騒動」の投稿本文に対してのコメントではないと判断しております。そして、論点が、少々ずれて来てしまっている様に伺えます。「喜連川騒動」投稿本文、「編集ノートでの会話」、「削除依頼での会話」、「そしてこのノート」での会話、以上に目を通していただき、皆様の「中立的」賢明な判断をお願いします。また、「喜連川騒動」投稿本文は、この「削除依頼の評議中」であっても、Doripokeさんの「主観的」修正(記述のボカシ行為、江戸の文献記述や『喜連川町誌』の記述を補填する、多く文献の出典などが削除編集されました。とりあえず、一度、差し戻し編集をして置きました。投稿本文の「主観的」修正は、ここでの皆様の賢明な評決判断に支障をきたすことになりますので、ご理解いただければ幸いです。--喜連川一色家 2007年5月25日 (金) 07:58 (UTC)
- 「狂える名君」・「喜連川騒動の顛末」が「高塩家文書」に基づいているというのは伝聞のようですから、どこまで「高塩家文書」に忠実な記述なのかは分からないということだと思います。そういうことであれば、私としては、「狂える名君」・「喜連川騒動の顛末」のかなりの部分がフィクションである疑いを拭い去れません。そういう資料をもとに記事を書くことは不適切だと思います。とくに、専門家による「喜連川町史2(近世)」が今年中には発刊されるとのことですから、上でhorlicksさんが示唆されているように「その公刊を待ってから記事を作成する」のが順当だと思います。--Dwy 2007年5月25日 (金) 05:24 (UTC)
- 返答となるコメントは、「削除依頼の採決ページ」に記述しました。ご確認くださるようお願い申し上げます。--喜連川一色家 2007年5月25日 (金) 10:11 (UTC)
著名性
[編集]どうせなら、後からまた議論しなくても良いように、問題になりそうなところを今全部指摘しておく方がよいだろうと思うので、ここで問題提起します。(このページが適切な場所かどうかはわかりません。記事のノート等、他の場所で議論すべきであれば、ご指摘ください。)
「喜連川騒動」というのは、Wikipedia:著名性の観点から見るとどうでしょう?このルール(まだ草案ではありますが)によると
- 著名性のある話題とは、その話題そのものから独立した立場にある情報源に基づいた、複数の、些細でない形で発表された著作(作品・仕事)に取り上げられている事象です。多くの場合、ある話題に関する項目がウィキペディアに著されるためには、著名性についての最低限の規準を満たさなければなりません。この要求は、その話題について検証できる百科事典の項目を執筆するために十分な出典が存在することを確実にするためです。
ということになっています。
喜連川一色家さんによると、「喜連川騒動」を「騒動」として正面から扱った資料は喜連川町史と喜連川町誌しかなく、しかもそれは事件関係者の子孫の方(おそらく同一人物?)が書かれたものだそうです。「話題そのものから独立した立場にある情報源 」、「複数の、些細でない形で発表された著作」はかなり怪しい気もします。(喜連川一色家さんが「町史・誌=公式文書=すごく重要」と思っていらっしゃるのは分かっていますが、私の中では「町誌・史=学術的レベルに達しない素人歴史家の研究=学問的にはすごく些細」です。)--Dwy 2007年5月22日 (火) 06:19 (UTC)
- 一般論として町史・誌が即アウトということにはならないとは思いますけれど、私が素人なりに喜連川町史と喜連川町誌の当該部分(記事から外部リンクされていた文章)を評価するならば、事実関係の矛盾以前の問題として心情描写やセリフや脚色が多く、これは歴史物の小説だなあ、といったところです。もちろん、ウィキペディアの記事中で「この本は史書ではなく小説だ」と書いてしまうと独自研究 (original research) になるのでできません。「幕府の文書にはこのように記録されている。この事件を題材にこのような歴史本がかかれ、その中ではこのように書かれた。」と書ければ楽なのですけれど、それももちろん独自の総合・合成 (original synthesis) となってしまうためにグレーゾーン、いったいどうすればよいやら。--スのG 2007年5月22日 (火) 07:12 (UTC)
- 署名性として、とりあえずネット上では次の物がある。
- 夜桜乙女捕り物帳「つむじ風」和久田正明書
- 上記の情報は喜連川騒動が関係する「フィックション」として紹介するのはいかがでしょうか?--喜連川一色家 2007年5月22日 (火) 07:50 (UTC)
- フィクション(架空)として取り上げるのは厳しいですが、題材とした小説、時代劇、として淡々と紹介するのであれば構わないと思いますよ。--スのG 2007年5月22日 (火) 09:15 (UTC)
*そうですね、そのことに同意します。--喜連川一色家 2007年5月22日 (火) 10:32 (UTC)
- 前に私も『「喜連川騒動」というのがお話として有名だというのであれば・・・、忠臣蔵や曽我物語のような記事にしていくことが可能かもしれません』と指摘させていただきました。お話・小説としての記事とする可能性は考えてみるべきかもしれません。その場合、著名性の要件を満たすためには
- 喜連川町誌・史は、お話・小説そのものを書いたものだから、おそらく「独立した立場にある情報源に基づいた」にはならない。
- 従って、その他に「複数の、些細でない形で発表された著作(作品・仕事)に取り上げられている」必要がある
- ということになるかと思います。
- 喜連川一色家さんが列挙されている「ネット上の物」で言うと
- ということだと思います。
- 要するに、『「つむじ風」は「喜連川騒動」をモデルに書かれた』のように書いた「信頼できる情報源」が必要ということで、やっぱり相当ハードルが高いです。--Dwy 2007年5月22日 (火) 21:06 (UTC)
- 上記、の「信頼できる情報源」に、「高塩家文書」の公開に関するコメントを書きましたので、よろしくお願いします。--喜連川一色家 2007年5月23日 (水) 11:01 (UTC)
- 追伸、時代小説やTVドラマ「時代劇」のモデルは「喜連川騒動の顛末」・「狂える名君」であり、旧喜連川町の非公開の古文書「高○家文書」ではないことは、多分、認識していらっしゃるとは思いますが、追記させていただきました。また、『つむじ風』は、現在多くの書店で販売中であり、その「筋書き」を読むだけで明白です、ネット上の新刊販売情報ページだけでも見ていただければ確認できるかと思います。当然「参考文献」として、通常は書籍に明記されているはずです。(断定ではありません。)「藩主の側室が悪役で、事件を幕府に知らせる為に江戸に出てきた、正室の娘をヒーローが助け喜連川騒動の解決に貢献し喜連川の地に無事帰るのを助ける話」です。ただし、北町奉行「遠山左衛門尉?」は江戸北町奉行として実在の人物ですが、この事件当時の人物ではありません。ですから、娯楽時代小説と判断しております。また、本心、娯楽小説には、出典があったかどうか不安です。私個人としては、販売価格(税抜き?)650円でも買う気もおきません。ただ、娯楽小説は、過去に何らかの形でTV放映さ時代劇ファンに認識されている一般知識にふれることで、書かれ出版される傾向があることは、事実といえます。売れないと出版費用も回収できないことが、この理由となります。コンビ二でも販売してますので、この傾向は強いです。コンビ二は、一般書店と異なり書籍は委託仕入ではなく、フランチャイズ店による買取仕入ですので、売れないと判断できる書籍の仕入は行わないのです。出販元は「学研M文庫」です。--喜連川一色家 2007年5月23日 (水) 11:19 (UTC)
- 「狂える名君」・「喜連川騒動の顛末」に登場する家臣については、実在の人物と判断して差し支えないと思いますよ。
- 「一色家の墓」墓の存在だけご確認ください
- 「足利国朝と喜連川に向かった家臣達」椎津某は二階堂主殿で、二階堂主膳助の実父です(喜連川町誌より)。高修理頭が高野修理、高四郎左衛門で、梶原平右衛門の子が梶原平左衛門(古河の梶原家子孫とメールにて確認済)、古文書からの写しです。
- 「登場する家臣」喜連川町誌からの抜き出し整理した物です。
- 「喜連川町誌の年表抜粋」
- をこのノート上だけの参考資料として判断いただければ幸いです。研究部分は無視していただければ幸いです。--喜連川一色家 2007年5月22日 (火) 08:44 (UTC)
- (横線入れます)せっかくご紹介いただきましたが、Wikipedia:独自研究は載せない、Wikipedia:中立的な観点 に抵触する虞が怖いので斜め読みにとどめました。両方針を重視する立場のユーザーが上で挙げていただいたリンク先の論調を判断の参考にすれば、記事を削除する方向に傾いてしまうように思います。貴ホームページでのお立場とウィキペディアでの執筆者としてのお立場は峻別していただきたく呉々もお願いします。筆力を要求して申し訳ありませんが。--スのG 2007年5月22日 (火) 09:15 (UTC)
- 了承しました。しかし、上記のリンクは、喜連川町誌の登場する人物が実在する人物であることをご理解いただきたく、このノート上だけの資料として上げたもので、資料部分だけでご判断いただきたいのです。自分の個人的研究と投稿内容を区別している姿勢には、以前から、かわりはありませんので、そこのところを誤解のないよう、これを読まれる方々には、よろしくご理解いただけたらと思います。
- また、現「喜連川騒動」の外部リンク、「さくら市ホームページの旧喜連川町の歴史」の参考文献には、「喜連川町誌」が上げられております。また、年表の騒動関連の記述は、私との半年にわたる交渉により、本来あるべき記述は抜いてあるようです。昨年は入っておりました。しかし、「さくら市」が否定したからといって、国や全国の市町村におかれている「喜連川町誌」が否定されるものではないことは、すでにご理解いただいているかと思いいます。ただ、以後、ご検討のほどお願いいたします。--喜連川一色家 2007年5月22日 (火) 10:26 (UTC)
- 「上記のリンクは、喜連川町誌の登場する人物が実在する人物であることをご理解いただきたく」が、まさに「独自の研究」への誘導になりかねないことを、喜連川一色家さんにはご理解いただきたいと思います。「喜連川町誌に登場する人物が実在する人物である」と言いたければ、直接その旨を記述した「信頼できる公表済の情報源」が必要です。「直接そうとは書いていないけれど、これらの文書を読んで少し考えれば、そうであることは明らかだ」はダメです。「お墓の写真を見れば、あなたもご自分で判断できるはずです」もダメです。「メールにて確認済み」も、もちろんダメです。--Dwy 2007年5月22日 (火) 11:10 (UTC)
- 「足利国朝公が喜連川に移った時従った家臣達」のリストについては古文書の出所が示されていれば(既出でしたらすみません)家名や姓がある蓋然性を示すものとしての情報源たり得るとみます。血縁関係は推定や又聞きでは厳しいでしょうね。--スのG 2007年5月22日 (火) 11:24 (UTC)
- 回答をうっかり忘れていたようで、すみませんでした。この文献は、私のページ「喜連川騒動の一考察」の一リンクページで、メインページ「喜連川騒動の一考察」の参考文献に「里見家」文書として明示しております。里見家とは、小弓公方足利頼淳とその子達(藩祖足利国朝、2代喜連川頼氏兄弟や豊臣秀吉の側室となった嶋子等)を足利家再興に至るまで、加護した戦国大名家です。--喜連川一色家 2007年5月24日 (木) 06:36 (UTC)
- 喜連川一色家さんに追伸です。上の Ks aka 98 さんのコメントを、資料が薄い記事を書く際のアプローチとしてご参考になさってください。私も参考にいたします。一週間に一度読み直すぐらいでも損はないかと思います。--スのG 2007年5月22日 (火) 11:27 (UTC)
- 実際の所、行きつまりました、Dwyさんのご指摘従うならば、旧喜連川町発刊の2誌の記述は、まったく書くことができなくなります。これを、書かないと、一方を取り上げるだけであり、個人判断が入るので「個人研究」となり、旧喜連川町の記述が、「信憑性」が乏しいのでダメといわれ、Ks aka 98さんの考えかたである、公的文献は、地方自治体が出版したものであれば、「信憑性」が低くても、それ以外に新しい確かな、事件に詳細におよぶ文献が発表されないのであれば、これが、現在一番「信憑性」が高いと判断すべきであり、その記述を歪曲してはならない。そして、その中に矛盾する記述があれば、他の信頼できる文献で指摘しながら、個人の見解を入れずに編集するのであれば、Wikipedaとしても「信憑性」もより補填され、「検証性」も確かな記事となる。だったと思いますが、これまで否定されてしまうと、さすがに「手も足も出なく」なります。困りました。--喜連川一色家 2007年5月22日 (火) 12:30 (UTC)
- しかし、現在の「喜連川騒動」の記事は、まだ、多少の修正点はあるもの、個人判断と取れる、「思われる」で終わる文章などを除けばこの方針に合致する形で改定された記事では、ないかな~?と思うのですが。当然、先にDwyさんのご指摘のあった、「署名性」を補填し、現在付けられている、私自身も好ましいとは思わない、2つの個人ページのリンクを何とか、個人ページでないリンクにすげ替えることができれば、OKじゃないかな~と思うのですが、いかがでしょうか?--喜連川一色家 2007年5月22日 (火) 12:48 (UTC)
- 方針へ合っているか合っていないかの見極めは、方針に慣れたかたにお任せしたほうが良いと思いますよ。こういう時の当事者のコメントは逆効果になりかねないですから。--スのG 2007年5月22日 (火) 12:55 (UTC)
- しかし、現在の「喜連川騒動」の記事は、まだ、多少の修正点はあるもの、個人判断と取れる、「思われる」で終わる文章などを除けばこの方針に合致する形で改定された記事では、ないかな~?と思うのですが。当然、先にDwyさんのご指摘のあった、「署名性」を補填し、現在付けられている、私自身も好ましいとは思わない、2つの個人ページのリンクを何とか、個人ページでないリンクにすげ替えることができれば、OKじゃないかな~と思うのですが、いかがでしょうか?--喜連川一色家 2007年5月22日 (火) 12:48 (UTC)
- そうですね、少々、早急すぎたかもしれません、ご指摘ありがとうございます。待つことにします。--喜連川一色家 2007年5月22日 (火) 15:46 (UTC)
削除依頼でのコメントへのお返事です
[編集]- 「江戸幕府老中奉書」の「信憑性」と「検証性」について
「信憑性」については、喜連川文書の性質(喜連川家の子孫足利於菟丸が所蔵していたものであること、東京帝大資料編纂掛による影写があること、現在は市教委が所蔵し、栃木県立博物館により研究がなされたこと)から、いわゆる偽書の類ではないと考えます。県立博物館の研究調査(今回出典としたもの)には、それぞれの書簡の写真が掲載されています。また、「検証性」については、私は喜連川図書館(開架です)で見つけましたし、栃木県立博物館からの出版ですので県内各地の公立図書館に所蔵されていますのでこれもクリアしていると思います。なお、詳しくは各種検索エンジンで「喜連川文書」(読み方は「きつれがわもんじょ」です)を検索していただけると幸いです。 - 「徳川四天王、榊原康政の記述」について
榊原忠次の項目にあったものを追加しただけで、特に何がどうと言うことはありません。あえて理由を考えるならば、父忠政は大須賀家を継いだこと、その子である忠次が再び榊原姓に復し、家督を継いだことを考え、より有名人であると考えられる康政へのリンクを貼った、と解釈していただければ。 - 喜連川昭氏の家督相続年や生誕日を削ることについて
これこそ喜連川昭氏の項目があるわけですから、そちらで詳しく説明すべき事柄です。むしろあちらを詳しく加筆してください。
以上3点、お答えしました。今度は貴方の番です。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 11:47 (UTC)
- ご返答ありがとうございます。これだけの資料があって、旧喜連川町編さん委員会で、これに及ばずに、「喜連川騒動の顛末」や「年表」の歪曲を許してしまったことは、同町を第二の故郷と思う私には残念でなりません。
- おかげさまで、最終的には、良い記事となったことを、先に御礼申し上げます。
- 喜連川の龍光寺和尚と専念寺和尚や、旧喜連川町編さん委員会の方で、「喜連川騒動の顛末」の編集、研究において、意見が合わず、途中辞職された方の奥様にも、石○さんにも、「喜連川騒動の顛末」の矛盾は、資料をもってお伝えし、交流を深めさせていただいております。
- ところで、「江戸幕府老中奉書」に記述された、老中から、榊原忠次に依頼のあった、「狂乱中」の喜連川尊信に遣わされた人物とは誰だったのでしょうか?そのへんの所は、大変気になるところです。二階堂又市(15歳)であるわけもなく、「関ト養」は、慶安元年七月三日に、喜連川尊信の病状と治療をした人物ですので、また、「発狂中の喜連川尊信」が、江戸にいたということですか?そのへんの所が明確であると、より「信憑性」が上がると思いますが、いかがでしょうか?
- 脚注に書きましたが、「概説」によると「尊信の家来に二階堂主殿を当てたが、うまくいかなかったので代わりをよこせ」ということです。二階堂主殿と二階堂又市が同一人物かどうかは私にはわかりません。また、尊信が江戸にいたかどうかについてはわかりません。資料に書いていないので。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 15:27 (UTC)
- また、東京大学史科編纂所のように、「喜連川文書(もんじょですか。お詳しいですね。)」の中身が、検索エンジンで閲覧できると多くの方に、その「信憑性」が開示できるかと思います。
- 私に言われてもわかりません。なお、この手の「文書」を「もんじょ」と読むのは、ある意味一般常識です。詳しくは、文書をご覧下さい。「栃木県文書館」は「とちぎけんもんじょかん」と読みます。(余談ですが、栃木県文書館の収蔵品に「高塩武一家文書」があるのですが、これが「高塩家文書」ですか?)--Doripoke 2007年5月26日 (土) 15:27 (UTC)
- (追記)上の方で触れた、「東京帝大資料編纂掛による影写」ですが、東京大学史料編纂所データベースの「所蔵史料目録データベース」に、まさにその謄写本が画像として公開されています。「喜連川家文書案」で検索してください。(もうここは見ていないと思いますが、一応。)--Doripoke 2007年5月28日 (月) 13:08 (UTC)
- 今回使用されている個所の原文を見ようと思って少し見てみたのですが、分量が多すぎて、個所を特定するのは時間がかかりそうで断念してしまいました・・・。^^;
- 原文を見ることができれば、読み下しでご協力できるかと思っていたのですが。--Horlicks 2007年5月29日 (火) 01:42 (UTC)
- 「江戸幕府老中奉書」の記述の「要約」ですが、これはDoripokeさんの翻訳でしょうか?
- その通りですが、資料中の「概説」との文意の相違はありません。著作権法違反(概略には著作権が発生する可能性があるので丸写しはできない)のリスク回避のためです。詳しくは、お近くの図書館で当該資料をご覧下さい。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 15:27 (UTC)
- どうも、記述内容を冷静に試読してみると、つじつまが合わないようなのですが?喜連川尊信の「発狂」自体は、いくら当時でも「取り潰し」の対象になったかどうか?嫡子がいるわけですし、しかも、榊原忠次は、徳川家康の姪の子であるので、徳川(松平)一族扱いです。当時としては、かなり幕府の温情が感じられる沙汰です。筆頭家老が責任を取ることは、納得できますが、その他の家臣までとは?、まして、彼等の嫡子までお咎めがあるとは?史実は事実であるなら、そのへんの「信憑性」を示すものはないのでしょうか?
- わかりません。専門ではないので。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 15:27 (UTC)
- また、四天王の件は、当然榊原忠政の記事に記述されていることですから、わざわざ「喜連川騒動」の記事に記述しなくても良いかと考えます。そして、それより、やはり事件の真相を語るに、より近ずく為にも、『喜連川町誌』の記述にあった榊原忠政から関連付けるほうが、読者が混乱することはないかと思います。
- 忘れてました。Doripokeさんが、何のコメントもなく、他人の投稿記述の「信憑性」「検証性」を保持する出典や脚注記述を必要に削除する理由に対するコメントがまだですが、この点はいかがでしょうか?
- コメントは記事のノートを見てください。とうの昔に書いています。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 14:35 (UTC)
- それはそれで、Doripokeさんは喜連川の文献について大変詳しい方ですので、今後ともよろしくお願いいたします。--喜連川一色家 2007年5月26日 (土) 13:10 (UTC)
- 別に詳しくはありません。当該史料は図書館入館後15分で発見されました。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 14:35 (UTC)
- 栃木県立博物館では、なかったでしょうか?、一般の方は、博物館までは、目は届きませんよ。また、博物館で、展示物にいたるまで、紹介しているページ(サイト)は、ありませんと思いますが?
- また、喜連川図書館であれば、当然隣は、「さくら市喜連川支所」ですので、現喜連川町史編纂委員会の主事さんが当然教えてくれても良かったと思いますが?昨年10月から何度も詣でているわけですから、それはないと思いますが?--喜連川一色家 2007年5月26日 (土) 15:23 (UTC)
- 県立博物館ではありません。さくら市喜連川図書館です。具体的には図書館入り口からまっすぐ進んで突き当たりの郷土資料コーナーにあります。なお、喜連川文書そのものは、「喜連川町教育委員会所蔵」ということですので、新市にも引き継がれていると推定されます。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 15:37 (UTC)
- お話は理解できました。では、投稿本文の「出典」にある。[栃木県立博物館]の表示記述は、Doripokeさんが編集投稿されたものですが、大変詳しく記述されておりますが、これはどういうイワレなのでしょうか?お話のつじつまが合わないと感じるのは、私だけでしょうか?--喜連川一色家 2007年5月26日 (土) 15:52 (UTC)
- 必要部分をコピーしてきたので、書名・著者名義等は本に書いてあるものをそのまま書きました。なお、発行日は「平成五年三月三十日」印刷は「松井P・T・O・印刷株式会社」と、奥付に書かれています。全くの余談ですが、私は博物館の向かいの産婦人科で生まれました。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 16:08 (UTC)
- これまでのDoripokeさんの会話とも「矛盾」するご回答ですので、まったく信頼できません。皆様にも、「私の会話ノート」や「喜連川騒動」の編集ノートでのDoripokeさんの全てのコメントを再度、試読していただければ、明白です。「私が、Doripokeさんを○○家の末裔であると侮辱した」というDoripokeさんによる、コメントさえ歪曲であったことがご理解いただけるかと思います。皆様、大変お忙しいとは、存じますが、私にとっては「私へのBlock依頼」の決議にもかかわる重要な問題となりましたので、よろしくお願い申し上げます。--喜連川一色家 2007年5月26日 (土) 16:30 (UTC)
一応これを貼っておきます。[2]この編集によると、
なぜ、Dorpikoさんが、必死に、マナーも守らず書版投稿より、「削除」を望むのか、「高塩家」「高野家」関係の方でもなければありえません。
ということですが、これは?--Doripoke 2007年5月26日 (土) 16:39 (UTC)
- いや、たぶん「そうは言わなかった」という意味ではなくて、「私は博物館の向かいの産婦人科で生まれました。」を、関係者の子孫であることの根拠と解釈した、という意味ではないですか?
- まあ、もちろん、そんな根拠には到底なり得ないのは言うまでもありませんが・・・。--Horlicks 2007年5月26日 (土) 16:48 (UTC)
- じゃないです。彼はずっと「俺はdoripokeが何とか家関係とか言ってない」(要約)って言ってます。だいたい、博物館は宇都宮市にありますから。このことは、私の「宇都宮生まれ、ヒップホップ育ち」の証明になるかと思います。--Doripoke 2007年5月26日 (土) 17:08 (UTC)
ふと思ったんですけどね
[編集]この版を読んで受けた印象なんですが。
自分が見つけられなかった資料を提示された人が示す反応じゃないと思うんですけどね。あまりにも失礼な話なんじゃないかな。--Lonicera 2007年5月26日 (土) 17:57 (UTC)
- このノートの前節では、誠実に素直にDoripokeさんに「お礼を申しあげております」そのことを、確認のうえ、下のコメントを確認っただければ、私の気持ちが多少変わったことを、ご理解いただけるかとおもいます。--喜連川一色家 2007年5月26日 (土) 19:18 (UTC)
- まず、私の会話(コメント)は、Doripokeさんのコメントにより、ずたずたに分割されていることに、気付いて、いただきたいのです。文章とゆうものには、時間・その時のタイミングで受け取りかたは、異なることになることを申しあげます。次に、Doripokeさんの行動への疑問です。「博物館の隣の産婦人科で生まれた」と書かれておりますが、この記述は、「産婦人科で生まれたのか」「産婦人科の子息として生まれたのか」2つのとり方があります。そして、「喜連川図書館で15分で文献を発見された」ともいわれております。また、ネット検索により、『喜連川文書』の所在を確認されたとも言われております。ここに、矛盾が発生することを賢明な皆様に、きずいて欲しいのです。なぜ、ネット検索によりその文献の発刊元が栃木県立博物館であることに、賢明なDoripokeさんは、きずかなかったのでしょうか?わざわざ、車で一時間かけて、喜連川図書館にゆく道理があったのでしょうか?発刊元には、当然、発刊文献は、管理されており、閲覧コピーが可能なはずです。Doripokeさんが生まれた産婦人科の隣が発刊元の栃木県立博物館であるのにです。しかも、喜連川図書館の間取りさえわかっているような、会話ですので、当然喜連川図書館で発見したのでしょう。しかし、なぜ、文献名や発刊元がわかっていながら、正面の受付の女性の方に確認しなかったのでしょうか?2分とかからずに目的の文献にありつけたはずです。また、また私は、もと足利銀行本店勤務ですが、栃木県立博物館の隣に、産婦人科があったか記憶がありません。2~3本異なる通りには、あることは知っております。
- すなわち、Doripokeさんが宇都宮在住の栃木県立博物館の隣の産婦人科の子息であり、ネット(検索エンジン)で文献の所在を見つけたのであれば、喜連川まで行かなくても、隣の栃木県立博物館で、用件は足りたのではないでしょうか?
- これが、Doripokeさんの会話と行動の矛盾です。--喜連川一色家 2007年5月26日 (土) 18:51 (UTC)
- 3点だけ。
- 医者の息子ではありません。
- 資料は「行ったらあった」が正解です。ネット検索で見つけたわけではなく、図書館内の検索専用端末で見つけました。(入力キーワードは「きつれがわ」です。)なお、「喜連川図書館に行くことが目的」だったわけではなく、もののついでに行っただけのことです。
- 栃木県立博物館が立地する中央公園(旧、専売公社敷地)と、国道119号(栃木街道)を挟んだ向かい側に、「中央公園レディースクリニック」(私が生まれた当時は「金澤産婦人科」)があります。そんなことは、それこそネット(検索エンジン)で調べれば、わざわざ私に聞かなくても、googleマップで、用件は足りたのではないでしょうか?
--Doripoke 2007年5月26日 (土) 23:07 (UTC)
- Wikipediaでの、私の「喜連川騒動」に関する目的は、十分達成できましたので、安心しました。Wikipediaの使い方を熟知し何をいっても、のらりくらりと、ネット上のコネクションの利用法が、うまい方には、かないません。十分有意義な時間を作れたと満足しております。現実社会でも、おもいもよらぬところで、ことが進んでいることも良くあることです。大変勉強になりました。しばらくはWikipediaは「さようなら」になるでしょう。次のターゲットでもさがして遊んでいてください。ネット上で、本来のご自分をさらけだし、うさばらしするのも良いでしょうが、ほどほどが、何事もよいかと思いますよ。○○さん。「江戸幕府老中奉書」のご開帳のけんは、お立場がある中、やっと理解していただけたのかと感謝です。また、ご約束通りにまた、6月にお伺いしますので、お互い表の顔でお会いしましょう。--喜連川一色家 2007年5月27日 (日) 01:04 (UTC)