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利用者:Aboshi

Aboshiです

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Wikipedia:バベル
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三河弁 この利用者は三河弁母語にしとるでのん。 powered by Tomomarusan's 日本の方言バベル


ここを見た方、こんにちは。Aboshiです。いつしかここに参加して1年。勤め人な身ではありますが、細く長く、このコミュニティの末席にあり続けられればうれしいです。

愛知県在住で、歴史好きです。大学時代は中国近代史をうなりながら専攻してました。自分の勉強がてら、少しずつ書き込ませて頂きたいと思います。よろしくご意見、ご叱正のほどを。紀年等細かな間違いと、大きな視野での間違い双方よくやらかします。要は木を見ることもできず、森もよくわかっちゃいない・・・

歴史をもっと学ぼう、と思っている方へ。ここに書くことは、自分で調べなおすきっかけになるし、自分が何をどこまで知っているか再確認できる絶好の機会です。また、自分の文章がより良く直されていくさまは、感動ものです。本当に勉強になります。特に中国史は参加がまだまだ多くなく、ぜひともご加入とご加筆を。

なお、名乗りで鉄道マニアとバレバレかもしれませんが、こちらについては人並み程度で、こちらに書き込むような力はございません。実は安易につけてしまったハンドルで、ちょっと後悔してたりします。腹の立ったの方がいましたら、ご寛恕のほどを。


混乱のチベット/西蔵自治区の呼称問題を考えた

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そして悟った。だめだこりゃ。こんなに地域名と地域概念がゆれるのもすさまじい。そして強引に結論だけつけたが、私の頭は激しく揺れる。

(詳細)「西蔵」の語は18世紀前半の代の漢籍に初めて見られる。そのときの「西蔵」の語の成り立ちは、チベットの一地域(現在の西蔵自治区の一部)「ツァン」の音訳「蔵」に、「中国から見て西」という意味で「西」を加えたものである。その後半ば民族名としても西蔵の名前は使われるようになり、20世紀前半の歴史書『清史稿』では、「地理志」中の藩部(モンゴル・ウイグルなどある程度自治統治を許した部族)の一つとして「西蔵」が登場する。さらに、西蔵の下位カテゴリとして「蔵(ツァン)」「康(カム)」「拉里」(いずれもチベット語の音訳)の各地域としている。また、20世紀初頭にチベットを訪問した河口慧海の著した本の名は『西藏旅行記』であり、当時の漢語にあっては「チベット人の居住区=西蔵」の概念が成立していたことがわかる。(←河口については要確認)

この「チベット人の居住区=西蔵」の概念は、大多数のチベット人の居住区である青海省雲南省甘粛省に当たる地域まで広範に含んで成立していた。これは本来名付けられた際の領域とは矛盾があるが、そのまま受け入れられた。ところが、中華民国初期に「西康省」が現在の青海省と甘粛省にまたがって建省され、西蔵の概念はダライラマの直轄地域に再びせばまった。ただし当時の西康省(康=カム、チベット語の音訳)は中華民国の支配下にあったもののチベット人が未だ大多数を占め、一部のチベット人エリートは西蔵に対置する概念として「東蔵」を打ち出し、自治区構想を立てていたが頓挫した。その後中華人民共和国が西康・西蔵いずれにも進駐し、それぞれ多少の領域の変更を伴いつつ、青海省・西蔵自治区となった。

現在、中華人民共和国政府は当該行政区域としての漢字表記を「西藏自治区」(日本の一般的な漢字表記では「西蔵」)としている一方、訳語として英語では'Tibet Autonomous Region'、日本語では「チベット自治区」を使用している。この呼称を日本政府も採用し、日本国内の多くの民間団体もこれにしたがっている。しかし、西蔵=チベットとすることで青海・甘粛の一部などは元々チベット族が大多数を占めていたこと(現在はこの数十年の移民により漢族が多数を占める)を我々は忘れがちであり、また西蔵自治区のダライラマと仏教のイメージのみでチベットを見てしまう傾向がある(チベット族の文化はもっと多様である)。また、現在日本の学者の中では西蔵自治区を西チベット、他の地域を東チベットと呼称する手法もある(例:平野聡「近現代チベット史における「親中」の位相」『現代中国の構造変動』東大出版会、論文の題名から見当がつくように、チベット民族主義などに組した文章ではない)。 また、近年の日本においてはマスコミ・商工機関などで「西蔵自治区」の使用をみかけることが多くなっている。

このように18世紀の呼称の誕生から近代・現代に至るまで、チベットにおいては非常に地名とその地域概念が混線する状況が継続している。ウィキペディアにおいても、政治的に組することなくこの自治区名を表題に表すことはまことに困難であるが、ひとまずは正規の漢語表記「西蔵」に括弧書きで日本で最も流通している「チベット」を添え、西蔵(チベット)自治区とすることが妥当であると考える次第である。

(なお、世界最大の漢和辞典といってよい諸橋『大漢和辞典」では、西蔵をチベットと音訳するのは「甚だ妙なことであり、英漢両用の変則呼称である」と違和感を表明している)

執筆分野

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・中国近代史(特に清末)
(今まで書いてみたページ)

・・・袁世凱(加筆)
・・・徐世昌(新規)
・・・戊戌の政変(加筆)
・・・義和団事変(加筆)
・・・北京議定書(新規)
・・・張作霖(加筆)
・・・宋教仁(加筆)
・・・曽国藩(蛇足追加)
・・・後藤新平(追加)
・・・近衛篤麿(追加)
(私にとっては、後藤も近衛も中国史の人物。私に書かせっぱなしだと、記述が偏るので、日本史の方、是非加筆のほどを)


...大学時代に専攻してたはず、なのですが、ちょっとでも卒論のテーマに外れると、もういけません。自分の学んでた範囲と視野の狭さを反省しつつ、この百科事典を勉強し直しの一助にしたいなあ、と考えています。
そういうわけでご意見とご叱正はぜひとも頂きたいです。

具体的に自分が感じている問題意識を書いてみれば、

①、儒教がわからないので、清末であっても書けない(例えば、清朝考証学公羊学康有為梁啓超
日本の江戸時代後半から幕末までの諸事件と人物の裏にある朱子学陽明学のうねりあいはこの時代を把握する上でとても重要ですが、もちろん清末もその数倍大事です。特に康有為みたいな一種化け物みたいな人物を書くには、公羊学にも考証学にもそれだけの知識がないと...。まあこれだけメジャーな人物が赤リンクのままなのはそういう事情でしょうがね。私には当分手が出せないです。
②、どこまで事項や人物に触れたらいいのか
例えば袁世凱を書く際、彼の幕僚であった人物をいちいち挙げられれば書きやすいのでしょうが、徐世昌・唐紹儀・張謇・梁士詒・楊度...。でも、誰でもみるというこの事典の性質を考えると、そう人口に膾炙しない人物を増やすわけにはいきませんよね。もちろん事件・事項に対しても当然。わかりやすさを追求しつつも、単語をたらたら増やせない。私自身も文章力のなさもさることながら、難しいですね。

その前にもっと歴史のターニングポイントを握った人物や事件(張之洞盛宣懐段祺瑞科挙の廃止諮議局設置・二十一か条要求五四運動などなど?)をなんとかしろという話ですが、なにせ仕事もちで時間が...

③、参考資料の記述
あくまで読者の参考用であると考え、日本語で、普通の図書館にあるものということでやってますが、すると徐世昌などだと「あれ、ない(中国語か、大正時代のものか)」などということが起きました。うーん。
ちなみに、『張文襄公全集』とか『光緒朝東華録』みたいないわゆる元史料は入れないことにしてますが、どうでしょうねえ。
④、史書を解題
清史稿』や『東華録』に『碑伝集』、さらには『清国行政法』なんかの清代研究の基本素材をそのうち書きたいです。この辺をまとめておけば、後々楽になりそう。でも、こういう部分こそお勉強が必要だからなあ...

漢籍作成時の時代背景や、版本の系譜の問題なんかも含めて書いてみたいが。
・崋山つながり
私の故郷の偉人、渡辺崋山。その周りを固めてますが、ご本尊にはなかなかこわくて進めません。
(今まで書いてみたページ)

・・・渡辺崋山(加筆)
・・・高野長英(新規)
・・・江川英竜(加筆)
・・・江川太郎左衛門(加筆・根本的に修正予定)
・・・佐久間象山(加筆)

さっきの中国近代史でも触れましたが、江戸時代後期・幕末のほとんどの人物の底流を流れる儒学(と付け加えるなら国学)の重要性を痛感します。
例えば江戸時代後期の儒学者佐藤一斎。官学として朱子学を教えていた人物なのに、陽明学をも柔軟に吸収し、独自の思想を築き上げた大物です。彼の思想は大塩平八郎から、崋山・佐久間象山、さらには西郷隆盛坂本竜馬にも影響を与えているが、うーん、わからない。先日、彼の出身藩の美濃岩村に行った時には、ぜんぜん考えもしなかったなあ。
崋山自身も顧炎武的発想が好きだったりするしなあ。こういうことが重要だとわかったのが最近、というのが我ながら痛すぎです。

・地元ネタ
高校までの18年間を愛知県田原町(現田原市)で過ごしました。最近仕事の関係で戻ってきたばかりです。ここで書き込みながら、郷土史を復習したいと思っています。
地元民にしか知らないような事象をスパイス代わりに混ぜつつ、やってみたいですねえ。

(今まで書いてみたページ)

・・・田原城(新規)
・・・大アラコ古窯跡(新規)
・・・崋山劇(新規)
・・・田原市(加筆)
・・・渥美町(加筆)
・・・戸田康光(新規)

その他

・・・日露関係史(加筆、ちょっと挑戦。冗長だったかな)

--Aboshi 15:06 2004年6月8日 (UTC)

2004年8月9日 (月) 17:00 (UTC)(改訂)

田原紹忍 スンガリ川


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