Template‐ノート:和暦/利用実態調査/1336
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[編集]- 事象の説明を書く。
- 記事の引用は変更してはいけない。
- 検証したら年号と月日、検証に使った資料を書く。
- 明治5年までは、記入する年号と月日は旧暦とする。なお、改元年は、参照した資料に応じて旧元号でも新元号でも可。
- 月日を特定できる場合のみ、西暦も可。その場合「(西暦)」と注記する (特にユリウス暦の場合は「(ユリウス暦)」と注記する)。
- その他の和暦または西暦の日付がわかるときは、同様に記入してよい。
- 1873年 (西暦) 以降は、記入する年号と月日は西暦 (グレゴリオ暦) とする。
- 年や日付に異説がある場合、両方を記入する (どちらかを除去することはしない)。
- 見出しの年号や月日は記事に書いてあったものなので、正しいとはかぎらない。
略記できる資料
[編集]以下の資料は略記する。ページ番号は不要。
- 新国史
- 『新・国史大年表』第3巻 一二八二〜一四五五、日置英剛編、国書刊行会、2008年、初版。
記載
[編集](1336年)
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- 鎌倉幕府滅亡後に開始された後醍醐天皇の建武の新政から離反した足利尊氏は、南北朝時代の1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)に湊川の戦いで新田義貞・楠木正成らを破り京都へ入り、施政方針を定めた建武式目を制定する。
- ●
- しかし、同時期から千葉介の継承を巡り、千田胤貞と千葉貞胤の間で、内紛が起こるようになり、〔…〕、対立は表面化、それぞれ、足利尊氏と新田義貞双方に属し1336年(南朝:延元元年、北朝:建武3年)に胤貞が没するまで争いが繰り広げられた。
(1337年)
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- 太平記の1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)金ヶ崎城の戦いにおいて「美濃霧城遠山三郎」なる名が出る事から、鎌倉時代の終わりには諸国に認知される遠山氏の城が存在している事が分かる(ただし巖邑府誌では霧城とは当時の遠山氏諸城の通称で、太平記の霧城が現在の岩村城の場所にあったかは分からないとしている)。
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- 1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)
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- 1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年) - 日法上人、龍口法難刑場跡に「敷皮堂」なる一宇を建立、これが龍口寺の創建という。
7月
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- 後醍醐天皇の吉野行きから半年余り後の1337年(南朝:延元2年、北朝:建武4年)7月、北朝では定房が吉野の南朝へ出奔したことを理由に民部卿を解官されているが、この間の経緯に関しては一旦北朝に仕えた後に南朝に出奔したとする考えと、後醍醐天皇の吉野行きに同行もしくは直後に天皇の後を追って吉野に向かったもので解官は定房が南朝に仕えて京都に戻る見込みが無い現状の追認に過ぎないとする考えがある。
(1338年)
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- build_y = 1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)以前
(1339年)
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- 後醍醐天皇は1339年(南朝:延元4年、北朝:暦応2年)に吉野の地で崩御し、跡を後村上天皇が継いだが、その後の戦いで南朝方有力武将が次々に戦死し、〔…〕、楠木正行、正時兄弟が足利方の高師直の軍勢に討ち取られた。
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- ファイル:… 1339年(南朝:延元4年、北朝:暦応2年)京をうかがう南朝方に対抗するため、北朝方の細川頼春が築いた城と言われてきたが、『よみがえる日本の城』によると「歴史的根拠はなく、むしろ後に城主となる細川藤孝の正当性を強調するための創作である可能が高い」としている。
(1340年)
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- しかし1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)〔…〕、安東氏政権は崩壊したという。
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- build_y = 1340年(南朝:興国元年、北朝:暦応3年)
(1341年)
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- 室町時代初期の1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年) 室町幕府より奥州探題に任ぜられた畠山高国が塩沢・殿地が岡(「田地が岡」とも)に最初の居を構え、地名を二本松と改称し、畠山氏7代当主・畠山満泰が、〔…〕
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- 後見役の曽祖父はそうした争乱の最中の1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)に没し、安芸国吉田荘の支配は元春が引き継ぐことになった。
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- 創建年 = 1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)
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- 龍峰寺は、室町時代初期(南北朝時代)の1341年(南朝:興国2年、北朝:暦応4年)に現在の海老名市立海老名中学校(国分南3丁目)のあたりに創建され、昭和初期に清水寺の寺地に当たる現在地に移された。
(1342年)
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- しかし、南北朝時代の1342年(南朝:興国3年、北朝:康永元年)中期に南軍の征西将軍として派遣された懐良親王が南九州へ入り、菊池氏と共に勢力を強大化させたため、一時は南朝方にも属するなど苦戦を強いられた。
(1343年)
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- 1343年(南朝:興国4年、北朝:康永2年)-。
(1344年)
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- 『師郷記』によると1344年(南朝:興国5年、北朝:康永3年)に、六車郷付近に原田兄弟が国人として働いているとの記載があることから、原田氏は14世紀中ごろから有力者として実在し、原田城を拠点としていた。
(1346年)
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- 当初、守護の職権については鎌倉期と同じく大犯三ヶ条の検断に限定されていたが、国内統治を一層安定させるため1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)幕府は刈田狼藉の検断権と使節遵行権を新たに守護の職権へ加えた。
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- build_y = 1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)
(1348年)
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- 後醍醐天皇は、〔…〕、跡を後村上天皇が継いだが、その後の戦いで南朝方有力武将が次々に戦死し1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)には四條畷の戦いで楠木正成の子、楠木正行、正時兄弟が足利方の高師直の軍勢に討ち取られた。
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- 銅の鳥居は1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)に高師直の軍勢により焼かれ、その後に再建された(時期は不明だが、〔…〕
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- 蔵王堂 - 1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)に高師直の軍勢により焼かれたとあり、〔…〕
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- 1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)〔…〕
(1349年)
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- 1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)〔…〕
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- 1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)
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- 文献史料上、最も古い記録は1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)のもので、能島村上氏が東寺領の弓削庄付近で海上警護を請け負っていたという。
(1350年)
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- 1350年(南朝:正平5年、北朝:観応元年)に、足利直冬は熊谷直平に南朝へ協力するように要請した。
(1351年)
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2月
[編集]12月
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- 1351年(南朝:正平6年、北朝:観応2年)12月、安芸国多治比の保内地頭職を得て、志道村、山県郡宮庄の地頭ともなった。
(1352年)
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- 建武の新政・南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力し南朝方につき、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだとされる。
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- 1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年) - 南宗継に和田郷、深見郷の地頭職が与えられる。
(1353年)
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- 1353年(南朝:正平8年、北朝:文和2年)
5月20日
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- 1353年(南朝:正平8年、北朝:文和2年)5月20日 - 北条時行、龍口で処刑される。
(1356年)
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- build_y = 1356年(南朝:正平11年、北朝:延文元年)
(1357年)
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- 〔…〕1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)には、初期の山形城が築城される。
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- 1357年(南朝:正平12年、北朝:延文2年)〔…〕
(1358年)
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- さらに『類聚抄』の記事によれば四辻善成はもともと一条家に伝来していた「京極北政所自筆水源小巻帚木一巻」を二条良基から受け取って手許に置いていたが、〔…〕1358年(南朝:正平13年、北朝:延文3年)〔…〕、「水源」と呼ばれていることから現在では失われてしまった河内方の注釈書「水原抄」のことであると理解されることの多かったこの記事について、小川剛生は「本写本『従一位麗子本』の伝来についての記録であろう」としている
(1359年)
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- 懐良親王 Template:''main 1359年(南朝:正平14年、北朝:延文4年)、征西大将軍として九州に赴いた後醍醐天皇の皇子懐良親王と親王を奉じた菊池武光は、筑後高良山(福岡県久留米市)と毘沙門岳に城を築いて「征西府」とした。
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- 1359年(南朝:正平14年、北朝:延文4年)〔…〕
(1361年)
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(1362年)
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- 代々の城主であった十河氏とは、讃岐国山田郡を支配していた、植田氏の支族で1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)に細川清氏の陣に最初に馳せ参じたのが、十河吉保でこの時の様子を『南海通期』によると、 Template:''Cquote3 とあり十河吉保がこの地の惣領となった。
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- この館の築造については、〔…〕1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年))によって築かれたとする説をはじめ諸説がある。
1月
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- その後、南北朝時代の1362年(南朝:正平17年、北朝:貞治元年)1月、室町幕府の管領細川清氏は、讒言によって征夷大将軍足利義詮により追放され、四国に逃れ讃岐国の白峰城に立て篭もり叛乱を起こした。
(1363年)
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- 1363年(南朝:正平18年、北朝:貞治2年)に秋月城から勝瑞城に移り、その後阿波国守護細川氏・三好氏の歴史を綴ることになる。
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- 上杉憲顕が1363年(南朝:正平18年、北朝:貞治2年)に鎌倉公方足利基氏の執事(管領)に任ぜられて、初代の関東管領になって以来、鎌倉に居住した一族から犬懸(いぬかけ)、山内(やまのうち)、宅間(たくま)、扇谷(おうぎがやつ)の4家が出た(頭に居住地名を冠している)。
(1364年)
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- 1364年(南朝:正平19年、北朝:貞治3年) 行阿、原中最秘抄に加筆する
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- 1364年(南朝:正平19年、北朝:貞治3年)-。
(1365年)
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- また1365年(南朝:正平20年、北朝:貞治4年)の氏胤没前後からは、貞治・応安の総論の展開による下総での国内問題や千葉家の筆頭家老の座を巡る原氏と円城寺氏の争いなど、千葉宗家・千葉六党・家臣(同族)間の対立や内紛が後も絶えずに起こる。
(1367年)
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- 〔…〕1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)
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- 1367年(南朝:正平22年、北朝:貞治6年)〔…〕
(1368年)
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- 1368年(南朝:正平23年、北朝:応安元年)に出された応安の半済令は、従来認められていた年貢の半分割だけでなく、土地自体の半分割をも認める内容であり、この後、守護による荘園・国衙領への侵出が著しくなっていった。
5月
[編集](1370年)
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- Template:''main ファイル:…(『前賢故実』1903年、菊池容斎筆)]] 今川貞世(了俊)は1370年(南朝:建徳元年、北朝:応安3年)頃、管領細川頼之より渋川義行の後任の九州探題として推挙され、3代将軍足利義満によって正式に任命された。
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- 菱紋が現れたのは1370年(南朝:建徳元年、北朝:応安3年)頃と見られている。
(1371年)
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- 現存する『古事記』の写本で最古のものは、「伊勢本系統」の1371年(南朝:建徳2年、北朝:応安4年)〔…〕
(1372年)
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(1373年)
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- 1373年(南朝:文中2年、北朝:応安6年)〔…〕
(1374年)
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- 1374年(南朝:文中3年、北朝:応安7年)
(1375年)
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- こののち貞世は応安7年7月に肥後国菊池郡水島の地に陣をもうけ1375年(南朝:天授元年、北朝:永和元年)には同地での会戦に備えて、当時九州で勢力を築いていた豊後国守護大友親世、筑前国守護少弐冬資、大隅国守護島津氏久3名の来援を呼びかけた。
(1377年)
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- 1377年(南朝:天授3年、北朝:永和3年)に家督相続。
(1378年)
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(1379年)
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- 1379年(南朝:天授5年、北朝:康暦元年) - 阿蘇惟村
(1380年)
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- 1380年(南朝:天授6年、北朝:康暦2年)〔…〕
(1381年)
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- 貞世はこれらに対し、体制を挽回して1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)には菊池武朝を隈部城から追放し、九州南部へ転進した島津氏久・島津伊久に対しては五男今川満範を派遣して国人一揆を結成させ、永徳2年(1382年)に帰順させた。
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- 1381年(南朝:弘和元年、北朝:永徳元年)写)、道祥本(上巻のみ。
(1383年)
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- 1383年(南朝:弘和3年、北朝:永徳3年)
(1384年)
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- build_y = 1384年(南朝:元中元年、北朝:至徳元年)
(1385年)
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(1387年)
[編集]5月
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- 1387年(南朝:元中4年、北朝:嘉慶元年)5月、守護斯波義種に反抗する村上頼国、小笠原清順、高梨朝高、長沼太郎らが善光寺で挙兵して平柴(長野市安茂里)の守護所を攻めた際に、麓のこの地で合戦となった。
(1388年)
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- 〔…〕1388年(南朝:元中5年、北朝:嘉慶2年))のもとにあり、〔…〕