ノート:高氏師
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この記事は2007年7月30日に削除依頼の審議対象になりました。議論の結果、削除となりました。 |
{{要出典}}を貼った部分について、箇条書きにしました。
- 高修理守、あるいは高四郎左衛門が高氏師の子孫であることの出典は。
- 高修理守と高四郎左衛門が同一人物、あるいは親子であることの出典は。
- 高修理守、高四郎左衛門と高野修理が同一人物であることの出典は。
- 幕府の調査により、偽装直訴事件であったことが露見したということの出典は。
- 二階堂主繕助と高野修理が「共犯」であることの出典は。
史料稿本の綱文には、「喜連川邑主喜連川尊信の家臣二階堂主膳助等、高四郎左衛門等と事を相訴ふ」とあるが、「相」には「お互いに」という意味もあるため、「二階堂たちが、高たちと事をお互いに訴える」と解釈できる。また、「二階堂たちが、高たちと一緒に訴えた」では、主犯は二階堂であると解釈することもできる。 - 喜連川尊信の隠居理由が、「二階堂・高野が偽直訴をしたから」ということの出典は。
- 二階堂主膳助の減刑理由が「若年であったから」ということの出典は。
以上、出典となる史料名、江戸時代のものであればその原文の写しを提示してください。提示されない場合は、すべて出典無しとみなし、削除依頼に提出します。--Doripoke 2007年5月23日 (水) 13:33 (UTC)
- 一点だけ、お答えさせていただきます。なぜ、「高氏師」を投稿したかについて、ご理解いただければと、コメントを入れさせていただきます。「喜連川騒動」の現投稿文において、確かな出典として、実際に評定が行われた江戸の文献の関係記述を紹介しております。この投稿文には、投稿者としての「主観」は、抜いて編集させてあります。しかし、昭和52年の「喜連川町誌」の記述と「江戸の文献」の記述には、矛盾が生じております。これは、投稿者の「主観」ではなく、現在残された文献を並べ見ることにより、多くの読者が感じ取る、読者の「主観」です。
- しかしながら、私としては、「高家」は、足利家発祥以来の「執事格」の家であり、足利尊氏や新田義貞・佐々木判官高氏らによる鎌倉幕府の倒幕そして、その中にあって、「バサラ」家臣として「バサラ」大名の佐々木判官高氏との連携に貢献し、その他、室町幕府の安定の為に貢献しました。当然、途中、足利将軍家さえ倒すチャンスさえあったものの、最後まで足利家の家臣として従い、細川?(忘れました)に暗殺された、高師直・高師泰兄弟は、昔から好感のもてる武将です。(かなり好色家であったらしいですが、私も好色家です。好色なければ人類の繁栄はありえません。)
- そして、高家のその後を調べて行きますと、関東一色家と同じく、鎌倉公方家に仕えており、古河公方家に、譜代の家臣として仕えております。この子孫となる人物が「高氏師」です。そして「里見家文書」の足利国朝に従い喜連川に向かった家臣の中に「高修理頭」の名があり、そもそも、平泉の藤原氏や徳川家などは、例外ですが、足利家譜代家臣であり、名門の家名を偽っているかは、考えるべきでない。(足利家の身内のことですし、否定する資料もない)。すなをに、喜連川町の高野家は、この名門「高家」だと思います。
- しかし、江戸時代に入り戦のない時代では、喜連川騒動(権力争い・直訴・評定)は、江戸時代の戦さであると考えております。戦さであれば、「勝てば官軍」・「負ければ賊軍」であり、「どちらが悪い」とか、「不忠者だ」とかは、考えるべきではないと考えます。「江戸幕府」でさえ「明治政府」により、「悪い時代であったが、新政府軍の活躍により今の時代がある。」などという「歪曲」により、歴史を知らない人たちは、信じている方は今でも思っているのが現状ではないでしょうか?
- そして、話を戻しますが、「喜連川騒動」の読者に「事件当事者の心情」を理解していただきたく、この「高氏師」を編集したのです。「そうか、なるほどな、であるなら、さもあらん。」とです。
- しかし、だれが、削除されていたはずの、この「高氏師」を復活させたのか、わけがわかりません。「削除は削除でOK]ですし、後で、また再編集後に投稿しようか。と考えていたところです。--喜連川一色家 2007年5月24日 (木) 10:14 (UTC)
- 何一つ質問に答えていないような気がしますが。執筆理由など、正直どうでもいいのです。記述の出典を提示してください。それとも、出典が提示できない理由がおありでしょうか?(例:高修理守が高四郎左衛門と同一人物なのは、某古文書によって明らかだが、その書名をここで教えることはできない、など。)--Doripoke 2007年5月24日 (木) 10:26 (UTC)
- 全ての答えは、上記のコメントに入っております。事件当事者とは、当然、大嶋に流刑となった「高四郎左衛門」等です。この版が、復活したのは私の意志ではないので、気になるならDoripokeさん自信で調べてください。この「高氏師」の削除には、削除後ですが、私が同意したことは、私の会話ページで確認できるはずですよ。よろしくご納得いただければ幸いです。しかも、Doripokeさんのご質問に対応したとしても、「高氏師」本人の記述が少ないということで、Wikipediaの規約により、管理者権限で即時削除では、努力の甲斐もないはずです。--喜連川一色家 2007年5月24日 (木) 13:14 (UTC)
余談になってしまいますが、そもそも「修理守」という官職名は存在しませんよね。修理職の「かみ」は「修理大夫」ですから。--Horlicks 2007年5月25日 (金) 02:47 (UTC)
- 「修理頭」です。多分、入力ミスです。里見家「古文書」原文の写しでご確認ください。[1]
- また、削除される記述に、私の貴重な情報資料を開示する必要もない。との判断です。「高野家」の方でしたら、親近感もあり個別に開示してもよいかなと考えております。昭和52年の歪曲の可能性があります。であれば明らかに罪となりますが、「罪を憎んで、人は憎まず」です。--喜連川一色家 2007年5月25日 (金) 04:53 (UTC)
- 余談の余談になりますが、「頭」でも誤りです。修理職をご確認ください。
- まあ、私称は誤っていることもママありますのでどうでもいいですけどね。--Horlicks 2007年5月25日 (金) 13:27 (UTC)
上記の外部リンクによると
高 修理頭の家名は、鎌倉時代より足利家代々の家老職の家ですので、
高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟の子孫でしょうか?
ということですので、「高修理守、あるいは高四郎左衛門が高氏師の子孫であること」は、喜連川一色家氏の独自研究ですね。そのほかの記述も、やっぱり独自の研究が強く疑えます。どうぞご確認ください。--Doripoke 2007年5月25日 (金) 09:37 (UTC)
出典はこの下にお書き下さい
[編集]出典はこの下の部分にお書き下さい。なお、上記のそれぞれの項目について、回答をお願いします。
回答拒否と見なし、出典無し項目を削除しました。
[編集]- 記述の出典について、数回回答を求めましたが、はぐらかすばかりで何ら解決の意思を見せなかったたため、回答拒否、対話拒否と見なし、当該項目を削除しました。そのため本記事が成立しない状態になっています。
利用者:miyaさんより、「この項目に即時削除を貼らないでください。削除が必要ならば削除依頼に出してください」との提案があるため、削除依頼への提出を予定しています。 - なお、この記事を即時削除したのも、復帰したのも管理者である利用者:霧木諒二さんです。詳しくは下記のログをご覧下さい。
http://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E7%89%B9%E5%88%A5:Log&page=%E9%AB%98%E6%B0%8F%E5%B8%AB
- この回答拒否に関して、喜連川騒動における上記質問項目に関係する部分をすべて削除しましたので、ご確認下さい。人を憎んで、記事を憎まずとは言い切れない気がする--Doripoke 2007年5月24日 (木) 13:34 (UTC)