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アルティメット・ウォリアー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジム・ヘルウィッグから転送)
アルティメット・ウォリアー
アルティメット・ウォリアーの画像
プロフィール
リングネーム ザ・ウォリアー
アルティメット・ウォリアー
ディンゴ・ウォリアー
ブレード・ランナー・ロック
ジム "ジャスティス" ヘルウィッグ
本名 ウォリアー[1]
(ジェームズ・ブライアン・ヘルウィッグ)[2]
ニックネーム 超合金戦士
身長 191cm[3] - 193cm[1]
体重 125kg[3] - 127kg[1]
誕生日 (1959-06-16) 1959年6月16日[1]
死亡日 (2014-04-08) 2014年4月8日(54歳没)[1]
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
インディアナ州の旗 インディアナ州
モンゴメリー郡クローフォーズビル[3][1]
スポーツ歴 ボディビル
トレーナー レッド・バスチェン[3]
リック・ベースマン
デビュー 1985年[3]
引退 2008年
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アルティメット・ウォリアーThe Ultimate Warrior、出生名:James Brian Hellwig1959年6月16日 - 2014年4月8日)は、アメリカ合衆国プロレスラーインディアナ州クローフォーズビル出身。

1980年代後半から1990年代前半におけるWWFの看板スターの1人[4]。その屈強な肉体から、日本では「超合金戦士」の異名を持った[4]

来歴

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キャリア初期

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パワーチームUSAなるボディビルのチームに所属後、1985年にプロレス転向[5]。同年11月、チームメイトだったスティーブ・ボーデンと組み、テネシー州メンフィスCWA(後のUSWA)にて、フリーダム・ファイターズThe Freedom Fighters)なるタッグチームとしてデビュー[6]。ボーデンはフラッシュ(Flash)、ヘルウィッグはジャスティスJustice)を名乗り、ジェリー・ローラー&オースチン・アイドルが保持していたAWA南部タッグ王座にも挑戦した[7]

1986年3月、ビル・ワットが主宰していたUWFにてチーム名をブレード・ランナーズThe Blade Runners)へと変更、それぞれのリングネームもボーデンはスティング(Sting)、自身はロックRock)と改名して[8]ロード・ウォリアーズのコピー版タッグチームとして活動[9]エディ・ギルバートマネージャーに、テッド・デビアス&スティーブ・ウィリアムスファビュラス・フリーバーズテリー・ゴディ&バディ・ロバーツ)などのチームと対戦した[10]

チーム解散後の1986年6月、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたテキサス州ダラスのWCWA(World Class Wrestling Association)にて、フェイスペイントを施したディンゴ・ウォリアーThe Dingo Warrior)に変身。当初はヒールのポジションで、バズ・ソイヤー&マット・ボーンのマネージャーだったゲーリー・ハートのボディーガードとして登場。アブドーラ・ザ・ブッチャーのパートナーにも起用され、ブルーザー・ブロディとも対戦した[11]。同年10月よりベビーフェイスに転向してフォン・エリック・ファミリーと共闘。11月17日にはランス・フォン・エリックと組んでボーン&ジョージ・ウェルズからWCWA世界タッグ王座を奪取[12]1987年2月2日にはボブ・ブラッドリー英語版を破りWCWAテキサス・ヘビー級王座を獲得した[13]

WWF

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1987年

1987年6月、WWFと契約(同時期、当時WCWAと提携していた新日本プロレスへの初来日が内定していたが、WWF入りのため急遽キャンセルされている)。10月7日収録のWWFスーパースターズにてリングネームアルティメット・ウォリアーThe Ultimate Warrior)と改名し、テリー・ギッブスに勝利[14]。以降、TVテーピング番組の前座試合でホセ・エストラーダマイク・シャープなどベテランのジョバーと対戦して経験を積む。

1988年8月29日、サマースラム1988にてホンキー・トンク・マンを30秒で下してインターコンチネンタル・ヘビー級王座を獲得[15][16]1989年4月2日、レッスルマニアVにてリック・ルードに王座を奪われるが、8月29日のサマースラム1989で奪還に成功[16]。同年はアンドレ・ザ・ジャイアントとも抗争を繰り広げた[17]

1988年

1990年4月1日、レッスルマニアVIでのハルク・ホーガンとのWWF世界王座&インターコンチネンタル王座のダブルタイトルマッチを制して2冠王者となる[15][18](IC王座は同日に返上[16])。同月13日、東京ドームにて開催された日米レスリングサミット(WWF、新日本プロレス、全日本プロレスの合同興行)への参戦で初来日を果たし、WWF世界王者としてテッド・デビアスとの防衛戦を行った[19]。8月27日のサマースラム1990ではルードとのスティール・ケージ・マッチに勝利[20]。WWFに移籍してきたリージョン・オブ・ドゥームやWCWA時代の盟友テキサス・トルネードとも共闘し、11月22日のサバイバー・シリーズ1990にはザ・ウォリアーズThe Warriors)なるカルテットで出場。ミスター・パーフェクト&デモリッションとのエリミネーション・マッチで一人生き残り、全試合のサバイバーによるグランド・フィナーレ・マッチ(ホーガン&ティト・サンタナとのトリオでの、デビアス、リック・マーテルザ・ウォーロートパワー&グローリーとの3対5のハンディキャップ・エリミネーション・マッチ)でもホーガンと共に勝ち残った[21]

1991年1月19日、ロイヤルランブル1991において、ランディ・サベージの乱入によりサージェント・スローターに敗れて世界王座から陥落するが[22]、以降もWWFの主力として活躍し、3月24日のレッスルマニアVIIではサベージとの敗者引退マッチに勝利[15][23]。3月30日にはSWSの東京ドーム大会への参戦で再来日が実現した[24]。その後はジ・アンダーテイカーと抗争を展開するが、8月に契約の条件面で折り合わずWWFから解雇される[5]

1992年4月、WWFに復帰。パパ・シャンゴカマラといった怪奇系レスラーとの抗争、WCWより移籍してきたリック・フレアーとの対戦、サベージとのアルティメット・マニアックスThe Ultimate Maniacs)なるチームを結成してのデビアス&IRSのマネー・インコーポレーテッドが保持するWWF世界タッグ王座挑戦などで活躍するも、WWFを襲ったステロイド疑惑の影響で11月に再び解雇となる[5]

1993年、WWF出身のレスラーが集うWWS(World Wrestlings Superstars)に参戦し、ハーキュリーズと連戦。1995年にはNWC(National Wrestling Conference)にてホンキー・トンク・マンと対戦した。

1996年3月31日、レッスルマニアXIIにてWWFへの電撃復帰を果たしてハンター・ハースト・ヘルムスリーを一蹴[25]。復帰後はゴールダストオーエン・ハートベイダーとの抗争が組まれるが、オーナーのビンス・マクマホンと対立して6月25日のベイダー戦を最後に退団した[26]

WCW

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1998年、WCWと契約を交わし、ザ・ウォリアーThe Warrior)のリングネームで入団。8月17日のナイトロにてリングを占拠する "ハリウッド" ハルク・ホーガンnWoマイクパフォーマンス中に登場し、ホーガン率いるnWoを壊滅することを宣言した。

9月13日、WCWデビューマッチとなるFall Brawl 1998にて、チームWCWの一員としてダイヤモンド・ダラス・ペイジ&ロディ・パイパーと組み、nWoハリウッド(ホーガン&ブレット・ハート&スティービー・レイ)およびnWoウルフパック(ケビン・ナッシュ&レックス・ルガー&スティング)とのウォー・ゲーム(金網内での時間差3way9人タッグマッチ)に勝利した[27]

9月14日、nWoメンバーのディサイプルジム・ナイドハートの試合において、ナイドハートの入場後にリング内へスモークと共に登場し、ディサイプルの髪を掴んだ姿を現す。リングを取り囲むnWoを余所に、ホーガンと直接対決する旨を伝え挑発すると、再びスモークが焚かれ姿を消した。

10月11日のナイトロでは旧友スティングとタッグを組み、ホーガン&ブレット・ハートと対戦するも反則によりDQ勝利[5]。10月25日、Halloween Havoc 1998にてホーガンと直接対決を行うも、介入したエリック・ビショフがレフェリーの気を逸らすうちにホーガンの甥のホーレス・ホーガン英語版に椅子で殴打され、そのままフォールを取られて敗退した[28]

キャリア晩年

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1999年にWCWを離脱。一時期は公の場にまったく姿を見せなかったため、「ステロイド剤の過剰摂取の後遺症で脚を切断した」などの噂や廃人説、果ては死亡説まで流れたこともあった。

その後は政治団体に所属して、保守的なスポークスマンのダニエル・ピンヘイロと組み左翼を糾弾する講演活動を行った。一例として「LGBTQ(Queer)は世界を動かすことができない」と発言して批判を受け、後日「誰もがホモセクシャルであった場合、人類は滅ぶと言いたかった」などと釈明している[29]。WWEのステロイド剤の使用にも苦言を呈していた。

2005年にはWWEからトリビュートDVDが発売されたが、本人の登場は過去の映像のみで新規のインタビュー出演などは一切なく、内容も彼の人格を非難するようなコメントが多く含まれており、WWEとの関係は冷え切っていると見られていた。

2014年4月5日、WWE殿堂入り式典でのスピーチ

2008年イタリアのプロレス団体NWEスペインでの興行において10年ぶりにリングへ復帰[26]。6月25日、オーランド・ジョーダンを破り第5代NWE世界ヘビー級チャンピオンとなるが[30]、すぐにタイトルを返上した[31]。試合のスタイル、コスチューム、フェイスペインティングパフォーマンスは全盛時と変わらず、WWF、WCW時代と比較して肉体もほとんど衰えていなかった。

WWEとの関係も修復され、2013年2Kから発売されるWWEを題材にしたゲーム「WWE 2K14」の宣伝トレイラーにWWF在籍当時のフェイスペイントで出演。

2014年1月13日、WWE殿堂入りが発表された。レッスルマニアXXXの前日である4月5日、ルイジアナ州スムージーキング・センターにてセレモニーが行われ、WWE殿堂に迎えられた[5]。レッスルマニアXXX翌日の4月7日にはRAWへ登場し、殿堂入りしたことに触れるとともに「アルティメット・ウォリアーをつくったのはファンの皆だ」とファンへの感謝の気持ちを表した。

今後の動向にも注目されていたが、RAW翌日の4月8日夕刻、ルイジアナ州のホテルの外で倒れているところを発見され、間もなく死亡が確認された[32]。捜査当局の検死の結果、死亡原因は動脈硬化症に伴う心臓発作で、妻とともにホテルの周りを散歩中に、心臓発作に襲われたという[33]。54歳没。

前日のRAWで元気な姿を見せながらも、妻と娘2人を遺しての突然の死は関係者にも大きな衝撃を与え、ビンス・マクマホンらWWEの要職およびスーパースターが各種メディアで弔意を表すとともに、その功績を讃えた。

ファイトスタイル

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ウォリアーの試合はワンパターンで以下のような流れがほとんどである。

背中にボディ・プレスを行なうのは従来のボディ・プレスをリック・ルードに膝を立てて返されたためである。

得意技

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獲得タイトル

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WCWA
WWF / WWE
NWE
  • NWE世界ヘビー級王座:1回

脚注

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  1. ^ a b c d e f Ultimate Warrior: General Information”. Wrestlingdata.com. 2020年4月13日閲覧。
  2. ^ 出生時の名前はジェームズ・ブライアン・ヘルウィッグ(James Brian Hellwig)だが、後に「ウォリアー」を正式に本名としていた。
  3. ^ a b c d e Ultimate Warrior: Wrestlers Database”. Cagematch.net. 2020年4月13日閲覧。
  4. ^ a b 『THE WRESTLER BEST 1000』P75(1996年、日本スポーツ出版社
  5. ^ a b c d e Ultimate Warrior”. Online World of Wrestling. 2024年8月1日閲覧。
  6. ^ Tag Team "Blade Runners"”. Wrestlingdata.com. 2015年9月15日閲覧。
  7. ^ The USWA matches fought by Ultimate Warrior in 1985”. Wrestlingdata.com. 2015年9月15日閲覧。
  8. ^ Tag Team "Blade Runners"”. Wrestlingdata.com. 2015年9月15日閲覧。
  9. ^ Blade Runners”. Online World of Wrestling. 2015年9月15日閲覧。
  10. ^ The UWF matches fought by Ultimate Warrior in 1986”. Wrestlingdata.com. 2015年9月15日閲覧。
  11. ^ The WCCW matches fought by Ultimate Warrior in 1986”. Wrestlingdata.com. 2015年8月30日閲覧。
  12. ^ a b WCWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2015年8月30日閲覧。
  13. ^ a b Texas Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2015年8月30日閲覧。
  14. ^ The WWE matches fought by Ultimate Warrior in 1987”. Wrestlingdata.com. 2015年8月31日閲覧。
  15. ^ a b c d Ultimate Warrior: Bio”. WWE.com. 2021年2月16日閲覧。
  16. ^ a b c d WWF/WWE Intercontinental Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2020年4月13日閲覧。
  17. ^ André the Giant vs. Ultimate Warrior”. Wrestlingdata.com. 2020年4月13日閲覧。
  18. ^ WWF WrestleMania VI "The Ultimate Challenge"”. Cagematch.net. 2020年4月13日閲覧。
  19. ^ WWF/AJPW/NJPW Wrestling Summit”. Cagematch.net. 2020年4月13日閲覧。
  20. ^ WWF SummerSlam 1990 "The Heat Returns"”. Cagematch.net. 2020年4月13日閲覧。
  21. ^ WWF Survivor Series 1990”. Cagematch.net. 2020年4月13日閲覧。
  22. ^ WWE Yearly Results 1991”. The History of WWE. 2021年2月16日閲覧。
  23. ^ WWF WrestleMania VII "Superstars And Stripes Forever"”. Cagematch.net. 2020年4月13日閲覧。
  24. ^ SWS Wrestlefest In Tokyo Dome”. Cagematch.net. 2020年4月13日閲覧。
  25. ^ WWF WrestleMania XII”. Cagematch.net. 2020年4月13日閲覧。
  26. ^ a b Ultimate Warrior: Matches”. Cagematch.net. 2020年4月13日閲覧。
  27. ^ Ring Crew Reviews: WCW Fall Brawl 1998”. 411mania.com (2012年9月19日). 2020年4月26日閲覧。
  28. ^ Ring Crew Reviews: WCW Halloween Havoc 1998”. 411mania.com (2011年8月16日). 2020年4月26日閲覧。
  29. ^ Flynn, Daniel (June 28, 2004). "Interview with the Ultimate Warrior – Part 4 of 4". FlynnFiles.com. Retrieved May 18, 2008.
  30. ^ NWE Summer Tour 2008 - Tag 3: Return Of The Warrior”. Cagematch.net. 2020年4月13日閲覧。
  31. ^ NWE World Heavyweight Title”. Wrestlingdata.com. 2020年4月13日閲覧。
  32. ^ 元プロレスラーのアルティメット・ウォリアーさんが急死 東京スポーツ 2014年4月9日閲覧
  33. ^ WWEアルティメット・ウォリアーさんの死因は心臓発作”. シネマトゥデイ (2014年4月17日). 2014年4月19日閲覧。
  34. ^ WWE World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2021年2月16日閲覧。

外部リンク

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