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[[肥前国]][[佐賀藩]]第2代藩主[[鍋島光茂]]の四男として生まれる。のち[[多久茂矩]]の養子となり、[[貞享]]3年([[1686年]])に第4代多久邑主となる。儒学者[[武富咸亮]]、[[実松元林]]に学び、[[東原庠舎]]・[[多久聖廟]]を創建する。[[鍋島元武]]の三男を長女千重子(本良院)の婿養子とし、茂村と名乗らせ、茂村は茂文の没後に第5代多久邑主を継ぐが、兄の[[小城藩]]主[[鍋島元延]]が没すると第5代藩主[[鍋島直英]]となる。よって次女の婿[[多久茂明|茂明]](須古邑主[[鍋島茂清]]の子)が第6代邑主として相続した。 |
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2012年3月10日 (土) 18:22時点における版
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛文9年(1669年) |
死没 | 正徳元年(1711年) |
別名 | 伊豆、伊予(通称) |
墓所 | 佐賀県佐賀市本庄町の慶誾寺 |
主君 | 鍋島光茂→綱茂→吉茂 |
藩 | 肥前国佐賀藩多久邑主 |
氏族 | 鍋島氏→多久鍋島氏 |
父母 | 父:鍋島光茂、養父:多久茂矩 |
兄弟 |
鍋島綱茂、鍋島吉茂、茂文、村田政盛、 鍋島長行、鍋島辰茂、鍋島宗茂、鍋島茂之、 鍋島徳寛、神代直方、千(土井利重正室)、 伊東祐実継室、水野忠直正室、 鍋島茂正室、鍋島武興室、鍋島直朗室、 鍋島嵩就養女、諫早茂照室、 岡部盛明正室、鍋島直恒正室 |
妻 | 正室:彦市 |
子 |
千重子(鍋島直英正室)、娘(多久茂明正室) 養子:多久茂村 |
肥前国佐賀藩第2代藩主鍋島光茂の四男として生まれる。のち多久茂矩の養子となり、貞享3年(1686年)に第4代多久邑主となる。儒学者武富咸亮、実松元林に学び、東原庠舎・多久聖廟を創建する。鍋島元武の三男を長女千重子(本良院)の婿養子とし、茂村と名乗らせ、茂村は茂文の没後に第5代多久邑主を継ぐが、兄の小城藩主鍋島元延が没すると第5代藩主鍋島直英となる。よって次女の婿茂明(須古邑主鍋島茂清の子)が第6代邑主として相続した。