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島田紳助

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島田紳助
本名 長谷川 公彦(はせがわ きみひこ)
生年月日 (1956-03-24) 1956年3月24日(68歳)
出身地 日本の旗 日本 京都府京都市南区
血液型 AB
身長 170cm
言語 日本語
方言 京都弁
最終学歴 京都学園大学中退
師匠 島田洋之介・今喜多代
コンビ名 紳助竜介(解散)
相方 松本竜介
芸風 ボケ(漫才師時代)
立ち位置 右(漫才師時代)
事務所 吉本興業
活動時期 1974年 - 現在
同期 明石家さんま
関根勤
オール巨人
現在の代表番組 行列のできる法律相談所
人生が変わる1分間の深イイ話
クイズ!ヘキサゴンII
ホンネの殿堂!!紳助にはわかるまいっ
開運!なんでも鑑定団
クイズ!紳助くん
オールスター感謝祭
M-1グランプリ他多数
過去の代表番組 サンデープロジェクト
嗚呼!バラ色の珍生!!
オレたちひょうきん族
紳助の人間マンダラ他多数
作品 映画「風、スローダウン」
他の活動 (株)ディンプス相談役
京都市特別観光大使
配偶者 既婚
弟子 島田まさし ほか
受賞歴
1984年 花月大賞 マンスリーよしもと賞
1991年 日本映画批評家賞 特別賞
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島田 紳助(しまだ しんすけ、本名:長谷川 公彦(はせがわ きみひこ)[1]1956年3月24日 - )は、日本お笑いタレント司会者作詞家音楽プロデューサー歌手実業家株式会社ディンプス相談役。京都市特別観光大使漫才コンビ紳助・竜介」の元ボケ担当。

プロフィール

来歴

芸能界入りまで

  • 父親が国鉄職員(南満州鉄道の職員歴もある)の家庭に生まれ育つ。「松本紳助」で紳助本人が語ったところによると「鳩みたいに真面目で温厚な性格で、自分が警察に補導されても『話し合いで解決できる』と言って一度も激怒しなかった」とのこと。
  • 中学生の時は学校の窓ガラスを割ったり、教室で盗品を売りさばいたりしており、高校生の頃に車上荒らしで補導されて少年鑑別所送致された経験がある。少年時代は暴走族であったと語っており、現在も当時の話をしばしばネタにしている。高校のとき教師から叱責されたのを機会に「おもろい不良になろう」と改心(?)する。高校時代のあだ名は、泣きながら熱く語ることから「泣き虫みー君」。高校の三者面談で「公彦君はこの学校のゴミです。」と言われたことがあった。また、高校時代に生徒会長に立候補しようとしたところ、教職員一同に「頼むからやめてくれ」と言われたという。後年、芸能界で大成した後に学校へ行くと「君はこの学校の誇りだ」と言われ、それに対して、「ゴミと誇り(埃)やったら変わらへん」と冗談めかして話している。
  • 10代の頃は大場政夫に憧れ、ボクシングジムに通っていた。1973年には京都府高校フライ級1位を獲得(ただし紳助いわく出場者は3人)また、料亭に勤めていたことがあり、将来は寿司屋競艇の選手か漫才師かと考えていた。

10代 芸能界入り

  • 18歳の時、B&Bに憧れ、B&Bの師匠である漫才コンビの島田洋之介・今喜多代(現・今日喜多代)に入門。同期に明石家さんまオール巨人桂小枝などがいる。「島田洋七を倒すことに俺の青春を賭けよう」と誓ったが、「結局何もしてないのに勝手に倒れた」と当時を振り返っている。
  • 「島田紳助」という芸名の由来は、「島田」は師匠の島田洋之介一門から、「紳助」という名前はいくつかの芸名候補の中から、師匠の島田洋之介が「『紳助』でいいやん」という一言で決まった。ちなみに紳助本人は数ある芸名候補の中で「けんじ」という芸名にしたいと思っていたが、反対に「紳助」が一番嫌だと思っていたという。理由は、子供の頃に同じ「しんすけ」という名前の友達がおり、その友達があまり良い印象ではなかったためだという。ちなみに、同期の杉本高文に「島田紳助」という芸名が決まった時に「その名前じゃ絶対に売れない」とからかわれ、紳助は落ち込んだが、逆に杉本が「明石家さんま」という芸名をもらったと聞いた時、紳助は「こいつ(芸能人として)終わった」と大笑いしたというエピソードがある。
  • 弟子入りしてから竜介に出会うまでの2年間は別の芸人と2回コンビを組んでいるがどれも全くうまくいかず、すぐに解散している。この2年間にキャバレーの呼び込みのバイトをしたり、緻密な研究ノートを書いたり、海原千里・万里夢路いとし・喜味こいしB&Bら既にテレビで活躍している漫才コンビのレギュラーの本数の推移のグラフなどを書き、部屋いっぱいに貼っていた。トップホットシアターなどの劇場に通い漫才を生で研究。1977年9月にNGKで進行をしていた松本竜介(解散後松本竜助に改名)と漫才コンビ紳助・竜介結成。つなぎ作業着風の衣装を着てリーゼント姿の紳助が竜介と絡む芸風は「ツッパリ漫才」と呼ばれ、若い男性を中心に爆発的人気を得る。

20代 漫才師としての繁栄と終焉

30代 - 現在 司会者としての地位を確立

芸能観

  • ダウンタウンが全国区の芸人となって以降、ダウンタウンの漫才のスタイル(テンポを遅くした調子でしゃべる、ダラダラ舞台に出る、など)を真似る若手が多数現れた。それについて紳助は、「ダウンタウンは、それまでの漫才をこなした上で、あのスタイルにたどり着いている。彼らはピカソだ。それを漫才の基本もなってない若手が、ただスタイルだけダウンタウンをまねしても面白いはずはない。」と批判している。
  • M-1グランプリの立案理由について、「世の中、テレビはおろか、劇場に立ったことすらほとんどない、売れない芸人はたくさんいる。それでも、そういう子らは夢を見てやってるから辞めようとしない。そこで、M-1に出られる期限を結成10年にしたら、まあそこで芽があれば、準決勝に出てテレビに映る。運のエエ子らはそこ以外で世に出られる可能性もあるけど、基本的には10年やって芽が出なんだら、お笑いをやめるべき。周りを不幸にする。そのための区切り。」と語っている(2008年7月28日、『人生が変わる1分間の深イイ話』での発言)。

政治について

  • 『サンデープロジェクト』や『サルでもわかるニュース』の出演を機に予習として政治や時事問題について独学で勉強する。この頃から大阪府知事選挙や国政選挙での出馬の可能性についてしばしば報道される。
  • 東国原英夫は、紳助が「オレは政治家じゃなくて、商人だ。豪商の立場から政治家を応援する」と自らに語ったことがあるとし、転身の可能性について否定している[3]。他タレントから政治活動への転身を勧められた際「賄賂でも持って来られたら言下に断れず、お礼を言ってそのまま貰ってしまう」と客観的に自身の性格を分析している。
  • 『サンプロ』降板後、2004年参院選で、民主党から出馬した尾立源幸の選挙運動の応援演説に駆けつけた。尾立はこの選挙でトップ当選を果たした。同時に「民主党候補を支援したのは強力な2大政党制をつくるため。民主党が政権を取ったら今度は自民党を応援する」と語った。投開票日の夜、選挙事務所で朝日放送などのインタビューで「サンプロをしてきた事への恩返し」と発言。
  • 2008年4月27日放送の行列のできる法律相談所にて、橋下徹大阪府知事による4年間の府政によって結果(大阪府の債務など)が出なかった場合、自らが出馬して同知事と争うと冗談で言っていた。また、同日に橋下府知事より、選挙戦での演説におけるアドバイスを求めていたことを同知事によって明らかにされた。作戦は「情に訴える」だったという。
  • 政治信条に関しては保守主義で、読売テレビ今夜はシャンパリーノ」で憲法9条がテーマとして取り上げられたとき、「改正したほうが良い」と発言している。

エピソード

  • 1986年から1995年までの10年間、レーシングチーム『チーム・シンスケ』の監督として、鈴鹿8時間耐久ロードレース全日本ロードレース選手権に参戦した。NHKのスポーツ番組でインタビューが放送されたこともある。1980年代後半はバブル景気の絶頂期であり、モータースポーツ界には各方面のタレントをお飾りで監督に仕立てた(つまりサーキットに来てもレース関係の仕事は何もしない)レーシングチームが2輪・4輪を問わず乱立していたが、紳助は自ら企画書を作成してスポンサー企業を回ったり、レース当日は自分で作戦を立ててライダーやスタッフに指示を出したりし、他のタレント監督とは完全に一線を画していた。その時の活動を書いた著書『風よ、鈴鹿へ』は、小説ではあるがノンフィクションに限りなく近い作品である。
  • 逸見政孝TBSで1993年4月3日に放送された紳助司会の『オールスター感謝祭』に出演。紳助は逸見に向かって「実はなんです」とか「もうすぐ死にますよ」などと冗談交じりに言った。皮肉にも逸見はその半年後の9月に癌である事を公表し、闘病生活の末同年12月に逝去した。紳助は自らの語った冗談が本当だった事に相当ショックを受けたという。そして逸見の亡くなった日の夜に紳助はインタビューで「癌という重病を抱えているのに何で仕事してたんですか。ドアホですよ、逸見さんは」と泣きながらコメントを述べていた。
  • 1995年から約10年間、家族で大阪府能勢町に引越し、著書名を引用すると「えせ」田舎暮らしの日々を過ごす。そこでの日々はトークのネタとなっていた。
  • 海外旅行は、絶対にグアムしか行かないことを90年代のバラエティ番組『メトロポリタンジャーニー』で明らかにしていたが、その後『クイズ!紳助くん』のロケで韓国に行ったことからそのポリシーを変え始めている。また1990年代末頃からグアムに代わって沖縄へ旅行する。2004年の謹慎期間は石垣島などに滞在していた。2009年は休日を沖縄・石垣島で生活する。
  • 数多くのレギュラー番組を持っているが、それらの収録は週末に集中しており、平日の3日か4日は休み。2008年7月7日放送の番組内では火・水・木の3日間は定休日で、以前までは月も休み。稀にゲスト出演する場合、定休日でも仕事をすることがある、と話す。2009年7月26日放送の26時間テレビでは月・火・水・木曜日は休みであるため、沖縄に帰って過ごしていると明かしている。最低でも1年間は沖縄と東京を行き来する生活を送ろうと思っているとも語った。
  • 2008年の後半頃にフジテレビ系『めざましテレビ』内で行われた大塚範一の対談にて、「現在の自分は芸人とは思っていない」と語っている。また、同時期に『一攫千金!日本ルー列島』にて「娘の結婚相手に芸人は許さん」とも言っていた。
  • 日本テレビ系『行列のできる法律相談所』にて『開運!なんでも鑑定団』の出演者・スタッフで行った忘年会時のビンゴ大会のエピソードを取り上げ、目玉商品がウーパールーパーとなり、参加者一同が「ウーパールーパーなんかいらない」という雰囲気でビンゴになっても誰も「ビンゴ!」と言わない事態となったと話した。さらに、他の商品には良い歳した鑑定士達やスタッフが持ってきた『新世紀エヴァンゲリオン』などのアニメグッズが並び、この状況に石坂浩二が「本気か?」と言ったとのこと。紳助はこの有様に「テレビ東京はオタク」と言い放った(なお、このトークは日本テレビ側が「テレビ東京に申し訳ない」との理由で当初はお蔵入りし、その後、2005年8月28日放送分で数ある未公開トークを一挙公開した際に初放映された)。
  • NHK紅白歌合戦』は若い頃から全く興味がなかったが、自身がプロデュースした羞恥心とPaboが紅白出場したことに感激し、紅白に関心を抱くようになり、最近では出演番組内で「紅白の司会がしたい」と語ったこともある。
  • 目標であり尊敬する司会者は草野仁だと話しており、『行列のできる法律相談所』など出演番組で度々草野のものまねをしている。なお、紳助の草野のものまねは出演者から不評を買っている。
  • 音楽好きであり、それが自身の歌手活動や、作詞・プロデュース業をやるきっかけとなっているが、自身の歌唱力には否定的な発言をしている。
  • 老眼の年齢に差し掛かったこともあり、『一攫千金!日本ルー列島』や『クイズ!ヘキサゴンII』の初期には眼鏡を着用して番組に出演することもある。特に、『オールスター感謝祭』では200人もの芸能人を仕切らなければならないため、毎回眼鏡を着用し司会を務めている。
  • 芸能人は知らない人から物をタダで貰うコツがあるという。自身の経験談としてある漁港に立ち寄った際にその関係者に魚類など食品を差してまず「これなんですか?」と聞き、「~です」と返された後に「これ食べれんの?」と問うて、(自身が有名芸能人であるが故に持っていかせたい雰囲気にし)その関係者から「持っていきます?」と言われタダ貰いしたことがあると『行列のできる法律相談所』の第1回放送で話した。さらにその場でこの方式を「芸能人は皆でこれやろう」と推奨した(出演した小林幸子には「私だったらやだ」と敬遠された)他、自身の番組で出演タレントに実践させることもあり、基本的には成功している。
  • 極度の高所恐怖症である。ある番組でリフトに乗った際、2mの高さで本気で怖がっていた。また『松紳』で、脚立の一番上にも立てないことを明かした。
  • 妻は紳助の事を「みー君」(本名の公彦から)と呼んでいる。紳助は「人前では絶対に言うな」と注意するも、自宅に後輩芸人が遊びにきた時に言ってしまうことも多く、その後輩芸人達はがいるのかと勘違いし、辺りを探しだすという。
  • 娘(3人娘の何番目かは不明)は破天荒な部分があると磯野貴理が『行列のできる法律相談所』で話した。それは磯野が紳助の自宅ですき焼きを御馳走になった時に居合わせた、すき焼きに使った牛肉を育てた農家の人に対し(皆で「おいしい」と話しているにも関わらず)「自分で育てた牛食べるのってどんな気分なんですか?」と質問し紳助が止めたが、それでも治まらずしばらくしてから「牛の名前とかって覚えているんですか?」と聞き出したという。
  • 高齢となった両親は2007年3月18日放送分の『行列のできる法律相談所 「紳助と行くとっておき裏京都の旅スペシャル」』に出演したことがあり(磯野貴理が京都にある両親の自宅を訪れる形)、「紳助が司会を務める番組を常に観ている」とコメントした他、母親は紳助について「言葉遣いが悪いところを気にしている」と話していた。
  • 元相方の松本竜助について、著書に「彼が居たから8年もの間漫才が出来た」と記してある。また、竜助に対し「俺は司会者になるために漫才をしている」と話していたとのこと。2006年3月に竜助が倒れた際には東京での仕事を全てキャンセルして大阪へ駆けつけた。同年4月1日に竜助は亡くなったが、通夜と葬儀には参列しなかった。
  • 長年多くの番組で司会を勤め、数多くの芸能人と共演しているが、とんねるずとは一度も共演したことがないと語っている。しかし実際は『歌のトップテン』などで共演している。本人は『とんねるずのみなさんのおかげでした』の「新・食わず嫌い王決定戦」に出たいと『行列のできる法律相談所』で語ったことがある。
  • ボクシングの亀田一家への理解が高く、『行列のできる法律相談所』において、面識のない亀田一家に対する意見を語ったところ、亀田興毅から丁寧なお礼のメールが来た。ちなみに亀田興毅は、たむらけんじから紳助のメールアドレスを聞いたとのこと(たむけんの焼肉屋が亀田家のスポンサーを務めた縁から)。
  • 苦手な食べ物はパン、ホルモン[4]
  • 関西出身であるためプロ野球阪神タイガースファンである。ただその一方で、近鉄バファローズの選手に「目標を達成できなければ、丸坊主にする公約を誓わせたり、千葉ロッテマリーンズの外国人選手が活躍できるかどうか?」予想したりするなど、他球団の選手に関してもほぼ公平に接している。このように、阪神ファンによくありがちな、「他球団の選手をほとんど知らない」比較的良識のあるファンであるといえる。また、「阪神ファンだが、若くて野球の実力があったならば巨人に入る」とも話している。阪神関係者では掛布雅之金本知憲と交友がある。
  • 2007年の日本シリーズ第5戦において、中日ドラゴンズ落合博満監督が行った、完全試合目前だった山井大介から岩瀬仁紀への継投(2007年日本シリーズにおける完全試合目前の継投の項も参照)について批判的な見解を2008年1月1日付けのスポーツ報知に掲載された宮崎県東国原英夫知事との対談内で述べた。
  • 明石家さんま司会のフジテレビ『ホンマでっか!?TV』でコメンテーターを務める金子哲雄は、さんまに容姿が紳助に似ていると「紳助」と呼ばれている。
  • 2009年の『26時間テレビ』内の「ネプリーグスペシャル」で、森光子の名前を間違え、「森紳助に改名します!」と発言。直後の「ひょうきんベストテン2009」では、テロップに「森紳助」と表示されていた。
  • 2005年の日本テレビ系『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』にゲスト出演した際、テーマソングの『サライ』が全く歌えなかったそうで、「(同曲に対し)酒のつまみか」と直後に引き続き日本武道館(ただし、武道館内の武道室)から生放送された『行列のできる法律相談所』内で述べた。その2年後の2007年の回に2度目の出演を果たした際には、1回目の経験で歌詞を覚えたため歌う事ができたと直後の『行列-』生放送で話し(実際、紳助が同曲を口ずさむ姿が映っており、磯野貴理も「紳助さんが『サライ』を歌っているのを初めて見た」とした。さらに、松本志のぶによると武道館の武道室に移動中の廊下でも「桜吹雪の~♪」と歌詞を口ずさんでいたという)、続けて「若いタレントは『24時間テレビ』を観てこの世界に入っているからこの歌が歌えるが、そうでないベテランのタレントは、仕事の都合等で『紅白歌合戦』同様、『24時間テレビ』を観ていられないので歌えない」と発言した。この発言と同じ趣のものを2009年7月に放送されたフジテレビ『クイズ!ヘキサゴンII』(同番組をベース(紳助が総合司会)にフジテレビ『26時間テレビ』を同月末に放送する事が決定し、それに関したトークの最中に紳助が『24時間テレビ』出演時のこのエピソードを紹介した)内でしたところ(ベテランタレントの域に当たる)渡辺正行に「『サライ』を知っている」と反論された。
  • 2010年の『26時間テレビ』内の「さんま・中居の今夜も眠れない」にゲスト出演した際、さんまに「日テレの『24時間テレビ』の方の司会も狙ってるやろ」と指摘された(紳助が総合司会の立場として『26時間テレビ』内で出演者による駅伝を企画するなど、番組を『24時間テレビ』を意識したとも取れる感動路線に持っていったため)。また、放送内でさんまと腕相撲対決をし、敗れた。悔しさの余り「(互いに)60歳になった時にもう1度やろう」とリベンジを誓った。
  • 沖縄石垣島)で生活する時の名前は、「マイク与那嶺」である。また、「宅配便が届いた時に、マイクさ~んと言われるのがうれしいが、与那嶺という漢字が難しい。」と発言[5]
  • クイズ!紳助くん』での竹内ゆうじ追悼番組では、ゆうじに宛てた熱のこもったメッセージを送った。
  • 自身が出演する番組はほとんど見ない。この考えはタモリと共通し、自身の出演番組を全てチェックする明石家さんまとは対照的である。
  • 禁煙に成功してからは、「ノドの通りがよくなって声が出るようになった」と語っていたが、2010年『26時間テレビ』内の「さんま・中居、今夜も眠れない」で明石家さんまと共にタバコを吸っているシーンが放送されており、現在は喫煙状態なのが確認されている。

他の人物との関係

  • 和田アキ子は紳助がタレント活動を始めた初期に態度が悪かったため、自らしつけ係を買って出た。このことがきっかけで和田は自他認める姉貴分という意味も込めた親友的存在となり、和田から自身の悩み等いろいろと相談を受けたりもしている。その関係故、紳助の暴行事件による謹慎時に「早く復帰してほしい」とコメントし、和田に批判の目が向けられたという事もあった。また、『歌のトップテン』、『B.C.ビューティー・コロシアム』では司会コンビを組んだ他、『毛髪クリニックリーブ21』のCMでも共演している。同期の明石家さんまに2009年の『26時間テレビ』内の「さんま・中居の今夜も眠れない」にて「和田アキ子さんに似てきたな」「一緒にコマーシャルやってるから似てきたんや」と言われていた。
  • 飯島愛がAV女優を引退してバラエティ番組に進出し始めた頃自分の番組に飯島をレギュラーとして出演させていたりとても可愛がっていた。一時期飯島愛との交際も噂になったが両人とも否定している。
  • 徳光和夫は紳助の司会ぶりを「天才」と評している他、紳助出演の『人生が変わる1分間の深イイ話』にゲスト出演した際、自身の葬式の弔辞は紳助に読んでもらう事で決めていると話した。
  • 磯野貴理とは元々ほとんど接点がない関係だったが、紳助が『行列のできる法律相談所』を開始するに当たりスタッフに磯野の準レギュラー起用を打診し、それが叶い磯野の番組出演が実現したとの事。以後磯野は同番組での紳助との絡みが話題となり、好感度調査で上位に食い込むという事態となった。
  • X JAPANYOSHIKIと親友だとかつてから『行列のできる法律相談所』、『世界バリバリ★バリュー』 などで度々語っていた。その後、2009年初頭の『行列-』にYOSHIKIがゲスト出演し、親友であるとYOSHIKI本人も認めている。
  • 高原兄アラジン時代に『オレたちひょうきん族』に出演したことがきっかけで親交があった。その後も『スーパーギャング』(TBSラジオ、1988年4月~1989年3月)のレギュラーや、1990年に結成された島田紳助&バスガス爆発楽団への加入でそれを深め、近年では『クイズ!ヘキサゴンII』や『人生が変わる深イイ話』で紳助がプロデュースしたユニットの楽曲の作詞(紳助)・作曲(高原)コンビを組む事が多くなっている。

傷害事件

2004年10月25日大阪・朝日放送社内にて『クイズ!紳助くん』収録前、同じ吉本興業に所属する勝谷誠彦の女性マネージャー(当時40歳)が紳助の尊敬する会社の社長や上司を呼び捨てにして話すのを聞き、さらにその女性が会社に入ってすでに5年目と知り、その女性を別室に無理やり連れ込み説教をしたが、反省の様子がまったくないため、拳や物で殴る、髪をつかんで壁に打ちつける、顔に唾を吐きかけるなどの暴行を加え、全治一週間の頸椎ねんざを負わせた[2]。

女性が部屋を飛び出した後、紳助は「こいつおかしいねん。殴ってもないのに大声出しやがって」と周囲に怒鳴りちらし、それに対し女性は「あなたに殴られて左耳が聞こえないんですよ。一生聞こえなかったらどうしてくれるんですか!」と反論したが、紳助は「な?こんな口答えする女やから、殴られても当たり前やろ」と周囲に言ったといわれている。

すぐさま被害者である女性は大阪府警大淀署に診断書を提出し、10月28日付で傷害容疑で告訴した。紳助は警察に訴えられたと知ると同日に吉本興業の東京支社で記者会見を開き、暴行傷害の容疑を認め、TVカメラの前で「100対0で僕が悪いです」、「被害者が芸能界を辞めろと言うならすぐに辞めます」といって泣きじゃくって反省している様子をみせた。

これを受けて吉本興業では11月4日まで紳助を謹慎処分とし、期間中のレギュラー番組については、各局ともテロップ(収録した日付など)を挿入して通常通り放送した。ただし『行列のできる法律相談所』については法律をテーマに扱っているだけにテロップ挿入で放送というわけにはいかず、緊急生放送として事務所の後輩で準レギュラーである東野幸治を代理司会に立てて放送した。

大阪府警大淀署は11月4日、紳助を「加害者」として傷害罪の疑いで書類送検、検察が略式起訴を請求し、大阪簡易裁判所において「罰金30万円」の略式命令が下された。

前述の謝罪会見で紳助は「髪をつかんで座らせ、平手で一発」と述べていたが、その後の略式起訴の際には「右手やリュックサックで頭を殴ったほか、髪をつかんで壁に打ちつけ、唾を吐きかけるなどの暴行を加え、約2ヶ月の怪我を負わせた」という犯行事実を認めたことが分かっている。

なお、紳助は、当初の11月4日までの芸能活動自粛期間の無期限延期を表明し、11月8日の『キスだけじゃイヤッ!』を最後にブラウン管から一時期姿を消した。被害者からは「芸能界を辞めて」と引退を要求されていたが、わずか2ヶ月ほどの謹慎ののち、2005年1月2日『行列のできる法律相談所』内の生放送にて復帰の挨拶と事件についての謝罪を改めて行って復帰した。ダウンタウンらが紳助のレギュラー司会の代行を務め、紳助の復帰まで繋いだ。

被害女性は事件後休職していたが、2006年6月限りで休職期間満了として退職扱いとなった。しかし、同年8月4日には被害女性が加害者の紳助と吉本興業を相手取り、4400万円の損害賠償を求める民事訴訟を東京地方裁判所に起こしている。また、仕事ができなくなったのは首の捻挫やPTSDなどが原因であるとして、退職扱いの無効と雇用関係の確認も求めている。賠償請求訴訟は2010年9月21日、原告主張が認められ1000万円の賠償命令が下った。

書類送検時のメディアの呼称 紳助が書類送検されたことをメディアが報じた際、フジテレビや新聞各社は「島田紳助容疑者」、日本テレビは「島田紳助さん」、NHKは「島田紳助所属タレント」、TBS・テレビ朝日・テレビ東京は「島田紳助司会者」、共同通信は「島田紳助タレント」と呼称が分かれる形となった。在京キー局で唯一「容疑者」呼称をしたフジテレビは「(逮捕ではなく)書類送検ではあるが、紳助が記者会見で罪を認めたため、容疑者扱いとした」としている。他のメディアが「容疑者」呼称を避けたのは吉本興業への配慮とされる。また、「容疑者」呼称をしたメディアも芸名の「島田紳助容疑者」とし、本名の「長谷川公彦容疑者」とはしなかった。

出演

レギュラー番組

単発・不定期番組

ゲーム

ファミコン

ニンテンドーDS

CM

現在

過去

過去の出演番組

書籍

松本竜助との共著
『紳助・竜介のツッパリ魔:反抗の悪知恵』(1981年5月 ワニブックス ISBN 978-4-584-20021-6
松本人志と共著
松本紳助(2002年1月 ワニブックス ISBN 978-4-8470-1415-4
裏松本紳助(2002年11月 ワニブックスISBN 978-4-8470-1473-4)
哲学(2003年3月 幻冬舎 ISBN 978-4-344-40332-1
松紳(2004年7月 ワニブックス ISBN 978-4-8470-1559-5

映画

  • じゃりン子チエ(1981年/東京ムービー新社)マサル役で声の出演
  • ガキ帝国 (1981年/ATG)リュウ役で映画初出演、スクリプター
  • マンザイ太閤記(1981年/東京ムービー新社)
  • 次郎長青春篇 つっぱり清水港 (1982年/松竹)森の石松役
  • 逃がれの街(1983年/日本テレビ、田中プロ)米倉役
  • 瀬戸内少年野球団(1984年/ヘラルド・エース)正木二郎役
  • 星くず兄弟の伝説(1985年/「星くず伝説」プロジェクト)「ひょうきんベストテン」司会
  • ゴルフ夜明け前(1987年/東宝)桂小五郎役
  • 死霊の罠(1988年/ジャパンホームビデオ)
  • 佐賀のがばいばあちゃん(2006年)スポーツ用品店店主役(友情出演

脚本・監督

Vシネマ

  • 新・童貞物語2 Close to you あなたのそばに (1991年/バンダイビジュアル)
  • 殺しやPAZUZU (2000年/ミュージアム)

受賞歴

  • 第1回 日本映画批評家賞 特別賞(映画「風、スローダウン」)
  • 第17回おおさか映画祭 新人監督賞(映画「風、スローダウン」)
  • 卒煙大賞(2004年、過去にthe brilliant greenaikoらが受賞した賞)

雑誌記事

  • 月刊現代 (講談社)
    • 2005年9月号 - 本誌〔現代〕独占!120分 復帰から7ヶ月--吉本女性社員「暴行事件」を初めて語った 島田紳助 涙!--あの事件のこと、芸人とは、そして僕の未来 (共著:中田カウス・増田 晶文)
  • 週刊文春 (文藝春秋)
    • 2008年8月14日・21日夏の特大号(2490号) - [独占告白]スキあらばエッチするという姿勢は一パーセントでも持ち続けたい 独占告白 島田紳助「視聴率王」の苦しみ--「羞恥心」成功から、株、不動産、"黒い交際"まで、すべてを語った

CD

作詞

プロデュースしたユニット

クイズ!ヘキサゴンIIでのユニット

脚注

  1. ^ 同姓同名の俳優がいるが別人
  2. ^ 「行列のできる法律相談所」内のトーク
  3. ^ 大阪スポーツ 2007年12月11日、22面
  4. ^ 2009年6月15日放送「人生が変わる1分間の深イイ話」より
  5. ^ 2010年2月8日放送「人生が変わる1分間の深イイ話」より

関連項目

外部リンク


先代
2代目 石田純一(1992年・1993年)
ABC制作・EX系
ミス・ユニバース・日本代表選出大会中継司会者
3代目 板東英二
島田紳助
(ダブル司会)
岡元昇(進行役)
(1994年)
次代
放送ライセンス契約切れで終了
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