上田清司
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上田清司 うえだ きよし | |
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生年月日 | 1948年5月15日(76歳) |
出生地 | 福岡県福岡市 |
出身校 |
早稲田大学大学院 法政大学 |
所属政党 |
民主党(1998 - 2003) 民政党(1998) 国民の声(1998) 新進党(1994 - 1997) 新生党(1993 - 1994) 自由連合(1989 - 1993) 新自由クラブ(1976 - 1986) |
称号 |
政治学修士 法学士 |
公式サイト | 埼玉県知事 上田きよし |
在任期間 | 2003年 - |
選挙区 | 埼玉県第4区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1993年 - 2003年 |
上田 清司(うえだ きよし、1948年5月15日 - )は、日本の政治家。埼玉県知事(2期)。
衆議院議員(3期)を務めた。
概要
- 戦後6人目の埼玉県知事。埼玉県志木市在住。
- 埼玉県初の新住民知事。
- 地方自治関連の著書を出版。
- 1980年の初立候補以降4度の連続落選を経験した。度重なる落選にめげることなく地道な政治活動・選挙活動を続け現在の立場を築いた。徹底したドブ板戦術から、いつしか「選挙の鉄人」の異名をとる様になった。そのことは地元選挙区以外でも知られる。実際選挙では連戦連勝で小泉純一郎元首相をして、「あの男とだけは戦いたくない」と言わしめるほどである。
- 初立候補のときから、新自由クラブ、自由連合、新生党、新進党、フロムファイブ、民政党、民主党と政界再編に伴い所属政党を変わったが、政策信条的には一貫して保守系である。(ただし、学生時代は、時代背景から左翼的な面もあった)。2003年に埼玉県知事選に出馬した理由の一つに、同選挙に先に出馬していたフェミニズムの大御所・坂東真理子の存在があったとされる。
- 新自由クラブ解党後は当時の自由民主党総裁中曽根康弘率いる政科研に身を置き、自由民主党公認候補として選挙に出馬することを考えていたが、公認を得られずに終わる。当時、同様に公認を得られなかった人物が現在、複数名埼玉県議会議員(本沢安治ら。現在は自由民主党に所属。本沢は2007年4月落選)となっており、当初野党会派となっていた自民党県議団内で知事支持派となっていた。
- 土屋義彦前知事と対立していた元埼玉県議会議長佐久間実(当時は自民党籍無所属。2007年5月、自民党会派に復帰)は、選挙中から上田支持に回りその当選を歓迎。野党会派となった自民党県議団を上田知事に引き合わせ、自民党県議団内の知事支持派と連携。自民党県議団の与党会派化を推進した。
- 県知事選挙出馬時に民主党離党して以後政党には属しておらず、選挙時にも政党の推薦は受けていない。一方埼玉県議会や県内市町村長及び市町村議会には「上田党」と呼ばれる知事の側近グループがある。県議会では衆議院埼玉4区の区域から選出されている神杉一彦(民主党公認)・醍醐清(無所属・会派は民主党)・吉田芳朝(無所属・会派は民主党)・鈴木正人(無所属・会派は刷新の会)らの議員であり、いずれも非自民系ながら保守色を鮮明にしている県議である。その他浅野目義英県議(民主党所属)も上田清司と30年来の付き合いで、同じく上田側近と言えよう。
- 土屋前知事の県政については、「問題もあったが、評価すべき業績は多い」と語る。政治資金をめぐる不祥事で引退に追い込まれた土屋知事に対する表立った批判はせず、対立の火種を作らぬ配慮を見せる。土屋知事与党だった県議会各会派との融和に努め、自身も「首都圏連合」など土屋知事の県政構想や事業の一部を継承している。
- 街頭で活動をするとき、著作権法違反を承知のうえで 映画『ロッキー』のテーマを繰り返し使用している。(上田の後継者となった神風英男も同様)
- いじめ問題に関して、いじめられる側に理解を示しつつも強気な持論を展開する。
- 埼玉県議会2006年12月定例会において、自由民主党の一議員に質問の中で「やめろ」「国会に戻れ」「知事の政治はメッキだ」と言われ、激怒した。なお、該当議員は発言後、同じ党の人間にも批判された事から、該当議員単独の見切り発車のようである。
- 代議士時代から現在までテレビ朝日「ビートたけしのTVタックル」にたびたび出演。官製談合問題や北朝鮮問題、歴史教育等について発言。
- アール・エフ・ラジオ日本「ミッキー安川のずばり勝負」に時々出演する常連のゲスト。2007年3月10日の「朝まで勝負」の放送で、「やっぱり先祖は大事にしないといけないですよ。うちは、ご飯を食べる前に、子供たちに、『おじいちゃん、おばあちゃん、いただきます。』って言わせてますよ。子供たちもおじいちゃん達を信じているし、こういう事が大事なんじゃないかな。」と語る。同年夏には「日本国憲法は、自由に関しては9つもあるのに義務の項目は3つしかない」と嘆いていたが、この件については正確ではない。
- 名前を「うえだせいじ」と間違えて言われることがよくある。
- 2007年4月2日に行われた埼玉県の新規採用職員の就任式で、「自衛官は大変だ。平和を守るために人殺しの練習をしている。『国民の生命と財産を守るために頑張って下さい』と褒めたたえないといけない」と発言。式後に「殺傷という言葉を使えば良かったかもしれない。分かりやすくなり過ぎて、きつい言葉となった」と釈明したが、3月30日に鹿児島県で民間人の急患輸送任務に就いていた陸上自衛隊CH-47ヘリコプターが墜落し、乗員4名が殉職する事故が起こった直後であったこともあり、厳しい批判を浴びた。本件については、防衛省事務次官守屋武昌が同日の記者会見で、「自衛隊の現場は多種多様で、一つの戦闘場面に限定されるものではないということを理解してほしい」と不快感を示した。さらに警察官の職務について「人を見れば泥棒と思ったり」、「人を疑ったり人を痛めつける練習」をしていると被疑者への拷問を容認したとも取れる発言をした。一方で、県職員については、「多くの人に喜びを与えて感謝され、自らも喜びを感じることができる、最大のサービス産業」と強調していた。
- 上記のように元々政策的には自民・公明に近く、2007年8月26日に実施された埼玉県知事選では自民・公明が直接支援した。佐久間実自民党県議は「知事には全県的支持が必要」として、佐久間の仲介で埼玉県市長会会長の斎藤博・所沢市長(元自民党県議)を選挙対策本部長に迎えたほか、選挙告示日には埼玉県議会議長吉田弘(自民党)が応援演説の第一声をあげるなど、事実上自民党推薦候補として支援した。この選挙に使用した街宣車も東京の自民党からのレンタル品であり、自民党の街宣車でありながら、民主党の河村たかし衆議院議員、原口一博衆議院議員等も応援の際に乗車していた。また出身政党である民主党は「友情支援」に回り、島田智哉子参議院議員の秘書、武正公一衆議院議員の元秘書らが選対に加わっている。共産党以外の各党が上田を支援したこともあって、再選を果たしている。
政策
代議士当時
- 北朝鮮系金融機関への公的資金注入に反対。
- 北朝鮮による拉致事件被害者家族・救う会を支援。家族会・救う会とともに訪米。集会・街頭活動にも参加。
- 安倍晋三・平沢勝栄・平沼赳夫・西村真悟・松原仁らとともに拉致議連を結成。最初から加入していたメンバーの一人で同会の副会長をつとめていた。
- 拉致事件・核兵器開発問題等をめぐる北朝鮮に対する経済制裁に賛成。
- 在日外国人に対する参政権付与に反対。前首相の安倍晋三とは同法案反対をきっかけにパイプができたと月刊誌・「VOICE」の中で明らかにしている。
- 北朝鮮については強硬論者である。
知事として
- 東京都知事石原慎太郎・神奈川県知事松沢成文と協調、道州制・首都圏連合を推進。ディーゼル車の排ガス規制を共同で実施。2007年4月の統一地方選挙の東京都知事選挙・神奈川県知事選挙においては両者を支援(なお、東京都知事選挙では民主党推薦の浅野史郎も出馬していたが彼を無視して石原を支援した)。石原・松沢間の「交換演説」も発案し実現。逆に2007年8月の埼玉県知事選挙においては石原と松沢が上田の応援にやって来た。県知事選挙では国会議員時代の所属政党を超え、三者の連携は緊密化している。また、森田健作とも親密で森田が2005年3月に千葉県知事選に出馬した際には、石原・松沢と共に応援に駆けつけている。経済政策に関しては強硬な新自由主義者である石原・松沢とはやや趣きを異にし、地方への再分配については一定の理解をもっている。とはいえ、自身も知事在任中は両者に引けを取らないほど強力な福祉削減政策を押し進めている。
- 子育て支援徹底。
- 朝鮮総連施設への課税に前向き。
- 北朝鮮による拉致事件被害者家族・救う会を支援。家族会・救う会の集会・街頭活動に参加。
- 埼玉高速鉄道の経営改善と早期延伸推進。同鉄道は開業後しばらく赤字経営だったが、上田が立ち上げた「埼玉高速鉄道検討委員会」の成果により、2003年度には借入金と減価償却費を除く基礎的収支が開業後初の黒字となった。さらに経営再建を進めるため、2004年、しなの鉄道の経営で辣腕を振るった杉野正社長を自ら社長に招聘し、旅行業への進出やギフト販売(2007年1月末日終了)など副業にも乗り出した。2006年11月、杉野は2007年神奈川県知事選挙に出馬を表明し、2006年11月16日の臨時取締役会を最後に社長を退任した。
- 県職員の天下りを廃止。だが、一部で疑問も持たれている[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。
- 県のマスコットキャラクター「コバトン」を制定し、各所で使用。関連グッズも販売。
- 岡田尊司『脳内汚染』に感銘を受け、首都圏サミットにおいて4都県・4政令指定都市共同で文部科学省と別にゲーム脳の実在証明を研究することを提唱。少年犯罪はゲームが原因であると主張。
- 2006年5月20日にさいたま市で開催された世界基督教統一神霊協会(統一教会)の関連組織・天宙平和連合の会合に祝電を送っていたことが判明し、「全国霊感商法対策弁護士連絡会」(国家機密保護法制定反対のために設立された社会党系・共産党系弁護士の団体)が質問状を送付している。
- 全国知事会では「公共調達に関するプロジェクトチーム」座長を務める。2006年12月、官製談合防止のガイドラインの取りまとめを行った。
教育関連
- ジェンダーフリー反対。県立伝統高校の男女共学化反対。
- 2004年10月、県議会答弁で、「新しい歴史教科書をつくる会」を支持し、同会の歴史教科書を評価。中国・韓国・北朝鮮の抗議を内政干渉であると批判。同年12月20日、同会の副会長であった高橋史朗明星大学教授を埼玉県教育委員に指名したが、教科書の中立性維持という観点からの批判があった。
- 2006年6月議会で、埼玉県平和資料館の展示に関する質問に対し、「古今東西、慰安婦はいても従軍慰安婦というのはいなかった」と答弁。これを批判する活動家との面会で知事は、当時の人々の不幸な境遇につき理解を示したものの、自説を通した。(面談を要請した李容洙も参照)
略歴
経歴
- 1948年5月15日:福岡市生まれ。大牟田市に育つ。
- 1967年3月:福岡県立三池高等学校卒業後、上京。4月法政大学法学部法律学科に入学。当初、司法試験を目指すが断念。2年生の時弁論部に入部し、熱心に活動する。この頃、同大学法学部政治学科の松下圭一教授の著作に親しむ。同教授の講義も聴き、それを契機として地方自治への関心も持つ。当時は、このような左派的な考え方にも理解を示す一方、黒い学生服を着て登校する硬派でもあった。また、ハンサムで竹を割ったような性格から女性にもすこぶるもてた。キャンパスで、学生運動の対立する2つのセクトが、内ゲバで乱闘をしているとき、「やめろ、やめろ、」と間に割って入っていったこともある。自身は学生運動には疑問を持っていたが、在学中、運動に巻き込まれ逮捕された後、故郷に帰って亡くなったひとりの後輩のことを今でも気にかけているという。
- 1971年3月:法政大学法学部法律学科を卒業。
- 所沢市で学習塾を開業する。テレビの青春ドラマの主人公のような熱血先生で、子供たちに慕われる。この頃、キャンディーズのファンで子供たちと一緒によくレコードを聴く。また、法政大学の後輩たちの面倒をよくみる。この時期、自民党入党した等のことがいわれるが、その事実はない。大学在学中から大学院卒業にかけて読んだ本は大変な量にのぼる。また、上田の開いた学習塾、向陽塾は今も後輩が受け継いで所沢市にある。
- 1976年:新自由クラブ立党に参画。
- 1977年3月:早稲田大学大学院政治学研究科を修了。
- 1979年~1986年:建設大学校(現・国土交通大学校)非常勤講師。この頃新自由クラブの青年局長等も務める。
- 1980年6月22日:衆議院議員に新自由クラブ公認で立候補、落選。以後3回落選。
- 1993年7月4日:衆議院議員選挙に新生党公認で旧埼玉5区から立候補(5回目)し初当選(同区で日本新党新人で後に新党さきがけ移籍する枝野幸男も初当選)。
- 1996年10月20日:衆議院議員選挙に新進党公認で埼玉4区から立候補し自由民主党新人の早川忠孝を破り再選。
- 2000年6月25日:衆議院議員選挙に民主党公認で埼玉4区から立候補し早川を連破し3選。
- 2003年8月2日:埼玉県知事選に無所属での出馬を表明。
- 2003年8月31日:島津昭、坂東眞理子、浜田卓二郎ら対立候補7人を破り、埼玉県知事に初当選。
- 2007年8月26日:日本共産党前参議院議員の吉川春子との事実上の一騎打ちによる埼玉県知事選で当選(2期目)
著書
- 『法律は「お役人」のメシの種 国会議員が書いた日本的官僚システムのからくり』(オーエス出版 1998年) ISBN 4-87190-489-X
- 『これが政治改革だ 日本の未来を信じる人のために』(五十嵐文彦・石井健祐・進藤初洋・中村博彦・牧野聖修・山田智信との共著)(理想政治研究会発行・明日香出版社発売 1992年)
関連項目
外部リンク
- 埼玉県知事 上田きよし(公式サイト)
- 知事の部屋(県庁内サイト)
54代-第56代 土屋義彦 |
埼玉県知事 57代-第58代:2003 - 現職 |
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