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エラマナムー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
エラマナムー
ウェインストック卿(バリーマッコル・スタッド)の勝負服
現役期間 1978年~1980年
欧字表記 Ela-Mana-Mou
原語表記 έλα μάνα μου
品種 サラブレッド
性別 牡馬
毛色 鹿毛
生誕 1976年
死没 2008年
Pitcairn (ピットカーン)
Rose Bertin
母の父 High Hat (ハイハット)
生国 アイルランドの旗 アイルランド
生産者 Patrick Clarke
馬主

Audry Muinos

Simon Weinstock
調教師

Guy Harwood

Dick Hern
競走成績
生涯成績 16戦10勝 (10-2-2-2)
獲得賞金 286,581ポンド(ポンド換算)
勝ち鞍

エクリプスステークス(1980)

Kジョージ6世&QエリザベスS(1980)
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エラマナムー (Ela-Mana-Mou) はアイルランドで生まれ、イギリス調教を受けた競走馬である。
2歳時からトロイと重賞戦線で勝ち負けを繰り返していたが、3歳末にトロイと同じ厩舎に移籍し、古馬になるとエクリプスステークス、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを含む重賞4連勝を達成して、1980年の最優秀古馬に選ばれた。

経歴

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出自

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ピットカーンペティンゴ産駒のマイラーでグッドウッドマイルなどG3レースを3勝したが、アイリッシュ2000ギニー2着などG1級のレースでは今一歩足りなかった。エラマナムーは、ピットカーンの初年度産駒であり、エラマナムーの活躍する前にピットカーンは日本に輸出された。
母Rose Bertinは3号族に属する1勝馬で、その牝系ではナスルーラ産駒の5代母Belle of Allが1951年の1000ギニーコロネーションステークスなどに優勝している。
母の父ハイハットはハイペリオン産駒でオックスフォードシャーステークスなどに勝ち、1966年1000ギニー優勝馬Glad Rags(GB)、同年アイリッシュセントレジャー優勝馬White Gloves(IRE)、1973年アイリッシュ1000ギニー優勝馬Cloonagh(GB)などを輩出し、こちらも日本に輸出された。
エラマナムーはアイルランドのPatrick Clarkeのもとで生まれ、イヤリングセールにおいて4,500ギニーでAudry Muinosに購買され、ウエストサセックス・パルバラのGuy Harwood調教師に預けられた。
エラマナムー(Ela-Mana-Mou)という名前はギリシャ語の"έλα μάνα μου"から名付けられており、直訳すると"come on, my mother"になりスラングとして"Come on, my darling"を意味する。

競走馬時代

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2歳時 (1978年)
エラマナムーは2歳の6月にニューベリーのメイドンレース・ケンネットステークス(6f)を3馬身差で勝利し競走馬デビューすると、7月にはケンプトンパークのウィローステークス(6f)にも勝利した。
続いて、7月のうちにグッドウッドに移動して、G3・ヴィンテージステークス(7f)に出走したエラマナムーであったが、トロイに2馬身半差を付けられ2着に敗れた。
9月になりリングフィールドの6fのハンデキャップを勝利した後、アスコットのG2・ロイヤルロッジステークスに出走すると、前回敗れたトロイに今度は3/4馬身差を付け、リファーズウィッシュを3着に抑えて優勝した。

3歳時 (1979年)
3歳になったエラマナムーは2000ギニーには出走せずに、ニューマーケットヒースステークス(9f)で3歳初戦を迎え、2着に4馬身差を付けて快勝した。
第200回の区切りとなるダービー制覇を目指し、調教されたが、調教師のHarwoodが馬房を終始モニタリングするような徹底振りであった。
ダービーではトロイ、エリザベス女王所有のミルフォードに次ぐ3番人気で、スターキー騎乗のエラマナムーは、レース序盤は抑えて進んだが、直線でも先頭まで届かずトロイ、Dicken's Hill、Northern Babyに次ぐ4着に終わった。
ダービー敗戦の2週間後に再びターフに現れたエラマナムーはロイヤルアスコットのキングエドワードステークス (12f)を楽勝した。
7月にはフランス遠征を行いサンクルー大賞に出走したが、健闘はしたもののゲイメセンの2着となり、帰国後のキングジョージでもトロイとゲイメセンに敵わず3着であった。 その後2ヶ月休養し、チャンピオンステークスに出走したが、好調時のフォームが見られず、アイルランドの牝馬Cairn Rougeの6着に敗れた。
このシーズンの終わりにエラマナムーはSimon Weinstockの代理人Peter Wraggに500,000ギニーで買われ、厩舎もライバル・トロイの調教師であるウエスト・イルスリーのディック・ハーンのもとに移り、騎手もトロイのW.カーソンが乗り替わることになった。

4歳時 (1980年)
新陣営となった4歳初戦を4月にニューマーケットのG3・アールオブセフトンステークス(9f)で迎えたエラマナムーはそこを首差で勝利し、6月には当時G2だったロイヤルアスコットのプリンスオブウェールズステークスでも2馬身差で勝利した。
7月になるとエクリプスステークスに出走し、コロネーションカップ優勝の牝馬Sea Chimesらと対決した。結果はエラマナムーがヘンリー・セシル厩舎の3歳馬Hello Gorgeous、アイルランドのGregorian、着外に沈んだSea Chimesらに勝った。
ロイヤルアスコットのキングジョージでは、フランス調教馬Le Marmotに次ぐ2番人気で、残り4ハロンで先頭に立つと追いすがるディアヌ賞優勝馬 Mrs Pennyを3/4馬身抑えて優勝した。
2ヶ月以上休養の後、凱旋門賞に出走したが、牝馬デトロワの3着に敗れ、引退することになった。

種牡馬成績

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血統表

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エラマナムー血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 ペティション系フェアトライアル系[1]フェアウェイ系[2]ファラリス系[3]<サイリーン系[4]ベンドア系[4]ストックウェル系[4]エクリプス系[5]ダーレーアラビアン系[5]

Pitcairn (IRE)
ピットカーン
1971 栗鹿毛
父の父
Petingo (GB)
1965 鹿毛
Petition Fair Trial
Art Paper
Alcazar Alycidon
Quarterdeck
父の母
Border Bounty (GB)
1965 鹿毛
バウンティアス Rockefella
Marie Elizabeth
B Flat Chanteur
Ardeen

Rose Bertin (GB)
1970 栗毛
High Hat (GB)
ハイハット
1957 栃栗毛
Hyperion Gainsborough
Selene
Madonna Donatello
Women's Legion
母の母
Wide Awake (GB)
1964 鹿毛
Major Portion Court Martial
Better Half
Wake Island Relic
Alor Star
母系(F-No.) (FN:3-g) [§ 2]
5代内の近親交配 Hyperion 3×5、Fair Trial 4×5、Alycidon 4×5、Donatello 4×5 [§ 3]
出典
  1. ^ 日本軽種馬協会 Japan Bloodstock Information System Ela-Mana-Mou(IRE) 5代血統表 2017年8月11日閲覧。
  2. ^ 日本軽種馬協会 Japan Bloodstock Information System Ela-Mana-Mou(IRE) 5代血統表 2017年8月11日閲覧。
  3. ^ 日本軽種馬協会 Japan Bloodstock Information System Ela-Mana-Mou(IRE) 5代血統表 2017年8月11日閲覧。
  • 血統表中の「*」は日本へ輸入された馬であることを示す。

脚注

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  1. ^ 『競馬百科』日本中央競馬会・編,1976,p199
  2. ^ 『競馬百科』p200
  3. ^ 『競馬百科』p198
  4. ^ a b c 『競馬百科』p194
  5. ^ a b 『競馬百科』p184