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ノート:バテレン追放令

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特別:投稿記録/133.209.167.237さんの独自研究かつ客観性が欠如しているとみられる編集

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特別:投稿記録/133.209.167.237さんの好ましくない独自研究の入った改編の事例はいくつかありますが、基本的には日本史関連の記事で自分で出典をいれずに出典のある文章を削除または、出典のない独自研究に追加・入れ替えることを意図しているようです。最初の事例ではスブリミス・デウスの『条文』を改編してしまっています。

  • 改編前の内容
これに反することが起こった場合、それは無効であり、何の効果も持たない。 — 改編前のスブリミス・デウスの条文の箇所[1]
  • 改編後の内容
これに反して奴隷商人が奴隷とした場合、それは無効であり、何の効果も持たない — 改編後のスブリミス・デウスの条文の箇所[1]

参考までにバテレン追放令の記事では、Wikipediaの表現としてふさわしくないような主観的な表現に(出典のある根拠のある文章が)上書きされています。

  • 改編前の内容
神国思想を意識的に構築しており、家康もその排外主義的な基本路線を踏襲した — 改編前の文言[2]
  • 改変後の内容
日本在来で一神教的なの天道思想にも言及している、家康もその基本路線を踏襲した — 改編後の文言[2]

この例にもれず、そもそも議論を呼ぶであろう天道思想が一神教的という宗教学の表現を使いたければ、出典を示して、自分の変更した箇所の出典のページ番号も含めて指定すべきです。出典のある内容についてはマナーのある話し合いの上で合意するのがwikipediaのやり方ですし、他の方の出典であるかのように偽装して出典があるかのように印象を与えようとするのは、コミュニティ的にも望ましい姿勢ではありません。

結論として特別:投稿記録/133.209.167.237さんの問題点としては、個人の意見で独自研究である内容を出典のある内容に紛れて編集していることなので、例えば記事の中に自分の独自研究をまとめる以上に検証可能性を困難とします。同時に独自研究によって出典のある内容・文章を改編してしまうことでガイドラインに違反していることを指摘させていただきます。--杜の街会話2024年8月3日 (土) 09:08 (UTC)[返信]

情報
同一人物と見られる方に関するノートです。
IPはちょくちょく変わるようですが、プロバイダーが同じで投稿内容が似ているので、出典内容に低品質の独自研究を混入する荒らし行為(WP:SNEAKY)は確認できる限りでは二年前ぐらいに遡れるようです。これまでの編集をみた限りではWP:RSWP:NPOVWP:Vを理解していないと思いますし、短めのWP:PRESERVEを読んでるかさえも怪しいですね。--杜の街会話2024年8月25日 (日) 12:12 (UTC)[返信]
情報
ちなみに特別:投稿記録/133.209.167.237さん(同じプロバイダーの119.240.149.223さん等も同一の方だと仮定して話します)はその後、以下のようなコメントと共に大規模な改竄を行われています。
『2024年8月5日 (月) 03:16‎ 119.240.149.223 会話‎ 98,362バイト −16,799‎ 伴天連追放令と無関係な記述及び出典の無い作文を削除
『 2024年8月3日 (土) 08:41‎ 119.240.149.223 会話‎ 111,289バイト −3,872‎ 外国語出典の意味の異なる意図的な誤訳,出典本文と内容の異なる改変作文,出典が無く且つ独自の謎作文,当該ページと無関係な年代の記事,意味の異なる意図的な誤訳,記述分量の大きく偏った偏向記事等を訂正
どうやら自分の独自研究の改変が真の編集だとおっしゃりたいようですが、内容的には改変される前のものは、Mark Mullinsの日本のキリスト教史ハンドブックに記述されているものを忠実に要約しているものです。
Item 1 of the edict reads: Japan is the Land of the Gods. Diffusion here from the Kirishitan Country of a pernicious doctrine is most undesirable. His 1591 letter begins in the same vein. The fact is that our land is the land of the gods and then proceeds to an exposition of what Takagi Shÿsaku (1993) has identified as Yoshida Shinto theories of the origins of the universe. Asao Naohiro has observed that Hideyoshi was consciously constructing the idea of Japan as land of the gods as a counter and response to the idea of Europe as land of the Christian God. Ieyasu's letters to the Governor General of the Philippines in 1604 and the Governor General of Mexico in 1612 articulate the same ideas about Christianity's incompatibility with Japan as shinkoku, the land of the gods (Asao 1991, 108ñ18; Gonoi 1990, 203ñ5). More research needs to be done on this linkage between the Christian proscription and Shinto ideas, but it would not be surprising, given the nature of the nativistic dynamic, if counter-Christian concerns were somewhere present in the anxiety of both Hideyoshi and Ieyasu to have themselves deified and venerated after their deaths. — Handbook of Christianity in Japan / edited by Mark R. Mullins. p. cm. — (Handbook of oriental studies, Section 5, Japan ; v. 10) ISBN 90-04-13156-6 I. Japan—Church history. I. Series. pp. 251-252
神国思想を意識的に構築しており、家康もその排外主義的な基本路線を踏襲した — 改変前の文言
これが133.209.167.237さんの偏向のない記述になると、以下のようになるらしいですね。
日本在来で一神教的なの天道思想にも言及している、家康もその基本路線を踏襲した — 133.209.167.237さんの改編後の文言
ソースにもnativisticconstructing the idea of Japan as land of the godsJapan as shinkoku, the land of the godsと書いてるので排外主義神国思想を意味する文は見つかりますけど、一神教的な天道思想の記述は見当たらないですね。偏向のない記述とは信頼できる情報源の記述を削除して、独自研究に上書きすることを指すのかもしれませんね。ちなみにこの方が大幅に削った後に残ったバテレン追放令の原文は一次資料なので、歴史カテゴリーでは信頼できる情報源(WP:RS)ではないですし、どこから突っ込めばいいかわからないぐらいひどい改竄だと思います。--杜の街会話2024年9月3日 (火) 02:19 (UTC)[返信]

2400:4152:75e1:8c10:7fa0:d0d6:3ed5:4cc4さんの内容ですが、追記されている内容が出典に記述されていません

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2400:4152:75e1:8c10:7fa0:d0d6:3ed5:4cc4の最近の更新を拝見しました。

2024年8月5日 (月) 20:35‎ 2400:4152:75e1:8c10:7fa0:d0d6:3ed5:4cc4 会話‎ 115,337バイト +176‎ 九州御動座記の記述に関して、出典論文の意図に反して信頼できない史料のように扱われていたので、より出典の意図を正確に反映した内容に修正しました
このうち、ポルトガル人が牛や馬を買い、生きたまま皮を剥いで素手で食べるとの記述については、ヨーロッパ人を生肉を食べる化物のように描くことが東アジアでは一般的であり[3]、信憑性に疑問が呈されている[4]しかし、当時の日本では肉食自体が忌避されており、ここでの非難は生肉を食べることよりも主に牛馬を食すること自体に向けられている。また、ルイス・フロイスの『日欧文化比較』にあるように、当時のポルトガル人の手食文化も事実として存在した。いずれにせよ、大西洋間奴隷貿易の残虐性を想起させる『九州御動座記』の描写は、重要な歴史的証言として無視できないものだと先の記述に疑問を呈した研究者も指摘している[4] — 2400:4152:75e1:8c10:7fa0:d0d6:3ed5:4cc4さんの投稿

問題点は黒字の箇所についてJesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japanの346ページに同様の記述がないことです。つまり該当の内容の出典は無効であり、さらにいえば極めて悪質な出典の偽装行為にあたります。Wikipediaでは出典のない記述は自由に削除できますので、該当箇所は削除します。

ただしda Silva Ehaltと同程度またはそれ以上に信頼できる二次資料(学術誌に掲載された査読論文や特定のトピックについて書かれたモノグラフのような専門書)などの出典がありましたら、再度投稿して頂ければと思います[注 1]

  1. ^ 専門家の著述した一般書はピアレビュージャーナルに掲載された学術論文・専門書と比べてかなり割り引いて考える必要があります(「一般書であっても専門家によって著された本はほとんどの場合「信頼できる情報源」と認められると考えられます。ただし学術論文・専門書と比べてかなり割り引いて考えなければならないでしょう。」「Wikipedia:信頼できる情報源#基本的な考え方」)。

脚注

  1. ^ a b https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%87%E3%82%A6%E3%82%B9&diff=101129459&oldid=91675707
  2. ^ a b https://ja-two.iwiki.icu/w/index.php?title=%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4&diff=101253500&oldid=100786928
  3. ^ CRUZ, Frei Gaspar da (auth.) and LOUREIRO, Rui Manuel (ed.). Tratado das Coisas da China (Évora, 1569-1570). Lisbon: Biblioteca editores Independentes, 2010, p. 177.
  4. ^ a b da Silva Ehalt, Rômulo (2017). Jesuits and the Problem of Slavery in Early Modern Japan (Thesis). Tesis Doctoral, Tokyo University of Foreign Studies. p. 346.

--杜の街会話2024年8月6日 (火) 06:16 (UTC)[返信]

少し誤解のある編集をしてしまったことを謝罪します。「当時の日本では肉食自体が忌避されており、ここでの非難は生肉を食べることよりも主に牛馬を食すること自体に向けられている。また、ルイス・フロイスの『日欧文化比較』にあるように、当時のポルトガル人の手食文化も事実として存在した。」という部分は、出典となっている論文には直接の記述がなく、da Silva Ehalt氏の主張に疑問を感じたために私が追加した歴史的事実です。この点について、より明確に説明するか、あるいは削除すしても構いません。ただし、『九州御動座記』の描写が大西洋奴隷貿易の残虐性を彷彿とさせるものであるとする記述「The horrific scenario described instantly reminds contemporary readers of the horrors of the slave trade between Africa and the Americas. 」とその記述が無視できないものだと指摘されている点は、論文中に明確に述べられています「Even though the Kyūshū Godōzaki may be read as a piece of text reflecting the “black legend” of the Portuguese in East Asia, it must not be ignored.」。da Silva Ehalt氏の主張の核心は、『九州御動座記』の記述が数的には誇張されている可能性があるものの、質的な説明として受け止めるべきだということです。悪質性で言うならば元々の記事の出典に対する抜き出し方そのものが極めて悪質だと思います。「宣教師に対する罵詈雑言に対する罵詈雑言や噂、作り話をものにした虚構」などとは出典の論文のどこにも書いていません。このような記述は、『九州御動座記』そのものが全く信頼できない文書であるかのように読者に印象づける恐れがあります。
続いて私が追加した文章についての意図も説明します。da Silva Ehalt氏は「the description of Europeans as raw meat-eating monsters was quite common in East Asia. 」と記述しているように、ヨーロッパ人が生肉を食べる化け物として描写されることが東アジアでは一般的だったと指摘し、『九州御動座記』の記述が "somewhat fantastic" つまり「やや空想的」に聞こえると評しています。しかし、「牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上、今世より畜生道有様目前の二相聞候。」を現代訳すならば、「彼らは牛や馬を購入し、生きたまま皮を剥ぎ、坊主も見習いも同様に素手で食べている。彼らには親子間や兄弟間の礼儀がない。地上に地獄が顕現したと言われている。」となり、生きたまま皮を剥ぐことと素手で肉を食べることは別の事柄として描かれており、必ずしも生肉を食べていると記述されているわけではありません。また、da Silva Ehalt氏はこの記述が秀吉からガスパル・コエーリョに伝えられた条文と関連していることも指摘しています。つまり、「牛馬ヲ売買、ころし食事、是又可為曲事事」と対応する文言ということで、問題の核心は牛馬を食することにあり、生肉を食べる化け物がどうこうではないことが分かります。そこで私は、当時の日本で肉食、特に牛馬を食べることが忌避されていた事実や、ポルトガル人の手食文化の存在を補足することで、da Silva Ehalt氏の主張に反論し、『九州御動座記』の該当箇所が必ずしも空想的とは言えない可能性を示そうとしました。これらの追加情報はWikipediaの「日本の獣肉食の歴史」および「手食文化」の項目に基づいたものですが、私自身がその出典を明示できるわけではないため、問題があるようでしたら削除することも可能です。
繰り返しになりますが、da Silva Ehalt氏は『九州御動座記』の記述に誇張の可能性を指摘しつつも、史料としての価値を全面的に否定してはいません。私の記述が適切でなかったとしても、何らかの修正が必要だと考えます。--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月6日 (火) 10:27 (UTC)[返信]
もう1つ、提案したいことがあります。現在の記事では、『九州御動座記』から「牛馬をかい取生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上、今世より畜生道有様目前の様ニ相聞候。」という部分だけが引用され、その信憑性を問うだけの文章になっています。しかし、この項目のタイトルは「追放令の社会的背景」における「関連する資料の記述」であり、その目的は関連資料の内容を紹介することのはずです。
そこで現在の『九州御動座記』の原文からの引用部分に、da Silva Ehalt氏の論文において引用された部分全体を記載することを提案します。該当部分は以下の通りです。
『今度伴天連等能自分と思候て種々様々の宝物を山と積弥一宗繁盛廻計略既後戸・平戸・長崎なとゝてなんばん舟付毎ニ充満シテ其国の国王をかたふけ諸宗を我邪法ニ引入、それのミならす日本仁を数百男女によらず黒舟へかい取、手足ニ鉄のくさりを付舟底へ追入、地獄の呵責ニもすくれ其上牛馬をかい取生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し親子・兄弟も無礼儀上、今世より畜生道有様目前の様ニ相聞候。見るを見まねニ其近所の日本仁何も其姿を学、子をうり親をうり妻女をうり候由つく/\被及聞召、右之一宗若御許容あらハ、惣日本外道の法ニ可成事案中候。然者仏法も王法も可相捨事を嘆被思召忝も大慈大悲被回御思慮候て既ニ伴天連の坊主本道追払の由被仰出候。就其ては高山右近亮元来被宗旨を其身信曔のミならす、主分領の僧俗理不尽ニ右之宗門ニなし候事被聞召候て俗弟子ノ手かたニ彼右近亮御分国被成御払候。弥仏法・王法繁盛天下静謐の基不可過之候』
原文からより広い範囲を引用することで、読者自身がその解釈や評価を行う機会を得ることができます。最初から歴史学の資料として問題があると記述してから一部の記述のみを取り上げてその信頼性を否定するのは、中立性と公平性の観点から適切ではありません。引用部分全体を記載した上で一部の記述に疑問があることを指摘することで、「関連する基本資料の記述」という項目の本来の目的である関連資料の内容紹介がより適切に行われると考えます。--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月6日 (火) 11:47 (UTC)[返信]
反対 節「関連する基本資料の記述」に関してですが『九州御動座記』を用いるならEhalt論文を通じてではないですね。記述の信頼性が疑われると書かれているので、Wikipediaの歴史カテゴリーでの一次資料としては排除されます。そのままの掲載は難しいでしょう[注 1]
However, there are issues that may be raised to question the text’s accuracy. The chronicle sounds somewhat fantastic when describing the eating habits of the Portuguese. In fact, the description of Europeans as raw meat-eating monsters was quite common in East Asia — Ehalt p.436
論文の中にはポルトガル人の黒い伝説(ポルトガル人を貶めるために捏造された、あるいは信頼性を欠いた歴史的資料または政治的煽動に使うためのプロパガンダ)と読めるとの記述もあります。
Even though the Kyūshū Godōzaki may be read as a piece of text reflecting the “black legend” of the Portuguese in East Asia, it must not be ignored. That was, ultimately, the way Hideyoshi understood the situation, and his understanding is fundamental when considering legislative actions taken against human trafficking. — Ehalt p.346
つまり質的にこういう事があったかもしれないというプロパガンダなので、一次資料としては問題外であるものの、これが秀吉の心理に影響を及ぼしたと推察し、その影響の大きさのため資料の信頼性に問題があっても無視できないと書いているわけです。資料自体はプロパガンダとしても読めるほど価値は低いため、歴史的事実を記述した一次資料としては使うことはできません。関連する基本資料の信頼性が疑われて一次資料として使えないのにも関わらず、文書の全体引用をすれば、重みが非常に低い特定の観点(『九州御動座記』)を不当に他の観点と平等に扱うことになり、WP:NPOVWP:RSに適合しません。基本的にWikipediaの中立的な観点とは、中立的という意味はなく、定説・通説以外の異説やプロパガンダを同じ重みで扱わないという意味です。記述の信頼性を欠いていると査読論文などの二次資料で指摘のあった資料は問題外でありWikipediaに相応しくないため排除されます(WP:NPOVWikipedia:信頼できる情報源#基本的な考え方)[注 2]
  1. ^ 全く関係ありませんが、どこかの論文に秀吉から牛馬を生で食べるという批判をされて、コエリョは牛は焼いて食べるが、ポルトガル人は馬は食べないと返事をしたと書かれていたと思います。
  2. ^ WP:NPOVの引用)
    この方針における「中立」や「中立的」という用語が一般とはやや異なった限定的な意味で使われていることには注意してください。得てして誤解がありますが、中立的な観点の方針とは以下のようなものではありません。
    「中立的な観点とは、中間的な観点のことではありません。」
    「中立的な観点とは、特定の観点のことではありません。」
    「中立的な観点とは、全ての観点を平等に扱うことではありません。」
    「中立的な観点とは、多数派の観点のことではありません。」

--杜の街会話2024年8月6日 (火) 13:19 (UTC)[返信]

「質的にこういう事があったかもしれないというプロパガンダなので、一次資料としては問題外」という解釈は飛躍のし過ぎではないでしょうか。
まず、da Silva Ehalt氏の論調はそれほど強いものではないと思います。彼は記述に疑問を示す際、"may be raised to question"や"sounds somewhat fantastic"、"may be read as"といった婉曲的な表現を用いており、断定的な批判をしているわけではありません。彼が「牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し」という記述を見て抱いた印象を述べているだけで、九州御動座記の信憑性を徹底的に批判しようとしているようには読み取れません。
また、da Silva Ehalt氏は九州御動座記について数的ではなく質的に評価すべきだと述べていますが、その質をプロパガンダだと言っているわけではありません。
あくまでヨーロッパ人が生肉を食べている化け物だと言われているような描写を背景に記述を読めば、黒い伝説と読めるかもしれないと述べているだけです。
彼は九州御動座記の正確性を結論づけることなく、それよりも秀吉の理解が重要なのだと言及しています。
彼はこの論文の結論の章で、問題の節について次のように説明しています。
Also, we read a Japanese account of the trade, which describes qualitatively the horrors faced by Japanese slaves in Portuguese ships and indicates the view local authorities had of the phenomenon. — Ehalt p.530
和訳すれば、「また、我々は日本人奴隷がポルトガル船で直面した恐怖を質的に描写し、地方当局がこの現象をどのように見ていたかを示す、この貿易に関する日本側の記述を読みました。」となります。
この記述からも、da Silva Ehalt氏が九州御動座記をプロパガンダとは見なさず、質的に一定の価値を認めていることがわかります。
「一次資料として問題外」だとか「宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をものにした虚構」だと読み取れるような主張は論文のどこにもありません。
仮に九州御動座記の記述の一部に問題があったとしても、それを理由に全体を「プロパガンダ」や「一次資料として問題外」と決めつけるのは適切ではないでしょう。歴史的な資料の多くは完全に客観的で正確とは限らず、ある程度の主観性や誇張、誤りを含んでいるものです。これは日本側の資料だけでなく、イエズス会側の資料にも当てはまります。
さらに、杜の街さんは中立的な観点とは、中立的という意味ではなく、定説・通説以外の異説やプロパガンダを同じ重みで扱わないことだとも言っています。しかしそれならば、九州御動座記を虚構や信頼ならない資料と見なす観点自体が、定説・通説ではない異説に当たるのではないでしょうか。私が調べた限り、九州御動座記の記述を利用した論文の中で、九州御動座記をそのように批判しているものは見当たりませんでした。むしろ、九州御動座記の記述とイエズス会側の記述に対応する描写があることを指摘する論文すらあります[1]。da Silva Ehalt氏の九州御動座記に対する見解も先に述べた通り、プロパガンダとは見なさず、質的に一定の価値を認めるものです。
また、杜の街さんは、「関連する基本資料の信頼性が疑われて一次資料として使えないのにも関わらず、文書の全体引用をすれば、重みが非常に低い特定の観点(『九州御動座記』)を不当に他の観点と平等に扱うことになり」と述べていますが、元の記事では『九州御動座記』と並んで信用できないとされている『デ・サンデ天正遣欧使節記』の記述が採用されているのはなぜでしょうか。元の記事には以下のような引用がありますよね。
また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助他共訳)雄松堂書店、1969、p232-235
杜の街さんの主張に従うなら、この『デ・サンデ天正遣欧使節記』の引用も削除されるべきではないでしょうか。
ただ私としては、元の記事で述べられているように、「虚構だとしても、豊臣政権とポルトガルの二国間の認識の落差がうかがえる」という点で、『デ・サンデ天正遣欧使節記』の記述にも価値があると考えます。そして、これは『九州御動座記』についても同様のはずです。『九州御動座記』は、日本人奴隷について秀吉をはじめとする日本側がどのように受け止めたかを示す重要な描写だと言えます。da Silva Ehalt氏も、バテレン追放令を理解する上で、秀吉の理解が重要だと指摘しています。その上で、『九州御動座記』の記述はあくまで日本側の視点であり、一部信憑性に疑問があることを明記した上で、引用する価値があるのではないでしょうか。
なお、杜の街さんが述べた「全く関係ありませんが、どこかの論文に秀吉から牛馬を生で食べるという批判をされて、コエリョは牛は焼いて食べるが、ポルトガル人は馬は食べないと返事をしたと書かれていたと思います。」という記述について調べた結果、秀吉とコエリョのやりとりを示した論文を見つけました[2]。その中で秀吉は、「牛馬は人間に仕え、有益なる動物であるに、何故にこれを食ふ如き道理に背いたことをなすか」とコエリョに質問し、対してコエリョの返答は長いので要約すると「我々は牛は食べるが馬は食べない」と述べ、その後に牛を食べることの正当性に関する主張が続きます(『1588年2月20日付、有馬発、パードレ、ルイス・フロイスからイエズス会総長あて書簡』、及びルイス・フロイス『日本史』)。このように、秀吉とコエリョの問答において生肉についてなどと言及されていませんでしたね。
また、ポルトガル人が手食文化であったことを述べた『日欧文化比較論』について言及された論文も見つけました[3]。これらの記述は、「牛馬をかい取、生なから皮をはぎ坊主も弟子も手つから食し」という九州御動座記の一節を理解する上で、十分関連性があると思います。新しい出典が見つかったので、これらも記事に載せたいと考えています。ただし、杜の街さんが指摘したように、da Silva Ehalt氏の論文との混同を避けるよう、記述には気をつけますがいかがでしょうか?--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月7日 (水) 11:08 (UTC)[返信]
返信
①伴天連追放令に関する一考察 : ルイス・フロイス文書を中心に — 神田千里、東洋大学文学部紀要。史学科篇、Bulletin of Toyo University, Department of History, the Faculty of Literature 37 65-110, 2011
②日欧食文化の比較研究 — 山内昶二、大手前女子大学論集 32 085-098, 1998-02-20、Otemae Women's University
③文献にみる長崎の江戸時代初期以前の牛肉食について — 松尾雄二、畜産の研究、Animal-husbandry 67 (2), 281-284, 2013-02
文献については、①と②は紀要論文なのでWP:RSに適合しません。③は査読論文に入るはずなので、①と②よりは信頼性が高いですが、日本ポルトガルの外交史は松尾雄二さんの専門外になるでしょうから、専門家による論文や専門書でないので同様にWP:RSには適合しません。
歴史分野においても各国・各時代・ジャンルごと(政治史・経済史・文化史など)に専門家による様々な研究が行われています(ここでいう専門家とはいわゆる歴史学の専門教育を受けて、継続的に学術雑誌等に寄稿している人々を指します)。 — 基本的な考え方
①の神田千里さんについては関連する内容に関しては紀要論文(査読や追試のない論文、学内に所属する機関の刊行物など)[注 1]は出されていますが、バテレン追放令やポルトガル宣教師と関わりのある題材では、学術雑誌で査読論文を継続的に寄稿されていないので、バテレン追放令についてはWikipediaの考える専門家ではないです[注 2]Ehaltについてはピアレビューのある学術雑誌に関連するテーマで寄稿し続けているので専門家に分類できます。
査読・追試を経た学術論文・専門書は「信頼できる情報源」として認められます。 — 基本的な考え方
 査読・追試を経た学術論文という意味では、Ehalt論文は博士論文として査読・追試はされているため比重が高くなり、紀要論文である①はWikipediaの定義する信頼できる情報源でないため、比較以前の話ということになります。
 次の問題です。歴史カテゴリーでは一次資料を出典として使うべきではないとされています。題材を分析する訓練を受けた専門家の目を通されていないからです。
一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、むしろ一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです。ほとんどの一次資料となる題材は、適切に用いるための訓練が必要です。特に歴史についての主題を扱う場合がそうです。 — 一次資料
 『デ・サンデ天正遣欧使節記』のジャンルは当時の宣教師の書いたフィクションとして引用されているのであって史料として引用されてるわけではないと思います。注釈文にも正確性以前にフィクションや虚構と書いてあると思いますので史料とはみなしていません。フィクションですから扱いは史料のように限定されず、比較的自由で特に決まりはないということかと思います。中立的な観点とは全く関係ありませんが、「反日的だ」と騒ぎたてるような内容でもないと思います。
 Ehalt論文の黒い伝説と読めるとの言及、つまり捏造された資料、あるいは政治的煽動に使うためのプロパガンダであるとの文言を追加するか、『九州御動座記』が捏造された文書と考えられると併記するならば、フィクションという扱いにはなります。しかし現在Wikipediaに記載された文言はそこまで踏み込んではいませんね。
However, there are issues that may be raised to question the text’s accuracy. The chronicle sounds somewhat fantastic when describing the eating habits of the Portuguese. In fact, the description of Europeans as raw meat-eating monsters was quite common in East Asia — Ehalt p.436
Even though the Kyūshū Godōzaki may be read as a piece of text reflecting the “black legend” of the Portuguese in East Asia, it must not be ignored. That was, ultimately, the way Hideyoshi understood the situation, and his understanding is fundamental when considering legislative actions taken against human trafficking. — Ehalt p.346
 前に書いた内容を少しわかりやすくします。『九州御動座記』の史料の正確性に疑問点があり、質的にこういう事があったかもしれないとも見れるが、定量性などの事実としての正確性は信頼すべきでないとしており、史料は全体として信頼できる情報源ではありません。『九州御動座記』はポルトガル人に対する黒い伝説としても読めるとかなり強い表現を使っていますが、これが秀吉の心理に影響を及ぼしたと推察し、その影響の大きさのため資料の信頼性に問題があっても無視できないと書いているわけです。一般的な意味では強く聞こえないかもしれませんが、文献学的にはこれらは十分に強い言葉ですね。文言の正確性に疑問が投げかけられているなら、信頼できる情報源の一部としては見なせません。なぜなら質と量の両方が伴わないと一次資料として信頼ができないからです。マイナス100の評価の中に、プラス5の記述があってもトータルではマイナス95で、マイナス評価であることに変わりはないということです。
 『九州御動座記』は前述のWP:NPOVWP:RSに適合せず、一次資料の全文引用として使うことはできません[注 3]。しかし史料として分類することも可能ですし、これをフィクションジャンルとして認められている『デ・サンデ天正遣欧使節記』と同列に扱うことはできません。信頼できる情報源に適合するEhalt論文の中にはポルトガル人の黒い伝説(ポルトガル人を貶めるために捏造された、あるいは信頼性を欠いた歴史的資料または政治的煽動に使うためのプロパガンダ)と読めるとの記述があり、正確性が疑われるとも書かれているため、これを一次資料として使うのはWP:NPOV違反であり、二次資料によって重みが全くない資料を不当に優遇することになります。Ehalt論文で温かく批判されたか、冷たく批判されたかは主観的なものですし、史料としての信頼性が低いと指摘する記述であることに変わりはありません。
 ちなみにバテレン追放令の条文と「覚え」も一次資料なので、二次資料にあるまとめられた記述と交換することが望まれていて、特にバテレン追放令の条文と「覚え」については削除するほうがWikipediaの方針にはあっていると思います。全文引用は百科辞典としての使命を放棄しているようなものですしね。一次資料の全文引用が混入した経緯は知りませんが、いまほど二次資料の出典が無かった時代に誰かが貼り付けしたのでしょうから、いつ削除されてもおかしくはないと思います[注 4]
 Ehalt論文経由で『九州御動座記』を引用をするのはあきらめられた方が良いと思います。最初に私が提案したようにEhalt論文以外の査読論文やモノグラフなどの専門書をCiNii等のサイトで探して、Ehalt論文と同程度かそれ以上の重みを持つ最新の査読論文の引用をすれば良いだけです。二次資料で信頼性に関して問題が指摘されている一次資料にこだわらず、信頼できる二次資料を探すようにすることを推奨します。
  1. ^
    査読・追試を経た学術論文・専門書は「信頼できる情報源」として認められます。 — 基本的な考え方
  2. ^
    歴史分野においても各国・各時代・ジャンルごと(政治史・経済史・文化史など)に専門家による様々な研究が行われています(ここでいう専門家とはいわゆる歴史学の専門教育を受けて、継続的に学術雑誌等に寄稿している人々を指します)。 — 基本的な考え方
  3. ^ 現在は引用の目的である信頼性に疑念があることをハイライトするために必要な最小限の文章が抜き出されていますね。
  4. ^
    一般に、ウィキペディアの記事は一次資料に基づくべきではなく、むしろ一次資料となる題材を注意深く扱った、信頼できる二次資料に頼るべきです。ほとんどの一次資料となる題材は、適切に用いるための訓練が必要です。特に歴史についての主題を扱う場合がそうです。 — 一次資料

脚注

  1. ^ 神田 千里 (2012). 伴天連追放令に関する一考察 (PDF) (Thesis). 東洋大学. p. 83.
  2. ^ 松尾 雄二 (2013). 文献にみる長崎の江戸時代初期以前の牛肉食について (PDF) (Thesis). 養賢堂. p. 282.
  3. ^ 山内 昶二 (1998). 日欧食文化の比較研究 (PDF) (Thesis). 西宮 : 大手前女子大学. p. 86.
--杜の街会話2024年8月7日 (水) 14:05 (UTC)[返信]
杜の街さんに対して、返答させていただきます。なお、文献関係については了解しました。
まず、『デ・サンデ天正遣欧使節記』についてですが、史料ならダメでフィクションなら良いという主張には疑問を感じます。単なるフィクションとするのなら、その扱いこそより慎重にすべきでしょう。歴史の記事に関する項目で長々と記述することは、フィクションであると記述したとしても杜の街さんの述べた不当な重みを与えるものではないですか?フィクションと記述したからといってWP:NPOVやWP:RSを無視できるわけではないでしょう。さらに、『デ・サンデ天正遣欧使節記』の引用周辺の出典は論文ではなく和訳本であり、実質的に単なる一次資料の抜き出しに等しいものです。こちらについて私自身は削除するべきとも思わず編集するつもりもありませんが、あなたの述べる通りなら問題のある記述として削除されても仕方ないという解釈でよろしいでしょうか?
そして本題ですが、杜の街さんは「黒い伝説」という表現にこだわりすぎているのではないでしょうか。この表現はあくまで比喩であり、著者の意図は曖昧です。プロパガンダだと断言するのは行き過ぎで、ポルトガル人に対する誇張表現が使われていることを共通点から比喩しただけかもしれません。いずれにせよ、著者の意図は文章全体の文脈から判断するしかありません。
そして論文全体を読めばあなたの主張するようには思えません。
私が"may be raised to question""sounds somewhat fantastic""may be read as"という表現が使われていることを指摘したのは、批判が温かいとか冷たいとかそういうことではなく、Ehalt氏が根拠を以て断定的に主張しているのではなく、根拠は強くないがそのような印象を受けるという程度として婉曲的な表現を用いていることを指摘するためです。
また、論文の読み方についても、あなたの解釈は適切ではないと考えます。
この論文の346ページではまず、第一のパラグラフで『九州御動座記』の史料の正確性に疑問点を示し、そしてどのように解釈すべきかを示したあと、実際に実例を挙げて解釈してみせています。ここまでは一連の記述です。しかしそこで改行され第二のパラグラフに移ります。つまり、意味の断絶があるのです。そして『九州御動座記』の記述は黒い伝説と読めるかもしれないが、結局のところ秀吉はこのように理解しているのだからバテレン追放令を考えるうえで無視できないと続いています。つまり、第二のパラグラフは第一のパラグラフの総括でしょう。ここでいう「黒い伝説と読めるかもしれない」とは生肉を食べた化け物という記述を読めばそのように思えるかもしれないが、という意味に過ぎないでしょう。秀吉の理解を探るには内容を無視できず解釈の必要がある。そのための方法が第一のパラグラフで挙げられた方法ということです。
先にも挙げた結論の章での以下の記述がこの解釈を裏付けています。
Also, we read a Japanese account of the trade, which describes qualitatively the horrors faced by Japanese slaves in Portuguese ships and indicates the view local authorities had of the phenomenon. — Ehalt p.530
これは、「日本の記録から奴隷貿易に関する記述を読み、それがポルトガル船における日本人奴隷が直面した恐怖を質的に描写し、この現象に対する地元当局の見解を示していた」と述べています。
もしあなたの言うような意図で書かれているのなら、日本人奴隷が直面した恐怖という実際にあったかのような表現ではなく風聞やそれに類する言葉が使われ、地元当局の見解という表現ではなく喧伝やプロパガンダなどという言葉が使われるはずです。「黒い伝説」という一単語にこだわり文脈を無視するのは、それこそWP:NPOVに適合しない行為では?
そもそも歴史的史料に100%の正確性を求めるのは非現実的です。一箇所の信憑性が疑われる記述があっても、別の場面では正確な描写がされていることは珍しくありません。よほど致命的なものではない限り一箇所の誇張された記述を以て文書全体の信憑性を否定するのは問題がありすぎるでしょう。実際、論文の著者は『九州御動座記』の内容の信憑性を完全否定しているのではなく、慎重に扱うべきだと主張しているだけです。あなたの基準で判断すれば、歴史資料は何も出典として扱えなくなってしまいます。『九州御動座記』がプロパガンダであり完全に信頼できない資料だと断言するのなら、その根拠として『九州御動座記』の信憑性を研究した論文を杜の街さんが提示すべきでは?主題ではないところで述べられた「黒い伝説」という一単語だけでは、プロパガンダと決めつけるには不十分でしょう。
また、『九州御動座記』が記された項目のタイトルは、「追放令の社会的背景」における「関連する基本資料の記述」です。社会的背景とは宣教師や奴隷たちの実態がどうだったかだけではありません。仮に宣教師や奴隷に対する描写は事実ではないとしたとしても、『九州御動座記』が秀吉やその側近たちがどのように状況を理解していたかを示すものであることは事実であり、それもまた立派な社会的背景です。例えば『九州御動座記』の記述が奴隷たちの扱いの証拠として挙げるには問題がある、と言う指摘なら否定はしません。しかし、ここで重要なのはあくまでもバテレン追放令の社会的背景です。そしてそのための資料として『九州御動座記』が無視できないものであることこそ、Ehalt氏の主張していることです。
Ehalt氏の論文における論調と現状のバテレン追放令における記述が異なる以上、修正の必要があると考えます。
ただし、一次資料をそのまま抜き出すのは推奨しないという方針なのは理解しました。
編集する場合でも、原文の直接引用は避けるようにいたします。
現状の記述の問題点は項目の表題と異なり、ただ単に『九州御動座記』が信頼ならない資料であるという説明に終止していることです。さらにEhalt氏の論文の主張を曲解した記述がなされています。
そこで、始めにあくまでも秀吉やその周辺の人物から見た視点であることをしっかりと明記しつつ(現状でもある程度なされていますが)、『九州御動座記』にどんな記述が記されているかを論文を元に簡単に要約して記し、その上で今の記事にある信憑性に疑義があるとする記述を続けるのはどうでしょうか?
ただしさらに、「宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘」という表現は行き過ぎだと思われるので、より論文の意図を反映した「描写の理解には慎重を要するとの指摘」というような表現に変更することを提案します。--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月8日 (木) 13:37 (UTC)[返信]
返信 まずノートで長文を書きすぎると誰からも読まれなくなるので、おたがい短く書きましょう。このように長文で二次資料のあやふやな箇所を延々と述べ続けるのはコミュニティを疲弊させる行為と見られかねません。
  • 私はあなたの延々と続くこの議論が少し馬鹿げていると思っていて、ポルトガル人への「黒い伝説」(ポルトガル人を貶めるための捏造資料の意味)が「may be」と記述されているなら、「there are issues」以外のすべての箇所が「should be」「may be」「would be」のような確定的でない(不確定な)表現が使われています。つまり資料に問題があるとしか書けなくなりますね。資料に問題がある(「there are issues」)というのは少なくとも確定表現です。しかし不確定かどうかというより、歴史カテゴリーにおいて一次資料の信頼性に疑念が呈されていることが問題なのです。
  • 曲解という強い言葉を使いますが、文書の信頼性に疑念が表明されているので、Wikipediaに投稿するのは重みの低いまたは二次資料が否定している箇所である特定の観点を記述するためWP:NPOVに反します。特に全文引用はそうなりますね。部分引用は文書の信頼性の問題をハイライトする目的を達成するために最小限の引用をするため許容されているのだと思います。
  • WP:RSは歴史分野については一次資料の取り扱いが特に厳格です。フィクションのような文学カテゴリーは一次資料について特殊な決まりごとは書いていません。ですから『デ・サンデ天正遣欧使節記』はフィクション(対話形式なことから小説として読める)と考えられている以上は、基準は緩和されるという理解です。これはフェアかどうかでなく歴史カテゴリーのルールの問題です。バテレン追放令の「覚え」の原文は歴史カテゴリーのトピックですから、今のような一次資料の全文引用はWP:RS違反となりますが、放置され続けていました。つまり今までは、やや緩くやりすぎていたが、実行すればあちこちからクレームを受けるので手をつけるのが面倒くさくて誰も整理してこなかったということだと思います。正直、私も面倒くさくてやりたくはありません。
提案 ここからが私の提案です。
  • 『デ・サンデ天正遣欧使節記』『九州御動座記』『バテレン追放令』11か条の覚えの全文ないし部分引用をこの記事から削除します。『九州御動座記』に関するコメント文「宣教師に対する罵詈雑言や噂、作り話をもとにした虚構であるとの指摘がなされている」については、「歴史家ホムロ・ダ・シウヴァ・エハルトは九州御動座記には基本的な事実関係に問題があるためポルトガル人の黒い伝説[注 1]として読めるとしつつも、実際に起きた事実として定量的な理解はすべきではないが、奴隷のおかれた状況については定性的な理解をすることも可能だとした。史実かは不明だが、この文書が秀吉の心理に与えた影響は軽んじることはできないと述べている。[注 2]に交換します。『デ・サンデ天正遣欧使節記』「『バテレン追放令』11か条の覚え」については、即削除すると怒る人が出てくるはずなので、コメント依頼や議論の活性化を試しつつ数ヶ月〜半年程度の時間をかけて段階的に文章をWikipediaの方針とガイドラインに適合するようまとめてから削除します。
  • もう一つは削除でなく、引用箇所を注意書きつきで本文から注釈に移動する方式です。注釈だからといってWikipediaの方針が変わるわけではありませんが、本文ほど厳密である必要はないと思いますし、コミュニティに負担をかけないやり方ではあります。出典つきであれば、注釈であろうとコミュニティの同意なしに削除することはできません。白黒はっきりしなくても良いならこの方式はありだと思います。この案の利点としては、これら歴史カテゴリーの一次資料ないし文学カテゴリーの一次資料を信頼できる二次資料の出典つきの内容と同列に扱わないことで、信頼性の低い情報や正確性が疑われる不確定な一次資料の情報を、信頼のできる二次資料の内容に対して不当に過剰評価することを止められるということです(WP:NPOV)。
  1. ^ ポルトガル人を貶めるために捏造された歴史資料やプロパガンダ
  2. ^ ちなみ神田千里さんは江戸時代や明治期までに作られた史料を使っていると、どこかの論文に記述された研究史に書かれていたのを見た記憶があります。一次資料として認められるのは同時代の記録ですから、そういう理由で論文の審査が通らず紀要論文とか東洋大学の学内の審査が甘めな学会でしか発表できなかったのだと勝手に思っています。その意味でWikipedia向きな学者さんではないですね。日本側の関心が高いにも関わらず、一次資料はポルトガル語、スペイン語、ラテン語等に精通する必要があり、日本では歴史学の専門の訓練を受けた人というより言語学者(故松田毅一もそうですね)が歴史的にこれらの研究をになっていて、EhaltとかSouzaの先行研究としては岡本良知がかなり影響力が強く、最新研究であるSouzaもほぼ新規性がないと海外の学会レビューで苦言が呈されていと記憶しています。エハルトのような専門家はあまりいないですが、正直なところ日本人には障壁が異常に高い分野なので、二次資料を探すのであれば外国語の文献を探すことをアドバイスしておきます。

--杜の街会話2024年8月9日 (金) 01:53 (UTC)[返信]

信憑性に関する記述について、その内容であるならば提案に賛成します。論文の内容をしっかり反映していると思います。
元の記事の記述は九州御動座記を完全な虚構のように断じる割に論拠が弱く、気になって論文を拝見すれば論文では完全な虚構とは断じておらず、論調が異なっていました。そのような元の記述を支持して黒い伝説の記述を持ち出しているのだと受け取り、長々とした反論になってしまったことを謝罪します。
ただやはり先にも述べたようにこの項目は「関連する基本資料の記述」の紹介ですから、ただ疑義を示すのではなく九州御動座記がどのようなことを記した書物であるかについては追加した方が良いと思っています。
なるべく不当な重みを与えないよう気をつけた上で記述するのはいかがでしょうか?信憑性に関する記述の前段階の記述に対する改変案を考えましたので判断を仰ぎたいです。
案は以下のとおりです。
「バテレン追放令に先立ち豊臣政権は九州を制圧した。遠征時の九州の様子は豊臣秀吉の功績を喧伝する御伽衆に所属した大村由己によって『九州御動座記』として1587年7月頃に記録されたが、その一節においてバテレン追放令に対する言及や高山右近が追放された出来事の他、キリスト教と激しく対立した仏教の元僧侶の観点から宣教師の行いや奴隷の惨状などの生々しい描写も記されている。」
このようにあまり具体的には述べず、大まかに記されたことの概要を追加しましたがいかがでしょうか?
また、九州御動座記の記述の大半がバテレン追放令の正当化のように記された箇所も修正しています。九州御動座記はあくまで九州征伐の行軍録であり、バテレン追放令に関連した記述は一節で記述されているに過ぎないので。
ただ、追加した内容のほとんどはEhalt氏の論文で引用された部分にあった記述からまとめた概要なのですが、高山右近の追放という記述に関しては論文で原文を引用した部分からはみ出した内容を使っています。バテレン追放令には関連すると思い記述に加えましたが、出典となるとネット上で公開されている九州御動座記の原文といった一次資料しかありません。内容から外すべきでしょうか?
wikipediaの編集について不慣れな為、ご迷惑をお掛けしていることを改めて謝罪します。
なお、引用部分の扱いに関してですが、私としては削除ではなく後者の本文から注釈に移動する方式が良いのではと思います。普段閲覧するものの立場としては一次資料を手軽に参照できるのはありがたいですし、削除は勿体なく感じてしまいます。wikipediaの編集方針に適うように残せるなら残していただきたいです。
--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月9日 (金) 03:44 (UTC)[返信]
もうひとつだけ提案があります。
「基本的な事実関係に問題があるため」という記述は「著者が仏僧であることからの欧州人に対する偏見が見られるため」の方が良いかもしれません。九州御動座記における記述を奴隷や牛馬食以外に関して見ても、南蛮貿易、キリシタン大名、日本人による身売り、バテレン追放令、高山右近の追放と対応する事実はありますし、Ehalt氏が根拠として言及していることも東アジア人の偏見ですから。--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月9日 (金) 12:01 (UTC)[返信]
返信 お疲れ様です。あえて少し返信を遅らせました。所詮はWikipediaに過ぎないので、お互い日常生活を壊さないように余裕をもってやりたいですね。
  • 変更された箇所が一次資料を自分なりに解釈した独自研究なのか、Ehalt論文以外の二次資料を参考にして書いているのかという点ですね。独自研究であれば、私は削除すると思います。牛馬を生きながら皮を引き裂いて食べていたと、あたかも目撃した事実かのように書かれた文書であると指摘されている文書であることを念頭には入れておきつつ、「何が」については先日合意した文章に二次資料の許す限り記述があるので、まえがきは「誰が」「いつ」「どこで」「何のために書かれた文書」なのかを記すだけでいいと思います。出典なしの記述なら誰でも自由に削除したり書き換えできるんで意味ないかもしれないですけど。
  • 三文書の対応ですが、方式については注釈に移す方向でいきたいと思います。個人的に少し余裕をとってからノートに提案を書き、それから3週間とかくらいでやれれば良いかなと思います。「11箇条の覚え」と「デ・サンデ天正遣欧使節記」は揉めそうなので、合意形成を先にしてからやるとすると、3ヶ月から半年ぐらいはとってからやりたいですね。

脚注

--杜の街会話2024年8月10日 (土) 13:35 (UTC)[返信]
杜の街さん、お返事ありがとうございます。おっしゃる通り、余裕を持って進めるのが一番ですね。
三文書の対応についても、ご提案の進め方でよろしくお願いいたします。
さて、杜の街さんの案や指摘、私の提案も合わせて九州御動座記部分の完成案をまとめてみました。
以下の文章でどうでしょうか?指摘点があればお願いします。なお、注については省略しています。
『九州御動座記』は豊臣秀吉御伽衆である大村由己によって記された、九州征伐における行軍の様子を天正15年(1587年)3月から7月にかけて記録した文書であるが、その一節においてバテレン追放令や日本人奴隷などについて言及されている。ただし、歴史家ホムロ・ダ・シウヴァ・エハルトは、これらの記述には著者のポルトガル人に対する偏見が見られるため黒い伝説として読めるとしつつも、実際に起きた事実として定量的な理解はすべきではないが、奴隷のおかれた状況など定性的な理解をすることも可能だとした。史実かは不明だが、この文書が秀吉の心理を理解するものとして軽んじることはできないと述べている。
提案した箇所以外の細かい変更点として、エハルト氏の定性的理解に関する記述を「奴隷のおかれた状況など」と広げました。彼が述べる定性的理解とは奴隷の状況に対してだけでなく、引用された九州御動座記の記述全体の理解の方針だと思われますので。また、「秀吉の心理に影響を与えた」という表現を「秀吉の心理を理解するもの」に修正しました。九州御動座記の該当箇所の記述はバテレン追放令発布後であり、元の表現では時系列的に不自然になるため、論文の表現に倣った記述にしました。

--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月11日 (日) 12:30 (UTC)[返信]

杜の街さんが記事の編集をされているのを拝見しましたが、こちらからの提案や質問に対するお返事がないようですので、杜の街さんの編集を基にしつつ、気になる点を修正させていただきました。
まず、提案では除かれていた牛馬食に関する記述は私も残したいと考えていたので、今回の編集で残されたのはありがたいです。しかし、注釈部分を含めると3、4箇所も記述するのは冗長に感じられたため、まとめておきました。また、論文の記述に関する細かいニュアンスについて指摘した部分に関しては、ほぼ論文の表現に沿った記述に変更しました。これ以上解釈で議論を重ねるのは馬鹿らしいですし、論文の記述に従うのが一番でしょう。
続いて、『「九州御動座記」については他にも高麗王が「今迄対馬の屋形ニしたカハれ候間云々」といった認識の誤りが指摘されており、記述の正確性よりも秀吉の下す意思決定への影響という視点から理解することができる。』という追加された記述についてですが、敢えてそのまま残してはいますが、九州御動座記の資料としての信頼性を問う例としては適切ではないと考えます。朝鮮が対馬に従属しているという記述自体は全くのデタラメはあるのですが、その認識九州御動座記の著者による特異なものではなく、当時の日本側からすれば一般的なものだったためです。例えば、ルイス・フロイスも同様の記述をしており、より具体的に「米一万俵を毎年対馬の国主に貢物として納めていた」と記録しています。これらの事実を示した論文もありますね[1]。情報を歪めた人物が誰かについては、朝鮮王朝から毎年米100石を貢物としてではなく下賜されていたとある人物がおりまして、その人物が欺瞞外交を繰り返し行った実例を鑑みれば分かりそうなものですよね。もしこの文章から信頼性を問われるなら彼でしょう。
いずれにせよ、この記述は決して九州御動座記の著者による創作などではなく、秀吉の近くにいた彼自身が得られた情報を率直に記していることが分かります。そのため、杜の街さんが提示した論文の著者も、秀吉の心境を理解するための資料としてこれを用いており、信用できない資料としては扱っていません。伝聞を含む資料である以上、他の資料と照らし合わせる必要はありますが、これは九州御動座記に限ったことではありません。
結論として、私は追加された記述の削除を提案します。残す場合は、上記の背景を出典とともに追加する必要があるでしょう。ただし、バテレン追放令とは無関係であり、文章を追加しても冗長であり結論も当たり前で大した意味もないものになるため、個人的には削除が望ましいと考えます。--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月27日 (火) 13:34 (UTC)[返信]
お疲れ様です。相変わらず長文なので、全部を読んで細かく長文で返事をするのはつらいですし、お互いのためにそうしないことにします。それで最近2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4さんがなされた投稿には三点の問題があるとは思います。
  • 出典にある「文書の正確性を疑問視させる問題がある」を言い直した「基本的な事実関係に問題がある」(there are issues that may be raised to question the text’s accuracy.)という箇所が除去されている
出典に記述された問題がある(there are issues)との意味がある表現が文章から一切排除されてなくなっています。[注 1]エハルトが一連の文章で不確定でない表現を唯一使っている部分を削除するのは改悪だと思いますね。「問題がある」とそのまま書かないのは良いとしても、文書の正確性に難点がある出典のポイントとなる箇所を削除するのは不可解ですね。
  • fantastic(The chronicle sounds somewhat fantastic when describing the eating habits of the Portuguese.)という表現を「空想的に思われる記述である」との直訳にし、「実際に目撃したものを著述したとは考えられていない」の元文章を削除
皮肉の混じったfantasticの和訳を空想的としておられますが、歴史学の文脈で言い直すなら直接の目撃証言ではない空想ということになります。文献上の正確性に疑念を呈しており、空想的ということは目撃証言がないと考えるのは許容範囲ですし、あえて言葉を濁したもので上書き削除する必要はなく文章の改悪になっていると思います(Wikipedia:言葉を濁さない[注 2]
出典は自分の言葉でまとめないと著作権に違反することもあるので、直訳ではなく意訳が望ましいです。一般論として出典はコピーせず、自分の言葉でまとめるべきで、直訳ではないとか出典にない文章であるといった批判や、ほぼ丸写しでないものを削除するといった編集姿勢はいささか馬鹿げていると思いますし、危険な考え方だと思います[注 3]
以上の理由により改悪と見られる編集箇所は訂正したいと考えています[注 4]。すでに議論は出尽くした感はありますけど、もしまだ何かあるなら返信については余裕を持っておこないたいので、数週間かかるかもしれません。
  1. ^ WP:PRESERVEにあるように文章を削除する際は慎重になってください
  2. ^ WP:PRESERVEという視点もあり、自分が正義と考えて即行動するのでなく、元となる文章を安易に削除する代わりに、常により穏便な方法で解決する道を探ることもできます。
  3. ^ 出典のコピーが正義になると、あらゆる出典が誤記、誤引用との批判を受けることになりますね。Wikipedia:著作権侵害を避けるための注意点にある通り、自分の言葉で書く必要があり、出典を最初に提示された方の文章で書かれたもののほうが標準とはなりますし、しっかりとした出典であれば慎重に判断する必要があります(WP:PRESERVE)。
  4. ^ 単純に差し戻しても良いかもしれません

脚注

  1. ^ 米谷 均 (2005). 朝鮮侵略前夜の日本情報 (PDF) (Thesis). 日韓文化交流基金. p. 201.

--杜の街会話2024年8月28日 (水) 00:49 (UTC)[返信]

返信ありがとうございます。改悪とはまたずいぶんな表現ですね。
「実質的に意味している内容、事実関係、情報と共通な内容」ではない意訳だったので修正しただけですよ。
「問題がある」という表現はただ単に記述の前段階で使われていたから使わなかっただけですね。使いたければ構いません。
それよりもこちらが問題としてるのは次の2点です。先に指摘していた内容でもあります。
  • 基本的な事実関係に問題がある」という表現は過度に強く、エハルト氏の論文のニュアンスとも異なります。その表現はもっと根本的な問題があった場合に用いるべきでしょう。ポルトガル人が牛を食べていたこと、必然的に屠殺解体をしたであろうこと、手づかみで料理を食べていたこと自体は歴史的事実です。それを仏教徒の偏見の目で記しただけですね。
  • 「秀吉の心理に与えた影響」という記述は因果関係が逆です。九州御動座記の該当部分はバテレン追放令を受けて書かれたもので、秀吉影響を受けた文章ではなく、秀吉影響を受けた文章です。
あと、「今迄対馬の屋形ニしたカハれ候間云々」といった関連については特に言及がなかったので背景を追加することで対応させていただきます。
wikipediaの編集方針を殊更に長々と指摘してきますが、ご自身の編集もまた見返してはいかがでしょうか?
私から見ればあなた自身が指摘した内容を無視しているかのような編集が見受けられますが。
合意に関してはむしろ早く終わらせた方がお互いのためかと思いますね。正直、長期間続けるのは馬鹿らしいです。--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月28日 (水) 09:29 (UTC)[返信]
「朝鮮侵略前夜の日本情報」を出典とする文章を削除されていますが、こちらは日韓歴史共同研究という国家事業において日本側の代表者の1人である米谷均氏が国際会議の場で発表した論文です。こちらは十分に信頼性を担保された論文と考えられますが。事実、wikipediaにおける他の記事に記された出典を元にしています。先程も述べたようにあまり長期間は続けたくないので、早めに返答を頂けると嬉しいですね。--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月28日 (水) 09:57 (UTC)[返信]
返信
おつかれ様です。早めの回答をお望みのようなので、結論から言いますね。エハルト論文の件については現バージョンで解決したという理解です(資料が有効かは現時点で不明な「朝鮮侵略前夜の日本情報」については別の段落なので、エハルト論文を出典とした内容については、2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4さんが最後に投稿したバージョンと同じはずです)。本文については現在のバージョン以降は変更を加えないようにし、注釈などで対応するようにしましょう[注 1][注 2]

脚注

  1. ^ 何にせよ出典部分の箇所で「文書の正確性に問題がある」に最初の頃反発なされていたため、代替品として「基本的事実に問題」に言い回しを変更しましたが、「文書の正確性に問題」が「there are issues that may be raised to question the text’s accuracy.」の通り存在するなら良いです。それ以外の箇所(定量と定性の部分、文書の重要性の部分)は話の流れで適当に付け加えられたものですしね。
  2. ^ 読んでて気になったのは、一次資料について誰が(大村由己?)、文書内の該当の箇所をいつ実際に書き(遠征の最中か事後なのか)、主体となる人物(この場合は秀吉)が執筆に口頭でフィードバックしたのか(関与説)、発布の事後に読んでいたか(事後説)、全く読んでないか(無影響説)、発布前(事前)にかきかけの草稿を読んでいたのか(事前説)等の、ファクトに関わる部分については二次資料にかかれた内容を信頼するしかないので、そこを編集者が一次資料から個人の知見で断定してしまうと、独自研究になるとは思います。
    史実かは不明だが、この文書が秀吉がバテレン追放令を発布するに至った認識を理解するものとして軽んじることはできないと述べている — 2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4さんの編集
    バテレン追放令を発布するに至った認識の理解するもの」という端的な表現にすると事後と言われれば事後説と読めなくはないものの、事前説に読むことも可能だとは思います。どっちにも読めそうなので、これはこれで良いかなとは思います。
    執筆したとされる大村由己は秀吉の右筆であり、彼にきわめて近しい人物である — 2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4さんの編集
    (この「九州御動座記」の著者は、秀吉の島津氏征討の本体に従軍した「祐筆の一人」と見なされているが不明である。また書状形式ではあるが、宛先や日付も不確かであるため、当該部分のみ重引した。)」 — 福井幸男、桃山学院大学、博士論文、2014、p. 65、史料3-36
    大村由己かはエハルト論文に書かれてないと思うので、出典範囲では大村由己の名を消したほうが良いとは思います。
    That was, ultimately, the way Hideyoshi understood the situation, and his understanding is fundamental when considering legislative actions taken against human trafficking.
    この文章に続く347ページを見ると、(バテレン追放令や人返令、加藤清正や小西行長、立花宗茂、毛利秀包への書状などの)人身売買に関する意思決定を下すときに、「九州御動座記」に書かれた内容の理解が重要だったと書かれているだけで、事前説や事後説、もしくは関与説の解釈もしないように書かれているとは思います。

--杜の街会話2024年8月30日 (金) 09:11 (UTC)[返信]

お疲れ様です。エハルト氏の論文の件については現バージョンを基本としつつ、大村由己に関する記述だけ変更することで同意します。
他に付け足されることがなければこれで終わりで良いでしょう。--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月30日 (金) 11:38 (UTC)[返信]

日韓歴史共同研究がWP:RSに適合するかについて

[編集]

こちらの差分で問題がありそうな投稿があったので対応しましたが、この方はやや強めの主張をなされてるので、新しい話題を作りたいと思います。時短のため簡略して背景を解説します。

  • 問題発生前の記述としては福井幸男さんの博士論文[1]の主張である九州御動座記に誤認があるとの主張を記載していましたが、それを米谷均さんの論文[2]によって反論し、九州御動座記に資料の正確性に問題があるとの文を消して、九州御動座記が重要であるということを強調するように上書きされていました[注 1][注 2]

次にこの方の米谷均さんの論文に関しての主張となります。

朝鮮侵略前夜の日本情報」を出典とする文章を削除されていますが、こちらは日韓歴史共同研究という国家事業において日本側の代表者の1人である米谷均氏が国際会議の場で発表した論文です。こちらは十分に信頼性を担保された論文と考えられますが。事実、wikipediaにおける他の記事に記された出典を元にしています。先程も述べたようにあまり長期間は続けたくないので、早めに返答を頂けると嬉しいですね。--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月28日 (水) 09:57 (UTC) — 2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4さんの主張

この主張だけを見る限りではWP:RS歴史カテゴリーのガイドラインに適合はしないですね。とはいってもこれで議論を閉めるわけにもいかないので調べてみました。私が調べた限りでは、日韓歴史共同研究の報告書に記載された内容は査読なしの通常論文が5点、査読ありが2点掲載されています。[注 3]

国際会議ではあるんでしょうけど、査読による採択はケースバイケースでしか行われず、あっても追試によってrevisionが発生することはなさそうです[注 4]結論として特に査読ありと記載がない限りは紀要論文と同じカテゴリーで良いと思います。私の意見では出典が有効と認められるためには、2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4さんが調査なされて、該当論文が査読論文であるとの記載を提示することが条件です[注 5][注 6]

  1. ^ 史料批判によって史料の信頼性、正確性に疑問が生じることと重要性が高いということは矛盾はしないと思いますが、ともかくそれが今の問題のようです。
  2. ^ 2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4さんは以前に無効な出典で、有効な出典つきの情報を削除や白紙化に近い形で内容を変えるなどの、攻撃的な変更を行ってますね?バテレン追放令のページの1-2割の内容は出典などの問題を抱えてると思っていますが、通常の編集者は多少の問題を見つけても他人の投稿は極力変えず、既存出典と混同されないように別の段落に追記するとか、注釈とかタグで対応したり、やむを得ないときだけ時間をかけて議論してるのが実情なわけで、通知なく出典つきの情報に対してアグレッシブかつ無効な出典(非専門家の論文、紀要論文など、または本人さえも有効な論文なのか理解できていない出典)で対抗していくスタイルを用い続けるなら、トラブルが絶えないと思います。
  3. ^
    朝鮮国王使と室町幕府、日韓歴史共同研究委員会編『日韓歴史共同研究報告書 第2分科(中近世)』日韓文化交流基金 pp.157-185 2005年 [査読無し][通常論文][3]
    (六反田 豊のresearchmapより)偽使 日韓歴史共同研究報告書第2分科篇(日韓歴史共同研究委員会) 9-26 2005年 朝鮮通信使 日韓歴史共同研究報告書第2分科篇(日韓歴史共同研究委員会) 61-104 2005年 文禄・慶長の役(壬辰倭乱) 日韓歴史共同研究報告書第2分科篇(日韓歴史共同研究委員会) 27-59 2005年[4]
    総力戦体制期の朝鮮半島に対する一考察:人的動員を中心にして、木村 幹 2005年10月, 日韓歴史共同研究委員会編『日韓歴史共同研究報告書』(日韓歴史共同研究委員会), Vol 3, No. 2, pp. 321-344, 日本語[査読有り] 研究論文(学術雑誌)[5]
  4. ^ この種の日韓の会議での議論は、対等な立場の間の議論ということでしょうから、全論文の採択をあらかじめ行うという提案は難しいのではないでしょうか。
  5. ^ それでも査読のクオリティーに疑問符がつくので、別の段落におくとか注釈に移す対応がなされる必要があるとは思います
  6. ^ 段落を新しくして情報を追加するとか、節を追加して共存するとか、出典の重みが不当と感じられるぐらい歴史学者の査読論文が集積されてきたらノートで議論をするぐらいの編集姿勢が望ましいです(WP:PRESERVE)。他の方の出典つきの投稿を事前の調整なしで、自分の正義の心のままに変更し改竄するやり方だと摩擦が起きやすくなってるとは思います。対立的な行動パターンを変えるだけで楽しく編集できると思うんですけどね。

脚注

  1. ^ 千利休切腹の原因およびその後の千利休の死をめぐる言説に関する研究”. 2024年8月28日閲覧。福井幸男、桃山学院大学、博士論文、2014、p. 73、「誤認が何に由来しているのか不明である」
  2. ^ 米谷均「朝鮮侵略前夜の日本情報」” (PDF). 公益財団法人 日韓文化交流基金. 2024年8月28日閲覧。
  3. ^ https://researchers.general.hokudai.ac.jp/profile/ja.f5c7c0e185cc1d3f520e17560c007669.html?mode=pc
  4. ^ https://researchmap.jp/yutaka_rokutanda/?lang=japanese
  5. ^ https://researchmap.jp/kankimura/published_papers?limit=100

--杜の街会話2024年8月29日 (木) 14:16 (UTC)[返信]

早めの返答ありがとうございます。このような議論ははやく終わらせたいものですね。
「事前の調整なしで、自分の正義の心のままに変更し改竄するやり方だと摩擦が起きやすくなってる」というのはまさに仰るとおりですね。次はしっかりと合意が完全に終了してから編集してくださいね?
他にもいろいろ言いたいことはありますが、不毛ですのでやめておきますね。
まず、話題のタイトルが「日韓歴史共同研究のWP:RS」とありますが、私が主題としたいのは「今迄対馬の屋形ニしたカハれ候間云々」といった記述関連の方ですね。日韓歴史共同研究における米谷氏の論文の価値はその一環でしかありません。
本題ですが、「問題発生前の記述としては福井幸男氏の博士論文の主張である九州御動座記に誤認があるとの主張を記載していましたが、それを米谷均氏の論文によって反論し」とありますが、この理解が間違っています。福井氏と米谷氏の論文は対立しておらず、どちらも朝鮮出兵における秀吉の認識をずっと論じており、九州御動座記を秀吉の誤認を示す重要な資料として扱っています。米谷氏の論文は福井氏が不明とした部分の背景を補足しているだけです。対立する論文であるのならば福井氏の論文が優先されるのは分かりますが、その補足して用いるなら出典として十分と考えますが。他の記事でも用いられてますしね。とはいえ、どうしても使われるべきでないと主張するなら、それはそれで構いません。
そもそも根本的な問題として、福井氏が論文にて九州御動座記の誤認を主張しているという理解が誤りです。福井氏は(そして米谷氏も)九州御動座記の該当箇所の記述を秀吉の認識であることを自明のものとして扱っています。著者に由来する誤認とは扱ってません。なぜなら、九州御動座記の該当箇所は「秀吉から朝鮮王朝との外交についてこのように仰せつかった」ということをまとめた節なんですね。つまり秀吉の認識以外の何ものでもないわけです。そしてその記述は実際の秀吉の認識やそれに基づく外交行動と一致しており、著者が見聞きした事実を正確に記していることが分かります。米谷氏の論文はそれを補強するものであり、採用しないとて変わりません。九州御動座記における該当の記述から九州御動座記そのものの信頼性を疑い、まるで秀吉が九州御動座記の影響を受けて誤認したかのような現在のwikipedia記事の記述の根拠として用いているのはあなただけで、それは独自研究にあたるでしょう。少なくとも、福井氏の論文ではそのようには用いていません。ですので、九州御動座記の信頼性を問う根拠として用いるのは不適切です。
結論として、以前に述べたようにバテレン追放令と関係ない内容ですし、記事における該当の記述を削除することを提案します。どうしても残したければ、九州御動座記は秀吉が朝鮮王朝と対馬の関係を誤認している事実やそれに基づいた外交行動を指示した事実を秀吉に近しい者の立場から正確に記した文書であることを反映させた記述にするべきですね。あとは、九州御動座記における事実関係のみを信じるのではなく、他の資料と照らし合わせて事実関係を認識すべきとでも付け加えますか?ただこれは、九州御動座記に限ったことではなく、すべての歴史資料に言えることですけど。
長文がお嫌のようですので、今後はお互いに記述の改善案を提示し合い、そのポイントだけを説明するに留めるのはどうでしょうか?削除であるならば即終了しますが。

--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月29日 (木) 18:34 (UTC)[返信]

返信
お疲れ様です。ちなみにタイトルは急いで書いたので単純なミスです[注 1]。長いので軽く目を通しただけですが、米谷さんの論文については査読との記載が見つからないという理解でよろしいのでしょうか?[注 2]文書の正確性に関する問題については、史料の中に誤認があるなら史料批判がなされますし、文書の正確性に問題があるという表現は無難なものだと思います[注 3]。史料批判がなされているということは文書の正確性に問題があるということですから、これについて言葉を濁すべきではないというのが私の立場です[注 4]
  1. ^ 議論をしたいと書かれていますが、ノートはWikipediaの方針やガイドラインを確認していく合意形成の場なので、コミュニティを疲弊される投稿者と見なされると思いますけど。
  2. ^ 査読があったとしても疑念つきなので、WP:NPOVに応じて段落を分離させるべきですけど
  3. ^ どうしても嫌なら(論文によって)「文書への史料批判がなされている」とダイレクトに書いても良いですね
  4. ^ あとこの件とは関係ないですが、島津征討の際、秀吉の軍に参加した「九州御動座記」の執筆者は特定されていないらしいのですが[1]、エハルト論文でも明確には書かれてないので、執筆者の情報を断定して文章を構成してしまうと独自研究になってしまうとは思います。

脚注

  1. ^ 千利休切腹の原因およびその後の千利休の死をめぐる言説に関する研究”. 2024年8月28日閲覧。福井幸男、桃山学院大学、博士論文、2014、p. 65、史料3-36(この「九州御動座記」の著者は、秀吉の島津氏征討の本体に従軍した「祐筆の一人」と見なされているが不明である。また書状形式ではあるが、宛先や日付も不確かであるため、当該部分のみ重引した。)

--杜の街会話2024年8月29日 (木) 23:50 (UTC)[返信]

お疲れ様です。米谷氏の論文についてはそのような扱いで構いません。出典としてあってもなくても根本的には変わらないですし、一々長引かせたくありませんから。議論したいのではなく、このような議論は無駄だからさっさと合意形成しましょうと言っているのですね。どうやらあなたは私の指摘や提示した論文もろくに読んでないでしょうし、ご自身が提示した論文すら都合の良い記述のみに注目して、どのような意図でその表現を使っているかも読んでないと見受けられますから。ただし早く終わらせたくとも、編集自体は合意形成が完了してからにしましょうね。
ともかく、あなたの主張は九州御動座記の問題点として該当の記述を残したい、ということでよろしいですね?
私としては、九州御動座記における該当の記述は秀吉の誤認を忠実に記録したもので、著者独自の誤認によるものではないから資料的価値は損なわれないし、出典の論文も資料的価値は論じてない。正確性の問題もすべての歴史資料に共通するありふれたことだから、他の歴史資料と照らし合わせれば問題ない程度のものだし、特に九州御動座記だけ特筆する必要はない。どうしても残したいのなら、少なくとも現状の問題点を誤解させるような記述は修正すべき、ということです。その根拠は先に述べたとおりです。
どうやら削除はしたくないようなので、以下のような文章にすることを提案します。問題点があれば、この文章を叩き台に修正したものを挙げてください。その方が建設的でしょう。
「九州御動座記」については他にも高麗王が「今迄対馬の屋形ニしたカハれ候間云々」という秀吉の誤認に基づく表現がそのまま記述されている。秀吉に近しいものから見た秀吉の認識を伝える貴重な資料として見られているが、事実関係についてはそのまま認識するのではなく他の歴史資料と照らし合わせる必要がある。
なお、九州御動座記の著者を大村由己とすることに関しては元々の記述に倣っているだけなので、修正したいのであれば構わないと思います。--2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 2024年8月30日 (金) 06:29 (UTC)[返信]
返信
懸案だった米谷さんの該当論文はWP:RSにマッチしないという確認について了解しました。WP:RSに適合しない情報を信頼できる情報源の情報に混入されたのは今回で二度目なので、くれぐれも慎重に投稿ください[注 1]。次にご提案されてる修正案ですね。
「九州御動座記」については他にも高麗王が「今迄対馬の屋形ニしたカハれ候間云々」という秀吉の誤認に基づく表現がそのまま記述されている。秀吉に近しいものから見た秀吉の認識を伝える貴重な資料として見られているが、事実関係についてはそのまま認識するのではなく他の歴史資料と照らし合わせる必要がある。 — 2400:4152:75E1:8C10:7FA0:D0D6:3ED5:4CC4 さんの提案
黒字の部分は出典には全くないので独自研究に分類されますねWikipedia:独自研究は載せない[注 2]。SNSやブログで書かれる限りにおいては問題ない内容だとは思いますけどね。それで内容としては、以下にしたいと思います[注 3]
「九州御動座記」については他にも高麗王が「今迄対馬の屋形ニしたカハれ候間云々」という秀吉の誤認に基づく表現がそのまま記述されているとの史料批判が行われている。 — 私はこうします
私はこれ以上の議論はしたくないので、出典部分の箇所の修正は、史料批判の言葉を追加したのを除くと、そのまま使っています。以前の文はエハルト論文との関連を意識してコメントを追記しましたが、そうした緩い文章を残すと自称専門家の意見が掲載可能と勘違いする人も出てくると思うので、余分な解説を削除して出典だけに基づくようにしました(Wikipedia:独自研究は載せない)。この件はこれでクローズします。「九州御動座記」はネット活動家、保守系言論人の方の聖典と化してしまい、センシティブなトピックとなりつつあるので、史料批判という言葉さえ憚るような時代にならないといいですね。
  1. ^ 大村由己の件については、Wikipediaの内容をソースにはできないルールになってるので、Wikipediaの記事にある文章を利用しただけと言ってしまうと出典外の箇所のWikipedia記事を根拠としているとみなす人もいると思います。一回目なら知らなかったですみますけど、二回目以降は厳しく見られるので慎重に投稿してください。
  2. ^ 参考までに史料批判についての百科事典の記事からです。
    歴史の研究において史料の価値を吟味することを史料批判という。 ここに批判というのは、道徳的意味で史料の善悪を判定するという意味ではなく、あくまでその史料が真実を伝えているかどうかの客観的測定の意味である。 史料は歴史の材料であるが、ある史料がそのまま客観的史実を伝えているとは限らない。 — 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
    内的批判は、書かれた史料について、その内容が信頼できるものであるかどうかを調べる仕事である。作者が虚偽を書いているとすれば、意識的か無意識的か、その心理状態・利害関係などを推理するといった歴史の観察眼が要求される。史料批判の具体的方法は、史料の多種多様なことに応じて多種多様である。
    福井さんの出典では内的批判をしていますが、虚偽の理由は不明と書いていますね。
  3. ^ 該当の信頼できる情報源の出典は私の投稿なのに、無効な出典を混入されたあげく、完全な独自研究を入れるようと提案されたり、本来は出典者側がやるべき出典のチェックをやらせられるなどの本来不必要な手間をかけさせられて、正直困惑してますけど。

--杜の街会話2024年8月31日 (土) 11:32 (UTC)[返信]

論文で史料批判されているとは思えませんが、とりあえずその記述で良いとしましょう。
正しく史料批判されている史料がちょうど九州御動座記のすぐ後に引用されているのでそれと比較しては?
『「九州御動座記」はネット活動家、保守系言論人の方の聖典』
編集傾向からなんとなくあなたはそれが気に入らないんだろうな、という気はしていましたね。
だから、ルイス・フロイスの『日本史』や『信長公記』などと比較しても、九州御動座記の資料価値は劣らないにもかかわらず、その正確性の問題に執着されていたのでしょうね。
私もやっとエハルト氏関連で決着が着きそうと思ったところに、また明らかにおかしな原文や論文に対する解釈の記述が追加されて困惑しましたよ。
どれほど信頼性の高い出典を用いようとも、個人的な感情で情報を歪めるのは非常に危険な行為です。もう少し客観的な視点で論文や史料を見ることをお勧めします。
出典の扱いや編集方針についてもこれまでのあなたとのやりとりや編集を鑑みればダブルスタンダードなところが見受けられましたよ。
大村由己の件とか元々注釈に追加したのはあなたなのに何故か私が悪いみたいに指摘していますし。
余談ですが、ネット上でイエズス会が奴隷貿易を積極的に推進した根拠として九州御動座記がよく引用されることがあります。しかし、それが誤りであることを示すのは、たとえ九州御動座記の記述を認めたとしても十分可能です。無理に九州御動座記の資料価値を貶めるよりも、そちらの主張に注力した方が建設的だと思いますよ。
ともあれ、長期間お疲れ様でした。--2400:4152:75E1:8C10:281E:9587:5DC:F352 2024年8月31日 (土) 12:03 (UTC)[返信]