鵜沢宇八
鵜沢 宇八 うざわ うはち | |
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鵜沢宇八 | |
生年月日 |
1867年6月27日 (慶応3年5月25日) |
出生地 |
日本 下総国香取郡栗源村 (現千葉県香取市) |
没年月日 | 1943年10月13日(76歳没) |
出身校 |
東京専門学校 慶應義塾 |
前職 | 実業家 |
所属政党 |
立憲国民党 憲政会 立憲民政党 |
鵜沢 宇八(鵜澤、うざわ うはち、1867年6月27日(慶応3年5月25日[1])- 1943年(昭和18年)10月13日[2][3])は、明治から昭和前期の実業家、政治家。衆議院議員、貴族院多額納税者議員。
経歴
[編集]下総国香取郡、のちの千葉県香取郡栗源村[4](栗源町を経て現香取市)で、鵜沢弥右衛門の長男として生まれる[5][6][7]。東京専門学校[2][3][6][7]を卒業し[4]、慶應義塾でも学んだ[2][3][4][6][7]。1892年(明治25年)家督を相続した[5][7]。
実業界で活動し日露戦争景気で多大の利益を上げたが戦後の不況に直面し、樺太での事業展開に活路を見出し、水産業、海運業などで成功を収めた[8]。東洋捕鯨取締役、越中島製材取締役、神中鉄道(現相模鉄道)監査役、満州製粉取締役、日清毛織取締役、日本水産取締役、共済商事社長、樺太敷香合同運送社長、房総三鱗社長などを務めた[2][3][5][6][7]。
政界では、1897年(明治30年)[2]香取郡会議員に選出され、同議長、徴兵参事員、千葉県会議員を歴任[2][3]。1912年(明治45年)5月、第11回衆議院議員総選挙に千葉県郡部から立憲国民党公認で出馬して初当選[3]。1917年(大正6年)4月、第13回総選挙で当選したが、衆議院議員選挙訴訟の結果、安房郡での選挙が無効となり、同年12月8日、千葉県知事により鵜澤總明・吉植庄一郎・木村政次郎・関和知・津田毅一・柏原文太郎・磯野敬・加瀬禧逸・土屋清三郎と共に当選証書が取消され議員を退職し[9]、同月に実施された再選挙で当選した[3][10]。その後、第14回、第16回から第19回総選挙まで再選され、衆議院議員を通算7期務めた[3]。この間、農林審議会委員、土木会議議員、立憲民政党総務などを務めた[2][3]。
また、1925年(大正14年)千葉県多額納税者として貴族院議員に互選され、同年9月29日に就任[2][11]したが、千葉県の居住者ではないとして当選無効請求訴訟が起こされた結果、当選無効と決定され[12]、1926年(大正15年)3月24日、貴族院議員を免ぜられた[2][13]。
脚注
[編集]- ^ 衆議院『第六十九回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1936年、11頁。
- ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』189頁。
- ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』85頁。
- ^ a b c 『粛正選挙代議士名鑑』30頁。
- ^ a b c 『大衆人事録 昭和3年版』ウ10頁。
- ^ a b c d 『現代日本人名大辞典 昭和5年版』う之部11-12頁。
- ^ a b c d e 『昭和人名辞典』ウ4頁。
- ^ 『現代業界人物集』217-218頁。
- ^ 『官報』第1619号、大正6年12月24日。
- ^ 『官報』第1622号、大正6年12月27日。
- ^ 『官報』第3931号、大正14年9月30日。
- ^ 貴族院事務局編『貴族院判決録』貴族院事務局、1929年、1-24頁。
- ^ 『官報』第4073号、大正15年3月25日。
参考文献
[編集]- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 昭和3年版』帝国秘密探偵社、1927年。
- 『現代日本人名大辞典 昭和5年版』東邦通信社、1930年。
- 『昭和人名辞典』光人社、1933年。
- 経世社編『現代業界人物集』経世社出版部、1935年。
- 『粛正選挙代議士名鑑』選挙粛正中央会編纂部、1936年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。