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Wikipedia:なぜウィキペディアは素晴らしくないのか

ウィキペディア素晴らしいものではないという意見があります。その指摘の一部をここで紹介します。

記事の品質

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検索エンジンによる検索結果のトップにウィキペディアの内容が表示されることがしばしばあります(検索エンジン最適化)。しかしその内容は、知識やモラルのない者も含め「誰でも編集に関われる」、つまりウィキであるということの裏返しで、残念ながら、常に信頼に足るものであるとは限りません[注 1]内容が間違っているかもしれない・最悪の場合は嘘が混ざっているかもしれない百科事典というのは考えられない存在です。また記事の品質を高めるためには、記事が正しく、出典も正しい記事をリバートするなどの荒らし行為の実行者は、永久追放などの厳罰が必要だが、運営側はその必要性をまったく理解していないことがあげられます。Wikipedia:ビコリム戦争という実例があったように)。むしろ、公式ウェブサイト学者ブログ・研究成果、また報道各社のニュースサイトを見る方がましだったりします[注 2]

記事の正確性

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ウィキをはじめとする電子出版の利用には、いくらかの匿名性がついてまわります。そのため事実無根の情報を記事にする自分勝手な編集者は少なくありません。出典が明示されていない情報や引用にいたっては、その真偽の程を検証することさえ困難となります。また、出典が記されてあったとしても、そのリンク先が定期的に更新されたり(マスメディアニュース記事がその典型です)、いつ無くなるかわからないようなウェブページだったり、匿名の人物が自分の主張に都合のよい事実だけを取り出したそれ(チェリー・ピッキング)、また非一般的な情報源だったりする場合には、真偽の検証は同様に難しくなります。一般にウィキペディアでは、書籍の情報よりインターネットのウェブページやブログに上がった文章の方が出典として受け入れられやすいようです(Wikipedia:検証可能性。ただしこれは、典拠とする文章がそこに存在するという事実があるだけで、報道機関のもの以外に関しては、その内容が真実であるとは限りません)。

ウィキペディアへの投稿はごく自由なものです。そのため、出版社などに受け入れられない意見や思想を抱える人達は、往々にしてウィキペディアでの執筆機会を得ようとします。結果、従来の世論や常識としては考えられないような疑似科学に属する珍説、または不確実な情報からなる記事、果ては陰謀論までが乱立する可能性があります。

これら信用できない情報は、改善されるよりもむしろ増殖していきがちです。ひとたび熱に浮かされたような記事が投稿されるやいなや、これに追随する形で別の偏執的投稿が加わってゆく、というのはよくあることです。顔が出ないという匿名環境では、誰もがそのように身勝手な振る舞いに誘われてもおかしくはないのです。

しかしながら、匿名によってこそ明かせる正確な事実情報を人々が密かに所持しているという現実、ある人にとっては周知の事実であっても別の人は寡聞にして知らない物事もまたあります。つまり、匿名性そのものが問題の原因ではないのです。大切なのは、利用者全員によって記事が中立的に観察され管理されるという状況を守ることです。それを実現するための仕組を、ウィキペディアは既に提供しています。たとえば出典が明示されていない引用を含む記事があれば、そのことを警告するための専用札をテンプレートから持ってきて、そこに貼り付けることができます。つまり、記事が不正確であるということでウィキペディアが非難される時、それは虚偽の記事を書く者を排除するためのウィキペディアのルールが未熟であり、参加者達自身の協力の不備と、多くの妨害行為が問題となっているのです。

結局のところ、あることを調べるためのとっかかりにウィキペディアを使うのは有効な使い方ですが、無闇に全部を信じてしまうのは危険です。ウィキペディアだけでなく、ほかの事典や書物にもあたるほうがより正確な情報を得られます。特に、更新頻度の低いページ保護されたページは信頼性に欠ける場合があります。あるいは、百科事典ではなく、匿名の不特定多数によって書かれたエッセイ的読み物として扱うのもいいかもしれません[注 1]

記事の完成度

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基本的なことが書かれていない記事が多数あり、逆に“記事にすべきなのか”と首を傾げたくなるような事象・人物の項も存在します(多数の関心を呼ぶ事象ないし人物でない限り、どんなに重要なことであろうが、誰かが書くまで記事にならないのです。一方で、何を項目として作成するかも完全に個々人に任されるという自由主義〈liberalではなくlicense。放縦・放埓の方がより近い。〉です。ウィキペディアは2001年に無の状態から始まりました。)。また、たとえ書き加えてもなぜか削除されることもあります[1]。その記事を書いた人やその道の専門家には記述するまでもない周知の事実でも、門外漢には何のことか分からない語句が使用されている記事さえあります(しかもその語句には項目へのリンクがなく、さらには解説さえないこともあります。例えば法学士と経済学士とでは編集出来る専門分野がまるで違います)。

ウィキペディアでは、他人の書いた文章をできるだけ削除しないという方針(包摂主義)が非常に強いので、記事の内容は良くなる前に長くなります。誰かが記事をうまく再構成しようと思っても、微妙に間違っている記述や誤解を含んだ記述などを消さないことには、短くできません(全ての利用者に読んでほしいこのページだって、どんどん長くなっていき、いまや最後まで読むのは暇な人だけです)。

一つの記事に集中的に新たな情報を加えることなく、関連する小さな事柄をわざわざ別な記事として立て、記事同士の連結(リンク)ばかりを増設する人がいます。そのような編集はかならずしも実りを伴う建設的なものではありません。ウィキペディアの読者が望んでいるのは、特定の項目についてよく学ぶことであって、連結によってあちらこちらへと振り回されてしまうことではありません。

たくさんの記事があることは認めますが、効果的にリンクされていないものがしばしば見受けられます。異なった観点ごとに、記事間のリンクで閉じた空間をつくってしまいがちです。こういうときには、言語間リンクや比較の観点がおろそかになりがちです。この問題は、独自の用語を用いている特定の集団などで更に顕著になります。さらに、多くの記事が書きかけのまま放置されています(その数は誰にも分かりません。ちなみに、完成している記事の数、また書きかけの記事と完成した記事の違いも不明です)。

内容が刻一刻と変わっていく性質上、ウィキペディアは参考文献に挙げにくいという面があります[注 3]。参考文献を挙げる時に第何版かを書くのは、誰もがその人が参照したものと同じものを探すために非常に重要です。これをウィキペディアでやろうとすると、ある特定の版へのリンクを示さないといけないことになります。誰かがウィキペディアを参考文献に挙げても、これがないと後でそれを参照した人はみな異なったバージョンの記事を読むことになり、完全に混乱が起こります。

ウィキペディア日本語版においては、単に英語版からの「ダイジェスト」として直訳の文章からなる記事が多く見かけられますし、この状況はコンテンツ翻訳ツール(インターフェースに組み込まれた機械翻訳)の導入によってさらに悪化しています。新規記事ならまだしも、それなりに完成度の高い記事が長々とした低質な翻訳に置き換えられてしまったケースもあります。そして機械翻訳に限らず誤訳もたくさんあります[注 4]

また、日本語版にしか存在しない記事もあります(後述「関心の偏在」)。記事の完成度はかならずしも文章の量によって満たされるものではありません。当の言語体系に即してどれだけ明確な解説が図られているかが重要な基準となります[注 5]

中立的な観点

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万人にとって万全に正しい言説が存在しないというのは、かねてから論じられてきたことです。万人に対して平等な文章が存在し得ない以上、ウィキペディアの「中立的な観点」という方針の成功は自明のものではありません。Aさんによって書かれた文は、批判的に改稿するBさんが現れるまでは、Aさんの観点に偏ったままです。

政治・思想・イデオロギーに関する記事は特に中立的に記述されることが望ましいのですが、実際には討論番組の司会者にまとめられるような形、つまり両論併記で仕上がってしまいます。「首相はこのような良いことを行ったが、一方、それを悪いことだという人もいる。また彼はこういう悪いことを行ったが、彼がこういう悪いことを行ったのに比べれば、それほど悪いとはいえないという人もいる」という具合に。

全員でないとはいえ、多くの人は政治的な志向性を多少なりとも持っていますから、議論においてどれだけ中立を図ろうとする人であっても、多くの場合実際にはいくらか偏った発言・投稿をすることとなります。記事の情報とその観点を覆すことを、複数の人が意識的あるいは無意識的に求めていたとしてもおかしくはありませんから、結局は、編集に費やせる時間と説得力のある資料を持っている人が、記事内容の政治的な指向性を決定することでしょう(その点では、偏向を避ける手段の少ない、もしくは社ごとに異なる方針のあるマスメディアより、ウィキペディアは客観的だと言えます)。

国家や民族、思想に関しても、特定の国家・民族の価値観や思想が偏向的・一方的に展開されることもあります。人は誰でも自分が育った町や国や個人的な趣味のことを、世の中へ熱心に伝えたがるものです。人によっては、それらを更に強制的に美化しようとして、編集や討論における客観性を保持できなくなる場合もあります。特定の国籍の人物のある分野における功績が、それに匹敵する他国籍の人物の功績を尻目に、際立つよう書かれていたりするわけです。このような傾向は、たとえば編集者の間に民族的な偏りがある版などでよく見られるものです。なぜなら、まず特定の言語で作成された記事はある種の閉じた環境にあり、記事の執筆者の側で既に民族的な偏りがある以上は、そこで民族性に対する中立的立場を鑑みて保全することがごく難しいからです(Wikipedia:日本中心にならないようにを参照)。

広範な分野に造詣のある有識者と、専門の領域に精通する科学者とが議論すれば、ウィキペディアの編集結果は傾向として後者の意見に偏ります。確かに後者の方が、当の題目に関して豊富で正確な情報・知識を持っていることは期待できます。が、その記事と他の記事との関連性にまつわる重要な見識を、果たして後者が充分に提供できるのかという観点では、疑問視される場合があります。「記事の中立性」に賛同しない編集は、有識者や専門家のものでも反発にあってしまいます。ウィキペディアの創始者の一人、ジミー・ウェールズは、ウィキペディアは学術的な研究には向かない、またあらゆる百科事典は一次資料として用いられるべきではないと言っています。このことについては、ノート:島原の乱を見るとよいでしょう。

こういった要因から、ウィキペディアの特定の版や記事では、中立性と多数決主義とが相克してしまうという問題も起きてきます。少数派が提示する意見は、たとえ本質的な中立性に貢献するようなものであっても、多数派の編集者達によって差し戻されかねないのです。ウィキペディア全体から見れば有意義とされる声も、特定の閉じた編集領域においては、内輪的に否定され、あえなく踏み潰されることがあるのです(Wikipedia:合意形成を参照)。普通の(つまり書籍の)百科事典においては、「何を収録すべきか・すべきでないか」「記述すべきか・すべきでないか」が喧々諤々の議論に発展したりはしません。それは編集段階での話で読者・利用者の目には触れず、完成した状態で世に出ます。またある分野の内容に他の分野の担当執筆者が気に入らないとして口を出したりすることもありません。

多くの人は、自身の投稿を「非中立的だ」と指摘された際、該当する箇所を誠実に省みるよりも、反射的にこれを正当化して自らを弁護しようとします。そのような人は、将来的ないわゆる編集合戦の元凶となりえます。

関心の偏在

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ウィキペディア日本語版の記事数、内容は分野によって偏りがあります。例えばアニメ漫画ゲームソフトテレビドラマについては、タイトルや作品ごとに、読んだり観たりしなくとも項目を見るだけで概要は分かってしまうまでに内容が詳記され[注 6]鉄道情報科学の雑学・豆知識、果ては兵器声優競走馬についても概念ばかりか個別の記事まであるのに、芸術・歴史・文学・映画・スポーツ・地理・電気電子工学・物理学・原子力・経済学・金融・医学などの分野では、定義さえ存在しない(書かれていない)もの、スタブ程度、またBotが作った記事しかないケースが多数を占めます[注 7]ONE PIECEの登場人物一覧[注 8]日本[注 9]東北地方太平洋沖地震[注 10]および東日本大震災2016年の熊本地震[注 11]のような関心を呼ぶ記事はよく編集されますが、そうでないトピック(バッティングピッチャーエチオピアの大統領一覧日本の上代文学史など)については誰も目も向けないか、非常に見つけづらくなっています。

作品や事例のリストが際限なく長大化していき、内容を説明する本文の数倍以上になっていることがあります。また、そのような場合、編集内容のチェックが不十分で、不適切な作品や事例が挙げられていたり、それらに付随した解説が不適切なことがあります。リストを絞ろうとする作業は、しばしば編集合戦を引き起こし、少数の典型的あるいは有名な例を示そうとしても、“その出典があり、中立的な観点に立ち、独自研究ではない”ものを選ぼうとすると、困難であるため、整理されないまま放置されます。

これらは執筆者の偏り、不足によるものです。執筆者の不足の原因には記事を執筆できる人間の不足とウィキペディアに習熟することの難しさが挙げられます。

まずウィキペディアには、荒らしや虚偽の記事を書く者はかなりいても、正しい記事執筆者が不足しています。どんな分野でも詳しい人、経験を持つ人というのは少数派になります。その中でウィキペディアに関わる人は更に少なくなるわけです。特に学問のマニアックな領域や日本に関わりの少ない分野ともなると日本国内に研究者が存在せず、知識を持つ人間すらほとんどいない場合もあります。そういった分野には執筆が可能な人間はほとんどいません。他方、アニメやゲームといった分野には多くのファンが存在します。

また、ウィキペディアに習熟するのは難しいことです。ウィキペディアの執筆を行うには、まずウィキの文法を身に着ける必要があります。ウィキというものはパソコンに慣れない人間にはとっつき難いものです。よく「ウィキって略すな」といいますが、要はそれだけ知られていないということです。この点、おたくパソコンの扱いに長じた人間が多いことから、ウィキの操作を容易に理解できる彼らは優位な立場にあります。アニメファンにはウィキを使って情報をまとめる文化(まとめサイトの一つ、いわゆる「まとめWiki」)が存在することも彼らに有利に働くでしょう。

ウィキペディアを執筆するためにはウィキペディアのルールを理解する必要もあります。匿名のウィキペディアコミュニティーでは重大な失敗を犯し、あるいは戦いに敗れたものはたとえ誰であっても容赦なく排除されます。ビギナーウィキペディアンの学者有識者を「先輩」(≒ウィキホリック)の高校生ユーザーが罵倒し怒鳴りあげるなんて例はよく見られます。こういう社会の中で生き残っていくのは意外と大変なのです。

ここで重要なことは、これらの「不真面目な」記事や執筆者を攻撃しても「真面目な」記事は増えないし、ウィキペディアの質の向上にも結びつかないということです。他の分野についてもいえる事ですが、ウィキペディアの質は各分野の執筆者の補充、教育といった「足し算」の策でしか向上しません。「真面目な」記事を充実させたければ、それができる人材を得るしかないのです。広い分野で優秀な執筆者を獲得するために、現在ウィキペディアは学会との提携や広報活動といった様々な活動を行っています。しかし他の情報発信手段がいくらでもある現在、面倒な決まりごとが多く、記事を仕上げても愚か者の上書きを受けるおそれのあるウィキペディアに、頭のいい人たちが集まってくれるでしょうか?

著作権侵害

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記事の中には、著作権を侵害して他の文献からそのまま転載されたものがあります。時には出典を記していないこともあります。よほど運がよくなければ、この違反を見つけることは出来ません(それくらい記事が多いのです)。

共同作業・コミュニティの問題

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記事のノートで際限なく議論を続け、肝心の記事の執筆が放置状態になったりしがちです。というのは、頑なに自説を主張し反対する人が一人でもいる限り、当人の主張を容れて合意を成立させなければ事態が進展しないためです。ウィキペディアは、記述される内容が「真実か否か」ではなく「検証可能性があるかどうか」「その文章の存在が容認されるか否か」によります。また逆に、議論もないまま、あまりに破壊的なヴァンダリズム記事を残す者や、出典要求タグを多く残してページを汚す者もいます。

日本語の文法、表記法、漢字の用法、文字組みの方法などに精通している人には、記事の内容を書くよりも間違った日本語の使い方が気になって、これを直すのに忙殺されてしまうでしょう。しかしその修正も他の人(や旧版の執筆者)には 、たとえ一文字であっても気に入られずリバートされることがあります[注 12]。悪文家の自惚れや自尊心は傷ついてしまいます。

ウィキペディアには、善意と協力(Wikipedia:善意に取るWikipedia:礼儀を忘れないを参照)というよりは、敵対と争いの文化があり、どんなに経験のあるウィキペディアンでも、相手に善意を感じ取れないことがあります[注 13]。ある記事を編集する際、自分と正反対の意見を持つ人と一緒に特定の題目について記述することになる場合があります。相手があまりにも偏執的であれば、討論は必要以上に厄介なものとなります。なぜなら、両者の間で互いに一方的な意見の押し付いや、それに伴う相手を論破することを目的とした論争[注 14]が起こってしまい、話し合いという作業が目的とする相互理解や、意見の総合的な折衷が不可能となるからです。これらから、記事の保護を解除させるだけのために続く出口の見えない論争、到底不可能な合意形成、見出せない妥協点、そしてそれに貴重な時間を取られることが馬鹿馬鹿しくなり、ウィキペディアから離れる人も出て来ます(多くの人は学究活動で生計を立てているのではありません。また論争相手がどこの誰なのかさえも分かりません)。また、あることを加筆しよう、或いはある項目を立てようとする人、それに反対する人も当然おり、ここに陰謀論が発生する余地まで生じます。相反する二つの主張がある場合、片方に関係すること・批判される側にはバッシングとも見紛う加筆がされ記事が成長する一方で、異議が唱えられること・批判する側については何ら執筆されない例さえあります。

結局、争いの元になりそうな新規参加者は、コミュニティに適応してもらうよりも、撃退し排除(最終的には追放、出入り禁止に)することが最優先事項となります。荒らし対策も悪循環を産みます。もし、記事のリバートや、更には投稿ブロックが早過ぎれば、優秀な編集者を一人失ってしまう可能性もありますが、逆に遅過ぎれば、その人がウィキペディアに加えた多くのごみを取り除くのに、優秀な編集者たちが余分な時間を使わなければいけなくなります。どちらに転んでも損失です。

もしウィキペディアがネット上のほかの「共同体」の轍を踏むのであれば、少人数のグループが他を排除する力を持つようになるでしょう。学者有識者気取りのおたく[注 12]2ちゃんねらーが場を仕切っています[注 15]。ウィキペディアは「流れ者」から「自由を守る」ために、どんどんピラミッド型ヒエラルキー上下関係とも云い得る)を持つようになっており[注 16]、その利用者には各種依頼・投票参加・半保護ページ編集が出来る古参の「ログインユーザー」、記事の削除投稿ブロックが出来る「管理者」などの階層が生まれています。この「管理者」の権限はシステムに組み込まれており、熱心な参加者が時間を割いて注意深く観察していない限り、この権限に対するチェックや牽制は働きません。管理者の行為を監察する制度さえないのです[注 17][注 18][注 19]

このようにして、先取権、内在的な偏向、対立の構図、その他エトセトラは更に悪化してしまうでしょう。「有象無象の流れ者」であることを理由にして、多くの人が百科事典のための意思決定過程から排除されてしまうでしょう。朝から晩まで―場合によっては睡眠や食事、排泄に当てる時間さえも惜しんで―端末に張り付き編集に関わっている「声の大きい人」(ノイジー/ラウド・マイノリティ)のみが最終的に主導権を握ることになり(ウィキアリティ)、ウィキホリック達のサロン、ウィキホリック達によってウィキホリックのために構築された、ウィキホリックだけがいる村社会ディストピアと化します[注 20]Wikipedia:半保護の方針Wikipedia:保護解除依頼Wikipedia:保護依頼#依頼資格の制限Wikipedia:投稿ブロック依頼#依頼・コメント資格についてを参照)。

広域ブロックが、可変IPユーザに対して行われると、それがダイアルアップでもブロードバンドでも、ウィキペディアに参加できる人を減らしてしまいます。

利用者個人の側に起こる問題など

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このサイトは、たくさんのウィキペディア中毒患者を生み出しています。人々の時間は他のもっと有意義な活動に使えたのかもしれないと考えると、これは利用者にとって損失です。

編集者はいかなる記事においても、その著作者であると主張することはできません。ただし、もし誰かに「自分がウィキペディアで書いたこと」を見てもらおうとしたら、履歴ページを見てもらうことができます。単に、世の中には自分の経歴を述べるのに適した場所が無数にあり、ウィキペディアがそういう場所ではないということです。

ウィキペディアのコンセプトはすばらしいのですが、実際に執筆するのはそれほど楽しいわけではありません。

技術的問題

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ウィキペディアのサーバは一カ所に集中しているので、サーバやネットワークに問題が起こったときに堅牢性を維持できません。トラフィック増加・アクセス集中などした際には対応し切れずしばしばダウンしています。これはひいてはウィキペディアの信頼性が疑われることにつながります(ライセンスに基づき、ミラーを作ることは可能です)。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 書いた人の「利用者ページ」にある自己紹介的な内容とて、全て自称であり、真実であるとは限りません。書かれていることの真実性は一切担保されません。中には全く関係ないことが書かれていたり、また、何も書かずに出典タグばかり張り付けている者さえいます。
  2. ^ 現在進行中のことはウィキペディアには不適切かもしれません。同系プロジェクトのウィキニュースは何のためにあるのでしょう?
  3. ^ しかもそのほとんどが、百科事典ではなく年鑑に移したほうがいいのではないかと思われる項目です。ちなみにウィキメディアプロジェクトに年鑑はありません。
  4. ^ 誤訳が20件以上指摘された記事や、多数の誤訳を含む「良質な記事」さえあります。近年では低質な翻訳を投稿し、免罪符のように{{翻訳直後}}や{{翻訳中途}}、{{rough translation}}テンプレートを貼って放置する例も目につきます。良質な翻訳を行える人の数は限られる上、修正には原文と対照し疑問点を調べ上げてwikitextを編集するという面倒な作業が必要なため、誤訳の大部分は何年も残っています。さらに日本語版で加筆が増えたり、元の記事が充実して分割されたりすると原文との対照さえ困難で、修正はほとんど不可能になります。そもそも英語が十分にできる人は翻訳記事を必要としないし、活動するにしても運営のましな英語版に行くという問題もあり、日本語版の翻訳記事はずっと低質な状態のままです。無理しないで日本語文献から記事を作ればいいのに。
  5. ^ 言語体系に即する、という約束については、日本人編集者がさらに留意しておくべき点があります。それは、むやみやたらに外来の言葉を用いないよう気をつけることです。日本語版の記事を執筆する以上、編集者は日本語と外国語とをしっかり識別しなければなりません。日本語文字の一種であるカタカナで表記するからといって、英語の言葉が日本語の体系的な語彙となるわけではありません。よって、「ポピュラーである」「リタイアする」といった表現は日本語版の記事としては不適切なものとなります。また、日本語版の読者はあくまで日本語話者であって、日本民族そのものではないということを念頭に置かなくてはなりません。したがって、日本人の好みに合うから、という理由で「辞退する」を「リタイアする」、「人気である」を「ポピュラーである」などと書くことは、ウィキペディア日本語版の原理を逸脱することとなります(特定のカタカナ語そのものが記事題目・解説対象となる場合は例外です)。Yahoo!などと違い、ウィキペディアは地域・国家・民族による区分を有しません。「日本国版」と「日本語版」の根本的な違いがここにあります。ウィキペディアを分かつのはあくまで言語であり、そこにおける記事の完成度を図る上では、まず民族的な性向に対し中立的となって(それはウィキペディアの基本的な編集姿勢でもあります)、当の言語体系に即することが必要条件となります。しかし実際の日本語版における編集者人口はほとんど日本人であり、本来的な日本語環境というものは、そこにおいては残念ながら保全されていない、新規に立てられる項目の内容も、外国語版には存在しない日本独自の項目ばかり、つまり日本語版だけで孤立しているのが現状です。
  6. ^ ドラえもん』は開始から現在に至るまでの、『渡る世間は鬼ばかり』は開始から完結まで、全ての内容が記述されています。主役キャラクターの性格や人物が書かれたものさえあります。
  7. ^ これが外国になると、英語版では海外に関する項目、フランス語版では自国文化に関する項目で編集回数が多いことが確認されています。2012年にはAKB48関連AV女優個々人の記事が日本語版の上位を占めたことが判明しました。
  8. ^ ONE PIECEの登場人物一覧は2006年1月から2009年9月まで、過去ログも含めて少なくとも6,000回以上編集されています。
  9. ^ 日本は2002年9月から2009年9月まで、過去ログも含めて少なくとも3,500回以上編集されています。
  10. ^ 東北地方太平洋沖地震は発生当日から当月末まで、1,400回以上編集されています。
  11. ^ 熊本地震 (2016年)は発生当日から1週間で1,000回以上編集されています。
  12. ^ a b “主”を気取って居座るウィキホリックがいる項目もあり、運悪く出くわすと、気に入られない記述はどんなに有益でも排除・リバートの憂き目に遭います。
  13. ^ Wikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは戦場ではありませんという方針があるが、この方針自体を知らないウィキペディアンも多く、一部のウィキホリックに至ってはこれを無視した論争を展開している傾向が散見されます。
  14. ^ 相手を論破するという傾向は、とあるドラマの出演者の「はい論破」という台詞が、SNSを中心として流行り、それが影響している可能性があります。
  15. ^ 2ちゃんねらーであると公言するウィキペディアン・ウィキホリックも多数おり、また2ちゃんねるにはウィキペディア日本語版をウォッチするスレッドが存在します。Wikipedia:日本語版ユーザーグループ#外部サイトでのコミュニティを参照。
  16. ^ ラリー・サンガーはこの悪弊を排除するためにCitizendiumを作りました。
  17. ^ 管理者が密かに作った自分の多重アカウントにルール違反をやらせていない、もしくは管理権限行使にかこつけて自分やウィキペディアへの批判を封じていないという絶対的保証はありません(そのユーザの行為は何であろうと管理者に庇護され天下御免となります。さらに一部の管理者には、自分の気に入らぬ・意に沿わぬユーザーに対し恣意的に投稿ブロックを発動している傾向さえ見受けられます)。また論争が発生した場合、管理者が何の告知もせず、またノートでの討論を呼びかけることさえせずに記事を保護に持ち込んだり、さらには論争に自ら進んで参加して、前述の方針を無視した言動を展開する一部の管理者すらいます。つまり「Wikipedia:管理者#一般の参加者とどう違うのか」に述べられている“管理者はその立場において特別なものではない”は、建前に過ぎないのです。
  18. ^ 2012年末には、5年も務めていたある著名な管理者が、ルール違反をしていながらそれを隠して信任を受け管理者になっていた事実が発覚し、指弾を受けて辞任、そのままウィキブレイクに入りました。
  19. ^ インディアナ大学ブルーミントン校のウィリアム・エミーとスーザン・C・ヘリングは、「ウィキペディアは社会的手段、つまり参加者たちの中核をなす人々に問題がないかを監視する自己規範と、より幅広い文化から書かれることによる百科事典的な本文への期待によって、それらの結果を達成すべきである」と述べています。[2]
  20. ^ スティーブン・J・ボーハンニコルズはウィキペディアを「ログインユーザのためのグループウェアだ」と喝破しています。

出典

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  1. ^ Wikipedia:はじめての編集合戦 小飼弾「404 Blog Not Found」2007年4月1日
  2. ^ "Collaborative Authoring on the Web:A Genre Analysis of Online Encyclopedias", Proceedings of the Thirty-Eighth Hawai'i International Conference on System Sciences. (PDF)

関連項目

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関連書籍

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  • 山本匡紀・古田雄介『ウィキペディアで何が起こっているのか―変わり始めるソーシャルメディア信仰』 九天社 2008年5月 ISBN 4861672325 再版でオーム社 2008年9月 ISBN 9784274067310
  • ポストメディア編集部『笑うウィキペディア』 一迅社 2007年7月 ISBN 9784758010825
  • ピエール・グルデン/フロランス・オクリ/ベアトリス・ロマン・アマ/デルフィーヌ・スーラ/タシロ・フォン・ドロステ・ツー・ユルショフ共著・佐々木勉訳『ウィキペディア革命―そこで何が起きているのか?』 岩波書店 2008年7月 ISBN 9784000222051
  • アンドリュー・キーン 『グーグルとウィキペディアとYouTubeに未来はあるのか?―Web2.0によって世界を狂わすシリコンバレーのユートピアンたち』サンガ 2008年6月 ISBN 9784901679855
  • 中川淳一郎『ウェブはバカと暇人のもの ―現場からのネット敗北宣言―』 光文社光文社新書) 2009年4月 ISBN 9784334035027、『今ウェブは退化中ですが、何か? ―クリック無間地獄に落ちた人々―』 講談社(講談社BIZ) 2009年12月 ISBN 9784062821278
  • アンドリュー・リー著、千葉敏生訳『ウィキペディア・レボリューション―世界最大の百科事典はいかにして生まれたか』 早川書房 2009年8月 ISBN 9784153200050

外部リンク

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