「東海道五十三次」の版間の差分
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|{{ウィキ座標|35|1|11.6|N|138|28|51.1|E|region:JP|寺尾本陣跡|name=江尻宿}} |
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2024年3月5日 (火) 12:46時点における最新版
この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2021年10月) |
なお、昭和になって京都から先の大坂(伏見、淀、枚方、守口)までを加えて東海道五十七次と唱えることもある [注釈 1][注釈 2][信頼性要検証]。
また、奈良時代の律令制による東海道では、延喜式によると、伊勢の鈴鹿駅から常陸の雄薩(おさか)駅まで55駅が設置されている。 道標に、一里塚(東海道の一里塚一覧)が、江戸幕府の参勤交代のため、各宿場に本陣(旅籠)、脇本陣(旅籠)が指定された。
五十三次の一覧
[編集]数は品川宿からの通し番号である。江戸と京の間は里程124里8丁、487.8キロメートル (km)。
東海道五十三次には、旅籠が全部で3000軒近くあったといわれ、宿場ごとによってその数は著しい差があった。人口の多い江戸や京都周辺や、箱根峠や七里の渡しなど、交通難所を控えた宿場も多かった[1]。特に旅籠の数が多かった宿場は、七里の渡しの港があった宮宿(熱田宿)が247軒とその数は群を抜き、その対岸の桑名宿も120軒あった[1]。宮宿は旅籠の数では、東海道はもとより日本一大きな宿場町であった[1]。他に100軒を超えたのは、岡崎宿の112軒である[1]。箱根八里の東麓に位置する小田原宿は95軒、西麓の三島宿にも74軒の旅籠があり、その手前の大磯宿(66軒)、平塚宿(54軒)、藤沢宿(45軒)と比べると多かった[1]。このほか旅籠の多い宿場は、品川宿(93軒)、川崎宿(72軒)、戸塚宿(75軒)、浜松宿(94軒)、四日市宿(98軒)、草津宿(72軒)、大津宿(71軒)があった[1]。
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金谷坂(金谷―日坂間)
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御油の松並木
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京都・三条大橋
東海道五十七次
[編集]東海道の延長線として、元和5年(1619年)に設置された京街道 (大坂街道)の宿場を含めて東海道五十七次と呼ぶことを、近年広めることにより街づくりに貢献している[要出典]。(2021年現在の国道1号である)
数は品川宿からの通し番号である。
宿場 | 令制国 | 郡 | 現在の自治体 | 特記事項 | ||
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都道府県 | 市区町村 | |||||
53. 大津宿 | 近江国 | 滋賀郡 | 滋賀県 | 大津市 | 髭茶屋追分で東海道から分かれる[注釈 3]。 | |
54. 伏見宿 | 山城国 | 紀伊郡 | 京都府 | 京都市 | 伏見区 | |
55. 淀宿 | 久世郡 | |||||
56. 枚方宿 | 河内国 | 茨田郡 | 大阪府 | 枚方市 | ||
57. 守口宿 | 守口市 | |||||
高麗橋 | 摂津国 | 西成郡 | 大阪市 | 中央区 | 江戸時代は京橋(大阪市)[注釈 4]であった。 |
脚注
[編集]注釈
[編集]道中掛御勘定奉行へ差出
覚 東海道と申者 右、何れ之宿より何れ之宿迄之儀に御座候哉、 東海道 品川より大津迄 中山道 板橋より守山迄 木曾路 甲州街道 内藤新宿より上諏訪迄 奥州街道 白沢より白川迄
(マヽ) 日光街道 千住より鉢石迄拾駅
水戸街道 水戸道中 佐倉街道 佐倉道中 右七海道も、何れ之宿より何れ之宿迄之儀に御座候哉、 右為心得奉伺候、以上、文化八年六月十七日
出典
[編集]参考文献
[編集]- 浅井建爾『道と路がわかる辞典』(初版)日本実業出版社、2001年11月10日。ISBN 4-534-03315-X。
関連項目
[編集]- 東海道の一里塚一覧
- 歌川広重-東海道五十三次
- 東海道中膝栗毛-十返舎一九
- 中山道六十九次
- 徒歩旅行
- 東海道新幹線
- 東海道本線
- 歌川国芳 - 『其のまま地口 猫飼好五十三疋』
- 水木しげる - 『妖怪道五十三次』
- かんしゃく玉なげカン太郎の東海道五十三次