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キング・クリムゾン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
King Crimsonから転送)
キング・クリムゾン
UNCERTAIN TIMES JAPAN TOUR 2018 (2018年)
基本情報
出身地 イングランドの旗 イングランド ロンドン
ジャンル
活動期間
  • 1968年 (1968) - 1974年 (1974)
  • 1981年 (1981) - 1984年 (1984)
  • 1994年 (1994) - 2011年 (2011)
  • 2013年 (2013) - 2021年 (2021)
レーベル
公式サイト DGMディストリビューション・ジャパン (@DGM74921370) - X(旧Twitter)
メンバー
旧メンバー 別記参照

キング・クリムゾンKing Crimson)は、イングランド出身のプログレッシヴ・ロックバンド[6][7][2]

同国のミュージシャン、ロバート・フリップが主宰を務めていることで知られ、同分野で重要な位置に格付けられているグループの一つ。活動は中断期間を挟みながら50年以上に及び、ロック史に大きな足跡を刻んでいる。

概要

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1968年12月に結成。アルバムクリムゾン・キングの宮殿』で1969年にデビュー。以降、リーダーのロバート・フリップはバンドのメンバーを次々と替えていき、音楽性も多様に変遷を辿った。

活動は、大きく4つの時期に分けられる。

プログレッシブ・ロック形成の時代。演奏ジャンルに明確な線引きもなく、バンド史上最も実験性(エクスペリメンタル)に富んでいた。

管弦楽器やメロトロンを廃したギター・ロックに徹し、これまでの音楽性を転換。音響機器の飛躍的な進歩もあり、ニュー・ウェイヴの時代に沿ったスタイルを展開した。通称ディシプリン期とも呼ばれる。

ヘヴィメタル路線を推進したプログレッシブ・メタルを展開。メタル・クリムゾンとも呼ばれ、独自のヘヴィサウンド「ヌーヴォメタル」を創り出した。

公演活動にシフトし、ライブサウンドに特化。過去の作品を高度なレベルで演奏する、洗練かつ円熟した時代。


【補足】

各期の細かな分類については諸説ある。構成メンバーを基準に、“第1期”、“第2期”……などと分類する点は共通しているが、「デビューからファースト・アルバムのリリース当時」のメンバーを“第1期”、サード・アルバム『リザード』のころを“第2期”、4thアルバム『アイランズ』のメンバーを『第3期』……とする分類や、『リザード』までを“第1期”、『アイランズ』のころを“第2期”、『太陽と戦慄』から1974年解散までを“第3期”……とする分類などといったように、「アルバム自体や、その時のメンバー単位で分類する方法」と、「デビューから1974年の解散時まで」を“第1期”、「1980年代再結成からの活動期間」を“第2期”、「1994年からの活動期間」を“第3期”……と、「連続活動期間で分類する方法」などがあり、統一がなされていない。音楽評論家の市川哲史は、『太陽と戦慄』の時期を「再結成」、1980年代の『ディシプリン』から『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』の時期を「再々結成」、1990年代のダブル・トリオの時期を「再々々結成」として、キング・クリムゾンのCDのライナノーツでもその様に記述している。ここでは、前者の分類方式に準じて述べていくが、「デビュー当初の“第1期”」後については、極力、構成メンバーやアルバム・タイトルなどで記述することとする。

来歴

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1960年代 クリムゾン・キングの宮殿(1968年-1969年)

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1968年、ジャイルズ兄弟(マイケル・ジャイルズピーター・ジャイルズ)とロバート・フリップの3人によるバンド「ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ」から発展。同年6月にマルチプレイヤーイアン・マクドナルド、作詞・ライブ時の照明担当のピート・シンフィールド、女性ボーカルのジュディ・ダイブル(元フェアポート・コンヴェンション)が加わる。しかし翌7月にダイブルが抜け、同12月にフリップの古くからの友人であったボーカリストベーシストグレッグ・レイクが参加。同11月末にピーター・ジャイルズが脱退し、フリップ、Mジャイルズ、マクドナルド、レイクとなり陣容が正式に固まった。

1969年初頭、バンド名は加入前にマクドナルドとシンフィールドが共作した曲「クリムゾン・キングの宮殿」から採られ、「キング・クリムゾン」に決定。シンフィールドは、メンバーの反対を押し切って付けたとインタビューに答えている。本格化した活動が始まり、公開リハーサルの後、ライブ活動とアルバム制作を並行した。当初、バンドローディだったピート・シンフィールドは、作詞やライヴのライティングでの貢献から演奏に不参加ながらも正規メンバーとなった。

同年10月、デビュー・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』を発表。それは今後のロック・ミュージックを左右する雛形が詰まったと言える作品で、業界からも非常に高い評価を得る[8]全英アルバムチャート5位まで上昇したが、当時から雑誌のレコード・レビューなどで「1969年に、ビートルズの『アビイ・ロード』を1位から転落させたアルバム」といった内容で日本盤LP帯に紹介されてしまった。[注釈 1]

このファースト・アルバム制作当初、「ムーディー・ブルース」のプロデューサー トニー・クラークがプロデュースを担当する繋がりで、同バンドのレーベル「スレッショルド」からリリースする話もあったが、結局はクラークと制作面の相違で決裂。最終的にバンド側がセルフプロデュースして「アイランド・レコード」からのリリースとなった。また、現在はフリップがバンドリーダーを務めているが、この当時の作曲やアレンジを含めた音楽面では、マクドナルドが優勢であったとされる。特に、キーボード(メロトロン)、サックス、フルートを導入し、新たな音楽を創造した功績は大きいとされている。

1stアルバム発表後、イアン・マクドナルドとマイケル・ジャイルズは同年末で脱退し、ロック・デュオ「マクドナルド・アンド・ジャイルズ」結成に向かう。これによりオリジナル・ラインナップは早くも崩壊し、アルバム僅か一枚の短命で終わる。

1970年代 アイランズ期(1970年-1972年)

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バンドは崩壊後も契約消化のため、アルバム・リリースを継続せねばならなかった。1970年からの新アルバム制作にサックス及びフルート奏者 メル・コリンズが正規加入、脱退していたジャイルズ兄弟らの協力やゲストプレイヤーを招いて、セカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』を完成させた。ただし、グレッグ・レイクが4月以降からレコーディングに来なくなり、そのまま脱退。「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」結成に動き出していた。そのためライブツアーは実施されていない。その後、ボーカリスト兼ベーシスト ゴードン・ハスケルとドラマー アンディ・マカロックを正規メンバーに迎えた上に、ゲストプレイヤーの協力も仰いで、サード・アルバム『リザード』を制作して同年末リリース。ライブツアーを実施しようとしたが、リハーサル段階でハスケルとマカロックが脱退したので頓挫した。

1971年初頭、残った正規メンバー フリップ、コリンズ、シンフィールドは、ライブ活動ができる状態を模索する。まずボーカリスト ボズ・バレルとドラマー イアン・ウォーレスを獲得。そしてベーシストは適任者探しが難航した末、バレルが兼任するという形に決まり、フリップがベースギターの素人であったバレルに奏法を教授した。新作アルバムの制作に入る前に、4月からドイツや英国ツアーで1年以上ぶりのライブ活動を行う。

同年夏、新作アルバムの制作に着手し、並行して英国ツアーを継続。11月からは北米ツアーに入る。この間メンバー同士の確執が浮き彫りになる。特にフリップとシンフィールドの、ブレーン両名の険悪化は致命的であった。そんな中の同年末、4thアルバム『アイランズ』を発表。そしてシンフィールドは解雇された。さらに翌1972年早々のリハーサル段階でもフリップと残りのメンバーとの間の意見統一ができず、結局フリップはバンドの解散を決意。マネジメント側は既に北米ツアーの向こう2ヶ月のスケジュールを組んでいたため、4人は渋々同意して渡米し、ツアーが終了した同4月頭に解散した。

ツアー終了後フリップのみ英国へ帰国し、残りの3人は遠征先で意気投合したアレクシス・コーナーとバンド「スネイプ」を結成。その後バレルは、ポール・ロジャースのバンド「バッド・カンパニー」のベーシストとして参加。シンフィールドはグレッグ・レイクの呼びかけに応じて「エマーソン・レイク・アンド・パーマー」に作詞で協力し、ソロ・アルバム『スティル』を制作した。後年にフリップは、この時期のバンド解消を「彼らとではアイデア(後の『太陽と戦慄』路線)を具体化できなかったから」と説明している。

同年6月、初のライブ・アルバム『アースバウンド』を廉価版にてリリース。これは北米ツアーの音源でカセットテープによって収録された劣悪な音質でありながら、対立が深まるメンバー同士の爆発寸前の驚異的な演奏であり、後々まで批評を受けた[注釈 2]

1970年代中半 インプロビゼーション期(1972年-1974年)

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当時のラインナップ(左からウェットン、クロス、フリップ、ブルーフォード)

解散が決定した1972年初頭からの北米ツアーの期間中フリップは、既に次期クリムゾン再開に向けての青写真を描いていた。同年夏、ドラマーのビル・ブルーフォードを「イエス」から獲得。「ファミリー」のベーシスト兼ボーカリストでフリップの大学時代の友人ジョン・ウェットンデレク・ベイリーが主宰しクリムゾンが影響を受けた即興集団「カンパニー」のパーカッショニスト ジェイミー・ミューア、そして新鋭のキーボード兼ヴァイオリニスト デヴィッド・クロスが集結し夏からリハーサルを重ね、同年10月から再始動。即興演奏(インプロビゼーション)を主体に、新たな楽曲を生み出す技巧派集団に生まれ変わった。

1973年ライブ・ツアー

ここで再びバンドとしてのピークを迎え、5th『太陽と戦慄』6th『暗黒の世界』7th『レッド』の3枚のアルバムをメンバー変遷を経ながらもリリースし、ライブ・ツアーも精力的にこなした。

しかし、ミューアは『太陽と戦慄』発表前の早々に脱退。1974年にはデヴィッド・クロスとヘヴィ志向のウェットンとの間で音楽的衝突が浮き彫りになり、クロスを一方的に解雇し、アルバム『レッド』制作の頃は正規メンバーがフリップ、ウェットン、ブルーフォードの3人に減少していた。

ウェットンの呼び掛けにより、数名の旧メンバーがゲスト参加してアルバムを完成させたが、リリース直後にフリップは解散を宣言。直前まではメディアに、ゲストで参加したかつての創設メンバー イアン・マクドナルドを再度迎えてのバンド継続も匂わせていたが、フリップは自身だけでも脱退するつもりでいた。実際の裏側では、スティーヴ・ハケットジェネシス)を自分の後任候補に据えての存続をフリップは提案していたが、マネジメント側に却下されていた事実が後年に明かされている[10]

解散後の1975年に、北米ツアーのライブを収録したアルバム『USA』をリリース。元音源にはヴァイオリン兼キーボード(主にメロトロン)担当のデヴィッド・クロスが参加していたが、数曲が編集段階でエディ・ジョブソンの演奏に差し替えられている(またこの頃、「太陽と戦慄 パート2」(5thアルバム『太陽と戦慄』収録)に酷似した曲が映画「エマニエル夫人」で使用され、フリップの訴えによる裁判が行なわれている。裁判後に和解)。

1980年代 ニュー・ウェイヴ期(1981年-1984年)

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解散から7年後の1981年、フリップは、かつてのメンバーであるビル・ブルーフォードと共同で、「ディシプリン」という名のプロジェクトを開始した。アメリカ人ベーシスト、トニー・レヴィンが加入[注釈 3]。2人目のギタリスト兼ボーカリストに、アメリカ人のエイドリアン・ブリューが参加した。この4人からなる新グループは、契約しているレーベルの商業的意向もあって再び「キング・クリムゾン」の名義で活動を再開する。

しかし1970年代までのスタイルからは打って変わり、管弦楽器を廃してギター・ロックに徹し、ポリリズムや当時ムーブメントになっていたニュー・ウェイヴの要素を取り入れるなど、音楽性が劇的に変化していた(2本のギターとスティックによる複雑なアルペジオの絡みが特徴的)。このような形での再結成に対して批判の声も聞こえ、「キング・クリムゾンがトーキング・ヘッズ化した」という批判も一部から出た。旧メンバー ジョン・ウェットンも当時、「英国人以外が参加しているこのラインナップを、クリムゾンとして認めない」旨の発言をしている。

同1981年9月、当初のバンド名をセルフタイトルとした8thアルバム『ディシプリン』リリース。同1981年(昭和56年)12月に初来日し、渋谷公会堂浅草国際劇場を始めとする全国ツアーを行なった。

1982年、9thアルバム『ビート』を発表。元々『ディシプリン』のみのプロジェクトであったため新素材がほぼ皆無で、準備不足のなか創作に苦労したエピソードを、後に明かしている。

1984年リリースの10thアルバム『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』に至っては、メンバーのモチベーションはもはや低下した中で制作された。同年(昭和59年)春に再来日し、北米ツアー後の7月に解散を決定する。フリップは「レーベルとの契約は、アルバム3枚リリースが条件であった。本来意図したアイデアは『ディシプリン』で完結している」と後年に明かしている。

1990年代 ダブルトリオ期(1994年 - 1996年)

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1980年代末頃からフリップの活動も活発になり、再び再結成の機運が高まっていく。1992年にフリップは音楽エンジニア デヴィッド・シングルトンと共同で、自身が管理する独立レーベル「Discipline Records (後のDiscipline Global Mobile。通称 DGM)」を設立。

さらに、デヴィッド・シルヴィアンとの共作などで手応えを感じたフリップは、1994年から遂にバンドを再始動させる。1980年代のメンバーから更に増員して6人編成となり、3人二組のユニットを配置するスタイルを構築(通称 ダブルトリオ)。サウンド面では、1974年作『レッド』で片鱗をみせたヘヴィ路線を継承し、プログレッシブ・メタルを推進した。

このラインナップでEP『ヴルーム』を制作。慣らし運転も兼ねた南米ツアーを開催し、翌1995年に11年ぶりの11thアルバム『スラック』を発表。そしてフリップは、キング・クリムゾンが実践するヘヴィサウンドを「ヌーヴォメタル (Nuovo Metal)」と名付けた。アルバムに伴うワールドツアーを開始し、数多くのライブ音源をアーカイブ化していく。

1990年代後半 プロジェクト期(1997年-2000年)

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長期のライブ・ツアーを終え休息した後の1997年、集合したバンドはリハーサル段階で相違が大きく内紛状態になってしまう。また、メンバーそれぞれ自身の仕事を掛け持ちしており、スケジュールの確保も影響していた。そこでフリップは6人編成を一旦棚上げにして、次作へのアイデアを蓄積させていく意味も含め「プロジェクト (ProjeKct)」という名義の小ユニット活動に一時シフト。これを2000年まで断続的に続ける。またこの期間、グレッグ・レイクもしくは、ジョン・ウェットンを含む4人のクラシックメンバー再結成が企図されたが、これは計画段階で頓挫している。

2000年、プロジェクトで培ったアイデアを結集した「ProjeKct X」名義のアルバム『ヘヴン・アンド・アース』をリリース。ただし、ビル・ブルーフォードが、電子ドラムを使用したいフリップの方針に難色を示し、また自らのバンド「アースワークス」の活動に専念を希望し、1997年に脱退していた。トニー・レヴィンも先約のスケジュールを優先し、1998年から離脱したまま復帰はしなかった。

2000年代 ヌーヴォメタル期(2000年-2004年、2008年)

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2000年(平成12年)、ダブルトリオ瓦解後の残る4人による12thアルバム『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』をリリース。結果的にセールスは大きく振るわなかった。来日公演や北米ツアーを開催するが早くも次作に向けた構想に取り組み、バンド独自のヘヴィサウンド「ヌーヴォメタル」を、これまで以上に推し進める。

ベルギー・ドゥール公演 (2003年7月)

2001年から次作に向けた短期ツアーとレコーディングを並行して実施。同年にEP『レヴェル・ファイヴ』、翌2002年にもEP『しょうがない (Happy with What You Have to Be Happy With)』をリリース。そして2003年、ヌーヴォメタルの集大成となる13thアルバム『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』を発表。同年に来日公演を含むワールドツアーを開催する。

同年秋、ダブルトリオ編成からのメンバーであったトレイ・ガンが脱退を表明。入れ替わりに、トニー・レヴィンが復帰した。翌2004年から新ラインナップでリハーサルを重ねるが、想像以上に上手くいかず頭打ち状態に陥った。多額の経費をかけた割に実りの無さを痛感したフリップは、今後のプランを白紙としバンドは長期の活動休止に入る。

2008年4月、今後の活動計画を話し合う会合とリハーサルが再開。更に新メンバーとして「ポーキュパイン・トゥリー」のドラマー、ギャヴィン・ハリソンの加入が明らかになった。同年8月に北米ツアーを実施。その後、更なるツアーが予定されていたが、エイドリアン・ブリューが自身のソロツアーとダブルブッキングしてしまったことで頓挫。翌年のデビュー40周年記念ツアーも視野にあったが、フリップとブリューの確執も取り沙汰され、また全てが白紙になった。

2010年代 トリプルドラム期(2013年-2016年)

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2011年、バンド休止中の間フリップは、以前に「21stセンチュリー・スキッツォイド・バンド」でも活動していた旧メンバーのメル・コリンズ、ジャッコ・ジャクジクらと新たなキング・クリムゾン・プロジェクトを立ち上げ、アルバム『ア・スケアシティ・オブ・ミラクルズ』を発表。次期クリムゾンに向けた活動を再開する。

ところが、翌2012年にフリップが音楽業界からの引退を表明し、バンドの活動終了を宣言。「ユニバーサル・ミュージックと出版権について問題が勃発し、法廷闘争に専念するため」と明かしている。

2013年、自社レーベル「DGM」のブレーンでもあるデヴィッド・シングルトンが、キング・クリムゾンのトリビュートバンド結成を企図する。これはクリムゾン・プロジェクトらのメンバーに、旧メンバー ジョン・ウェットンを加えた「クリムゾンDNA」という新グループ構想であった。フリップはシングルトンの構想に賛同し、裏方からの支援に着手しようとする[11]

しかしフリップは、ユニバーサル・ミュージックとの係争に一段落ついていた事情もあって、次第に復帰の意欲が湧きはじめ引退の前言を撤回。紆余曲折を経た後 オフィシャルサイト上より、かつてのフリップ主催「ギタークラフト」に参加して知己であったビル・リーフリンの加入による編成で、正規のクリムゾン再始動を表明した[12]

オランダ・ユトレヒト公演(2015年9月 (2015-09)

2014年6月、ライブ活動の再開を発表。メンバー構成は、フリップ、メル・コリンズ、トニー・レヴィン、ジャッコ・ジャクジク、そして3人のドラマー、パット・マステロット、ギャヴィン・ハリソン、ビル・リーフリンを前列に配置した「トリプルドラム」の編成で、9月9日よりアメリカにて17回公演のツアーを開始した。

2015年(平成27年)12月、約12年ぶりに日本公演を開催[13]

2016年、リーフリンが一時降板し、代役にジェレミー・ステーシーが9月の欧州ツアーから参加[14]。12月、創設メンバーのグレッグ・レイクが死去[15]

2010年代後半 ダブルカルテット期(2017年-2020年)

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2017年、ビル・リーフリンが復帰して、キーボード担当に変更。ジェレミー・ステーシーはそのまま正規メンバーに昇格し、8人編成に拡張する[16]。そしてフリップは、ラインナップ構成の呼称を「ダブルカルテット・フォーメーション」と命名した。

同年5月、昨年他界したデヴィッド・ボウイ追悼のトリビュート作品EP『ヒーローズ』をリリース[17]。その後から全米ツアーを開始[18]

同年10月、リーフリンが秋公演に不参加となり、代役サポートにマルチ奏者クリス・ギブソンがキーボードを担当して全米ツアーを再開。

2018年4月、リーフリンが再復帰し、欧州ツアーを開始。同年(平成30年)11月末、結成50周年を記念した来日ツアーが開幕し[19]、集大成となるライブを翌12月まで開催する[20]

2019年4月、デビュー50周年記念欧米ツアーの概要を発表し、今年一杯はリーフリンが再度の休養。代役サポートとして、フリップと共演歴のあるサックス奏者セオ・トラヴィスソフト・マシーン)のキーボード担当が内定していたが[21]、リハーサルが芳しくなかったため白紙に戻した。結果、今シーズン以降は現行メンバーのみの7人編成で対応し、ジェレミー・ステーシーがキーボードを兼任する。

2020年3月、長期休養中だったビル・リーフリンが病没[22]。さらに新型コロナウイルス感染症が世界的に大流行した影響で、年内のスケジュールを翌年に延期。

2020年代 プロジェクトの終焉(2021年- )

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2021年夏から北米ツアーを再開[23]。そしてジャッコ・ジャクジクは北米ツアーについて、バンドにとって最後になる可能性を示唆する。各種イベント延期分のしわ寄せで会場確保が今後困難になること、正常に戻った頃には年長メンバーの高齢化が進行している健康事情を説明した[24]

同11月末から3年ぶりの来日ツアーを開催[25]。そしてトニー・レヴィンも前述の北米ツアーと同様に、ツアーの形態による開催はこの日本公演をもって最後を示唆した。ロバート・フリップから『ツアーの全行程を「日本で幕を閉じる」』と説明された話を明かし、コロナ禍で開催実現に奔走してくれた関係者に謝意を伝えている[26]

2022年2月、創設メンバーのイアン・マクドナルドが死去[27]。3月、バンドのドキュメンタリー映画『In the Court of the Crimson King』を公開上映[28]

同年4月、メンバーのギャヴィン・ハリソンが音楽メディアの取材で、バンドの状況を自分なりに語った。昨年末の最終ツアーは『2013年からのプロジェクトが完走し、あくまで一つのサイクルが終了したに過ぎない』『ロバート・フリップは物事をプロジェクト単位(○○年周期)で考えるため、その度に白か黒か(継続なのか解散なのか)といった判断はしない』と私見を述べ、今後どんなケースもあり得ると説明している[29]

そして同年7月、ロバート・フリップ本人が取材に答え、『我々の年齢の現実からすれば、今後のツアーは難しい』『キング・クリムゾンのギターパートは演奏オリンピックのようなもので、若い頃のようなアスリート能力を求められても応えるには困難』と、ツアーの再開は明確に否定した[30]

メンバー

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※2022年2月時点

主宰

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最終ツアーラインナップ

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旧メンバー

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サポート

  • クリス・ギブソン (Chris Gibson) - キーボード(2017年)

ラインナップの変遷(主な担当パート)

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King Crimsonファミリーツリー PDF
  • 主宰(以下、全期間を通じて在籍)
  • Lineup #4 『ディシプリン』『ビート』『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペア』(1980年代再結成時)
  • Lineup #5 『ヴルーム』『スラック』(1990年代再々結成時)
    • エイドリアン・ブリュー - Vocals, Guitars & Percussion
    • トニー・レヴィン - Bass, Chapman stick, Synthesizers & Vocals
    • トレイ・ガン - Warr Guitars, Bass
    • ビル・ブルーフォード - Drums & Percussion
    • パット・マステロット - Drums & Percussions
  • Lineup #6 『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』〜『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』
    • エイドリアン・ブリュー - Vocals & Guitars
    • トレイ・ガン - Warr Guitars, Bass(2007年エディー・ジョブソンやその他のミュージシャンとともにUKZを結成)
    • パット・マステロット - Drums & Percussion
  • Lineup #8 『ヒーローズ』(2013年以降)
    • ジャッコ・ジャクジク - Vocals, Guitars
    • メル・コリンズ - Saxophones, Flute
    • トニー・レヴィン - Bass, Chapman stick, Vocals
    • パット・マステロット - Drums & Percussion
    • ギャヴィン・ハリソン - Drums & Percussion
    • ビル・リーフリン - Drums & Percussion, Keyboards(休養:2016年秋冬、2017年秋冬、2019年、2020年死去)
    • ジェレミー・ステーシー - Drums & Percussion, Keyboards(サポート:2016秋冬、正規:2017以降)

サポート

  • クリス・ギブソン - Keyboards(2017年秋冬)

独立レーベル「ディシプリン・グローバル・モービル」

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Discipline Global Mobile
設立1992年 (1992)
設立者ロバート・フリップ
デヴィッド・シングルトン
ジャンル
  • ロック
  • ポピュラー全般
イギリスの旗 イギリス
本社所在地イングランドの旗 イングランド ウィルトシャー州ソールズベリー
公式サイトDGM Live.com

ディシプリン・グローバル・モービル(Discipline Global Mobile)は、バンドを主宰するロバート・フリップ1992年に設立した独立系レコードレーベル。共同責任者はエンジニアを兼任するデヴィッド・シングルトン。名前の由来およびロゴは8thアルバム『ディシプリン』から。

概要・背景

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キング・クリムゾンはデビュー時から「E.G.マネージメント」に籍を置き、音源も同社のレーベル「EGレコード」が管理していた。しかし1990年頃から同マネージメントが経営難に陥り、ロイヤリティの支払いが滞りはじめ、さらに版権をヴァージン・レコードBMGに売却されてしまう。この状況に反発していたフリップは、原盤の所有権を主張し訴訟にまで発展する[31]

その間の新譜リリースに対応させるため、1990年代初頭から仕事を共にしていた音楽エンジニア デヴィッド・シングルトンと共同で、新たなレーベル「Discipline Records」(現行の『Discipline Global Mobile (通称 DGM)』)を設立。裁判は1999年まで7年間続いた末に勝訴し、旧レーベル側と和解して旧譜の原盤権を全て認められた。

以降、バンドに関連する音源は全て同レーベルが発売元となり、外部アーティストとの契約・管理も業務とするようになった。また、海賊盤対策も徹底しており、1990年代以降からは(キング・クリムゾンの)ほぼ全てのライブを自前で録音しアーカイブ化。過去の海賊盤音源も独自にリマスターを施してオフィシャルでリリースし、違法販売の芽を潰している。

2022年、日本の供給販売元であったWOWOWエンタテインメント(旧WHDエンタテインメント)がレーベルを閉鎖。その後の受け皿として同社のディレクターであった音楽ライター深民淳(元BURRN!編集者、元METAL GEAR編集長など)らがスタッフとなり[32]、DGMの日本支社「DGMディストリビューション・ジャパン」を設立した[33]

ディスコグラフィ

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スタジオ・アルバム

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ライブ・アルバム

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コンピレーション・アルバム

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ミニ・アルバム(EP)

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  • ヴルーム』 - VROOOM(1994年)
  • 『21世紀のスキッツォイド・マン』 - Schizoid Man(1996年)
  • 『レヴェル・ファイヴ』 - Level Five(2001年)※ライブEP
  • 『しょうがない』 - Happy with What You Have to Be Happy With (2002年)
  • 『ヒーローズ〜トリビュート・トゥ・デヴィッド・ボウイ』 - Heroes(2017年)※ライブEP

日本公演

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1981年(昭和56年)

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1984年(昭和59年)

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1995年(平成7年)

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2000年(平成12年)「THE CONSTRUKCTION OF LIGHT TOUR 2000」

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  • 10月2日  – 東京トリビュート・トゥ・ザ・ラブ・ジェネレーション
  • 10月3日  – 神奈川県民ホール
  • 10月4日、5日、7日  – 渋谷公会堂
  • 10月9日  – 名古屋市公会堂
  • 10月10日  – 大阪フェスティバルホール
  • 10月11日  – メルパルクホール福岡
  • 10月13日  – 仙台イズミティ21大ホール
  • 10月15日、16日  – 中野サンプラザ

2003年(平成15年)「THE POWER TO BELIEVE JAPAN TOUR 2003」

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2015年(平成27年)「THE ELEMENTS OF KING CRIMSON TOUR in JAPAN 2015」

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2018年(平成30年)「UNCERTAIN TIMES JAPAN TOUR 2018」

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  • 11月27日、28日、29日、30日  – 東京Bunkamuraオーチャードホール
  • 12月2日  – 札幌文化芸術劇場 hitaru
  • 12月4日  – 仙台サンプラザホール
  • 12月7日  – 石川本多の森ホール
  • 12月9日、10日  – 大阪グランキューブ
  • 12月12日  – 福岡サンパレス
  • 12月14日  – 広島文化学園HBGホール
  • 12月17日、18日、19日  – 東京Bunkamuraオーチャードホール
  • 12月21日  – 名古屋国際会議場センチュリーホール

2021年(令和3年)「MUSIC IS OUR FRIEND JAPAN 2021」

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  • 11月27日、28日  – 東京国際フォーラム ホールA
  • 11月30日  – 名古屋市公会堂 大ホール
  • 12月2日、3日  – 大阪フェスティバルホール
  • 12月5日  – 立川ステージガーデン
  • 12月7日、8日  – 東京Bunkamuraオーチャードホール

備考補足

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  • グレッグ・レイク脱退後、所属事務所 EG はフリップが知らぬ内に新ボーカリスト探しを算段し、エルトン・ジョンを250ポンドのギャラで雇おうとしたがレコードを一聴したフリップにより却下された。ブライアン・フェリーはオーディション後「キング・クリムゾンのボーカリストとしてはマッチしないが、惜しい人材」とフリップに評価され、後にロキシー・ミュージックがEG所属となるきっかけとなった。
  • 1970年に一時的にクリムゾンが活動停止していた時、イエスを脱退したピーター・バンクスの後任としてフリップはイエスへの参加を要請されたが、事務所の問題で実現しなかった。この時に交流ができた縁で、イエスのジョン・アンダーソンがキング・クリムゾンのサード・アルバム『リザード』の「ルーパート王子のめざめ」にボーカルでゲスト参加している。ジョン・アンダーソンによると、「ロバートにイエスに入らないかと言ったら、逆に、君こそキング・クリムゾンに入れよと言われた」とのこと。
  • 1976年にキング・クリムゾン再起動に失敗し、リック・ウェイクマンとのトリオ結成を断念したウェットンとブルーフォードは、アラン・ホールズワースエディー・ジョブソンU.K.を結成する。ウェットンのインタビューによると、「フリップがバンドを解散したので、残ったリズム隊の2人がキング・クリムゾンのリズムのコンビネーションを維持し展開するために結成した」といった主旨のことをミュージック・ライフ誌に述べていた。
  • 1990年代のキング・クリムゾンの正式結成直前に、フリップはデヴィッド・シルヴィアンとプロジェクト「シルヴィアン・アンド・フリップ」を組み、アルバムをリリースし、来日公演も行っている(この際、マイケル・ブルックと共にトレイ・ガンとパット・マステロットが参加している)。インタビューでは否定していたが、当初「デヴィッドが新しいクリムゾンのボーカリストとして参加する」と噂された。シルヴィアンはフリップに勧誘されたが拒否したとインタビューで述べている。また当初新ラインナップ構想に入っていたリック・マロッタについてはキング・クリムゾンのドラマーに適さなかったとフリップが採用を取りやめている。
  • これとほぼ前後して、オリジナル・メンバーで再結成されたエマーソン・レイク・アンド・パーマーCDボックスセットに、同メンバーの演奏による「21世紀のスキッツォイド・マン」の独自のバージョンが収録されていた(この曲は、1980年代初頭に、グレッグ・レイクがゲイリー・ムーアと共に行ったライブ・ツアーでも、「クリムゾン・キングの宮殿」と共に演奏された。この2曲のオリジナルは、キング・クリムゾンのファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』に収録)。
  • 1996年、元ジェネシスのギタリスト、スティーヴ・ハケットが来日した際のメンバーとしてマクドナルド、ウェットンが参加しており、第1期の曲から「クリムゾン・キングの宮殿」と「風に語りて」(共にファーストアルバム収録の曲)を演奏した。この様子は、『TOKYOテープス〜ジェネシス・リヴィジテッド・ライヴ1996』としてCD、ビデオなどで正式発売されており、その後DVD化もされている。
  • 2001年トゥールの前座としてツアーを行う。このツアーの最終日、「レッド」の演奏に、トゥールのドラマーであるダニー・ケアリーがゲスト参加した。
  • 2002年、マクドナルドとジャイルズ兄弟が新バンド結成のために再集結、さらにメル・コリンズジャッコ・ジャクスジクを加え、21stセンチュリー・スキッツォイド・バンドが結成された。フリップにも公認され、初期のクリムゾン・ナンバーを演奏してのライブ・ツアーをこなす。同年及び翌2003年の2回の来日公演も実現した。同バンドはキング・クリムゾンのアルバムの1作目から4作目までの曲をレパートリーの中心としていた。マイケル・ジャイルズは結成後1年足らずで脱退、代わってイアン・ウォーレスが参加し2006年まで活動した。しかし、2007年2月のウォーレス病死で活動再開のめどはたっていない。
  • 2006年9月、スペインの自宅アパートでリハーサル中に心臓発作で急逝したボズ・バレル[35]は、生前クリムゾン時代を語ることを拒否し続けたと言われているがOB達との交友はあり、1980年にはシンフィールドのテレビ出演の際にマイケル・ジャイルズ、メル・コリンズゲイリー・ブルッカーらと共に演奏している。
  • 2011年、キング・クリムゾン・プロジェクト (King Crimson ProjeKct) としてアルバム『ア・スケアシティ・オブ・ミラクルズ』をリリース。フリップ自らが参加しているのが大きな特徴であり、他にコリンズとジャクスジクを正式メンバーとし、またレヴィンとハリソンがサポートで参加している。2013年、この5人にドラマー2人を追加したトリプル・ドラム編成での、キング・クリムゾン再始動が発表された。
  • 2011年以降、ブリューのバンド「エイドリアン・ブリュー・パワー・トリオ」とレヴィンのバンド「スティックメン」(マステロットも参加)のメンバーが合流する形で6人編成の「クリムゾン・プロジェクト」(Crimson Projekct) として活動。この名称はロバート・フリップの命名によるとのこと。

キング・クリムゾン事件

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TOKYO FM出版1995年(平成7年)10月25日に書籍『キング・クリムゾン』〈地球音楽ライブラリー〉を発行したが[36]、キング・クリムゾンのメンバーに無断で発行したため、ロバート・フリップパブリシティ権を侵害されたとして出版元のTOKYO FM出版を訴えた。これを「キング・クリムゾン事件」という[37]。第1審ではフリップの勝訴となったが[38]、控訴審ではTOKYO FM出版が逆転勝訴し[39]、以後、記載内容の多くのミスが修正されないまま2007年(平成19年)にも再版されている[40]

脚注

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注釈

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  1. ^ 英国音楽誌DISC誌1969年11月8日号デヴィッド・シューズの記事「遂にデビューアルバムがアビーロードをトップから引きずり降ろした。」を紹介したものと言われる。そのことについては、複数の日本の評論家が「デマとまではいえないが、ありえるとしたなら、地方の、あるいは、マイナーなチャートではないのか」といった見解を共通して述べていた
  2. ^ 元々はミキサー・コンソールに繋がれたカセットテープレコーダーの音源で、演奏後のチェック用にイアン・ウォーレス所有のレコーダーで録音されたもの[9]
  3. ^ フリップとはピーター・ガブリエルのレコーディングで競演したことがある。

出典

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  1. ^ a b Eder, Bruce. King Crimson Biography, Songs & Albums - オールミュージック. 2021年12月11日閲覧。
  2. ^ a b キング・クリムゾン - プロフィール”. CDJournal. 株式会社シーディージャーナル. 2021年12月11日閲覧。
  3. ^ McCormick, Neil (2016年3月12日). “Keith Emerson, the father of progressive rock, was the Jimi Hendrix of keyboards”. The Telegraph (Telegraph Media Group). https://www.telegraph.co.uk/music/artists/keith-emerson-the-father-of-progressive-rock-was-the-jimi-hendri/ 2021年12月11日閲覧。 
  4. ^ Macan, Edward (1997). Rocking the Classics: English Progressive Rock and the Counterculture. Oxford University Press. ISBN 978-0-19-509887-7. https://archive.org/details/rockingclassicse0000maca 
  5. ^ a b c d e f g h i ”Nuovo Metal(ヌーヴォメタル)”期のキング・クリムゾン 2000年10月の日本公演音源が世界初CD化”. HMV (2018年). 2022年2月20日閲覧。「キング・クリムゾンの最もヘヴィな楽曲10選」 米Metal Injection発表”. amass (2021年9月23日). 2022年2月20日閲覧。キング・クリムゾンの世界中を驚愕させた革命的なデビュー作『クリムゾン・キングの宮殿』”. Okmusic (2015年11月13日). 2022年2月20日閲覧。ロック歴史秘話~Rock Legends~Ep13 実験音楽▽フランク・ザッパ、キャプテン・ビーフハート、キング・クリムゾン”. ミュージック・エア (2020年). 2022年2月20日閲覧。来日が決定したキング・クリムゾン。1971年の闇の傑作アルバム『アイランズ』を完璧に伝えるインタビュー/ドキュメント、2号連続掲載”. ロッキンオン (2021年8月12日). 2022年2月20日閲覧。King Crimson – ‘In The Court Of The Crimson King’: Why It Mattered”. HAPPY MEDIA PTY (2021年12月8日). 2022年2月20日閲覧。One King to Rule Them All: Legendary Experimental-Rock Band King Crimson Takes on Yet Another Form”. SF Weekly (2014年9月30日). 2022年2月20日閲覧。
  6. ^ 平凡社『百科事典マイペディア』. “キング・クリムゾン”. コトバンク. 2020年6月9日閲覧。
  7. ^ 松山晋也小学館日本大百科全書(ニッポニカ)』. “キング・クリムゾン”. コトバンク. 2020年6月9日閲覧。
  8. ^ 河崎直人「キング・クリムゾンの世界中を驚愕させた革命的なデビュー作『クリムゾン・キングの宮殿』」『music.jpニュース』株式会社エムティーアイ、2015年11月13日。2020年6月9日閲覧。
  9. ^ キング・クリムゾン ライヴ・アルバム『Earthbound』の40周年記念エディション 日本発売決定]”. amass (2017年9月27日). 2020年6月9日閲覧。
  10. ^ スティーヴ・ハケット、ロバート・フリップの後任候補だったこと&ジェネシス初のメロトロンはクリムゾンのお下がりだったことについて語る”. amass (2021年8月30日). 2021年8月31日閲覧。
  11. ^ 高見展 (2018年12月4日). “キング・クリムゾン来日中、ジャッコとメル・コリンズのインタビューが実現!”. rockin'on.com. 株式会社ロッキング・オン. 2018年12月15日閲覧。
  12. ^ Smith, Sid (24 September 2013). “NEW KING CRIMSON LINE-UP CONFIRMED” (English). DGMLIVE.com. Discipline Global Mobile (DGM). 2020年6月9日閲覧。
  13. ^ 山崎智之 (2015年12月12日). “【ライブレポート】キング・クリムゾン、渋谷オーチャードホールにてあの名曲の数々を披露”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク株式会社. 2020年6月9日閲覧。
  14. ^ キング・クリムゾン 9月欧州ツアーにはビル・リーフリンは不参加、ジェレミー・ステイシーが代役”. amass (2016年3月8日). 2020年6月9日閲覧。
  15. ^ グレッグ・レイク、死去”. Barks (2016年12月8日). 2022年2月20日閲覧。
  16. ^ キング・クリムゾンにビル・リーフリンが復帰、新たにドラマー4人の8人編成に”. amass (2017年1月4日). 2020年6月9日閲覧。
  17. ^ キング・クリムゾン、デヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」をリリース”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク株式会社 (2017年4月28日). 2020年6月9日閲覧。
  18. ^ キング・クリムゾン、6月から開始する全米ツアーの日程を発表」『ニュー・ミュージカル・エクスプレス (NME)』IPC Media、2017年2月23日。2020年6月9日閲覧。
  19. ^ Deluca Shizuka (2018年4月4日). “プログレッシヴ・ロック界の王者キング・クリムゾン、結成50周年で来日ツアーを敢行” (English). Rolling Stone (PMC). https://rollingstonejapan.com/articles/detail/28189 2018年4月8日閲覧。 
  20. ^ 大鷹俊一 (2018年11月30日). “【ライブレポート】キング・クリムゾン、凄まじき来日公演の速攻レポ”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク株式会社. 2018年12月15日閲覧。
  21. ^ キング・クリムゾン 全スタジオアルバムがストリーミング配信へ、テオ・トラヴィス加入発表、ドキュメンタリーの予告映像公開”. amass (2019年4月9日). 2019年4月23日閲覧。
  22. ^ REMやキング・クリムゾンのドラマーであったビル・リーフリンが逝去。享年59歳」『ニュー・ミュージカル・エクスプレス (NME)』IPC Media、2020年3月25日。2020年3月26日閲覧。
  23. ^ キング・クリムゾン、ザッパ・バンドとの北米ツアーを発表”. シンコーミュージック (2021年3月10日). 2021年7月3日閲覧。
  24. ^ キング・クリムゾンのジャッコ・ジャクジク「クリムゾンの米国ツアーはこれが最後」”. amass (2021年8月6日). 2021年8月31日閲覧。
  25. ^ キング・クリムゾンの来日公演が開催決定”. amass (2021年7月2日). 2021年7月3日閲覧。
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  28. ^ キング・クリムゾン、新ドキュメンタリー映画の予告編公開”. Barks (2022年2月3日). 2022年5月24日閲覧。
  29. ^ キング・クリムゾンの今後は? メンバーのギャヴィン・ハリソン語る”. amass (2022年4月30日). 2022年5月24日閲覧。
  30. ^ ロバート・フリップ、キング・クリムゾンのツアー「無茶なお願い」”. Barks (2022年7月18日). 2022年7月26日閲覧。
  31. ^ ロバート・フリップ インタビュー「ロバート・フリップの〈夢破れて山河あり〉物語」市川哲史コラム”. kakereco.com (2019年11月29日). 2021年6月25日閲覧。
  32. ^ 「音楽歳時記」 第八十七回 4月11日ガッツ・ポーズの日”. カケハシレコード (2022年4月22日). 2023年3月19日閲覧。
  33. ^ 法人情報 DGMディストリビューション・ジャパン合同会社”. 国税庁 (2022年4月11日). 2023年3月19日閲覧。
  34. ^ キング・クリムゾン、3枚組ライヴ・アルバム詳細発表&グッズの期間限定ショップも出店決定”. BARKS. ジャパンミュージックネットワーク株式会社 (2017年8月4日). 2020年6月9日閲覧。
  35. ^ Eder, Bruce. “Boz Burrell: Information for Answers.com” (English). Answers.com. 2010年2月5日閲覧。 “...in fact White was present at Burrell's apartment in Spain when, during rehearsals, Boz suddenly died of a heart attack on September 21, 2006.”
  36. ^ 松井 (1995).
  37. ^ 一覧」『肖像の保護に関する過去の判例・事例(参考資料 1)』経済産業省http://www.meti.go.jp/policy/media_contents/downloadfiles/syouzou/2.pdf2010年10月14日(木)閲覧 [リンク切れ]
  38. ^ 東京地方裁判所 平成10年(1998年)1月21日 判決。
  39. ^ 東京高等裁判所 平成11年(1999年)2月24日 判決。
  40. ^ 松井 (2007).

参考文献

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関連文献

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関連項目

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外部リンク

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