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デーブ・マクナリー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デーヴ・マクナリーから転送)
デーブ・マクナリー
Dave McNally
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 モンタナ州ビリングス
生年月日 1942年10月31日
没年月日 (2002-12-01) 2002年12月1日(60歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
190 lb =約86.2 kg
選手情報
投球・打席 左投右打
ポジション 投手
プロ入り 1960年 アマチュアFA
初出場 1962年9月26日
最終出場 1975年6月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
デーブ・マクナリーの写真(1966年)
デーブ・マクナリー(1966年)

デビッド・アーサー・マクナリー(David Arthur McNally, 1942年10月31日 - 2002年12月1日)は、アメリカ合衆国モンタナ州ビリングス出身のプロ野球選手投手)。

経歴

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1960年ボルチモア・オリオールズと契約。1962年9月26日のカンザスシティ・アスレティックスとのダブルヘッダー第1戦でメジャーデビューし、被安打2の完封で初勝利を飾る。1963年は6月から先発に定着し、7勝8敗・防御率4.58の成績。1964年は途中6連敗を喫するなど9勝11敗・防御率3.67だった。1965年は11勝6敗・防御率2.85を記録。1966年は13勝6敗・防御率3.17、自身初の200イニングとなる213.0イニングを記録し、チームのボルティモア移転後初のリーグ優勝に貢献。ロサンゼルス・ドジャースとのワールドシリーズでは第1戦に先発、ドン・ドライスデールと投げ合い3回途中で降板するが、モー・ドラボウスキーの好リリーフもあってチームは勝利。第2・第3戦と連勝し、王手をかけて迎えた第4戦で再びドライスデールと投げ合い、フランク・ロビンソンの本塁打による1点を守り抜いて4安打完封勝利を挙げ、4連勝で球団史上初のワールドチャンピオンを成し遂げた。1967年は開幕から不調が続き、故障もあって7勝に留まり、チームもリーグ6位に沈んだ。

1968年は7月11日から9月8日にかけて12連勝を記録するなど、後半戦で14勝2敗・防御率1.72をマークし、シーズン通算で自身初の20勝でリーグ2位の22勝(10敗)、リーグ3位の防御率1.95、キャリアハイの202奪三振、リーグトップのWHIP0.84を記録し、MVPの投票で5位に入った。WHIPは左腕投手としては歴代最高記録である。東西2地区制となった1969年は開幕から15連勝を記録し、自身初のオールスターゲームに選出される。終盤に負けが込んだが、20勝7敗・防御率3.22を記録し、チームは2位に19ゲームの大差を付けて地区優勝。ミネソタ・ツインズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、第2戦で延長11回を11奪三振で完封し、シリーズMVPに選出された。ニューヨーク・メッツとのワールドシリーズでは第2戦に先発、ジェリー・クーズマンと投手戦を演じたが、9回に決勝点を奪われ敗戦投手。1勝3敗と王手をかけられて迎えた第5戦にも先発し、3回に自ら先制の2点本塁打を放つが7回3失点で降板、その後決勝点を奪われて3-5で敗れ、チームは1勝4敗で敗退した。

1970年は前半戦は防御率4.32と今ひとつだったが後半戦で9連勝を記録し、24勝9敗・防御率3.22でチームメイトのマイク・クェイヤージム・ペリーと並んで最多勝のタイトルを獲得し、チームも2年連続の地区優勝。ツインズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発し、3失点完投勝利。シンシナティ・レッズとのワールドシリーズでは第3戦に先発して3失点完投勝利を挙げ、6回に投手としてシリーズ史上唯一の満塁本塁打を放つなど活躍し、チームは4年ぶりのワールドチャンピオンとなった。サイ・ヤング賞の投票では2位。1971年は前半戦で13勝を挙げるが故障で約1ヶ月戦線離脱。それでも故障を挟んで13連勝を記録するなど21勝5敗・防御率2.89の成績で、クェイヤー、ジム・パーマーパット・ドブソンと共に20勝カルテットを形成し、チームは3年連続でリーグ優勝。ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズでは第1戦に先発し、自責点0で完投勝利。第5戦では5回途中4失点で敗戦投手となり、王手をかけられる。第6戦では延長10回にリリーフで登板してピンチを凌ぎ、チームのサヨナラ勝利を呼び込む。第7戦でも9回にリリーフで登板するがチームは1-2で敗れ、3勝4敗で敗退した。1972年は開幕から5試合で4完封を記録するなど前半戦で10勝を挙げ、2年ぶりにオールスターゲームに選出される。しかし後半戦で3勝10敗に留まり、防御率2.95ながら13勝17敗と負け越した。1973年は17勝を挙げてチームの2年ぶりの地区優勝に貢献。アスレティックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発するが、4本塁打を浴びて敗戦投手となり、チームも2勝3敗で敗退。1974年にも16勝を挙げ、チームは2年連続地区優勝。再びアスレティックスとの対戦となったリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発して敗戦投手となり、チームは1勝3敗で敗退した。12月4日ケン・シングルトンらとの交換トレードで、2選手と共にモントリオール・エクスポズに移籍。しかし球団の契約に不満でサインを拒否し、契約なしのままプレイ。これが後にフリーエージェント制度が導入されるきっかけとなった。同年は開幕から3連勝したがその後6連敗を喫し、6月8日を最後に離脱。32歳で引退した。 投手としての主な球種はカーブ、スライダー、パームボール(チェンジアップ)。 (米書 「guide to pitchers」より)


2002年肺がんのため60歳で死去。

詳細情報

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年度別投手成績

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W
H
I
P
1962 BAL 1 1 1 1 0 1 0 0 -- 1.000 31 9.0 2 0 3 0 0 4 0 0 0 0 0.00 0.56
1963 29 20 2 0 0 7 8 1 -- .467 553 125.2 133 9 55 4 5 78 7 1 67 64 4.58 1.50
1964 30 23 5 3 0 9 11 0 -- .450 669 159.1 157 15 51 1 9 88 3 0 72 65 3.67 1.31
1965 35 29 6 2 0 11 6 0 -- .647 824 198.2 163 15 73 6 6 116 3 0 69 63 2.85 1.19
1966 34 33 5 1 2 13 6 0 -- .684 905 213.0 212 22 64 1 4 158 9 1 91 75 3.17 1.30
1967 24 22 3 1 0 7 7 0 -- .500 506 119.0 134 13 39 1 2 70 2 0 65 60 4.54 1.45
1968 35 35 18 5 2 22 10 0 -- .688 1038 273.0 175 24 55 1 10 202 5 1 67 59 1.95 0.84
1969 41 40 11 4 2 20 7 0 -- .741 1093 268.2 232 21 84 6 5 166 4 1 103 96 3.22 1.18
1970 40 40 16 1 3 24 9 0 -- .727 1218 296.0 277 29 78 3 7 185 8 0 114 106 3.22 1.20
1971 30 30 11 1 1 21 5 0 -- .808 899 224.1 188 24 58 2 5 91 5 0 75 72 2.89 1.10
1972 36 36 12 6 2 13 17 0 -- .433 979 241.0 220 15 68 15 2 120 1 0 85 79 2.95 1.20
1973 38 38 17 4 5 17 17 0 -- .500 1083 266.0 247 16 81 6 5 87 5 1 100 95 3.21 1.23
1974 39 37 13 4 1 16 10 1 -- .615 1073 259.0 260 19 81 6 8 111 4 5 112 103 3.58 1.32
1975 MON 12 12 0 0 0 3 6 0 -- .333 358 77.1 88 8 36 4 4 36 3 1 50 45 5.24 1.60
通算:14年 424 396 120 33 18 184 119 2 -- .607 11229 2730.0 2488 230 826 56 72 1512 59 11 1070 982 3.24 1.21
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

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  • 最多勝利 1回:1970年

記録 

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関連項目

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外部リンク

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