ティト・サンタナ
ティト・サンタナ | |
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1989年 | |
プロフィール | |
リングネーム |
ティト・サンタナ ディック・ブラッド リチャード・ブラッド |
本名 | メルセッド・ソリス |
ニックネーム | エル・マタドール |
身長 | 187cm |
体重 | 106kg(全盛時) |
誕生日 | 1953年5月10日(71歳) |
出身地 |
アメリカ合衆国 テキサス州 ヒダルゴ郡ミッション |
スポーツ歴 | アメリカンフットボール |
トレーナー | ザ・ファンクス |
デビュー | 1977年 |
ティト・サンタナ(Tito Santana、本名:Merced Solis、1953年5月10日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州出身のメキシコ系アメリカ人。
元WWF世界タッグ王者、元WWFインターコンチネンタル・ヘビー級王者(それぞれ2回に渡って獲得)[1][2]。1980年代から1990年代前半にかけてWWFを主戦場に、スピーディーでクリーンなレスリングを身上とした甘いマスクのベビーフェイスとして、女性ファンからの声援を集めた[3]。
来歴
[編集]ザ・ファンクス、ダスティ・ローデス、ボビー・ダンカン、ブルーザー・ブロディ、スタン・ハンセンらを輩出したウエスト・テキサス州立大学の出身[4]。大学時代はアメリカンフットボールで活躍、同期のチームメイトにはテッド・デビアスやタリー・ブランチャードがいた[4]。
卒業後はNFLのカンザスシティ・チーフスのトレーニング・キャンプに参加し、その後CFLのBCライオンズに入団するが[4]、1977年、大学の先輩であるファンクスのトレーニングを受けてプロレスラーとしてデビュー[3]。テキサス州アマリロ地区のNWAウエスタン・ステーツ・スポーツでキャリアを積み、1978年10月には全日本プロレスに初来日している(経緯は不明だが、リッキー・スティムボートの本名「ディック・ブラッド」の名義で来日した)[5][6]。
1979年下期、ティト・サンタナのリングネームでWWFに登場。10月22日にニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにて、イワン・プトスキーと組んでバリアント・ブラザーズ(ジョニー・バリアント&ジェリー・バリアント)を破りWWFタッグ王座を獲得した[1]。同王座は翌1980年4月12日にワイルド・サモアンズ(アファ・アノアイ&シカ・アノアイ)に奪取されるが、1980年代期待の新星として注目を浴びることとなった。
王座陥落直後、4月25日より開幕した新日本プロレスの第3回MSGシリーズに来日[7]。予選トーナメントで敗退して決勝リーグ進出は果たせなかったものの、そのフレッシュなファイトスタイルで高評価を獲得した(戦績は、トーナメント1回戦でハンセンに敗退。敗者復活戦では1回戦でジョニー・パワーズから反則勝ちを収めるも、2回戦でストロング小林に敗れた)[8]。シリーズ中はハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント、ボブ・バックランドらのパートナーとして時折メインイベントに出場し、アントニオ猪木ともタッグマッチで対戦した[9]。
1981年から1982年にかけてはAWAをサーキットして、ニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦[10][11]。スティーブ・オルソノスキー、レイ・スティーブンス、ビル・ロビンソンらをパートナーに、ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニスが保持していたAWA世界タッグ王座にも挑戦している[12]。同時期にWWFからAWA入りし、人気が急上昇していたハルク・ホーガンともタッグを組んで活躍した[13]。
1983年4月、WWFと再契約[14]。1984年2月11日にはドン・ムラコからWWFインターコンチネンタル・ヘビー級王座を奪取[2]。以降、アイアン・シーク、ポール・オーンドーフ、マスクド・スーパースター、アレックス・スミルノフ、タイガー・チャン・リー、デビッド・シュルツ、マイク・シャープ、ケン・パテラなどの挑戦を退けた[15]。同年9月24日にグレッグ・バレンタインに敗れて一旦王座を失うが、1985年7月6日に奪還[2]。ロディ・パイパー、カウボーイ・ボブ・オートン、ベンチュラ、ミッシング・リンク、ブルータス・ビーフケーキ、ザ・スポイラー、ニコライ・ボルコフ、テリー・ファンクらを相手に防衛を続け、1986年2月8日にランディ・サベージに王座を明け渡すまでIC王者として活躍した[16][17]。
その後もWWFに定着して、1987年にはリック・マーテルとの二枚目タッグチーム、ストライク・フォース(Strike Force)を結成。同年10月27日、ハート・ファウンデーション(ブレット・ハート&ジム・ナイドハート)を破りWWFタッグ王座への2度目の戴冠を果たす[1]。1988年3月27日のレッスルマニアIVでデモリッション(アックス&スマッシュ)に王座を奪われてからもコンビを継続させるが、翌1989年4月2日のレッスルマニアVでのブレーン・バスターズ(ブランチャード&アーン・アンダーソン)戦の同士討ちでマーテルがヒールターン。チームは自然消滅し、以降マーテルとの元パートナー同士の抗争を展開する[18]。同年10月14日のキング・オブ・ザ・リングでは決勝戦をマーテルと争い、優勝を飾った[19]。
1990年4月13日、東京ドームで行われた日米レスリングサミットに出場。10年振りの来日を果たし、ジミー・スヌーカと組んで渕正信&小橋健太から勝利を収めた[20]。1991年1月にはWWFと提携していたSWSにも参戦している[21]。同年からはメキシコの闘牛士をイメージしたギミック、エル・マタドール(El Matador)に変身。並行してWWFのスペイン語放送のカラー・コメンテーターも兼任した[18]。
1993年、10年間に渡って在籍したWWFを離れ、初期のECWに参戦。同年8月8日、WWF時代の宿敵ムラコからECW世界ヘビー級王座を奪取した[22]。その後もインディー団体を転戦して、1994年にはイリノイ州シカゴのAWFでオートンを破りAWFヘビー級王座の初代チャンピオンとなった。2000年1月10日にはWCWのマンデー・ナイトロに登場し、ジェフ・ジャレットと対戦している[23]。
2004年、WWE殿堂入り(インダクターはショーン・マイケルズ)[18]。以後、アイゼンハウアー・ミドル・スクールにてスペイン語の教員をフルタイムで務め[24]、時折インディー団体の試合にも出場している[18]。
2010年11月15日、"Old School edition" と銘打って行われたスペシャル版の『Raw』に出演、久々にWWEに登場した[25]。2012年12月7日にはニュージャージーのインディー団体PWS(プロレスリング・シンジケート)に出場、マンターとの「闘牛士vsミノタウロス」のレジェンド対決で勝利を収めた[26]。
得意技
[編集]獲得タイトル
[編集]- アメリカン・レスリング・フェデレーション
- AWFヘビー級王座:2回
脚注
[編集]- ^ a b c d “History of the WWE World Tag Team Championship”. WWE.com. 2020年1月12日閲覧。
- ^ a b c d “History of the WWE Intercontinental Championship”. WWE.com. 2020年1月12日閲覧。
- ^ a b 『THE WRESTLER BEST 1000』P216(1996年、日本スポーツ出版社)
- ^ a b c Tito Santana, Tom Caiazzo (2008). Tito Santana's Tales From the Ring. Sports Publishing LLC. ISBN 978-1-59670-325-4
- ^ 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P59(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ “AJPW 1978 Giant Series”. Puroresu.com. 2020年1月12日閲覧。
- ^ 『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P53(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ “NJPW 1980 The 3rd Madison Square Garden Series”. Puroresu.com. 2015年11月12日閲覧。
- ^ “The NJPW matches fought by Tito Santana in 1980”. Wrestlingdata.com. 2024年2月4日閲覧。
- ^ “The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1981”. Wrestling-Titles.com. 2014年11月21日閲覧。
- ^ “The Records of AWA World Heavyweight Championship Matches 1982”. Wrestling-Titles.com. 2014年11月21日閲覧。
- ^ “The AWA matches fought by Tito Santana in 1981”. Wrestlingdata.com. 2014年11月21日閲覧。
- ^ “The AWA matches fought by Tito Santana in 1982”. Wrestlingdata.com. 2014年11月21日閲覧。
- ^ “The WWE matches fought by Tito Santana in 1983”. Wrestlingdata.com. 2015年11月12日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1984”. The History of WWE. 2015年11月12日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1985”. The History of WWE. 2014年11月21日閲覧。
- ^ “WWE Yearly Results 1986”. The History of WWE. 2014年11月21日閲覧。
- ^ a b c d “Tito Santana”. Online World of Wrestling. 2015年11月12日閲覧。
- ^ “King of the Ring 1989”. Pro Wrestling History.com. 2010年4月21日閲覧。
- ^ “WWF/AJPW Wrestling Summit”. Cagematch.net. 2014年11月21日閲覧。
- ^ “The SWS matches fought by Tito Santana in 1991”. Wrestlingdata.com. 2014年11月21日閲覧。
- ^ a b “ECW World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年4月8日閲覧。
- ^ “WCW Monday NITRO #225”. Cagematch.net. 2015年11月12日閲覧。
- ^ “GENERATION B The Ram vs. Tito Santana”. New York Times (February 21, 2009). 2009年12月4日閲覧。
- ^ “Raw: WWE Legend roll-call on an "old school" edition of Raw”. PW-Core.com. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年11月12日閲覧。
- ^ “PWS Fight Mare Before Christmas”. Cagematch.net. 2022年5月16日閲覧。
- ^ “NWA Western States Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2014年11月21日閲覧。