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Wikipedia‐ノート:削除依頼/喜連川騒動

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  • (コメント)検証・仮説については外部サイトに譲り、本記事については事実に限定して書こうとする、良心的な編集態度と感じました。自分の先祖について研究するというのはありそうなことです。ただ、「喜連川騒動」というのは有名な事件なのでしょうか?他の資料がないのであれば、客観的編集が難しくなりますね。 けんち 2006年9月25日 (月) 15:26 (UTC)[返信]
  • (コメント)投稿者より。・・・ウィキぺディアは、百科事典ですので、明確な部分だけを記述しました。しかし、この事件は、結局事件の勝組み、すなわち事件後に喜連川藩の実権を握った藩士達により事件の真相が歪曲させられたと言う疑いは、拭えないものです。主家に謀反を犯したと言われる、「一色刑部・左京親子の墓石」と「一色家の墓」の存在とこれを代々供養する事件後の喜連川家家臣の存在・古文書「小林家代々日記」の不採用・3代尊信公の側室であり、4代昭氏公の生母の墓と一色刑部の実弟の墓の存在位置・幕末の城代家老二階堂親子の謀反事件の結末と二階堂家の墓の破棄など、旧喜連川町内に残る史跡から伺われる事件に対する藩内での処遇の違いは明白であり、旧喜連川町史の「狂える名君」・喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」における記述と作成には、公的文献に不可欠な中立性が欠除しており、多くの矛盾点を残すものです。
  • この矛盾点に関する論議は、是非多くの方々に研究していただきたいこととして、外部ページにて紹介しております。 このウィキぺディアへの投稿本文には、一色派子孫にも反一色派子孫にも異論のない共通の事実のみ記載しております。
  • このページを削除することは、「このような投稿をされると困る。自分達の文献以外は認めない。」とゆうインターネット時代を予測していなかった、反一色派子孫の意見を通すこととなり、旧喜連川町で作られた都合主義的文献を正等化することであり、それこそウィキぺデアの中立性を犯すことになるのではないでしょうか?歴史は、常に議論されるべきものですので、議論中だから削除とゆう理論は難しいと考えます。ウィキぺディアが、一般販売されている百科事典より優れている点は、ネット上の民主的百科事典であるので、歴史教科書や一般百科事典のように歪曲した歴史感を読者が植え付けられずに幅広い歴史感を持つことが出来ることではないでしょうか? 議論に関しては、仮説として研究者個々の自由な外部リンクの追加にて照会する形が望ましいと思います。 あくまでも研究者は史実の仮説を提案する者であり、史実の判断は、このような外部リンクを含めたインターネット型巨大データベースを構成するウィキぺディアを利用する、多くの読者の皆様が行うことです。
  • なお、旧喜連川町史の「狂える名君」と旧喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」は、私の投稿ページの外部リンク先にて、読者の方の中立的判断をいただくべく全文、内部リンクにて原文のまま紹介させていただいております。投稿本文の検証材料にでもしていただければ幸いです。原本は、栃木県さくら市喜連川支所の図書館にて自由閲覧&署名による部分コピー持ち出しが可能です。旧誌(史)関係者による圧力により証拠隠滅が無い限りいつでも誰でも閲覧できます。新さくら市の中立的対処を期待するものであります。本文の投稿者より2006.9.29日(18:20)更新

本文投稿者より追加コメント

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 (平成18年10月2日 4:00)リンク先(私のページ)を更新しました。

 更新内容は、「喜連川町史」に記載されている年表と、4代喜連川昭氏公の生母(一色刑部の娘)の墓石に刻まれている、死去年数と4代昭氏公の家督相続年齢(7歳)を検証した結果、喜連川町史の「狂える名君」と喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」にて、記述されている「尊信派」(反一色派)についての矛盾点が解明されたこと、事件の関係人物達の動機についての記述を追加しました。

 また、旧喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」の執筆者が、尊信派(反一色派)子孫である疑いが強く、公的文書でありながら、中立性が欠除していた点を証明すべく、同書の編さん委員名簿の公開ページを公開しております。

 旧喜連川町誌編さん委員の中の、文化財保護審議会委員に、事件の「勝組み」ヒーローとなる老臣「高野修理」・直訴を護衛した「高塩清左衛門」の子孫らしい人物2名の氏名が書かれております。当然、お役所仕事ですので事件に詳しい人物が執筆の中心人物になると思います。思い込みが強くなるため、多くの事件の矛盾と疑問点をのこす、記述となっていたようです。現物をスライドショウにて確認できるようにしていましたが、お気付きいただけましたでしょうか? すでに、公的出版物として、旧喜連川町が発刊し公開されている物ですので、法的にも問題はないはずです。

 4代昭氏公の生母の死去については、同誌の年表には記述されておりません。都合の悪い史実は、年表からはずしたのか、知らなかったかは解りませんが、これが、史実を解明する鍵となりました。

 公的文献が、必ずしも正しくないこと、歴史は「勝組み」により歪曲されることの一例として研究しております。そもそも、投稿本文の訂正依頼ならまだしも、突然、削除依頼をする理由は明確です。旧喜連川町発行の文献を作成した人物関係者でなければ、このような依頼を出す必要はないはずです。しかし、同文献2冊には、事件記事と付加されている年表との矛盾が発生しており、作成時の検証が子孫としての思い込みにより曖昧であり、この点が暴露されたと言うことではないでしょうか? 同誌で記述された「尊信派」は、3代尊信公を隠居に追い込んだ逆臣であることは、明白になりました。 再度私のページ「喜連川騒動・・古河系家臣団の陰謀説」を再検証願います。

 喜連川町誌編さん委員会の私のページ内での公開は、この削除問題と事件の歪曲問題が解決されるまでは公開するつもりです。解決後には、非公開にするつもりです。

 なお、私のメインページは、企業として、毎年高額の経費をかけて、Yahoo!登録・Jワード登録をしておりますので、ページ内の項目は全て、検索順位が高く設定されております。公的機関の歴史の歪曲を許す考えは、ありませんのでご検討ください。喜連川町は、もうこの世には存在しないのです。

 改めて、本来の歴史の意味を考えた判断をお待ちしております。歪曲した歴史は、争いしか生まないことは、現在のアジア地域における、各国の歴史教科書問題で明白ではないでしょうか?

 また、削除依頼者は、削除依頼理由に「自サイト宣伝の為の記事」とされておりますが、本来のウィキぺデアの存在目的を御存知である、編集担当者の方の判断におまかせしたく存じます。ウィキぺディアサイトの物理的負荷および理念を考えれば、外部リンクは当然の手法と考えます。

 平成18年10月2日投稿本文の投稿者、喜連川一色家より。


以上の署名の無いコメントは、220.104.59.53会話/whois)氏が[2006年10月1日 (日) 13:02 (UTC)]に投稿したものです(Doripokeによる付記)。[返信]

  • (コメント)お願いですから、wikipediaの決まりをきちんと読んでください。このままでは、あなたの巻き添えで栃木県内のocnユーザーすべてがブロックされてしまうことになるかもしれません。--Doripoke 2006年10月1日 (日) 14:59 (UTC)[返信]


対話に応じてください

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  • 栃木OCNの可変IPで記入されている「投稿者」様へ。(ご自身の書き込みから推定するにスクウェアヒルズ経営者の方と推測されます)可変IPのため、ノートへの呼びかけも事実上無意味な状態です。是非ユーザー名を登録の上、ログインをしての書き込みをお願いします。また、私を含め、多くの方々に対しての対話にも応じてください。現在、あなたに対する短期ブロック依頼(方針文書の要熟読)を提出しています。このままでは、あなた、及び*hiraide.tochigi.ocn.ne.jpを使用しているすべてのユーザーを巻き添えにして、あなたに対するブロックが行われざるを得ません。なお、喜連川町は消滅しましたが、その債権・債務ともに、すべての権利義務はさくら市に引き継がれているはずです。あなたの主張はWikipediaではなく、さくら市に対する行政訴訟あたりでやるのが適切かもしれません。
  • 少なくとも「喜連川騒動の謀反がねつ造である」という主張は、世界中であなたしかしていないものです。どんな権威の持ち主によるものであっても、それに検証の可能性がないならば、Wikipediaの記事にはなることが出来ないという原則、詳しくはWikipedia:独自の調査、及びWikipedia:検証可能性をご覧ください。
  • 繰り返しになりますが、対話に応じてください。どうぞ、ブロックという最悪の結果の、その前に平和的な解決を。--Doripoke 2006年10月3日 (火) 14:56 (UTC)[返信]


  • どうも私が旧喜連川町史執筆者の関係者だとお思いのようですが、私は喜連川には縁もゆかりもない、宇都宮生まれヒップホップ育ちな人間です。なにか誤解されているようでは?--Doripoke 2006年10月3日 (火) 15:25 (UTC)[返信]