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ゴージャス・ジョージ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ゴージャス・ジョージ
ゴージャス・ジョージの画像
1950年、夫人のベティと
プロフィール
リングネーム ゴージャス・ジョージ
ジョージ・ワグナー
本名 ジョージ・レイモンド・ワグナー
ニックネーム The Human Orchid
Toast of the Coast
Sensation of the Nation
身長 175cm
体重 95kg(全盛時)
誕生日 (1915-03-24) 1915年3月24日
死亡日 (1963-12-26) 1963年12月26日(48歳没)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ネブラスカ州の旗 ネブラスカ州
ボイド郡ビュート
デビュー 1932年
引退 1962年
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ゴージャス・ジョージGorgeous George)のリングネームで活躍したジョージ・ワグナーGeorge Raymond Wagner1915年3月24日 - 1963年12月26日)は、アメリカ合衆国プロレスラーネブラスカ州ボイド郡出身。

1940年代 - 1950年代のアメリカ、特に西海岸で凄まじい人気を誇り、初期のテレビ放送もあいまってヒールではあったが日本で例えれば力道山のようなスーパースターであった。

来歴

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テキサス州ヒューストンの貧しい家庭に育ち、1932年、10代でデビュー。身長175cmの小柄な前座選手として各地を回っていたが、妻や仲間のアドバイスで貴族ギミックの尊大なキャラクターに変身し、大ブレイクを果たした。トレードマークはスパンコールの付いた派手なロングガウンにブロンドの髪。マイクアピールも得意とした。

日本と同じくアメリカでもテレビ黎明期のキラーコンテンツはプロレス中継であり、わかりやすい悪役のジョージの試合には全米の人々が熱狂し、会場を毎回満員にした。もっとも、ニューヨークを中心とする東海岸ではジョージよりアントニオ・ロッカが一般的なスターであった。1950年代のプロレス・ブームの終焉と共にジョージの人気も翳りが指し、巨万の富も離婚で失い更にはアルコール使用障害に陥った。1962年11月7日、ロサンゼルスで行われたザ・デストロイヤーとの髪とマスクを賭けた試合で敗れて自慢の髪を坊主にされ、そのままリングを降りた。それからわずか一年後の1963年12月26日心臓発作により48歳で死去[1]

彼の死後、ジョージの弟や息子、甥を名乗る選手が各地に現れたが、もちろん誰一人として本物ではなく、本人のような名声を得ることも出来なかった。そのうちの一人が1969年にゴージャス・ジョージ・ジュニア[2]というリングネームで来日し、国際プロレスでコミカルなファイトを見せている(後にマネージャーに転身し、モンゴリアン・ストンパーなどを担当した)。

彼のスタイルはフレッド・ブラッシーバディ・ロジャースジェリー・グラハムエディ・グラハムジャッキー・ファーゴレイ・スティーブンスニック・ボックウィンクルパット・パターソンバディ・コルトなど多くの選手に強い影響を与え、さらに彼らを通してリック・フレアーなどに継承されている。モハメド・アリもジョージの大ファンであり、間接的ではあるがブラッシーなどからマイクパフォーマンスなどを学んだ[3]。テレビで見ていたジョージのプロレス的パフォーマンスをボクシングに持ち込もうと考えたとされる。また、ジェームス・ブラウンも彼のアクションを参考にしたパフォーマンスを行っていた。

2010年WWE殿堂に迎えられた。顕彰セレモニーには夫人のベティ・ワグナーが出席。インダクター(プレゼンター)は彼の最後の対戦相手であったディック "ザ・デストロイヤー" ベイヤーが担当した。

獲得タイトル

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アメリカン・レスリング・アソシエーション
  • AWA世界ヘビー級王座(ボストン版)
ミッドサウス・スポーツ
  • NWA南部ヘビー級王座(ジョージア版)
ガルフ・コースト・チャンピオンシップ・レスリング
  • NWAガルフ・コースト・ヘビー級王座
ワールド・レスリング・エンターテインメント
その他
  • 世界ヘビー級王座(ロサンゼルス版)
  • 世界ヘビー級王座(イリノイ版)
  • 太平洋岸ジュニアヘビー級王座
  • 太平洋岸ライトヘビー級王座
  • 太平洋岸ミドル級王座

参考文献

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入場

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ジョージの最大の見せ場でもある入場シーン。入場曲を使った最初の選手と言われる。

  • まず赤絨毯が用意される。『威風堂々』が流れ、ピンスポット照明を浴びながら執事と女性マネージャーに先導され登場。観客を挑発しながらゆっくりと進む。
  • 執事が香水(銘柄はシャネルの『10番』という架空のもの)でリングを消毒するまで、リングサイドでシューズを拭きながらペアピンや花束を観客席に投げ込む。
  • レフェリーや相手を見下しながら紹介を受け、試合が始まれば反則一辺倒。

『威風堂々』は、後にランディ・サベージも入場曲として愛用した。なお、ランディ・サベージは1990年代末にWCWにて、ガールフレンドのステファニー・ベラーズを「ゴージャス・ジョージ」と名付けて女性マネージャーに従えていたが[4]、もともとはサベージの実弟のラニー・ポッフォがゴージャス・ジョージを名乗る予定だった[5]

脚注

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  1. ^ ミスター高橋『知らなきゃよかった プロレス界の残念な伝説』宝島社、2018年。ISBN 9784800289216 pp.202-203
  2. ^ Wrestler Profiles: Gorgeous George Jr.”. Online World of Wrestling. 2010年10月17日閲覧。
  3. ^ 柳澤健・著『完本 1976年のアントニオ猪木』P169-183(2009年、文藝春秋ISBN 4167753650
  4. ^ Women's Wrestler Profiles: Stephanie Bellars”. Online World of Wrestling. 2010年10月17日閲覧。
  5. ^ Remembering...Lanny Poffo / The Genius”. NZPWI. 2010年10月17日閲覧。

外部リンク

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