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2010年11月23日 (火) 00:14時点における版
公明党 NEW KOMEITO (New Clean Government Party) | |
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代表 | 山口那津男 |
代表代行 | 浜四津敏子 |
幹事長 | 井上義久 |
参議院議員会長 | 白浜一良 |
成立年月日 | 1964年11月17日 |
本部所在地 |
〒160-0012 東京都新宿区南元町17北緯35度40分44.4秒 東経139度43分16.9秒 / 北緯35.679000度 東経139.721361度 |
衆議院議席数 |
21 / 480 (4%) |
参議院議席数 |
19 / 242 (8%) |
党員・党友数 |
426,837 (2006年政治資金収支報告書) |
政治的思想・立場 | 中道主義 |
政党交付金 |
27億2,500万 円 (2009年1月現在) |
シンボル | ファイル:Komeito logo.svg (赤い太陽) |
8011105001478 | |
公式サイト | 公明党 |
公明党(こうめいとう、略称:公明、NEW KOMEITO、"NK"またはNew Clean Government Party、"NCGP")は、日本の政党。
日蓮正宗系の新宗教団体である「創価学会」を主な支持母体としている[1][2]。
- 1961年、衆議院進出を目指し、「公明政治連盟」が結成される。英文名称は"THE KOMEITO"。: 1964年、「公明政治連盟」を改組し、宗教政党[3]「公明党」を創立[4]。創立者は池田大作創価学会会長(現名誉会長)[5]。
- 1994年、12月5日 「公明党」を解散し、「公明新党」(衆議院議員と1995年改選期の参議院議員)と「公明」(1998年改選期の参議院議員と地方議員)に分党。同年12月10日、公明新党は新に結党された新進党へ合流。「公明」はそのまま存続。
- 第2期:1998年11月7日 -
- 1998年、新進党の解散に伴い、旧公明党系の「新党平和」・「黎明クラブ」・「公明」が合流し、「公明党」を再結成。英字名称はNEW KOMEITOとなった。
本項では分党期の公明新党(こうめいしんとう)、公明(こうめい)、新党平和(しんとうへいわ)、黎明クラブ(れいめいクラブ)についても述べる。
概要
創価学会第2代会長の戸田城聖が創価学会の政界進出を目指し、1955年の統一地方選挙や、翌1956年の第4回参議院議員通常選挙で創価学会信者を当選させた[6]。1961年には政党「公明政治連盟」を設立。翌1962年の第6回参議院議員通常選挙で民主社会党を追い越して第3党となった。戸田の後を継いだ創価学会第3代会長(当時)の池田大作が、1964年に「公明政治連盟」を改組して「公明党」を設立。1963年の統一地方選挙で1000人を越える地方議員を誕生させるなど急成長し、1967年の第31回衆議院議員総選挙で25議席を獲得しついに衆議院に進出した。結成当初は「王仏冥合」・「仏法民主主義」を基本理念とすることを謳うなど、宗教的な目的を前面に打ち出していた[3]。
1969年から1970年にかけて、創価学会と公明党が自らを批判する書籍の出版・流通を阻止するために働きかけていた(「言論出版妨害事件」)ことが公になり、「言論の自由」を侵すものだとして社会的批判を受けた。この問題の中で、創価学会と公明党との密接な関係が憲法に規定された「政教分離原則」に反するという批判も強くなり国会でも議論されるようになった。国会での追及が高まる中、池田大作が公明党と創価学会を制度的に明確に分離することを明言し、「日蓮正宗の国教化」と誤解されやすい「国立戒壇」という表現は将来ともに使わないこと、「国立戒壇」を国会で議決することを目標にしないことなどを約束し、党の綱領から「王仏冥合」、「仏法民主主義」などの用語を削減するなど、宗教色を控える方針転換を図った。
これ以降、自由民主党と日本社会党の2大政党がしのぎを削っていた「55年体制」の中にあって、保守でも革新でもない「中道路線」の立場で、福祉と平和を最重要の政策とし、大衆のための政治をアピールする。1973年以降、社公民を軸とする「反自民」の「中道革新連合政権構想」を提唱したが、1970年代後半に、地方の首長選では自公民の選挙協力を取るようになる。1974年には支持母体である創価学会が長らく対立を続けてきた「日本共産党」との間で相互不干渉を約束する、いわゆる「創共協定」を結ぶが、党内の反発が強くなり、1年ほどで死文化してしまう。以降は共産党に対する批判は続いている[7]。
長らく中道路線を取ってきたが、1990年代には政策面で保守に近づき、自衛隊の海外派遣を認める「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」(PKO法)制定に賛成して外交政策を転換した。
1993年には、38年間続いた自民党支配を打ち破った非自民の細川連立政権に参加し、結党以来初めて与党の側につき、郵政大臣、労働大臣、総務庁長官、環境庁長官などの国務大臣のポストを得る。 1995年の「宗教法人法」改正をめぐり、池田の参考人招致を決議しようとする自民党に対し、国会でピケを張り、座り込みなどの実力行使で阻止した。1999年からは単独で過半数を得ることが困難になった自民党(小渕内閣)の要請を受け、連立に参加(自自公政権)。その後も森内閣から麻生内閣に至るまで自民党と連立を組んでいた(自公保・自公連立政権)。
かねてから護憲の立場の「平和の党」、庶民の立場に立つ「福祉の党」を自称しアピールして来たが、少なくない障害者関係団体が反対する中で、障害者自立支援法や医療制度改革、自衛隊イラク派遣などを自民党と共に進めたことに対しては支持者の中にも批判の声がある。また、選挙期間における創価学会信者の熱心な選挙活動や投票依頼などもあり、「政教一致」問題に対しては依然として根強い批判がある。しかし、無党派層が増え、政党の支持基盤の弱まっている中で、支持母体である創価学会による安定した固定票を持つ公明党は、政権を左右するキャスティング・ボートを握っていると言われる[3]。
2009年の総選挙では小選挙区において代表の太田昭宏を含む候補者8人全員が落選するなど大敗を喫し、自民党と合わせても過半数を大きく下回ったため、民主党を中心とする野党に政権を明け渡し下野。約10年間続いた自民党との連立政権に終止符が打たれた。
現在の党のキャッチコピーは「いちばん近くで、動く、働く。」である。
沿革
- 7月 第4回参議院議員通常選挙で3名が当選。
- 8月 戸田が創価学会機関紙『大白蓮華』63号に「王仏冥合論」を執筆し、創価学会の政治進出を理論づける[8]。
- 6月27日 大阪府警が参議院大阪地方区の補欠選挙における公職選挙法違反の疑いで創価学会本部の理事長・小泉隆を逮捕。同年7月4日には創価学会渉外部長(当時)池田大作が信者に戸別訪問を指示した疑いで逮捕、起訴される。(「大阪事件
- 6月 第5回参議院議員通常選挙で6人の候補全員が当選、参議院の総議席数は9議席に。
- 11月27日 創価学会の第3代会長となった池田が政党「公明政治連盟」を発足(委員長:原島宏治、副委員長:北条浩、書記長:龍年光)。ただし、当時の公明政治連盟はあくまでも宗教法人創価学会の組織内にあった。
- 7月 第6回参議院議員通常選挙において9人の候補全員が当選。参議院の総議席数は前回より6議席増の15議席になったことで院内交渉団体の資格を得る[12]。自民党、社会党に次ぐ第三党となる。
- 1963年東京都知事選挙で、自民党が推薦する東龍太郎を支援[8]。
- 11月17日 「公明政治連盟」を改組し、「公明党」を設立。結党宣言は、「公明党は、王仏冥合・仏法民主主義を基本理念として、日本の政界を根本的に浄化し、(中略)大衆福祉の実現をはかるものである」[13]。(この結党時において、参議院では15議席、地方議会には1200余人の議員を有していた)。
- 池田が『政治と宗教』(鳳書院)を出版。「王仏冥合」の理念をベースした政治論を訴える[8]。
- 7月4日 第7回参議院議員通常選挙において11人が当選、参議院の総議席数は前回より5議席増の20議席に。
- 7月 和泉覚が参議院法務委員長に就任し、公明党所属議員初の国会委員長になる。
- 衆議院選挙直前に、池田が「憲法擁護」、「大衆福祉」、「安保の段階的解消」などを含む公明党の方針を公表[8]。
- 1月 第31回衆議院議員総選挙で一挙に25議席を獲得し、衆議院に初進出。その後の党人事で衆議院議員の竹入義勝と矢野絢也がそれぞれ委員長と書記長に就任。党の比重を衆議院に重きを置くようになる。
- 7月7日 第8回参議院議員通常選挙で12名が当選、3議席増の23議席となるが支援団体創価学会による集団替え玉投票事件が起き学会員14名が逮捕されるなど社会問題化する→詳細は「新宿替え玉事件」を参照
- 9月8日 日本大学講堂における創価学会学生部総会において池田会長が日中国交正常化を提言。
- 12月 「言論出版妨害事件」を巡り、「政教一致」に対する社会的批判を受ける。
- 12月27日 第32回衆議院議員総選挙では47議席を獲得し、民社党(31議席)を抜き、日本社会党(90議席)に次ぐ野党第2党に躍進する。
- 5月3日 日本大学講堂(旧両国国技館)における創価学会第33回本部総会において池田会長が「言論出版妨害事件」について謝罪。「国立戒壇」の教義の撤回、創価学会と公明党の役職の分離などを表明[8]。「宗教法人創価学会文化部」としての公明党はここで幕を閉じ、組織、制度上も政党として完全に独立した新たな「公明党」が誕生した。
- 矢野が社会党書記長の江田三郎、民社党書記長の佐々木良作らと共に、社公民連合政権構想による『新しい日本を作る会』を結成。
- 6月27日 第9回参議院議員通常選挙において10人が当選するが、参議院の総議席数は前回より1議席減の22議席に。
- 第一次訪中団を派遣[8]。日中復交五原則を提案。
- 6月 竹入を団長とする訪朝団が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を訪問。北朝鮮首相金日成との共同声明で、主体思想(チュチェ思想)を指針として、社会主義建設で大きな進歩をとげたことを賛美[14]。
- 1974年
- 第10回参議院議員通常選挙において14人が当選、参議院の総議席数は前回により2議席増の24議席に。
- 10月 創価学会と日本共産党の間で「創共協定」が締結。
- 7月 公表された「創共協定」に異を唱える。
- 1977年
- 第10回参議院議員通常選挙において14人が当選。議席は25議席に
- 1979年
- 民社党との公民連合政権構想に合意。
- 10月の衆院選において、公明党は57議席を得る「日本社会党」、「民社党」、「連合の会」、新自由クラブの4党と選挙協力し、自民党を過半数割れに追い込む。
- 12月 民社党と「中道連合政権構想」で合意[8]。
- 1月 社会党と「連合政権構想」で合意[8]。
- 6月22日 ハプニング解散によって初の衆参同日ダブル選挙が実施、選挙期間中に大平正芳総理が逝去。自民党が分裂ムードから融和ムードへと変わったことから参議院においては12人が当選、参議院の総議席数は前回より1議席増の26議席になったが衆議院では票が伸び悩み57議席から33議席へと議席を減らす惨敗を喫した。
- 12月 「日米安保存続」と「自衛隊の条件付合憲」に政策転換[8]。
- 6月22日第13回参議院議員通常選挙において14人が当選し、参議院の総議席数は前回により1議席増の27議席に
- 12月18日 第37回衆議院議員総選挙では58議席と躍進
- 再び衆参同日ダブル選挙となる。第14回参議院議員通常選挙において10人が当選も、参議院の総議席数は前回より3議席減の24議席に。第38回衆議院議員総選挙でも2議席減の56議席に
- 12月 委員長に矢野絢也、書記長に大久保直彦が就任[8]。
- 委員長に石田幸四郎、書記長に市川雄一が就任[8]。第15回参議院議員通常選挙では自民党への逆風による批判票が社会党一党のみへ流れた為獲得議席は10議席。参議院全体で3議席減の21議席と後退したが選挙直後の総理大臣指名選では参院での決選投票において日本社会党委員長土井たか子を支持し自民党総裁海部俊樹を破る[15]。
- 第39回衆議院議員総選挙では再び自民党への逆風、批判票が社会党一党のみへ流れた為公明党は45議席へと議席を減らす
- 4月 「4野党連合政権協議」を凍結[8]。
- 6月 PKO協力法成立に協力[8]。
- 7月 第16回参議院議員通常選挙において一部の選挙区で初めて自民党と選挙協力を行なう(高知県選挙区における平野貞夫など)。また議席は3議席増の24議席へ
- 8月 羽田孜前副総理を首班とした非自民の新生党政権に5人が入閣(公明党委員長石田幸四郎のみ再入閣)。
- 6月 総理大臣指名選で海部俊樹支持も社会党委員長村山富市に敗北。村山内閣・自社さ連立政権の成立により、野党に転落。
- 12月4日 参議院特別委員会に創価学会第5代会長の秋谷栄之助が参考人として出席。「政治に大衆の声を反映していく政治の実現を願って公明党の支援をして来た」、「政党が政権を目指すというのは当然のこと」、「政治によって何か利益を得るとか政治の力を借りて布教をするとか、自分達の宗教を国教化しようなどということは毛頭考えていない」などと述べる[16]。
- 12月5日 「公明党」を解散し、政党助成法に基き「公明新党」と「公明」に分党。
- 12月10日 公明新党が新進党へ合流。
- 7月23日第17回参議院議員通常選挙で新進党として初選挙に臨むが新進党は比例区第一党になり18人当選、東京都選挙区で公明系の魚住裕一郎が当選。自民党の単独過半数を阻止
- 1月18日 自民党が運動方針の中に、「いま、わが国の政治にとって最も憂うべきは、宗教団体・創価学会が新進党という政党の皮をかぶって国民を欺き、政治の権力を握ろうと画策していることである」という内容を盛り込む[17]。
- 10月20日史上初の小選挙区比例代表並立制による第41回衆議院議員総選挙で新進党は政権交代に失敗
- 1月4日 新進党から分党して新党平和(衆議院議員が所属)、黎明クラブ(参議院議員が所属)が発足した。
- 1月6日 新進党の存続政党・自由党に公明系から8人参加
- 1月18日 公明が黎明クラブと合併し、参議院議員は公明に一本化される。
- 7月12日 第18回参議院議員通常選挙において9人の候補が当選し、議席数は前回と同数の22議席に。
- 7月30日 総理大臣指名選において、衆院では新党平和代表神崎武法(1回目で自民党総裁就任直後の小渕恵三が過半数)、参院では1回目は東京選挙区で(自由党、同じく新進党分党で結成の改革クラブ_(1998-2002)、民主党岩国哲人の支援も受け)2位で再選直後の公明代表浜四津敏子、決選投票で民主党代表菅直人に投票。
- 11月7日 「公明」と「新党平和」が合流し小沢自由党離党者5名加わり、「公明党」を再結成。(権藤恒夫、二見伸明、東祥三は自由党残留。新進党分党後に国民の声~民友連・民政党~民主党参加の広中和歌子も民主党残留)
- 沖縄県知事選挙で自民党推薦の新人稲嶺恵一を県本部推薦し革新系現職大田昌秀を破る。
- 1999年東京都知事選挙(新人対決)で自民党が擁立した明石康、小沢自由党と共に都本部推薦も石原慎太郎に完敗。
- 10月5日 自民党と自由党の連立政権に加わり、自自公連立政権(小渕内閣 (第2次改造))が成立。
- 4月1日 連立離脱の自由党から保守党が分裂し、自公保連立政権となる。
- 4月5日 小渕内閣を引き継いで森内閣が成立。その後の改造でも自公保連立政権が続く。
- 6月25日第42回衆議院議員総選挙で初めて与党側として選挙に臨む。議席は31議席と大きく減らすが自公保連立政権は維持できた
- 4月26日 第1次小泉内閣成立。自公保連立政権が続く。
- 7月29日第19回参議院議員通常選挙では圧倒的な小泉フィーバーの中議席を1議席増やす
- 11月 第43回衆議院議員総選挙で初の「マニフェスト」を発表。議席は3議席増の34議席となるが以後の総選挙では公明党は議席を増やしていない
- 11月19日 第2次小泉内閣において保守新党解散に伴い自公連立政権となる。
- 第20回参議院議員通常選挙では11議席を獲得。議席は1増えて24議席となる
- 9月11日第44回衆議院議員総選挙(郵政選挙)では自民党に圧倒的な追い風が吹くも連立を組む公明党へは追い風が吹かず獲得は自民党の296議席に対し公明党は31議席と逆に議席を減らした。
- 9月22日 首相就任直前の安倍晋三が池田と極秘裏に東京都内の創価学会の施設で会談し、次回の参院選での公明党や創価学会の協力を要請し、池田は協力を約束したと日経・毎日・朝日・読売の各紙、『週刊文春』が詳細を報じた[19][20]。
- 9月26日 安倍内閣成立。自公連立政権。
- 9月30日 第6回公明党全国大会において、公明党代表に太田昭宏、幹事長に北側一雄が就任。新宣言を発表[21]。
- 2月9日 公費を使って海外を視察した公明党福岡市議団が、大半の文章をウェブサイトから盗作して視察報告書を作成し提出していたことが発覚[22]、公明党福岡市議団は報告書を翌月再提出し公費負担の視察の自粛を表明。
- 4月12日 太田が都内で中華人民共和国首相の温家宝と会談。日中両国の首脳の対話を願って来たことを語る。同日、創価学会名誉会長・池田大作も温と会談。
- 7月29日 第21回参議院議員通常選挙では公明党も自民党批判の逆風の影響を受け票が伸びず選挙区での落選を含め当選は9議席と惨敗。議席は20議席となる[23]
- 9月26日 福田康夫内閣成立。自公連立政権。
- 1月13日 太田が第44回衆議院議員総選挙にて選挙カーの給油量を水増しして申請し東京都選挙管理委員会から燃料代を不正に受け取っていたことが発覚[24]、翌日、太田が事実を認め謝罪[25]。
- 9月16日 公明党代表選で太田が無投票で再選[26]。
- 9月24日 麻生内閣成立。自公連立政権。
- 8月30日 第45回衆議院議員総選挙で代表の太田昭宏と幹事長の北側一雄など選挙区候補の8人が全員敗北し重複立候補していなかった為に落選し、衆議院進出以来最低の21議席の惨敗となった。
- 9月8日 臨時全国代表者会議で山口那津男の新代表就任を決定。新幹事長に井上義久を指名した。
- 9月16日 民主党中心の民社国連立政権が誕生し、9年間続いた政権与党から下野。自公連立を解消した。
- 10月 参議院神奈川県選挙区補選で自民党新人角田宏子に本部推薦見送り神奈川県本部推薦で支援も敗北。
- 7月11日 第22回参議院議員通常選挙では9人が当選も議席は2議席減の19となり当選人数、比例での得票数も自民党、民主党、みんなの党に次ぐ4番手に後退した。しかし自民党との選挙協力が実り連立与党の過半数は阻止した
組織
- 最高議決機関は党大会で代表を選出し、活動方針、重要政策、綱領及び規約の改正、予算決算など重要案件を決定する。大会が開かれていない間は代表者会議が大会の権限を代行する。国会議員は両院議員総会を作る。党の最高執行機関は中央幹事会で、代表、副代表、幹事長を置く。代表以外の主要役員は代表が指名してから大会の承認を得ることになっており、より下級の役員は上からの指名によるので、規約上は代表の権限が強い。
- 「言論出版妨害事件」以降、党組織の一定の改革もなされ、中央幹部会を議決機関の中央委員会と執行機関の中央執行委員会への分離と党大会代議員の下部からの選出等が行われたが、依然として創価学会が強い指導権を持っていると見られる[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。
党員
現在は創価学会員以外でも一般党員として入党することが可能。18歳以上の者であればその国籍は問わない。
党費は年額3,000円だが、党費支払いの他に日刊『公明新聞』と月刊『公明』の2つの機関紙誌を購読することが規約7条で義務付けられている[27]。
本部
党本部は東京都新宿区南元町の公明会館にあり、各都道府県に県本部などを持つ。
人事
- 2年に一度開催される全国大会で、代議員によって公明党代表が選出されることになっているが、結党以来、委員長・代表などの交代に際に対立候補が出たことはこれまで一度もない[28]。選出された代表が幹事長、代表代行、副代表などを指名。党本部の役員その他の人事については、中央幹事会で決定・承認される。
- 党の内規では「任期中に66歳を迎えない」ことを選挙における公認条件としており、事実上の定年制を設けている。しかし、過去に幹部を務めた議員を例外扱いしており、有名無実化しているとの指摘もある。
- 創設者である池田大作はこれまで、党員にも、党の役員にもなったことはない[29]。
政策
憲法
- 池田が、1999年に提言した「首相公選制」を2001年の参議院選挙の公約に盛り込むことを内定していたが、内閣法制局が憲法改正必要との見解を示したことを受けて、見送った[30]。
- 憲法改正論議について、党内には改正論と慎重論の2つがあり、結局党がまとめた案は自民党や民主党とは違い憲法9条は1項、2項とも堅持し、その上で第3項を加えるという「加憲」であった。
- 依然として党内では9条は一切変えず、その他の条文を変えるといった声も強い。これは支持母体である創価学会の初代会長と2代目会長が治安維持法で逮捕され、初代会長が獄死した過去があり、戦前復古的な改憲には否定的に考える事情があるためとされる[31]。
安全保障
- 公明党結成時の1964年においては「発展的解消」を主張。昭和40年代には「段階的解消」、「早期解消」を主張。「創共協定」締結直前の1974年1月の中央委員会では「即時解消」。「創共協定」が党内の反対を受けが空文化し始めた1975年10月には事実上の存続を認める「合意廃棄」と軟化し、1978年1月の第15回公明党大会で、日米安保、自衛隊、原子力発電を容認することを表明した[29]。
- イラク戦争では自衛隊イラク派遣に賛成、2007年6月には改正イラク特措法(期限を2年間延長)の成立にも賛成した。なお、イラク戦争の開戦理由となった大量破壊兵器が存在せず、アルカイーダとフセイン政権(当時)が無関係とアメリカ自身の調査で証明されたものの、イラク戦争は(開戦当時の判断としては)正しかったとしている。
- 2007年3月、太田昭宏は憲法改正について「自民党の改正案は集団的自衛権の行使を認めることが裏にあるが、われわれは集団的自衛権を認めない」と強調した。
- 2008年1月、衆議院の再議決を経て成立したアフガニスタン駐留米軍への自衛隊による給油支援を定めたテロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法(補給支援特措法)に賛成。
治安
- 共謀罪法案成立に賛成の立場をとる。2006年5月19日、自民党と共に衆議院法務委員会で共謀罪法案を強行採決する姿勢を見せていたが、採決は見送られた。
- 2005年に韓国人への観光ビザ免除恒久化を実現し、現在は全ての中国人への観光ビザ免除恒久化を目指している。尚、警察庁刑事局組織犯罪対策部発表による来日外国人犯罪の検挙状況(平成21年確定値)によれば、国籍別に見た時の中国人の占める割合は総検挙数の45.2%、総検挙人員の36.3%、刑法犯検挙数の49.2%、刑法犯検挙人員の38.2%を占め、他の外国人と比較して最も高い割合となっている。また、平成12年から21年の10年間を見た場合でも、総検挙人員における中国人の占める割合は一貫して4割程度を維持している。[32]
外交
- 日韓関係の発展を目指しており、日本国が韓国と領有権問題で対立している竹島に関しては、軋轢を避けるため消極的な対応しか行っていないが、在日韓国・朝鮮人から要請されている在日コリアンへの参政権付与については、非常に積極的に推進をしている。[33]
- 日中善隣友好協力関係の発展を重視しており、日中関係は最も重要な2国間関係であるとしている[34]。日中国交回復における“橋渡し役”を果たしたと自負している。
- 北朝鮮の崩壊に対応するため『難民政策プロジェクトチーム』を発足させ、難民が日本に定住できるように検討を始している。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。
福祉
- 1999年 10月の自民党との連立政権参加以降、「児童手当」の制度拡充を推進。選挙のたびに児童手当増額を公約にしており、「福祉の党」としての実績をアピールする。
- 1999年、野党の立場で小渕内閣に「地域振興券」の発行を強く迫り、実現させる。
- 2003年 党のマニフェストで、少子高齢化が進んでも現役世代の平均収入の50%以上を保証する「年金100年安心プラン」を発表。
- 2005年 自由民主党とともに、介助や援助を必要としている障害者に対して、福祉サービス利用料として一律1割の負担を求める障害者自立支援法を少なくない批判の中で賛成し、成立させた。障害が重いほど支援を必要とする人に「応益負担(サービス=利益)」として利用料を課すこの法律を賛成、成立させた事は「福祉の党」を標榜する同党としては相いれない部分があった。2009年9月、民主党の長妻昭厚生労働相は福祉の理念と逆行する同法の廃止を明言したが、これに対し公明党は何ら反応を示していない。
- 2010年7月に行われる予定の参院選に向けて発表したマニフェストで、うつ病や児童虐待など、日本が抱える新しい問題の解決に重点的に取り組む姿勢を見せている。また、民間・公共住宅の空家をリフォーム、非正規労働者や年金生活者などの住宅困窮者に低家賃で提供する「セーフティネット住宅100万戸供給作戦」の実施を明言している[35]。
行政
- 国と地方の公務員の1割削減や予算の重点化・効率化による公共事業費の縮減、国家公務員の天下り管理、退職金の受給制限などを党としては提案しているが、国土交通省大臣である冬柴鐵三は、独立行政法人の改革を推進する自民党の渡辺喜美行政改革担当と対立している。渡辺が所管法人の廃止・民営化などで協力を求めているのに対して、公明党は法人の民営化を拒否する「ゼロ回答」を行うことで、行政改革への反対を鮮明にしている。
- 「外国人参政権」を与えることに賛成。
- 公明党は参議院の「法務委員長」のポストを40年以上、東京都議会の「警察・消防委員会」のポストも40年以上に渡り独占している[36][37]。
税制
- 「特別会計」の廃止を含めた合理化を提唱。
教育
- 教育基本法改正において、「愛国心」という言葉を盛り込むことに反対した。自民党案の「郷土と国を愛し」という文言に対し、「戦前の国粋主義を連想させる」などと反対し、「郷土と国を大切にし」との表現を主張した。
人権
選挙
- 連立を組む自民党との選挙協力で、自民党の候補者が自らの選挙区で、「比例は公明党へ」と 呼びかけるという選挙戦術を取るが、これには批判もある。
- 中選挙区制の復活を提唱。1999年の自民党・自由党との連立政権合意事項の中に中選挙区制復活の余地を残す文言が盛り込まれた[38]。
- 大阪府と兵庫県は創価学会が政界進出を目指した初期に池田大作が直接支援して当選して以降、当選を続けさせた堅い地盤があったことで「常勝関西」と呼ばれていた。
経済
- 経済政策は、国会に議席を有する政党の中では、最もケインズ経済学に近い。
- 2008年後半から深刻になった日本経済に対して、ゼロ金利や量的緩和も視野に入れた金融政策や、大規模な財政出動など政策を総動員していく必要性を強調した。[39]
論議のある問題
創価学会との関係、政教分離問題
草創期から創価学会と一体となった活動から、憲法に定めた「政教分離原則」に反した“政教一致”だという批判があり、1970年以降の制度的分離を行なって以降も、同様な批判は根強くある(日本国憲法の定める「政教分離」とは、国家の宗教的中立性を定めたもので、宗教団体の政治活動を否定したものではない、ということには留意を要する。[40])。
- 政教分離を明言した1970年5月3日の池田会長(当時)の 講演では、「創価学会の役職を兼任している公明党議員では創価学会の役職は段階的にはずすなど、創価学会と公明党を制度の上で明確に分離していく」、「会員個人の政党支持について、会員の自由意思には、全く干渉しない」、「選挙活動は党組織の仕事とし、創価学会は支持団体として『地域ごとの応援』をする」ことなどの方針を明らかにした。同年の党大会では政教一致を意味すると見られてきた「王仏冥合」という言葉を党綱領から削除した。
- 公明党の元委員長の竹入義勝は1998年9月、『朝日新聞』に連載した回顧録、『秘話・55年体制のはざまで』において、「公明党・創価学会の関係は環状線で互いに結ばれているのではなくて、一方的に発射される放射線関係でしかなかったように思う。」、「委員長を引き受けるときから人事権は(創価)学会にあると、明確にされていた」、「公明党は財政、組織の上で創価学会に従属していた。」などと述べた[11]。この連載の直後、機関紙「公明新聞」で『竹入義勝の謀略と欺瞞』と題する連載で反論と竹入批判を始めた[11]。
- 1993年、細川内閣発足前日に公明党が大臣ポストを獲得したと池田が発言したことで、池田が細川内閣の人事に影響力を及ぼしているのではと国会で問題となる[41][42][16]。
- 羽田内閣で総務庁長官を務めていた公明党委員長の石田幸四郎は国会で、公明党の最高人事は池田名誉会長の意向、指示で決まるのかとの質問に、「公明党の人事は公明党でやっており、池田からの指示はない」、「人事、政策というのは党大会を通して決める」と答弁した[43]。
- 内閣法制局は「政教分離原則は宗教団体が政治的活動をすることを規制しているものではない」旨の答弁をしている[44]。
- 選挙期間になると、創価学会信者が組織的に選挙活動に動員され、創価学会の関連施設が活用されることに対し、国会で幾度か問題視されたことがある[45]。
- 1999年7月12日、自民党官房長官(当時)、野中広務が「公明党は政教分離した政党として脱皮しつつある」と記者会見で発言[29]。
- 池田は、マハトマ・ガンディーらなどの言葉を引用し、「政治と宗教が切り離されてしまえば、政治は壊れていく。」という趣旨の言葉を、創価学園の卒業式で発言している。
- 2007年10月16日の参議院予算委員会で、民主党の石井一議員が公明党と創価学会が表裏一体ではないかと指摘、石井議員の発言では元公明党所属の議員から得た情報として国政選挙で公明党議員が当選した場合、衆議院議院は300万円、参議院議員は600万円の献金がなされると発言、その献金がどこへ入ったかは不明になっているとも指摘。公明党議員等からの創価学会への献金(P献金)や公明党の歴代の代表が結党以来40年以上にわたり投票が行われず毎回無投票で決まっていたことについても言及。首相に意見を求めたところ公明党議員が石井議院に詰め寄り国会審議や速記が数回にわたりストップする事態となる。また創価学会の関連施設で法敵菅直人が来たなどという政治的活動が行われていたとも指摘。証拠となる録音テープを予算委員長に提出した。代表で答弁した山口那津男議員は質問に抗議、冬柴大臣もは「P献金」「創価学会関連施設での政治的活動」をともに否定した。[46]
- 2010年7月11日に放送された池上彰の選挙スペシャルでは支持母体、支援団体、組織票という観点から創価学会と公明党について放送(自民党や民主党の国民新党の支持母体や組織票についても同時に放送)した。また池上は公明党代表山口への質問の中に「創価学会の中には管さん(首相)や仙谷さん(官房長官)を嫌っている方がいるから民主党との連立を組むことはないのでは」と言及。山口代表は民主党との連携は否定し「政治は政治として我々が分離して行っている」と発言。政教分離の原則を守っている旨を発言した。
定年制度と公認料の問題
公明党は独自に66歳定年制度を導入、任期中に66歳を超える場合は党として公認しないというスタンスを取っている。しかし過去に重要ポストに就任した人間を例外として扱っていることや過去に党首を務めた浜四津敏子が定年制度を遵守し引退、同じ年齢の太田昭宏は例外として次期総選挙に出馬予定となっている。[47] そのため創価学会婦人部、女子部幹部や公明党幹部からは例外を認めると若手政治家の育成が滞り党の規約が空洞化してしまう危険性が指摘され例外を認めないよう意見も出ている。 また立候補の際、公認料は通常政党から立候補者へ支払われるものであるが公明党のみ立候補者が公明党に公認料を収めている。これは2007年10月16日参議院予算委員会で当時大臣であった冬柴鉄三が民主党石井一の質問に対し「立候補者は(公明)党に公認料として2カ月分の議員報酬を収めている」と発言したことから公になるが国会の場で公認料のお金の流れ等は議論がなかった。実際、公職選挙法には公認料についての記載はなく、公認料を政党から候補者へ渡しても、逆に候補者が政党へ収めても、法律上特に問題はない。
フェミニズム男女共同参画勢力との関係
公明党は近年、フェミニズム男女参画勢力との関係を強めている。内閣府男女共同参画局や各自治体の男女共同参画課の施策に対して、巨額の予算(国政だけで10兆円を超える)を獲得することに主導的な役割を果たしており、連立政権を組んでいた自民党に対し何らかの譲歩をした場合、その見返りとして、多くの場合真っ先にフェミニズム関連予算の増額を要求していた。また政策においても内閣府男女共同参画局や各省庁からの出向メンバーによるフェミニズム関連の政策を強力に後押ししている[48]。さらに、人権擁護法を同和関係者やフェミニズム勢力と合同起草した経緯があり、その法案成立に向けて画策している。そして政策もフェミニズム関連が多く、夫婦別姓や年金分割化の法制化の推進、女性専用車両の導入などを推し進めてきた。
マニフェストと実際の政策の矛盾
公明党は「福祉の党」を自負しており、子供・女性・高齢者・在日韓国・朝鮮人の福祉の充実に力を入れている。また、環境対策もマニフェストの中に掲げている。ところが、新聞等の投書でもよく取り上げられる道路特定財源を福祉に使うべきとの意見には公明党は腰が重い。それどころか、世界金融危機後の景気刺激策として自民党とともに高速道路土休日1000円乗り放題を打ち出し2009年3月に決定したが、これは渋滞の激化を助長させ公共交通機関からマイカーへのシフトを促しCO2排出を増大させる可能性のあるものであった。更に追加の景気対策として高速道路建設拡大を打ち出しており更なるモータリゼーション進展を狙っている。それに対して、鉄道をはじめとする公共交通機関の整備は党としては消極的で、女性専用車両の導入を推進したことくらいであり、今後の交通政策でも党としては公共交通機関の整備が軽視された形になっており、子供や高齢者に多い交通弱者への配慮が欠けた形となっている。これは連立を組んでいた自民党とのパイプ役に道路族のドン・古賀誠がいる事と、国土交通大臣に北側一雄、冬柴鉄三を選出しておりその権益の為、国土交通省には口出ししにくい点が挙げられる。
官僚の天下りは『公明党』としては反対の姿勢を貫いているが閣僚だった冬柴鐵三から天下りを容認する意見が繰り返し出たりしたため党の方針と閣僚の意見とが一致していないため矛盾との声があった。そのため衆議院の予算委員会で同じ公明党の富田茂之議員が冬柴鐵三国土交通大臣(当時)へ「官僚の天下りに対して追及する民主党議員の行動は正しい!」などと追及された。[49]現在は自民党とともに下野しており再び党として官僚の天下りは反対の姿勢を貫いている。
また、「ムダづかいの排除」もマニフェストに挙げているが、実際には前述の通り男女共同参画関係には巨額の予算を費やしており、その証拠に全国各地にシティホテル顔負けの設備である男女共同参画センターが相次いで建てられた(例:ウィルあいち(愛知県の男女共同参画センター)など)。マスメディアもそのムダづかいについては公明党に遠慮してかほとんど報じられることはない。また、地域振興券やフェミニズム関連予算そして高速道路料金大幅引き下げなど予算バラマキ政策を重視した結果、国の借金は1998年の約395兆円に対して2008年は約849兆円と実に2倍以上にも膨れ上がった[50]。
その一方で、サラリーマンへは上記の財源を確保するためか冷遇路線が多く、健康保険の本人負担増(2割 → 3割)を実施させ、サラリーマンに対する増税への支持、さらにはホワイトカラーエグゼンプションの支持[51]を表明してきた。また、過労死や自殺の問題についても経済問題から与党経済政策への批判に跳ね返るのを恐れて公明党は大きくは取り上げなかった。そして女性を優遇し男性サラリーマンに対しては冷遇を続けてきた結果、ついに週刊現代2010年3月6日には「夫に早く死んでほしい妻たち」と言った男性の人格を完全否定するような記事までが掲載された[52]。
世襲に対する考え方
公明党は国会議員の世襲には反対の立場をとっている。創価学会という支援団体がいることもあり自民党や民主党より世襲議員は少ないが北側一雄元幹事長や池坊保子議員(非創価学会員)のように世襲の国会議員はいる
党内にある変わった慣習
週刊実話によれば、創価学会池田名誉会長が旭日大綬章など日本国内の勲章を一つも授与されていないことから、公明党に所属した国会議員は日本国内の勲章受賞リストに公明党の国会議員は名前が挙がった段階で、池田に配慮し自ら受賞を辞退するというおかしな慣習が存在していた。[53]また同様の内容が週刊新潮、週刊文春の週刊誌に掲載された。[54]しかし2010年11月3日元公明党委員長矢野絢也が同党出身者で初めて旭日大綬章を受章し、週刊実話の記事はこの受賞に対し支持母体創価学会では「恩知らず」「裏切り者」という罵詈雑言が起こっていると掲載した。
その他の問題
- 2000年夏、東京都内の公明党所属の区議会議員が区議会において、公明党と創価学会の批判を載せている雑誌の排除を要求していたことが明らかになり問題となる。大田区議会では2001年3月13日、「週刊誌は人のことを中傷している」、「私は不愉快だから何とかしてもらいたい」として「『週刊新潮』、『週刊文春』、『文藝春秋』を大田区の全図書館から排除してもらいたい」と要求した[18]。中央区では、同年3月の区議会で、区立図書館に公明党と創価学会を批判した本が多数あることに言及し、図書の選定を問題にし、「図書館の職員の適切な人事異動をしていただきたい」と要求した。4年前の1997年3月7日にも別の公明党の区議が区議会で「図書館、区の施設、待合室、ロビーなどに置いてある暴力的、人権侵害の週刊誌はき然として排斥するべきだ」と求め、中央区は出版社系雑誌の購入を止め、雑誌コーナーを失くしていた。[55][56][57]
政党交付金
2006年現在の政党交付金
- 公明党 28億5,800万円
主な支持・支援団体
- 創価学会:政府は政教一致ではないという認識で一致している。歴代の内閣総理大臣も「宗教団体又は宗教団体が事実上支配する団体が、政治的活動をすることをも排除している趣旨であるとは考えていない」[58]「政教分離は宗教法人の政治的活動を排除する趣旨でない」等と答弁している[59]が過去数度にわたり創価学会員による大きな選挙違反事件『大阪事件_(創価学会)』や『新宿替え玉事件』が発生したことや選挙のたびに行われる公明党への投票依頼行為(通称F取り)や創価学会施設内で政治的活動を行っていると民主党議員から指摘されていた[60]ことから創価学会に批判的な人間の間では『政教一致』という見方をされている
エピソード
- 公明党結成当時、自治省は違反をしないクリーンな選挙を「公明選挙」という言葉で呼びかけていたが、公明党の結成によりこの言葉を使えなくなった[11]。
- 党のホームページにおける「選挙速報」で、まず公明党候補者の当選を伝えた後、日本共産党の議席が増加または現状維持の場合は何も触れずに前回選挙時との各党派別当選者を単に伝えるが、共産党の議席が減少した場合は「共産は1議席減らした。」「共産は議席を失った。」と伝える。
公明党中央幹事会・執行部役員表
代表 | 代表代行 | 副代表 | 幹事長 | 政務調査 会長 |
国会対策 委員長 |
参議院 議員会長 |
参議院 幹事長 |
常任顧問 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
山口那津男 | 浜四津敏子 | 坂口力、草川昭三 東順治 |
井上義久 | 斉藤鉄夫 | 漆原良夫 | 白浜一良 | 木庭健太郎 | 神崎武法、冬柴鐵三 |
歴代の公明党執行部役員表
第1期(公明党中央執行委員会)
- 1964年11月17日 ‐ 1994年12月9日
委員長 | 副委員長 | 書記長 | 政策審議 会長 |
国会対策 委員長 |
参議院 議員団長 |
最高顧問 |
---|---|---|---|---|---|---|
原島宏治 | 北条浩 | 龍年光 | 小平芳平 | 白木義一郎 | 辻武寿 | |
〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 二宮文造 | 〃 | |
〃 | 辻武寿 | 北条浩 | 〃 | 〃 | 〃 | |
辻武寿 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | ||
〃 | 〃 | 鈴木一弘 | 〃 | 渋谷邦彦 | ||
竹入義勝 | 白木義一郎、和泉覚 北条浩 |
矢野絢也 | 〃 | 浅井美幸 | 二宮文造 | |
〃 | 〃 | 〃 | 正木良明 | 渡部一郎 | 〃 | |
〃 | 二宮文造、浅井美幸 多田省吾 |
〃 | 〃 | 大久保直彦 | 多田省吾 | |
〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 鈴木一弘 | |
〃 | 二宮文造、浅井美幸 多田省吾、鈴木一弘 |
〃 | 〃 | 権藤恒夫 | 〃 | |
矢野絢也 | 石田幸四郎、浅井美幸 多田省吾、鈴木一弘 |
大久保直彦 | 坂口力 | 市川雄一 | 三木忠雄 | 竹入義勝 |
石田幸四郎 | 伏木和雄、渡部一郎 長田武士 |
市川雄一 | 〃 | 坂井弘一 | 黒柳明 | 竹入義勝 、矢野絢也 |
〃 | 三木忠雄、渡部一郎 長田武士 |
〃 | 神崎武法 | 〃 | 〃 | 〃 |
〃 | 三木忠雄、渡部一郎 権藤恒夫 |
〃 | 二見伸明 | 神崎武法 | 〃 | 〃 |
〃 | 三木忠雄、黒柳明 大久保直彦、近江巳記夫 |
〃 | 〃 | 〃 | 大久保直彦 | 〃 |
〃 | 貝沼次郎、黒柳明 大久保直彦、近江巳記夫 |
〃 | 日笠勝之 | 森本晃司 | 〃 | |
〃 | 坂井弘一、黒柳明 大久保直彦、近江巳記夫 |
〃 | 〃 | 〃 | 鶴岡洋 | |
〃 | 矢追秀彦、二見伸明 大久保直彦、近江巳記夫 |
〃 | 〃 | 神崎武法 | 〃 |
第2期(公明党中央幹事会)
- 1998年11月7日 ‐
代表 | 代表代行 | 副代表 | 幹事長 | 政務調査 会長 |
国会対策 委員長 |
参議院 議員会長 |
最高顧問 常任顧問 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
神崎武法 | 浜四津敏子 | 市川雄一、近江巳記夫 | 冬柴鐵三 | 坂口力 | 草川昭三 | 鶴岡洋 | 藤井富雄 |
〃 | 〃 | 坂口力、続訓弘 | 〃 | 北側一雄 | 太田昭宏 | 〃 | 〃 |
〃 | 〃 | 坂口力、鶴岡洋 | 〃 | 〃 | 東順治 | 草川昭三 | 〃 |
〃 | 〃 | 坂口力、草川昭三 | 〃 | 井上義久 | 〃 | 〃 | 〃 |
太田昭宏 | 〃 | 坂口力、草川昭三 東順治、井上義久 |
北側一雄 | 斉藤鉄夫 | 漆原良夫 | 〃 | 神崎武法、冬柴鐵三 |
〃 | 〃 | 〃 | 〃 | 山口那津男 | 〃 | 白浜一良 | 〃 |
山口那津男 | 〃 | 坂口力、草川昭三、 北川一雄、東順治 白浜一良 |
井上義久 | 斉藤鉄夫 | 〃 | 〃 | 〃 |
公明党関連政党の執行部役員表
公明新党
代表 |
---|
石田幸四郎 |
公明中央幹事会
この節の正確性に疑問が呈されています。 |
この節の内容の信頼性について検証が求められています。 |
代表 | 副代表 | 幹事長 | 政策審議会長 | 国会対策 委員長 |
参議院 議員会長 |
常任顧問 |
---|---|---|---|---|---|---|
藤井富雄 | 橋本辰二郎、柳井伝八 笠間肇、土師進 |
渋谷文久 | 大木田守 | 鶴岡洋 | 大久保直彦 | |
桜井良之助、浜四津敏子 笠間肇 、 土師進 |
鶴岡洋 | 及川順郎 | 白浜一良[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。 | |||
浜四津敏子 | 大久保直彦 | 続訓弘 | 木庭健太郎 | 藤井富雄 | ||
桜井良之助、続訓弘 | 白浜一良 | 日笠勝之 | 鶴岡洋 |
新党平和中央幹事会
代表 | 副代表 | 幹事長 | 政務調査会長 | 国会対策 委員長 |
名誉顧問 |
---|---|---|---|---|---|
神崎武法 | 市川雄一、近江巳記夫 | 冬柴鐵三 | 坂口力 | 草川昭三 | 石田幸四郎 |
黎明クラブ
代表 | 幹事長 | 政務調査会長 | 国会対策委員長 |
---|---|---|---|
白浜一良 | 木庭健太郎 |
公明党の政権ポスト
()内の肩書きは、入閣前の党内ポスト。
- 第2次森喜朗内閣
- 閣僚
- 総務庁長官・続訓弘
- 政務次官
- 法務政務次官・上田勇
- 外務政務次官・荒木清寛
- 厚生政務次官・福島豊
- 環境政務次官・河合正智
- 沖縄開発政務次官・白保台一
- 閣僚
- 第1次小泉純一郎内閣第2次改造内閣
- 閣僚
- 厚生労働大臣・坂口力
- 副大臣
- 総務副大臣・若松謙維-田端正広【2003年9月30日】
- 財務副大臣・谷口隆義-石井啓一【2003年9月30日】
- 環境副大臣・弘友和夫-加藤修一【2003年9月30日】
- 大臣政務官
- 文部科学大臣政務官・池坊保子
- 農林水産大臣政務官・渡辺孝男
- 国土交通大臣政務官・高木陽介
- 閣僚
- 第2次小泉純一郎内閣
- 閣僚
- 厚生労働大臣・坂口力
- 副大臣
- 総務副大臣・田端正広
- 財務副大臣・石井啓一
- 環境副大臣・加藤修一
- 大臣政務官
- 農林水産大臣政務官・福本潤一
- 経済産業大臣政務官・江田康幸
- 国土交通大臣政務官・佐藤茂樹
- 閣僚
- 第2次小泉純一郎改造内閣・第3次小泉純一郎内閣
- 閣僚
- 国土交通大臣・北側一雄(政務調査会長)
- 副大臣
- 法務副大臣・富田茂之【2005年9月23日】
- 財務副大臣・上田勇
- 厚生労働副大臣・西博義
- 環境副大臣・高野博師
- 大臣政務官
- 総務大臣政務官・山本保
- 法務大臣政務官・富田茂之【2005年9月23日】
- 農林水産大臣政務官・大口善徳
- 閣僚
- 第3次小泉純一郎内閣改造内閣
- 閣僚
- 国土交通大臣・北側一雄(政務調査会長)
- 副大臣
- 財務副大臣・赤羽一嘉
- 厚生労働副大臣・赤松正雄
- 経済産業副大臣・松あきら
- 環境副大臣・江田康幸
- 大臣政務官
- 総務大臣政務官・古屋範子
- 外務大臣政務官・遠山清彦
- 閣僚
- 安倍晋三内閣
- 閣僚
- 国土交通大臣・冬柴鐵三(中央幹事会幹事長)
- 副大臣
- 財務副大臣・富田茂之
- 文部科学副大臣・池坊靖子
- 厚生労働副大臣・石田祝稔
- 政務官
- 総務大臣政務官・谷口和史
- 外務大臣政務官・浜田昌良
- 経済産業大臣政務官・高木美智代
- 閣僚
党勢の推移
衆議院
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | 0/- | 467 | |
第31回総選挙 | ○25/32 | 486 | |
第32回総選挙 | ○47/76 | 486 | |
第33回総選挙 | ●29/59 | 491 | |
第34回総選挙 | ○55/84 | 511 | 追加公認+1 |
第35回総選挙 | ○57/64 | 511 | 追加公認+1 |
第36回総選挙 | ●33/64 | 511 | 追加公認+1 |
第37回総選挙 | ○58/59 | 511 | 追加公認+1 |
第38回総選挙 | ●56/61 | 512 | 追加公認+1 |
第39回総選挙 | ●45/58 | 512 | 追加公認+1 |
第40回総選挙 | ○51/54 | 511 | 追加公認+1 |
第41回総選挙 | ●42/51 | 500 | 新進党での選挙 |
第42回総選挙 | ●31/74 | 480 | |
第43回総選挙 | ○34/55 | 480 | |
第44回総選挙 | ●31/52 | 480 | |
第45回総選挙 | ●21/51 | 480 |
参議院
選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
第4回通常選挙 | ○3/6 | - | 250 | |
第5回通常選挙 | ○6/6 | 3 | 250 | |
第6回通常選挙 | ○9/9 | 6 | 250 | |
(結党時) | 15/- | - | 250 | 公明党改称時 |
第7回通常選挙 | ○11/14 | 9 | 250 | |
第8回通常選挙 | ○13/14 | 11 | 250 | |
第9回通常選挙 | ●10/10 | 13 | 252 | |
第10回通常選挙 | ○14/45 | 10 | 252 | |
第11回通常選挙 | ○14/15 | 11 | 252 | |
第12回通常選挙 | ○12/14 | 14 | 252 | 追加公認+1 |
第13回通常選挙 | ○14/23 | 13 | 252 | |
第14回通常選挙 | ●10/21 | 14 | 252 | 追加公認+1 |
第15回通常選挙 | ●10/22 | 11 | 252 | |
第16回通常選挙 | ○14/23 | 10 | 252 | |
第17回通常選挙 | ○13/0 | 11 | 252 | (新進党57と統一会派で同改選期を議席維持) |
第18回通常選挙 | ●9/20 | 13 | 252 | 公明、追加公認+2 |
第19回通常選挙 | ○13/22 | 10 | 247 | (改革クラブ1と統一会派) |
第20回通常選挙 | ○11/20 | 13 | 242 | |
第21回通常選挙 | ●9/24 | 11 | 242 | (後に繰り上げ当選により+1) |
第22回通常選挙 | ●9/24 | 11 | 242 |
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
- 第4回、5回参議院通常選挙は、結党前で創価学会組織内無所属の実績。
- 第6回参議院通常選挙は、「公明政治連盟」の実績。
- 第17回、18回参議院通常選挙は、「公明」の実績。
- 『戦後政治史』にない追加公認は2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、2003年まで)1 各会派所属議員数及び役員一覧(衆議院、2005年)、(2) 参議院(2002年まで)(2) 参議院(2004年まで)にある、選挙直後の国会召集日の会派所属者数から判断した。ただし、第20回通常選挙直後の召集はない。
結成当初の国会議員一覧
結成時の参議院議員
結成時(15名) | ||||
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1965年改選 | 柏原ヤス(東京都) | |||
原島宏治(全国区) | 小平芳平(全国区) | 石田次男(全国区) | 牛田寛(全国区) | |
中尾辰義(全国区) | ||||
1968年改選 | 和泉覚(東京都) | 白木義一郎(大阪府) | ||
辻武寿(全国区) | 北条雋八(全国区) | 浅井亨(全国区) | 鬼木勝利(全国区) | |
渋谷邦彦(全国区) | 鈴木一弘(全国区) | 二宮文造(全国区) |
衆議院進出時
衆議院進出時(25名) | ||||
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斎藤実(北海道1区) | 小川新一郎(埼玉1区) | 鈴切康雄(東京2区) | 伊藤惣助丸(東京5区) | 有島重武(東京6区) |
大野潔(東京7区) | 松本忠助(東京9区) | 竹入義勝(東京10区) | 伏木和雄(神奈川1区) | 小濱新次(神奈川3区) |
石田幸四郎(愛知6区) | 樋上新一(京都1区) | 沖本泰幸(大阪1区) | 浅井美幸(大阪2区) | 近江巳記夫(大阪3区) |
矢野絢也(大阪4区) | 正木良明(大阪5区) | 北側義一(大阪6区) | 渡部一郎(兵庫1区) | 岡本富夫(兵庫2区) |
山田太郎(岡山1区) | 広沢直樹(徳島全県区) | 中野明(高知全県区) | 田中昭二(福岡1区) | 大橋敏雄(福岡2区) |
脚注
- ^ 「矢野氏「宗教の政治への介入、議論を」 野党有志が事情聴取 (1/2ページ)」 MSN産経ニュース、2008年6月13日。
- ^ 社説「公明党――なぜ「自公」かを聞きたい」『朝日新聞』2008年9月24日付朝刊、第13版、第3面。
- ^ a b c 島田裕巳 『創価学会』(新潮社 2004年6月20日) ISBN 978-4106100727
- ^ 広辞苑【創価学会】の項に1964年、宗教政党「公明党」を結成とある。
- ^ 公明新聞2009年1月26日
- ^ 小説『人間革命』第9巻では政界進出の目的を「仏法を生命に刻んだ人格高潔な人材を政界に送り、政治を民衆の手に取り戻すためであった。」と述べている。
- ^ 公明党(創価学会)も日本共産党も庶民層をターゲットとしており、支持層が重なることもあり、対立が続いて来た。自民党は創価学会を共産主義の防波堤にしたいと考えていたと見る向きもあり(『週刊宝石』1981年11月7日号)、創価学会が多くの信者を得たことで、日本は共産主義革命を免れたという主張もある
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 朝日新聞アエラ編集部 『創価学会解剖』(朝日新聞社 2000年1月1日) ISBN 978-4022612861
- ^ 戸田城聖は政界進出の目的について「われらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」と述べている(『戸田城聖先生 巻頭言集』P204 「王仏冥合論」 創価学会 1960年5月3日)
- ^ 小説『人間革命』第9巻では政界進出の目的を「仏法を生命に刻んだ人格高潔な人材を政界に送り、政治を民衆の手に取り戻すためであった。」と述べている。
- ^ a b c d 古川利明 『システムとしての創価学会=公明党』(第三書館 1999年10月25日) ISBN 978-4807499229
- ^ 大島宏之 『日本の現世宗教』(自由国民社 2002年1月10日)ISBN 978-4426619008
- ^ 一、王仏冥合と地球民族主義による世界の恒久平和
二、人間性社会主義による大衆福祉の実現
三、仏法民主主義による大衆政党の建設
四、議会制民主政治の確立 - ^ 『公明新聞』(1972年6月7日付)
- ^ 衆議院の優越により総理は海部俊樹に決まる
- ^ a b 第134回国会 参議院 宗教法人等に関する特別委員会 第8号 平成7年(1995年)12月4日(議事録) 引用エラー: 無効な
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タグ; name "k19951204"が異なる内容で複数回定義されています - ^ 創価学会党化した自民党 ─ 6 『フォーラム21』(2007年4月1日 通巻123号)
- ^ a b 山田直樹 『創価学会とは何か』(新潮社 2004年4月15日)
- ^ 公明党代表太田昭宏は同年10月11日の記者会見で、安倍と池田との会談について、「全く承知していない」と語った。(『朝日新聞』1996年10月12日付)
- ^ 安倍は国会で池田との面会の事実を全面否定。第165回国会 参議院 予算委員会 1号 平成18年(2006年)10月11日(議事録)、第166回国会 衆議院 予算委員書会 7号 平成19年(2007年)2月13日(議事録)(「インターネット審議中継」での亀井静香の安倍晋三への質疑の動画)
- ^ 新宣言(「公明党」公式ウェブサイト)
- ^ 『J-CASTニュース : ネット検索「ドンピシャリ」盗作判明 公明党福岡市議団の海外視察報告書』(ジェイ・キャスト、2007年3月16日)。
- ^ 後に松あきら議員が繰り上げで当選する
- ^ 北林慎也・野村雅俊「公明・太田氏が不適正請求――05年総選挙ガソリン代――伊藤元金融相らも」(『朝日新聞』43730号、朝日新聞東京本社、2008年1月13日、31面)
- ^ 太田昭宏『衆院選における選挙用燃料費について』2008年1月14日。
- ^ 産経新聞 (2008年9月16日). “公明党代表選 太田氏無投票再選”. 9月17日閲覧。accessdateの記入に不備があります。
- ^ 規約|公明党について - 公明党公式ホームページ 2010年6月17日閲覧
- ^ 特集/3代の業を背負った安倍新政権と公明党新体制 。『フォーラム21』2006年10月3日
- ^ a b c 古川利明 『シンジケートとしての創価学会=公明党』(第三書館 1999年11月20日) ISBN 978-4807499243
- ^ 政治家の役割 (松下政経塾公式ウェブサイト)
- ^ 公明党・創価学会基礎知識2008
- ^ 警察庁刑事局組織犯罪対策部 ( エラー: 日付が正しく記入されていません。). “来日外国人犯罪の検挙状況” (PDF). 警察庁. pp. P29. 2010年10月31日閲覧。
- ^ 2007年11月17日 北側一雄幹事長の記者会見
- ^ 太田昭宏公明党の代表と中国共産党中央委員会の胡錦濤総書記(国家主席)との会談。2007年1月8日
- ^ 「新しい福祉」を提案する党
- ^ 2003年に自由党(当時)の平野貞夫が問題であると主張した。
- ^ 平野貞夫『公明党・創価学会の真実』講談社 (2005年6月24日)
- ^ 『東奥日報』(2001年10月11日付)
- ^ 公明新聞2008年12月25日付 生活、中小企業で成果[1]
- ^ 芦部信喜著『憲法』第四版 岩波書店 2007年
- ^ 第129回国会 衆議院 予算委員会 第8号 平成6年(1994年)5月24日(議事録)
- ^ 当時創価学会会長であった秋谷栄之助は国会で、「当日の新聞の閣僚予想記事の内容を話したのであって、党から何か事前に連絡や相談があったのではない」という旨の説明をした
- ^ 第129回国会 衆議院 予算委員会 第8号 平成6年(1994年)5月24日(議事録
- ^ 第140回国会 衆議院 決算委員会第二分科会 第2号 平成9年(1997年)5月27日(議事録)
- ^ 第128回国会 衆議院 予算委員会 第4号 平成5年(1993年)10月6日(議事録)
- ^ 第168回国会 参議院 予算委員会 第2号 参議院、2007年10月16日(議事録)、参議院インターネット審議中継での動画
- ^ 産経新聞2010年2月2日付 公明、太田前代表衆院選へhttp://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100202/stt1002021354006-n1.htm 。
- ^ 岐阜市内を走っていた名鉄岐阜市内線2005年3月限りで全廃された際、多くの市民から存続の要望が出されて、市も存続への画策を努力したにもかかわらず廃止に至ったのは、岐阜市の公明党議員の「クルマ社会のこの世に路面電車に投資するのは無意味。男女共同参画の方に投資をするのが筋ではないか。」との意見もあったとされる
- ^ 2008年2月28日衆議院予算委員会議事録
- ^ 1998年~2008年の国の借金の推移[2]
- ^ 公明新聞2006年3月24日付記事。但し、国民の大多数が反対である事を知ると、選挙への配慮から同法案の凍結(反対ではない)を主張するようになった
- ^ [3]
- ^ 創価学会内にも似たような慣習が存在する
- ^ 週刊実話2010年11月10日号等
- ^ 公明区議、週刊誌排除迫る(『しんぶん赤旗』2001年5月31日付)
- ^ 公明区議の図書館への圧力(『しんぶん赤旗』 2001年6月5日付)
- ^ 『週刊現代』2001年6月16日号
- ^ 佐藤栄作内閣総理大臣、内閣衆質63第2号
- ^ 第134回国会 宗教法人等に関する特別委員会 第3号 平成7年(1997年)11月27日(議事録)
- ^ 第168回国会 参議院 予算委員会 第2号 参議院、2007年10月16日民主党石井一議員の代表質問(議事録)、
関連項目
- 日本の政党一覧
- 公明党国会議員一覧
- 公明党代表
- 公明新聞
- 創価学会
- 聖教新聞
- 宗教政党
- 自公連立
- 自公民路線
- 戸田城聖(創価学会の政界進出に道をつけた)
- 池田大作(公明党の創設者)
- 幸福実現党(公明党と同じく国会に議席を持つ宗教政党)
- KOMEIブラウザ(公明党が以前配布していたタブブラウザ)