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ノート:バテレン追放令/過去ログ1

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「朝鮮出兵従軍記者の見聞録」の削除について

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本文中にある「朝鮮出兵従軍記者の見聞録」は、本事項を扱っている徳富蘇峰著『近世日本國民史 豊臣氏時代乙篇』民友社発行の初版および改訂版に無く、他にも該当する資料がありませんので、削除を提案いたします。(--じじい50 2011年12月16日 (金) 07:20 (UTC)

追放令と直接関係のない内容の整理について

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本記事はあくまで「伴天連追放令」という法令に関する記事であり、追放令と直接の関係がない#ポルトガル商人による奴隷貿易に関する文献の信頼性#奴隷購入に対する宣教師の人道的介入といった節、あるいは海外侵攻計画、さらには禁教令後の状況まで述べられている現状は見出し語と内容にズレが生じているように思われます。こうした直接関係のない記事については、奴隷貿易や新記事として説明されるべきものと考えます。--ratexio会話2022年10月12日 (水) 13:13 (UTC)

こんにちは。コメント依頼の方から来ました。
おっしゃる通り、あくまでこの記事は個別の法令についての記事ですので、直接的な関係のない項目については本記事ではない場所で説明すべきです。ただ内容を見ると一部に信頼性要検証がついているとはいえ、様々な文献に当たって執筆された質の高い内容であると思いますので、新記事への移行(特に海外侵攻計画の件)や既存の記事への転記(特に奴隷貿易、禁教令後の状況)に賛成します。
以上、通りすがりですがよろしくお願いします。--カチューシャ・ベズイミアニ会話2022年10月13日 (木) 04:28 (UTC)
「「伴天連追放令」という法令に関する記事」を根拠とした内容削除ですが賛成しかねます。狭義の法令という部分だけを強調なされていますが、バテレン追放令が歴史の記事であるという視点が欠けています[注 1]。この理屈が通るのであれば、○令という名称の歴史関連の記事では、法令とは無関係な情報は全て消去する必要が出てきます。Wikipedia:ウィキペディアは辞書ではありませんWikipedia:日本中心にならないようにも参照してください。
上記2点の項目については「バテレン追放令」の原文において糾弾されている奴隷貿易について、基本文献と当時のイエズス会の宣教師の立場を二次資料や一次資料から引用しています。基本的な要点は以下です。
  1. 朝鮮における日本人奴隷貿易の是非
  2. 基本史料である『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』の史料批判
  3. 奴隷貿易へのイエズス会宣教師の関与についての是非(もし関与があるなら実態の説明)
いずれも歴史的にはバテレン追放令の一部または密接に関連しており、整理したいという意図を理解しかねます。
イエズス会は現存する団体でもあり、バテレン追放令(及び関連資料)等、信憑性に問題が指摘されている、または歴史家の間でも議論のある文献を一次資料として誤用して、宣教師達が奴隷貿易を推進したかのような印象を与えれば訴訟のリスクもあるでしょうし、史料批判や査読論文等によるイエズス会の関与の説明はWikipediaの存続のためにも必要と考えられます。
この項目はバテレン追放令が発布される前の緊迫した状況を説明しています。「イエズス会領」「長崎要塞化、植民地化」説にも関連しています。
追放令後の項目については、追放令が及ぼした歴史的影響のことですから歴史関連の記事では一般的なものです。もし影響やその後の記述を全て除去すると言い出したら歴史関連の記事を編集されている方は騒然となると思います。「追放令後」を無くすのは現実的な処方箋ではないと思います。
「追放令後」には秀吉と家康・秀忠の追放令の類似性についても言及されています。
1591年、インド総督の大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した
幕府の重要文書を起草した臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝を江戸に呼び、文案を作成させ、翌日、これを承認、秀忠に送り捺印させた…「伴天連追放之文」の大半は神道、儒教、仏教に関するもので、キリスト教を統一された日本の宗教(神道、儒教、仏教の三教一致)の敵とし、キリスト教を禁止するための神学的正当性を示そうとした
これらは英語圏におけるバテレン追放令の原因に関する有力説の根拠となる事実です。この箇所を削除すれば優先度の高い出典の除去にあたるため、Wikipedia:中立的な観点に違反すると思います。
上記の項目では島原の乱まで書かれた箇所が長いという批判はあるかもしれませんが、内容の半分以上は「追放令はポルトガルとスペインによる侵略を防ぐため(または追放令を発布したのは宣教師がポルトガル、スペインによる侵略の尖兵であるから)」という説と関連したものです。
秀吉の戦略的目標が侵略に対する防衛でなく、フィリピンや南蛮(ポルトガルやスペインを含むヨーロッパ)への侵略、領土獲得であったことを明らかにしています。
バテレン追放令#追放令後のフィリピン侵略計画バテレン追放令#追放令後の明・インド・南蛮侵略計画については、豊臣秀吉による海外侵略計画江戸幕府によるフィリピン侵略計画の2項目を新しく作って頂けるとの理解ですが、まず作ってから提案して頂くべきかと思います。
  1. ^
    ご指摘の箇所についてはノート:豊臣秀吉#編集・査読が不要な紀要を出典することと、より信頼できる情報源と対立する箇所でもご不満な方がいることは存じています。ratexioさんにつきましてはユーザーページから保守系の人なのだとは思いますので、ノート:豊臣秀吉のユーザーさんと同様な主張だと推測します。
  2. ^
    1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」は宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが[1]、朝鮮半島との貿易は対馬宋氏の独占状態であり[2]、宣教師が初めて朝鮮半島を訪れたのは1593年である。
    ポルトガルの奴隷貿易に関しては少数の中国人や日本人等のアジア人奴隷の記録が残されているが[3]、具体的な記述は『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っている。いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。
    『デ・サンデ天正遣欧使節記』は日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[4]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている。
    豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己の執筆した『九州御動座記』は追放令発令(天正15年6月)後の天正15年7月に書かれており、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。
    牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。
    ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり[5]、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている[6]
  3. ^
    ポルトガル商人はキリスト教の教会を破壊し、キリストの肖像画を燃やさせた領主の港へも来航して宣教師と対立した[15]
  4. ^
    イエズス会1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[9]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[10]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[11][12][13]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[14][注 3]
  5. ^
    江戸時代前期の年季奉公の主流は奴婢下人の系統を引くもので、奉公人は人身売買の対象となった。江戸幕府は法律上は営利的な人の売買を禁止したが、それは主として営利的な人の取引に関したもので、実際においては父や兄が子弟を売ることは珍らしくなく、また人の年季貫は非合法でなかった[18]。主人と奉公人との間には、司法上ならびに刑法上の保護と忠誠の関係があるべきものとされた。奉公人は主人を訴えることが許されず、封建的主従関係であったという[19]江戸時代に入り雇用契約制度である年季奉公が一般に普及しはじめると譜代下人(または譜代奉公人)としての男性の売買は江戸時代中期(十七世紀末)にはほとんど見られなくなった。しかし遊女飯盛女の年季奉公ではいくつかの点で人身売買的な要素が温存された[20]
    1. 家長権を人主から雇い主へ委譲
    2. 転売の自由
    3. 身請け・縁付けの権利を雇い主に委譲
    4. 死亡後の処置も雇い主へ一任
    中田薫 (法学者)は「奴婢所有権の作用にも比すべき、他人の人格に干渉し、其人格的法益を処分する人法的支配を、雇主の手に委譲して居る点に於て、此奉公契約が其本源たる人身売買の特質を充分に保存する」[21]として「身売的年季奉公契約」と名付けた[20]
  6. ^
    ポルトガルの奴隷貿易については、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[7]
    16世紀から17世紀への転換期、イベリア同君連合の第2代支配者であるポルトガル国王フィリペ2世(スペイン国王フェリペ3世)は、イエズス会の要請により、1571年の勅許を再制定して日本人の奴隷貿易の交易を中止しようとしたが、彼の政策はポルトガル帝国の地方エリートの強い反対に会い、長い交渉の末、イエズス会のロビー活動は失敗に終わった[8][注 4]
    日本におけるポルトガルの奴隷貿易を問題視していた宣教師はポルトガル商人による奴隷の購入を妨げるための必要な権限を持たなかったため、永代人身売買をやめさせて年季奉公人とするように働きかけが行われた[16][17][注 5]。一部の宣教師は人道的観点から隷属年数を定めた許可証に署名をして、より大きな悪である期間の定めのない奴隷の購入を阻止して日本人の待遇が永代人身売買から年季奉公に改善するよう介入したとされている[16][22]。マテウス・デ・クウロス等の宣教師らによって、こうした人道的介入が誤りであったとの批判が行われ、1598年以降、ポルトガル商人の奴隷(または年季奉公人)購入への宣教師の人道的介入は禁じられた[23]
    中世日本では人身永代売買が広く行われており、年季奉公が一般的になったのは江戸幕府以降だが[24]、ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、数年で契約期間が終了する年季奉公人が記録されている[25]。日本人の年季奉公制度(期限奴隷制度)では、マカオへの渡航のみを希望したり、ポルトガル人に雇われることができず、自らを売った者などがいたという[26]。マカオに上陸するなり、明の管轄する領土に移動して労働契約を一方的に破棄する日本人の年季奉公人が続出した[27]。この結果、多くのポルトガル人は以前と同じ量の日本人奴隷を買わなくなったという[26]。自らの意志で奴隷になろうとした者の背景としては、軍資金を求めて領主が要求した増税は、領民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えていたことがある[28]。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民奴隷の区別をいっそう困難にしていた[29]。最新の研究ではアジア人奴隷(または年季奉公人)は南米のプランテーションで働く黒人奴隷に比べて、より穏やかな家事奴隷として見直す動きがある[30][31]
    宣教師らは年季奉公人(または期間奴隷)の洗礼も行うことがあった。奴隷の所有者は取得から6ヶ月後に洗礼を受けさせる義務があったが、10歳以上の奴隷(年季奉公人を含む)は洗礼を拒否することができた。洗礼は社会的包摂の一形態であり、洗礼をうけることでポルトガル王室と教会法の管轄に服し保護をうけることができた[32][33]
  7. ^
    日本初の南蛮外科医である修道士ルイス・デ・アルメイダは、有馬晴純は領内にあった十字架を倒し、キリスト教徒が元の教えに強制改宗するように命じたと1564年十月十四日付、豊後発信の書簡で言及している[34]。1563年十一月七日頃[35]には横瀬浦港にある修道院が焼かれ、次いですぐにキリシタンの農民たちの家が焼かれたという[36]。1573年には深堀純賢によってトードス・オス・サントス教会が焼き払われた[37]。こうしてキリスト教と仏教の信者間での対立関係が悪化していたが[15]、日本におけるイエズス会の責任者であるヴァリニャーノは寺社仏閣の破壊を禁じていた[38]
    長崎はもともと小さな寒村に過ぎなかったが、カリオン神父
    ここには諸領主から迫害されて信仰を失いまいとして各地から追放されて来た様々なキリスト教徒たちによって造られた四百以上の家屋からなる集落がある
    と述べている[39]大村純忠は新町長崎と茂木寄進状を天正八年四月二十七日(1580年6月9日)付で発行、都市の無期限使用権と治外法権を与える代わりに、港の関税、入港税を永久に確保し、徴収のための役人を常駐させることにした[40]大村純忠ポルトガル船の誘致、新町長崎茂木寄進の打診は1579年秋にヴァリニャーノが訪問した際になされていたが、イエズス会は1580年10月、1582年12月において論議し申し出を受け入れることを裁決した。その理由として、戦争が絶えずある日本で、イエズス会は全資産を長崎に有しているため、安全な土地を持つ必要があること、戦渦や迫害により土地を追われたキリシタンのための避難所となること、ポルトガル船が来航することで、イエズス会の必要とする必需品がもたらされること、いつでも同地を手放すことができる自由裁量権があること等を挙げている[41]
  8. ^
    1587年の禁令を受けたイエズス会宣教師たちは平戸に集結して、以後公然の布教活動を控えた。
    南蛮貿易のもたらす実利を重視した秀吉は京都にあった教会(南蛮寺)を破却、長崎の公館と教会堂を接収し、1592年(文禄元年)には長崎をイエズス会から奪還し直轄地にしたが[要出典]、キリスト教そのものへのそれ以上の強硬な禁教は行っていない。1591年インド総督大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、三教神道儒教仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した[42]秀吉ポルトガルとの貿易関係を中断させることを恐れて勅令を施行せず、1590年代にはキリスト教を復権させるようになった[43]。勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し[44]豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した[45]
    追放令を命じた当の秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた[46]。1590年、ガスパール・コエリョと対象的に秀吉の信任を得られたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは2度目の来日を許されたが、秀吉が自らの追放令に反してロザリオとポルトガル服を着用し、聚楽第の黄金のホールでぶらついていたと記述している[47]
    スペイン国王フェリペ2世は1586年には領土の急激な拡大によっておきた慢性的な兵の不足、莫大な負債等によって新たな領土の拡大に否定的になっており、領土防衛策に早くから舵を切っていた[48]
    私には、より多くの王国や国家を手に入れようとする野心に駆られる理由はありません....私たちの主は、その善意によって、私が満足するほど、これらすべてのものを与えてくださっています[48] — 1586年、スペイン国王フェリペ2世
    秀吉が明と朝鮮の征服を試みるのと並行して、1591年に原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、1592年5月31日に入貢と服従を勧告する秀吉からの国書をフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門もフィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、秀吉もフィリピン総督が服従せねば征伐すると宣戦布告ともとれる意思表明をしていたが、フィリピン占領計画が実施されることは無かった[49][50][51]
    1593年(文禄2年)、フィリピン総督の使節としてフランシスコ会宣教師のペドロ・バプチスタイタリア語版平戸に来着し、肥前名護屋城で豊臣秀吉に謁見。豊臣秀次の配慮で前田玄以に命じて京都の南蛮寺の跡地に修道院が建設されることになった。翌年にはマニラから新たに3名の宣教師が来て、京坂地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。前田秀以(玄以の子)や織田秀信寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた[50][51]
    秀吉がキリスト教に対して態度を硬化させるのはサン=フェリペ号事件以後のことであるが、事件を発端とした弾圧からはイエズス会が除外されており追放令は空文化していた。
    日本において、キリスト教が実質的に禁じられるのは徳川家康の命による1614年慶長19年)のキリスト教禁止令以降のことになる。慶長18年(1614年)12月19日、家康は新たなバテレン追放令の作成に着手した。幕府の重要文書を起草した臨済宗の僧で黒衣の宰相の異名を持つ以心崇伝を江戸に呼び、文案を作成させ、翌日、これを承認、秀忠に送り捺印させた[52]。その結果、「伴天連追放之文」ができあがった。伴天連追放之文は排吉利丹文ともいう[52]。「伴天連追放之文」の大半は神道儒教仏教に関するもので、キリスト教を統一された日本の宗教(神道儒教仏教の三教一致)の敵とし、キリスト教を禁止するための神学的正当性を示そうとした[53][54][55]。言い回しなどは基本的な部分において施薬院全宗が起草したバテレン追放令にならっている。徳川家康は長崎と京都にあった教会等の宗教施設を破壊、キリスト教徒は日本各地に散らばることになるが弾圧は徹底されなかった。以心崇伝が関与した紫衣事件では仏教を介して幕府が天皇よりも上に立つことを公に示すことになった[56]
    徳川秀忠元和2年(1616年)に「二港制限令」、元和5年(1619年)に改めて禁教令を出し、キリスト教の本格的な宗教弾圧キリスト教徒に対して仏教への強制改宗が行われた。キリスト教に好意的で弾圧に乗り気で無かった京都所司代板倉勝重に対して秀忠はキリスト教徒の火炙りを直々に命じ、元和5年(1619年)10月6日、京都六条河原で52名が処刑される(京都の大殉教)、この52名には4人の子供が含まれ、さらに妊婦も1人いた。元和8年(1622年)には計55名を長崎西坂において処刑(元和の大殉教)、中には3歳、4歳、5歳、7歳、12歳の子供が含まれていた[57]
    島原の乱後に出版された『吉利支丹御退治物語』には火炙りによる処刑を成仏のためと処刑法に抗議するような記述はない。
    火あぶりに、なるも。うしざき。車ざき、さかはりつけ。かやうのなんに、あふか。のそみの、かなふ成仏と心へて、いのちを、いとひ。かなしむもの、なきと、みえたり。あはれなる事共かな、ちゑのなきものハ。をのれが、みヽに聞入、心に、おもひ。さだめたる事をハ。かつて、ひるかへす事なし。たとへは、二三さいの、わらんべか。かヾみのうちの、かちを見てハ、まことの、かたちと思ひ。水の中の月を、みてハ。ゑんこうが。てにとらんと、おもふ、おろかなる心と、ひとしきもの也。ぐ人はみな、かくのごとし。げたうの法、まほうなるべし[58]
    火あぶり」「牛裂き」「車裂き」「逆さ」にあうのは外道邪教のせいであると批判の矛先をキリスト教に向けており、現代の基準では野蛮な行為を異教徒に対する攻撃として正当化している。
    島原の乱の後、寛永17年(1640年)に幕府宗門改役を設置、寺請制度(檀家制度)によって宗教弾圧は強化されたが、その余波として神式の葬儀である神葬祭は禁じられ仏式が強制されるなど信仰の自由が制限・統制され宗教界全体に影響が及んだ。寺請制度邪宗門の発見を目的とした宗教迫害制度であり、キリスト教だけでなく日蓮宗不受不施派にも狙いを定め受布施派か天台宗への強制改宗または刑罰を選ばさせた。宗教弾圧は民間宗教新興宗教にまで及んだ。寺は寺請証文の発行を拒否することで、檀家を宗門人別改帳から削除し無宿非人に落とせる強力な権限を背景に、檀家に対して経済的負担を強いることができた。
    アメリカ合衆国歴史家ジョージ・エリソンは初代宗門改役に任じられた井上政重アドルフ・アイヒマンと比較した[59][60]
  9. ^
    日本人によるフィリピン侵略の恐れについて書かれた最古のものは1586年の評議会メモリアルである。マニラでは日本人の倭寇が単なる略奪以上の野心を持っているかもしれないと推測されており「彼らはほとんど毎年来航しルソンを植民地にするつもりだと言われている」[61]と警鐘を鳴らしていた。
    1592年豊臣秀吉フィリピンに対して降伏朝貢を要求してきたが、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは1592年5月1日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが秀吉に届けた。コボはアントニオ・ロペスという中国人キリスト教徒とともに日本に来たが、コボとロペスは、朝鮮侵略のために九州に建てられた名護屋城で秀吉に面会した。原田喜右衛門はその後、マニラへの第二次日本使節団を個人的に担当することになり、アントニオ・ロペスは原田の船で無事にマニラに到着した[62]
    1593年6月1日、ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは日本フィリピンを攻撃する計画について知っているかということに関するものであった。ロペスはまず秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いたと述べた[63]。ロペスは日本側の侵略の動機についても答えた。
    フィリピン黄金が豊富にあるという話は万国共通である。このため兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがらない[64]
    ロペスはまた日本人フィリピン軍事力について尋問されたとも述べている。アントニオ・ロペスはフィリピンには4、5千人のスペイン人がいると答えたのを聞いて、日本人は嘲笑った。彼らはこれらの島々の防衛は冗談であり、100人の日本人は2、300人のスペイン人と同じ価値があると言ったという[65]。ロペスの会った誰もが、フィリピンが征服された暁には原田喜右衛門が総督になると考えていた[66]
    その後、侵略軍の規模についてロペスは長谷川宗仁の指揮で10万人が送られると聞いたが、ロペスがフィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だと言うと、日本人は1万人で十分と言った。さらにロペスに10隻の大型船輸送する兵士は5、6千人以下と決定したことを告げた[67]。ロペスは最後に侵攻経路について侵略軍は琉球諸島を経由してやってくるだろうといった[68]
    1597年2月に処刑された26聖人の一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオンスペイン語版フィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした[69][70]。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入るつもりである」と述べている[69][70]
    日本によるフィリピン侵略は秀吉だけでなく、1630年松倉重政によって計画が行われた。マニラへの先遣隊は1631年7月、日本に帰国したが1632年7月までスペイン側は厳戒態勢をしいていた。1637年には息子の松倉勝家の代においても検討がなされた[71]
    その後、5年間はフィリピンへの遠征は考慮されなかったが、日本の迫害から逃れてきたキリスト教難民がマニラに到着し続ける一方で日本への神父の逆流が続いていた……松倉重政の後を継いだ息子の松倉勝家は、父に劣らず暴君でキリスト教であったが、勝家が島原の大名として在任中に、最後のフィリピン侵略の企てに遭遇することになる。 — 海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー、69(4)、10、2016、pp. 8-9[71]
    オランダ人は1637年のフィリピン侵略計画の発案者は徳川家光だと確信していたが[72]、実際は将軍ではなく、上司の機嫌をとろうとしていた榊原職直馬場利重だったようである。遠征軍は松倉勝家などの大名が将軍の代理として供給しなければならなかったが、人数については、松倉重政が計画していた2倍の1万人規模の遠征軍が想定されていた[73]。フィリピン征服の司令官は松倉勝家が有力であったが、同年におきた島原の乱によって遠征計画は致命的な打撃を受けた[74]
    島原の乱の数ヵ月後、将軍徳川家光の諮問機関は廃城となっていた原城を奪うために必要な努力と、何百マイルも移動して(当時の東アジアで最も要塞化された都市の一つであった)マニラ要塞に対抗するために同様の規模の軍と同様の海軍の支援を計画することを比較検討した。フィリピン侵攻のために用意した1万人の兵力は10万人、つまりその3分の1の反乱軍に打ち勝つために原城に投入しなければならなかった兵力であるべきとの分析がなされた[74]
  10. ^
    天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書によると、秀吉はフィリピンのみならず「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」とし[75][76]インド南蛮東南アジアポルトガルスペインヨーロッパ等)への侵略計画を明らかにした。秀吉は先駆衆にはインドに所領を与えて、インドの領土に切り取り自由の許可を与えるとした[77]

--2400:2410:C1A3:5300:E56D:C77B:9616:B001 2022年10月13日 (木) 08:05 (UTC)

返信 (可変IP利用者様宛) 私の提案が具体性を欠いていた点はお詫びしますし、Template:内容過剰が不適切なタグであるという批判であれば甘んじて受けますが、政治信条や、それに基づいて中立性を欠いた編集・提案を行っていると推測されることは非常に心外です。落ち着いて読んでいただければお分かりになると思いますが、内容削除を提案した覚えはありませんし、あなたの執筆された記事の内容や出典を批判したことも一切ありません。
歴史の記事でもあるという点について、提案には記載していませんが当然認識しています。また、たとえ法令だけの記事であってもその制定の背景、法令の内容や解釈とその批判、制定後の状況・影響について記載することは当然であると考えます。ですから追放令制定後~禁教令制定の動きまでの記事があること自体に批判はなく、提案でもあえて「禁教令後の」と書かせていただきました。よって法令とどこまでが関係してどこからが無関係と線引きできるとは思えませんが、「法令とは無関係な情報は全て消去する必要」は当然ありません。英文出典を批判したこともなければ、Wikipedia:日本中心にならないようにを引用されている意味もよくわかりません。
#ポルトガル商人による奴隷貿易に関する文献の信頼性および#奴隷購入に対する宣教師の人道的介入については、文献に対して批判があることが健全なことであると承知しています。その上で基本資料『デ・サンデ天正遣欧使節記』『九州御動座記』の史料批判については、これら文献に書かれた事象(事実かどうか問わず)が追放令に影響を与えているとして、これら資料に批判がある事実を本記事で適示することは全く問題ないと考えられます。ただしこれらの資料について深く研究が進んでいるのであれば、資料の詳細や批判の具体的事実についてはその資料の記事やより関連の深い記事で述べられるべきです。またイエズス会からの訴訟の可能性について触れられていますが、その場合第一に訴えられるべきは当該記事の引用元であって、Wikipediaではありません。資料誤用は禁物ですが、そもそもイエズス会からの批判を恐れるあまり資料が偏る・イエズス会に配慮をするのであれば、それこそWikipedia:中立的な観点に反すると言うべきです。
#追放令後節自体については、上述の通り追放令制定後~禁教令制定の動きまでの記事があって当然と思料します。しかしながら、例えば秀吉の戦略目標について本記事で述べるのが適切であるとは思えません。追放令は秀吉の戦略目標の核心ではなく手段、あるいは道具だったはずであり、本記事に戦略内容を詳細に記述するのは立場の逆転ともいうべき状況です。また、これらを新記事にするとして、私がそれらの記事を立項するだけの知識があるわけでもなく(例えばあなたは「豊臣秀吉による」と「江戸幕府による」の2項目を想定しておられますが、節名からいけば私が立項するのは「バテレン追放令後の」あるいは「日本による~(近世)」のような記事名で1本でしょう。)、記事を分割するにしてもノートでの合意形成を図るのは何ら不自然ではありません。なお、IP利用者であっても新記事立項は可能だったはずです。
最後になりますが、編集時には「要約」への記入や、プレビューを活用しての連続投稿削減にご協力いただければと思います。--ratexio会話) 2022年10月13日 (木) 14:19 (UTC)返信位置修正--ratexio会話2022年10月13日 (木) 14:21 (UTC)
ウィキペディアは百科事典であり、項目について出典を明記しつつ、社会的背景や影響などもふまえた幅広い視点の記事にしていくことは大いに歓迎されます。 —  Wikipedia:過剰な内容の整理
まず利用者:ratexioさんはタグの除去に同意なされているため除去します。このようなタグはWikipedia:規則の悪用をする方たちが頻繁に使うため、慎重に判断してください。
法的リスクについてはWikipedia:存命人物の伝記程の注意は必要ありませんが、現存する法人の記事も、存命する個人の記事と同じくらい厳しく監視されており、信頼性の高い参考資料でないものは則削除される傾向があると思います。
存命人物の伝記」の執筆時には特段の注意を払わなければなりません。記事は「正確な」ものでなければいけません。特に、その人物の生涯の細部については、信頼性の高い参考資料だけを用いるべきです。存命中の人物に関する否定的な情報で参考文献や出典のない、あるいは貧弱な情報源しかないものは、項目本文およびノートから即刻除去するべきです[78] — Wikipedia:存命人物の伝記
利用者:ratexioさんがWikipedia:中立的な観点を理解していないのは明らかだと思います。中立的な観点とは信頼性の高い参考資料でないものを、信頼性の高い参考資料と同じように妥当な情報として提示しないことによって実現されます。
Wikipediaではありません。資料誤用は禁物ですが、そもそもイエズス会からの批判を恐れるあまり資料が偏る・イエズス会に配慮をするのであれば、それこそWikipedia:中立的な観点に反すると言うべきです。 — 利用者:ratexio
Wikipedia:中立的な観点とは言論の自由を意味するのではありません。Wikipediaは百科辞典であり、歴史学者がコンセンサスに達した定説を掲載します。Wikipedia:中立的な観点#適当な重み付けにある通り、複数の特定な説・資料が対立する場合、信頼性の高い情報に掲載された多数説と、そうでない説を平等に記載してはいけません。
資料が偏るという表現を使っていますが、利用者:ratexioさんは具体的にどの文章が関連しないというノートページで行われるべき議論をすっ飛ばして、節ごと全て除去すべきといった主張をしています。今は少し現実的になったとは言え、具体的にこの文章がいらないという提案は皆無です。このような提案ではどう資料が偏っているのかの説明もないため論評のしようがありません。当方の主張としては、利用者:ratexioさんの言われる大量削除をすれば、それこそ情報が偏向したものになり、誤解を招く情報や虚偽情報が信頼度の高い2次資料等によって解説されることなく、現存する団体の歴史記事として相応しくないものになります。
もしあなたの考え方が言及するのに意味があるような少数派に支持されているのであれば、同じ意見を持っている著名な支持者の名前を挙げるのは容易に違いない。もしある観点が極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派に支持されているのであれば、それが正しいかどうかに拘らず、あるいはあなたがそれを証明できるかどうかに拘らず、その内容はウィキペディアで言及するに値しない — Wikipedia:独自研究は載せない#中立的な観点
では研究Aに対して、同じ分野の研究B・C・Dと並べていくことは正しいでしょうか?これも不可ではありません。しかしこれもまた中立的な観点に反する可能性があります。例えば研究Aが定説として評価されており、他のB・C・Dはそれに比べれば学界での地位が低いとした場合、A・B・C・Dを並列に並べることはAの価値を過少に、B・C・Dの価値を過大に書いていることになるからです。 — Wikipedia:信頼できる情報源#中立的な観点との兼ね合い
どのような話題に関しても、すべての重要な観点を説明することは大切ですが、ウィキペディアの方針は、すべての少数派の見解や並外れた主張[注 1]をまるで平等な妥当性があるかのように、一般に認められている主流派の学問的成果と並べて記載する必要があると言明したり暗示したりするものではありません。(一部省略)それを含めるとその説を不当に正当化することになる場合には、単にその情報を記載しません。 — Wikipedia:中立的な観点#「平等な妥当性」を与えると偽の均衡を作り出しかねない
Wikipedia:中立的な観点#観点の中立とは何ではないかおよびWikipedia:信頼できる情報源#歴史も参照されるほうが良いかと思います。
#ポルトガル商人による奴隷貿易に関する文献の信頼性および#奴隷購入に対する宣教師の人道的介入については、文献に対して批判があることが健全なことであると承知しています。その上で基本資料『デ・サンデ天正遣欧使節記』『九州御動座記』の史料批判については、これら文献に書かれた事象(事実かどうか問わず)が追放令に影響を与えているとして、これら資料に批判がある事実を本記事で適示することは全く問題ないと考えられます。ただしこれらの資料について深く研究が進んでいるのであれば、資料の詳細や批判の具体的事実についてはその資料の記事やより関連の深い記事で述べられるべきです。 — 利用者:ratexio
歴史の記事間で相互に交差する箇所を全てリダイレクトするのは運用として無理があると思います。史料批判の研究だけでは記事としての特筆性を満たすのはまず無理でしょうし、関連する記事に移動しても利用者:ratexioさんと同じような方が現れるだけでしょう。「バテレン追放令」から「奴隷貿易」の記事に移動したとしたら、これもまたそのような記事は「奴隷貿易」でなく「バテレン追放令」でやるべきとなるでしょう。
ですから利用者:ratexioさんの言うことを真に受けて記事の移動をするとの空約束に合意した場合、現時点で記事が存在しない以上は事実上の削除となり、「宣教師が奴隷貿易をやった」といった確度の低い情報、虚偽情報等に対する歴史学者の信頼性の高い資料による解説がなくなり、Wikipediaがそれに加担とした見なされかねず、法的リスクは高まると思います。
そもそも中立的な観点に従うなら、「宣教師が奴隷貿易をした」、「ポルトガル・スペインによる日本侵略の尖兵」、「長崎の植民地化」といった主張を支持する査読または追試された論文は現時点でないのでバテレン追放令の原文も含めて削除すべきですが、そうすれば神国思想皇国史観に影響された保守系の方からの荒らしは避けられないでしょう。Wikipedia:規則の悪用も続出すると思います。
悪意をもって編集している利用者が、明確に誤った事を成り立たせたり(また押し進める)ために、(競合する)他者の行為を、明らかに理にかなわない悪意ある曲解によって「証拠」とし、方針とガイドラインを用いて(糾弾すること)。さらには、しばしば善意にとるのガイドラインにも違反したものであり、特に、不当な「警告」を繰り返すことは礼儀を忘れないへの違反に当たるでしょう。もし、悪用に基いて他の利用者へ疑義を呈したり、「悪意ある編集者」として印象操作を行うなら、それはまた個人攻撃はしないの方針に違反したことになるでしょう。 — Wikipedia:規則の悪用
今くらいの按配は、極端な主張と、それに対する史料批判が共存することで、荒らしや法律家ごっこを減らす均衡点でしょうし、現存する非政府団体であるイエズス会も甘受できる範囲内といったところでしょうか。
追放令は秀吉の戦略目標の核心ではなく手段、あるいは道具だったはずであり、本記事に戦略内容を詳細に記述するのは立場の逆転ともいうべき状況です。また、これらを新記事にするとして、私がそれらの記事を立項するだけの知識があるわけでもなく(例えばあなたは「豊臣秀吉による」と「江戸幕府による」の2項目を想定しておられますが、節名からいけば私が立項するのは「バテレン追放令後の」あるいは「日本による~(近世)」のような記事名で1本でしょう。)、記事を分割するにしてもノートでの合意形成を図るのは何ら不自然ではありません。なお、IP利用者であっても新記事立項は可能だったはずです。 — 利用者:ratexio
「追放令は秀吉の戦略目標の核心ではない」の下りですが、疑問の余地なく独自研究かと思います。利用者:ratexioさんは独自研究を根源とした取り捨てを行うことを考えているのかもしれませんが、Wikipedia:信頼できる情報源#歴史の手順に従い、取り捨ての根拠となる説にも出典は必要です。それに日本中心の秀吉像と、海外の学者の見る秀吉像は全く異なります(Wikipedia:日本中心にならないように)。
秀吉がフィリピン侵略を手段、道具だったと断定的に主張されていますが、その根拠は何ですか?現時点では示されていないため独自研究なんでしょうが、こうした根拠のない断定的な立場に基づくのはWikipediaの歴史プロジェクトに相応しくない編集姿勢でしょう。 Wikipedia:過剰な内容の整理についても理解せず、強引にゴリ押しによって押し通そうとした姿勢もそうですが、Wikipedia:信頼できる情報源#研究史・史学史という観点を良く読んで理解するようにしてください[注 2]
とはいえ、非専門家がこれを忠実に写し取るということは至難の業であり、かつその歴史的変遷をウィキペディアン自身が自身の知見でまとめた場合はそれは独自の研究に他なりません。であれば、研究史のまとめにおいてもまた専門家による「信頼できる情報源」を用いるべきです。 — Wikipedia:信頼できる情報源#研究史・史学史という観点
また利用者:ratexioさんは、立項する知識がないから自分はやらないと仰っていますが、「まず削除する→知識がないので立項も情報の移動もしない→情報は削除するだけで闇の中に入る」になる事を想定しての提案と受け止められても仕方ないと思います。利用者:ratexioさんは知識なんてないし知識をつける気もないが、利用者:ratexioさんの独自研究に基づき、気に入らない情報をなくして利用者:ratexioさんの気が晴れたというような未来が見えるだけです。最終的に記事から情報を大量削除(今のところ取り捨て基準は利用者:ratexioさんの独自研究)すると提案するのであれば、議論する前に新記事を立項してください。また私は利用者:ratexioが言われている主張に反対なので利用者:ratexioさんに代わって立項はしないと立場を明確にさせて頂きます。
  1. ^ 社会学者マルセロ・トルッツィ英語版の言「並外れた主張は、並外れた証拠を必要とする」より。
  2. ^ 利用者:ratexioさんはノート:豊臣秀吉#編集・査読が不要な紀要を出典することのユーザーさんが問題していた節とも似通った節の削除を主張しているため、既視感があります。

--2400:2410:C1A3:5300:FF98:D84D:536B:7CFE 2022年10月14日 (金) 02:17 (UTC)

返信 (2400:2410:C1A3:5300:FF98:D84D:536B:7CFE様宛) まず、私の主張は提案当初から変化していないことを明確にしておきます。あなたの執筆された記事の内容自体について批判を加える意図もなければ、「記事の移動をするとの空約束に合意した場合、現時点で記事が存在しない以上は事実上の削除となり、「宣教師が奴隷貿易をやった」といった確度の低い情報、虚偽情報等に対する歴史学者の信頼性の高い資料による解説がなくな」ることもありません。当初のタグによって誤解されたのかもしれませんが、内容の削除に言及した覚えもなければ、このような合意を形成しようとしたり、「情報は削除するだけ」といったことを企図したこともありません。そもそも適切な脚注が付されていることは私も認識しており、私があなたの仰るような合意を形成しようとしているとお考えであればそれはあなたの誤解です。また、ノート:豊臣秀吉#編集・査読が不要な紀要を出典することとはまったく性質の異なる議論であり、そこでXyy氏が問題としている節についても、私はXyy氏には同意できないことを申し添えます。
提案に具体性がなかった点は認めざるを得ませんが、「資料が偏る」を「イエズス会を批判する信頼性の高い参考資料が排除される」とすれば伝わりますでしょうか?この文自体はその後に「のであれば」と書いている通り仮定の話です。現に偏っているというような指摘ではありません。また一貫して書いている通り削除を提案したことはありませんし、前回返信でも削除提案ではない旨記載しています。
「追放令は秀吉の戦略目標の核心ではない」の下りについては、一般論として、法令は政治・政策の過程で生み出されるものであり、法令ができることそれ自体がゴールではありません。例えば計画について追放令に明記されているのであれば核心と呼んで差し支えないでしょう。しかし追放令自体も、あるいはバテレン追放令#追放令後のフィリピン侵略計画の小節を読んでも、追放令と侵略計画の関係性は見いだせないのが正直な感想です。独自研究といえば独自研究ですが、それほど反論されるからには追放令が中核を成しているとする文献があるのだと思いますので、その点を述べていただくのが健全な議論ではないでしょうか。他方、自身の独自研究を根拠とした取り捨てを行うことなど微塵も考えていません。臆測で反論するのはやめてください。「フィリピン侵略」を手段、道具とは主張していません。ミスリードです。
挙げられている基礎史料について、単独記事としての特筆性を満たさないとお考えであることは承知しました。天正遣欧少年使節#天正遣欧使節記に加筆することも適切ではないというお考えでしょうか?
「立項する知識がないからやらない」については、例えばこのノートでの議論で「○○と△△に分けて立項すべき」という提案がユーザーから出され、その合意が形成されたのであれば当然私でも立項できますが、何の合意もなしに自らの知識だけで立項して単独記事として執筆することができない、の趣旨です。「まず削除する」という前提もありません。もし当初の提案で判断がつかない内容が含まれているのであれば、それは反論の前に質問があってしかるべきではないでしょうか。
最後の文は私に対する個人攻撃でしょうか?他の利用者を誹謗するような発言は厳に慎むべきと忠告します。--ratexio会話) 2022年10月14日 (金) 13:28 (UTC) 宛名補充。--ratexio会話2022年10月14日 (金) 15:18 (UTC)
ノートの役割は中立的な観点から、信頼できる情報源の重みを判断して記事の内容について合意形成するものだと理解しているため、利用者:ratexioさんの提案はざっくりしていて、要点がはっきりしません。バテレン追放令の記事から高い重みの査読論文や専門書を出典とした節を「削除」したいとの利用者:ratexioさんの提案は、それらの節に関連性がないとの利用者:ratexioさんの強い思い込みに基づいており、現時点では何の根拠も示されていない独自研究に過ぎません。私の側からは以下のように回答させて頂きます。
  1. ノート:バテレン追放令#「関連する基本資料の記述」の節の関連性について(天正遣欧少年使節#天正遣欧使節記への加筆が不可な理由として、天正遣欧少年使節と天正遣欧使節記が全く異なる別物であること。天正遣欧少年使節と奴隷貿易の関連はフィクションの中での出来事であり、現時点で裏付ける二次資料が記述されていないこと。天正遣欧使節記が1590年に出版されているため、バテレン追放令が天正遣欧使節記に影響を与えていたとされていることなど。)
  2. ノート:バテレン追放令#「追放令後の外交関係」の節の関連性について(フィリピン侵略とバテレン追放令との関連は、信頼できる情報源によって裏付けられているため[79][80][81]。現時点では利用者:ratexioさんの個人的印象は独自研究であると確定しているため、中立的な観点に従うなら、フィリピン侵略とバテレン追放令のリンクに対して反証する査読論文や専門書を利用者:ratexioさんは記載すべき)
  3. ノート:バテレン追放令#「宣教師に対する奴隷貿易批判について」の節の関連性について(バテレン追放令は奴隷貿易が日本の国内法により禁止されたことで、1587年から1612年までの宣教師とポルトガル商人との議論の流れに影響したと査読追試された論文にも記載されている。バテレン追放令の原文内に「現存する宗教団体であるイエズス会の宣教師が奴隷貿易をしていた」という根拠不明な否定的情報があることも強い関連性を示している。またバテレン追放令が日本史だけでなくイエズス会の歴史の一ページでもある事を見落とすべきではない。)
ノート:バテレン追放令#誤った内容整理タグの除去を提案します【百科辞典では社会的背景や影響などもふまえた幅広い視点の記事にしていくことは大いに歓迎されます】で指摘している通り、他の項目に内容を移動するとの前提だけで具体的な問題が解決されていないなら、新記事は作られず(移動もされず)内容が一方的に削除されるだけで終わる可能性があります。
Wikipediaにはノート:禁教令#wikipediaのガイドラインに従った編集をしてくださいのように分かりやすく荒らし的編集をする方もいるのですが、Wikipedia:規則の悪用Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないに該当する知的なタイプの人もいます。利用者:ratexioさんが、いわゆる神国思想皇国史観を規範とした国粋主義者、排外主義者で単に都合の悪い情報を消したいのかもしれないし、そうでないのかもしれません。ただ言えることは、この手の宗教、歴史関連の記事は荒らしの数の方が正常な編集者より多く、自分を正常だと思っているユーザーほど定説や二次史料の重みを軽視して中立的な観点を守らない異常者である可能性があるという事です[注 1]利用者:ratexioさんは現時点で独自研究を根拠に関連性が無いと断言していたとの記憶があるので、決め付けはしませんが利用者:ratexioさんの提案内容については特に注意しています。
  1. ^ 近年、バテレン追放令は外国人に対して剥き出しの敵意を示したり、悪魔、邪教徒扱いをする排外主義者の聖典と化しており、その手のユーザーがこの記事で徘徊しない方がおかしいでしょう。彼らはソースを示せないとき、Wikipedia:規則の悪用Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは多数決主義ではありません、白紙化のような荒らし行為をする傾向があると思います。

--2400:2410:C1A3:5300:19E5:B5E3:2C05:E991 2022年10月17日 (月) 04:12 (UTC)

──────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────── 返信 (2400:2410:C1A3:5300:19E5:B5E3:2C05:E991様宛) ノートの役割についてはHelp:ノートページ、ノートでの議論で推奨される慣習についてはWikipedia:ノートページのガイドラインに記載がありますのでご覧ください。要点をはっきりしなかった点は上述の通りすでに反省点として挙げさせていただきました。「削除」の提案ではないというのは何度も申し上げている通りであり、何度も蒸し返されるのは不愉快です。「強い思い込み」かどうかはさておき、ノートページではガイドラインに記載の通り、独自研究は排除されません。また#1~3を3節の新たな話題として追加されていますが、これもガイドラインに記載の通り、議論の分断(マルチポスト)は推奨されていませんのでこの場で返信します。

  1. (最終項以外)承知しました。ご教示ありがとうございます。
  2. スペイン語資料等の提示、ありがとうございます。(主に)スペイン側視点において、追放令と侵略が関連付けて理解されていたと解釈しました。相違ないでしょうか。ただ、この節で追放令について言及されているのは最初の1文のみ(本件提案の時点では上記引用文ではなく「~来航したが、追放令と矛盾した来航を警戒したスペインは~」)で、読者が追放令とフィリピン侵略計画を関連付け、さらに追放令とフィリピン侵略計画に深い関係性があると理解できるかは疑問です。追放令との関係性をほぼ抜きに、16世紀末にフィリピン侵攻が計画/警戒されていたとだけ理解される(少なくとも私は提案当初にそのように理解したわけですし、加筆された記事を読んでも両者の関係性を示す記述は乏しいままです。)のは追放令の記事として望ましくないように思われます。追放令の記事の一部とするなら、例えば「A国の歴史学者〇○は、追放令の発布がスペインに秀吉のフィリピン侵攻を警戒させることにつながったと指摘している」といったような一文を増やすだけでも、この節と追放令に関係があることを明示することができ、読者が追放令自体と侵略計画を一体として理解することを助けると思われます。(なお独自研究云々については前述の通りですし、「ない」ことを証明するのは常識的に不可能です。)
  3. 「#奴隷購入に対する宣教師の人道的介入」に関して「直接の関係がない」については、「奴隷購入が主題であるならば奴隷貿易等で同様に記述した方が有益ではないか?」という考えに基づくものでした。節名変更の上、加筆・再編されていますので、現状問題ないと思います。「イエズス会の歴史の一ページでもある事を見落とすべきではない。」は文意を量りかねます。

「削除されるだけで終わる可能性」はありません。何度も言わせないでください。最後段に関しては、もはや議論とは無関係の内容ではないでしょうか。何を言いたいのか理解に苦しみます。「何の知識もない人間を混乱させる可能性もある」と理解されたのであれば、「現状維持が望ましい」と言うべきではありません。--ratexio会話2022年10月18日 (火) 13:49 (UTC)

取り下げ 議論継続中の大幅加筆・構成再編により、提案の前提となっていた記事構成に変更が加えられたこと、また、大きな節を中心に当初提案および1回目の返信での補足に概ね沿った構成に変更されており、提案前の状況より改善されたと思われることから、本件提案は取り下げます。--ratexio会話2022年10月18日 (火) 13:49 (UTC)

脚注

  1. ^ 高麗江日本仁を売遣侯事曲事、1587年6月18日
  2. ^ 小学館 2020b, p. 「宗氏」.
  3. ^ Peter C. Mancall, ed (2007). The Atlantic World and Virginia, 1550-1624 (illustrated ed.). UNC Press Books. p. 228. ISBN 080783159X
  4. ^ MATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5
  5. ^ CRUZ, Frei Gaspar da (auth.) and LOUREIRO, Rui Manuel (ed.). Tratado das Coisas da China (Évora, 1569-1570). Lisbon: Biblioteca editores Independentes, 2010, p. 177.
  6. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p.346
  7. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  8. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 19-20
  9. ^ Slavery in Medieval Japan, Slavery in Medieval Japan, Thomas Nelson, Monumenta Nipponica, Vol. 59, No. 4 (Winter, 2004), pp. 463-492, "As early as 1555, complaints were made by the Church that Portuguese merchants were taking Japaense slave girls with them back to Portugal and living with them there in sin....Political disunity in Japan, however, together with the difficulty that the Portuguese Crown faced in enforcing its will in the distant Indies, the ready availability of human merchandise, and the profits to be made from the trade meant that the chances were negligible of such a ban actually being enforced. In 1603 and 1605, the citizens of Goa protested against the law, claiming that it was wrong to ban the traffic in slaves who had been legally bought. Eventually, in 1605, King Philip of Spain and Portugal issued a document that was a masterpiece of obfuscation intended both to pacify his critics in Goa demanding the right to take Japanese slaves and the Jesuits, who insisted that the practice be banned."
  10. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  11. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "If that is the case, the king had then sent copies of the same order to India at least three times: in 1603, when Aires de Saldanha published it, in 1604, with Martim Afonso de Castro, and in 1605."
  12. ^ COSTA, João Paulo Oliveira e. O Cristianismo no Japão e o Episcopado de D. Luís Cerqueira. PhD thesis. Lisbon: Universidade Nova de Lisboa, 1998, p. 312. Sousa indicates the same letters, but he mistakenly attributed them to Filipe II, Filipe III’s father. See SOUSA, Lúcio de. Escravatura e Diáspora Japonesa nos séculos XVI e XVII. Braga: NICPRI, 2014, p. 298.
  13. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 493
  14. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 494-504
  15. ^ a b BOXER, C. R. The Christian Century in Japan, 1549 – 1650. California: University of California Press, 1974, pp. 97-98, "But since the Portuguese are unwilling to do this, and they often go to places against the padres` wishes, there is always much jealousy and rivalry between these lords, from which follow in turn to great toil and moil to the padres and to Christianity. And, moreover, it sometimes happens that the Portguese go with their ships to the fiefs of heathen lords who bitterly persecute the padres and Christianity, wrecking churches and burning images, which causes great scandal and contempt of the Christian religion."
  16. ^ a b Rômulo da Silva Ehalt, Jesuit Arguments for Voluntary Slavery in Japan and Brazil, Brazilian Journal of History, Volume: 39, Number: 80, Jan-Apr. 2019., p.10
  17. ^ BRAH, Cortes 566 (9/2666), maço 21, f. 275. RUIZ DE MEDINA, Juan G. Orígenes de la Iglesia Catolica Coreana desde 1566 hasta 1784 según documentos inéditos de la época. Rome: Institutum Historicum S.I., 1986, p. 114-22.
  18. ^ 丹野勲『江戸時代の奉公人制度と日本的雇用慣行』国際経営論集 41 57-70, 2011-03-31, p. 58
  19. ^ 丹野勲『江戸時代の奉公人制度と日本的雇用慣行』国際経営論集 41 57-70, 2011-03-31, p. 62
  20. ^ a b 嶽本新奈『境界を超える女性たちと近代 ——海外日本人娼婦の表象を中心として — —』一橋大学、博士論文、p. 15
  21. ^ 中田薫「徳川時代に於ける人売及人質契約」『法制史論集』3・上、岩波書店、1943 年。
  22. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt、p. 426
  23. ^ BRAH, Cortes 566 (9/2666), maço 21, f. 273-276v. Pagès in PAGÈS, Léon. Histoire de la religion chrétienne au Japon – Seconde Partie, Annexes. Paris: Charles Douniol, 1870, p. 70-9. SOUSA, Lúcio de. “Dom Luís de Cerqueira e a escravatura no Japão em 1598.” Brotéria, 165. Braga, 2007, pp. 245-61.
  24. ^ ブリタニカ・ジャパン 2022a, p. 「年季奉公」.
  25. ^ OKA Mihoko. “Kirishitan to Tōitsu Seiken.” In: ŌTSU Tōru et alii. Iwanami Kōza Nihon Rekishi Dai 10 Kan, Kinsei 1. Tokyo: Iwanami Shoten, 2014, pp. 185-187
  26. ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 473
  27. ^ PÉREZ, Lorenzo. Fr. Jerónimo de Jesús: Restaurador de las Misiones del Japón – sus cartas y relaciones (1595-1604). Florence: Collegii S. Bonaventurae, 1929, p. 47.
  28. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 730-2
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  79. ^ La colonia de japoneses en Manila en el marco de las relaciones de Filipinas y Japón en los siglos XVI y XVII, José Eugenio Borao Mateo, Revista anual de Literatura, Pensamiento e Historia, Metodología de la Enseñanza del Español como Lengua Extranjera y Lingüística de la Confederación Académica Nipona, Española y Latinoamericana, ISSN 1344-9109, Nº. 17, 2005, págs. 25-53, "Con ocasión de la llegada de los barcos de Matsuura de Hirado (1585) y de Ohmura de Nagasaki (1586), los japoneses que aún permanecían en Cagayan así como muchos de Lingayen, se desplazaron a Manila. Las primeras relaciones entre españoles y japoneses de Manila estuvieron marcadas por el recelo. Por un lugar estaban las sospechas sobre los verdaderos motivos de la llegada de barcos japoneses, ya que ello no casaba demasiado con la promulgación del decreto de expulsión de misioneros cristianos en 1587, es decir, de los jesuitas portugueses venidos de Macao. Ciertamente, el decreto no tuvo grandes consecuencias, ya que los misioneros disminuyeron sus apariciones públicas, e Hideyoshi se dio por satisfecho. Pero, las sospechas en Manila se agravaron con los dos barcos que llegaron en 1587. En el primero de ellos, perteneciente al japonés Joan Gayo, la tripulación resultó sospechosa de complicidad en una insurrección de nativos, liderada por Agustín Legazpi. Algunos fueron arrestados y, en particular, el intérprete japonés Dionisio Fernández fue ajusticiado el 13 de junio del año siguiente (1588)8. El segundo barco, de Matsuura de Hirado, llegó el 15 de julio con armas y provisiones. Aunque el capitán del barco llevaba un mensaje de buena voluntad de su señor Matsuura y de su hermano, cuyo nombre cristiano era Gaspar, esta vez los españoles tomaron precauciones y los 40 marineros de la tripulación fueron atendidos por la iglesia de Manila y tras acabar sus negocios se marcharon."
  80. ^ La colonia de japoneses en Manila en el marco de las relaciones de Filipinas y Japón en los siglos XVI y XVII, José Eugenio Borao Mateo, Revista anual de Literatura, Pensamiento e Historia, Metodología de la Enseñanza del Español como Lengua Extranjera y Lingüística de la Confederación Académica Nipona, Española y Latinoamericana, ISSN 1344-9109, Nº. 17, 2005, págs. 25-53, "En 1589, fueron 30 ó 40 japoneses los que llegaron a Manila. Iban con vestimenta de peregrinos, para visitar las iglesias del país. Llevaban rosarios en el cuello y se movían con gran penitencia. Anduvieron 15 leguas alrededor de Manila y sus esteros, reconociéndolo todo. No se les molestó y se acabaron marchando. El gobernador fue de los que creyó a posteriori que habían venido en misión de espionaje, y con los datos que hubieran obtenido, tras contrastarlos con los de otros de los comerciantes, “se [habría] conocido en Japón la riqueza y la flaqueza de los naturales y la gente española que había para defender las Islas”9. Era el inicio del expansionismo de Hideyoshi10, y los españoles pensaron que también podrían ser objeto de un ataque japonés, y, en previsión de ello, Gómez Pérez Dasmariñas dio instrucciones, a principios de 1592, para preparar la defensa. Una de las medidas adoptadas fue congregar a todos los japoneses residentes de Manila en un barrio extramuros, el de Dilao, confiscarles sus armas y limitar su libre movilidad por la ciudad. La medida no parecía vana, a juzgar por las embajadas de Japón que llegaron a continuación a Manila."
  81. ^ 「Handbook of Christianity in Japan / edited by Mark R. Mullins. p. cm. — (Handbook of oriental studies, Section 5, Japan ; v. 10) ISBN 90-04-13156-6 I. Japan—Church history. I. Series. p. 9-11

誤った内容整理タグの除去を提案します【百科辞典では社会的背景や影響などもふまえた幅広い視点の記事にしていくことは大いに歓迎されます】

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内容整理のタグが利用者:ratexioさんによって設置されていますが、この方は見出し語と関係がないと個人の主観で判断した全内容を除去することを提案しているように見えます。

本記事はあくまで「伴天連追放令」という法令に関する記事であり、追放令と直接の関係がない#ポルトガル商人による奴隷貿易に関する文献の信頼性や#奴隷購入に対する宣教師の人道的介入といった節 — 利用者:ratexio
現状は見出し語と内容にズレが生じているように思われます。こうした直接関係のない記事については、奴隷貿易や新記事として説明されるべきものと考えます。 — 利用者:ratexio

というのが利用者:ratexioさんのご主張ですが、内容整理タグは以下のようにガイドラインでまとめられています。

ウィキペディアは百科事典であり、項目について出典を明記しつつ、社会的背景や影響などもふまえた幅広い視点の記事にしていくことは大いに歓迎されます。しかし、項目に関する幅の狭い内容だけを細かく記述することは、その項目についてよく知らない読者が項目を総合的に理解することを妨げ、逆に関心を損なうおそれがあります。 — Wikipedia:過剰な内容の整理

このガイドラインを読むと利用者:ratexioさんのご主張はかなり無理筋だなと思います。バテレン追放令の原因で提案されているものには「宣教師が奴隷貿易をした」、「ポルトガル・スペインによる日本侵略の尖兵」、「侵略対抗」、「長崎の要塞化、植民地化」などの説があり、利用者:ratexioさんが関係がないと断定されているトピック全てが、この記事を「社会的背景や影響などもふまえた幅広い視点の記事」にしていると言っても差し支えないと思います。

またガイドラインによれば「歴史プロジェクト(個々の専門分野のプロジェクト)の規定に反した内容で肥大化する記事」が内容整理の対象となりますが、今のところ歴史プロジェクトでは運用基準は示されていませんので、利用者:ratexioさん個人がそう判断したというだけで、規定に反しているとは思いません。

ウィキペディアにおいて記事が正常に成長し、大きくなっていくことは歓迎すべきことです。しかし、中には例えばウィキペディアは何ではないかに反するような偏った記述や、個々の専門分野のプロジェクトの規定に反した内容で肥大化する記事もあり、そうした「過剰な内容」の記事は抑制・整理されるべきであるとウィキペディアでは考えられています。

むしろ利用者:ratexioさんの主張内容は、追放令という記事名であるから法律の記事と見なすというような強引な論法を展開しており、記事の専門分野についての根本的な誤解が見受けられます。バテレン追放令は明らかに歴史分野の専門記事です。日本とポルトガルの歴史、キリスト教史奴隷貿易といった多岐の歴史カテゴリーと交差します。その社会的背景や影響や幅広い視点の記事にすべきであるのに、むしろ狭義の幅の狭い内容だけを細かく記述することを抑制するのが、内容整理の本来あるべき形だと思います。

基本的にタグを貼付されるのは、事典的ではない要素を含んで肥大化した記事です。単に他に比べて長大なだけの記事には使いません。 — Wikipedia:過剰な内容の整理#タグの貼付

長いから悪い事を意味するのでなく、内容整理タグは各分野の性質を慎重に判断して使われるべきです。

歴史分野でのタグの運用基準については現在歴史プロジェクトのノートで依頼中です。詳細はプロジェクト‐ノート:歴史#「バテレン追放令」過剰な内容の整理の運用基準についてをご覧ください。基本的な質問は以下の4点となります。

  1. バテレン追放令の原文には奴隷貿易の記述があるが、追放令と奴隷貿易は無関係であり奴隷関係の内容は削除すべきとの論法は有効なのか?
  2. バテレン追放令の議論において最もよく引用される文献である『天正遣欧使節記』と『九州御動座記』のような学者から信憑性に疑問が呈されている文献の史料批判を無関係、過剰な内容として排除すべきなのか?
  3. バテレン追放令のその後の影響を記述するのは、過剰な内容に該当するのか?
  4. バテレン追放令はポルトガルとスペインによる侵略を防ぐため(または追放令を発布したのは宣教師がポルトガル、スペインによる侵略の尖兵であるから)」という説に関連して、豊臣秀吉がフィリピン侵略を計画した事実がまとめられていますが、侵略計画と追放令は直接関係がないため、こうした内容は自動的に削除すべきという論法は成立するのか?

他にも現存する宗教団体であるイエズス会に絡んでくる法的問題についても質問していますので、時間があれば見てください。このタグの設置は理屈に合わない強引なやり方のために礼儀に反すると思いますし、有効な異論が無いようであれば利用者:ratexioさんのタグは削除します。--2400:2410:C1A3:5300:A1CD:52CE:ED32:19DF 2022年10月13日 (木) 14:08 (UTC)

返信 (2400:2410:C1A3:5300:A1CD:52CE:ED32:19DF様宛) 前の節に返信しておりますので確認ください。(編集が競合したようです。)上述の通り内容整理タグが不適切であった点はお詫び申し上げます。タグの除去について反対はありません。しかしながら私の提案に対する反論であれば#追放令と直接関係のない内容の整理についてでされるべきではないでしょうか?--ratexio会話2022年10月13日 (木) 14:31 (UTC)
ウィキペディアは百科事典であり、項目について出典を明記しつつ、社会的背景や影響などもふまえた幅広い視点の記事にしていくことは大いに歓迎されます。 —  Wikipedia:過剰な内容の整理
まず利用者:ratexioさんはタグの除去に同意なされているため除去します。このようなタグはWikipedia:規則の悪用をする方たちが頻繁に使うため、慎重に判断してください。
法的リスクについてはWikipedia:存命人物の伝記程の注意は必要ありませんが、現存する法人の記事も、存命する個人の記事と同じくらい厳しく監視されており、信頼性の高い参考資料でないものは則削除される傾向があると思います。
存命人物の伝記」の執筆時には特段の注意を払わなければなりません。記事は「正確な」ものでなければいけません。特に、その人物の生涯の細部については、信頼性の高い参考資料だけを用いるべきです。存命中の人物に関する否定的な情報で参考文献や出典のない、あるいは貧弱な情報源しかないものは、項目本文およびノートから即刻除去するべきです[1] — Wikipedia:存命人物の伝記
利用者:ratexioさんがWikipedia:中立的な観点を理解していないのは明らかだと思います。中立的な観点とは信頼性の高い参考資料でないものを、信頼性の高い参考資料と同じように妥当な情報として提示しないことによって実現されます。
Wikipediaではありません。資料誤用は禁物ですが、そもそもイエズス会からの批判を恐れるあまり資料が偏る・イエズス会に配慮をするのであれば、それこそWikipedia:中立的な観点に反すると言うべきです。 — 利用者:ratexio
Wikipedia:中立的な観点とは言論の自由を意味するのではありません。Wikipediaは百科辞典であり、歴史学者がコンセンサスに達した定説を掲載します。Wikipedia:中立的な観点#適当な重み付けにある通り、複数の特定な説・資料が対立する場合、信頼性の高い情報に掲載された多数説と、そうでない説を平等に記載してはいけません。
資料が偏るという表現を使っていますが、利用者:ratexioさんは具体的にどの文章が関連しないというノートページで行われるべき議論をすっ飛ばして、節ごと全て除去すべきといった主張をしています。今は少し現実的になったとは言え、具体的にこの文章がいらないという提案は皆無です。このような提案ではどう資料が偏っているのかの説明もないため論評のしようがありません。当方の主張としては、利用者:ratexioさんの言われる大量削除をすれば、それこそ情報が偏向したものになり、誤解を招く情報や虚偽情報が信頼度の高い2次資料等によって解説されることなく、現存する団体の歴史記事として相応しくないものになります。
もしあなたの考え方が言及するのに意味があるような少数派に支持されているのであれば、同じ意見を持っている著名な支持者の名前を挙げるのは容易に違いない。もしある観点が極めて小さな(あるいは極めて限定された)少数派に支持されているのであれば、それが正しいかどうかに拘らず、あるいはあなたがそれを証明できるかどうかに拘らず、その内容はウィキペディアで言及するに値しない — Wikipedia:独自研究は載せない#中立的な観点
では研究Aに対して、同じ分野の研究B・C・Dと並べていくことは正しいでしょうか?これも不可ではありません。しかしこれもまた中立的な観点に反する可能性があります。例えば研究Aが定説として評価されており、他のB・C・Dはそれに比べれば学界での地位が低いとした場合、A・B・C・Dを並列に並べることはAの価値を過少に、B・C・Dの価値を過大に書いていることになるからです。 — Wikipedia:信頼できる情報源#中立的な観点との兼ね合い
どのような話題に関しても、すべての重要な観点を説明することは大切ですが、ウィキペディアの方針は、すべての少数派の見解や並外れた主張[注 1]をまるで平等な妥当性があるかのように、一般に認められている主流派の学問的成果と並べて記載する必要があると言明したり暗示したりするものではありません。(一部省略)それを含めるとその説を不当に正当化することになる場合には、単にその情報を記載しません。 — Wikipedia:中立的な観点#「平等な妥当性」を与えると偽の均衡を作り出しかねない
Wikipedia:中立的な観点#観点の中立とは何ではないかおよびWikipedia:信頼できる情報源#歴史も参照されるほうが良いかと思います。
#ポルトガル商人による奴隷貿易に関する文献の信頼性および#奴隷購入に対する宣教師の人道的介入については、文献に対して批判があることが健全なことであると承知しています。その上で基本資料『デ・サンデ天正遣欧使節記』『九州御動座記』の史料批判については、これら文献に書かれた事象(事実かどうか問わず)が追放令に影響を与えているとして、これら資料に批判がある事実を本記事で適示することは全く問題ないと考えられます。ただしこれらの資料について深く研究が進んでいるのであれば、資料の詳細や批判の具体的事実についてはその資料の記事やより関連の深い記事で述べられるべきです。 — 利用者:ratexio
歴史の記事間で相互に交差する箇所を全てリダイレクトするのは運用として無理があると思います。史料批判の研究だけでは記事としての特筆性を満たすのはまず無理でしょうし、関連する記事に移動しても利用者:ratexioさんと同じような方が現れるだけでしょう。「バテレン追放令」から「奴隷貿易」の記事に移動したとしたら、これもまたそのような記事は「奴隷貿易」でなく「バテレン追放令」でやるべきとなるでしょう。
ですから利用者:ratexioさんの言うことを真に受けて記事の移動をするとの空約束に合意した場合、現時点で記事が存在しない以上は事実上の削除となり、「宣教師が奴隷貿易をやった」といった確度の低い情報、虚偽情報等に対する歴史学者の信頼性の高い資料による解説がなくなり、Wikipediaがそれに加担とした見なされかねず、法的リスクは高まると思います。
そもそも中立的な観点に従うなら、「宣教師が奴隷貿易をした」、「ポルトガル・スペインによる日本侵略の尖兵」、「長崎の植民地化」といった主張を支持する査読または追試された論文は現時点でないのでバテレン追放令の原文も含めて削除すべきですが、そうすれば神国思想皇国史観に影響された保守系の方からの荒らしは避けられないでしょう。Wikipedia:規則の悪用も続出すると思います。
悪意をもって編集している利用者が、明確に誤った事を成り立たせたり(また押し進める)ために、(競合する)他者の行為を、明らかに理にかなわない悪意ある曲解によって「証拠」とし、方針とガイドラインを用いて(糾弾すること)。さらには、しばしば善意にとるのガイドラインにも違反したものであり、特に、不当な「警告」を繰り返すことは礼儀を忘れないへの違反に当たるでしょう。もし、悪用に基いて他の利用者へ疑義を呈したり、「悪意ある編集者」として印象操作を行うなら、それはまた個人攻撃はしないの方針に違反したことになるでしょう。 — Wikipedia:規則の悪用
今くらいの按配は、極端な主張と、それに対する史料批判が共存することで、荒らしや法律家ごっこを減らす均衡点でしょうし、現存する非政府団体であるイエズス会も甘受できる範囲内といったところでしょうか。
追放令は秀吉の戦略目標の核心ではなく手段、あるいは道具だったはずであり、本記事に戦略内容を詳細に記述するのは立場の逆転ともいうべき状況です。また、これらを新記事にするとして、私がそれらの記事を立項するだけの知識があるわけでもなく(例えばあなたは「豊臣秀吉による」と「江戸幕府による」の2項目を想定しておられますが、節名からいけば私が立項するのは「バテレン追放令後の」あるいは「日本による~(近世)」のような記事名で1本でしょう。)、記事を分割するにしてもノートでの合意形成を図るのは何ら不自然ではありません。なお、IP利用者であっても新記事立項は可能だったはずです。 — 利用者:ratexio
「追放令は秀吉の戦略目標の核心ではない」の下りですが、疑問の余地なく独自研究かと思います。利用者:ratexioさんは独自研究を根源とした取り捨てを行うことを考えているのかもしれませんが、Wikipedia:信頼できる情報源#歴史の手順に従い、取り捨ての根拠となる説にも出典は必要です。それに日本中心の秀吉像と、海外の学者の見る秀吉像は全く異なります(Wikipedia:日本中心にならないように)。
秀吉がフィリピン侵略を手段、道具だったと断定的に主張されていますが、その根拠は何ですか?現時点では示されていないため独自研究なんでしょうが、こうした根拠のない断定的な立場に基づくのはWikipediaの歴史プロジェクトに相応しくない編集姿勢でしょう。 Wikipedia:過剰な内容の整理についても理解せず、強引にゴリ押しによって押し通そうとした姿勢もそうですが、Wikipedia:信頼できる情報源#研究史・史学史という観点を良く読んで理解するようにしてください[注 2]
とはいえ、非専門家がこれを忠実に写し取るということは至難の業であり、かつその歴史的変遷をウィキペディアン自身が自身の知見でまとめた場合はそれは独自の研究に他なりません。であれば、研究史のまとめにおいてもまた専門家による「信頼できる情報源」を用いるべきです。 — Wikipedia:信頼できる情報源#研究史・史学史という観点
また利用者:ratexioさんは、立項する知識がないから自分はやらないと仰っていますが、「まず削除する→知識がないので立項も情報の移動もしない→情報は削除するだけで闇の中に入る」になる事を想定しての提案と受け止められても仕方ないと思います。利用者:ratexioさんは知識なんてないし知識をつける気もないが、利用者:ratexioさんの独自研究に基づき、気に入らない情報をなくして利用者:ratexioさんの気が晴れたというような未来が見えるだけです。最終的に記事から情報を大量削除(今のところ取り捨て基準は利用者:ratexioさんの独自研究)すると提案するのであれば、議論する前に新記事を立項してください。また私は利用者:ratexioが言われている主張に反対なので利用者:ratexioさんに代わって立項はしないと立場を明確にさせて頂きます。
  1. ^ 社会学者マルセロ・トルッツィ英語版の言「並外れた主張は、並外れた証拠を必要とする」より。
  2. ^ 利用者:ratexioさんはノート:豊臣秀吉#編集・査読が不要な紀要を出典することのユーザーさんが問題していた節とも似通った節の削除を主張しているため、既視感があります。

--2400:2410:C1A3:5300:FF98:D84D:536B:7CFE 2022年10月14日 (金) 02:22 (UTC)

返信 (2400:2410:C1A3:5300:FF98:D84D:536B:7CFE様宛) 上記#追放令と直接関係のない内容の整理についての主張を繰り返されていますが、あなたのこの節での提案は私の撤回によって解決したはずです。この節の議論は終了でよいでしょうか?--ratexio会話2022年10月14日 (金) 11:55 (UTC)
告知タグをWikipedia:規則の悪用を理由に取り消されていますが、あなたはこの節で「誤った内容整理タグの除去」を提案されたのであり、よって私は当時掲載していたTemplate:内容過剰の除去に同意したのであって、#追放令と直接関係のない内容の整理についての議論は終了していません。(Template:内容過剰の除去によって前節議論が自動的に終了するわけではありません。)議論の存在を知らせるTemplate:告知の貼付は前節で議論が存在している(かつ第三者の意見が少ない)以上、何ら矛盾しないと考えます。--ratexio会話2022年10月15日 (土) 03:55 (UTC)

脚注

  1. ^ "WikiEN-l Zero information is preferred to misleading or false information" - 題意:誤解を招く情報や虚偽情報はないほうが望ましい。WikiENメーリングリストへのジミー・ウェールズの2006年5月16日の投稿より。

「関連する基本資料の記述」の節の関連性について

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利用者:ratexioさんから以下の箇所(旧名:ポルトガル商人による奴隷貿易に関する文献の信頼性、現:バテレン追放令#関連する基本資料の記述)がバテレン追放令と全くの無関係との批判がなされています。それについて追放令の原文で奴隷貿易が言及されてると説明したところ、意見を修正されて天正遣欧使節記に移動できないかとの提案がなされていると思います。

バテレン追放令の原文(11か条の「覚」)には宣教師が中国、朝鮮、南蛮に日本人奴隷を売っていた[注 2][注 5]と糾弾する箇所があり、その具体的な状況として『天正遣欧使節記[注 6]と、11か条の「覚」と部分的に重なる箇所がある『九州御動座記』が参考文献とされることがある。いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。11か条の「覚」では宣教師とポルトガル人を同一視していたかは不明だが、より広義なポルトガルの奴隷貿易に関しては少数の中国人や日本人等のアジア人奴隷しか存在は確認されておらず[15]日本人奴隷の具体的な記述は『デ・サンデ天正遣欧使節記』と『九州御動座記』に頼っている。いずれの記録も歴史学の資料としては問題が指摘されている。

バテレン追放令に先立ち豊臣政権は九州を制圧をした。遠征時の九州の様子は豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己によって『九州御動座記』として1587年7月頃に記録されたが、内容の大半はキリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点からバテレン追放令を正当化するために著述されており以下のような記述がある。

牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上䣍今世より畜生道有様目前の二相聞候。

ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人が化物だと決め付けることは東アジアでは一般的であり[16]、実際に目撃したものを著述したとは考えられない。宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている[17]

『デ・サンデ天正遣欧使節記』は1582年に旅立った少年達の記録として追放令前後の九州の社会的状況を記したものとして引用されることがある。出版年は1590年のものであるため、バテレン追放令の影響と見られる記述も収録されている。日本に帰国前の少年使節と日本にいた従兄弟の対話録として著述されており、両者の対話が不可能なことから、フィクションとされている[18]。『デ・サンデ天正遣欧使節記』は宣教師の視点から日本人の同国人を売る等の道徳の退廃、それを買うポルトガル商人を批判するための対話で構成されている[19] — バテレン追放令#関連する基本資料の記述

この節は天正遣欧少年使節も確かに関連はあるのですが、天正遣欧少年使節と天正遣欧使節記(フィクション)は全く異なるものなので、現状不適切と考えます。私の考えを要点にすると以下のようになります。

  • 天正遣欧使節記と九州御動座記もバテレン追放令の文脈で二次史料で引用されてること。
  • 天正遣欧使節記のバテレン追放令との関連については、使節記の奴隷貿易に関する対話が秀吉のバテレン追放令の反応とされてるので、一般論としてバテレン追放令に影響を受けた文書と言えるかもしれません。天正遣欧少年使節#天正遣欧使節記についてですが、バテレン追放令原文には「宣教師が奴隷貿易」をしたとの記述がありますが、少なくとも一次史料レベルで天正遣欧少年使節には奴隷貿易への関与を示す根拠はないため、バテレン追放令より関連性が低いと考えます。現存する宗教団体を否定的に言及する場合は、信頼できる情報源からの出典が必要のはずですが、天正遣欧少年使節と奴隷貿易については目ぼしい史料がないため、法的リスクが高まると思います(Wikipedia:名誉毀損Wikipedia:存命人物の伝記)。
  • 天正遣欧使節記の記事がないこと。特筆性を満たせる記事を書くには、天正遣欧使節の二次資料、一次資料についてそれなりのエキスパートでないといけないため、現状誰も立項していないという理解です。Wikipediaは一種のDIYであって学術論文でもファンディングのあるプロジェクトでもないので、天正遣欧使節記の記事を作ってからフィットするか考えるべきで、立項できない人たちがいくら集まって時間をかけて議論しても不毛でしょう。自分でできない事を他人に期待せず、自分で立項するか、できないなら諦めるしかありません。
  • 『九州御動座記』はスカスカの冊子なので新項目としての特筆性はまず満たせないこと、さらに『九州御動座記』は追放令原文と類似点があり、バテレン追放令の前後に書かれているため、バテレン追放令の記事の関連度が極めて高いことです。
  • 他の項目に内容を移動するとの前提だけで具体的な問題が解決されていないなら、新記事は作られず内容が削除されるだけで終わる可能性があること。Wikipediaにはノート:禁教令#wikipediaのガイドラインに従った編集をしてくださいのように荒らし的編集をする方もいるのですが、Wikipedia:規則の悪用Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないに該当する知的なタイプの人もいます。利用者:ratexioさんが、いわゆる国粋主義者、排外主義者で単に都合の悪い情報を消したいのかもしれないし、そうでないのかもしれません。ただ言えることは、この手の宗教、歴史関連の記事は荒らしの数の方が正常な編集者より多く、自分を正常だと思っているユーザーほど定説や二次史料の重みを軽視して中立的な観点を守らない異常者である可能性があるという事です。利用者:ratexioさんは現時点で独自研究を根拠に関連性が無いと断言していたとの記憶があるので、決め付けはしませんが利用者:ratexioさんの提案内容については特に注意しています。

以上の観点から現状維持が望ましいですが、バテレン追放令について何の知識もない人間を混乱させる可能性もあるのでバテレン追放令#追放令の社会的背景のサブ項目バテレン追放令#関連する基本資料の記述としてリニューアルしました。

  1. ^ ポルトガル商人はキリスト教の教会を破壊し、キリストの肖像画を燃やさせた領主の港へも来航して宣教師と対立した[7]
  2. ^ a b イエズス会1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[1]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[2]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[3][4][5]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[6][注 1]
  3. ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [9]のだという。
  4. ^ a b 江戸幕府が豊臣秀吉遊郭を拡大して唐人屋敷への遊女の出入り許可を与えた丸山遊廓を島原の乱後の1639年(寛永16年)頃に作ったことで、それが「唐行きさん」の語源ともなっている[10][11]。秀吉が遊郭を作ったことで、貧農の家庭の親権者などから女性を買い遊廓などに売る身売りの仲介をする女衒が、年季奉公の前借金前渡しの証文を作り、本人の意志に関係なく性的サービスの提供の強要が横行した(性的奴隷)。日本人女性の人身売買はポルトガル商人や倭寇に限らず、19世紀から20世紀初頭にかけても「黄色い奴隷売買」、「唐行きさん」として知られるほど活発だった[12]
  5. ^ 伴天連追放令後の1589年(天正17年)には日本初の遊郭ともされる京都の柳原遊郭が豊臣秀吉によって開かれたが[8][注 3]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注 4]、遊郭は女衒などによる人身売買の温床となった[注 4]。宣教師が指摘した日本人が同国人を性的奴隷からゆきさん)として売る商行為は近代まで続いた[12][13]
  6. ^ 天正遣欧使節記の目的をヴァリニャーノはポルトガル国王やローマ教皇に対して政治的、経済的援助を依頼するためと書き残している。天正遣欧使節記はポルトガルの奴隷貿易に関連して引用されることがあるが、宣教師によって記述された情報はポルトガル王室への奴隷貿易廃止のロビー活動[14]として政治的な性質を帯びており、宣教師側がポルトガル王室から政治的援助を受けるため、さらにポルトガル商人を批判して奴隷売買禁止令の執行実施を促すために生み出した虚構としての側面からも史料批判が必要と考えられる[注 2]

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脚注

  1. ^ Slavery in Medieval Japan, Slavery in Medieval Japan, Thomas Nelson, Monumenta Nipponica, Vol. 59, No. 4 (Winter, 2004), pp. 463-492, "As early as 1555, complaints were made by the Church that Portuguese merchants were taking Japaense slave girls with them back to Portugal and living with them there in sin....Political disunity in Japan, however, together with the difficulty that the Portuguese Crown faced in enforcing its will in the distant Indies, the ready availability of human merchandise, and the profits to be made from the trade meant that the chances were negligible of such a ban actually being enforced. In 1603 and 1605, the citizens of Goa protested against the law, claiming that it was wrong to ban the traffic in slaves who had been legally bought. Eventually, in 1605, King Philip of Spain and Portugal issued a document that was a masterpiece of obfuscation intended both to pacify his critics in Goa demanding the right to take Japanese slaves and the Jesuits, who insisted that the practice be banned."
  2. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  3. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "If that is the case, the king had then sent copies of the same order to India at least three times: in 1603, when Aires de Saldanha published it, in 1604, with Martim Afonso de Castro, and in 1605."
  4. ^ COSTA, João Paulo Oliveira e. O Cristianismo no Japão e o Episcopado de D. Luís Cerqueira. PhD thesis. Lisbon: Universidade Nova de Lisboa, 1998, p. 312. Sousa indicates the same letters, but he mistakenly attributed them to Filipe II, Filipe III’s father. See SOUSA, Lúcio de. Escravatura e Diáspora Japonesa nos séculos XVI e XVII. Braga: NICPRI, 2014, p. 298.
  5. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 493
  6. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 494-504
  7. ^ BOXER, C. R. The Christian Century in Japan, 1549 – 1650. California: University of California Press, 1974, pp. 97-98, "But since the Portuguese are unwilling to do this, and they often go to places against the padres` wishes, there is always much jealousy and rivalry between these lords, from which follow in turn to great toil and moil to the padres and to Christianity. And, moreover, it sometimes happens that the Portguese go with their ships to the fiefs of heathen lords who bitterly persecute the padres and Christianity, wrecking churches and burning images, which causes great scandal and contempt of the Christian religion."
  8. ^ 『娯楽業者の群 : 社会研究』権田保之助著 実業之日本社、1923年
  9. ^ 『日本売春史』中村三郎
  10. ^ 唐権『海を越えた艶ごと一日中文化交流秘史』新説社、2005、p121
  11. ^ 古賀十二郎『新訂丸山遊女と唐紅毛人』長崎文献社、1968、p232
  12. ^ a b Harald Fischer-Tiné (2003). “'White women degrading themselves to the lowest depths': European networks of prostitution and colonial anxieties in British India and Ceylon ca. 1880–1914”. Indian Economic and Social History Review 40 (2): 163–90 [175–81]. doi:10.1177/001946460304000202. 
  13. ^ Tomoko Yamazaki; Karen F. Colligan-Taylor (2015). Sandakan Brothel No.8: Journey into the History of Lower-class Japanese Women. Translated by Karen F. Colligan-Taylor. Routledge. p. 63. ISBN 978-1317460251. https://books.google.com/books?id=vlXrBgAAQBAJ&pg=PA63 
  14. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 19-20
  15. ^ Peter C. Mancall, ed (2007). The Atlantic World and Virginia, 1550-1624 (illustrated ed.). UNC Press Books. p. 228. ISBN 080783159X
  16. ^ CRUZ, Frei Gaspar da (auth.) and LOUREIRO, Rui Manuel (ed.). Tratado das Coisas da China (Évora, 1569-1570). Lisbon: Biblioteca editores Independentes, 2010, p. 177.
  17. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p.346
  18. ^ MATSUDA Kiichi. Tenshō Ken’ō Shisetsu. Tokyo: Chōbunsha, 1991, pp. 274-5
  19. ^ デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p233-235

「追放令後の外交関係」の節の関連性について

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利用者:ratexioさんは以下のような論点を用いて、秀吉のフィリピン侵略計画(旧名:バテレン追放令#追放令後のフィリピン侵略計画、現:バテレン追放令#追放令後の外交関係)がバテレン追放令と無関係であると断言されており、バテレン追放令の記事から削除(移動先は現時点ではないため削除)することを提案しています。

Wikipediaは学術論文ではなく百科辞典で基準はゆるく関連性を問題とする人は極めて珍しいです。Wikipedia的には余程細かい事項が箇条書きになってでも無い限りは、信頼できる情報源、中立的な観点に従うなら何でもOKというのが実態でしょう。

追放令は秀吉の戦略目標の核心ではなく手段、あるいは道具だったはずであり、本記事に戦略内容を詳細に記述するのは立場の逆転ともいうべき状況です。 — 利用者:ratexio

利用者:ratexioさんはこれを独自研究であると認めており、逆に史料の裏付けがあるかとの質問が返ってきました。

独自研究といえば独自研究ですが、それほど反論されるからには追放令が中核を成しているとする文献があるのだと思いますので、その点を述べていただくのが健全な議論ではないでしょうか。 — 利用者:ratexio

結論からいうと文献はあります。歴史書、学術論文にはバテレン追放令とフィリピン侵略を一連の動きとして説明するものがあります。以下はバテレン追放令#概説に私が回答として追記した内容です。

欧米ではバテレン追放令を秀吉の独裁者としての側面、領土拡張政策の文脈の中で検討することがある。ジョージ・サンソムはキリスト教の教えが社会的な序列、既存の政治構造に挑戦したことに注目しており、バテレン追放令を秀吉が独裁者、専制君主の観点から宣教師を単なる異教徒の枠を越えて、社会秩序の土台を弱体化させるものとして恐れた結果として起きた動物的な防衛反応だったと分析している[1]。スペイン領フィリピンではバテレン追放令を敵対的な外交政策として警戒を強め、秀吉によるフィリピン侵略計画の発端と見なしている[2][3]ブリル (出版社)の日本キリスト教史ハンドブックは1587年のバテレン追放令から1592年のフィリピンへの降伏勧告(未遂だったフィリピン侵略計画)、1596年のバテレン追放令の更新を一連の流れとして記述している[4]

モノグラフ、査読論文(ピアレビュージャーナル)が文献であり、Wikipedia:信頼できる情報源#歴史に適合しています。

次に利用者:ratexioさんが全く関連が無いという節からの切り取りです。

1587年、日本からの2隻の船がフィリピンに来航したが、バテレン追放令の敵対的外交政策と整合性のとれない和船の来航に警戒したスペインは日本の侵略に備えるようになった[2]1589年には巡礼者と称する日本人の集団が、マニラ周辺を歩き周り偵察しており、バテレン追放令を契機とした膨張政策の始まりであるとスペイン側は記録している[3]1591年には原田孫七郎がフィリピン征服の実地調査を行ったとされ、侵略を警戒するスペインと日本の相互不信が強まっていった[5][注 1]

日本人によるフィリピン侵略の恐れについて書かれた最古のものは1586年の評議会メモリアルである[注 2]マニラでは日本人の倭寇が単なる略奪以上の野心を持っているかもしれないと推測されており「彼らはほとんど毎年来航しルソンを植民地にするつもりだと言われている」[9]と警鐘を鳴らしていた。

天正20年(1592年)6月、すでに朝鮮を併呑せんが勢いであったとき、毛利家文書および鍋島家文書によると、秀吉はフィリピンのみならず「処女のごとき大明国を誅伐すべきは、山の卵を圧するが如くあるべきものなり。只に大明国のみにあらず、況やまた天竺南蛮もかくの如くあるべし」とし[6][10]インド南蛮東南アジアポルトガルスペインヨーロッパ等)への侵略計画を明らかにした。秀吉は先駆衆にはインドに所領を与えて、インドの領土に切り取り自由の許可を与えるとした[11][注 1]

1592年原田喜右衛門がマニラに来航して秀吉の親書を総督に渡した[注 3]豊臣秀吉フィリピンに対して降伏朝貢を要求してきたが、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは1592年5月1日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが秀吉に届けた。コボはアントニオ・ロペスという中国人キリスト教徒とともに日本に来たが、コボとロペスは、朝鮮侵略のために九州に建てられた名護屋城で秀吉に面会した。原田喜右衛門はその後、マニラへの第二次日本使節団を個人的に担当することになり、アントニオ・ロペスは原田の船で無事にマニラに到着した[12]

1593年6月1日、ロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けたが、そのほとんどは日本フィリピンを攻撃する計画について知っているかということに関するものであった。ロペスはまず秀吉が原田喜右衛門に征服を任せたと聞いたと述べた[13]。ロペスは日本側の侵略の動機についても答えた。

フィリピン黄金が豊富にあるという話は万国共通である。このため兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがらない[14]

ロペスはまた日本人フィリピン軍事力について尋問されたとも述べている。アントニオ・ロペスはフィリピンには4、5千人のスペイン人がいると答えたのを聞いて、日本人は嘲笑った。彼らはこれらの島々の防衛は冗談であり、100人の日本人は2、300人のスペイン人と同じ価値があると言ったという[15]。ロペスの会った誰もが、フィリピンが征服された暁には原田喜右衛門が総督になると考えていた[16]

その後、侵略軍の規模についてロペスは長谷川宗仁の指揮で10万人が送られると聞いたが、ロペスがフィリピンには5、6千人の兵士しかおらず、そのうちマニラの警備は3、4千人以上だと言うと、日本人は1万人で十分と言った。さらにロペスに10隻の大型船輸送する兵士は5、6千人以下と決定したことを告げた[17]。ロペスは最後に侵攻経路について侵略軍は琉球諸島を経由してやってくるだろうといった[18]

1596年、空文化していたバテレン追放令がサン=フェリペ号事件を契機にして更新された。1597年2月に処刑された26聖人の一人であるマルチノ・デ・ラ・アセンシオンスペイン語版フィリピン総督宛の書簡で自らが処刑されることと秀吉のフィリピン侵略計画について日本で聞いた事を書いている。「(秀吉は)今年は朝鮮人に忙しくてルソン島にいけないが来年にはいく」とした[19][20]。マルチノはまた侵攻ルートについても「彼は琉球台湾を占領し、そこからカガヤンに軍を投入し、もし神が進出を止めなければ、そこからマニラに攻め入るつもりである」と述べている[19][20]

私の考えを要点にすると以下のようになります。

  • バテレン追放令は以降の国際政治、外交政策に影響を及ぼした。宗教史の観点からもバテレン追放令とフィリピンへの侵略計画、そして1596年の追放令の再開は一連の流れとして捉えられている。
  • バテレン追放令に前後して、日本側に不審な対応が見られ、スペイン側は追放令を敵対的外交政策と見なしており侵略計画があると予期していた。事実として予想は当たっており、1592年に侵略計画の全貌が明らかにされた。また計画から実行部隊まで実地調査をした倭寇が関わっていた。
  • 利用者:ratexioさんの主張を裏付けるには、バテレン追放令とフィリピン侵略が互いに影響しなかったことを論証する複数の査読論文、モノグラフが必要です。Wikipedia:中立的な観点は最重要の方針でもあるため、これは守って頂く必要があります。
  • 利用者:ratexioさんが満足な資料を出せるまで、この議論は凍結とします。独自研究のまま議論を続けるようならWikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないにあたるでしょうから、対応はしかねます。
  • 他の項目に内容を移動するとの前提だけで具体的な問題が解決されていないなら、新記事は作られず内容が削除されるだけで終わる可能性があること。Wikipediaにはノート:禁教令#wikipediaのガイドラインに従った編集をしてくださいのように荒らし的編集をする方もいるのですが、Wikipedia:規則の悪用Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないに該当する知的なタイプの人もいます。利用者:ratexioさんが、いわゆる国粋主義者、排外主義者で単に都合の悪い情報を消したいのかもしれないし、そうでないのかもしれません。ただ言えることは、この手の宗教、歴史関連の記事は荒らしの数の方が正常な編集者より多く、自分を正常だと思っているユーザーほど定説や二次史料の重みを軽視して中立的な観点を守らない異常者である可能性があるという事です。利用者:ratexioさんは現時点で独自研究を根拠に関連性が無いと断言していたとの記憶があるので、決め付けはしませんが利用者:ratexioさんの提案内容については特に注意しています。

以上の観点から現状維持が望ましいですが、バテレン追放令について何の知識もない人間を混乱させる可能性もあるのでバテレン追放令#概説バテレン追放令#スペインとの外交関係バテレン追放令#追放令後の外交関係としてリニューアルしました。

  1. ^ a b 1587年の追放令から1592年の原田喜右衛門のフィリピンへの降伏勧告、1596年の追放令の更新を一連の流れとして記述することがある[4]
  2. ^ 1586年3月、秀吉はガスパール・コエリョに対しへの侵略計画を明かしている[6][7][8]
  3. ^ 秀吉の親書も含めた4通の手紙を受領したことが記録に残されている。

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脚注

  1. ^ G. B. SANSOM, The Western World and Japan, London, 1965, p. 129. "From his standpoint as a dispotic ruler he (=Hideyoshi) was undoubtedly right to regard Christian propaganda as subversive, for no system can survive unchanged once the assumptions upon which it is based are undermined. However high their purpose, what the Jesuits were doing, in Japan as well as in India and China, was to challenge a national tradition and through it the existing political structure. This last is an animal that always defends itself when attacked, and consequently Hideyoshi's reaction, however deplorable, was to be expected and does not seem to need any fuller explanation."
  2. ^ a b La colonia de japoneses en Manila en el marco de las relaciones de Filipinas y Japón en los siglos XVI y XVII, José Eugenio Borao Mateo, Revista anual de Literatura, Pensamiento e Historia, Metodología de la Enseñanza del Español como Lengua Extranjera y Lingüística de la Confederación Académica Nipona, Española y Latinoamericana, ISSN 1344-9109, Nº. 17, 2005, págs. 25-53, "Con ocasión de la llegada de los barcos de Matsuura de Hirado (1585) y de Ohmura de Nagasaki (1586), los japoneses que aún permanecían en Cagayan así como muchos de Lingayen, se desplazaron a Manila. Las primeras relaciones entre españoles y japoneses de Manila estuvieron marcadas por el recelo. Por un lugar estaban las sospechas sobre los verdaderos motivos de la llegada de barcos japoneses, ya que ello no casaba demasiado con la promulgación del decreto de expulsión de misioneros cristianos en 1587, es decir, de los jesuitas portugueses venidos de Macao. Ciertamente, el decreto no tuvo grandes consecuencias, ya que los misioneros disminuyeron sus apariciones públicas, e Hideyoshi se dio por satisfecho. Pero, las sospechas en Manila se agravaron con los dos barcos que llegaron en 1587. En el primero de ellos, perteneciente al japonés Joan Gayo, la tripulación resultó sospechosa de complicidad en una insurrección de nativos, liderada por Agustín Legazpi. Algunos fueron arrestados y, en particular, el intérprete japonés Dionisio Fernández fue ajusticiado el 13 de junio del año siguiente (1588)8. El segundo barco, de Matsuura de Hirado, llegó el 15 de julio con armas y provisiones. Aunque el capitán del barco llevaba un mensaje de buena voluntad de su señor Matsuura y de su hermano, cuyo nombre cristiano era Gaspar, esta vez los españoles tomaron precauciones y los 40 marineros de la tripulación fueron atendidos por la iglesia de Manila y tras acabar sus negocios se marcharon."
  3. ^ a b La colonia de japoneses en Manila en el marco de las relaciones de Filipinas y Japón en los siglos XVI y XVII, José Eugenio Borao Mateo, Revista anual de Literatura, Pensamiento e Historia, Metodología de la Enseñanza del Español como Lengua Extranjera y Lingüística de la Confederación Académica Nipona, Española y Latinoamericana, ISSN 1344-9109, Nº. 17, 2005, págs. 25-53, "En 1589, fueron 30 ó 40 japoneses los que llegaron a Manila. Iban con vestimenta de peregrinos, para visitar las iglesias del país. Llevaban rosarios en el cuello y se movían con gran penitencia. Anduvieron 15 leguas alrededor de Manila y sus esteros, reconociéndolo todo. No se les molestó y se acabaron marchando. El gobernador fue de los que creyó a posteriori que habían venido en misión de espionaje, y con los datos que hubieran obtenido, tras contrastarlos con los de otros de los comerciantes, “se [habría] conocido en Japón la riqueza y la flaqueza de los naturales y la gente española que había para defender las Islas”9. Era el inicio del expansionismo de Hideyoshi10, y los españoles pensaron que también podrían ser objeto de un ataque japonés, y, en previsión de ello, Gómez Pérez Dasmariñas dio instrucciones, a principios de 1592, para preparar la defensa. Una de las medidas adoptadas fue congregar a todos los japoneses residentes de Manila en un barrio extramuros, el de Dilao, confiscarles sus armas y limitar su libre movilidad por la ciudad. La medida no parecía vana, a juzgar por las embajadas de Japón que llegaron a continuación a Manila."
  4. ^ a b 「Handbook of Christianity in Japan / edited by Mark R. Mullins. p. cm. — (Handbook of oriental studies, Section 5, Japan ; v. 10) ISBN 90-04-13156-6 I. Japan—Church history. I. Series. p. 9-11
  5. ^ Never Imagine Yourself to be Otherwise: Filipino Image of Japan over the Centuries, Elpidio STA. ROMANA and Ricardo T. JOSE, Asian Studies 29 (1991), pp. 67-68, "In 1591, a Japanese named Harada Magoshichiro was reported to have studied parts of the Philippines and recommended that Hideyoshi conquers the Philippines. Hideyoshi made concrete plans but sent an emissary the following year to Manila and demanded that the Spaniards become his vassals and pay tribute; otherwise he would invade the Philippines. He has just invaded Korea, and the poorly defended Spaniards could only reply that they sought friendship with Japan. Japanese ships entering Manila were checked thoroughly to make sure they carried no weapons. The Japanese community in Manila was disarmed and resettled outside Manila in a place called Dilao district. The next year, the Spaniards tried to guard their north flank by invading Taiwan but a typhoon thwarted that expedition. Later, Hideyoshi also sent a request to the Spanish authorities in the Philippines for shipbuilders but was refused by the Spaniards who realized that they will be used to build warships. The apprehensive Spaniards sought reinforcements from Mexico. 10 The Japanese were also suspicious of Spanish attempts to proselyte in Japan. This mutual suspicion - Spain fearing a Japanese invasion, Japan suspicious of Spanish evangelization and fearful that Japan might be involved in power conflicts in Europe- was to continue into the early 17th century."
  6. ^ a b 朝尾直弘『天下一統』 8巻、小学館〈大系 日本の歴史〉、1993年。ISBN 419892273X 
  7. ^ クラツセ 1925, p.452
  8. ^ 西村 1922, p.471
  9. ^ Memorial to the Council, 1586, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 6, p. 183.
  10. ^ 辻 1942, pp.410-411
  11. ^ 徳富 1935, pp.453-460
  12. ^ M. T. Paske-Smith, “Japanese Trade and Residence in the Philippines,” Transactions of the Asiatic Society of Japan 42, no. 2 (1914), pp. 696–97.
  13. ^ Francisco de Lorduy, statement incorporated in report by Governor Gómez Pérez Dasmariñas to the king of Spain on the second embassy to Japan, April–May 1593, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 39. The reference may be to Kiemon’s close associate Hasegawa Sōnin instead.
  14. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 41.
  15. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 39.
  16. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 47-48
  17. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 51-53
  18. ^ The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 9, p. 51-54
  19. ^ a b Martín de la Ascensión to Doctor Morga, 28 January 1597, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 15, p. 125.
  20. ^ a b Turnbull, Stephen (2016) "Wars and Rumours of Wars: Japanese Plans to Invade the Philippines, 1593–1637," Naval War College Review (海軍大学校 (アメリカ合衆国)レビュー): Vol. 69 : No. 4 , Article 10., p.5

「宣教師に対する奴隷貿易批判について」の節の関連性について

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利用者:ratexioさんは、「宣教師に対する奴隷貿易批判について」(旧名:バテレン追放令#奴隷購入に対する宣教師の人道的介入、現:バテレン追放令#宣教師に対する奴隷貿易批判について)がバテレン追放令と無関係であると断言されており、バテレン追放令の記事から削除することを提案しています。

1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」によると宣教師による奴隷貿易を批判している。
大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事。 — 1587年6月18日付(伴天連追放令の前日)の11か条の「覚」

宣教師が朝鮮半島に日本人を売っていたと糾弾しているが[1]、朝鮮半島との貿易は対馬宋氏の独占状態であり[2]、宣教師が初めて朝鮮半島を訪れたのは1593年であり信憑性は低い。

宣教師による奴隷貿易を糾弾しているが、歴史家の岡本良知は1555年をポルトガル商人が日本から奴隷を売買したことを直接示す最初の記述とし、これがイエズス会による抗議へと繋がり1571年のセバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許につながったとした。岡本はイエズス会はそれまで奴隷貿易を廃止するために成功しなかったが、あらゆる努力をしたためその責めを免れるとしている[3]

16世紀から17世紀への転換期、イベリア同君連合の第2代支配者であるポルトガル国王フィリペ2世(スペイン国王フェリペ3世)は、イエズス会の要請により、1571年の勅許を再制定して日本人の奴隷貿易の交易を中止しようとしたが、彼の政策はポルトガル帝国の地方エリートの強い反対に会い、長い交渉の末、イエズス会のロビー活動は失敗に終わった[4][注 2]

日本におけるポルトガルの奴隷貿易を問題視していた宣教師はポルトガル商人による奴隷の購入を妨げるための必要な権限を持たなかったため、永代人身売買をやめさせて年季奉公人とするように働きかけが行われた[12][13][注 3]。一部の宣教師は人道的観点から隷属年数を定めた許可証に署名をして、より大きな悪である期間の定めのない奴隷の購入を阻止して日本人の待遇が永代人身売買から年季奉公に改めるよう介入したとされている[12][18]。マテウス・デ・クウロス等の宣教師らによって、人道的介入であっても関与自体が誤りであったとの批判が行われ、1598年以降、宣教師の人道的な関与についても禁じられた[19]1598年の人道関与の禁止決定についてはバテレン追放令によって、日本の国内法が奴隷貿易を違法としたことも影響していたとされる[20][注 4]

宣教師らは年季奉公人(または期間奴隷)の洗礼も行うことがあった。奴隷の所有者は取得から6ヶ月後に洗礼を受けさせる義務があったが、10歳以上の奴隷(年季奉公人を含む)は洗礼を拒否することができた。洗礼は社会的包摂の一形態であり、洗礼をうけることでポルトガル王室と教会法の管轄に服し保護をうけることができた[29][30]

秀吉が奴隷貿易に怒って追放令を発したとの説もある(後述の追放令の原因を参照)が、最新の研究はこの説を否定している[20]

私の考えを要点にまとめるとこんな感じです。

  • バテレン追放令は奴隷貿易が日本の国内法により禁止されたことで、1587年から1612年までの宣教師とポルトガル商人との議論の流れに影響[31](1598年の集会→人道的関与の廃止、ヴァリニャーノのアポロジカ)を与えており、バテレン追放令からの影響は多いにある。安易に無関係と切り離せるような単純な話しではないどころか、内容の関連性は奴隷貿易の記事よりもあると思う。
  • バテレン追放令の原文内に「現存する宗教団体であるイエズス会の宣教師が奴隷貿易をしていた」という根拠不明な否定的情報がある。2次資料によるフィルター無しの表現であり、Wikipedia:存命人物の伝記(現存する団体に対する否定的情報についても慎重さが求められるのは言うまでもない)で求められる信頼性の高い参考資料が欠落した状況で、今後数年、場合によっては数十年、放置されることになる。Wikipediaをソースとしたトンデモ記事が出回れば、日本だけでなくアメリカでの訴訟リスクもありうる。この節を削除するなら、追放令原文も削除したほうが良い。根拠の無い情報によって現代日本のイエズス会にも悪影響が出る蓋然性が認められる。
  • 利用者:ratexioさんはイエズス会に対して慮るのは中立的な観点ではないと主張されていましたが、中立的な観点[注 5]に従うなら、「宣教師が奴隷貿易をした」、「ポルトガル・スペインによる日本侵略の尖兵」、「長崎の植民地化」といった主張を支持する査読または追試された論文は現時点では出典として出されてないので、バテレン追放令の原文も含めて削除すべきです。しかしそうすれば神国思想皇国史観に影響された保守系の方からの荒らしは避けられないでしょう。Wikipedia:規則の悪用も続出すると思います。極端な主張と、それを中和する史料批判が共存する今くらいの按配が、荒らしや法律家ごっこを減らす均衡点でしょうし、現存する非政府団体であるイエズス会も甘受できる範囲内といったところでしょうか。
  • バテレン追放令の原文に宣教師の奴隷貿易が示唆され、またバテレン追放令#概説にもそうした表現があるため、宣教師がいかに日本人奴隷の奴隷貿易に対応したか、事実関係を明らかにすべきであり関連性は高いと思う。
  • バテレン追放令が日本史だけでなくイエズス会の歴史の一ページでもある事を見落とすべきではない(Wikipedia:日本中心にならないように)。信頼性の高い参考資料を使っており、特筆性も十分にあると思う。海外では慈善事業で評判の良い団体であり、バテレン追放令で非難されている奴隷貿易への宣教師の行った対応についての社会的関心はあると思う。
  • 他の項目に内容を移動するとの前提だけで具体的な問題が解決されていないなら、新記事は作られず内容が削除されるだけで終わる可能性があること。Wikipediaにはノート:禁教令#wikipediaのガイドラインに従った編集をしてくださいのように荒らし的編集をする方もいるのですが、Wikipedia:規則の悪用Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないに該当する知的なタイプの人もいます。利用者:ratexioさんが、いわゆる国粋主義者、排外主義者で単に都合の悪い情報を消したいのかもしれないし、そうでないのかもしれません。ただ言えることは、この手の宗教、歴史関連の記事は荒らしの数の方が正常な編集者より多く、自分を正常だと思っているユーザーほど定説や二次史料の重みを軽視して中立的な観点を守らない異常者である可能性があるという事です。利用者:ratexioさんは現時点で独自研究を根拠に関連性が無いと断言していたとの記憶があるので、決め付けはしませんが利用者:ratexioさんの提案内容については特に注意しています。

以上の観点から現状維持が望ましいですが、バテレン追放令について何の知識もない人間を混乱させる可能性もあるのでバテレン追放令#宣教師に対する奴隷貿易批判についてとしてリニューアルしました。

  1. ^ ポルトガル商人はキリスト教の教会を破壊し、キリストの肖像画を燃やさせた領主の港へも来航して宣教師と対立した[11]
  2. ^ イエズス会1555年の最初期の奴隷取引からポルトガル商人を告発している[5]。イエズス会による抗議は1571年セバスティアン1世 (ポルトガル王) による日本人奴隷貿易禁止の勅許公布の原動力としても知られている[6]日本人奴隷の購入禁止令を根拠に奴隷取引を停止させようとした司教に従わないポルトガル商人が続出、非難の応酬が長期に渡り繰り返される事態が続いた[7][8][9]。ポルトガル国王やインド副王の命令に従わず法執行を拒否して騒動を起こすポルトガル商人や裁判官等も数多くいたという[10][注 1]
  3. ^ 江戸時代前期の年季奉公の主流は奴婢下人の系統を引くもので、奉公人は人身売買の対象となった。江戸幕府は法律上は営利的な人の売買を禁止したが、それは主として営利的な人の取引に関したもので、実際においては父や兄が子弟を売ることは珍らしくなく、また人の年季貫は非合法でなかった[14]。主人と奉公人との間には、司法上ならびに刑法上の保護と忠誠の関係があるべきものとされた。奉公人は主人を訴えることが許されず、封建的主従関係であったという[15]江戸時代に入り雇用契約制度である年季奉公が一般に普及しはじめると譜代下人(または譜代奉公人)としての男性の売買は江戸時代中期(十七世紀末)にはほとんど見られなくなった。しかし遊女飯盛女の年季奉公ではいくつかの点で人身売買的な要素が温存された[16]
    1. 家長権を人主から雇い主へ委譲
    2. 転売の自由
    3. 身請け・縁付けの権利を雇い主に委譲
    4. 死亡後の処置も雇い主へ一任
    中田薫 (法学者)は「奴婢所有権の作用にも比すべき、他人の人格に干渉し、其人格的法益を処分する人法的支配を、雇主の手に委譲して居る点に於て、此奉公契約が其本源たる人身売買の特質を充分に保存する」[17]として「身売的年季奉公契約」と名付けた[16]
  4. ^ 中世日本では人身永代売買が広く行われており、年季奉公が一般的になったのは江戸幕府以降だが[21]、ポルトガル人が日本で購入した奴隷の中には、数年で契約期間が終了する年季奉公人が記録されている[22]。日本人の年季奉公制度(期限奴隷制度)では、マカオへの渡航のみを希望したり、ポルトガル人に雇われることができず、自らを売った者などがいたという[23]。マカオに上陸するなり、明の管轄する領土に移動して労働契約を一方的に破棄する日本人の年季奉公人が続出した[24]。この結果、多くのポルトガル人は以前と同じ量の日本人奴隷を買わなくなったという[23]。自らの意志で奴隷になろうとした者の背景としては、軍資金を求めて領主が要求した増税は、領民の貧困化を招き、多くの日本人が奴隷制を生き残るための代替戦略として捉えていたことがある[25]。中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、自分や他人を保証人として差し出すことができたという。税金を払わない場合、これらの保証は売却される可能性があり、農民奴隷の区別をいっそう困難にしていた[26]。最新の研究ではアジア人奴隷(または年季奉公人)は南米のプランテーションで働く黒人奴隷に比べて、より穏やかな家事奴隷として見直す動きがある[27][28]
  5. ^ Wikipedia:中立的な観点とは言論の自由を意味するのではありません。Wikipediaは百科辞典であり、歴史学者がコンセンサスに達した定説を掲載します。Wikipedia:中立的な観点#適当な重み付けにある通り、複数の特定な説・資料が対立する場合、信頼性の高い情報に掲載された多数説と、そうでない説を平等に記載してはいけません。

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脚注

  1. ^ 高麗江日本仁を売遣侯事曲事、1587年6月18日
  2. ^ 小学館 2020b, p. 「宗氏」.
  3. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  4. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 19-20
  5. ^ Slavery in Medieval Japan, Slavery in Medieval Japan, Thomas Nelson, Monumenta Nipponica, Vol. 59, No. 4 (Winter, 2004), pp. 463-492, "As early as 1555, complaints were made by the Church that Portuguese merchants were taking Japaense slave girls with them back to Portugal and living with them there in sin....Political disunity in Japan, however, together with the difficulty that the Portuguese Crown faced in enforcing its will in the distant Indies, the ready availability of human merchandise, and the profits to be made from the trade meant that the chances were negligible of such a ban actually being enforced. In 1603 and 1605, the citizens of Goa protested against the law, claiming that it was wrong to ban the traffic in slaves who had been legally bought. Eventually, in 1605, King Philip of Spain and Portugal issued a document that was a masterpiece of obfuscation intended both to pacify his critics in Goa demanding the right to take Japanese slaves and the Jesuits, who insisted that the practice be banned."
  6. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 728-730
  7. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 496-497 "If that is the case, the king had then sent copies of the same order to India at least three times: in 1603, when Aires de Saldanha published it, in 1604, with Martim Afonso de Castro, and in 1605."
  8. ^ COSTA, João Paulo Oliveira e. O Cristianismo no Japão e o Episcopado de D. Luís Cerqueira. PhD thesis. Lisbon: Universidade Nova de Lisboa, 1998, p. 312. Sousa indicates the same letters, but he mistakenly attributed them to Filipe II, Filipe III’s father. See SOUSA, Lúcio de. Escravatura e Diáspora Japonesa nos séculos XVI e XVII. Braga: NICPRI, 2014, p. 298.
  9. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 493
  10. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. pp. 494-504
  11. ^ BOXER, C. R. The Christian Century in Japan, 1549 – 1650. California: University of California Press, 1974, pp. 97-98, "But since the Portuguese are unwilling to do this, and they often go to places against the padres` wishes, there is always much jealousy and rivalry between these lords, from which follow in turn to great toil and moil to the padres and to Christianity. And, moreover, it sometimes happens that the Portguese go with their ships to the fiefs of heathen lords who bitterly persecute the padres and Christianity, wrecking churches and burning images, which causes great scandal and contempt of the Christian religion."
  12. ^ a b Rômulo da Silva Ehalt, Jesuit Arguments for Voluntary Slavery in Japan and Brazil, Brazilian Journal of History, Volume: 39, Number: 80, Jan-Apr. 2019., p.10
  13. ^ BRAH, Cortes 566 (9/2666), maço 21, f. 275. RUIZ DE MEDINA, Juan G. Orígenes de la Iglesia Catolica Coreana desde 1566 hasta 1784 según documentos inéditos de la época. Rome: Institutum Historicum S.I., 1986, p. 114-22.
  14. ^ 丹野勲『江戸時代の奉公人制度と日本的雇用慣行』国際経営論集 41 57-70, 2011-03-31, p. 58
  15. ^ 丹野勲『江戸時代の奉公人制度と日本的雇用慣行』国際経営論集 41 57-70, 2011-03-31, p. 62
  16. ^ a b 嶽本新奈『境界を超える女性たちと近代 ——海外日本人娼婦の表象を中心として — —』一橋大学、博士論文、p. 15
  17. ^ 中田薫「徳川時代に於ける人売及人質契約」『法制史論集』3・上、岩波書店、1943 年。
  18. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt、p. 426
  19. ^ BRAH, Cortes 566 (9/2666), maço 21, f. 273-276v. Pagès in PAGÈS, Léon. Histoire de la religion chrétienne au Japon – Seconde Partie, Annexes. Paris: Charles Douniol, 1870, p. 70-9. SOUSA, Lúcio de. “Dom Luís de Cerqueira e a escravatura no Japão em 1598.” Brotéria, 165. Braga, 2007, pp. 245-61.
  20. ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt、pp. 514-523
  21. ^ ブリタニカ・ジャパン 2022a, p. 「年季奉公」.
  22. ^ OKA Mihoko. “Kirishitan to Tōitsu Seiken.” In: ŌTSU Tōru et alii. Iwanami Kōza Nihon Rekishi Dai 10 Kan, Kinsei 1. Tokyo: Iwanami Shoten, 2014, pp. 185-187
  23. ^ a b Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 473
  24. ^ PÉREZ, Lorenzo. Fr. Jerónimo de Jesús: Restaurador de las Misiones del Japón – sus cartas y relaciones (1595-1604). Florence: Collegii S. Bonaventurae, 1929, p. 47.
  25. ^ OKAMOTO Yoshitomo. Jūroku Seiki Nichiō Kōtsūshi no Kenkyū. Tokyo: Kōbunsō, 1936 (revised edition by Rokkō Shobō, 1942 and 1944, and reprint by Hara Shobō, 1969, 1974 and 1980). pp. 730-2
  26. ^ MIZUKAMI Ikkyū. Chūsei no Shōen to Shakai. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 1969.
  27. ^ SOUSA, Lúcio de, and OKA Mihoko. Daikōkai Jidai no Nihonjin Dorei. Tokyo: Chuokoron-Shinsha, 2017.
  28. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 33
  29. ^ OM, Lib. 4, Tit. XVI; LARA, Silvia Hunold. ‘Legislação sobre escravos africanos na América portuguesa’. in: ANDRÉS-GALLEGO, Jose (Coord). Nuevas Aportaciones a la Historia Jurídica de Iberoamérica. Madrid: Fundación Histórica Tavera/Digibis/Fundación Hernando de Larramendi, 2000 (CD-Rom), p. 57. Tit. XCIX.
  30. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan, Doctoral Dissertation, Rômulo da Silva Ehalt, 2017. p. 91
  31. ^ Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan、Rômulo da Silva Ehalt、pp. 514-523