ジム・ハーボー
Jim Harbaugh | |||||||||||||||||||||||||||||||
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2018年 | |||||||||||||||||||||||||||||||
ロサンゼルス・チャージャーズ ヘッドコーチ | |||||||||||||||||||||||||||||||
ポジション | クォーターバック | ||||||||||||||||||||||||||||||
生年月日 | 1963年12月23日(60歳) | ||||||||||||||||||||||||||||||
出身地 |
アメリカ合衆国 オハイオ州トレド | ||||||||||||||||||||||||||||||
身長: | 6' 3" =約190.5cm | ||||||||||||||||||||||||||||||
体重: | 215 lb =約97.5kg | ||||||||||||||||||||||||||||||
経歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||
大学 | ミシガン大学 | ||||||||||||||||||||||||||||||
NFLドラフト | 1987年 / 1巡目全体27位 | ||||||||||||||||||||||||||||||
所属歴 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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受賞歴・記録 | |||||||||||||||||||||||||||||||
その他受賞・記録 | |||||||||||||||||||||||||||||||
NFL パサーレイティング1位(1995) | |||||||||||||||||||||||||||||||
IND リング・オブ・オナー | |||||||||||||||||||||||||||||||
その他受賞・記録(コーチとして) | |||||||||||||||||||||||||||||||
NFL最優秀コーチ賞(2011) | |||||||||||||||||||||||||||||||
NFL 通算成績 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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ヘッドコーチとしての通算成績 | |||||||||||||||||||||||||||||||
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Player stats at PFR | |||||||||||||||||||||||||||||||
Coaching stats at PFR |
ジェームズ・ジョセフ・ハーボー(James Joseph Harbaugh、1963年12月23日 - )はアメリカ合衆国オハイオ州トレド出身のアメリカンフットボール元選手、コーチ。1987年から2001年までNFLでクォーターバックとしてプレーした後、カレッジフットボールやNFLでヘッドコーチを務めた。2012年シーズンの第47回スーパーボウルでは、サンフランシスコ・49ersのヘッドコーチとして、兄のジョン・ハーボーが率いるボルティモア・レイブンズと対戦することとなり、NFL史上初めて、スーパーボウルでの兄弟ヘッドコーチ対決となり、この対決は『ハーボウル』とも称された(結果は兄のレイブンズが勝利)[1]。
49ersで4シーズン、ミシガン大学で9シーズンの間ヘッドコーチを務めた後、2024年シーズンからはロサンゼルス・チャージャーズのヘッドコーチを務める[2][3]。
選手経歴
[編集]プロ入りまで
[編集]ミシガン大学に進学した彼は1982年シーズンはレッドシャツとして通した。
1983年は、スティーブ・スミス、デイブ・ホールに次ぐ第3QBとして過ごし、パス5回中2回成功、40ヤードの獲得にとどまった。
1984年は、スミスが卒業、ホールがひざを負傷したこともあり、エースQBとなった。第1週は前年全米チャンピオンとなり、QBにバーニー・コーザーを擁するマイアミ大学との対戦であったが、22-14で勝利した。第2週のワシントン大学戦で敗れた後、ウィスコンシン大学、インディアナ大学で勝利した後、第5週のミシガン州立大学戦の第3Qに左手を負傷し退場、シーズン絶望となった。シーズン成績は、パス111回中60回成功、718ヤード獲得、3TD、5INTであった。
1985年、怪我から回復した彼は全12試合に先発し、チームは10勝1敗1分、フィエスタボウルでネブラスカ大学を27-23で破りAP通信及びUPIより全米2位に評価された。10月26日のインディアナ大学戦では大学記録となる283ヤードのパスを投げた。11月23日のオハイオ州立大学戦では77ヤードのTDパスを成功させた。シーズン成績は、パス227回中145回成功、1976ヤードを獲得、18TD、6INTであった。またQBレイティングは163.7で全米トップの数字であった。
1986年、全13試合に出場、チームは11勝2敗、ローズボウルでアリゾナ州立大学に敗れ、AP通信ランクで8位、UPI通信ランクで7位となった。この年のウィスコンシン大学戦で大学記録となるパスで310ヤードを獲得した。この年パス277回中180回成功、10TD、11INTで終えた。パス獲得2729ヤードの大学記録は2002年まで破られなかった。QBレイティングは、ハイズマン賞を受賞したビニー・テスタバーディに次ぐ全米2位の記録であった。この年彼は、ビッグ・テン・カンファレンス最優秀選手に選ばれ、ハイズマン賞の投票でもテスタバーディ、テンプル大学のRBポール・パーマーに次ぐ3位となった。
大学通算では5449ヤードの大学記録、当時大学歴代2位の記録となるパス試投620回で387回成功(成功率62.4%)、当時大学歴代3位の31TD、22INTの成績であった。
シカゴ・ベアーズ
[編集]1987年のNFLドラフト1巡全体26位でシカゴ・ベアーズに指名されて入団した。マイク・ディトカヘッドコーチの下、8月27日のセントルイス・カージナルスとのプレシーズンゲームではパス15回中わずか1回成功に終わった。レギュラーシーズンでは6試合に控えQBとして出場した。
1988年、10試合に出場、パス97回中47回成功(成功率48.5%)、514ヤードを獲得、2INTの成績であった。第14週のロサンゼルス・ラムズ戦で初先発、第15週のデトロイト・ライオンズ戦で初勝利をあげた。この年のパス成功率は15シーズンのキャリアワーストである48.5%に終わった。
1989年、ジム・マクマーンが退団したことから出場機会が増え、5試合に先発出場した(残り11試合はマイク・トムザックが先発。)。この年12試合に出場し、パス178回中111回成功、1204ヤードを獲得、5TD、9INTに終わったがパス成功率は62.4%のチームレコードであった。チームは6勝10敗と負け越した。
1990年、開幕から14試合に先発出場、パス312回で180回成功(成功率57.7%)、2178ヤードを獲得、10TD、6INTの成績をあげて、チームは11勝5敗をあげてNFC中地区優勝を果たした。肩の負傷でレギュラーシーズン最後の2試合とプレーオフは欠場した。
1991年、パス478回中275回成功(成功率57.5%)、自己ベストの3121ヤードを獲得、ビンス・エバンズ以来となる全16試合に先発出場したベアーズのQBとなった。10月25日のミネソタ・バイキングス戦ではチームワーストとなる9サックを浴びた。チームは前年と同じ11勝5敗をあげたがNFC中地区2位となり、ワイルドカードプレーオフでダラス・カウボーイズに13-17で敗れた。
1992年、全16試合中13試合に先発出場、パス358回中202回成功(成功率56.4%)、2486ヤードを獲得、13TD、12INT、チームは5勝11敗に終わった(ハーボーが先発した試合では5勝8敗。)。
1993年、15試合に先発出場、パス325回中200回成功、2002ヤードを獲得、7TD、11INT、チームは7勝9敗と負け越した。ベアーズでの彼は先発して35勝30敗の成績であった。
インディアナポリス・コルツ
[編集]1994年4月7日、インディアナポリス・コルツと契約した。この年9試合に出場、パス202回中125回成功(成功率61.9%)、1440ヤードを獲得、9TD、6INT、開幕戦から第8週までと第15週に先発出場、残りの試合ではドン・マコウスキーが先発した。
1995年、先発12試合を含む15試合に出場、@明日314回中200回成功、2575ヤードを獲得、17TD、5INT、自己ベストとなるパス成功率63.7%、QBレイティング100.7、17TDをあげてチームをAFCチャンピオンシップゲームに導いた。彼が先発した試合でチームは7勝5敗、シーズンを9勝7敗で終えた。第14週のカロライナ・パンサーズ戦で6サックされ、右ひざを痛め第3Qに退場した。第16週のサンディエゴ・チャージャーズ戦ではハーボーが第4Q終盤にパスを3連続で成功し、残り48秒にケアリー・ブランチャードの24ヤードのFGで同点に追いついたが、残り3秒にジョン・カーニーにFGを決められ24-27で敗れた。ハーボーの32歳の誕生日となる最終週のニューイングランド・ペイトリオッツ戦で10-7と勝利しプレーオフ出場を決めた。12月31日のサンディエゴ・チャージャーズとのワイルドカードプレーオフではジェイソン・ベルサーの32ヤードのインターセプトリターンから得たチャンスにハーボーの3ヤードのQBスニークでのTDなどで35-20と勝利した。1月7日のカンザスシティ・チーフスとのディビジョナルプレーオフではパス27回中12回成功、112ヤード獲得、1TD、1INTにとどまったが10-7と勝利した。1月14日のピッツバーグ・スティーラーズとのAFCチャンピオンシップゲームでは試合最後のプレーで彼が投げたヘイルメアリーパスをアーロン・ベイリーがエンドゾーンで落球、惜しくもスーパーボウル出場を逃した。この年彼はプロボウル、カムバック賞に選ばれるとともに、シーズンMVPでも2位の投票を得た。
1996年、チームはリンディ・インファントヘッドコーチが就任した。ハーボーは14試合に先発しパス405回中232回成功(成功率57.3%)、2630ヤードを獲得、13TD、11INT、9勝7敗でプレーオフに進出したチームはワイルドカードプレーオフでピッツバーグ・スティーラーズと対戦、ハーボーはこの試合でパス32回中12回成功、134ヤード、1TD、1INTに終わり、チームは14-42で敗れた。
1997年、12試合に出場、パス309回中189回成功、2060ヤードを獲得、10TD、4INT、彼が先発した試合でチームは2勝9敗、シーズン成績は3勝13敗に終わった。41サックを浴び、自己ワーストの256ヤードをロスしている。
ボルチモア・レイブンズ
[編集]1998年2月14日、その年のドラフト3巡と4巡指名権と引き替えにボルチモア・レイブンズにトレードされた。レイブンズのヘッドコーチはコルツ時代のヘッドコーチのテッド・マーチブローダである。この年先発12試合を含む14試合に出場、パス293回中164回成功(成功率56.0%)、1839ヤード、12TD、11INT、先発した試合でチームは5勝7敗、シーズン通算で6勝10敗と負け越した。
新設のスタジアム、カムデン・ヤーズで行われた開幕週のピッツバーグ・スティーラーズ戦の第2Qに指を負傷してエリック・ザイアーと交代した。翌週のニューヨーク・ジェッツ戦で先発出場したが怪我のためザイアーと途中交代している。次の試合でもザイアーと途中交代した。第7週のピッツバーグ・スティーラーズ戦では途中出場したがパス6回中成功なしに終わるなど散々だった。交代出場した第8週のグリーンベイ・パッカーズ戦でシーズン初TDをあげた。第9週のゲームでシーズン初めてフル出場し、パス34回中27回成功、243ヤード、3TD、1INT、10回のキャリーで57ヤードを走った。コルツがボルチモアを去ってから初の対戦となった第12週の試合ではパス25回中16回成功、198ヤード、2TDをあげて35-31の勝利に貢献した。第14週のテネシー・タイタンズ戦でジョー・ボウデンに対するアンネセサリーラフネスの反則がコールされた判定はハーボーはインバウンズでヒットしていたのではと物議を醸した。
サンディエゴ・チャージャーズ
[編集]1999年、サンディエゴ・チャージャーズで先発12試合を含む14試合に出場、パス434回中249回成功(成功率57.4%)、2761ヤードを獲得、10TD、14INTをあげた。チームのシーズン初戦となる第2週のシンシナティ・ベンガルズ戦で勝利したが、翌週のコルツ戦では試合終了間際に敵陣24ヤードでタイロン・プールにインターセプトされ19-27で敗れた。第4週のカンザスシティ・チーフス戦で右ひじを痛めて負傷退場した。2試合欠場した彼は第7週のグリーンベイ・パッカーズ戦で先発したエリック・クレイマーと交代出場したが、2人とも3インターセプトを喫した。4勝1敗と好スタートを切ったチームは6連敗と失速した。第15週のマイアミ・ドルフィンズ戦に敗れてチームはプレーオフ出場を逃した。チャージャーズは8勝8敗でシーズンを終えたが、ハーボーが先発した試合でチームは6勝6敗であった。
2000年、ライアン・リーフ、ハーボー、モーゼス・モレノがローテーションで先発QBを務めチームは1勝15敗に終わった。ハーボーは先発5試合を含む7試合に出場、パス202回中123回成功(成功率60.9%)、1416ヤードを獲得、8TD、10INTをあげた。
第4週のシアトル・シーホークス戦でシーズン初出場、第5週のセントルイス・ラムズ戦でシーズン初先発を果たした。第6週のデンバー・ブロンコス戦では3INTを喫したがその内の2回はブロンコスに絶好のフィールドポジションを与えてTDを奪われ、3回目のインターセプトは敵陣5ヤードでのものであった。第9週のオークランド・レイダースとのサンデーナイトゲームでは残り5分47秒にフレディ・ジョーンズへの21ヤードのTDパスを決めて13-12とリードしたが2ポイントコンバージョンに失敗、残り13秒にセバスチャン・ジャニコウスキーに決勝FGを決められて13-15と敗れチームは開幕から8連敗となった。第10週のシアトル・シーホークス戦でハーボーの2ファンブルなどでチームは13-15で敗れ、開幕から9連敗となった。彼はこの試合の第3Qに負傷退場している。第11週の試合がシーズン最後の出場となった。
デトロイト・ライオンズ
[編集]2001年、シーズン開幕前にデトロイト・ライオンズと契約した。チャーリー・バッチの控えQBとして期待されていたがシーズン開幕前日にライオンズはタイ・デトマーを獲得し、ハーボーは解雇された。
カロライナ・パンサーズ
[編集]ライオンズを解雇された後、カロライナ・パンサーズと契約し、6試合に登録されたが出場機会はなかった。パンサーズはこの年1勝15敗に終わった。
通算成績
[編集]この年現役生活を終えた彼は、先発140試合を含む177試合に出場し、3918回のパス中2305回成功、26288ヤードを獲得、129TDをあげた。1995年シーズンにはプレーオフで2勝し、AFC第2シードのスティーラーズをあと一歩まで追い詰めたことからキャプテンカム・バックと呼ばれた(ロジャー・ストーバックの異名。)。
ジェイ・カトラーに次ぐベアーズ史上2位の1023回のパスを成功させている。パス試投1759回、パス獲得ヤード11,567ヤードもベアーズ歴代2位の記録である。2005年1月、コルツのリング・オブ・オナーに選ばれた。
コーチ経歴
[編集]西ケンタッキー大学 アシスタントコーチ
[編集]現役最後のシーズンである1994年から2001年までも父親のジャック・ハーボーの下、西ケンタッキー大学で無報酬のアシスタントコーチを務めた。
オークランド・レイダース QBコーチ
[編集]2002年、2003年とビル・キャラハンの下でオークランド・レイダーズのQBコーチを務めた。彼の指導を受けたリッチ・ギャノンは2002年のシーズンMVPに選ばれチームは第37回スーパーボウルに進出した。レイダーズでは他にリック・マイアー、ティー・マーティン、マーカス・トゥイアソソポ、ロブ・ジョンソンを指導した。
サンディエゴ大学 ヘッドコーチ
[編集]2004年にサンディエゴ大学のヘッドコーチに就任した。1年目は7勝4敗、2年目の2005年には11勝1敗でパイオニア・フットボール・リーグ優勝を果たした。2006年も11勝1敗でリーグを連覇した。
スタンフォード大学 ヘッドコーチ
[編集]2006年12月にウォルト・ハリスの後任としてスタンフォード大学のヘッドコーチに就任した。同大学では父親のジャックが1980年、1981年と守備コーディネーターを務めた。
2007年、全米1位のUSC(ピート・キャロルヘッドコーチ)を24-23で破る番狂わせを演じた。この試合はUSCが41点有利と見られていた。2009年11月14日にもUSC相手に55-21と番狂わせを演じた。USCが55失点したのは初めてであり、2012年にオレゴン大学が62-51でUSCを破るまでこの記録は残った。敵地ロサンゼルス・メモリアル・コロシアムでハーボーヘッドコーチはUSCに負けなかった。
2009年1月、ニューヨーク・ジェッツのヘッドコーチ候補になっていることが明らかになったが、最終的にレックス・ライアンが就任した。この年チームは8勝4敗で全米21位にランクされ、サンボウルに出場、スタンフォード大学がボウルゲームに出場するのは2001年以来であった。RBトビー・ガーハートはハイズマン賞のファイナリストに残り、マーク・イングラムと僅差の2位となった。2009年12月13日、3年の契約延長を果たし、2014年シーズンまで指揮することとなった。
2010年、オレゴン大学に敗れたのみで、11勝1敗でレギュラーシーズンを終えた。全米ランク4位でBCSナショナル・チャンピオンシップ・ゲームに進出し、オレンジボウルではバージニア工科大学に40-12で勝利した。2年生QBアンドリュー・ラックもハイズマン賞の投票で2位となり、ハーボーはカレッジフットボール最優秀コーチに与えられるウッディ・ヘイズ・コーチ・オブ・ザ・イヤーに選ばれた。
サンフランシスコ・フォーティーナイナーズ ヘッドコーチ
[編集]2011年、5年間2500万ドルの契約でサンフランシスコ・フォーティーナイナーズのヘッドコーチになった。彼の就任前、チームは2002年以来勝ち越しもプレーオフ進出もはたしていなかった。2011年シーズンはロックアウトのために夏のキャンプは短縮され、彼はQBアレックス・スミスを起用してチームを13勝3敗の西地区優勝に導き、NFCチャンピオンシップゲームにも進出した。このシーズンでは兄ジョン・ハーボ―率いるボルティモア・レイヴンズと対戦して敗れた。
2012年、ハーボ―はシーズン途中で負傷したアレックス・スミスに変えてシーズン途中からコリン・キャパニックをQBに起用し、11勝4敗1分けで西地区を連破した。プレーオフではNFCチャンピオンとなり、スーパーボウルに進出したが、ボルティモア・レイヴンズに敗れた。
2013年は12勝4敗でワイルドカードでプレーオフに進出した。3年連続してNFCチャンピオンシップゲームに進出するもシアトル・シーホークスに敗れた。
2014年は8勝8敗でプレーオフ進出はならなかった。彼がフォーティーナイナーズのHCを務めた4年間はまれに見る成功であったが、GMを始めとするチーム上層部との確執がささやかれ、シーズン終了直後に契約を1年残して辞職した。フォーティーナイナーズはその後4年間負け越し、プレーオフを逃し続けた。
ミシガン大学 ヘッドコーチ
[編集]2015年シーズンからミシガン大学のヘッドコーチに就任した。この年はチームは10勝3敗であった。シトラス・ボウルの勝利でシーズンを終えた。
2016年シーズンも10勝3敗となり、ディビジョン3位となった。オレンジ・ボウルの敗北でシーズンを終えた。
2017年は8勝5敗となり、アウトバック・ボウルの敗北でシーズンを終了した。
2018年は10勝3敗となり、ピーチ・ボウルの敗北でシーズンを終えた。
2019年は9勝4敗で、シトラス・ボウルの敗北でシーズンを終えた。
2020年はCOVID-19流行により6試合だけのシーズンで2勝4敗にとどまり、ホームで勝利をあげることができなかった。
2021年、ミシガン大学は新たに4年契約をハーボ―と結んだ。チームは12勝2敗となり、オレンジ・ボウルでの敗北でシーズンを終えた。ハーボ―はAP通信社の最優秀ヘッドコーチに選ばれた。
2022年、700万ドルのベースサラリーを得る新たな5年契約を結んだ[4]。
2023年、リクルート規則違反で大学から3試合の出場停止を、サイン盗み疑惑でNCAAからさらに3試合の出場停止を言い渡された。だがチームはレギュラーシーズンを全勝で終え、ローズボウルでも勝利し、カレッジ・フットボール・プレーオフも勝利して全米ナンバーワンとなった。
ロサンゼルス・チャージャーズ ヘッドコーチ
[編集]2024年1月24日、ロサンゼルス・チャージャーズから新たなヘッドコーチとして迎え入れる事が発表された[3]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ The Detroit Free Press, "Preparing To Be A-Maized", by Mark Snyder and David Jesse, December 29, 2014, page B1
- ^ “Michigan introduces Jim Harbaugh”. Espn.go.com (December 30, 2014). March 8, 2016閲覧。
- ^ a b “Los Angeles Chargers Agree to Terms with Jim Harbaugh as Head Coach”. Los Angeles Chargers. 2024年1月25日閲覧。
- ^ “ミシガン大学との新契約は早期解約も可能、ジム・ハーボーに残されたNFL復帰の可能性”. NFL Japan. 2022年2月18日閲覧。
外部リンク
[編集]- NFL選手
- NFLコーチ
- カレッジフットボールコーチ
- アメリカンフットボールのクォーターバック
- ミシガン大学出身のアメリカンフットボール選手
- シカゴ・ベアーズの1巡目指名選手
- シカゴ・ベアーズの選手
- インディアナポリス・コルツの選手
- ボルチモア・レイブンズの選手
- サンディエゴ・チャージャーズの選手
- カロライナ・パンサーズの選手
- プロボウル選出選手
- ラスベガス・レイダース関連人物
- サンフランシスコ・49ers関連人物
- アイルランド系アメリカ人のアメリカンフットボール選手
- イタリア系アメリカ人のアメリカンフットボール選手
- シチリア系アメリカ人
- ドイツ系アメリカ人のアメリカンフットボール選手
- ポーランド系アメリカ人のアメリカンフットボール選手
- オハイオ州トレド出身の人物
- 1963年生
- 存命人物